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SFは怖くない。

 東京創元社の営業さんと、早川書房の営業さん、そして『読書日和』の西尾と沢田が選書を担当しました。〝 SFとは何か? 〟みたいな難しい話は抜きにして、とにかくとっつき易い作品を選んだつもりです。

 早川書房さんや東京創元社さんがツイートして下さったので、恐らくそれをご覧になってのことでしょう、或る作家さんが《 「SFは怖くない」なんて言い方したら「えっ、SFって怖いの?」って思われそう 》といった趣旨のツイートをしているのをお見かけしました。確かにおっしゃる通りです(笑)。

 でも〝 SFは難しくない 〟って言ったら「えっ、SFって難しいの!?」 って思う人がいるかも知れないし、〝 SFは面白い 〟って言ったら「敢えて言わなきゃいけないって事は、本当は面白くないんじゃないの」って考える人がいるかも知れない。

 結局、どんな言い方をしようと〈 届かない層 〉というのはある程度は存在してしまうと言うか、万人に刺さるキャッチフレーズなんてプロのコピーライターの方々でさえ難しい訳で、私ら如きにはとても無理(笑)。なので、今回届かなかった人たちには、また別の機会に興味を持って貰えるような何かを考えられたらいいな、と思います。

 もう20年以上前になりますが、書店の店頭で『星を継ぐもの』を手に取って「こんな難しそうなの、俺、読めるかな?」とか、『アドバード』を見て「こんな分厚いの、読みきれないかも」などと、おっかなびっくりだった学生の頃の自分に向けて、「SFは怖くないよ」と背中をそっと押すようなつもりで選書したフェアです。ご笑覧下さい。



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『アド・バード』椎名誠

『移動都市』フィリップ・リーヴ 訳=安野玲


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『宇宙戦争大図鑑 復刻版』小隅黎

『SFマガジン700 国内篇』編=大森 望


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『海外SFハンドブック』編=早川書房編集部

『象られた力』飛浩隆


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『紙の動物園』ケン・リュウ 訳=古沢嘉通

『銀河ヒッチハイク・ガイド』ダグラス・アダムス 訳=安原和見


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『クロノス・ジョウンターの伝説』梶尾真治

『5まで数える』松崎有理


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『塩の街』有川浩

『10月はたそがれの国』レイ・ブラッドベリ 訳=宇野利泰


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『スカイ・クロラ』森博嗣

『Self-Reference Engine』円城塔


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『たったひとつの冴えたやりかた』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 訳=浅倉久志

『旅のラゴス』筒井康隆


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『地球から来た男』星新一

『図書室の魔法』ジョー・ウォルトン 訳=茂木健


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『なぞの転校生』眉村卓

『夏への扉』ロバート・A・ハインライン 訳=福島正実


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『猫は宇宙で丸くなる』シオドア・スタージョン、フリッツ・ライバー他 訳=中村融

『ハヤカワ文庫SF総解説2000』編=早川書房編集部 早川書房


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『ハローサマー、グッドバイ』マイケル・コニイ 訳=山岸真

『盤上の夜』宮内悠介


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『ひとめあなたに…』新井素子

『風牙』門田充宏


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『ふたつの星とタイムマシン』畑野智美

『復活の日』小松左京


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『ペンギンのバタフライ』中山智幸

『マイナス・ゼロ』広瀬正


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『My Humanity』長谷敏司


『マインド・イーター 完全版』水見稜


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『未来世界から来た男』フレドリック・ブラウン 訳=小西宏

『妖精作戦』笹本祐一


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『幼年期の終わり』アーサー・チャールズ・クラーク 訳=池田真紀子

『予言ラジオ』パトリック・リー 訳=田村義進


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『横浜駅SF』柞刈湯葉

『ヨハネスブルグの天使たち』宮内悠介


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『龍は眠る』宮部みゆき

『隣接界』クリストファー・プリースト 訳=古沢嘉通、幹遙子


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『ルナ・ゲートの彼方』ロバート・A.ハインライン  訳=森下弓子

『惑星カレスの魔女』ジェームズ・H.シュミッツ 訳=鎌田三平


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# by dokusho-biyori | 2019-02-17 09:55 | 過去のフェア | Comments(0)

 実は、町屋良平さんが『青が破れる』で文藝賞を受賞してデビューした直後に、一度展開しているフェアですが、今回の芥川賞受賞を機に、「デビュー当時は町屋良平という作家に興味が無かったけど、芥川賞獲ったのなら読んでみようかな」という方も大勢いるかも、と思って町屋さんに再掲の許可を頂いた次第です。

 受賞した途端に食いつくファンを「俄か」と言って軽んじる風潮が、本の世界以外にも多かれ少なかれ存在しますが、その「俄か」の中の何割かが、魅力に惹き込まれて本格的なファンになり、他の人たちに良さを伝える伝道師となっていく訳で、極端な言い方をすれば「俄か」は多ければ多いほど良い、と考えてます。標高1,000メートルの山の裾野と富士山の裾野は、言うまでもなく広さが全然違う筈で、裾野の広さはその山の高さに比例するんじゃないでしょうか。

 そんな訳で、「俄か」ファンも大歓迎の町屋良平フェア、お愉しみ下さい。そして快諾して下さった町屋良平さん、ありがとうございます。これからも作品を楽しみにしてます。



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『青が破れる』町屋良平


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『しき』町屋良平


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『1R1分34秒』町屋良平

『ぼくはきっとやさしい』町屋良平



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『OUT』桐野夏生
人間の剥き出しの悪意がここにあります。

『青い脂』ウラジーミル・ソローキン 訳=望月哲男、松下隆志
最高にふざけている小説です。


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『あるきかたがただしくない』枡野浩一
やさしく善良な魂で書かれた文章のほんとの迫力があると思っています。

『雨月物語』上田秋成 訳=高田衛、稲田篤信
現代に失われかけたあやしい価値基準にうっとりしました。


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『エクリチュールの零度』ロラン・バルト 訳=森本和夫、林好雄
文章とはなにか、というのを体に刻み込まれた一冊です。

『女が嘘をつくとき』リュドミラ・ウリツカヤ 訳=沼野恭子
想像をはるかに超えるアクロバティックな展開に度肝を抜かれます。


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『海辺の光景』 安岡章太郎
小説でしか描けない風景がここにあります。

『枯木灘』中上健次
文章に肉体をかよわせるような一冊です。


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『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 訳=木村栄一
読んでいる間中、ずっと現実の視界も滅びゆく感覚に満ちていました。

『巨匠とマルガリータ』ミハイル・アファナーシエヴィチ・ブルガーコフ 訳=水野忠夫
圧倒的に巨大な小説です。泣けます。


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『源氏物語』紫式部 訳=大塚ひかり
圧倒的な物語の自由と精度に驚嘆しました。

『坑夫』夏目漱石
いつの時代にもある普遍的「現代」の生きづらさがここにあります。


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『サマー・オブ・パールズ』斉藤洋、奥江幸子
高校生の時に読みました。初恋の甘酸っぱさ、さわやかさが凝縮されています。

『地図集』董啓章 訳=藤井省三、中島京子
収録されている少年神農が最高にエーンターテインメントです。


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『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス 訳=鼓直
ここに文学の秘密が詰まっています。

『田紳有楽・空気頭』藤枝静男
圧倒的な小説です。


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『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ 訳=御輿哲也
いちばん大切な小説です。ただしい風景が描かれているような気がしています。

『中尾太一詩集』中尾太一
最高にクールな詩集です。


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『野川』古井由吉
はじめて読んだとき、こんな格好いい文章があるんだ!という驚きがありました。

『ピアニストが見たピアニスト』青柳いづみこ
芸術とはなにか?の神髄が描かれています。


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『ペドロ・パラモ 』フアン・ルルフォ 訳=杉山晃、増田義郎
こういう小説が書けたら最高です。

『抱擁家族』小島信夫
このやるせない、やさしい感覚は小島信夫ならではの奇妙な文章だと思います。


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『ホリー・ガーデン』江國香織
江國香織の小説はだいたい絶望にはじまり絶望に終わるところが好きです。

『もものかんづめ』 さくらももこ
はじめて文章に光のようなものを感じた一冊です。


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『弓と竪琴』オクタビオ・パス 訳=牛島信明
文学の神秘について教えてくれた本です。

『ラカンの精神分析』新宮一成
はじめてひとの意識というものに興味を抱いた本です。



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# by dokusho-biyori | 2019-02-15 21:18 | 過去のフェア | Comments(0)

19年02月

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お茶うけの世界史は思い出にのって――文藝春秋営業部 川本悟士

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 そろそろ世のなかはバレンタインの時期でしょうか。バレンタインの話題といいますと、個人的には「いい仕事にはある程度無理をしてしまうのがつきものだが、無理をしすぎると体を壊してしまう。そのライン引きが大切だ。私の場合は高級チョコレートとコンビニチョコレートの味の区別ができなくなったとき、それ以上は無理せず引き下がるようにしている」とおっしゃっていた大の甘党の先生が、バレンタインの時期はチョコレートを一人で買いづらくなるから困る、とおっしゃっていたのが印象的です。

 そんな思い出話だけでなく、お菓子会社がどうのとか、私の学生時代はどうだったとか、本来は小ネタから「自慢」まで色々と展開のしようがあるテーマではあるのだと思いますが、コーヒー党の私としては、チョコレートだけでバクバクと食べるだけでなく、お茶やコーヒーと一緒に楽しむ方も多いのではないでしょうか、ということを第一に訴えたいところです。

 チョコレートとコーヒー。昔から、なんかどうもギアが入らない……というときに思わず手が伸びる定番の組み合わせです。でも、思えばコーヒーも紅茶も、そしてチョコレートも、本来はヨーロッパのものではないものが海の向こうから伝わってきたことで花開いた習慣です。本来は別々のところにあったものが様々な事情によって一箇所に集まり、またてんでバラバラに広まっていく……。そう考えると、定番も決してありきたりではなさそうです。

 ということで、今回は「お茶うけとしてのチョコレート』を紐解いてみましょう。


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 武田尚子『チョコレートの世界史――近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』によれば、そもそもチョコレートには二種類あるとされています。職人が手作りするものと、工場で大量生産されるものです。私たちが気軽に贈り物として渡すことができるのは(手作りチョコレート問題は一度横におくことにして)、工場で生産されるようになったからこそでしょうから、現代の多くは後者でしょうか。

 いってみれば、技術改良によって大量に工場で生産されるようになり、それらが鉄道網の整備など産業基盤の近代化によって展開されるようになったことが、このようにチョコレートが手頃な価格になった背景にあるようです。

 チョコレートはもともと中南米にあり、マヤ・アステカ文明では「神々の食べ物」として食物として口にできる人は限られた、貨幣的な価値まで付与されていたものだったのだとか。宗教的な捧げ物として機能していたり、マヤ文明当時は苦く刺激の強い煎じ薬のようなものだったようなので、近い感じでいえばありがたーい滋養強壮薬というような感じだったのでしょうか。

 そんなカカオがヨーロッパに広まっていくのは大航海時代以降。貿易によって集められたカカオ豆を加工して、ココアなどの加工食品に生産する仕組みが広まっていったことにはじまるようです。

 具体的には、カカオを加工して飲む習慣は、植民地にしたヨーロッパに伝わったあと、16世紀から17世紀にスペインから他の諸国へと伝わり、次第に「カカオは薬品なのか食物なのかは」が宗教的・医学的問題としてとりあげられるくらい、教義に絡んだ一種切実な問題になっていたようです。それだけ社会的に浸透していったことの裏返しだったといえるのかもしれません。


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 ちなみに、こうやってココアが知られるようになった時期は、紅茶やコーヒーが普及した時期と重なります。小林章夫『コーヒー・ハウス 18世紀ロンドン、都市の生活史』旦部幸博『珈琲の世界史』をみても、コーヒーハウスでは当初からココアも親しまれたようで、政党が本拠とするなどの集会所として機能したコーヒーハウスというその場所自体とともに、社会に浸透していきます。

 思えば、集会を開けるほどの政治的に権力を持つようになった市民階層の経済基盤の一つが海外との貿易業だったことをみても、それはある種、とてもわかりやすいことなのかもしれません。

 それにしても、『一杯の紅茶の世界史』を読んでいてもそうですが、農業として原料を生み出す生産プロセスと、加工食品として製品を生み出す加工プロセス。この両方のプロセスを貿易によってつなげ、宣伝的に大きく広げられることによって消費されていく……。近代に向かうに連れて大量生産・大量消費が可能になり、社会をうつしだす形をおびて身近にあらわれてくるあたり、嗜好品の奥は深いものなのだなぁと思わされます。


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 そんなお茶うけとしてのチョコレート、みなさんはどんな思い出をもっていますか?

 思えば、私が最初にコーヒーに親しんだのは高校生の頃。仲のいい先生のところで待ち時間にだしてもらいましたっけ。コーヒーのおともにチョコレートをかじりながら話すその時間は、単なる待ち時間をそれ以上のものにしてくれたように思います。高校に上がる前も、冬の寒いときに背伸びして買った缶コーヒーを飲んで暖を取ったり、コーヒー缶に入った粉末からいれたコーヒーを「子どもには早いから」と牛乳をたくさん入れられて祖父母の家で飲んでました。

 紅茶好きの友人が、受験勉強中に何をつまむでもなく、一日中ひたすら紅茶を沸かしてはガブガブ飲みながら勉強をしているときいたときは、コーヒー党の私でも流石に少し心配になりました。

 もともと、縁あっていろんなところにあったものが一つのところに集まることで生まれた習慣です。伝統とか格式とかそういう背伸びの前に、手軽に手を伸ばせばすぐ届くいつものところにあり、そして、その日常のなかでどういう景色を彩ってきたのか。バラバラのところから集まってできた習慣だからこそ、それが続いているのは、何気ない日常の毎日が積み重なっていったからなのかもしれません。

 今年のバレンタイン、何か特別なことでなくても、振り返っていい思い出になるといいですね。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 事業がうまくいっているときは、誰が責任者かなどと言う必要はなく、「皆のおかげで……」と言っておればよい。しかし、事をはじめるときには失敗の可能性も考えねばならない。そして、もしも失敗したときは自分が責任を負う、とはっきりと決意して動いている人物がいるので、その集団はうまく動くことができるのである 》


 著者はそれを〈 負け戦の責任 〉と呼ぶ。そして《 「攻め込む時の責任」ではなく「負け戦の責任」をとれる人が、それぞれの部署にいなかったら、会社は潰れてしまう 》のだそうだ。これは何も会社に限ったことでもあるまい。失敗したら俺が責任をとる。そう言い切ってくれるリーダーの下でなら、みんな、安心して行動できるのだ。


新刊案内

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今月の紹介本




永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『ミスター・ガラス』

 シャマラン、タマラン! ヒーローとは何か? シャマラン監督が18年掛けて答えを出してくれました!

 この作品は『アンブレイカブル』『スプリット』に続く三部作の完結作になっていて、シャマラン監督がこの世界に超人(ヒーロー)は必要なのか? を説いた、メッセージ性がある作品だと感じました。

 物語は、三人の超人を軸に進みます。一人目がブルース・ウィリス演じる、不死身のダン。二人目がサミュエル・L・ジャクソン演じる、ガラスのように脆い体と超人的な頭脳を持つイライジャ(通称:ミスター・ガラス)。そして三人目のジェームズ・マカヴォイ演じる、多重人格者(24重人格)ケヴィン。この三人は、境遇は違えど同じ悩みを持っています。それは、自分の〈 存在意義 〉です。これは多くの人に当てはまるのではないでしょうか?

ダンは、不死身の体を活かして法律無視の自警行動。イライジャは、自分がガラスのように脆い体なので、その対となる存在がいる事を確かめる為に恐ろしい計画を実行(『アンブレイカブル』を観てね)。ケヴィンは、誘拐を繰り返して自分を理解する者を探していきます(『スプリット』を観てね)。手段は間違っていると思いますが、それ位〈 存在意義 〉を知る事は難しい。しかし、そこはシャマラン監督、素晴らしい人間讃歌を感じる作品になっています!

『アベンジャーズ』等のアメコミ作品みたいな派手な演出は無いが、この作品は誰もが救いになる存在になっていたと思うし、静かなシーンの中にもカッコイイシーンが幾つもあって凄い好きな作品でした! なのに……何でパンフレット作ってないの!?



幸せは自分で決める――丸善津田沼店 沢田史郎

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 埼玉、長野、山梨の三県が接する辺りを、覆うように連なる奥秩父山塊。八ヶ岳や北アルプスと違って交通至便でもなく、特別に景観がいい訳でもない地味な山岳地帯。その一角に建つこれまた地味な山小屋・梓小屋のオーナーの視点から大自然の優しさと厳しさを描き、そこを訪れる人々の人生をほんの一瞬垣間見せる――。

 笹本稜平の『春を背負って』は、舞台である奥秩父の山々と同様、派手な演出とは一切無縁。逆にだからこそ、登場する人物たちの心模様や、日ごとに移ろう奥秩父の四季など、笹本稜平の円熟の筆遣いを味わえる、いぶし銀の一冊だ。

 主人公の長嶺亨が事故で急逝した父親の跡を引き継ぐ形で、梓小屋の経営に乗り出したのは四年前。当時、電子機器のトップメーカーで最先端の開発競争に明け暮れていた亨が、何故、地位も収入も捨てて、半ば隠棲のような山小屋暮らしを選んだのか?

 生き馬の目を抜くが如き開発競争に疲れた為。チームの手柄を独り占めにする上司に愛想を尽かした為。大きな成果を達成してその後の目標を見失った為。そして、梓小屋を続けたいという父の気持ちに、遅ればせながら応える為。

 作品の序盤でそう説かれているのは、しかし、亨が人生のベースキャンプとして梓小屋を選んだきっかけではあるのだろうが、その不便で不自由な暮らしをそれだけで四年も続けられるかと言ったら、それはやっぱり違うだろう。ならば彼が辺鄙な山奥で難儀な生活を続ける理由は何か? それははっきりとは書かれておらず、読者は、梓小屋で折に触れて自分の生き方を見つめ直す亨と一緒に、手さぐりで確かめてゆくことになる。


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 主な登場人物は亨の他に、父の代から小屋の運営を手伝ってくれているゴロさんと、遭難しかけていたところを亨とゴロさんに救われてそのまま居着いてしまった美由紀の三人。或る時は、群生地のシャクナゲを盗掘から守るために寝ずの番をし、或る時は野ざらしになっていた白骨遺体を発見し、また或る時は低気圧に襲われて立ち往生したパーティの救援に向かったりと、派手ではないと言いつつも山を媒介にした一期一会に感動したり憤ったり、彼らの日常はなんやかんやと忙しい。

 そんな毎日の中で亨は知る。傍からは順風満帆に見えても、或いはお気楽に生きているように見えても、義務や責任、後悔や自責を、誰もがそれぞれに背負って生きているのだという現実を。人の一生、上り坂ばかりは続かないし、かと言って下り坂だけの人生というのも無いものなのだ。そう考えると、山登りと人生はちょっと似てはいないか?

 そうなのだ。『春を背負って』という題名は、奥秩父の遅い春に小屋開きの為の荷物を背負って登って来るゴロさんの姿を、遠目に見た亨が漏らした呟きなのだが、同時にそれは、いろいろなものを背負って歩んでいく〝 人生 〟という意味をも込められた絶妙のタイトルなのだ。

 物語の後半で、或る登山客の平らかならぬ生き方に思いを馳せる亨と美由紀に、ゴロさんが達観したように告げる場面がある。

《 幸福を測る万人共通の物差しなんてないからね。いくら容れ物が立派でも中身がすかすかじゃどうしようもない 》。そして続ける。

《 ところが世のなかには、人から幸せそうに見られることが幸せだと勘違いしてるのが大勢いるんだよ 》と。

 これこそが、亨が〝 辺鄙な山奥で難儀な生活を続ける理由 〟だろう。と同時に、この作品の底を伏流水の如く流れ続けるテーマでもあるように僕には思える。人からどう見えようが、亨自身は、世間の脚光を浴びて収入も将来も約束されていた研究者時代よりも、今の山小屋暮らしの方に幸せを感じているのだ。ならばそれこそが亨にとっての幸せであり、他人がとやかく言うことではあるまい。

 昨今のSNSブームなどを見るにつけ、先のゴロさんの言葉をつい思い出す。そして自分に問いかける。俺は、世間からどう見えるかではなく、俺自身が幸せだと感じる事の出来る道を歩けているのか? と。


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 自分自身の幸せ、と言うと思いだすのが、はらだみずきの『海が見える家』だ。主人公の若者が亡き父親から財産を受け継ぐという設定も同じなら、その財産が世間からは見向きもされないような無価値なものという点も一緒。但し、こちらは山ではなく海。

 舞台は我らが千葉県、房総半島の先っぽ辺り。そこにあばら家を構えて脱サラし、贅沢とは無縁の地味で変化に乏しい人生を送っていた父親。いつの頃からか疎遠になっていたその父の訃報が、主人公・文哉のもとに飛び込んできたのは、彼が、勤め先のブラック企業で散々に疲弊して退職した直後。文哉自身、今後食っていくアテも無いのにそれどころじゃないよ、とは思いつつも放っておく訳にもいかず、遺品整理やら役所での諸手続きやらの為に、父親が暮らしていた海辺の一軒家を渋々といった感じで訪ねて行く。

 といった幕開けの後には、生前は窺い知れなかった――と言うよりも、そもそも殆ど付き合いを断ったも同然だった父親の、食べて寝て働いて、時には気の合う仲間と杯を傾けてといった〝 生活臭 〟を、少しずつ知ってゆく。そして、父親の生涯に想いを巡らす。

 大学受験を控えた高校生の頃、文哉は漠然と《 父のような人生は送りたくない 》と感じていた。サラリーマンとして単調な日々を無表情でこなす父親を見て、《 絶対にあなたのような、退屈な大人にはならない 》とまで考えていた。

 その父親が脱サラして、南房総の別荘地におんぼろ小屋を買って、一体何をしようとしていたのか?

 それは、物語が進むにつれて徐々に明らかにされていく訳だが、勿論ここでは詳細は伏せる。ただ一つ、かつて文哉が父親に言い放った一言が、曲がりなりにも〈 社会人 〉を経験した現在の文哉自身に、ブーメランの如く返って来る。

《 他人にどんなに評価されようが、自分で納得していない人生なんてまったく意味がない 》

 ならば自分は、大学を選ぶ時、就職試験を受ける時、或いは今回、退職を決めた時、果たして〝 自分で納得して 〟いたのか? だとしたら、就職して半年もたたずに退職して今は無職であることを、友だちの誰にも話せずにいるのはどういう事だ? 結局は自分も、〝 他人の評価 〟を気にして生きてきただけではないのか? それに比べれば父の晩年は、自分なんかよりも遥かに自由で充実していたのではあるまいか?


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 そう気が付いた時には既に文哉は、売り払って生活費の足しにするつもりでいた父のあばら家に半ば移り住み、父親が生前に親交を結んでいた人々と、新しい繋がり方を模索し始める。

 実はこの作品、文庫の解説は僕が担当したので、それを自店のフリーペーパーで採り上げるのは少々下品かとも思ったのだが、前出の『春を背負って』とテーマが非常に近く、併せて紹介するのがベターだろうと結論した次第。故に、ご興味があれば小学館文庫版の『海が見える家』巻末解説をご笑覧頂ければと思うが、要するに、『春を背負って』も『海が見える家』も、〈 幸せの尺度 〉というものについて、非常に考えさられる物語なのだ。

 梓小屋のゴロさんが《 幸福を測る万人共通の物差しなんてない 》と呟いたように、或いは、若き文哉が《自分で納得していない人生なんてまったく意味がない 》と言い放ったように、僕らは日々あくせくと世の中の動きに流されていく中で、いつの間にか自分が考えていた幸せをどこかに置き忘れて、世間が幸せだと主張するものこそが幸せだと思い込み、本当は欲しくも無い筈のその幸せを懸命に追いかけていたりはしないだろうか?

『海が見える家』では終盤、文哉が、大学を出てまで、こんな田舎の海っぺりで収入の不安定な暮らしを始めようとしている自分の生き方を、ふと省みる場面がある。《 おれはいったいこんなところでなにをやっているのだろう 》と。しかし次の瞬間、すぐに彼は宣誓でもするかのように言い切ってみせるのだ。

《 いいじゃないか、これは自分の人生なのだから 》と。

 人生は受験とは違うのだ。全員にとっての正解などどこにも在る筈はなく、強いて言うならばその正解は、僕ら一人一人が自分に合ったものを見つけてゆくしかないのだろう。それがサラリーマンであっても起業家であっても、自分が納得していればそれでいいのだ。勿論、本屋の店員であってもいいのだ、多分……。


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 とまぁ、知命も近いというのに青臭い言葉を並べたてたが、こうなったらとことん行こう(笑)。

 こちらは同じ〝 ハラダ 〟でも、原田マハ。『独立記念日』はそのタイトル通り、何かに縛られて動けずにいた老若の女性たちが、自分を縛り付けいていたものから独立して、新たな一歩を踏み出す物語が二十四編。彼女たちを縛っていたものとは、例えば同僚たちへの〈 見栄 〉だったり、同級生たちの〈 いじめ 〉だったり、或いは〈 病気 〉だったり〈 会社 〉だったり、時としては若い頃から思い描いて生きた〈 夢 〉でさえも、〝 自分を縛り付けるもの 〟として描かれる。そして、どの主人公たちも、その縛りを断ちきる事を一度は諦める。

 住みたい街ランキング上位の街に憧れつづけ、そこに住みさえすれば幸せになれると盲信して、高い家賃に悲鳴を上げながらカツカツの生活を続けるOLがいる。夫に先立たれ、遺された子を育てることに精一杯で、自分の幸せなどとっくに諦めている女性がいる。夢を追って故郷を飛び出したはいいものの、泣かず飛ばずで結局は派遣の工場労働でその日その日を食いつなぐ漫画家志望の女の子がいる。不倫現場をスクープされて退職を余儀なくされ、夫との関係も冷え切ってしまった元アナウンサーがいる。

 といった具合に、二十四の短編の主人公は皆、ちょっとやっかいな事情を抱えている。或いは、長い人生の道のりで進む方向を見失って戸惑っている。一言で要約してしまえば、運に見放されている感がある。

 恐らくは、誰が読んでも、「あ、この気持ち解る」と共感する人物が、二人や三人はいるのではあるまいか。それぐらい、彼女たちが見舞われている不運は、ありふれている。自分も過去に経験したような、或いは、どこかで聞いた事があるような、そんな日常的な不運がズラリと並ぶ。念の為に言っておくと、抱えているトラブルが重大ではないと言っているのではない。皆々それ相応に重大だし、そもそも、運不運の重大さなど当人以外に判断出来る筈もない。

 が、彼女たちは、自分を縛っているものの正体を見破る。「どうせ私なんか……」「きっと、こうなるに決まってる……」「上手くいく筈なんてない……」。そういった、根拠のない自己否定。失敗の記憶の連続再生。それこそが、自分を縛ってきた鎖であると、ふとした瞬間に彼女たちは気が付いてそれを断ち切る。


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 そのきっかけは決して大げさな出来事ではなく、例えば傘をさして歩いている時に、ふと周りを見回すと皆が傘を畳んで手に提げていて、「あら、雨やんでるわ」と初めて気が付くといったような、客観的に見れば難しくもなんともない事で、だけど〝 雨が降っている 〟と思い込んでいるというただそれだけで、気付ける事にも気付けなくなるという、〈 自縄自縛 〉とはまさにそういうものなんだろうけど、とにかく何しろ『独立記念日』の主人公たちは、ふとしたきっかけで自分を縛っていたものを見極めて、それまでの自分に向って「そんなに難しく考える事ないんだよ」などと諭すように呟きながら歩き出す。

 自分はここから動いてはいけないと、暗示にでもかかったように思いつめる女性に、一人の精神科医が噛んで含めるように助言するシーンがある。
《 田淵さん、『案ずるより産むが易し』ってことわざ、知ってますか? 》と。唐突な問いに首を傾げる〈 田淵さん 〉に向って、先生はこう続ける。

《 こんなことしたら、こうなっちゃうんじゃないか。こう言ったら、こう言い返されるんじゃないか。そう考えてなかなか行動できない。けど、思い切ってやってみれば、けっこう想像もしなかったほうに、物事っていうのは転がっていくものですよ 》

 さぁ、皆さん。今年の春は、ためらっている自分に〝 案ずるより産むが易し 〟と言い聞かせて、一歩を踏み出してみるってのも、悪くないとは思いませんか? そうそう、ついでながら。この作品の担当編集者と営業担当者と私の三人で、鼎談を開いたことがあります。それぞれの立場から作品の魅力を好き勝手に語った座談会で、今でもWEBで読めますので、ご興味があってかつお閑ならこちらからどうぞ。


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 大袈裟ではない人生という事なら、こちらも紹介しない訳にはいかない。他の三作に比べるとやや古い本だけど、久しぶりに読み返したらちゃんと面白かったから、自信を持ってお薦めするぞ。

 沢木耕太郎『彼らの流儀』はタイトル通り、有名無名の三十数名が、誰かのではなく〈 彼らの 〉流儀で生きていく、その一瞬を切り取ったノンフィクションのような、コラムのような、エッセイのような、不思議な魅力の作品集。

 千葉に古くから伝わる〈 上総掘り 〉の技術を素人ながらに、水不足のアフリカの村々に伝えて歩く老人は、《 玄人はまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない 》と、自分の強さの源を語る。一年に一度、東京タワーのテッペンの航空障害灯を交換する技術者は、僅かな高所手当でどうして危険な業務を続けるのかと問われて、《 自動車通勤をしているので、鉄塔にでも登っていないと体がなまってしまう 》と笑う。深夜ラジオのパーソナリティは、半泣きで悩みを訴えてきた電話の向こうの若き視聴者を、《 ね、できるよ。泣くことができる人だもん、悔しくてさ。やれるはずだよ、な、え? 》と優しく励ます。

 そして、それぞれの人生をそれぞれの価値観で生き抜こうとしている登場人物たちを、観察者であり記録者とも言える著者は、例えばこんな風に評したりする。

《 頂きに登ろうともせず、しかしだからといって人生から降りているわけでもない。当たり前の人生を当たり前に生きている。だが、当たり前の人生を当たり前に生きていくということの、なんと難しいことだろう 》


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 この作品集を読んでいると、SNSでの〈 いいね 〉の数とか、空気を読んで曖昧に笑っておくとか、女子力がどうとか男らしさがどうとか、そういう誰が決めたんだか解らないままに定着しているあれやこれやが、ホントどうでもいいちっぽけな価値観だと気付かされる。試しにもう一節、引用してみる。

《 彼の幸せは、彼が頭に描いた「絵」を実現することにあるのだ。そして、彼がその「絵」を次々と描くことができていると感じている以上、彼の幸せを疑うわけにはいかない 》

 とまぁそんな訳で、本書でもやっぱり〈 自分の幸せは自分が決める 〉という、当たり前なのについ忘れてしまいがちな価値観が、北極星の如き輝きを放ち続ける。太陽ほど明るく周囲を照らす訳ではない。だけれども、北極星さえ見失わなければ、大海原でも迷わずに航海を続けられるのだ。

 ならば、さて。僕は世間のでもなく、会社のでもなく、〈 僕の流儀 〉を持っているのだろうか? 「Yes!」と即答することは出来なくても、せめて、持っていたいとは思っていようか。



編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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2月のイベントガイド

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# by dokusho-biyori | 2019-02-11 06:54 | バックナンバー | Comments(0)