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須賀しのぶさんの『革命前夜』(文藝春秋)を読んで心の奥を強く打たれた為に、
『神の棘』(早川書房)もすかさず読んで読後暫く呆然とするほど深く感じ入ったので、
時節も流行も社会情勢も関係無く、即ち何の必然性も無くドイツに関する本を集めてみました。
題して

【ドイツ出身作家の作品とドイツが舞台の日本の作品】

お暇な時にご笑覧をば。

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# by dokusho-biyori | 2015-05-18 13:11 | 過去のフェア

『息を聴け』続報

こんにちは。

先月紹介した『息を聴け』(冨田篤、新潮社)なんですが、
どうやら、絶版になっちゃってるみたいです。
個人的には、今年最も残念なニュースかも。

だけど、その代わりと言ってはなんですが、
『息を聴け』の中で主役を務めた熊本盲学校アンサンブル部の皆さんが、
まさに全国大会で金賞を獲った時の映像がネットに上がってました!

この本を初めて読んだ2006年からずーっと、
一度でいいから聴いてみたいと思っていたけど、漸く聴けた!

これ音だけ聴いてると、視覚障害を持った生徒の演奏とはとても思えん。
映像だと、目を全く使っていない様子は見てとれますね。

いいなぁ、楽器が出来るって。

って言うか、どこの版元でも構わんから、
この本、復刊するなり文庫化するなりしておくれんかな、もし。
# by dokusho-biyori | 2015-04-30 22:37 | サワダのひとりごと

15年05月

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『イザベルに ある曼荼羅』アントニオ・タブッキ/和田忠彦 訳 河出書房新社 9784309206714 ¥2,000+税

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日本でも古い町並みが残る街に行くと、たびたびあることだけれど、海外、特にヨーロッパはいたるところに数百年の歴史を持つ建物が普通に使われていたりするから、もっと頻繁に不思議な感覚におちいることがあります。
それは、なぜか歩いているうちに自分自身生きている感覚が希薄になってきて、生と死の境目が非常にあやふやになってくるというものです。
何というかうまく言えないのだけれど、街を歩いているといたるところに死者がいるような気がしてくるし、生者と死者の境目がよくわからなくなってくると言うか……。いや、死者って言ってもはっきり幽霊みたいなものではなく、あらゆる人たちが生きていた気配みたいなものなのだけど、そういうものが古い街に行けば行くほど、濃厚な気がするのですね。

タブッキの作品に出てくる主人公は、みんなそんな感覚を生きているように思います。
遺作となったこの『イザベルに ある曼荼羅』も本当にそうで、実際彼らが生きた人物なのかどうなのか、そんなことはたいした問題ではないような気すらしてきます。この作品はタブッキの傑作『レクイエム』(白水Uブックス)と連作になっていて、レクイエムで登場したイザベルがこの物語のキーとなる「イザベル」になるし、死のまぎわ「何もかも帯状疱疹のせいだ」という謎のメモを書き残したタデウシュもでてきます。
タブッキファンにはたまらんのです。

レクイエムでは主人公は次々と死者に会い、最後には敬愛する詩人ペソアに会うのですが、この本でもイザベルに会うまでにたくさんの死者たちに会い、捜索する過程が描かれていきます。それは謎解きのようなスリルもあるし、ひとつひとつ明らかになってゆくイザベルの痕跡や行程も非常におもしろい。
わたしたちは何が現実で何が幻想なのか、とまどいながらも一歩一歩イザベルの紡いだ曼荼羅に取り込まれてゆくしくみです。

思うに現実の社会でもそうではないでしょうか。
わたしたちは何が本当で何が虚構なのか、何が真実で何が空想なのか、実はとっても曖昧なラインで生きていたりしませんか。そんな中で一日一日をめまぐるしい感情に左右されながらも、知らないうちに大きな大きな曼荼羅に取り込まれていっている。そしてそんなこと気づきもしないで、何事もなかったかのように死ぬのではないかと……。タブッキを読んでいるとそんなふうに思えてきて、わたしはことさら気持ちがゆったりするのです。

それにタブッキ作品に出てくる人々は生者も死者もみんな魅力的。おかしな話ですが生き生きとしています。食べたり飲んだりの描写はどこまでも生々しくておなかがすきます。残念ながら今回はそんなにたくさん食べ物の描写は出てこないのですが、それでも後半に登場するインド料理とかバーでたのむマンダリンオレンジのリキュールなんか、とても美味しそうでたまりません。
こういう場面があるだけで、わたしたちは十分生きてゆける。そういうふうにいつか曼荼羅に取り込まれたいと思っています。もちろん知らないうちに。(酒井七海)



『包囲』ヘレン・ダンモア/小泉博一 訳 国書刊行会 9784336056351 ¥2,400+税

 1941年9月、レニングラード。ヒットラーにより包囲されたこの都市は、その歴史上もっとも絶望的な冬に突入した。厳寒と飢餓が牙を剥く、筆舌に尽くしがたい状況下、愛し合う二組の男女にとって、生存を賭けた、希望の火を燈し続けるための闘いが始まる。(国書刊行会HPより)

『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』ひのまどか 新潮社 9784103354512 ¥1,800+税

 1942年、ナチスドイツに完全包囲され、すべてのライフラインを断たれた古都レニングラード――砲弾の雨、強奪、凍死、餓死、人肉食……。想像を絶する地獄絵図の中で、ショスタコーヴィチの交響曲第七番を演奏する人たちがいた! なぜそこまでして? 何のために? 平和を愛するすべての人に贈る、驚愕と感動の記録!(新潮社HPより)

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 レニングラード封鎖――第二次大戦中の1941年9月から1944年1月まで、ドイツ軍がソ連第二の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲し続けた戦闘をそう呼ぶそうです。日本流に言えば、兵糧攻めってやつですね。但し、北緯60度近いレニングラードの場合、氷点下40℃にもなる極寒の冬を越さねばならず、その為には石油や石炭、薪などの燃料も不可欠なのだけど、封鎖されてる以上、食料だけでなくそういったあらゆる生活物資が入って来なくなる訳で、しかもそれが900日ですから、芸術の都だった筈の古都は、そりゃあもう阿鼻叫喚だったらしいです。
 家畜やペットはもとより、ネズミやカラスまで獲り尽くし、ベルトや椅子の座面などの革製品も食べ尽くし、そして遂には人肉食が……。最初は密かに、餓死者の体から肉を削いで持ち帰るといった行為が、いつしかエスカレートして、力の弱い子供がさらわれて、その肉が「何かの肉」として闇で出回る。我が子を亡くした母親が錯乱の果てにその子を食べてしまったなどという悲劇も枚挙に暇がなく、また、栄養が不足しているだけにちょっとした風邪でも命取りになったようで、市民、軍人併せて350万人の居住者の内、公式発表で67万人、実際は100万人以上が命を落としたと言われています。

 ヘレン・ダンモア『包囲』(小泉博一訳/国書刊行会)は、そんな地獄絵図の中での、恋の物語。とは言え、描かれるのは餓死、凍死、病死、自殺。死、また死。ピーク時には、レニングラード全体で一日の死者4,000人! どうにか生きながらえている人々も、配給を受け取る為の僅か数百メートルの外出でさえ、途中で何度も気を失いかけるほどの栄養失調。暖房が無い為に、夜は「氷の山でビバークを余儀なくされた登山者のように、冬のコートのなかに小さく丸まって、ただ、からだを休めるだけ」といった具合。
 それでも、主人公のアンナとアンドレイは、お互いを気遣いながら、共に生きることを諦めない。それが、凄い。俺なら、多分、とっくに投げてる。
 衰弱したアンナが、パンを分けてくれようとする知人の申し出を断る場面がある。もしここで甘えてしまえば「それは、自分の身内に潜むオオカミを喚び起こすことになるだろう」とはつまり、一度貰ってしてしまえばきっと一度だけでは我慢出来ないし、いずれは暴力に訴えてでも手に入れようとするに違いない。そういう恐怖があったのだろう。
 この物語は、極限状況の許で必死に人間らしさを保とうとする若き恋人たちの、生存をかけた戦いの物語なのだと思う。

 そして、ひのまどか『戦火のシンフォニー』(新潮社)はナント、ソ連が世界に誇る大作曲家・ショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」を、まさに封鎖下のレニングラードで演奏し、しかもラジオで世界に向けて中継までしたという、驚くべきノンフィクション。
 飢えと寒さで明日にも命が危ないという状況で、クラシック音楽の演奏が、一体何の役に立つと言うのか? 勿論国家は、即ちスターリンは、対独戦争の為のプロパガンダとして、レニングラードの楽団をとことん利用した。けれども音楽家たちは、そんなことの為に、凍えるようなホールで幾日も練習し、気を失いそうなほどの飢餓を抱えながら演奏した訳では、勿論ない。
 勇気。希望。闘志。そして、誇り。言葉にすればどれも陳腐に聞こえるけれど、たとえどんなに飢えていても、音楽家である以上は演奏を続ける。砲弾で音楽は止められないということを、我々が証明してみせよう。そんな宣言が聞こえてきそうな気高く高潔な姿に、思わずスタンディングオベーション!
 と同時に、やっぱり、誰が何と言おうと、戦争は嫌だと激しく思った。(沢田史郎)



『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋 9784163902319 ¥1,850+税

 1989年、日本の喧騒を逃れ、ピアノに打ち込むために東ドイツに渡った眞山柊史。彼が留学したドレスデンの音楽大学には、学内の誰もが認める二人の天才ヴァイオリニストがいた。
正確な解釈でどんな難曲でもやすやすと手なづける、イェンツ・シュトライヒ。
奔放な演奏で、圧倒的な個性を見せつけるヴェンツェル・ラカトシュ。
ヴェンツェルに見込まれ、学内の演奏会で彼の伴奏をすることになった眞山は、気まぐれで激しい気性をもつ彼に引きずり回されながらも、彼の音に魅せられていく。冷戦下の東ドイツを舞台に、一人の音楽家の成長を描いた、著者渾身の歴史エンターテイメント。(文藝春秋HPより)

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 1989年という年、僕は359日間は19歳で、最後の6日間は20歳だった。正月早々、昭和天皇が崩御して元号が変わり、4月には消費税が導入された。6月には北京で天安門事件が発生し、8月には連続幼女誘拐殺人事件で宮崎勉が逮捕された。9月には横浜ベイブリッジが開通し、テレビでは、時任三郎が「24時間戦えますか」と繰り返していた。まだまだ日本はバブルだった。
 そしてその年の11月、ベルリンの壁が崩壊した。
 兵士も学生も男も女も、物凄い数の人々が壁によじ登り、肩を組んで喝采を叫ぶ映像に、僕らは、今まさに歴史を目撃しているのだという興奮を抑えることが出来なかった。

 本書の主人公・若きピアニストの眞山柊史がバッハに憧れて東ドイツのドレスデンに留学したのは、そういう時代だった。昭和天皇が崩御した1月7日、移動の車中で現地の職員に新しい元号を知らされて、「ヘイセイ。どう書くのだろう。『平静』ぐらいしか思い浮かばない」と独りごちる場面が冒頭にある。こういう細かい描写の積み重ねによって醸し出される現実感が、この作品には驚くほど多い。
 例えば、ハンガリーからの留学生でラカトシュ・ヴェンツェルという学生が登場する。彼と柊史が初めて出会う場面では、「ヘア・ヴェンツェル」(ヘアは英語のミスターとほぼ同義)と呼びかけた柊史が、「ハンガリーは姓が先だ」と指摘されて、「それは失礼、ヘア・ラカトシュ」と慌てて言い直す、という描写がある。こういうリアリティは、決して、誰にでも書けるものではないと思う。

 さて、物語。音楽の本場に飛び込んだ柊史は、才能豊かな何人もの学生と出逢って、のっけから自信を喪失する。だけならまだしも、周りからは「西側から来た」というだけで遠巻きにされ、簡単には打ち解けて貰えない。世間から薄い膜で隔離されたような疎外感の中で、柊史は、自分の目指す演奏、自分の求める音楽を次第に見失ってゆく。
 そんな或る日、偶然訪れた教会で、天才的なオルガン奏者クリスタ・テートゲスに出逢った彼は、美貌の彼女にほぼ一目ぼれ。しかし彼女にも、西側の人間として最大限に警戒され、取りつく島も無く撃墜される。
 といった学生ものの青春小説なんだけれども、舞台がガチガチの共産国家だという点を忘れてはいけない。その重苦しさ、不自由さ、陰鬱さが、常に物語の上空を暗雲の如く覆っているから、西側に憧れる人々の気持ちとか、監視と密告に常に怯えている空気感とか、国家など端っから信用していない倦怠感とかがジワジワと伝わって来て、だから、休日に小用で西ベルリンに行った柊史が、「映画の画面がモノクロームから急にフルカラーに切り替わったような感覚に襲われた。空気にすら色がついているような気がする」と解放感を味わう気持ちもよく解る。こういう部分の表現力が、この作品はとにかく凄い。
 そして、柊史が演奏に迷ったり恋に焦がれたり遮二無二練習したりしている間にも、民主化の波は静かに、だけど急速にやって来る。当然、彼ら若き音楽家たちも、無関係ではいられない。それどころか、一生に一度の命をかけた選択を迫られる。全てを捨てて西へ行くのか? 残って全てを見届けるのか? ラカトシュは? クリスタは? そして二人が決断する時、柊史は?

 この作品に登場するどの人物も、何かを守る為に必死で戦っている。その何かとは音楽だったり、恋だったり、自由であったり、家族であったりとそれぞれだけど、まるで命を削るような必死さで未来を切り開こうとする若者たちの姿に、読んだ誰もが地鳴りのような感動を呼び起こされるに違いない。
 因みに僕はこの小説を、購入直後の3週間で3回も通読した。それぐらい、深く強く、何度も何度も心が揺さぶられる作品だった。(沢田史郎)



『透明人間は204号室の夢を見る』奥田亜希子 集英社 9784087754254 ¥1,300+税

 暗くて地味、コミュニケーション能力皆無の実緒。奇妙な片思いの先にあるのは破滅か、孤独か、それとも青春か。今までにない感情を抱くことで、新たな作品を生み出す女性作家のグレーな成長小説。(集英社HPより)

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 向上心というヤツが苦手です。もうちょっと正確に言うと、向上心を持たないことを、まるで犯罪であるかの如く弾劾する輩が嫌いです。せっかく生まれてきたんだからより善い生き方を目指して努力しなきゃ、などとしたり顔で言われると、別にこのままでもええやん、誰にも迷惑かけてへんのやしと、何故か怪しげな関西弁で反論したくなります。
 世の中では、前向きに生きること、ポジティブに考えることが義務であるかのような風潮がいつの頃からか主流だけれど、そんなにムキになって、必死こいて、向上しようとしなきゃいけないんか? 昨日より今日、今日より明日、少しでも上に、一歩でも前に……。なんで? 昨日と同じぐらい幸せだったら、それで充分ちゃいますか? 知足――足るを知るって、昔の偉い人も言ってるじゃん。THE BLUE HEARTSだって、『情熱の薔薇』でこう歌ってたよ。
「♪ なるべく小さな幸せと~ なるべく小さな不幸せ~ なるべくいっぱい集めよう~」
そんな気持ちが解る人に、今回の作品を是非とも読んで頂きたい。

 この小説の主人公は感情の表現が不器用で、幼い頃から周囲に「変なヤツ」として遠ざけられて生きてきた。そのせいで、こと人間関係に限っては、これでもかっ! ってぐらいに後ろ向き。何しろ、稀に気になる異性が現れても、自分なんかと関わったら彼の良さが損なわれる、とまで考えるのだから、ネガティブ思考にもほどがある。
 23歳の現在は、一応、小説家ということになっている。だけども十代で新人賞を受賞して華々しくデビューした直後から長いスランプに陥って、今では全く書けないまま、その生活は殆どフリーターと化している。
 そして、そんな実緒が、ちょっとした弾みで、春臣といづみというカップルと知り合った上に、自分の意志とは無関係に、引きずられるようにして距離を縮めていく。
 いづみに誘われて彼女の大学の講義にモグリで出席したり、お礼に自宅に呼んでお酒を飲んだり、二人が喧嘩するところにも居合わせて一生懸命とりなしたり、仲直りした彼らと三人で海に行ったり。そして実緒は思う。「今、この瞬間のことを自分は何度も思い出すだろう」と。そして「いつかは消えゆくとしても、飴玉を噛まずに舐めきるように、自分はきっとこの記憶をしゃぶりつくす」と。
 たかが、友だちと海までドライブしただけの休日を、これほどまでに慈しむ実緒が意地らしいやら切ないやらで、僕は実緒の幸せを願わずにはいられなかった。いや、幸せったってそんな大袈裟なもんじゃないんだよ。友だちと遊んだり恋をしたり、そういうフツーの青春を、遅まきながら送らせてやりたいと、きっと皆さんも思う筈。
 ところがどっこい、そう簡単に大団円は迎えられない。何しろ実緒は「変なヤツ」なのだ。その「変な」部分が見えてしまった途端に、実緒が守ろうとしていたものは破綻する。
 にも関わらず、読後感は極めつけに清々しい。余り言い過ぎては興を削ぐので控えるけれども、ラストシーンで自分が本当に大事にしたいことに気付いた実緒は、多分、自分自身のことを初めて肯定的に受け入れられたんじゃなかろうか。誤解の無いように言い添えておくけれど、それは実緒が前向きになった、という意味ではなく、後ろ向きなら後ろ向きでもいいじゃん、と、自分で自分を認めてあげることが出来た、そういう爽やかさが、読み終わっても暫く胸の中に留まり続けた。
 青春小説としてはかなり風変りではあるけれど、共感する人は決して少なくないと思う。参考までにやや強引に似た傾向の作品を挙げてみると、例えば窪美澄さんの『晴天の迷いクジラ』(新潮文庫)あたりが好きな人なら、『透明人間~』もきっと気に入って貰えるのではなかろうか。後ろ向き、バンザイ!(沢田史郎)



(*`▽´*) (∩.∩) ┐(´ー)┌ (*´∀`) (*`▽´*) (∩.∩) ┐(´ー)┌ (*´∀`) 

以下、出版情報は『読書日和 05月号』製作時のもです。タイトル、価格、発売日など変更になっているかも知れませんので、ご注意ください。


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酒井七海の「きょうの音楽」
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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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# by dokusho-biyori | 2015-04-30 17:37 | バックナンバー