人気ブログランキング |

19年04月

a0304335_05575798.jpg




a0304335_05581606.jpg




a0304335_05582871.jpg




世界の通勤車窓から――文藝春秋営業部 川本悟士

a0304335_06031364.jpg


 卒業・入学シーズンに桜が咲いていたのも今は昔……そろそろ花びらの舞う時期でしょうか。四月になると何かと変化があるもので、いわゆる新生活といいますか、生活のリズムが変わった人も多いのではないでしょうか。その変化が如実に現れる瞬間はどんなところでしょう。個人的には通勤・通学の移動時間かなぁ、なんて思います。

 私の場合、基本的に移動は自分で動かす乗り物を中心に生活をしてきたので、公共交通機関に毎日必ず2回は乗るようになったのは社会人になってからでした。満員電車――最初は思わずめまいがするかと思いましたが、みなさんはどうでしたか。日本の通勤・通学といえば満員電車を代名詞に、どうしてもいいものという印象は少なくなりますね。でも、そんなときこそ通勤を苦行としてではなく、通勤こそが近代社会の発展を促してきた原動力のひとつであると描いた、こんな本をめくってみるのはどうでしょう。

 イアン・ゲートリー『通勤の社会史』は、通勤という習慣を通して近代社会がどう発展してきたのかを描き出す、一種の世界史本ともいえる1冊です。それによれば、通勤とは仕事場と休息の場を何らかの移動手段によって結びつけることであり、鉄道や自動車などの離れた場所をつなぐ移動手段が誕生するにあわせて生まれてきたものだといいます。

 上記のように、大きなきっかけは鉄道の誕生で、それによって居住と職場とを離した生活スタイルが可能になり、人々が郊外へと移り住んでいくようになりました。19世紀から20世紀にかけて、都会という密集した生活環境のよくないエリアから緑豊かな郊外へと移住をしていく自由が広まっていくことで、いわば職場への移動が「他者と顔を合わせるための準備の時間」を提供してくれるようになり、生まれた土地に縛られたり都会の面倒事に囚われたりしないための手段になったわけです。


a0304335_06045013.jpg


 ただ、当時の鉄道通勤は必ずしも安全なものではありませんでした。月に1度は大規模な事故が起きる命がけの危険なものだったようです。そんななかT型フォードが誕生し、爆発的に自動車が人々の生活に入り込んで、移動の自由を拡大した人々はさらに広範囲に生活圏を広げていきます。アメリカを中心として、企業自体も自動車通勤者に続いて郊外にうつっていきました。

 要するに、通勤は一種の自由というか、制限の少なさによって成立した習慣である、という側面があるようです。その証拠というわけではありませんが、国が住む場所を定めた東側諸国では、必ずしも変化は訪れていませんでした。

 と、こう書くと通勤が万々歳の良いもののようですが、もちろん負の側面もあり、たとえば、自動車での通勤が進むに連れて渋滞が大きな社会の問題になりました。それを解消しようと高速道路やバイパスが建設され、社会は自動車の輸送を大前提としたものへと変貌していきますが、今でもアメリカでは渋滞によってイライラをつのらせたドライバー同士のイザコザが――なまじ銃を持っているだけに大きく拡大した形で暴発して――問題にもなっています。

 とはいえ、アンケートをとると通勤を不快と捉えている人より通勤が楽しいと回答した人のほうが多く、通勤時間を有効に使っている回答が多いようです。実際、通勤によって変わった生活習慣のなかには消費活動も含まれ、たとえば、今でも電車のなかではケータイや本が欠かせないという人が一定数いることはそのひとつかもしれませんし、運転中はラジオ番組をかけっぱなしにするというドライバーの存在もそのひとつでしょう。通勤という活動が広まることで、生活習慣が変わり、娯楽が変わり、時間の流れが変わって人の動きが変わる…そうやって社会が動いていくというわけですね。


a0304335_06062428.jpg


 実際、通勤をなくしてオンライン上で完結しようとすると、セキュリティの問題だけでなく電力をかなり使うことが問題になっているとあげられているように、まだしばらく通勤は馴染みのあるものであり続けるようです。

《 通勤には職場と家庭生活を切り離す効果がある 》(P.316)と著者は述べていますが、たしかにこの感覚、妙に実感としてわかるところがあるもので、イライラするようなことやヘコむようなことがあっても、ハンドルを握って帰っているうちにちょっと頭が冷めてきたり、つり革を片手に文庫本を開いたり音楽を聞いているうちに気持ちが落ち着いたり……ということが、みなさんもご経験あるのではないでしょうか。

 そうやって気持ちを切り替えているうちに、それこそ能町みね子『お話はよく伺っております』であるような、乗り合わせた隣の席の人の会話が妙に面白く聞こえて振り返ったらそれが全部オジサンの独り言だったことがわかってびっくりしたり、いやいやなんでやねんと思わず心のなかでツッコミを入れてしまったり……なんて余裕が、あなたにも生まれるかもしれません。

 4月は、その意味ではいい時期ではないでしょうか。ぼーっと本を読むのもそうですし、窓の外の景色もそう。多くの人の環境が変わった時期、周りを見回すと面白い光景に出会えるかもしれません。そんな通勤時間で出会った何かが職場や学校で出会う誰かとの話題になれば、それはテレビで映る世界中の車窓と同じくらい、あざやかな通勤の車窓だと思います。



残る言葉、沁みるセリフ

a0304335_22204809.jpg


《 ひとは、ふっと弱くなるときも、悪くなるときもあると思うんだ。だれにでもあると思うんだ。 》


 だからと言って何でもかんでも大目に見ろと、主人公は言っている訳ではない。世の中には取り返しのつかない間違いや失敗もある。だけれども〝 取り返し 〟がつくならば、そして本人が悪かったと思っているならば、ミスを見逃さずに糾弾する人よりも、大らかに許してやる人の方が、人間としての器は大きいんじゃないだろうか。自分だっていつ何どき、へまして迷惑をかけないとも限らないんだし。





 超問題作! 倫理観? そんなの関係ねぇ! なタブー作品でした。

 好きな作品の中に、稀に「ニオイ」を感じるものがある。良い匂いを感じる作品は沢山あるが、この作品はその逆。漢字にすると「臭い」の方で、クサくてこの場から逃げたくなる様なニオイ。この臭いをスクリーンから発するこの作品は傑作だと思う。

 ここでストーリーをざっくり簡単に説明すると、生活に困った脚が不自由な兄が自閉症の妹に売春させてギリギリの生活から抜け出そうとする話です。何て不謹慎な作品を紹介してくれてんだ! と怒る人が目に浮かぶが、そうゆう人にこそ観てほしい。暗くなりそうな話を、驚くほど面白可笑しい作品に仕上がっているからです。いや~、まさか自分もこの作風で声を出して笑うとは思いませんでした。

 泥臭く生きるこの兄妹にスポットライトを当てた片山慎三監督は、良い意味で世の中をフラットに見ている凄い貴重な方だと思いました。

 ここでもう一つ、どうしても紹介したい作品があります。デンマークの映画で『THE GUILTY/ギルティ』という作品です。めっっちゃ面白かった!! 今年断トツで好み! 本当はコチラを全面に推して行こうと思ったのだが、変な感想を書いて先入観を与えたくないなと。好きだからこそわかって欲しいこの気持ち。何かすみません(汗)。

 じゃあこれだけ教えちゃう! 「電話からの声と音だけで、誘拐事件を解決します」シンプルな設定だけど、色々予想超えて来るから! 以上。



正義の味方、参上!――丸善津田沼店 沢田史郎

a0304335_05471427.jpg


 言葉を介さずに心と心で直接会話が出来るテレパシー。遠く離れた場所に一瞬で移動できるテレポーテーション。対象に指一本触れることなく念じるだけで物体を動かすサイコキネシスetc。

 最近はめったに見かけなくなったけど、昭和という時代には〈 超能力 〉なるものがかなり頻繁に話題に上っていた記憶がある。恐らく、ユリ・ゲラーのブームも大いに影響したんだろう。スプーン曲げだの念写だのがしばしば雑誌やテレビで特集され、UFO、UMAと並んで超能力は、〝 もしかしたら本当に在るんじゃね? 〟的興奮を以て語られる定番の話題だった。

 とは言え、それはあくまでも小学生男子に限ったブームであって、ウルトラ6兄弟だの戦隊ヒーローだのと同列の、所詮は子供だましの絵空事に過ぎなかった。

 ところが、その〝 子供だまし 〟に真正面から取り組んだ作品が、昭和50年代に立て続けにヒットする。平井和正の『幻魔大戦』聖悠紀の『超人ロック』大友克洋の『AKIRA』……。これらの作品の新しさは、〈 超能力 〉の必殺技的な格好良さではなく、その危険性を提示し、持てるが故の苦悩や代償を描いた、という点だろう。

 即ち右に挙げた名作たちは、超能力の負の部分にスポットを当てることによって、それまでの〝 子供だまし 〟にリアリティの息吹を吹き込み、大人の鑑賞に耐え得るクオリティに仕上げた訳だが、その分、〝 子供だまし 〟には無かったある種の暗さを帯びてゆく。

『超人ロック』で、不老不死の主人公が、「相手の姿は変わらないまま、自分だけが老いていくということに耐えられる人はいない」との理由から、告白された愛を拒絶するというくだりがあるが、〝 持てるが故の苦悩 〟を象徴する場面だろう。


a0304335_05515215.jpg


 しかしここに、そんな暗さとは全く無縁の作品がある。笹本祐一の『妖精作戦』は、右の3作とほぼ同時期に発表され、しかも「超能力など、持ちたくて持ってる訳じゃない」というスタンスも一緒ながら、例の暗さとは一切無縁。っつーか、殆どバカ陽気といってもいいノリの、エンタメ路線一直線。

 夏休み明けの九月の頭。東京都国立市に在る私立星南大付属高校に、1人の女子生徒が転校してくる。その少女・小牧ノブこそが全ての発端。何しろ、未開発ながら途方もなく強力な超能力の持ち主で、その力を利用しようと企む超国家的な秘密組織から追われているのだ。が、それはおいおい判明してゆくことで、我らが主人公である星南大付属2年生の榊くんたちにとっては、かわいい転校生がやって来たなという程度。

 ところがそのノブちゃんが目の前で誘拐されそうになり、マグナムをぶっ放す謎のおっさんがそれを救出するのを目の当たりにして、榊たちは、タダナラヌ事態に巻き込まれつつあるのを自覚する。以降は、時速200キロで大型バイクをかっ飛ばすわ、横須賀沖に停泊している原潜に忍び込むわ、挙句の果てには宇宙船かっぱらって月まで行くんだから、リアリティもへったくれもあったもんじゃない(笑)。

 その半面、主役を務める若者たちの人物造形はやたらとビビッドで、アホだなぁコイツらと苦笑しながらも、ついつい応援せずにはいられない。面白そうなことがあれば後先考えずに首突っ込むし、勉強は嫌いなのに大人を騙す時だけは頭の回転が速くなるし、自分たちなら上手くやれるという根拠の無い自信に満ち満ちているし、「やばい」と気付くのはいつも絶体絶命に追い込まれてからだしetc……。


a0304335_05534477.jpg


 司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中で、若き日の秋山真之や正岡子規の軽挙妄動を、こう評している。曰く
《青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない 》

著者の微苦笑が目に浮かぶような名文であるが、『妖精作戦』の高校生たちもまた、無鉄砲と紙一重の野放しのエネルギーで以て、物語をぐるんぐるん振り回す。

 例えば『ドラえもん』を見ながら「小学生だけでこんなこと出来っこないじゃん」などと冷静なツッコミをする人には、恐らく一生『ドラえもん』の面白さは分からないであろう。それと同様に『妖精作戦』も、数多ある現実離れは笑って愉しむのが読む際のコツ。それさえ出来れば、悪の組織に拉致された罪無き同級生を救うために、無謀な戦いを挑むフツーの高校生たちが、愉快で頼もしい正義の味方に見えてくる筈だ。

 さて、正義の味方と言えば高野和明である。第47回江戸川乱歩賞を受賞したデビュー作『13階段』は、無実が立証されないまま刑の執行を待つ死刑囚の冤罪を晴らすために、主人公たちが命がけの調査に奔走する。

 自殺した幽霊たちが浮かばれない霊となって地上に舞い戻り、100人の自殺志願者たちを救う『幽霊人命救助隊』では、4人の主人公たちはタイトル通りの救助隊となって、自殺志願者たちを翻意させるために四苦八苦する。
《 未来が定まっていない以上、すべての絶望は勘違いである 》
というセリフに生きる勇気を貰った読者は、私だけではない筈だ。

 このミスと週刊文春で1位を獲得、山田風太郎賞と日本推理作家協会賞を同時受賞した怒涛のハードSF『ジェノサイド』では、中東の内戦で命の綱渡りを続ける傭兵と、日本の大学で薬学を学ぶ学生が、そうとは知らずに人類の未来を脅かす強大な敵と対峙する。


a0304335_05585724.jpg


 こうして改めて振り返ってみると、〝 正義の味方 〟を描いて高野和明と肩を並べる作家はそうはいないと、つくづく思う(だから早く次を書いてくれ)。

 そして今月紹介する『グレイヴディッガー』も、勿論、正義の味方感満載だ。しかも、庶民感覚の等身大で、街のどこかに本当にいそう。

 その正義の味方は、前科数犯の小悪党、八神俊彦、32歳。殺人や婦女暴行などの凶悪犯罪こそ犯していないものの、詐欺や強請りたかりなど、楽して金を儲けるためなら幾らでも他人を犠牲にしてきた人間のクズ。それが、とある事件から改心し、真人間への第一歩として骨髄バンクにドナー登録すると、たちまちHLAの適合患者が見つかって、明後日はいよいよ骨髄移植という晩秋の或る日。

 八神が部屋に戻ってみると、風呂場には悪党仲間の他殺死体。「えっ!? 何なに? なんで?」と思う間もなく部屋になだれ込んできた3人の男たちに問答無用で襲われて、何が何だか分からずに取り敢えず逃げたはいいものの、緊急走行するパトカーのサイレンを耳にしてふと我に返る。「俺の部屋で俺の知り合いが殺されてたんだから、俺が重要参考人として追われることになるんだろうな」と。

 無論、八神が殺した訳ではないのだから、自ら警察に出向いて事情を説明すれば、一度は嫌疑をかけられたとしても、鑑識の結果などからすぐに無実は証明される筈である。件の正体不明のグループから逃れるためにも、その方が賢明だろう。

 だがしかし。どこの誰とも明かされはしないが、八神の骨髄が移植されることになっている白血病患者は既に移植準備の最終段階で、《 大量の抗がん剤投与と放射線治療で、骨の髄が空になってます 》という状態。《 万が一の話だ。俺が六郷総合病院に行きそこねたらどうなる? 》という八神の問いには、医師は断固明言する。《 間違いなく、患者さんの命に関わります 》と。即ち、八神の骨髄を待っている患者を救うためには、警察での取り調べで時間を浪費する訳にはいかないのだ。


a0304335_06002980.jpg


 斯くして八神は、素姓の分からない謎のグループと警察との両方から追われる身となって、東京都北区赤羽から、大田区の六郷まで、23区縦断の逃避行を開始する。

 という辺りまでで最初の20ページほど。以降繰り広げられる耐久レースは、見せ場、山場、読ませどころのつるべ打ち。

 電車や幹線道路は、警察が真っ先に網を張るであろうから使えない。それどころか、タクシー会社やレンタカーの事業所にまで手配の連絡が行き亘っていて、どうやらまともな方法で六郷に行き着くことは諦めた方が良さそうだと、早々に観念した八神は、チャリを盗み、隅田川を泳ぎ渡り、挙句の果ては羽田行きのモノレールの軌道によじ登ってまでして、逃げまくる。

 そのサバイバルゲームだけでも書を伏せること能わざる緊迫感だが、それとは別に、23区内で謎の猟奇連続殺人が発生しており、その謎解きがまたスリリング。無軌道に見える犯行に翻弄されながらも懸命に事件解決を目指す刑事たち。誰が何のために殺人を繰り返すのか、それが話の本筋にどう絡むのか、その推理はまさに乱歩賞作家の面目躍如。

 作中の時間は、驚いたことに僅か20時間ほど。そこに様々な善意と悪意を凝縮して、これほど濃密なミステリーに仕上げる手腕には、きっと誰もが舌を巻く筈。息継ぐ間もなく駆け抜ける460ページを存分にご堪能されたし。

 さて、三つ目の正義の味方は、ぐっと渋めに。海坂藩の下級武士の子、牧文四郎。数え年で15の夏、普請組に勤める父親が、はっきりとした理由も明かされないまま藩から切腹を申し付けられる。牧家は母親と2人でやっと食っていける程度の捨扶持とみすぼらしい長屋をあてがわれ、以後、赦されもせず処罰もされず、飼い殺しのように放置される。

 ところが文四郎が18になった或る日、今度は何の前触れもなく赦免され、禄高も元に戻される。藩の唐突な処置を訝りながらも、ひとまずはほっと胸を撫で下ろした文四郎だったが、やはりそこには、下級藩士には想像もつかないような権力者たちのエゴと欲が吹き荒れており……。


a0304335_06011171.jpg


 言わずと知れた(と書くと「だったら言うな」とつっこまれそうだが)藤沢周平の『蟬しぐれ』。親と子の信頼があり、友情があり、仄かな恋があり、剣術の切磋琢磨があり、陰謀渦巻く権力闘争があり、そして大切な人の絶体絶命を命がけで救い出す正義の闘いがあり……。青春小説のエッセンスを、たった1冊にここまで凝縮した作品は、ジャンルを問わずそうそう見つかるものではないだろう。しかも、何度読んでもその度ごとに新たな発見があり、違った場面で心が震える。

 序盤、幼いヒロインの〝 ふく 〟と文四郎が夜祭りを愉しむつかの間の平穏。理不尽に切腹させられた父の遺骸を大八車に乗せて運ぶ運命の暗転。境遇が変わっても陰日向なく支えてくれる幼馴染。剣術を通して培った友情。自らの危険をも顧みずに助太刀してくれる友との絆。そして、《 バカをやった時代は終わった 》という、子供から大人へと成長することの寂しさ……。


 本作の魅力を語りだせば、誇張抜きで紙数が幾らあっても足りないのだが、もし一つに絞れと言われたら、強大な権力に押し潰される寸前で、身を寄せ合い歯を食いしばって堪える〝 一寸の虫 〟たちの五分の魂。身分も家柄も損得勘定も度外視して〝 どうしても譲る訳にはいかないもの 〟が、きっと誰にでも一つはある。それが何なのかは一切の説明は無いけれど、時代を越えて共有されるべき、生きて行く上で本当に必要なものが、この作品にはそっと忍ばせるようにして書かれているのではないか。それが何なのかは、未だに言葉に出来ずにいるのだけれども。



編集後記

a0304335_06022968.jpg




連載四コマ「本屋日和

a0304335_06053511.jpg


@maruzen_tsudanm



フロアガイド

a0304335_06063668.jpg




4月のイベントガイド

a0304335_06070019.jpg







# by dokusho-biyori | 2019-04-02 06:21 | バックナンバー | Comments(0)




 何だか仰々しいタイトルになってしまいましたが、政治的な主張をすることや、法律の解釈を論じることは、私たち本屋の本分では勿論ありません。

 が、それらを考える際のヒントを与えてくれそうな本や、道しるべになりそうな本を紹介することは、多分、私たちの職分と言っていいのではないか? そんな風に意気投合した書店がコラボしてみました。

ときわ書房志津ステーションビル店 × 丸善津田沼店 協同フェア
【 言論の自由・表現の自由ってなんだっけ? 】

 政治家や芸能人の失言からSNS上の言葉狩りまで、〈 言論 〉と〈 表現 〉の問題が何かと取り沙汰される昨今、それらを考える為の本をちょっと真面目に紹介してみよう……って大見栄切れるほど商品知識が豊富な訳でもないんですけど、だからこそ、皆さんと一緒に勉強させて貰うつもりで選んでみました。

 ネット書店のレコメンド機能では出会えないような巡り合いを、もし1冊でも提供することが出来たなら、とても嬉しいです。



a0304335_22451723.jpg




a0304335_22484333.jpg


『安倍官邸vs.NHK』相澤冬樹

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』安藤健二



a0304335_22510426.jpg


『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』安藤健二

『リミット』五十嵐貴久



a0304335_22514147.jpg


『どもる体』伊藤亜紗

『言葉の力』リヒアルト・フォン・ヴァイツゼッカー 訳=永井清彦



a0304335_22522426.jpg


『私家版 差別語辞典』上原善広

『一九八四年』ジョージ・オーウェル 訳=高橋和久



a0304335_22533267.jpg


『大政翼賛会のメディアミックス』大塚英志

『治安維持法小史』奥平康弘



a0304335_22540681.jpg


『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔

『忖度社会ニッポン』片田珠美



a0304335_22544134.jpg


『吃音の世界』菊池良和

『政治に口出しする女はお嫌いですか?』工藤庸子



a0304335_22552057.jpg


『国家と秘密』久保亨、瀬畑源

『日本衆愚社会』呉智英



a0304335_22560237.jpg


『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』在日コリアン弁護士協会、板垣竜太、木村草太

『さらば、民主主義』佐伯啓思



a0304335_22565370.jpg


『スウィングしなけりゃ意味がない』佐藤亜紀

『目くじら社会の人間関係』佐藤直樹



a0304335_22571133.jpg


『ひょうすべの国』笙野頼子

『性表現規制の文化史』白田秀彰



a0304335_22574832.jpg


『革命前夜』須賀しのぶ

『禁断の果実』リーヴ・ストロームクヴィスト 訳=相川千尋



a0304335_22582649.jpg


『スノーデン監視大国日本を語る』エドワード・スノーデン、
国谷裕子、ジョセフ・ケナタッチ、スティーブン・シャピロ


『ぼくらの民主主義なんだぜ』高橋源一郎



a0304335_22590329.jpg


『日本の気配』武田砂鉄

『宰相A』田中慎弥



a0304335_22593541.jpg


『狩りの時代』津島佑子

『完全自殺マニュアル』鶴見済



a0304335_23001393.jpg


『安倍晋三「迷言」録』徳山喜雄

『時計じかけのオレンジ』アンソニ・バージェス 訳=乾信一郎



a0304335_23005482.jpg


『チャタレー夫人の恋人』デーヴィド・ハーバート・ローレンス 訳=木村政則
『「日本スゴイ」のディストピア』早川タダノリ



a0304335_23022933.jpg


『私を変えた一言』原田宗典

『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利、保阪正康



a0304335_23025503.jpg


『障害者と笑い』塙幸枝

『テレビじゃ言えない』ビートたけし



a0304335_23033199.jpg


『記者襲撃』樋田毅

『緑と赤』深沢潮



a0304335_23040088.jpg


『言論の自由なこの国で』藤山清郷

『ハッキリ言わせていただきます!』前川喜平、谷口真由美



a0304335_23043293.jpg


『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』 森達也

『ヘイトスピーチ』安田浩一



a0304335_23051435.jpg


『朝鮮大学校物語』ヤンヨンヒ

『民主主義の死に方』スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット 訳=濱野大道



a0304335_23053729.jpg


『この国の息苦しさの正体』和田秀樹



a0304335_23060765.jpg




a0304335_23055993.jpg




a0304335_23063052.jpg







# by dokusho-biyori | 2019-03-12 10:37 | 過去のフェア | Comments(0)

19年03月

a0304335_22155137.jpg




a0304335_22162649.jpg




a0304335_22164557.jpg




また明日――文藝春秋営業部 川本悟士

a0304335_22170063.jpg


 昔から、どうも「また明日」という言葉を、気楽に使い切れない子どもでした。友だちと別れるときに、どうしてもフラットなテンションで口にできない。明日何かあって会えなかったらどうしよう。万が一、これが最後になったらどうしよう。嘘をつくようなことはいいたくない。自分でも考えすぎで難儀なやつだとは思いながら、とはいえ無邪気に「また明日―!」といって別れるクラスメイトほどの力の抜け具合では、やっぱりなかなかそれを使うことができない。

 この妙な均衡からふっと開放されたのは、みんなが「またね!」という言葉にいつもとは違う実感を込めて使う、卒業式の日だったのかもしれません。

 というわけで、3月というと卒業式のシーズンでしょうか。生まれなければ死ぬことはないように、入らなければ出ることはないので、本来は入学のほうが先なのですが、季節を繰り返していくようになると、昔より出会いよりも別れのほうが先にあるような気がしますね。

 卒業式。みなさんはどんな思い出がありますか。黒板にいろいろ書き込んだり、なにか贈り物をもらったり、後輩にボタンをねだられたりした人もいるのかもしれません。ただ、この話題を身近な人と話してもらえるとわかるのですが、何かと学校や時代によって違うので、細かなところを詰めていくと写真を撮ったことくらいしか共通の思い出として語れるものはなかったりするかもしれません。

 そんななかで高い確率で共通しているのが、「先生からの贈る言葉」ではないでしょうか。やる側とすれば結構に頭を悩ませたりするものらしいのですが、みなさんはどんなことを言われましたか? よくは覚えていないって? あらら、実は大事なことをいわれていたかもしれませんよ? そんなときはこんな1冊を手に取ると思い出せるかもしれません。


a0304335_22194840.jpg


『巨大な夢をかなえる方法――世界を変えた12人の卒業式スピーチ』は、卒業式のスピーチに焦点を当てた1冊です。この本には、分野の最前線を切り開く起業家、投資家、教育者、俳優、映画監督たちが、イェール大学、マサチューセッツ工科大学などの卒業式で学生たちへ伝えた、一世一代の「贈る言葉」が綴られています。その一つ一つのスピーチを楽しめるのはもちろんなのですが、思った以上に各人が自分の人生を振り返りながら語っていることや、それぞれの人の国籍や育ち方で伝えるメッセージが結構違うんだな、というのもみえる作品です。

 たとえば、同じアジア圏のジャック・マーのいう「私が14年間で得た哲学はひとつ。今日はつらい。明日はもっとつらい。でも明後日には、素晴らしい一日が待っている」という言葉と、メリル・ストリープが「生き延びるために演じなければいけなかった」と形容する言葉は、背景にある各人の経験の差異を感じる一幕です。

 また、やはり卒業式だからなのか、未来を見据えた、リリカルな言い方をすれば「明日を信じる」視点が共通している点もいえるでしょうか。人類の地球外移住の計画を真剣に考えるイーロン・マスク。科学の力で細胞を創り出せる日について展望を語るジェフ・ベゾス。卒業式はその意味で、明日に向かっての〝 はじまりの日 〟といえるのかもしれません。

 この〝 はじまりの日 〟は、例年3月の決まった時期に訪れるのが恒例でしょう。そして、その恒例が崩れるほどの大事件は、めったに起こらないからこそ、大事件であるわけです。この10年でいえば、それはあの3月11日に起きた大地震の日になるのだと思います。



a0304335_22251884.jpg


 先日、七つの震災をテーマにした短編集・重松清『また次の春へ』を読んで、震災後五年目の春に被災地でその時刻を迎えたことを思い出しました。本当に何もない、いや、何もない状態にすることだけでも時間がたってしまったであろう海岸をみて、リアルタイムで同じ時代を生きながら誰にでも同じ重さを持った事件ではないのだと、その一端の現実と向かい合ったような気がしました。あの日を生きていたそれぞれに、ひとりひとりの昨日があって、それぞれが明日を考えていた。

 たとえば三つ目の短編では「明日を信じる」という行為そのものが、本にしおりをはさむというその瞬間に入り込む形で描かれています。また、四つ目の短編ではカレンダーという形で、読者はそうした毎日の積み重ねに触れていきます。「また明日」という言葉もそう、しおりを挟む行為もそう、1日たってしまえばなんてことはなくわかることがまったく見えないからこそ、次を仮定して進んでいく。そうやって毎日をすごすことが、私たちの日常なのかもしれません。

 卒業式で、先生からどんなことをいわれたか、そろそろ思い出せましたか? 今、もし仮に当時の自分たちにどんな贈る言葉を言うのかと自問自答して類推すると、それはえてして、将来についての言葉ではなかったかな、と思います。

 ちなみに私は、「君たちが一歩進むたびに、私たち大人は二歩も三歩も先を行く。頑張ってついてきなさい」という途方も無いものでした(笑)。

 今日がいつ、「3月10日」だったといわれるかわかりませんし、逆に、あとから振り返ってあの日が「3月11日」だったんだと思うこともあるでしょう。先が見通せないだけに当然ですが、なんだか考えてみるとわからないことだらけで、ちょっと疲れてしまいそうですね。そういうときこそ細かなことをいったん「また明日」考えることにして、ひとまず今日を一歩進めていく……。思えば、そんな先にある言葉だったのかもしれません。


残る言葉、沁みるセリフ

a0304335_22290773.jpg


《 たとえ4打席ノーヒットでも、
  5打席目が回ってきて欲しいと思える気持ちかな。 》



 スポーツジャーナリストの石田雄太が、《 自分に与えられた最大の才能は何だと思うか 》と問うた際の、イチローの答えが上記。「今日はダメな日だ。明日がんばればいいや」と自分で勝手にゲームセットを宣言してチャレンジをやめてしまう、なんてことがよくある僕は、初読の時に、頬桁をひっぱたかれたような衝撃を受けました。



大切な人を守る話Part1――丸善津田沼店 沢田史郎

a0304335_22411807.jpg


 時間ものSFと言われたら、僕の場合は、何を措いてもまずはロバート・ゼメキス監督の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と、藤子・F・不二雄大先生の『ドラえもん』。小説ならば、『スキップ』『ターン』『リセット』の北村薫〈 時と人三部作 〉。《 昨日という日があったらしい。明日という日があるらしい。だが、わたしには今がある 》は、日本SF史に永遠に刻まれるべき名セリフだろう。そして、43歳のおっさんが全ての記憶を保持したまま18歳に戻って人生をやり直す、ケン・グリムウッドの『リプレイ』や、現代の受験生が2・26事件前夜に跳んでしまう宮部みゆきの『蒲生邸事件』も忘れる訳にはいかない。

 知名度では右に及ばずとも、内容は勝るとは雖も決して劣らないのが次の二つ。或る坂道を自転車で後ろ向きに下ると過去に戻れるという中山智幸『ペンギンのバタフライ』。過去の任意の3分26秒間を〝 無かったこと 〟にしてしまえる方波見大志『削除ボーイズ0326』

 同様に誰もが知っている作品とは言い難いが、グレゴリー・ホブリット監督の映画『オーロラの彼方へ』は、30年前に死んだ父親とアマチュア無線で交信するという着想が斬新で、本広克行監督の映画『サマータイムマシン・ブルース』は〝 エアコンのリモコンが壊れて暑くて我慢出来ないから、過去に戻って壊れる前のリモコンを取って来る 〟という、余りにも馬鹿馬鹿しいタイムマシンの使い道がゲラゲラおかしい。更には、1980年代のアニメ『未来警察ウラシマン』からスーパーファミコンの『クロノ・トリガー』まで、要するに、時間ものなら硬軟によらず私のストライクゾーンは極めて広い。

 純粋にストーリーを愉しむのは勿論だけれど、それ以外にも、例えばタイムパラドックスの諸問題をあれこれと空想するのが面白い。


a0304335_23032944.jpg


 有名な〝 父殺しのパラドックス 〟のような重大問題でなくても、例えば僕がタイムマシンで昨日に戻ったら、昨日には僕が二人いるという訳だが、そんなことが果たして可能なのか? その二人の僕が一緒にタイムマシンに乗って一昨日に行ったら、一昨日には僕が同時に三人存在することになり、その三人がそのまた1日前に行ったら今度は僕が四人になって……。

 という展開は実は『ドラえもん』ではしばしば登場するシチュエーションで、のび太が未来から大学生の自分を連れて来て夏休みの宿題をやらせたり、のび太に宿題を頼まれたドラえもんが、2時間後、4時間後、6時間後の自分を連れて来て、何人ものドラえもんが手分けして宿題を片付けたりと、まぁ夢があると言うか何と言うか、ツッコミどころは満載なのに許せてしまうのは、それが『ドラえもん』であるが故だろう。

 或いは、こんなことも考える。僕がタイムマシンで過去でも未来でもいいけど、今ではない時間に移動する。すると、移動先の地球では、って言うか宇宙全体では、僕一人分、質量が増加する訳だよね? 別な言い方をすれば、僕一人分、全宇宙の密度が高くなるってことだよね? その増えた分はどうなるんだろう?

 例えば僕が24時間前にタイムスリップしたとする。その時に僕が現れた場所がどこであろうと、そこには元々、質量を持った何らかの物体――気体なり液体なり固体なり――が存在していた筈だけど、それらは一体どうなるのか? 分かり易く言うと、タイムスリップ先で運悪く海の中に出現してしまった場合、僕が出現したところに本来あった筈の海水は、果たしてどこに行くんだろう?


a0304335_23051639.jpg


 また歴史に材を取った小説を読んだ時など、「あの時の人類が、もう少しだけ賢明だったなら……」と、死児の齢を数える事もある。例えば、1920年代のミュンヘンに行って若きヒトラーを殺してしまえば、その後に行われる数多の蛮行を阻止することは出来るのだろうか?

 喩え話の説明に更に喩えを重ねるようで文脈的にこんがらがりそうだが、数十年前のアメリカで、接近するハリケーンの被害を軽減しようと、所謂〈 台風の目 〉の部分にドライアイスを投入したことがあるそうな。それによって、ハリケーンが上陸する前に雨を降らせて積乱雲を弱体化させることを狙ったらしいが、結果は、ハリケーンの進路が大きくブレて蛇行した為、却って被害が増したらしい。

 先の〝 歴史改変 〟でも、これと同様のことが起こらないとは言い切れまい。たとえヒトラーを殺しても、いや、ヒトラーがいなくなった世界だからこそ、ヒトラーに代わる超ウルトラ極悪人が出現するという可能性を、完全に否定することは出来ない筈だ。無論、そうなってからでは手遅れである。

 もっと卑近な例を挙げてもいい。例えばあなたが小学生だった或る日、宿題を忘れて先生に怒られたことを後悔していて、タイムマシンで戻って当時の自分に忠告し、宿題をきちんとやらせた、とする。しかし、宿題を忘れなかったが故に、あなたは放課後居残りさせられることもなく、結果、友だちと遊び耽って家の門限に間に合わず、両親から大目玉を食う羽目になるかも知れない。

 飲み過ぎて二日酔いに苦しむ朝、あなたは「ゆうべあんなに飲まなきゃ良かった」という後悔と共にタイムマシンに乗りこんで、昨夜の自分にそっと耳打ちする。「明日、二日酔いで死ぬ思いをするから、早めに切り上げろ」と。昨日のあなたはその忠告を素直に聞き入れて、1本早い電車で帰路につく。が、その電車でたまたま座れたもんだからつい寝入ってしまって乗り過ごし、結果、高いタクシー代を払って終電よりも遅い時間に漸く帰宅、という末路が待っているかも知れない。


a0304335_23064270.jpg


 要するに、過去を変えても必ずしも今より状況が良くなるとは限らないと言うか、今より良くなる保証が無いと危なくって歴史改変なんて手を出せないと思う訳だ。

 やはり時間ものの隠れた名作、畑野智美の『ふたつの星とタイムマシン』に、こんな場面がある。主人公の女の子がタイムマシンで過去に戻り、長年の後悔の種を取り除こうとする。しかし、すんでのところで或る人物にマッタをかけられる。曰く《 過去を変えたら、もっと悲惨な未来になるかもしれない。今が一番いいと思っていた方がいいです 》と(実はこの〈 或る人物 〉は既に〝 もっと悲惨な未来 〟を経験しているからこそ忠告する訳なんだが、それは続編である『タイムマシンでは、行けない明日』読んでのお楽しみ)。

 それでも、何を犠牲にしてでも変えたい過去がある。その〝 どうしても変えたい過去 〟に向って、全てをなげうって跳ぶ。そんな老若男女の懸命さに何度読んでも涙腺を刺激されるのが、梶尾真治の代表作『クロノス・ジョウンターの伝説』である。

 取り敢えず、とある企業の研究所で極秘裏にタイムマシンが開発された、という設定は珍しくも何ともない。それを使って、今は鬼籍に入っている母親や想い人、或いは親友を救おう、といった動機もありふれている。但し、ここに登場するタイムマシン〈 クロノス・ジョウンター 〉が、未完成と言うか不完全であり、それ故に過去へ跳ぶには大きな代償を伴う、という点が他の時間ものとはだいぶ違う。そして、若干ややこしい。

 過去へ跳ぶ為の大きな代償。それは、戻って来る際には〈 今 〉を通り越して、未来にまで弾き飛ばされてしまうという欠陥。その〈 未来 〉とは、〈 戻った時間 〉プラス〈 戻った時間の二乗 〉分。


a0304335_23094104.jpg


 だから例えば今から5年前に戻ったとすると〈 5+5×5 〉=〈 5+25 〉=30 という訳で、帰って来るのは西暦2049年というだいぶ先の未来で、当然ながら現在身の周りにいるあの人もこの人も自分以外はみんな等しく30年分歳をとっている訳だし、文化文明もどうなってるか分からない。最悪の場合、人類が滅亡しているかも知れない。

 そこまで大袈裟な話にはならないとしても、一人一台の電話を持ち歩き、その電話でテレビを見たりゲームをしたりお金を払ったりなどという今の世の中を、30年前の1989年当時に我々は想像し得ただろうか。当時の私がいきなり現代に跳ばされたら、そりゃもう大パニック請け合いである(笑)。誰か知り合いに助けを求めようにも、そもそも公衆電話を見つけるのが至難の業だ。

 ところでその1989年と言えば、ベルリンの壁が崩れて、当時学生だった私は「俺、今、歴史の目撃者になってる!」的な興奮と共にテレビのニュースに見入っていたのだが、仮に1989年の30年前である1959年から1989年に跳ばされた人がいたとすると、そもそもベルリンの壁が出来たのが1961年だから、その人はベルリンに壁が出来たことすら知らないのだけど、その壁が崩れたと言って世界中で大騒ぎになっていて、マジでちんぷんかんぷんに違いない。

 更に副次的な事を言えば、仮に衣食住が何とかなったとしても、運転免許証は更新しないまま30年経過してる訳だから、とっくのとうに失効してるし、お札や硬貨も変わってるかも知れなくて、勿論、過去に行って今の貨幣が使えないのは考えるまでもないけど、未来に跳ばされた場合でも、貨幣が変わってたら自販機の類は使えないのではなかろうか。今のジュースや切符の自販機で岩倉具視の500円札が使えるとは思えんもん(試したことないけど)。

 お札で思い出した。鯨統一郎『タイムスリップ森鴎外』では、現代(作品が刊行された2002年当時)にタイムスリップしてきた森鴎外が、漱石はお札になってるのに(当時の千円札)、自分はなっていない事を知って凹む、という描写があって、作者の馬鹿馬鹿しいアイデアに大笑いした記憶がある。


a0304335_23144740.jpg


 閑話休題。要するに〈 クロノス・ジョウンター 〉には致命的な欠陥がある、と。しかし、彼らは決断する。

 或る人物は、毎日の通勤途中で見かける片思いの女性を救う為。或る人物は、反目しあったまま他界した母親の素顔を確かめる為。また或る人物は、妻との時間を再び取り戻す為。大きなリスクを冒して過去へ跳ぶ。

 そして、跳んだ以上は、いつかは戻らなければならない。しかもそれは元いた世界からは遥かに先の、見も知らぬ未来の世界だ。その時には、かつて自分と結びついていた様々な絆は、殆どが消えてしまっているだろう。何しろ、周囲の人間にとっては30年間も行方知れずだったのだ。死んだと思われていても不思議はない。

 それでも、それを承知の上で、誰かを救う為に過去に跳べるか? 言い換えれば、そこまでの犠牲を払ってでも救いたいと思う誰かがいるか? この作品は読む者全てに、そう問いかけてくる。

 収録される七つの短編の主人公たちは皆、迷い無き「Yes!」の意思を、自らの行動によって示して見せる。そこが、刺さる。第一話の主人公が、引き留める同僚に向ってきっぱりと言う。《 きみにも、自分の生命より、社会的立場より、そのすべてをなげうってでも守るべき人がいるはずだ 》
これだろう、この作品の本当のテーマは。SFであり、時間ものであり、読み方によってはミステリーだったり恋愛小説だったりもするけれど、それら全てをひっくるめて、本作は〝 どんな犠牲を払ってでも守りたい人を、全力で守ろうとする名も無き勇者たち 〟の物語だろうと思う。

 蛇足ながら付け加えておきたい。読んでる間じゅう、そして読後も暫く、こんな事を考えた。

 僕ら人間が神ならぬ身である限り、後悔というものは、どんな生き方をしようとも必ず付いて回るものだろう。ならば何かを決断する時に〝 後悔しないか? 〟ではなく、〝 後悔することになったとしても、それでもやるか? 〟を、自分自身に問うべきなのかも知れない、と。だって「後悔しないか?」って訊かれたって、そんなもん、その時になんなきゃ分かる訳はないんだから。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。

a0304335_23164085.jpg


『アリータ:バトル・エンジェル』

 キャメロンはやはり映画界の革新者です! 『アバター』と『タイタニック』で世界興行収入のトップ2を独占している彼に今回もアドレナリンMAX体験させて頂きました。

 とはいえ、キャメロンは『アバター』の続編製作中で大忙し。そこで白羽の矢が立ったのは、本作でメガホンを取ったロバート・ロドリゲス。『シン・シティ』辺りが日本では有名かと思う。ロドリゲスはキャメロンと違い、これまでの映画製作はほとんど自分と自分のプロダクションでこなしてきた。彼にとってこのような大作は初だと思うので、キャメロンとの仕事はとても良い経験になったに違いない。キャメロンは既に180ページもある脚本を書いていて、それを60ページ削って作品にしたのがロドリゲス。凄い度胸! 実際、超スペクタクルな作品に仕上がっていて面白かった!

 この作品、驚くべきなのはやはり主役のアリータの造形美。パフォーマンス・キャプチャーを使って彼女を演じるのは女優のローサ・サラザール。予告編で気になっていたアリータの大きな目も、ものの数分で納得させられる。アリータはサイボーグだが、とても人間くさい。そして夢見る少女なのだ。スクリーンの中で誰よりも魅力的に存在し躍動する彼女は最高の一言! 是非、映画館で観てほしい作品だと心から思いました。

 話は変わって、今年もアカデミー賞が発表されました。作品賞は『グリーンブック』でした。この作品は、3月1日から公開されますのでよかったらどうでしょうか? 私は絶対観に行きます!



大切な人を守る話Part2――丸善津田沼店 沢田史郎

a0304335_23240456.jpg


 さて、話が脇道に逸れまくったので、残りは駆け足。

 金城一紀『フライ,ダディ,フライ』も、やはり〝 大切な人を守る 〟話だ。本来は『レヴォリューションno.3』から始まる〈 ザ・ゾンビーズ・シリーズ 〉の第2弾なんだが、読む順番には余りこだわらなくても大丈夫。まぁざっと説明しておくと、ゾンビーズというのは偏差値最低の落ちこぼれ高校で生ける屍の如き学生生活を送っていた、落ちこぼれの中の落ちこぼれグループのこと。

 だけど今回の主役は彼らじゃない。鈴木一(ハジメ)47歳、ごくごくフツーのサラリーマン。或る夏の日、彼の最愛の娘が、とある男子高校生に暴力を振るわれて病院に運ばれる。駆けつけた鈴木はしかし、まともな反省も謝罪もないまま事件をもみ消そうとする加害者側に対抗する術を持たず、はした金を寄こして去っていく彼らの背中を、ただ見送る事しか出来なかった。そんな鈴木に、娘も、妻も、そして誰よりも鈴木自身が傷つき、幻滅し、失意に沈む。

 家族が再び前を向くには、娘の仇を討つしかない! そう決意した鈴木が、出会いがしらのようにして知り合ったのが、件のゾンビーズの面々。事情を打ち明けられた彼らは、ひと夏をかけて鈴木に喧嘩の極意を伝授しようと、半ば一方的に盛り上がる。そうして始まる、鈴木一、47歳にして初めての夏……。

 って、昭和のツッパリ漫画かよ(笑)、などと侮ってはいけない。安ものの格闘ゲームの如く、ただ喧嘩ばっかりしてる話だと思ったら大間違い。本書には、友情があって、家族愛があって、不可能への挑戦があって、喜びと悲しみの共有があって、勧善懲悪があって、男子三日会わざれば刮目して待つべしがある、実に爽快で痛快な中年よ大志を抱け小説なのだ。


a0304335_23353706.jpg


 物語の序盤、まだ幼かった娘がひきつけを起こして、鈴木が慌てて医者に担ぎ込んだ時の記憶を、懐かしそうに語る場面がある。
《 あの時の俺は、これまでの人生で一番速く走ったよ。そのまま浮き上がって、空でも飛べそうな感じだった 》
結局ひきつけそのものは大したことなく、医者に診せる必要さえ無かったらしいのだが、その思い出をを鈴木は実に愛おしそうに語るのだ。
《 本当は間抜けな話なんだけど、でも、病院から家に帰るあいだ、俺は父親である自分が誇らしかった。あんなに速く走れた自分が、好きになった 》
でも、と彼は続ける。
《 いまは違う。俺はこのままじゃ、死ぬまで自分を好きになれそうもないよ 》

 さて、そろそろお分かり頂けただろうか。本書『フライ,ダディ,フライ』は、平凡なおっさんが大切な人を守る為に強敵に立ち向かう雪辱譚ではあるのだが、実はそれ以上に、矜持とプライドを守るために闘う、いや、大切な人を守る為にはまず自らの矜持とプライドをこそ取り戻さなければならないと気付いた事勿れ主義者の、一世一代の大勝負を描いた〈 精神一到何事か成らざらん小説 〉なのだ。

 因みに今作では脇役のゾンビーズたち。彼らの活躍をもっと読みたければ、前述の通り、シリーズ第一弾である『レヴォリューションno.3』を、また今作でしばしば顔を覗かせる、日本に於ける差別問題に興味を持った方には、やはり金城一紀の『GO』を、是非にとお薦めしておきたい。どちらも、読後は心を消毒して貰ったような気になるに違いない。


a0304335_23401982.jpg


 駆け足と言いながら長くなったので、以降はダッシュ。

 大切な人を守る、と言えば薬丸岳である。「えっ、そうなの?」と疑問に思う向きもあるかも知れないが、そうなのだ。

 デビューから一貫して〝 償うとは何か 〟〝 赦すとは何か 〟という問題を扱ってきた作家なので、常にその文脈での評価ばかりが目立つが、それ以上に、大切な人を全力で守ろうとする人々を描き続けてきたのが、薬丸岳という作家ではないか。

 デビュー作『天使のナイフ』では、小さな喫茶店のオーナー店長が、亡き妻の思い出を胸に、親鳥が翼を広げてヒナを守るが如く、幼い娘の未来を身を挺して守ろうとする。
 通り魔事件で愛娘を奪われた夫婦の苦悩を描く『虚無』では、復讐の鬼と化した元妻を、犯罪者にしない為に主人公が奔走する。
『神の子』では、少年院出身ながらIQ161という天才青年が、生まれて初めて得た〝 友だち 〟の為に、持てる能力を注ぎ込んで全力で彼らを守ろうとする。
 初めて心を許せるかも知れないと感じた友人が、あの事件の犯人〈 少年A 〉かも知れない……。という状況に置かれた、人付き合いが苦手な青年。アダルトビデオに出演した過去を消せずに、住処も仕事も転々としてきた薄倖の女性。そして、件の〈 元・少年A 〉。三人が出会って苦悩を重ねながらも、自分にとって本当に大切なものを見極め、それを守るために眦を上げる『友罪』

 どれも〝 償いと赦し 〟がテーマであるのは一読、紛れも無いけれど、その奥には、まるでみなもから海底を透かし見るかのようにして、〝 大切な人を、全力で大切にしようとする姿 〟が見えてくる筈だ。


a0304335_23443985.jpg


 そのスタンスがとりわけ際立っているのが、吉川英治文学新人賞を受賞した『Aではない君と』だろう。

 吉永の一人息子である翼は、14歳で中学2年生。離婚した元妻が引き取って育てている。その翼が、死体遺棄の容疑で逮捕された。被害者は、翼の同級生。警察にも弁護士にも、何も話そうとしない翼。吉永は、保護者自らが弁護士に代わり話を聞ける〈 付添人制度 〉を使って、翼の真意を探ろうとする。

 という幕開けだけでもどうにも重いストーリーであり、その後も実に薬丸岳らしく〝 償いと赦し 〟の描写が、ずっしりと読む者の胸に響き続ける。
《 物事のよし悪しとは別に、子供がどうしてそんなことをしたのかを考えるのが親だ 》
《 更生というのは、二度と罪を犯させないというだけではありませんよ 》
《 幼い頃、君はどうして子猫を拾ったんだろう。泥にまみれて死にそうだった子猫を、どうして君は拾ったんだろう(略)その猫と過ごした十年間を思い返してほしい。その猫を失ったとき、君がどんな気持ちになったのかを思い出してほしい 》

 父と子は、自分たちが犯してしまった罪について、その犠牲となった人たちの悲しみについて、そしてそれを償う術について、ひたすらに考え続ける。そして、どんなことをしても償うことが出来ない罪があるという事実を、鑿で彫り刻むようにして心に刻みつける。

 もし翼が誰かに殺されたとしたらと、吉永は息子に向って静かに語る。
《 お父さんは自分の命がなくなるまで、その人間を恨み続けるだろう 》
そういうことを、お前はしてしまったのだ、と。


a0304335_23474324.jpg


 だが、世間では重大犯罪を犯した〈 少年A 〉という扱いであっても、父親である吉永にとっては、彼は〈 A 〉ではなく〈 翼 〉という名を持った息子である。世界中が敵に回ったとしても、自分だけは〈 Aではない君と 〉共に生きる。そんな決意を静かに告げる。

《 お父さんが人生の最後に考えるのは、翼のことだ 》

これこそが、薬丸岳の真骨頂だろう。そしてこれこそが、本作のタイトルが『Aではない君に』ではなく、『君へ』でもなく、『君と』である所以だろう。

 自分の子供が重大犯罪を犯してしまったら、親には何が出来るのか。どうすれば、子供に罪の重さを実感させることが出来るのか。どうすれば、反省したことになり、どうすれば償ったと言えるのか。そんな重い主題で貫かれた『Aではない君と』という作品は、同時に、全てを犠牲にしてでも子供を守り抜こうとする親の愛情の物語でもあり、薬丸岳の現時点での代表作と言って間違いない。

 昨今見聞きする、血も涙も無い虐待事件の加害者たちには、吉永の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいもんだ。






新刊案内

a0304335_00005040.jpg



a0304335_00011181.jpg



編集後記

a0304335_00040951.jpg



3月のイベントガイド

a0304335_00043622.jpg







# by dokusho-biyori | 2019-03-11 00:06 | バックナンバー | Comments(0)