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ごあいさつ

丸善津田沼店の有志スタッフが発行しているフリーペーパー『読書日和』のブログです。『読書日和』は2011年10月創刊以来、毎月25日を目途に発刊、店頭でお配りしています。尤も、目標通り25日に出た試しは殆どなく、大抵は28日とか29日辺りにずれ込みます。

あくまでもサークル的な活動であって、必ずしも丸善の公式発表・見解を表すものではありません。オフィシャルな発表に関しては丸善ジュンク堂書店のホームページ等をご覧下さいませ。

頂いた質問やご意見などについては可能な限り返信致しますが、全てに対応することはお約束出来かねます。

以上、あらかじめご了承ください。

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# by dokusho-biyori | 2019-12-31 20:29 | ごあいさつ | Comments(0)

19年08月




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フツーの暮らし、その貴重さと困難さ――丸善津田沼店 沢田史郎


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 今から30年ぐらい前、自分の可能性を無邪気無根拠無制限に信じていた頃、顔に疲れを滲ませて電車で眠りこけるサラリーマンを見て、一体、何が楽しくて生きているんだろう? と疑問で疑問でしょうがなかった。朝起きて満員電車に詰め込まれて会社に行って、疲れ果てて帰宅したら飯食って風呂入って寝るだけ。そんな山も谷も無い単調な生き方は、俺は絶対御免だぞ。そう固く心に誓っていた。

 勿論、今の僕に言わせれば、そういう一丁前のことは自分で稼げるようになってから言え、な訳である。かの森鴎外は《 一々のことばを秤の皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、我々青年の特権だね 》なんて言ったようだが(『青年』岩波文庫ほか)、生きていく事の厳しさも難しさも怖さも危うさも知らねー癖に笑わせんなよ、と思う訳だ。山も谷も無く平穏無事に暮らしていくという事は、20歳になるかならないかの青二才が考える程には、簡単でもないし当たり前でもないのである。

 いきなり何を言い出すのかと訝しまれるかも知れないが、『たそがれ清兵衛』である。

 いや、先月号で紹介した新潮文庫ではなく、山田洋次が監督して、真田広之と宮沢りえが主演した松竹映画の方である。読書日和で紹介するのに藤沢周平を何冊か読み返して、「やっぱりいいなぁ」と感動を新たにしたその勢いで、映画の方も十数年ぶりに観たら心が震えまくって、2日連続で3回も観てしまった。

『たそがれ清兵衛』というタイトルではあるけれど、映画の方は新潮文庫の『たそがれ清兵衛』に収録されている「祝い人助八(ほいとすけはち)」がベースである。そこに「たそがれ清兵衛」と「竹光始末」(新潮文庫『竹光始末』所収)を織り込んだストーリーになっており、そういう点では藤沢周平原作と言うよりも〝 原案 〟と言った方が良さそうだが、その3作のブレンド具合が絶妙で、好きな作品の映像化にはどちらかと言うと否定的な僕も、この作品だけは断固推す。

 といったところで前置きはおしまいにして、作品の紹介に入りたい。


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 時は幕末。舞台は今で言う山形県庄内地方にあったとされる架空の藩、7万石の海坂藩。主人公の井口清兵衛は禄高僅かに50石と言うから、武士は武士でもかなり下っ端の貧乏侍。その上、労咳(結核)で長患いしていた女房の医者代と薬代で借金が嵩み、台所は火の車。

 その女房が亡くなった後は、2人の幼い娘と呆けが進みつつある老母を抱え、城勤めが終わると炊事洗濯、内職の虫かご作り、非番の日には庭に作った畑の手入れと休む間もなく働いて、何とか糊口を凌いでいる具合。身だしなみに構う余裕も無くて、身に着けているのは常に、垢じみた羽織と折り目も定かではない袴。月代(さかやき=ちょんまげ頭のてっぺん、髪の毛を剃った部分)には、剃り残した毛が雑草のように不揃いに伸び始めている。当然、酒席になんぞ付き合うヒマも金も無く、たそがれ時になるや否や家路を急ぐ姿から、同僚からは〝 たそがれ清兵衛 〟などとあだ名されて軽んじられている。

 といった人物設定は、小説「たそがれ清兵衛」と「祝い人助八」のミックスだ。因みに〝 祝い人 〟とは、庄内地方の方言で物乞いのこと。つまりは、物乞いの如く汚らしい身なりの助八、という意味。


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 映画では、清兵衛がカツカツの暮らしの中で、例えば早春の河原で娘たちと蕗のとうを摘み、夜は遅くまで囲炉裏端で内職に励むといった、まさしく山も谷も無い毎日を送る様子が、派手な演出も無く静かに綴られてゆく。その様子には役所の同僚、上司はおろか観ている我々でさえも、「清兵衛は一体何が楽しくて生きているんだろう?」と、憐憫とも同情ともつかない沈んだ気持ちにさせられる。

 が、清兵衛自身は、どうやら自分の暮らしにそれほど不満を感じていた訳ではなさそうなのだ。

 或る時、清兵衛の不甲斐ない暮らしぶりに業を煮やした本家の伯父が、彼の再婚話を強引に進めようとする場面がある。しかし清兵衛は彼にしては珍しく、言葉を濁したりせずはっきり「否や」を口にする。

《 おんさま(伯父さま)、お言葉返しますども、私はこの暮らしを、おんさまが考えておられる程みじめっては、思っておりましね 》

《 二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、何て言うか、例えば畑の作物や草花の成長を眺めるのにも似て、実に楽しいものでがんす 》

 恐らくこれが、この映画で最も重要なセリフの1つだろう。

 井口清兵衛は、確かに恵まれてはいない。内職の手間賃を上げてくれるように、商人にまで頭を下げるほど困窮している。その上、出世の見込みも無く、名声や称賛とも無縁である。


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 だが彼は、恵まれてはいなくとも、満ち足りてはいたのではないか。時には米櫃の底が見えるほど貧しい暮らしの中で、長女が論語の素読をする様子に頬を緩め、花を咲かせた庭のツツジに眼を細める。そういった陳腐で凡庸な暮らしを、清兵衛は何物にも代えがたいと感じていたのではないか。

 そんな井口家の暮らしに彩りを添える存在が、不意に現れる。清兵衛の幼馴染であり、今も変わらぬ友情で結ばれている飯沼倫之丞の妹、朋江である。数年前に嫁入りしたものの事情あって離縁となり、飯沼家に戻っていた彼女の、ちょっとした危難を清兵衛が救ったことから2人は静かに距離を縮めていく。清兵衛の娘たちも朋江によく懐き、辛気臭かった井口の家は梅雨が明けたかのように一気に明るくなるのだが……。

 取り敢えず、この朋江役の宮沢りえがいやはや綺麗だ。昔、まだ10代の頃に初めて『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンを観た時に、「こんな美しい人がこの世にいるのか!?」と度肝を抜かれたが、『たそがれ清兵衛』の宮沢りえも、ヘップバーンに引けを取らない美しさ。日本髪もよく似合う。

 その朋江は、映画の中で2度ほど涙を流すのだけれども、その2回のどちらもが、この映画にとって絶対に無くてはならない大事なシーン。1度目は、呆けてしまった清兵衛の母親に《 あんたはんは、どちらのお嬢さんでがんしたかの? 》と訊かれた直後。

《 はい、わたくしは、清兵衛さんの幼馴染の朋江でがんす 》

と答えるのだけれども、セリフの語尾には、抑えようとしても抑えきれない嗚咽が重なってゆく。この時、どうして彼女が泣いたのか、それを書いてしまっては野暮の誹りを免れないので1つだけ。朋江は、〝 幼馴染 〟以外の答えを本当は言いたかったに違いなく、それまでの清兵衛と朋江の心の交流を見てきた我々は、「神様、そりゃあんまりだろう」と、彼らの非情な運命に切歯扼腕せずにはいられない。

 そして2度目の落涙はラストのちょい手前。何を憚ることもなく号泣する朋江の心の内には様々な感情が渦を巻いている筈で、それを一言で言い表す事は出来ないが、諦めていたフツーの暮らしが戻ってきたという安堵も、少なからず混ざっている違いない。


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 そんな訳で、恐らく清兵衛も朋江も、大それた贅沢など決して望んではいないのだ。フツーに寝起きして、フツーに働いて、フツーに家族の世話をする。そういった当たり前の暮らしを続けることの貴重さも困難さも、2人は体験的に知っているのだ。

 そう、若い頃の僕が忌み嫌った山も谷も無い単調な人生。その大切さをこの映画は、声高にではなく、静かに気付かせようとしてくれているのではないか。

 その意味では、エンドロールで流れる井上陽水の『決められたリズム』も、意味深な選曲だと思う。

《 ♪ 起こされたこと 着せられたこと 凍えつく冬の白いシャツ 急かされたこと つまづいたこと 決められた朝の長い道 》

 初見の時には「なんでこの曲?」とかなりの違和感を覚えたのだが、今回〝 フツーの暮らし 〟をキーワードにして観てみると、学校での日常を淡々と歌う歌詞が「そういうありふれた毎日にこそ、大切なものはあるんだよ」とでも言っているようで、これはこれで映画に寄り添っているように思えるのだがどうだろう?

 蛇足の蛇足になるけれど、映画と陽水と言えば『少年時代』にも触れない訳にはいかないだろう。原作:藤子不二雄Ⓐ、監督:篠田正浩、脚本:山田太一。戦時中の藤子不二雄Ⓐの疎開暮しの経験を描いた、あの地味で素敵な感動作のラストのラスト、ここ以外に無いという絶妙のタイミングで、陽水の『少年時代』が流れ出した瞬間に、それまで堪えていた涙腺が一気に決壊したのは、賭けてもいい、決して僕だけではない筈だ。


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 閑話休題。映画『たそがれ清兵衛』に話を戻す。時代劇だから当然ながら、当時の武家言葉だけでなく、庄内地方の方言も頻出する。時には意味が解らないセリフもあるだろう。だが、そんな事は些事である。気にせずに、役者たちの声音と表情に集中して欲しい。時代ものの初心者だろうが、恋愛ものが苦手だろうが、きっと胸に溢れてくるものがある筈だ。その後は是非、原作の小説にも手を伸ばして欲しいと思うのだ。

 さて実は今月は〝 フツーの暮らし 〟の大切さをテーマに本を紹介しようと思っていて、映画の紹介はその前振りのつもりだったのだが、思いがけずに力が入り過ぎて予定の字数を相当にオーバーしているのでここからは駆け足。

 髙田郁と言うと時代小説のイメージが強いが、『ふるさと銀河線』は現代を舞台にした短編集。

 9つの短編には、リストラで失業したことを家族に打ち明けられず、内房線と外房線を乗り継いで、出勤から帰宅までの時間稼ぎをするサラリーマンがいる。故郷を捨てて都会に出ることに罪悪感を抱く受験生がいる。「客は味など期待していない」と孫にバカにされながら、駅の立ち食い蕎麦屋を切り盛りする男性がいる。

 登場する老若男女は誰もが皆、人生の交差点で迷ったり臆したりしながら〝 フツーの暮らし 〟を取り戻そうと四苦八苦する。

 例えば、アルコール依存症を克服しようと、懸命の努力を続ける女性がいる。仮に1年間の断酒に成功しようとも、僅か1口の酒で全てが水泡に帰してしまう病気。自らの健康だけでなく、周りの人々の心をも傷つけてしまうその病気との闘いを、彼女はこんな風に述懐する。

《 明日は飲んでしまうかも知れない。けれど今日は飲まない。そんな「今日」を積み重ねて行こうと思うのです 》

 彼女が言う〈 そんな今日 〉こそが、『たそがれ清兵衛』の清兵衛や朋江が渇望した〝 フツーの暮らし 〟のありふれた幸せなのではなかろうか。そして〈 そんな今日 〉を維持する事の困難さと尊さを9編全てに於いて、じんわりと胸に沁み込ませていくという点で、この短編集を、髙田郁の代表作の1つに挙げたいと思う。


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 この流れで薬丸岳の名前を出すと意外に思われるかも知れないが、デビュー作『天使のナイフ』の檜山が幼い娘との平凡な日常を必死に守ろうとしたように、実は彼の作品には、〝 フツーの暮らし 〟を続けることの有り難さに気付かせてくれるものが非常に多い。そんな中で今回は『友罪』を紹介してみたい。

 小さな町工場に住み込みで就職した益田純一。同僚の鈴木秀人は無愛想でとっつきにくく、職場では浮いている存在だが、益田とは入社日が同じだったこともあり、少しずつ言葉を交わすようになっていく。その鈴木は或る時、工場の事務員の藤沢美代子を助けたことから親しくなっていくのだが、同じ頃、益田は、鈴木に対してある疑念を抱くようになる。鈴木は、14年前に世間を震撼させた少年事件の犯人なのではないか……。

 といった幕開けの本書は、薬丸岳らしく〝 罪と償い 〟がテーマなのだが、同時に〝 フツーの暮らし 〟を手に入れたくても手に入れられない三人の男女の、諦めと再出発の物語でもある。と言うのも、実は鈴木だけでなく、益田も美代子もそれぞれに消したくても消せない過去を引きずっており、その為に、世間から隠れるような生活をしながら、ありきたりの幸せすら諦めている。

 それを自業自得と切り捨てる事は簡単だろう。だが、1度でも道を間違えたら、〝 フツーの暮らし 〟を送る資格は無いのだろうか? 1度も間違いを犯した事がない人間など、果たしてこの世にいるのだろうか? 僕らは皆、何度も間違いながら、色んな人を傷つけながら生きているのではないか?


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 勿論、取り返しのつかない間違い、というものはある。だが自分が過去に犯した間違いは〝 取り返しがつく 〟と、誰が保証出来るだろう? かつて自分が傷つけた誰かの傷口は未だに塞がっていないのに、自分が知らないだけかも知れないではないか。だとしたら、〝 フツーの暮らし 〟を諦めた益田たちだけが自業自得だとは、果たして言い切れるのだろうか?

 薬丸岳には『誓約』という作品もある。今は幻冬舎文庫になっているが、単行本発売時の帯の惹句は《 一度、罪を犯した人間は、幸せになってはいけませんか 》というものだった。無論、被害者側の視点に立てば、冗談じゃないと言うところだろう。人の幸せをぶっ壊しといて何言ってんだ、と。

 だが、『友罪』の益田は、鈴木に言う。

《 そして、被害者のご遺族や世間の人々からの批判を承知で言うなら、きみのこれからの人生の中でときには楽しいことや、うれしいことがあってほしいと思っている。/きみが生き続けていくことが、さまざまな人と出会い、いろいろな経験をすることが、自分が奪ってしまったかけがえのない大切なものを知ることになると思うから 》

 そんな訳で『友罪』は、罪と償いの問題を掘り下げた社会派小説であると同時に、〝 フツーの暮らし 〟が如何に簡単に壊れるか、そして一度壊れてしまったそれを取り戻すのが如何に難しいかを、鑿で刻み込むような筆致で描いた作品であると結論したい。

 そして〝 フツーの暮らし 〟を叩き壊す最たるものと言えば、戦争だろう。その話になると僕は、帚木蓬生の『ヒトラーの防具』を挙げずにはいられない。

 東西ドイツの統一成った直後、旧東ベルリンのどこだかの建物から《 贈 ヒトラー閣下 大日本聯合青年団 皇紀二千五百九拾八年四月 》と記された、剣道の防具が発見された……という冒頭はどうやら事実らしく、ただ、何でそんな物がそこに在ったの? ってのは謎のまま。そこを、帚木蓬生が、恐らくは相当な取材と想像力で補って、〝 あったかも知れない第二次大戦史 〟を、熱く激しく物語化した大作。


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 舞台は風雲急を告げる1938年のヨーロッパ。主人公の香田青年はベルリンの武官事務所に勤める陸軍中尉。赴任した当初はガチガチのヒトラー信奉者で、謁見して言葉を交わした時の事を《 立っているだけで、すっと惹き寄せられていくようでした 》などと述懐する(当時、生粋の軍人、特に陸軍の若手の中では、こういった思想傾向は珍しくなかったらしい)。

 しかし、次第に戦時色が濃くなるベルリンで半年、1年と暮らす内に、香田は、ヒトラーとナチスの政策に疑問を覚えるようになる。

 きっかけは、精神科医としてミュンヘンの病院に勤める兄だった。彼を訪れて久し振りの兄弟再会を祝した直後、香田は今、全ドイツの病院で行われようとしている計画を聞かされて愕然とする。遺伝病や精神病の患者を安楽死させ、病院を閉鎖し、その分の予算を軍需に回す。従わない医師は反逆者として逮捕する……。処分される病人の家族から文句は出ないのか? と問う香田に、兄は答える。

《 こんな風に社会全体が考えるようになったら、家族だってそう大きな声で反対を唱えようがないのだ 》

 そして1938年11月9日の〈 水晶の夜 〉が訪れる。軍人や警察だけでなく、多くの民間人が、ユダヤ人の商店を襲いシナゴーグを焼き、罪も無いユダヤ人たちが理由も告げられずに逮捕される。

 この暴動を皮切りに、悪名高きホロコーストが吹き荒れることになるのだが、そんな時に香田は、ものの弾みのようにして、1人のユダヤ人を保護してしまう。勿論見つかれば、ヒルデというその女性もろとも、香田の命も無い筈だ。すぐにゲシュタポなり何なりに突き出せば、香田自身は事無きを得るだろう。が、そうするには既に彼の中で、ナチスに対する不信は際限も無く膨れ上がっており、命がけで彼女を匿う決心をする。


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 その後は僕らが歴史で習った通り、敗色が濃くなるドイツ国内で、国民の窮乏や爆撃の凄惨さ、そしてユダヤ人狩りの苛烈さが増してゆく訳で、その中で懸命に生き延びようとする香田とヒルデの絆が強いだけに、「戦争など無ければ、2人は平凡に結婚して、子どもを産んで、晴れた日には公園に散歩に出かけ、給料日にはちょっと高めのワインで乾杯して、時には隣人のオーボエ奏者・ルントシュテット氏にコンサートに招かれたりして、〝 フツーの暮らし 〟を謳歌したに違いないのに……」と、何の罪もないのにどんどん追いつめられてゆく2人が悲しくて可哀そうで、とてもじゃないが冷静には読み進められない。

 当たり前の事だけど、ほんと戦争ってろくでもないと思う。一説によると、有史以降、全地球上に一切の戦争が無かった日は10日に満たないのだという。戦争なんて、皆の〝 フツーの暮らし 〟を叩き壊すだけなのに、なぜ無くならないのか?

 物語の中に、香田のこんなセリフが出てくる。

《 戦争をする人間の底にあるのは偏見と差別です。自分たちの民族と集団が他のそれよりも優れていると思うところに、戦争の芽が生じます。そして戦争になれば、その芽がぐんぐん伸び、青空を覆いつくすまでにはびこってしまうのです 》

 個人レベルでも国家間の次元でも、ギスギスした雰囲気が日ごとに増して、独善と不寛容がじわじわと世界を覆い始めているように感じる昨今、この『ヒトラーの防具』がもっともっと読まれたらいいのにと、切に願う。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。


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 新海誠ここにあり! 夏に青春感じないでいつ感じるの? 今でしょ! 迷いがないボーイミーツガール作品でした!

『君の名は。』を大ヒットさせた新海監督のプレッシャーは凄いものだったと思う(汗)。普通なら逃げたくなる。しかし、今作逃げてません! 豪速球の作品です。豪速球ながらも繊細で、新宿を始めとする東京の作画、空・雨の描写、キャラ造形、音響・曲のタイミング、物の使い方全てが素晴らしかった。雨の描写は過去作『言の葉の庭』でも素晴らしかったが、今作は気象監修に雲研究者の荒木健太郎さんが入った事で更に説得力が増している。

 説得力という点では、新宿歌舞伎町の作画がリアル。少し綺麗過ぎた感じもするが、とにかくリアルで細かい。作画の再現度が高いからこそ、ファンタジーの説得力も増している。青春ド真ん中のキャラ造形も抜かりがない。主人公の男の子が、無計画で新宿に来てもがく様子なんか特に堪らない! 更に持ち物の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の本。嫌でも深読みしちゃいます(笑)。

 そして、前作でも効果絶大だった音楽にはRADWIMPS。今作も最高の効果をもたらしてくれています。個人的には今作の方が作品に寄り添っている気がした。特に、最高のシーンで流れる『グランドエスケープ』という曲は涙腺が崩壊すると思いました(笑)。この曲、ボーカルとして三浦透子さんという方を起用しているのだが、これが正にどハマリ! 野田洋次郎さんの世界観を見事に体現して、素晴らしい化学反応を起こしている。

 個人的には『君の名は。』より好きだし、今年最高のアニメーション作品だと思っているのだが、ネットのレビューなどを見ると批判的な感想もチラホラ。それも分かる。なぜならこの作品、特大ホームランしか狙っていないからです! 多くのクリエイターが振りたくない球を新海監督は『待ってました!』と言わんばかりに振り抜いている。なので、観た感想が三振の人の意見も理解出来る。只、私のように刺さる人はきっといる! と思いたい。

 今月は、もう1本アニメーション作品で刺さった作品がある。『トイ・ストーリー4』である。驚きのストーリーでした。前作で綺麗に完結したのに『また!?』と思いました。が、すみません……ダントツで面白かった! 内容も子ども向きというより、大人向きだと思う。なぜなら、自分の引き際どうする? みたいな内容だからです。ウッディの決断とバズのセリフに、40代くらいの人たちはジーンとすること間違いなし!




《 太陽の光の七つの色。それはいつもは見えないけれど、たった一筋の水の流れによってその姿を現す。光はもともとあったのに、その色は隠れていたのだ

 カンカン照りの夏の庭。ホースで水を撒いたら現れた虹。ホースの角度をちょっと変えるだけで、虹は見えたり見えなくなったりする。その様子を見て、小学六年生の主人公は静かに考える。《 たぶん、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう 》と。美しいものにしろ、そうではないものにしろ、〝 今見えているものが全てではない 〟と知っておくのは、多分とっても大事な事。



編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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8月のイベントガイド

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# by dokusho-biyori | 2019-08-04 21:14 | バックナンバー | Comments(0)

19年07月



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夏休みの読書にむけて――文藝春秋営業部 川本悟士
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 7月というと、あと少しで夏休みという学生さんも多い時期でしょうか。梅雨もあけると空はモクモクとした入道雲であふれ、鮮やかな青空に思わず目を細めてしまうような季節。私自身はインドア派ですが、一方でその鮮やかなスカイブルーも好きだったので、学生時代は晴れた夏の日に友だちとどこかに行くとなると、それだけでちょっと楽しくなってしまう気持ちもわかります。

 そんな外に出たくて仕方がない時期に、まるで外に出ることを阻むように出ることが多いのが、読書感想文でしょうか(笑)。

 読書感想文。本の内容を半分まとめながら、自分の意見や立場を書く……大まかな構成は色々と言われますが、最大公約数をとるとこんな感じになるように思います。他人の話をまとめながら自分なりのメモを残すという作業は学生を終えても使われる能力ですが、読書感想文という作業となると、まとまった文量があるだけにそれよりも手間のかかる作業のような気がしますね。

 それだけに苦手というか、読書自体から距離をおいてしまいがちなときもあるのですが、今回はそんなときに「それでもまあ、本でも読んでみるか」と思えるような言葉から取り上げてみたいと思います。

 ショウペンハウエルという人の書いた本に『読書について』というそのものズバリのものがありますが、そこでの有名なフレーズに、読書とは他人にものを考えてもらうことである、というものがあります。他人がどんなものの考え方をしているのか、その人の視点からだと世の中はどんなふうに見えているのか。そういうものを得ることができ、その本に出会うまでとは違う自分になってしまう体験が、読書なのかもしれません。


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 私がそれを実感したのは、スポーツを取り上げた本でした。私はスポーツが単純に好きです。勝敗を楽しみ、チャンスになれば盛り上がり、得点が決まるとテンションが上ります。一方で、見方は人それぞれなわけで、何かしらの本をきっかけに、それまで見えなかった、ゲーム全体の景色が見えてくることもあります。

 たとえば、サッカーや野球を例にしてみましょう。

 突然ですが、サッカーのゲームとしての特徴は何だと思いますか? 私が中学生の頃に読んだ体育の教科書では、テニスのようなネットを挟んでやるネット系の球技、サッカーのようなゴールを目指したゴール系の球技、野球のような塁を進めていく球技と、大まかに3種類にわけて球技を紹介していました。

『砕かれたハリルホジッチ・プラン』によれば、この2つ目の、サッカーやバスケットのようなゴール型ボールゲームの特徴は、敵陣・自陣にそれぞれゴールが存在し、攻守の切り替えが行われながら得点を目指すスポーツ、とまとめられるといいます。同じようなスポーツにはバスケットやラグビーなんかがありますね。

 そのなかでもグラウンドの広さ・プレイヤーの人数を比べてみると、サッカーはとりわけ人数に対してカバーしなければならない範囲が広く、脚を使って一気にボールを移動させることが際立っています。それゆえに、サッカーの試合ではしばしば、その広いスペースをどうやって守り、そして攻めていくのか、というのが問題になる、と本は語ります。

 同じように、野球というスポーツの特徴は何でしょうか。 『セイバーメトリクスの落とし穴』では、野球を考える原点として、3アウトになるまでに塁を進むと得点できるイニングを9回繰り返す、すごろくやボードゲームの要素が強い競技、というものをおいています。できるだけアウトにならないようにしながら、できるだけランナーを1つでも次の塁に進めていくゲーム。


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 団体競技だけど個人競技でもある、という言葉でも表現されるスポーツですが、ストライクを投げ、打てる球を打ち、できるだけ再現性を高めてプレーを重ねながら、一方でその時々で出てくる色んな状況に対応して、アウトにならないように塁を狙っていくスポーツ、とまとめられるのかもしれません。

 本を読んでこんな見方に触れて以降、サッカーやバスケットを見るときにもボールをもった選手だけでなく全体のスペースの空き具合が気になるようになりましたし、野球を見ていても強いチームは色んな形でそつなくランナーを進めていることに目がいくようになりました。

「他人の頭で考える」ではありませんが、自分とは違う視点を持った人たちの本を読むことで見え方が変わった経験です。

 その意味で、読書はそれまでの自分とは違う自分になってしまう可能性のある作業です。それが必ずしもいいことかはわかりませんが、何かのときには頼ってみる価値のあるものだと、個人的には思います。

 私はいまでもこの言葉をどこか信じていて、先日子どもを生んだ友人が陣痛からのことを詳細に覚えているのをみて、男性にはわからないことだけに、それだけ自分の身体のことをよく覚えているものだろうか、と、本棚から出産・産後を綴ったエッセイ『きみは赤ちゃん』を手にとって読んでしまいました。本ってきっと、そんな関わり方でもいいんだと思います。

 別に、本は腰を据えて読まなくて構いません。もちろんどかっと気合を入れて読んで……という時間もあっていいですし、辞書のように必要なところだけ調べるように「ひく」という作業もできるにこしたことはありません。本との付き合い方は色々あってしかるべきだと思います。

 そうやって肩肘をはらずに見回せば、そのときにピンとくる本がきっとどこかに埋もれています。私にとって本屋さんは、そういうところです。



残る言葉、沁みるセリフ


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《 でもね、おじいさん。その時刻表がないと、バスがどれぐらい遅れているか分かりませんよ 》


 時刻通りに来ないバスに「こんな時刻表ならあっても無駄だ」と癇癪をおこすおじいさん。その連れ合いの老婦人が、のんびりと諭して言ったのが上記の言葉。こういう大らかな考え方をした方が、イライラと不満をぶつけるよりも、遥かに益になるんじゃないでしょうか。自分にとっても周りにとっても。





 カンヌ国際映画祭で賛否両論納得! 狂っているが魅力的な作品でした!

 とにかく残忍な殺人描写が続くので苦手な人にはオススメ出来ません。R18+なのも納得(汗)。主人公のジャックは強迫性障害のシリアルキラー。強迫性障害を身近な例で説明すると、家を出る際に鍵を締めて外出すると思いますが、少し時間が立って「あれ? 鍵締めたっけ?」と思うアレです。その症状を酷くしたのがこの主人公です。

 ジャックは建築家になる夢を持つ技師。納得のいく家を建てるため構想を考える最中、ある女性と出会い殺人鬼のスイッチが入ってしまいます。アートを創作するかのように殺人に没頭するジャック。5つのエピソードが語られるが、2つ目のエピソードがジャックの性格を上手く表現していて面白かった。

 あるおばさんの家を訪問し、警察ですとウソをつく。おばさんは怪しいと思い、警察手帳を見せてと言う。焦ったジャック、本当は保険屋ですとウソを上塗りする。すると、たまたま未亡人だったおばさんが興味を持ち、家に上げてしまう……。

 このシーン、見事にジャックの欲が理性を越えてしまっていて醜い。しかし運が良い事に家に上がることに成功し殺人を犯す。綺麗に血を拭き取り、死体を車に運び終えたその時、強迫性障害に悩まされます。家に戻り血痕がないか、チェックを3回程繰り返します。

 そうこうしていると、本物の警官が来て事情聴取されます。完全アウトだなぁと観ていると、運良くその場を免れます。とにかく運が良いこのエピソードは、ジャックの方向性を決める事になります。

 この作品、褒められたもんじゃないが、人生において運は付きものだなと感じさせてくれる。それだけで観た価値がある作品だなと思いました。哲学的な考えやセリフも面白かった!

 話は変わって、今年も上半期が終わりましたので、個人的ベストテンをどうぞ!

①THE GUILTY/ギルティ
②僕たちは希望という名の列車に乗った
③バーニング 劇場版
④ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
⑤グリーンブック
⑥岬の兄妹
⑦ハウス・ジャック・ビルト
⑧デイ アンド ナイト
⑨ある少年の告白
⑩天国でまた会おう

『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、あえて外しました。特別な作品です。



とにもかくにも藤沢周平――丸善津田沼店 沢田史郎

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 藤沢周平を初めて読んだのは、もう25、6年も前になる。新潮文庫の『竹光始末』。それまで時代小説など殆ど読んだ事がなかったのに、何がきっかけで手に取ったのか、今となっては忘れてしまった。ただ、文庫の表四(裏表紙)に《 世の片隅で生きる男たちの意地と度胸を、ユーモラスに、陰翳豊かに描く 》とあって、それに惹かれたのは覚えている。

 で、読んでみたら、まぁハマった。《 ユーモラス 》と言う割に暗い話も多かったが、ろくな予備知識も無かった僕があれだけ一気にのめり込んだのだから、多分、未経験者が尻ごみする程には、藤沢周平のハードルは高くない。いやむしろ、中途半端に近い昔を描いた現代小説よりも、江戸時代を舞台にしたものの方が、感情移入しやすいのではないか。

 と言うのも、ほんの30年ぐらい前までは、少なくとも僕ら平凡な一般庶民には、ケータイ電話もインターネットも全く無縁であった。にもかかわらず、その他の文化文明は今とそれほど変わらないから、当時を描いた小説を今の若い人たちが読んだ場合〝 世相風俗は今っぽいのにスマホもメールもLINEも無い 〟という状況を、想像しにくかったりしないだろうか。

 ならばいっそ、もっともっと大昔、車も電車も飛行機も無く、日本橋から京都の三条大橋まで2週間近くもかけて歩いていた時代の方が、全く体験したことが無いからこそ、文章が頭に沁み込みやすいような気がする。

 とまぁそんな訳で、藤沢周平である。

 時代小説初心者でも楽しめる作品は、短編にも長編にもあるのだが、最初は短編集の方が敷居が低いかと思う。となればやっぱり『竹光始末』がいいだろう。


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 表題作は、食うに困って刀まで売り払ってしまった武士の話。何故そんなにお金に困っているかと言うと、長い間、妻子ともども諸国を流浪しているから。何故、流浪しているかと言うと、仕える主がいないからで、何故いないかと言うと、例えば戦国時代ならば戦に負けて滅ぼされたり、或いは泰平の世であっても、何らかの理由で幕府の不興を買って取り潰しになったりして、仕えていた主家が瓦解することはしばしばあったようである。勿論、自分自身が何かやらかして馘になるケースもあったろう。

〈 浪人 〉と呼ばれたそのテの輩を、秀吉亡き後の豊臣勢が大量に大阪城に集めて対家康戦に備えたのは有名な話だし、殿様が切腹させられてお家断絶となった播州赤穂は浅野家の家臣たち、世に言う赤穂浪士は〈 浪人 〉の代表格だ。また、幕末に藩の束縛を嫌って脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎は、自ら望んで〈 浪人 〉になった物好き(?)な例。

 因みに、受験浪人や就職浪人という言葉の語源はこれ。今はどこにも籍は無く、でも所属出来る組織(=学校とか会社)を探している人たちを、いつの頃からかマスコミがそう呼んだのが始まり。

 閑話休題。つまりは本作の主人公・小黒丹十郎も仕えるべき主を失って、即ち今で言う失業状態で、自分を雇って扶持(=給料)をくれる殿様と巡り合うため、妻子ともども旅を続けてきた、という訳である。

 で、舞台となる〈 海坂藩 〉に辿り着いたところ、殿様に無礼を働いて家に立てこもっている不届き者を討ち取れば、褒美がわりに雇って貰えるとの約束を得た。チャンス到来! 剣の腕には少々覚えがある丹十郎である。首尾よくし遂げれば、時には日雇いの土木工事までやって食いつないできた5年間の苦労が報われる。

 ……だがしかし。最初に述べたように、丹十郎は、食うに困って刀を売ってしまっている。今、腰に差してあるのは、外見は立派でも鞘の中身は竹製のおもちゃである。無論、人どころか大根だって斬れやしない。さてどうする、丹十郎?

 といったストーリーは、正味40ページ程の短い話で入り組んだ背景も無いから、時代小説の入門書にはもってこいではないかと思う。


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 本書にはその他、気の強い妻の尻に敷かれているものの、剣の腕前は藩でも指折りという平藩士が、藩命で逃亡者を追う「恐妻の剣」や、博打が元で人生の危機に陥った若い職人が、ふとした出会いをきっかけに立ち直りの一歩を踏み出す「冬の終わりに」など、6編が収められている。

 それらは武士を主人公にした〈 武家もの 〉もあり、町人を描いた〈 市井もの 〉もあり、ハッピーエンドもあり、哀れな結末もありとバラエティに富んでいて、初読ならばまず結末の予想はつかないだろうから、飽きずにぐいぐい読み進められる筈で、その点でもやはり時代小説の入口に丁度いい。

 さて、『竹光始末』で初めて藤沢文学を味わった方々、感想は如何だろう? もし面白かったと思って貰えたなら、次に勧めたい作品は、好みによって幾つかに分かれる。

 まず〈 武家もの 〉が面白いと思った方には、是非とも『たそがれ清兵衛』を紹介したい。

 病身の妻の世話に忙殺され、仕事が終わるや否や毎日そそくさと帰宅する。居残り仕事はやらないし、酒の誘いも一切お断りという井口清兵衛が主人公。今で言う五時まで男の典型で、いつしか〝 たそがれ 〟などと陰で噂され、皆に軽んじられている。

 ところが実は清兵衛は、今でこそパッとしない暮らしぶりで皆の記憶からはこぼれ落ちてしまっているものの、青春時代には血の滲むような剣術修行を積んでおり、並ぶ者の無い腕前を誇っていた。

 そして、ある年の春。藩の危難に直面した重役たちが、清兵衛の剣名をはたと思い出す。「そうだ、清兵衛の腕なら抜かりなくやりおおせるのではあるまいか」という訳で、たそがれ清兵衛、一世一代の大勝負。藩の浮沈を左右する重要な役どころが回って来る。その帰趨や如何に……。


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 という「たそがれ清兵衛」を筆頭に、「うらなり与右衛門」「日和見与次郎」など、日頃の立ち居振る舞いや身なり風采から不名誉なあだ名を付けられた下級武士が、人知れずマスターしていた武芸の腕で、汚名返上を果たす全8編。読後感はどれもすっきりと爽快で、時代小説の楽しさを存分に味わえる一冊だ。

 そして、町人や農民を主人公にした〈 市井もの 〉の方が好みだという方には、何を措いても『橋ものがたり』を勧めたい。

 江戸は川と運河の町である。だから、そこかしこに橋がある。東海道の起点である日本橋を始めとして、江戸橋、水道橋、永代橋に吾妻橋、鍛冶橋、浅草橋、汐留橋に呉服橋と、今でも活用されていたり地名として残っていたりする有名どころだけでなく、隅田川と神田川を中心に網の目のように張り巡らされた運河には、それこそ数えきれないほどの橋が架かっていたそうだ。

 その〈 橋 〉を起点に描かれるのは、出会いと別れ、平凡な日常に一瞬立つさざ波、つましい暮らしに差し込んだ一条の光……etc。その文章たるや、奥行きのある言葉遣いと馥郁たる余韻で、江戸情緒とはこのことか! と膝を打ちたくなること必至。

《 幸助が、不意にそう思ったのは、川を照らしていた日射しが輝きを失い、西に傾いた日が雲とも靄ともつかない、分厚く濁ったものの中に入りこんで、赤茶けた色で空にぶらさがっているのを見たときだった。/時刻は間もなく七ツ半(午後五時)になろうとしていた。橋は鈍く光り、その上には相変わらず人通りがあった 》

《 いつの間にかうす暗くなっている店先に、おすみはしばらく黙って坐り続けた。かくまっているのは、れっきとした人殺しだった。(略)/そう思ったが、不思議なほど恐怖心は湧いて来なかった。行きどころなくこの家に閉じこめられている若者に、憐れみが募るようだった 》

《 一面に夕焼け空の下を、人が二人歩いている。一人は長身の男で、一人は子供だった。赤い、漂うように穏やかな光が二人を染めていた。夕日に染まっているのは、二人の人間だけではなかった。二人が歩いている長い土堤も、土堤の影が落ちかかる田圃もその影が切れる先から赤く日を浴び、遠くの村も夕焼けていた 》


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 例えば星の瞬き1つとっても、希望に胸を膨らませている人には幸せへの道しるべと映るだろうし、逆に不安で夜も眠れない時は凶兆にしか思えなかったりもするだろう。風景は、見る者の心次第で美しくも陰鬱にも変化するのだ。そういった心の揺れを文中にさりげなく忍ばせることで、藤沢周平は、その場の情景をまるで静止画のように読者の胸に焼き付ける。

 そして肝心のストーリーは、と言えば、個人的にはこの『橋ものがたり』は今風に言えば〈 神編集 〉。数ある藤沢周平の短編の中でも指折りの作品ばかりが惜しげも無く詰め込まれた、豪華絢爛威風堂々完全無欠面目躍如な短編集だと断言しよう。

 疑う人は、第1話「約束」だけでも、騙されたと思って読んでみて頂きたい。

 年季奉公が明けて、明日からは親方の家の居候ではなく、家からの通いで仕事が出来る。つまり職人の卵として、曲がりなりにも暮らしを立ててゆく目途がついた。その幸吉が、小名木川の萬年橋の上に立っている。5年前、年季が明けたらこの橋の上で会おうという、お蝶との約束を果たすためだ。

 しかし、約束の刻限を過ぎてもお蝶は現れない。

《 ――しかし、五年前の約束だ。お蝶がおぼえているとは限らないのだ 》

《 ――たとえおぼえていても、来ない場合だってある 》

 幸吉の心は揺れる。何度も「もう帰ってしまおうか」と思うものの、もう少しだけ、もう半時だけと踏ん切りをつけられない――。

 といった形で幕を開ける恋愛小説は、昨今のベッタリしたラブストーリーに慣れている人にとっては、湿度が低くて驚くかも知れない。だがすぐに、一見淡白に見える文章には、男女の心の〝 機微 〟といったものが実に細やかに描かれていることに気付くだろう。


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 話の中ほどで、橋の向うに漸く一人の女の影が差して、幸吉がハッとする場面がある。しかしそれはお蝶とは別人で、見知らぬ男が迎えに来ており、二人連れだって遠ざかる姿を、幸吉は茫然と見送るのだが、この時の幸吉の胸の内などは、恐らくは誰もが一度は味わったことがあるのではないか。

 こういった〝 機微 〟こそが、藤沢周平の真骨頂で、この短編集にはそれがギュッと凝縮されているのだ。

 毎朝夕、仕事の行き帰りに橋の上ですれ違う女性への、仄かな恋心に忠実に生きる不器用な職人を描いた「思い違い」。

 姉の不倫を子供心にも心配している僅か十歳の広次が、幼馴染の〝 恋 〟と呼ぶには幼すぎる優しさに支えられて前を向く「小さな橋で」。

 今にも川に身を投げるかに見えた女に、一声かけて自殺を思いとどまらせ、少しずつ親しくなったものの、何故か頑なに過去を隠そうとする。それでも一途に彼女を助ける若き職人の静かな強さを描いた「川霧」。

 どれもせいぜい40ページほどの掌編だから、読むのに苦労は無い筈だ。そして、その僅か40ページには、僕らありふれた一般庶民の誰もが持つ様々な感情が溢れているのが、解って貰えるのではあるまいか。

 愛しい人の側にいたいという願い、束縛したいというエゴ、親が子にかける愛情、子が親を労わる心、人の幸せへのねたみや嫉妬、大切なものに気付いた幸福感、etc。

 例えばどんなに真面目で正直な人だって、ふと魔が差して卑劣な行動に走ることもあるだろうし、逆に神をも恐れぬ極悪人でも――芥川の『蜘蛛の糸』のカンダタのように――気まぐれに善行を施すこともあるだろう。

 即ち人間という種には、一点の曇りも無い混じりっ気無しの善人などいないし、全身全霊骨の髄からの極悪人というのもいなくって、僕らの心は善と悪のグラデーションで彩られている訳で、そのグラデーションの様々な濃淡が、過剰な演出を排した抑制の効いた筆致で、丁寧に描かれているのが藤沢周平の文学なのだ。


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 さぁ、ここまでの3作を読んだアナタはもう、藤沢周平のトリコである。次は何を読むべきか? ご安心めされよ。どれを読んでも、つまらないということはない。

 それでも強いてと請われたならば(請われてないけど)、『よろずや平四郎活人剣』『蟬しぐれ』を勧めよう。

 どちらも過去にこの項で紹介したことがあるので、今回は軽く済ませるが、まずは『よろずや平四郎』。

 さる旗本の妾腹の子、平四郎。妾腹だから家では冷遇されるし、当然、家督を継ぐことも叶わない。このまま飼い殺しのような生涯を送るぐらいならいっそ町に飛び出そうと、剣術仲間と3人で金を出し合って道場を開いた……筈だったのだが、その直前でトラブルによって金が無くなり、かと言って今更おめおめと実家に帰る訳にもいかず、進退極った平四郎。

 取り敢えずのねぐらと定めた裏長屋に《 よろずもめごと仲裁つかまつり候 》と看板を掲げた。即ち、喧嘩や探し物など、世のもめごとを解決して金を稼ごう思い立った訳だが、果たしてそんな怪しげな商売が成り立つのか……?

 といったストーリーは、件の剣術仲間の手も借りながら、チャンバラあり、推理あり、友情あり、恋もありのボンビー青春ストーリー。藤沢文学の中で、ユーモア度ではナンバーワン。

 そして最後は、泣く子も黙る、泣かない子は泣き出す、時代小説の金字塔『蟬しぐれ』。

 藩政に良からぬ陰謀を企てたとして父は切腹、家は僅かな捨扶持をあてがわれて、貧村に押し込められた牧文四郎。しかしそれは、藩上層部の権力闘争の巻き添えであったことが次第に明らかになり、更には、幼馴染までもが命を狙われる事態となって、文四郎は、一か八かの大勝負に打って出る。父の無念を晴らせるか、そして、仄かに想っていた幼馴染を守れるか……。


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 家柄にこだわらずに苦楽を共にした剣術仲間との友情。自分でもそうとは気付かない程の、淡い淡い恋心。尊敬する父親との絆。そして、子供から大人へと成長してゆく過程で失う何か。もう、青春小説のエッセンスが全て詰まった、20世紀の大傑作。これを読んでつまらないと言う輩とは、多分私は友だちにはなれないだろう(笑)。

 因みに、『蟬しぐれ』の舞台である〈 海坂藩 〉とは実在しない架空の藩で、藤沢周平の故郷山形県の庄内藩がモデルではないかと言われており、他の作品でも(冒頭に挙げた「竹光始末」でも)頻繁に登場する。はっきりと時代を明言していない作品が多いから、「今読んでるこの作品は、こないだ読んだあの作品の、30年後ぐらいかなぁ」などと想像しながら読むのも面白い。

 さてさて長くなったが、とにもかくにも藤沢周平。冒頭でも述べた通り、予備知識なんぞ無くったって心配はご無用である。

 例えば、ロードレースのルールが解らなくても近藤文恵の『サクリファイス』に夢中になった人は多いだろう。4×100メートルリレーを知らなくても佐藤多佳子の『一瞬の風になれ』に興奮を抑えきれなかった人もいるだろう。或いは、ピアノどころか楽譜さえ読めないのに恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を一気読みした人も多かろう。

 だから、日本史の点数が悪かったとか、時代背景に不案内だとかいう苦手意識はひとまず措いて、試しに1度、藤沢周平を読んでみて欲しい。そこには、歴史とか社会制度だとか経済だとか政治だとかに関わり無く、ただただ僕たちと同じように、毎日あくせくと働き、心配事を抱え、時にずる賢く、時に優しくなったりを繰り返し、僅かな事で傷ついたり喜んだりしながら毎日を懸命に生きる〈 人間 〉が、ひたすら描かれている事に気付くだろう。

《 いいかげん 損徳(ママ)もなし 五十年 》とは、江戸時代の川柳で、人生五十年と言われていた当時「実際に50年生きてみたら損した事と得した事と半分半分、足し引きゼロだったなぁ」ぐらいの意味だが、藤沢周平の作品を読むといつも、まぁそんなもんだよなと、ほどほどに辛くてほどほどに楽しくて、それぐらいが丁度いいんだよなと、〈 諦め 〉とは微妙に異なる穏やかな気持ちに、いつも決まって僕はなるのだ。



編集後記


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連載四コマ「本屋日和」


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7月のイベントガイド

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# by dokusho-biyori | 2019-07-12 11:01 | バックナンバー | Comments(0)