読書日和

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「読書日和」備忘録

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カテゴリ:バックナンバー( 88 )

18年05月

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 仕事中、ふと窓の外を見ると、小学生の頃を思い出すことがある(仕事をしなさい)。野球を好きになったのは、転校生がきっかけだった。野球好きな彼に巻き込まれるように、気づけば選手を覚え、バットを握り、ボールを投げていた。サッカー選手の子どもがクラスメートに入ってからはその輪に駆り出されてサッカーをしたし、塾の先生にバスケットを教えてもらえばどれだけ早く教室を出て場所を確保できるかに毎日熱中した。授業中の校庭を見て、今降りれば使い放題だなぁなんて思っていた。

 当時を振り返ると、ふたつのことが心に浮かぶ。ひとつは、何かを変えるのはえてして外から入ってきた人だったこと。もうひとつは、運動のできる人は大体何をやってもうまくこなしたという牧歌的な思い出である。

 なにって、プレイヤ―・大谷翔平のことだ(「選手」とも「投手」ともつけがたいので、あえてこう書いてみた)。彼を特集した『Number 950号』は、私にとって先々も特に思い出に残る号だろうと思う。

 私自身、怪我が多かったので選手を見ているとどうしても心配してしまうのだが、大谷選手のオープン戦の結果が投打ともよくなく、日米のメディアから色んなことを言われているころ、活躍できるか以上に、「大丈夫かなぁ、怪我とかじゃないかなぁ」と気をもんでいた。

 そんな雲行きが晴れたのが、初登板の日だった。見事な勝利に、ああ、これで表紙は決まったな――職業病の一種なのかもしれないが、そんなことを思いながらほっと胸をなでおろした。別の方角に怪しげな雲が現れたのは、彼がホームランを打ったときだった。「これ、編集部は表紙を迷うね」そんな話をえらい人と話したあと、言霊というのだろうか、編集部から「不穏な」話が来るようになった。いわく、「表紙の刷り分けをしたい」と。


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「本」には、個体識別番号のようなものがふられている。表紙を変えると「同じ商品とはいえない(=別個体)」ため、改めてそのコードを取らないといけない。逆にいえば、そうしてしまえばたしかに刷り分けることはできる。たとえば、『Number PLUS』の2016年のプロレス号(中邑真輔版と新日本版があった)なんかがそのいい例だ。ただ、それには事前にコードをとり、輸送路を確保して……といった前もっての準備がいる。だが、今回はその時間がない。

 そこで編集部からあがってきたアイディアが、「片観音」というかたちだった。実物を手にしてもらうとわかりやすいが、表紙の紙を通常の倍近くの大きさにして表紙の裏側に折り込む。すると、①通常の表紙A(ホームランを打った打者大谷)、②表紙部分の左側にある折り込み部分(ベンチで祝福される選手大谷)、③折り込み部分の裏にくる表紙B(勝利する投手大谷)、これであれば表紙が「二刀流」になる。つまり、表紙Aの「打者大谷」の左側を折って逆に折り返すと、表紙Bの「投手大谷」が表紙に来る…!紙の特性を利用すれば、投打の表紙を両立できるというわけだ。

 こうしてNumber史上初のW表紙が完成したのだが、この号はそこで終わらない。

 プレイヤー・大谷の活躍にのせられるように、数年ぶりの重版の検討がされた。雑誌の場合は次の号が出てしまえば戻されてしまうことも多いため、重版の機会はそう多くない。それもあって、えらい人たちの周辺はにわかに騒がしくなった。

 そんな部内を尻目に、私はテレビに映るMLB中継を見ていた(だから仕事をしろ)。場面は一打大量得点の大チャンス。打席には大谷がいた。「これで打ったら、重版が決まる……なんてね……。そうなったら本当にドラマチックだよなぁ……」編集長がかつて「拝啓 清原和博様」で書き出した『Number 908・909・910号』の後記を思い出しながら、湧きあがるわくわくに思わずつぶやいた。次の瞬間、ピッチャーが投げ込んだ一球が、吸い込まれるようにバットの軌道と重なった。弾かれた打球が鋭く、大きく飛んだ。
「……打った……!」
思わず声が漏れた。


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 重版が決まったのは、そんな喧騒の日だった。ダイヤモンドをまわる、そのどこか飄々とした姿が、頭から離れなかった。

 何かを変えるのは、えてして外から入ってきた人だった。新人だったり、転校生だったり、宇宙人だったりが、それまでの常識を変えていく。表紙が変わり、重版が決まり、毎日ニュースが流れる。内にいた人たちは、突然の非日常に迷い込む。でも、それはどこか心躍る迷路だ。こんな毎日は、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 二刀流なんて不可能だという人も多いし、怪我の心配をする人も多い。対策されたら……。疲れてきたとき……。色んな声が聞こえてくる。ただ、グラウンドに立つ彼を見ていると、妙な懐かしさが胸にあふれる。「ああ、そういえばサッカーの得意だったあいつはバスケットも野球も得意だったな。一緒にやってて、みてて、なんか楽しかったっけ……」そういう子どもの頃のような「わくわく」を感じるのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 今日も実況の声が響く。きっと、しばらく仕事が手につかない。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 とは申しましても、優柔不断な私たちは、うっかり迷いに入り込んでしまうもの。そんなとき思い出すとよいのは、迷っているからには、いずれかの選択肢が決定的に優れているわけではないということです。 》


 そしてこの後、《 つまり「より得なほう」を選べても、実はたいした差ではない 》と続きます。日々の買い物や食事、或いは何かの順番待ちや特典の有無etc……。微々たる「得」に目の色を変える自分が如何にみみっちいかを、気付かせてくれる言葉だと思います。



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 僕らの世代で〈 家族小説 〉と言われたら、何はともあれ『ビタミンF』(重松清)という人は多かろう。2000年の下期――即ち20世紀最後の直木賞受賞作だ。

 描かれるのは、バブルの奔流をまともに浴びた世代の、その後の人生。と言っても、株だの土地だのの狂乱に躍らされた挙句に破産したなんていう派手な話ではなく、もっと普通の、言うなれば僕らの中の誰かの話。そしてそれは、例えば向田邦子の『寺内貫太郎一家』や、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』、或いはTVドラマ『北の国から』や、マンガ『ちびまるこちゃん』といった昭和の家族ものとは明らかに違う、21世紀の家族小説の嚆矢であった。

 住む場所は東京郊外のニュータウン。家は一軒家ではなく、バブルの頃にバカ高い値段で買ったマンションで、ローンはまだまだ先が長い。小中学生は週に何回かの塾通いが当たり前。家族の誰かが声を荒げて怒鳴ったりすることはまずないが、何でも打ち明け合うほど心が通ってる訳でもない。田舎で老いた父母のことは気になるが、かと言って同居するのは煩わしい。人生に大きな不満は無いけれど、心ときめく夢も無い……。そんな宙ぶらりんな家族が、それでも前に進んで行こうとする姿を描いた短編集が、『ビタミンF』だ。

 そこには例えば、悪ぶっている少年に《 おとなになればわかるよ、おまえにも 》と説教をする自分に対して、《 ガキの頃にはそういう言葉を吐くおとながいちばん嫌いだったんだよな 》と苦笑するサラリーマンがいる。中学生の息子を見つめながら《 おとなの胸の内をなまじ察することができるぶん、子どもの屈託のなさをなくしてしまい、といっておとなの考えていることの深みにまで思いが届いているわけでもない 》と、苦虫を噛みつぶす父親がいる。そして、《 知らん顔をしてあげるのが、父親らしいのよ。無関心と知らん顔ってのは、ぜったいに違うんだから 》と、夫を諭す妻がいる。


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 登場する家族はどこも大なり小なり厄介事を抱えていて、しかもそれは、家族の努力で解決する類の――例えば借金の返済だとか子どもの反抗期だとかいった解りやすい問題ではなく、もっとハッキリしなくて見えにくい何かであって、故に解決方法もおいそれとは見当たらない。《 俺の人生はこれか――。なーんだ、と拍子抜けするような。ちぇっ、と舌を打ちたくなるような 》。

 といった具合で、七編のどの家庭にも、何とも言えない閉塞感が漂い続ける。にも関わらず、読後感は不思議とそんなに悪くない。

 それは恐らく、家族の構成員それぞれが、それぞれの立場から「なんだかんだ言っても、自分は今の家族が大切なんだ」と再認識していく過程が、ハッキリと書かれてはいないけど、読み進めるにしたがって炙り出しのようにゆら~っと浮き上がって来るからだろう。そして。もしもあの時、別の生き方――別の進学先、別の就職先、別の伴侶――を選んでいたら、今頃はもっと幸せだったのかも知れない。でも、この人生を選んだのは俺だ。俺の人生はこれだ。そんな現在肯定の覚悟が、多分、読む者の背中をそっと押してくれるからだろう。

 巻末の「後記」に於いて、著者は言う。《 炭水化物やタンパク質やカルシウムのような小説が片一方にあるのなら、人の心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい 》。いつの頃からか日本中に漂う停滞感の中で、常に酸欠気味に喘いでいる僕らに、「それでもたまにはいいことも巡ってくるさ」と、優しく発破をかけてくれるような、『ビタミンF』とは、そんな作品だと思う。


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 安藤祐介の『ちょいワル社史編纂室』は、上司に騙され利用され、挙句、リストラ部屋に左遷されたサラリーマンの捲土重来を描いた、どちらかと言えばビジネス小説に近い作品ながら、実はそれ以上に、家族の崩壊と再生を熱く描いた小説である。

 主人公は玉木敏晴45歳。家電大手の東洋電工に入社以来、営業一筋22年。昭和のモーレツサラリーマンさながら、家庭よりも趣味よりも、常に仕事を優先してきた。

 が、騙された。無謀なプロジェクトが失敗に終わった後、責任を取ろうとしない役員たちの捨て駒にされ、まんまとリストラ部屋に飛ばされる。そこでは、使用済みのコピー用紙に「裏面再利用」のゴム印を延々と捺し続ける、といった拷問のような〈 仕事 〉が待っていた……。

 といった幕開けの後は、残業と接待漬けの毎日が一変、アフターファイブの時間を持て余した敏晴の落胆と消沈と迷いと後悔が描かれる訳だけれども、その沈滞の中で彼は徐々に気付き始める。《 男は仕事に生きてなんぼだ 》と嘯きながら自分が捨ててきたもの――家族との時間――の大きさに。しかし、敏晴が漸く家の内側に目を向けたその時には、高校3年の長女はイジメのターゲットにされており、高校1年の長男はヤンキー崩れとの付き合いを深めてグレまくっていた。慌ててコミュニケーションを図ろうとするも、子どもたちばかりか妻までもが、露骨に「何を今更」といった視線と言葉を投げつけて来る……。

 いずれ詳細に語りたいと思っているが、ここからが安藤祐介の読ませどころだ。崖っぷちに追いつめられた分かりやすい大ピンチと言うよりも、八方塞がり的な息苦しさの中で、愛情やら信頼やら情熱やらといった愚直さだけを武器に、ジリジリと活路をこじ開けていく。ともすれば汗臭くなりがちなそんなストーリーを、実に爽やかな読後感に仕立て上げるのがこの作家の十八番。


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 本作に於いても、例えば絶望のどん底から這い上がって来た娘が言う。《 お母さんのせいじゃないよ。お母さんのせいにしようとしてたけど、なんかようやく目が覚めた。結局なにもかも自分で選んでやってきたことだから 》。また、教師にまで「不良」と蔑まれる息子は、自分の味方をして憤ってくれる相手に言う。《 いいよ、別に。誰か一人だけでも信じてくれるなら、それでいい 》。或いは、家族の為に何もかも諦めて生きてきた妻は、《 家族を大切に思うことと、自分の夢や希望を家族に依存することとは違う 》と気付いて、晴れやかな気持ちで空を見上げる。

 そして肝心の敏晴は、と言うと……。《ふと立ち止まった時にできた仲間って、意外といいもんだぞ 》と胸を張って子どもに伝えられたのは、敏晴自身が人生の回り道を経験したことで、恐らくは気付くことが出来たからだろう。勝利に向かって一直線が、必ずしも幸せに結びつくとは限らない、ということに。人と競って、ライバルを蹴落としてでも上を目指すことが、必ずしも明るい未来につながるとは限らない、ということに。《 最初は本当に砂漠の真ん中へ放り出されたような心地がした。でも、歩いているうちに、会社人生の中では見えなかったたくさんのことが見えるようになった 》。そう考えると、45歳にしての周り道も、決して無駄ではなかったのかも知れない。

 物語がどこに着地するのかは勿論伏せるが、取り柄の無いつまらない人生にも、それなりに味があるもんだと、少しだけ明日を明るく感じさせてくれる、そんなプチハッピーな物語が『ちょいワル社史編纂室』だ。


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 最後は小野寺史宜を紹介したい。既に10作以上を出している割に知名度がどうもイマイチなので、この機会に声を大にして主張しておく。幸せの崩壊と、そこからの再起を描かせたら、小野寺史宜の右に出る者はそうはいない。

 例えば『リカバリー』では、交通事故で幼い息子を失った父親と、その事故の加害者の息子、それぞれを語り手にして、周囲の人々に支えられ温められながら、彼らがもう一度自分を肯定していく過程が丁寧に描かれる。『東京放浪』では、仕事と住居を同時に失った青年が、緊急避難的に友人の家を渡り歩く間に、誰もが日々の暮らしに四苦八苦する姿を目の当たりにして、自分の甘さを思い知る。『ひりつく夜の音』では、既に落ち目だと自分で自分に見切りをつけて日々無気力に過ごすクラリネット奏者が、運命のいたずら的に出会った若きギタリストに刺激され、心の中に僅かに残っていた熾き火の火勢を増していく。或いは『本日も教官なり』では、望まない妊娠が発覚した女子高生が、相手の男子生徒に捨てられた上、学校からは厄介者扱いされる中で、逆に、自分は犯罪を犯した訳ではないとハッキリと自覚して、毅然と顔を上げて一歩を踏み出す。

 繰り返しになるが、小野寺史宜は、僕らの日々の幸せなど何かの拍子にあっけなく崩れてしまうのだということを、リアルな描写で悟らせてくれる。と同時に、幾人かの理解者さえいれば、そこから這い上がる力も僕らにはあらかじめ与えられているのだということも、強い説得力で描き出す。

 そんな彼の最新作『ひと』は、これぞ小野寺史宜といった風情の青春小説だ。


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 主人公の柏木聖輔は法政大学の2年生。……だったが、この度事情止むを得ず退学した。3年前、自動車事故で父親を亡くしたのに続いて、今度は病気で母を失い、学費の目処が立たなくなったのだ。僅かに残っていた現金も遠い親戚にむしり取られたりして、学業どころかこのままでは早晩、明日の食事にも事欠くのが目に見えている。が、心を切り替えられない(そりゃそうだろう)。すぐにでも働き口を見つけなければいけないのに、頭も身体も動かない。

 そんな時に、ふと立ち止まった揚げ物屋。そこのメンチカツをオマケして貰ったのがきっかけで、〈 おかずの田野倉 〉で働くことになる。

 そうして動き出す聖輔第二の青春には、汗と涙の友情も、熱く甘い恋愛も、はたまた、現代のわらしべ長者よろしく伸し上がっていくサクセスストーリーも一切無し。描かれるのは、おかずの田野倉とその周辺の人びとの人間模様。

 そしてこの〈 人間模様 〉ってやつが堪らない。例えば、田野倉のおやじ。《 ウチはただの惣菜屋。星三つとかいらねえよ。飛び抜けてなくていい。生れたての赤ん坊が食っても八十のじいさんばあさんが食ってもうまい。それでいいんだ。といっても、くれるんなら喜んでもらうけどな、星 》などと言って、がははと笑ったりしている。聖輔が大学を辞めた後も、なんのかんのと言ってアパートを訪ねて来たり飯をおごってくれたりする友人もいる。本当に困った時には、貸せるお金はあるからと言い、聖輔が遠慮すると《 困ったときは借りられる。そう思っておいて 》と、さらりと言ってのける人もいる。《 時間はね、あるようでないよ。四十年なんてすぐに経っちゃう。気づいたら、できないことだらけになってる。そのときにあれをやっとけばよかったなんて思わなくてすむよう、がんばんな 》と応援してくれる人もいる。《 お金がないのも悪いことばかりじゃないよね。慎重に選んでものを買うようになるし 》という価値観に気付かせてくれた人もいる。ちょっとしたトラブルを解決してくれたお礼を言うと、《 そんなことで礼を言わなくていい。聖輔は人に頼ることを覚えろ 》と怒ってくれる人もいる。


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《たった一人になった。でも、ひとりきりじゃなかった 》という帯の惹句は、こういうことを言っているに違いない。聖輔は20歳にして家族を失った。その代わりに(と言っては語弊があるが)、まるで第二の家族とでも呼びたくなるような人びとと出会い、その思い遣りと励ましに包まれることで、自ら下りようとしていた人生のレールを、もう一度進んでみようと考え直す。《 僕は二十一歳。急がなくていい。一つ一つだ。急がないが、とどまらない。そんなふうにやっていけたらいい。先は大事。でも今も大事。先は見なければいけない。でも今も疎かにしたくない。だって僕は、生きてる 》、そう静かに決意を固める。

そして終盤、田野倉のおやじが断固たる態度で言い放つ。《 聖輔は一人じゃない 》と。こんなセリフこそが、小野寺史宜の真骨頂だ。幸せの崩壊と、そこからの再起。《 空気と光と、友人の愛。これさえ残っていれば気を落とすことはない 》と言ったのはゲーテだそうだが、生きている以上、辛いことや悲しいことは巡って来る。でも、そこから浮上するチャンスも必ずある。ためらっている時に背中を押してくれたり、疲れたときには肩を貸してくれたりする人も、身の回りにきっといる。だから、人生を投げ出すな。小野寺史宜は、そんな声援を静かに送り続けている作家だと思う。






永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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『女は二度決断する』

監督:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヌーマン・アチャル他


テロによって家族を失った女の復讐劇! 三部構成でとても観やすい作りでした!

 特に二部目の法廷劇は、主人公の視点で観ると、もの凄く辛いものがありました。被告側の弁護士がとにかく嫌な奴! あ~……今思い出してもムカつくな~アイツ! まぁ、あのムカつく弁護士のおかげで主人公の気持ちに乗れたんだけど(笑)。

 この作品、復讐の結末はちゃんと用意されています。女の復讐作品で、今年アカデミー賞にノミネートされ、個人的には作品賞だと思っていた『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)という作品があるのだが、とても比較したくなる。何故なら、こちらの作品では前者とは全く違う結末が用意されているからです。良かったら二作品を観比べるのも面白いかもしれません。
丸善津田沼店・永野裕介



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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5月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-05-05 00:08 | バックナンバー | Comments(0)

18年04月

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「いじめる側」にならないために――双葉社営業局 直井翔太郎
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 私は33歳で、4月に入社12年目、結婚7年目を迎える普通の営業マンだ。子供は3歳半と1歳半の息子がいる。男の子は、小さい頃は体が弱いと聞くが、うちの子たちは風邪を引くことも少なく、有難いことにとても元気である。

 小林由香『罪人が祈るとき』の主人公・風見の一家も恐らく、そんな普通の家族だったはずだ。一人息子の茂明が自殺するまでは。茂明の遺体のそばにはいじめを匂わせるノートが遺されていたが、名前が書かれていたと思われる場所は血で一部しか読めなくなっていた。学校からもいじめはなかったとされ、息子の死の真相が分からず風見夫妻は苦悩する。ノイローゼ気味になってしまった風見の妻・秋絵は、ついに息子の死からちょうど一年後に自ら命を絶ってしまう。普通の家族がアッと言う間に崩壊してしまう様が描かれている。

 そして、この小説のもう一人の主人公・祥平は、公園で先輩と同級生から暴行されていたところを、ピエロのペニーに助けられる。家でも居場所を失っていた祥平は、いじめ主犯格の上級生・竜二を殺して、自分も死にたいとペニーに打ち明ける。祥平の物語は、現在進行形でいじめを受けている少年の痛みをともなう闘いのストーリーだが、どこか非現実的なペニーの存在が、物語を先が読めない不思議な展開にしている。

 著者の小林さんは、デビュー作の『ジャッジメント』でも「復讐法」という架空の法律がある世界の物語を描いた。「仇討ち」のような格好いい「復讐劇」ではなく、復讐するべきかどうかを最後まで悩みぬく「人々」を背景まで含めて丁寧に描いている。デビュー作の時から書きたいテーマは一貫していたのだろう。

 ところで、うちの子たちが最近、どんどんやんちゃに育ってきていて少し困っている。特に3歳半の長男は、なかなか弟や友達にオモチャを貸せず、逆にすぐ他人のオモチャを欲しがり、私の息子らしくないジャイアニズムの持ち主になってきている。まだ小さいのだから、そんなものだと言われるかもしれないが、ふとした時にこのままいじめっ子になってしまったら、どうしようと心配になる。


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 先日、飲み会の席で同年代の仲間たちと話していて驚いたのが、そこにいた全員が「自分の子供がいじめられる側になるより、いじめる側になる方がいい」と言っていたことだ。「ちょっとくらい不良になっても更生できるし、弱いより強い方がいい」と。気持ちは分からなくないが、そこには自分の子供にいじめられて人生が変わってしまうかもしれない他人の子供の存在が忘れられている。もちろんどちらにもならないに越したことはないが、どちらかを選べと言われたら、私は息子に「いじめられる」側になって欲しいと思う。なぜなら、自分の子供がいじめられていても、私が注意していれば気がついて助けてあげることも出来るが、自分の子供がいじめをしていて、他人の子供を傷つけていることは、おそらく気がつけないと思うからだ。

『罪人が祈るとき』は、いじめにより自殺を決意した少年と、いじめによる自殺で息子を亡くした父親の苦悩と闘いの物語だ。どうか、この作品を読んだ人が皆、「いじめられる側は嫌だな」ではなく、簡単に他人の人生をめちゃくちゃにしてしまう「いじめる側」にはなりたくないなと感じて欲しい。まずは、そう強く感じた私自身が息子たちに、他人の痛みを感じられることの大切さと、自分がされたら嫌なことは他人にもしないということをきちんと伝えていきたい。そして子供が、もしいじめられていても、ちゃんと気が付いてあげられるように、会話とコミュニケーションを絶やさないように接していきたいと思う。

 分かりやすい子育ての目標としては、先ほど少しジャイアンの話が出たが、いじめる側よりいじめられる側の方が良いという意味では、ジャイアンより、のび太くんということになる。が、ドラえもんが甘やかし過ぎたせいか、のび太は、かなり我がままかつ、捻くれた腹黒い子供になってしまっている。野比家は少し違う。やはりここは、子供をきちんと叱りつつも、一緒にふざけ、親子できちんと喜怒哀楽を表現し合っているクレヨンしんちゃんの野原家のような家族を目指したいと思う。双葉社の営業マンらしく(笑)。



桜の下をめぐりながら――文藝春秋業部 川本悟士
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 この原稿を書いているときは、今年の私はまだ桜を見ていない。

 この言葉をきいて、みなさんはどういう光景を想像しただろう。一年のなかでこの書き出しからはじめるにもっとも適した時期なので、今回は本を取り上げたい。

『葉桜の季節に君を想うということ』という作品がある。とりあげた手前いいづらいが、下手にあらすじを話せないすごい作品である。そのなかで
《 花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは 》
という台詞がある。この言葉から以降がとてもよい話なのだが、ぜひその言葉にたどり着くまで最初から通して読んでもらいたいので、あえて頁数も書かないし、それについてはこれ以上立ち入らない。

 ただ、比べるのもおこがましいが、この言葉とこの原稿の書き出しは、たぶん似たようなものをイメージさせていると思う。東京でいえば3月末から4月上旬に一斉に、枝からあふれんばかりの「絵に描いたような」白紅色の花が咲く樹。ソメイヨシノだ。花見にいけば広大な淡い桃色に溺れてしまいそうになるアレ。その花の下でたくさんの別れを経験し、散るころになって誰かと出会っていることに気づく。「春は出会いと別れの季節」というが、実のところ別れのほうが先に来て、散ってしまったころに「ああ春だったな」と気づくひとも多いのではないだろうか。

『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ 起源への旅』は、そんな桜がどう語られてきたかを丹念に追い、背景をひとつひとつ紐解き、やがて近代の日本にもたどり着く、そんな新書である。個人的には、歴史・文学好きであればはっとする文章に出くわすことも多いのではないだろうかと思う。

 実際、日本にある桜の7~9割がソメイヨシノらしい。ご存知のかたもいるかも知れないが、ソメイヨシノは接木や挿木で育てられるので、すべてがクローンである。日本で大きく広まったのも、せいぜいこの百年のこと。では、それ以前の桜の景色はどのようなものだったのだろう。


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 こう聞くと「ヤマザクラこそが日本の本来の桜だ」という話が出てくる。正直なところ、私も高校のときだろうか、国語問題集の論説文で読んだ記憶がある。だが、実はそれほど単純な話ではない。ソメイヨシノ以前の日本では、ひとつの種類の桜で覆われてなかったのである。色々あった桜が、ここ百年かそこらで次第にソメイヨシノにとって代わられたというわけだ。

 本書に出てくる、この辺りをめぐる想像が現実をなぞっていくような関係は面白い。そもそもソメイヨシノの出現以前にソメイヨシノが実在したような桜の景色を何人もが詠っていたり、たとえばTVでみる遠山の金さんの桜はソメイヨシノっぽくみえるが、時代やキャラクターからいえばヤマザクラや八重桜である可能性もありつつ、むしろ絵に描いたような桜であれば、結果的に現実の「ソメイヨシノ」と近い可能性もあったりもする。

 と、同時に面白いのは、桜語りにおいては往々にして、人工/自然、西洋/日本、新しさ/旧さといった単純化された二項対立物語をなぞっていくことである。《 「ソメイヨシノ以前」をヤマザクラで代表させること自体、現在のソメイヨシノの姿を投影したもので、きつい言い方をすれば、ソメイヨシノ的感性の産物といえる 》(60頁)という言葉が出てくるが、一度ものさしを手にしてしまった以上、そのものさしから自由になろうとすることは存外にとてもむずかしい。また、何かと桜は「日本」に関わる色んなことと結びつけられがちであるので、さらに多方面で同時多発的にえらいことになってくる。それらの時代背景を読むのも含めて、本書は単なる桜についての本ではなく、言葉を扱った、日本についての本でもあり、社会についての本でもある。


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 だから余計に、本書は読む人によって感想が異なるんだと思う。二項対立を避けながらAでないからといってBとせず、古文書を紐解く歴史学者のように丹念に古い資料を当たりながらモザイク模様をかき分けていく。今まで当たり前のように見えていた「桜」の風景が、少し変わって見えるようになる。たぶん、本を読んで一番面白い経験のひとつは、こういうことなんだろう。

 そして、東京に暮らすようになって本書を読み返すと、面白いのは実際に文章に出てくる街を歩けることだと思うようになった。桜は、本当に愛される花なんだろう。そして実際、本当に綺麗だ。ソメイヨシノも八重桜もそう。それこそ私は葉桜になっていくソメイヨシノの姿も好きだし、夏の青空が透けて見える緑の姿も好きだ。著者のいう房総のオオシマザクラも、今年こそ見に行きたい。東京各地の桜を十年かけて1本1本数えてランキングした資料も紹介されるが、つくづく、愛されていると思う。それもあって色んなところに咲いているのだが、なかでも地名とともにあげられる場所が、実際にすぐそこにある。桜をめぐる言葉を生み出してきた場所が、その桜とともにすぐそばにいるとさえいっていい。

 総武線で飯田橋まで行き、桜の下をめぐりながらぼんやりと本を読む。ふらっとそういう春の休日をすごせるのは、良くも悪くも特権だと思う。《 桜を見ないと、やっぱり春は終われない 》(216頁)、まさにそういう場所に住んでいるのだ。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 本当はわたしだって恥かしい過去ばかりなんだ。だからこそ、人の悩みに多少は耳を傾けられる。今のうちに苦しんで、悩んで、泣きわめいて、傷ついとけ。絶対にあとになって君の財産になる 》


 特に、この春卒業して社会に飛び出す若い人たちに贈りたい。一年目に苦労すると後がラクだよ。損して得取れなんて言葉もあるし、〝 今 〟だけを見てうんざりしたり諦めたりしないでね。



中学生よ、大志を抱け――丸善津田沼店 沢田史郎
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 14歳の加奈太が夏休みに、父親の故郷である沖縄の離島で過ごす6日間(沖縄と明記されてはいないが)。交互に描かれるのは30年前。即ち加奈太の父親が今の加奈太と同じ14歳だった頃の夏。思春期、中二病、反抗期。意地の悪い奴がいて、頭の切れる奴がいて、のほほんと能天気な奴がいて、ちょっと気になる女子がいて……。

 椰月美智子『14歳の水平線』は、小細工無し、直球勝負の中学生小説。小学生の頃と比べると、人間関係だとか将来の進路だとか、やらなきゃいけないこととか覚えておかなきゃマズいこととか、身の回りの何もかもがいつの間にか窮屈になっていて、そのことにふと気付いて焦ったり苛立ったりする姿が、けれん味の無い文章で紡がれてゆく。《 今までいつも、自分だけが貧乏くじを引いているような気がして 》いた加奈太が、小さな衝突や誤解を経て、《 みんな言わないけど、きっと大変なことや悩みがあって、きっとおれだけじゃなくて…… 》と気付いたのは、子どもから青年への第一歩。さしずめ「てれれ~てってって~加奈太はレベルが上がった。加奈太は〈 友情 〉のじゅもんを覚えた」といったところだろうか。沖縄の波の音が聞こえて来そうな爽やかな読後感。

 はらだみずき『帰宅部ボーイズ』が描くのはタイトル通り、〈 帰宅部 〉としてメインストリートからは外れた学校生活を送る三人の中学生。

 部活で友情を培ったり協調を学んだりといった展開なら、ドラマやマンガでもよくあるが、なんのなんの帰宅部にだって、仲間意識も連係プレーも育つのだ。それが証拠に、上下関係だのシゴキだのといった部活に付きものの煩わしさに辟易して、野球部、サッカー部、写真部をそれぞれ辞めた直樹、カナブン、テツガクの三人は、部活を辞めたからこそつながったのだ。


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 その三人が、例えば退部の意趣返しに来た野球部の連中を返り討ちにしたり、ハワイから〝 密輸 〟したポルノ雑誌に度肝を抜かれたり、スケートボードを手作りして練習に明けくれたりする。そうやって一見、帰宅部生活を謳歌しているように見える彼らだが、能天気な日常の中でおぼろげに理解し始める。今自分たちが歩んでいる道のり、過ごしている時間というのは、過去から未来への一方通行だということに。だから、受験も失恋も関係無かった小学生には戻れないし、いずれ否応無く大人になって、義務と責任でがんじがらめにされてしまうのだということに。

 そうなのだ。この『帰宅部ボーイズ』は、自分の意思とは関係無く〝 成長せざるを得ない 〟ことへの恐れや不満をジワリと描いて、読者の共感を誘う。〝 成長 〟をポジティブな要素として扱う作品が多い中で、〝 成長 〟することの寂しさを描いた小説として推しておきたい。

 鉄塔オタクの伊達成実は、或る日、同じクラスの帆月蒼唯に声をかけられる。美人だが奇行が多く、皆からそれとなく敬遠されている女子だ。《 伊達くんってさ、鉄塔に詳しいんだよね? 》。そして次には、霊が見えるという噂の――だから、これまた皆から敬遠されがちの――比奈山優に、《 比奈山くんって、お化けが見えるんだよね? 》と水を向ける。一体何のこっちゃと訝しみつつ彼女の指定した鉄塔に行ってみると、そのてっぺんにはなんと、着物を着た男の子が座って足をブラブラさせているではないか。えっ!? なんであんなとこにいるの? どうやって登ったの? 何やってんの? ってか、そもそもどこの誰?

 と、やや森見登美彦チックに幕を開けるのは、賽助『君と夏が、鉄塔の上』。これがいい!


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 物語は当然ながら、鉄塔の男の子の謎を軸に進むのだけれど、その過程で、それまでロクに口を利いたことも無かった帆月、伊達、比奈山の三人が急速に心を通わせていく様子には、新しい友達が出来る際のウキウキソワソワした気分が滲み出ていて、何度となく頬が緩む。その合間合間にはまるで幕間劇の如く、伊達くんのオタク仲間である木島との友達付き合いだったり、建築現場の幽霊騒動だったり、或いは帆月の人力飛行機製作だったりが挿入されて、謎解き一辺倒の単調なストーリーでは決してない。と言うか、そっちの脇道の話も本筋に負けず劣らずオモシロ楽しい。例えば次は、自転車を盗まれた伊達くんが、それを木島に報告した時の二人の会話。

《 「マジさ、自転車を、盗む奴って、何考えて、るんだろうな」 「よし、この自転車を盗もうって考えてるんじゃない」 「後先とか、人の気持ちとかは、何も考えてないって、ことか」 「そうだろうね。刹那主義だ」 「自転車を盗む奴と、女を後ろに乗せている奴は、許せんな」 「それ、並列で憎むものか?」 「大事なのは、罪を憎む気持ちだ」 「罪って、後者は何の罪だよ」 「おいおい、何言ってんだ。自転車の二人乗りだろ」 》

どうだろうこの洒落たセリフの応酬は! まるでビリー・ワイルダーかウッディ・アレンの映画にでも出て来そうなこういった会話は随所に散りばめられていて、それらが本作の大きなチャームポイントになっていることは間違いない。

 物語は、鉄塔小僧の謎が解けてゆく終盤、冒険ファンタジーの色彩が濃くなるに従って、三人の息もぴったりと合い始め、加えて〝 大人の都合 〟に振り回される中学生の悔しさとやるせなさの描写も混じったりして、中学生小説としては沢田史に残る傑作である。件の鉄塔を見上げながら、伊達くんが帆月に送電線のルートを延々と語るラストシーンは、何度読んでも目頭が熱くなる(実際、今回で4回目の読了)。

 仮にバラバラの高校に進学したとしても、年に何度かは集まって、近況報告や鉄塔小僧の思い出話に花を咲かせる三人の姿を、きっと誰もがそれぞれに想像しながら、暖かい気持ちで読了するに違いない。そして本書を読了した後は、車を運転していても電車に揺られていても、鉄塔があるとつい見入ってしまうということも、ついでながら付け加えておきたい。



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 そしてそして、重松清だ。近年は登場人物にとって大切な人――家族とか友達とか――を、作中で安易に死なせて泣かせに走る傾向が強い気がするが、『エイジ』は、そんな姑息な手段に頼らずともしっかりと読者の胸を撃ち抜いてくれる、中学生小説の金字塔であり、初期重松文学の代表作。って言うか、「中学生小説」なるジャンルは、『エイジ』によって確立されたと、僕自身は思っている。

 舞台は、東京郊外の桜ヶ丘ニュータウン。《 快速電車を使えば、一時間たらずで、渋谷 》というその街で、その年の夏、通り魔事件が発生した。自転車で後ろから追い抜きざまに、堅い棒で殴って逃げるという程度で、刃物を使ったり金品を奪ったりする凶悪なものではないとは言え、7、8、9月と、犯行は次第にエスカレートしながら二十数回に亘って繰り返される。平凡な街はその話題で持ちきりになり、事件を解決できない警察には非難が集まり、誰もが夜の一人歩きを避けるようになる……。そして10月、遂に捕まった犯人は、なんと中学二年生だった!

 という数か月の騒動を、犯人の少年と同じクラスのエイジ(本名・高橋栄司)の視点で綴った物語。と言っても犯人探しのミステリー的要素はほぼゼロ。何となれば、比較的早い段階――ページ数で序盤1/3程度で犯人は捕まるし、直後、その素性も明かされる。では、犯人探しでないならば、この物語は何を描いたものなのか?

 エイジたちが「タカやん」と呼んでいた犯人が捕まって以後、街にはマスコミが溢れかえり、エイジたちは〈 今どきの中学生 〉として一括りで語られる。だけど中学生が〈 今どきの 〉でくくられるなら、大人だって老人だって〈 今どきの 〉で括れる筈ではないか。にも関わらず中学生だけを、あたかも珍しい生き物でも見るように〈 今どきの 〉で十把一絡げにしてしまうのは、一個の人格として向かい合い、対話し、理解することを放棄した行為ではないか? 勿論、中にはアブナイ奴もいれば非常識な奴もいる。だけどそれは、大人だって同じではないか? いやむしろ、大人になってさえ、やっていいことと悪い事の区別がつかず犯罪に走ってしまうような輩の方が、未熟なままに罪を犯してしまった「タカやん」よりも、よっぽどアブナイ人間ではないか! 世の中に〈 今どきの中学生 〉なんていう中学生は、一人だっていやしないんだ!


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 でも、だったら僕は一体何者なんだ? 通り魔になってしまった「タカやん」と僕の差は、どこにあるんだ? 或いは僕の中にも、通り魔の素質が潜んでいたりするんだろうか?

 といったようなことを、多分エイジは思うんだけど、何しろまだ14歳だもんだから、そこまで考えを整理出来ないし、それを表す語彙も無い。だから伝えたいことを上手く伝えられずに苛立って、家族に八つ当たりしたり授業を抜け出して繁華街を徘徊したりするんだけども、その〝 伝えたいのに伝えられない 〟感じがとにかく出色。いや、中学生の一人称小説って難しいんだよ。セリフだけでなく地の文までもが〝 主人公の言葉 〟な訳だから、ちょっと大人目線の言い方をしただけで全てが台無し。そこんところが、重松清ほど上手い作家は多分いない。

 実際この小説を現役の中学生が読んだらどう感じるんだろう? まだスマホが無い時代の話だからそこら辺の違和感は止むを得ないとしても、十代半ばの少年少女が大人たちに感じる、汚らしさとかズルさとか子どもに媚びる感じとかは、恐らく今も昔もそう大きくは変わらないんだろうから、機会があったら中学生の感想文を是非読んでみたい。「あ、今思い出した。俺も確かにこうだった!」と、膝を打つような文章に、きっと出逢えるような気がする。

 閑話休題。結局「タカやん」は、諸事勘案の上、少年院送りとかにはならずに、保護観察処分になって、エイジたちの教室に戻ってくる。当然、初日の朝は皆〝 遠巻き 〟である。そこに登場するのがエイジが片想いしている相沢志穂と、エイジの親友でジャイアン的存在の「ツカちゃん」で、彼らはそれぞれのやり方で「タカやん」を再びクラスメイトとして受け入れる。そして我らがエイジはと言うと……。

《 エルニーニョがどうしたとか、地球温暖化がどうしたとか、オゾンホールがどうしたとか、難しいことはよくわからないけど、地球はいろいろ大変なことになっているらしい。それに比べれば、日本の、東京の、桜ヶ丘ニュータウンの、ガシチュウ(筆者注:桜ヶ丘東中学校)の、二年C組の、ぼくなんて、死ぬほどちっぽけで、だけどちっぽけはちっぽけなりに、いろいろ大変なんだ。/でも、相沢志穂みたいに言おう、何度でも言ってやろう。/負けてらんねーよ 》
と、視線を上げる。


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 今どきの中学生なんて、括りたければ括るがいいさ。大人たちがどう括ろうが、「タカやん」は「タカやん」だし「ツカちゃん」は「ツカちゃん」だし、そして僕、エイジはエイジであることに変わりは無いんだから。とはエイジは言わないが、多分そんなようなことを考えながら「負けてらんねーよ」と宣言したんじゃなかろうか。ラスト20ページ程は、日本文学史上に残る名場面だ。

 と、暑苦しく述べ立てたように、『エイジ』こそが最高の中学生小説だと思っていたんだ、今までは。ところが、だ。奥田亜希子『青春のジョーカー』が、遂に『エイジ』を追い越した!

 こちらの主人公は中学三年の島田基哉。教室では余り目立たないマイナー系……どころではなく、常に蔑みと嘲りの的にされるヒエラルキーの最低辺。有馬啓太ほか数人の男子生徒たちは、お笑い芸人を小突き回すバラエティ番組さながら、事あるごとに基哉たちを俎上に上げてウケを狙う。しかも《 同級生の、からかい以上いじめ未満の言動にたいして、教師たちの反応は驚くほど鈍い 》。故に基哉は、同じ〝 階層 〟に属する友人たちとゲームの話で盛り上がっている時でさえ、メジャー系の生徒たちの言動に神経を尖らせ、〝 笑い 〟の矛先がいつこちらに向くか、岩陰に身を寄せる小動物の如くおどおどしながら過ごしている。


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 といった幕開けで、不活性で後ろ向きな基哉の姿は、言うなれば奥田版野比のび太。一年生の時から一途に片想いしている女の子もいるが、そんなことが周りに知れたらたちまちネタにされて晒し者である。休み時間に仲のいい女子同士キャッキャやっているのを、遠目に眺めるのが関の山。《 自分は総理大臣にも俳優にもなれない。それと同じで、クラスの人気者になることも、異性から好かれることもない。おそらくは、強者の影に怯えて一生を過ごす 》とまで悲観して涙ぐむに至っては、読んでるこちらまでみじめな気持ちでうなだれてしまう。

 そんな基哉が、思いがけずに武器を手にする。ピンチの時でも、たちどころに攻守逆転を可能にする切り札。それが何かは伏せておくけれども、トランプで言うところの〈 ジョーカー 〉を手に入れたことで、基哉は、啓太たちと同じ〝 階層 〟にまで浮上する。これからは、嘲りの対象にされることは無い。学校行事でのグループ分けで、一人あぶれる心配も無い。それどころか、憧れの女子生徒と言葉を交わすことさえ出来るようになった。教室の隅でビクビクしながら過ごす日々よ、サヨウナラ……。

 ところで本書では、基哉が〈 性 〉の問題で一人悶々とする場面が頻出する。中学生の男子にとって、〈 性 〉とは欲望や憧れであるだけでなく、自分が乗っ取られてしまうような怖さや、吐き捨てたくなるような汚らしさをも同時に感じるものであり、それに振り回されて苛立ったり自己嫌悪したりする基哉の生々しい描写が連続する。そういった意味で本書は、窪美澄とは違った形で〈 性 〉を描いた小説であると言えなくはないし、一読して、それがテーマだと思う読者は多いだろう。

 けれど、本当の主題はそこじゃない。

 ある人物から、ゲームの何がそんなに好きなのかと問われた際、基哉は《 こつこつやれば、ちゃんと強くなれるところです 》と迷わず答える。大学進学と同時にイメチェンを図った兄を、「すっかり変わってしまった」と嘆く母親に対しては、《 変わることが許されないなら、弱者は永遠に弱者のままではないか 》と、心中密かに憤る。或いは、初めてのデートを数日後に控えた日、《 僕は顔がだめだから、そのぶん服装で頑張らないと、周りの奴らには勝てない 》とムキになったりもする。そして、そんな基哉を、或る人物が静かに諭す。《 基哉くん、誰かに勝つことが強さじゃないよ 》と。


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 的外れだと笑わば笑え。強さとは何か? そして、優しさとは何か? それこそがこの作品のテーマであると、僕自身はそう読んだ。

 例えば基哉が、とある女性の緊急事態を救うため、彼女の部屋に上がり込む場面。二人で善後策を講じて事無きを得た途端、《 自分がほぼ面識のない女の家に押しかけたことを今更ながらに理解 》して、大慌てに慌てる描写がある。基哉以上にブサイクで、それこそスポットライトにも女性にも一生縁が無さそうな兄の〝 自分にとっては優しかった 〟数々の記憶を手繰りながら、《 お兄ちゃんのことを好きになる人は、必ずどこかにいる 》と、ごく自然に言葉にするシーンもある。

 そして物語の最終盤、窮地に陥った自分を心配そうに見つめる何人かを、視線だけで押しとどめ、一人、荒野を行く決意を固めるクライマックス。「僕に関わると巻き添えになるから。僕は大丈夫だから」と、口にはしないその優しさこそが〝 強さ 〟であると、基哉が自覚していたかどうかは分からない。が、少なくとも、ジョーカーをちらつかせて相手より優位に立つことが〝 強さ 〟ではないということは、この時の基哉は既に気付いていたのではなかろうか。

 読了後、僕の頭には名作絵本『モチモチの木』(作/斎藤隆介 絵/滝平二郎)が浮かんでいた。病から回復した「じさま」が、大任を果たした豆太に向かって、その頭を優しく撫でるようにして言う言葉。《 じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。にんげん やさしささえあれば やらなきゃならねえことは きっとやるもんだ 》。

「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きる資格が無い」なんて言葉を基哉が知っていたとは思えないが、彼の数々の行動が、優しさと強さが表裏一体であることを暗示してはいないだろうか?

 結論を急ぐ。如何にも奥田作品といった風情の弱気で後ろ向きな中学生が、スクールカーストの中で自分の立ち位置を手探りする『青春のジョーカー』いう作品は、優しさを伴わない強さは所詮はニセモノだということを、そして、本当に強い奴は、〝 強さ 〟以上に〝 優しさ 〟を湛えているものだということを、宣誓でもするかのような清涼さで描き切った、青春小説の傑作である。









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by dokusho-biyori | 2018-04-06 20:59 | バックナンバー | Comments(0)

18年03月

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 小学生の頃、彼にとってラグビーは正月にやっている、ぶつかりあって変わったボールを使う競技だった。磯辺焼きを食べながら、ぼんやりと目で追っていた。なぜそんなに進みたいのにボールを前へ投げないのかと、不思議に見ていたような覚えがある。年齢が上がるにつれて、だんだん試合も見なくなっていった。

 中学生の頃、彼にとってラグビーは、ただひたすら男っぽい、荒くれ者っぽいイメージしかもてないものだった。それを逆手に取って、いわゆる女性らしい、心優しい文化部的なラグビー部員しかでてこないギャグ作品を見ながら、ゲラゲラと友達と笑っていたのを思い出す。

 高校生の頃、彼にとってラグビーは家庭科室にあった。息子が名門校でラグビーをしていた先生が、息子とその部活動の友人たちとで撮ったいかつい写真を冷蔵庫に貼っていたのだ。砲丸のようなおにぎりをたくさん作り、寸胴のようなでかい鍋で味噌汁を作ってもてなしても、じーっと行儀よく座った彼らが食べ始めるとあっという間に全部なくなるのよ、本当にいい子たちなの、と笑う先生の顔は、当時もすごく眩しかった。

 大学生の頃、彼にとってラグビーは次元の違うスポーツだった。彼の大学は決してスポーツの強い大学ではなかった。だが、アメフトとラグビーは別格で、1回生の終わりになると、見どころのあると期待されたやつらがスペシャルメニューに取り組むらしいということをきいた。単なる練習量の話ではない。食べるトレーニングだ。普通の食事に加え、いりこやきなこ、牛乳や納豆、卵やプロテイン……。尋常じゃない量を食べ、身体をデカくしていくのだという。まさに、自分とは違う世界のことのような気がした。
 大学院の頃、彼にとってラグビーは人の背中から感じるものだった。同期に、他の大学のラグビー部で活躍していた学生が入ってきたからだ。クールで、それでいて頼もしい、身長は決して高くないのに、少しばかり背中の大きく見える人だった。その人が言った。


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「ラグビーって、本当に人間性の出るスポーツなんだ。何度相手に当たっても倒されるし、疲れて痛くて足が動かなくなる、もうだめだと思うような瞬間もある。でも、そんなときに顔を上げて、自分のなすべきことをできるのか、それが常に見られているスポーツなんだ。いくら日頃いいこと言ってても、そんなときにサボっちゃうと、ああ、そういうやつなんだな、と正直思う。それがいいか悪いか、って話じゃなく、でもプレーヤーとしてはそこで立って走り続けてほしいんだ。」

 ひょえぇ……と震えながら、でもこれが彼の見てきた景色なんだな、そう思った。

 同じ頃、彼は近所で美味しい飲み屋を見つけた。温かい自家製の豆腐が名物の、品のいい割烹のお店だった。人の良さそうなマスターと、きれいな女将さんが切り盛りしていた。あるとき、カウンター席の上に、木彫りのラグビーボールがあることを見つけた。訊くと、もともと同級生は社会人リーグに進んでバリバリと活躍するような大学でラグビーをプレーしており、お店を始めるときいたその同級生たちが、お祝いにとプレゼントしたのだそうだ。その横に飾ってあるミニチュアのラグビージャージと、そう話すマスターの照れ笑いが、どこか誇らしげにも見えた。

 そんな折、彼は入院した。食中毒に無理が重なったんだと思う。入院すると不思議なもので、本当に暇でしょうがなかった。本を読んでも暇、寝て起きても暇……。次第に彼は自分のそれまでを考えて、これからの身の振り方を考えるようになった。夢に挫折した頃で、時期的にも進路を変えなければいけないとは思っていたが、変えても変えなくても、どちらも自信はなかった。そんなとき、退院してテレビをつけた。高校生の頃、冷蔵庫に貼ってあったあの選手たちが、ワールドカップの大舞台で、当たっても倒れても、立ち上がって走っていた。

「頑張れ……!」
たぶん、人生で初めてラグビーにのめり込んでいた。ルールがわかるようになったからだけではない。わからないことも多かった。でもどういうわけか、これはどうしても見てなきゃダメなんだ、そう確信していた。試合に勝ってからは、よく覚えていない。


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 社会人になってすぐ、彼にとってラグビーは恩師のゆかりのあるスポーツだった。就職のときに相当に鍛えてもらった恩師は、ラグビー名門校の出身だった。毎年リーグ戦に足を運ぶ相当に熱心な卒業生である。就職して、一緒に秩父宮に行った。逆転負けに痛恨、動けなくなった恩師を促して、バーで飲んだ。恩師は言った。

「就職したとき、先輩から『迷ったらゴーだ。だから迷わずゴーだ』と教えてもらった。以来、迷うたびにいつもこの言葉に立ち返るようにしている」

 その言葉をきいたとき、走馬灯のようにラグビージャージが彼の目に浮かんだ。振り返れば、トライを分けるあのラインは、彼の見てきたラガーマンたちにとって単なるゴールではなかった。そのラインを飛び越えて、彼らはずっと走り続けていたんだと思う。

 彼にも僕にも、ラグビーの経験はない。だからここではあえて、ラグビーを愛する人をラガーマンとして呼ぼうと思う。そのうえでいうなら、『Number PLUS サンウルブズ 狼の咆哮。』のなかで「2019年のワールドカップを超えて」と繰り返し言葉にするラガーマンたちをみると、かなわないなぁと思ってしまう。2019年のラグビーワールドカップは、日本である。それまでに色んなことがあるんだろう、と平凡に言ってしまうことは容易だろうが、それを超えていくのは容易ではないことくらい、私にも容易に想像できる。

ただ、それはゴールではないのだ。



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《 いまよりずっと歳を重ねたとき、そこから見る今は、若い、だろう。あのころのわたしはもう若くないと思って控えめな格好だった、と振り返るのと、無茶やってたなと笑うのなら、後者のほうがずっといい、そう思わないか? 》


 知り合いの老人に「もっと派手な服装でもいいんじゃないか?」と促されて断固拒否した主人公に、その老人がそっと諭したセリフ。ファッションに限らず、〝 今しか出来ない冒険 〟というものを、少しは持っていたいものでござる。



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 明日、世界が終るかも知れない――。という設定は、『宇宙戦艦ヤマト』から『風の谷のナウシカ』から『ドラえもん のび太と鉄人兵団』から『ディープ・インパクト』から『アルマゲドン』から『インターステラー』まで、古今東西玉石混交、挙げ出したらキリが無い。世界の終末、人類の滅亡というテーマに何故人々は、これほど惹きつけられるのか? ひょっとして、みんな滅亡してみたいのか? いや、まさかな。

 なんてことを考えたのは、L・ブルックス=ダルトン『世界の終わりの天文台』(訳=佐田千織)を読んだから。帯の惹句は《 きょうで世界が終わるなら、あなたは誰と過ごしたい? 》。

 舞台は、北緯81度という世界最北の天文台。そこに戦争の噂が聞こえてきたと思ったら、空軍のジェット機が来て、職員・研究員を残らず乗せてあっと言う間に帰って行った。ただ一人、老天文学者のオーギーを除いては。偏屈で頑固なオーギーは、星空を眺めながら孤独に人生を終えようと、北極圏からの脱出の機会を自ら望んで放棄したのだ。

 ところが。その翌日だったか翌々日だったか、彼は二段ベッドの下の段に、8歳ぐらいの女の子が丸くなって寝ているのを発見する。可哀そうに、急な撤収騒ぎの中で〝 不在 〟に気付かれず、置いてけぼりを食ったのだろう。そう考えたオーギーが無線であちこちの基地に連絡を取ろうと試みるも、どの周波数帯もてんで反応が無い。やがて日が経つに連れて、彼は認めざるを得なくなる。理由は皆目見当もつかないが、人類は滅亡したか、或いはほぼそれに近い状態まで追い込まれてしまったようだ、と。

 しかしオーギーは、それならそれで構わなかった。彼にはそもそも残された人生は長くはなく、遣り甲斐のある研究も思う存分積み上げてきた。あとは、ゆっくり老いて、静かに死ねれば充分だ。

 とは言え、さしもの偏屈老人も、この極北の地に、しかも極夜が始まろうとしているこの時期に、10歳にも満たない少女を「自分の力で生きてゆけ」と突き放すほどの冷血漢ではない。世界で何が起こったのか、アイリスと名乗るこの少女が誰なのか、分からないことばかりだけれど、取り敢えず二人で生きていくしかあるまいな……。


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 こうして、珍妙な二人組の生活がスタートする訳だが、初読の時は〝 友達以上、親子未満 〟といった二人の親交に、幾度も胸を温められた。人類滅亡後の地球などと言うと、血沸き肉躍るSF巨編をついつい想像しがちだが、本書はむしろその対極。静謐に、安寧に、世界の終わりなどどこ吹く風といった雰囲気で、ゆっくりと二人は心を通わせてゆく。例えば或る夏の日、アイリスが綿毛がいっぱいの野草を取って来る。最近めっきり白髪が増えたオーギーは、《 こいつがわたしに似ているといいたいのか? 》と苦笑しながら、《 しおれた花のひとつを引き抜いて、自分のボタンホールにそっと挿した 》。どうということもないシーンだが、心を開ききっている二人の仲良しぶりが垣間見えて、ホロリとさせられる名場面だと思う。

 しかし、実はこの物語にはもうひと組の主人公がいる。2年前に人類初の木星探査に飛び立った六人の宇宙飛行士たち。彼らが見事にミッションを成功させ、いざ地球に帰還せんとしたその矢先、どんな手段で幾ら通信を試みても、地球と交信出来なくなる。しかもそれが、何週間も続いている。ということは、核戦争か地殻変動か或いは未知の病原菌によるパンデミックか、原因は不明ながら地球は既に、「自分たちが出発した頃の地球」ではない、と覚悟した方が良さそうである……。

 二度目の時には、こちらの宇宙飛行士たちに随分と感情移入して読んだ。どうやら地球に帰っても人間は一人もいないかも知れない。放射能汚染があったりすれば、自分たちもタダでは済まない。かと言って、このまま宇宙をさ迷い続ける訳にもいかない。そんな状況に追い込まれた時に、人は何を考えるのだろう?

 こうなると分かっていたら、喧嘩なんかするんじゃなかった。せめて、仲直りしておくべきだった。大事な人に、ちゃんと大事だと伝えておけばよかった。振り返る度に温め直せる思い出を、もっとたくさん作っておくべきだった。そもそも宇宙探査になど出たりせず、最後まで大切な人の隣りに居ればよかった……。


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 人類に一体何が起こったのか? これから地球はどうなるのか? オーギーとアイリスは無事に暮らしていけるのか? そして、宇宙飛行士たちの運命は? 様々な謎を抱えたまま、物語は静かに進む。しかし、主題は恐らくそこではない。世界の終わりに臨んだ時に、あなたが後悔することは何? その後悔の芽は、今の内に摘んでおかなくて大丈夫? アイリスたちのそんな声が聞こえてくるような気がするのは、恐らく僕だけではないだろう。

 お次は、もっと明確に人類が滅亡する話。B・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(訳=上野元美)は、「半年後に小惑星が地球に衝突して人類は壊滅する」という予測が発表された世界。当然、ヤケになって犯罪に走りまくる輩もいれば、《 死ぬまでにしたいことリスト 》を実現させるために南太平洋のリゾートに旅立ったりする者も急増している、という世の中。

 そんな中、かろうじて機能を保っている警察署でも、事件の捜査はおざなりで、分かり易い犯人がいなければすぐに事故や自殺で片付けようとする。まぁあと半年で地球が滅亡するとあらば、それも無理からぬことだろう。

 しかし、新米の捜査官パレスだけはそうではなかった。ベルトで首をつったと見られる遺体を見分して、ベルトだけが高級品なのを見逃さず、他殺であると確信して捜査を進める。当然、周囲には変人扱いされるか、多少マシでも「物好きな奴」といった好奇の目で見られ続ける。


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 物語はSF的要素をほぼ排して淡々と描かれる。数少ない手掛かり、数少ない協力者、そして限られた時間……。滅亡を前に日に日に荒んでいく世情を背景に、パレスが親代わりとなって育て上げた妹とのすれ違いや、唯一パレスの味方をする若き巡査との連帯などの人間模様も絡み、ハードボイルドタッチのミステリーとして堪能した。「このご時世に、何故そうまで熱心に捜査を続けられるのか?」と、或る人物に尋ねられて、《 未解決だからです 》と即答する、愚直でストイックな一人のプロフェッショナルの物語。

 もしノーベル文学賞に「小惑星衝突部門」が出来たとしたら、真っ先にこの作品に受賞させたい。伊坂幸太郎『終末のフール』である。

「8年後に小惑星が衝突して人類は滅亡する」と発表されてから5年が過ぎた、という世界。つまり残りはあと3年。パニックに陥った人々の暴走や、ヤケッパチの犯罪は、半年ぐらい前から不思議と落ち着きを取り戻した。多くの人が「騒ぎ疲れた」「暴れ飽きた」という精神状態であることに加え、どうせあと3年の命ならば、せめて穏やかに暮らした方が得だということに気付き始めた、という二つが小康状態の理由だと言われている。

 それでもジワジワと暮らしにくくなっている世の中で、夫と娘の反目を仲裁しようとする妻がいたり、自殺に追い込まれた妹の仇をとろうとする兄弟がいたり、試合のアテも無いのにひたむきにトレーニングを続けるプロボクサーがいたり、死んでしまった恋人の後を追おうとする青年がいたりと、実に十人十色な生き方で人びとはカウントダウンを迎えようとしている。

 袖振り合うも多生の縁。様々な人生がふとすれ違ったり交差したりしながら、彼らの意思とは無関係に影響を及ぼし合って、全体の大きな物語が積み上がっていく構成は、伊坂幸太郎の十八番。どの登場人物に感情移入するかはそれぞれだろうが、「自分だったらどうするか?」という自問自答は、全ての読者の脳裏に等しく浮き沈みするに違いない。


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 僕の場合は、或るひと組のおしどり夫婦。子どもが欲しいけど出来なくて、不妊治療もさんざんやったけど効果が無くて諦めて、そしたら地球が滅亡すると発表されて。大混乱の5年間を何とか生き抜いてあと3年という今になって、ひょっこり妊娠が発覚する。To be or not to be !? 産むべきか、産まざるべきか? そりゃ悩むよな誰だって――という程度の感慨しか無かったのだ、初読の時は。今回久しぶりに読み返してみて、この作品のメッセージ性に漸く気付いた。

 僕らは通常、当分は生きる前提で生活している。勿論「当分」の長さには個人差があるだろうが、少なくとも「3年後に死ぬ確率100%」という覚悟で生きてる人は稀だろう。生きていればいずれ死ぬのは定めだけれど、それは明日ではないし明後日でもなく、はっきりはしないけど「当分」先。そういう感覚で過ごしている人が、恐らくは大半なのではあるまいか。だから例えば子どもを産むと決める時は、この先30年も40年も親子でいられると信じて疑わないし、就職にしろ学問にしろスポーツにしろ恋愛にしろ、長い人生の途上で少しずつクリアしていくつもりでいる。

 だが、ちょっと待て。僕らが明日死なないという保証はどこにある? 事故や事件に巻き込まれるかも知れないし、大災害に見舞われるかも知れない。病に襲われるかも知れないし、ふと死にたくなって自ら死を選ぶ可能性だってゼロとは言えない。神ならぬ身の僕らにとって、一寸先は闇なのである。にもかかわらず僕らは日頃、たっぷりと時間を与えられている気で過ごしている。

 前述のプロボクサーが「明日死ぬと言われたらどうするか?」と尋ねられて、《 明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか? 》と、逆に問い返す場面があるのだが、果たして僕らは、同じ問いに同じように返せる生き方をしているだろうか? 僕自身の答えは「否」である。明日死ぬ、或いは3年後に死ぬ、そう断定されたら、やり残したことと後悔することだらけである。

 それでいいのか? と、この小説は静かに読者に問いかけてくる。明日死ぬかも知れないつもりで、今日を存分に生きているか? と。その時になって「こうなると分かっていたら……」なんて言っても手遅れだぞ、と。


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 そう思って読んでみると、「あと三年」の為に「今」を精一杯生きようとする登場人物たちの人生は、実は案外幸せなんじゃないかという気もしてくる。少なくとも今の僕のように、切られた期限に気付かずに日々を浪費しているよりも、遥かに充実した「晩年」になることは確かだろう。物語の終盤、ある人物がふとこぼす《 死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ 》という言葉が、読後も長く余韻を引く。伊坂幸太郎の、初期の代表作と言っていい名作だ。

 日本の作品をもう一つ。『塩の街』は、有川浩のデビュー作にして、自衛隊三部作の第一作。

 或る日何の前触れも無く、巨大な――大きな物だと500メートルもある――塩の塊が世界中に飛来して、以降、人間が塩になってしまう奇病が大流行する。塩になった人間は、無論死ぬ。治療法も予防法も見つからないまま、致死率100%の《 塩害 》により、日本は半年で8000万の人口を失ったというから、まさに滅亡の危機。

 ヤケクソ気味の犯罪が多発したり、パニクった人々が無責任な噂に振り回されて右往左往するといった大混乱は、このテの滅亡文学のお約束。そんな荒んだ世界に一人放り出された小笠原真奈は高校生、見るに見かねて彼女を保護したタフガイの秋庭は三十歳のちょい手前。行きがかり上一つ屋根の下で暮らし始めた二人が、例えば「海に行きたい」と群馬から徒歩旅行を続ける青年に力を貸したり、刑務所からの脱獄犯と出くわしたりといったエピソードが続く連作かと思いきや、それらはほんのプロローグ。或る日、秋庭の旧知の――秋庭の様子からは、決して望んで会いたい相手ではなさそうな――人物が訪ねて来て、真奈と秋庭の関係も、そして世界と人類の運命も、音を立ててガラガラと転がり始める……。


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 以降、ハリウッドで映画化すればさぞ面白かろうというアクション&ラブストーリーが一気呵成に進むのだけど、一読すれば、有川浩はデビュー当時からやっぱり有川浩だったんだと、ファンなら大いに納得する筈。巨大なエビの大群が横須賀を襲ったり書物を守る為に図書館員が武装して戦ったりと、これまで数々の〝 常ならぬ発想 〟を物語化してきた彼女だが、その作風の根底には、〝 人が人を真剣に想う時のパワー 〟みたいなものが常に流れているように思う。愛が地球を救うかどうかは分からんが、本気の〝 想い 〟は誰か一人ぐらいなら多分救える。そんな等身大のメッセージを、舞台を変え、登場人物を変え、世界観を変えながら、幾つもの作品で描き続けてきたのが有川浩ではないかと思っている。

 だから〝 人が塩になる 〟などという突飛な発想に尻ごみせず、安心してページを開いて頂きたい。そこには、老若男女や肌の色に関わらず、誰もが持っている普遍的な感情がページ一杯に展開していることを約束しよう。

 今月のトリは、A・ケイ『残された人びと』(訳=内田庶)。こちら、知る人ぞ知る名作アニメ『未来少年コナン』の原作である。昭和53年の春から半年間NHKで放映されたこのアニメ、あの宮崎駿監督のなんと〝 初監督作品 〟なのである。僕ら昭和40年代前半生れの人間にとって、「コナン」と言えば名探偵ではなく「未来少年」であり、その仲間は毛利蘭や服部平次ではなく、ラナやジムシィ、ダイスにモンスリーなのである。

 世界中を巻き込んだ大戦争に於いて、核兵器をも越える超磁力兵器によって地球は大変動に見舞われる。大きな大陸は殆ど海に沈んでしまい、僅かに残った陸地に、僅かに残った人類がへばりつくように暮らしている。往年の科学技術は殆ど根こそぎ失われ、水車で小麦を挽いたり牛馬に頼って畑を耕したりといった、中世に戻ったかのような生活。人びとは皆貧しく、暮らしは楽ではないけれど、戦争よりはマシな世の中であることは間違いない。


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 しかし、支配欲が強い奴とかその欲を暴力で叶えようとする輩はいつの世にもいるもので、かつての科学兵器を復活させて、世界征服を目論む一派が、いよいよ実力行使に出ようとしていた……。という舞台で、その組織に捉まった青年コナンを中心に、超能力で遠くの人と会話が出来る少女ラナや、その祖父で地殻変動を予測した科学者のラオ博士などが、悪の野望を砕く為に立ち上がる。

 アニメを知っている僕からすると、『未来少年コナン』のダイジェスト版を読んでる感じで、〝 原作 〟と言うよりも〝 原案 〟と呼んだほうがしっくり来る。物語そのものよりも、「宮崎監督、この小説をよくぞあそこまで膨らませたな!」と、そっちの方に感心してしまう。アニメを知らない人が本書だけ読んだら、う~ん、どうなんだろ(笑)。正直、設定も人物も一つ一つのエピソードも大味で、面白くない訳ではないんだけど、現代の緻密なミステリーやSFに慣れていると、ちょっと物足りないかも。

 3月頭の時点で店頭に一冊在庫があるけど、版元品切れ重版未定なので、今後は二度と入荷しないかも。欲しい方はお早めに。とは言え、アニメも原作もどちらも知っている身としては、むしろアニメのDVDをこそ薦めたい。コナンの大胆な野性児ぶりや、ジムシィの極端な食いしん坊ぶりに笑い転げつつも、人間が人間らしく生きて行く為に必要なものは何か? そしてそれ以上に、不要なものは何か? といったメッセージが、説教臭くなく物語に溶け込んでいて、何度観ても心が洗われる。

 コナンの育ての親である「おじい」が、コナンに旅立ちを促すシーン。《 人間は一人では生きてはいけない。いや、一人で生きてはならないんだ 》と諭し、《 仲間を見つけ、仲間の為に生きろ 》と励ます言葉が、この作品の本質を一言でずばり表していると言っていいだろう。

 余談ながら、随分前の『ダ・ヴィンチ』だったかのインタビューで、俳優の石田ゆり子さんが「理想の男性は『未来少年コナン』のコナン」と語ってました。僕としては、ダイスとジムシィも捨てがたい。






編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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3月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-03-05 08:35 | バックナンバー | Comments(0)

18年02月

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「平成三十年二月」たぶん、それこそ30年くらいしても一読の価値があるものは、こういうものだと思う。『月刊文藝春秋』の2018年2月号の話である。同時に、目次をはじめてみたとき、ああ、いよいよ来たなぁ、とぞくっとした。それは雑誌云々という話より、社会の流れのなかで感じるたぐいの感覚だったと思う。私がみた範囲ではじめての、本格的な「平成を振り返る」特集だったからである。いいかえれば、「平成とは何か」という、平成が振り返られる対象になったことを実感した感触である。今期のアニメ・ポプテピピックで平成サブカルを煮詰めに煮詰めた演出が出てくるのをみて感じた、ああ、平成が終わっていくなという感覚にどこか近いものだ。

 平成という元号に、言葉に馴染めないまま30年が過ぎてしまった、という巻頭の言葉は、多くの人の実感と違わないのかもしれない。平成生まれの私にとってそれはあくまで推測するしかできないことなのが悔しいのだが、実は歴代でも有数の長さになった平成という期間をもってしても、昭和の長い時間はそこにあり続けた。

 平成の時間がそっくり自分の生きてきた時間になる私にとって、世のなかでかわされる平成という言葉をめぐる色々なやりとりの多くはあまり心地の良いものではない。自分でもそれがなぜなのかよくわからない。ただ、ありうる回答をするなら、次の元号という話題がでている今日をもってしても昭和が特集されることは多いし、それに一定の需要があることもわかるが、それだけに、どこかよそもの感というか、アウトサイダーというか、「君たちの知らない時代があってね……」という、見えない境界線のようなものでくくられて、平成やいわゆるゼロ年代を生きてきた私は身につまされるようなものを感じるのだと思う。


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 その私にとって、まさに待望の……といえる特集が、この号の平成特集である。数ある記事のなかでもある意味で今一番気になったのものが、「元号決定までの舞台裏」という241ページからの記事だった。生前の譲位については、『週刊文春』2018年1月25日号の「この人に会いたい」対談でもあったように、そもそもがかなりのインパクトをもった話である。また、気がつけば平成になって30年が経っているため――経験していない私がいうのも変な話だが――元号の決定に際してどんなことが伴うのか、その実際のところはおぼろげである。そのなかで、「天皇陛下のご存命中に次の元号を準備するのは、不敬という批判も免れません。ですから機密保持が最重要となります。」(241ページ)という前提にたったうえで、当時どのように元号が決まっていったのか詳細に書かれている記事は、法という近代の仕組みに根拠をもたなかった年号というものが、そのなかで組み込まれつつ、組み込みきれない部分をすくいあげ続けるという、平成の次の時代にも再び考えられなければならない現実があることを教えてくれるように思った。

 また、雑誌というメディアに載っていることを加味すれば、279ページのスマホ革命についての記事も平成で起こったメディアをめぐる最大級の「事件」といえるように思う。あなたの周りを思い返してほしい。iPhoneをはじめてもっていたのは、身の回りの誰だっただろうか。そしてそれをみたとき、自分はどう思っただろうか。私にとってのそれは、クラスメートにいた「変わりもの好き」で、彼がなにやらよくわからない形をしたタッチパネル式のガジェットをもっているのをみた私は、また色々と不便そうなものを買ったなぁ、と、なかば呆れながらみていた。テレビやパソコンの画面を触っちゃいけません! といわれ続けた世代だからというわけではないのだろうが、ガンガン指で画面を触ることに違和感をもつ友人もいたのを、今でもよく覚えている。今ではその「不便そう」なものは、無くてはならないものになった。フリック入力ではない「ケータイの数字キーを連打することで日本語を入力する」という、もはや一部の世代の人々にしか共有されていない身体経験にもとづいて操作する人を、今の高校生や中学生はどうみているのかな、と思ってしまうこともある。その意味でも、ここでいう「破壊的イノベーション」の先を、私たちはまだ共有しきれていないのではないだろうか。そして、その状態のまま、総体としての社会ではなく、浮島のような小さなクラスタとして集合体を形成するしかなくなったのかもしれない。


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「最大公約数ではなく最小公倍数の時代」(276ページ)という認識に基づくなら、そういう大きな集合体がないから、一人のものに収束しきらないのだろう。当時私が大好きだったフルメタル・パニックという作品のアニメが、いま東京では毎週日曜の朝に再放送されているのだが、そのなかに一人の人気アイドルのパロディがある。これは今やるなら誰でやるんだろうな、やろうとしても難しいんだろうね、そういって先日も友人と話したことを、今ふと思い出した。二七五ページの記事にあるようなAKBに代表されるように、グループという形でのアイドルが活躍するようになったことに慣れたが、系譜的にはそれも平成になってから顕著になったことなのかもしれない。

 私にとって、平成という時代は自分の生きてきた時間そのものである。「いいか、今日は平成12年12月12日だから、歩くときはちゃんとイチ、ニ、イチ、ニって歩くんだぞ」と父からわけのわからないことをいわれて送り出された小学生の朝も、みんなと太陽の塔の背に満開の桜をみながら酒を飲んだ大学生の夜も、こうして千葉の駅で手帳を確認しながらふと空を見上げる今日の昼も、私にとっての平成だった。これから、きっと「平成」特集号は増えてくるのかと思う。だからこそ、こういう号を手にとって、書棚にいれてほしい。あなたにとって、平成はどういう30年だっただろうか。



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《 職人は端っこに一番気ぃつかう。小さな端っこがようでけてるかどうか。そこに職人の腕がかかってる。職人は端っこから世の中、見てるんや。 》


〈 神は細部に宿る 〉という言葉もある。〈 凡事徹底 〉などとも言う。小さな仕事、些細な作業、取るに足らない役回り。そういった事が出来ない奴に、デカい仕事など出来る訳がないのだ、多分。






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 本を狩る。時の権力者が自己保全の為に、都合の悪い書物を強制的に接収し、焼却する。無論、逆らえば罰せられる。史上最も有名なのは秦の始皇帝の焚書坑儒だろうが、規模の大小を問わなければ、古今東西の様々な場所と時代で同様の狼藉が繰り返されてきた。

 第二次大戦中のドイツでは、ナチスに扇動された学生たちが、フロイトやハイネ、ケストナーやレマルクを〝 非ドイツ的 〟であるとして、片っ端から焼き捨てたと言うし、スターリン体制下の旧ソ連とか、ポルポトのクメール・ルージュとか、毛沢東の文化大革命とか、或いは南米やアフリカの軍事政権下でも、権力基盤の強化を狙った思想弾圧の一環として、必ずと言っていいほど「本」が標的にされた歴史がある。

 日本でもスケールは小さいながら、例えば高野長英らが徳川幕府の迫害を受けた「蛮社の獄」は〝 書物狩り 〟の一種と言えるだろうし、第二次大戦中の軍部による発禁・削除処分も、やはり〝 本を狩る 〟蛮行と言っていいだろう。また、今こうしている瞬間にも、例えばイスラム過激派が牛耳る地域では、膨大な数の書物が焼かれ、破かれ、踏みにじられているに違いない。

 現代のこの平和な日本で本屋の店員などというこれまた平和な仕事に就いていると、殆ど実感することはないが、「本」とは、支配者階級がそれほどまでに忌み嫌うものらしい。

 だが……。有史以降、何度となく焼き捨てられてきた「本」たちは、時の権力者が衰退し暴政が去った後には、瓦礫の下から新たな植物が芽吹くが如く、何度でも甦った。そして、混乱と荒廃の中で打ちひしがれる人々に、長く冷たい夜が明けたことを知らしめた。無論、本が勝手に自衛手段を講じて生き延びた訳ではなく、そこには、いつ終わるとも知れない暴力の中で、身を挺して本を守った名も無き勇者が必ず存在した。今回は、そんな勇者たちを、何人か紹介してみたい。


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 まずはフィクションから。『火星年代記』と並ぶ、レイ・ブラッドベリの代表作。『華氏451度』とは、僕らが日常使う摂氏に直すと約233℃だそうで、紙が自然発火する温度らしい。

「本」が禁じられて数十年。30歳のモンターグは、違法に秘匿されている本を燃やす「昇火士」という仕事に、誇りと遣り甲斐を感じている。《 いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ 》。

 その世界では人々は、本の代わりに小型ラジオと立体映像にどっぷりと浸かって、自ら考えることを放棄し、人間ならではの思考とコミュニケーションを忘れ去って既に久しい。その姿は、頭が空っぽの操り人形と化しているようで、うつろな目と半開きの口といった不気味な表情が、容易く想像出来てしまう。もしかしたらそれらのラジオや映像機器は、人民支配の為に――言い換えると民衆を洗脳する為に――政府が開発し支給した……とは書いてはいないが、あながち邪推とは言い切れないのではないか。民は寄らしむべし、知らしむべからず、だ。

 しかしモンターグは、徐々に本に惹かれ始める。そして、その気配を感じ取ったらしい上司から忠告される。《 昇火士の仕事をしていると、誰でも少なくとも一度は、むずむずと来るもんだ。本は何をいってるんだろう、と思うわけさ(中略)本はなにもいってないぞ! 人に教えられるようなことなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない 》。ならば何故、政府はやっきになって本を取り締まるのだろう? とモンターグは――この世界の住人としては極めて珍しいことだが――自分の頭で考え始める。もし本当に〝 本はなにもいってない 〟ならば、放っておいても害は無い筈ではないか。《 もしかしたら本が、ぼくらを洞窟から半分そとへ出してくれるのかもしれない 》。そんな危険思想を抱いたモンターグは、「バレたら身の破滅だ」と警告する内なる声を振り切って、徐々に深みにはまって行く……。

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 冒険の過程でモンターグが頼りにするある人物が、こんなことを言っている。《 いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ 》と。

 個人的には、知識も感動も娯楽も教養も、「本」の専売特許だとは思わない。映画にだって音楽にだって絵画にだって、心を動かされることはたくさんある。でも、だからと言って「感動させてくれるものは他にもあるんだから、本など読まんでもいいだろう」とは思わない。映画には映画の、音楽には音楽の、絵画には絵画の良さがそれぞれあるのと同様に、本には本でしか味わえない良さがある。皆が自ら読むのをやめてしまった先が『華氏451度』の世界なのだとしたら、そんなところに誰が住みたいと思うだろう?

 終盤、モンターグを救うあるグループのリーダーが、人類の愚行を不死鳥になぞらえる場面がある。有史以前、自ら起こした炎でその身を焼き、灰の中から甦ってはまた自らを焼いた不死鳥という鳥がいたという。何度も同じ過ちを繰り返してきた人類は、まるでこの不死鳥の如くだと。しかし、と彼は続ける《 われわれにはひとつ、不死鳥が持ちえなかった美点がある。われわれは、自分がいまどんな愚行を演じたか知っているという点だ 》。過ちを繰り返さない為には、その過ちを決して忘れてはいけない、ということだろう。

 因みに、ナチス時代に膨大な数の本を焼き捨てた過去を持つドイツでは、ベルリンのベーベル広場に、かつて燃やした二万冊の本がぴったり収まるだけの空っぽの本棚が展示されているそうだ。


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 そのナチスドイツのホロコーストが吹き荒れた時代。悪名高きアウシュヴィッツから生還した、一人のユダヤ人少女の物語。『アウシュヴィッツの図書係』は「著者あとがき」によると、《 事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉付けされている 》とのことで、主人公ディタ・アドレロヴァのモデルとなった女性は、現在もイスラエルで元気に生活しているという。

 本書で初めて知ったのだが、アウシュヴィッツには〈 家族収容所 〉と呼ばれる一帯があり、親が強制労働をしている間、子どもたちが集まって過ごした〈 子どもブロック 〉なるバラックまであったそうだ。とは言え学童保育のような呑気な施設である筈はなく、赤十字などの国際機関が査察に来た際に、人道にもとることはやっていないという、言わばカムフラージュの役目を果たしたらしい。故に食事や労働などで優遇された訳ではなく、入ったが最後死を待つのみという点は、他の区画となんら変わらない。アウシュヴィッツとはそういう場所だ。

 ところが、その〈 子どもブロック 〉を最大限に利用しようと考えた人たちがいた。

 収容者たちから没収した荷物が、一時的に保管されている倉庫から、監視の目を盗んで持ち寄った八冊の本。それを使って、有志の大人たちが〈 子どもブロック 〉で、隠密裏に学校を開校していたのだという。念の為に記すが、アウシュヴィッツでは本を所持することも閲覧することも厳禁だし、子どもに勉強を教えるなどもってのほか。見つかれば、それは死と直結する。

 その学校に於いて、図書係をかって出たのが、14歳のディタ・アドレロヴァだった。囚人服の内側に隠しポケットを作って本を運ぶ。監視の目をかい潜って本を貸し出す。大人たちは、地図帳を使って世界の地理を教え、ウェルズの『世界史概観』で、人類の歴史を語り聞かせる。ディタは、授業が終われば回収して秘密の隠し場所に戻す。はがれかけた表紙を縫い、破れたページを貼り合わせ、蔵書八冊の図書館を愛情たっぷりに管理する。そして一日の終わりが近づく頃、彼女は図書係の〝 役得 〟で、お気に入りの『兵士シュヴェイクの冒険』を一人でゆっくりめくりながら、辛い現実をしばし忘れる。


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 といった書き方をすると、「監禁されてはいるけれど、本の楽しさで乗り越えました」みたいな〝 ハートウォーミングな話 〟に思われるかも知れんが、ここはアウシュヴィッツである。ガス室から漏れ聞こえる悲鳴も餓死もチフスも投げ捨てられた遺体の山も、ディタたち少年少女は、毎日見て聞いて体験し続けているのだ。

 或る時、収容者たちを〈 まだ働ける者 〉と〈 もう役に立たない者 〉に選別する作業が行われた。〈 役に立たない 〉と判定されたら、言うまでもなくガス室送りである。ディタが仲良くしているマルギットという少女は、自身は〈 働ける組 〉に振り分けられたものの、母親と妹はダメだった。その時の様子を、マルギットはこう打ち明ける。《 あのね、ママも妹も微笑んでいたのよ! さよならって手を振りながら、微笑んでた。信じられる? 死刑を宣告されていたのににっこりと(中略)助かる可能性があるグループに私がいるのを喜んでくれていたのよ 》。

 そんな状況で読書。明日殺されるかも知れないのに学校。何の意味があるんだ? と思うのは僕だけではない筈だ。実際、ディタが一人の女性教師に食ってかかる場面もある。しかし、その女性教師は――恐らくはしゃがんでディタと目の高さを合わせるようにして――優しく、しかしキッパリと諭すのだ。《 戦争は永遠に続くわけじゃない。平和が来たときの準備もしなくちゃ。子どもたちはしっかり勉強しておかなければね。だって、廃墟になった国や世界を建て直すのはあなたたち若者なんだから 》と。『華氏451度』と同じように、ここにも武器を持たない勇者がいた。

 そうして1945年の春、何の前触れもなく収容所に自由と平和がもたらされる。連合軍がやって来て、昨日まで威張り散らしていた看守たちを連行して行く。《 三十一号棟の図書係ディタ・アドレロヴァは泣き始めた。この瞬間を見ることなく死んでいったすべての人たちのために涙を流す 》。ディタたちは、地獄から生還した。


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 解放の数日後、ディタが、イギリス人の兵士から本を貰う場面がある。兵士は、英語が理解できないディタを気遣って、拙いドイツ語で「その本は英語だよ」と告げるのだが、ディタは笑顔で応じた後、本の表紙を撫で回し、本の匂いを嗅ぐ。ページをめくって紙の音に耳をすます。「やっと自由に本が読めるようになった」というディタの歓びが行間から滲みだしてくる名場面で、仮に当時、電子書籍なるものがあったとしても、このシーンの温もりは紙の本でなければ伝わらないだろうな。だから紙の本を買ってくれ、と言いたい訳ではないのだが(笑)。

 自由に本を売り、買い、読めることの幸せをを噛みしめつつ、『アウシュヴィッツの図書係』を強く推したい。

 同じく、暴力から本を守った市民の実話だが、こちらはついこの間の出来事。『アルカイダから古文書を守った図書館員』はその名の通り、西部アフリカのマリ共和国で、イスラム過激派によるテロが吹き荒れた2013年、数百年間保管されてきた様々な古文書を、隠密裏に疎開させた市民たちのノンフィクション。

 西欧の知識層からは――ヘーゲルやカントでさえも――近代まで文字文化は存在しなかったと言われていた中西部アフリカで、代数や物理学に天文学、アリストテレスやプラトンの哲学、医学、薬学に至るまで、幅広いジャンルの書籍が11世紀には既に流布しており、16世紀には百を越える図書館や大学まで存在したという。それを世界に証明・紹介するために、各地に散っていた古文書を集めて蔵書37万冊の図書館を作ったのが、本書の主人公アブデル・カデルという図書館員。

 しかし、その古文書がイスラム過激派のテロと内戦によって、風前の灯となる。過激派たちは、自分たちの意に沿わないものを片っ端から「反イスラム的である」として、世の中から抹殺しようとやっきになる。


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 そんな訳で、過激派たちの目を盗んで古文書の大疎開作戦が展開される訳だが、何しろその数37万冊である。前述のディタのように、隠しポケットに忍ばせて、という訳にはとてもいかない。そこで登場するのが、名も無き大勢の一般市民たち。彼らは命の危険も顧みず、多くは無償で、古文書の移動、隠匿に協力する。一人一人が、今自分に出来る範囲で奔走する。

 物質的には日本ほど恵まれてはいない地域だけれど、僕らよりも――少なくとも僕個人よりも――遥かに〝 文化 〟を大切に考える人々の、小さな勇気の集合の物語だった。

 重い話が続いたので、最後は極め付けに能天気なヤツを。『バーナード嬢曰く。』は、どこかの高校の図書室を舞台にした、一風変わったギャグマンガ。登場するのは四人の男女。読書家キャラには憧れるが本を読むのは面倒臭いという町田さわ子。そんな町田を好奇心丸出しで観察する遠藤くん。その遠藤くんに密かに思いを寄せる図書委員の長谷川スミカ。そして、読まずにツウぶろうとする町田を激しく罵るSFマニアの神林しおり。

 この四人が毎日のように放課後の図書室にたむろして、読んで面白かった本つまらなかった本、今読んでる本これから読む本、いつか読みたい本読みたいのに挫折した本etcと、めちゃくちゃ気ままに語り尽くす。登場するのは、古典的名作から一昔前の流行本から芥川賞直木賞から本屋大賞から村上春樹からケータイ小説まで多岐様々。


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 その自由奔放さは「本の読み方に〝 絶対のルール 〟など無い!」と主張しているようでもあり、「本の面白さは十人十色。自分が面白ければそれでいい!」と語っているようでもあり、四人の書評や主張や感想や迷いに、共感しまくりながら全3巻を一気に読了。当駄文『読書日和』の読者なら、「あ、分かる分かる!」と膝を打つこと、一再ではない筈だ。例えば、神林しおりの以下のセリフ。《 本は読みたいと思った時に読まなくてはならない その機会を逃し「いつか読むリスト」に加えられた本は 時間をかけて「読まなくてもいいかもリスト」に移り やがて忘れてしまうのだ 》なんて、実に言い得て妙ではないか!

 更に。日常的に図書室にたむろするだけあって、彼らの書評がまた実に巧い。しつこく引用を続けると、海野十三「電気風呂の怪死事件」を、神林しおりが町田さわ子に紹介するセリフ。曰く《 銭湯の電気風呂で客が感電死するところから始まる短いミステリーなんだけど……すぐ読めて勢いがあって当時の銭湯の雰囲気も伝わってきて面白かったよ でもトリックとか雑でいろいろツッコミたくなるから人を選ぶかも 最後の最後でびっくりしたんだけど 》って、内容には殆ど触れてないのに、何だかものすごく面白そうに聞こえないか? 彼ら四人が実在するなら、是非とも『読書日和』に寄稿して貰いたいものである。

 そんな訳で、正直に白状しよう。面白い本を見つけたいなら、『読書日和』よりも『バーナード嬢曰く。』を読んだ方がいいかもしんない(笑)。それにしても、四巻いつまで待たせるんだ?



新刊案内
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文庫発売カレンダー
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まも無く文庫化
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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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2月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-02-02 10:07 | バックナンバー | Comments(0)

18年01月

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 新年ということで、新しいことを始めようという人も多いかもしれない。案外、そういうきっかけをくれる節目やらなにやらは、「何かをやりはじめる言い訳をくれる」という、実のところ思った以上に替えのきかない役割を果たしているのかもしれない。そう思うようになったのは、大学に入って親元を離れた辺りだった。

 というわけで……というほどきちんとしたものではないが、年のはじめくらい、時にはちゃんと雑誌コーナーからレビューのようなものを書いてみよう。

 テレビでも雑誌でも、毎回楽しみにしている特集があるという人はこれを読んでいる人のなかにもいるかしれない。私にもそういう特集があり、また今回とりあげるこれは、つくづくよくこれを紙で実現しているなあと驚かされるものである。『趣味の文具箱』のインク特集がそれだ。電子書籍の話題は頻出するが、本という数千年残ってきたフォーマットでこれを実現しているあたり、私はこういうものこそ現物で手元に欲しくなる。

 公式ホームページからの紹介を使いながら便宜的にいえば、『趣味の文具箱』とは「若者から大人まで広い世代の文具ファンに向け、万年筆や美しく機能的な文具を趣味と実用の視点から紹介」している年四回発行の「雑誌」である。

 いきなりレビューを放棄するようだが、私が何事かを書くより、どんな雑誌だろうと思われた方には実際に『趣味の文具箱』44号「インク沼へ、ようこそ!」を手にとって、そして最初のとじ込みページを読んでもらいたい。そこにあるのは、市販されている数多くの万年筆のインクを集め、その微妙な色合いが表現された特集である。


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 万年筆を使ったことのある人には伝わるかもしれないが、インクは紙との相性や経過時間によって微妙に色合いをかえていく性質がある。そのため、万年筆愛好家のなかには実際に書いてみないとわからないという感覚をもつ人も多い。そういうマニアックな次元からちょっと距離をおいても、年賀状や年末の繁忙期の資料作りで「画面で見たらいい感じの色味なのに印刷したらぜんぜん思ったような写真がプリントできない!」と思った方はそれを思い出してもらいたい。いわば、こうした紙と印刷技術の限界に挑戦した企画がこの特集であり、実際に私が関西に住んでいたときも、百貨店的な高級文具店のインクコーナーの店員さんがすっとこの特集号を出しながら色の説明をしているのを何度もみた、文具コーナー定番の号である。

 このとじ込みを開いたら、じっと自分の好きな色味を探してもらいたい。「ああ、この緑はきれいだな。あ、この深い青は落ち着いてみえるな」という感想をぼんやりと抱いているうちに、こんなことが頭をよぎらないだろうか。「微妙な違いだなぁ……この深い青とその近くにあるあの紺色は、どちらがより暗いんだろう」と。

 そういうときに68ページを開くと、思わず笑ってしまうと思う。ここには、市販されているインクの多くをきちんと測定し、その結果をもとにチャートに落とし込んだえげつない分類表がある。左上には一見同じようにみえる「黒インク」の僅かな色味の違いもサポートされている。

 これらの色味の違いをみると、一見同じようなブルーでも多くの色の重なりによって作られていることがわかる。このことがより実感できるのが、52ページからの色素分類である。理科の実験でしたようなペーパークロマトグラフィーによって細かな色味の違いがわかり、これらが重なり合うことでああいった僅かな差異が生まれているのだ。そしてこの構成比があるからこそ、66ページのように水分が増減してしまうと色味にもゆらぎが生じていく。


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 インクに紙の上で水を加え始めた辺りで個人的には「牛カツ天丼」を食べたようなずっしり感があるのだが、『趣味の文具箱』はここでとどまらない。先程も話題にしたように、インクは時間の経過とともに色合いが変わっていく。それは特に、古典インクと呼ばれる昔ながらの製法で作られたインクであれば顕著だ。このことが一番わかるのが、48ページからの古典インク色変化チェックだろう。筆記直後、5秒後、10分後、24時間後とその色味をとらえ、最終的に書いた当初との色の違いが明らかになっている。ほとんど違いのないような色味もあれば、原型が残らないような大変化をするものもある。

 これらがすべて合わさって、『趣味の文具箱』のインク特集はできている。現物として手にもってみていると、そのすべてを印刷技術でこなしていることの凄みを感じるし、だからこそ今でもインク売り場の片隅に必ず常備されているのだと思う。

 こうした特集は、ある意味で一番の顔であり、そして顔であるがゆえに、それぞれの「雑誌の差異」が一番際立つ瞬間でもある。実はそういう話をはじめると、またひとつの私が毎回楽しみにしている別の雑誌の特集号に話題が移り、そしてまたそれこそがいわば真打ちのような話になるのだが……今回はここまでにしておきたい。まだ今年は、11/12ヶ月も残っているのだ。



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《 世の中には生まれつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生まれつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。 》

『さぶ』山本周五郎

 支えてくれる裏方さんへの感謝の気持ちを忘れないだけでなく、自分が裏方に回った時は、感謝して貰えるような働きが出来る、サウイフモノニワタシハナリタイ。



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 リトアニア第二の都市カウナスと言われても、正直余りピンとは来ない。僕を含めて大多数の日本人は、杉原千畝の命のビザをかろうじて思い出す程度だろう。1940年夏、カウナスの日本領事館に赴任していた杉原が、ナチスの迫害から逃れて来たユダヤ系難民たちを救うべく、外務省の訓令に逆らってビザを発給し、数千に上る人々の脱出を助けた、というあれである。

 実はその1、2か月前にリトアニアは、ソ連の軍事侵攻によって独立を失っており、以後リトアニアの老若男女は、スターリン率いるソ連共産党から激しく迫害されることになる。具体的には、膨大な数の一般市民が故無き罪を着せられて投獄されたり処刑されたりしたのだけれど、共産党が徹底して隠蔽し続けたために、戦後も長く世界には知られないままだった。しかし1991年にバルト三国が独立すると、漸く埋もれた史実が明らかになる。その実態は、《 リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国は、ソ連による虐殺の時代に、じつに人口の三分の一以上を失った 》と言うから、ヒトラーも真っ青の暴虐非道ぶりである。

 そういった第二次世界大戦の知られざる一側面、ソ連とナチス双方に蹂躙され続けたバルト三国の近代史をベースに紡がれたのが、ルータ・セペティス『灰色の地平線のかなたに』である。描かれているのは、戦争の悲劇と、独裁国家の恐怖。そして、何度踏みにじられても息を吹き返す、雑草のようなリトアニア国民の逞しさ。

 作者ルータ・セペティスの父は、リトアニア軍将校の息子として生まれ、侵攻するソ連軍に追われて難民キャンプに逃れたという、まさに歴史の生き証人。「作者あとがき」によると彼女は《 自分の遠い親戚、シベリアに追放されて生還した人たち、強制労働収容所を生きのびた人たち、心理学者、歴史家、政府関係者など 》に取材し、《 この物語に出てくる出来事や状況の多くは、生還者やその家族が私に語ってくれたもの 》だと言うから、小説の体裁をとってはいるものの、強制連行と強制労働の描写は相当の事実を反映してると思って良さそうである。


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 1941年6月の夜更け、カウナスに暮らす15歳の少女リナ・ヴィルカスの家に、突如、ソ連の秘密警察NKVDが押し入って来る場面で、物語の幕は開く。そして彼女は、10歳の弟ヨーナスと母親のエレーナと三人まとめて、「反革命的」であるとして逮捕される。無論、裁判など無いし弁護士もおらず、銃で小突かれながら大勢の町の人々と一緒に連行されるのだが、たかだか10歳の少年の一体何が「反革命的」だと言うのだろう。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 リナたちが連行される直前、支度をするために与えられた20分間に、母親のエレーナが大切にしてきた食器を片っ端から叩き割る描写がある。《 ママ、大事にしていたものをなぜこわすの? 》と問うリナにエレーナがカップを床に投げつけながら《 大好きだからよ 》と答えるシーンが、いきなり切ない。NKVDの連中に持っていかれるぐらいなら、という悔しさが、ひしひしと伝わって来る場面である。

 職場から直接連行されたらしい父親とは一切連絡が取れないまま、三人は家畜用の貨車――座席どころかトイレすら無く、必要な時には床に空いた穴を使って、共に乗車している人々に背を向けて用を足さなければならない――に詰め込まれて約六週間。栄養価が低く不衛生な食べ物をほんの僅かしか与えられず、体力の無い老人と子供が次々と死んでいく。その遺体は、列車が停車する度に外に放り出される。葬儀も埋葬もないまま、野ざらしで。

 そして連れて行かれたのは、シベリヤの原野に浮かぶ孤島のような強制労働収容所。そこでリナたちが聞かされたのは、《 ソビエト連邦に対する反革命的活動の罪 》により、25年の重労働の刑に処せられるという通告……。

 この時の彼女たちの胸中は、「絶望」などと一言で簡単に言い表せるものではなかった筈で、僕らがどんなに想像力を逞しくしようとも、絶対に想像し切れないに違いない。


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 家族や恋人や友達と離れ離れに引き裂かれて、手紙のやり取りどころか安否すらも知らされず、相手が無事に生き延びている事をただ願う。髪の毛が凍ってポキンと折れてしまう程の極寒の中、重さ30キロにもなる穀物袋を運んだり、森林を伐採して薪を作ったりと散々こき使われた上、与えられる食料は一日にパンがたったの300グラム。

 スーパーで売ってる食パン1斤が大体400グラム前後で約1,000キロカロリー。成人男子の一日に必要なカロリーのざっと半分。300グラムのパンならその四分の三だから、リナたちには一日に必要なカロリーの3~4割しか与えられなかったことになる。しかも、病気や怪我で仕事を休めば、その日の配給はカットされるし、勿論、肉や野菜などの副食物もめったには手に入らず、それでいて土曜も日曜も無く毎日12時間以上も重労働を課せられて、それで健康を維持できる訳がない。或る日、空腹に耐えかねて畑の作物を盗み食いした老人は、見せしめのために皆の面前で、ペンチで前歯を全て抜かれてしまったり、収容者たちの扱いは、もう完全に奴隷以下。

 栄養失調が常態化した収容所では、赤痢とチフスと壊血病が蔓延し、栄養不足から一度怪我や病気をするとなかなか治らず、更には精神を病んでしまう人や、生きる気力を失くして自ら命を絶ってしまう人も出る始末。そして何より辛いのは、まさにこの世の地獄とでも形容すべき惨状を仮に生き抜いて、約束通り25年後に出所出来たとしても、現在15歳のリナは、その頃には40歳になっているのだ。

 いや、無理無理無理無理。俺なら「死んだ方がマシだ」と、きっと考えてしまうだろう。俺だけじゃない。読者の皆さんも、本書を読む際は是非、「もし自分がリナの立場だったら?」という想像力を精一杯働かせて読んで欲しい。「私は絶対挫けない」と言い切れる人が、果たして何人いるだろう?


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 ところがどっこい、なのである。リナたちはいつか故郷に帰る日を夢見ながら、そして、生死も定かではない家族や恋人の無事を祈りながら、収容所内の人々と助け合って懸命に生きのびようとする。

 病気で仕事を休んだ人には、皆でパンを分け合い、火にくべたレンガで体を温めてやる。誕生日には、様々な手段でくすねて来たジャガイモで、ささやかなパーティを催す。また或る日、フクロウの死体を見つけたリナが、病気で寝ている母親に食べさせるために持ち帰るのを、NKVDに見つからないように、何人もの収容者たちがそれとなく囲んで隠してくれる場面があるのだが、そうやって協力しても自分がフクロウの肉にありつける訳ではないのである。自分自身もいつ栄養失調で倒れるかも分からないという状態で、人に食わせるためだけに協力して肉を運ぶ、そんなことが可能なのか、人間は!?

 物語は、当然ながら終始陰鬱で、読んでいて気が滅入る場面も数々あるが、ただ一点、リナを始めとして多くの収容者たちが懸命にいたわり合おうとする姿に、僅かな光を感じ続けてページをめくった。些細な幸運を全員で喜び合い、ちっぽけな希望を全員で温め合う。誰か一人に降りかかって来た辛苦は、皆で力を併せてはね返す。不意に天から落ちて来た「運命」という大岩を、一人で支えようとすると潰されてしまうから、皆で力を出し合って懸命に堪える。誰かが弱れば、その人を休ませるために皆が少しずつ、自ら望んで負担を増やす。例えば芥川の『蜘蛛の糸』の犍陀多も人間の生の姿ではあるのだろう。でもその正反対のリナたちのような生き方も、人間に元来備わっている天稟なのかも知れない。いや、そうであって欲しいと切に願う。


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「作者あとがき」でセペティスは言う。《 ソ連による五十年間もの残酷な占領ののちに、一九九一年、バルト三国は独立を取りもどしました。しかも戦いによってではなく、平和的に、尊厳を持って。彼らは憎しみよりも希望を選び、どんなに暗い夜も必ずいつかは明けると、世界じゅうに示してくれたのです 》。

「読んで損した」と感じる人はいない筈だと言い切れる、数少ない本の一つだと思う。

 そうしてリナたちがシベリアで、命をつなぐための闘いを静かに展開していた頃、彼女のいとこのヨアーナもまた、生きのびるための試練に直面していた……。セペティスの二作目『凍てつく海のむこうに』は、『灰色の地平線のかなたに』の続編と言うよりは、「一方その頃ヨアーナは……」といった感じの、時期的にほぼ平行する物語。扱われるのは、やはり第二次大戦の埋もれた史実、史上最大規模の海難事件。

 舞台は東プロイセン。今ではポーランドの一部とロシアの飛び地カリーニングラードになっている一帯で、大戦中はナチスドイツが支配していた地域。

 1945年1月、その東プロイセンの目と鼻の先までソ連軍が迫って来て、住民たちは家を捨て学業も仕事も諦めて、西に向かって避難する。目指すは、バルト海沿岸のゴーテンハーフェン。そこでは、客船から漁船まで使って一般市民を避難させる「ハンニバル作戦」の準備が進められており、或る者は老体に鞭打ち、或る者は乳飲み子を抱えて、また或る者は生き別れた家族を案じながら歩き続ける。リトアニアから東プロイセンに移り住み、外科医の助手をしていたヨアーナも、そんな避難民の一人として西を目指す。

 そのヨアーナの他、彼女とたまたま行動を共にすることになった三人の若者たちを合わせた四人の視点が入れ代わりながら、この逃走劇は進んでゆく。


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 その道中では、例えば《 溝の中で死んでいた若い女の子は、スカートを大きくまくられていた 》といった無残な光景を、毎日のように見聞きするのだが、辛く悲惨な体験は死者だけではなく、今生きて避難の道程を辿っている一人一人にも容赦なく襲いかかる。例えばどうにか辿り着いた港では、一人の母親が泣きわめいている。《 いっしょに船に乗る子どもを、ひとりだけ選べっていうのよ。選べるわけないでしょ? 》と。無論、ヨアーナたちに何が出来る訳でもなく、本書ではこういった悲劇が、これでもかというぐらい念入りに描かれる。

 中でも、大虐殺のあったネンメルスドルフからたった一人で逃げて来た15歳の少女エミリアの境遇は、どんなに同情しても足りないぐらいの痛ましさで、しかも地獄のようなその記憶を懸命に嘘で上塗りして正気を保とうとする姿は、戦争というものの本質をはっきりと読者に提示する。即ち戦争とは、街や村を破壊する以上に、罪も無い市井の人々の心と、思い出と、希望と、笑顔と、そして幸せを破壊する行為に他ならないのだ。

「作者あとがき」にて、セペティスは言う。先の大戦では《 勝者、敗者を問わず、戦争に関わったすべての国が苦しみました 》と。そして《 たとえ、戦争で生きのびた人たちがいなくなっても、真実まで忘れ去られてはなりません 》と。

 本書では、多くの善良な男女が死ぬ。その死を乗り越えて生き抜いた少数の登場人物たちが、戦後、せめて健やかな暮らしを手に入れたことを、誰もが祈らずにはいられないに違いない。僕らが生まれた時代と場所を、つくづく幸せだと実感しながら。そしてこの幸せを、永遠に残し続けなければと決意しながら。



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 さて、こちらはうって変わって、思いっ切りエンターテインメント。アクション映画でも観るつもりで――実際、既に映画化が決まっているらしい――気楽にハラハラドキドキして欲しい。

 主人公のサム・ドライデンは38歳。かつて陸軍の特殊部隊に在籍していたこともあるタフガイ中のタフガイだが、今は除隊して平凡な一市民として暮らしている。そのドライデンのところに、以前の戦友クレアから、緊急の呼び出しが入る。詳しいこと説明しているヒマは無いと言われて取るものも取り敢えずに駆けつけると、連れて行かれたのは砂漠の中の一軒家。そこで変態野郎に監禁されていた四人の少女をアッと言う間に救いだしたかと思ったら、息つく間もなくその場を離れなければいけないと言う。一体何事やねん? と訝るドライデンにクレアが見せたのが、なんとびっくり、10時間24分後の放送をキャッチしてしまう不思議なラジオ。

 パトリック・リーの『予言ラジオ』はその名の通り、未来の放送が聞こえてくるラジオを巡って、悪の組織と正義の味方が、騙したり騙されたり裏をかいたりかかれたりしながら二転三転するストーリー。

 その不思議なラジオの原理を説明した小難しい部分は、よく解らなくてもそのまま読み進めて大丈夫。覚えておかなきゃいけない「前提」は、そう多くない。

 まず、予言ラジオは計画されて開発されたものではなく、某企業の研究室で偶然発見された技術だということ。開発者たちはその技術が悪用された場合の悲劇を即座に認識して、扱いには慎重の上にも慎重を期した。が、流出した。

 そもそもは偶然の産物であった予言ラジオは、あくまでも未来から一方的に送られる電波を、ただ傍受するだけの機械だった。どこどこの放送局の、いついつの放送を聴きたい、といった具合に手に入れる情報をこちらで取捨選択することは不可能だった。だが、予言ラジオの技術を盗み出した組織は、任意の未来を指定して放送させるバージョンアップを施した。


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 ここで、例えば『ドラえもん』なら、のび太が明日の出木杉くんの答案を盗み見て本日のテストに臨むとか、ジャイアンに殴られる場所を特定してそこを徹底して避けて過ごすとか、或いは宝クジの当選番号を調べてパパに買わせるとか、まぁせいぜいその程度の話だろう。その結果がどう転んだところで、のび太の身の回りでひと騒動あるだけで、世界は相変わらず至って平和に回り続ける。

 だが、ドライデンが相手にしなければならない敵は、当然ながらそんな暢気な輩ではない。狙うは世界征服なのである。それを阻止するために立ち上がるドライデンとクレアだが、その闘争が始まるや否や、二人は不意打ちをくらい、ドライデンは重傷、クレアに至ってはなんと敵に拉致されてしまう。なぜ、そんなにも敵は強いのか?

 そこで思い出して欲しい。予言ラジオの技術を盗んだ敵は、それを〝 未来に起こる事象を任意に選択して放送させることが出来る 〟ように改造したのだということを。即ち、《 これから立ち向かわなければならない敵は、自分がミスをおかすまえにそれがどんなミスか知っているのだ 》ということになる。もっと分かり易く言い換えれば、敵は常に後出しでジャンケンすることが可能なのだ。こっちがどんなに裏をかこうとも、こっちの采配をじっくりと見極めてから、最適と思われる手を後から落ち着いて打てばいいのだ。更に、である。応援を頼みたくてもおいそれとは頼めないという点でも、ドライデンたちは分が悪い。悪用の危険が常につきまとう技術故に、話す相手は余程慎重に選ばないといけないし、それ以前に「未来の放送が聴けるラジオ」などと言ったところで、こちらの頭がおかしいと思われるのがフツーだろう……。ドライデン、勝ち目無ぇ~。

 勿論、こういったエンターテインメントは、ネタバレと目くじらを立てるほどのこともなく、最後には正義が勝つように出来ている。バラしてはいけないネタは、誰が勝つかではなく「どうやって」勝つかという部分。ここでもちょっと小難しい理屈が並ぶけど、じっくり読み進めれば「ドライデン頭いいっ!」と、スカッと爽やかに驚ける筈。スピード感あふれる文章で、ホント、ハリウッドの豪華スペクタクルを観たような読後感。
























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by dokusho-biyori | 2018-01-06 23:35 | バックナンバー | Comments(0)

17年12月

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 我ながら他人のように自分を評するなあ、と思うが、十二月になると私は否応なく一年を振り返らないといけないような気でもするのだろうか。最近読んだ本でいうと『13・67』『琥珀の夢』は名作だと思ったが、それらを読んでいても「時間」に引かれて読んでしまう自分がいる。それは、瞬間とさえいえるような時間にもあてはまる。『Number 939号』の表紙を見て、ああ、確かにあの瞬間が伏線を含めてシリーズの全てを決めた瞬間だったなと思わされた、と先日も話したことがある。最後のギリギリ、その瞬間まで両チームがしのぎを削っていたからこそビデオ検証で判定が変わり、そして最後のサヨナラのシーンも「相手よりも半手先をいった」ホークスが勝ちをもぎ取った。そこまで含めて、あの瞬間を表紙にしたことが、あのシリーズを、そして『Number』という雑誌を、端的に表しているのかもしれない。暮れどきの季節だからなのかもしれないな、と時節のせいにしながら、そう感じる自分を観察してしまう、そんな師走である。

 人の寿命を八十年とすると、一歳児の一年は体感的には1/1年、二歳児の一年は1/2年……と積み上げていった際に、もう二十代には折り返しを過ぎているときいたことがある。計算をしたことはないが、一年一年が早く感じるようになることは、それだけその日常に馴染んだということの裏返しなのかもしれない。馴染んだからこそ見えづらくなってしまうが、一人の人生をさかのぼれば、必然的にそこには確実に積み上がっていった時間があるし、ウイスキーをつくるのには気の遠くなるような「利益を生み出さない」時間が必要である。「一人前の刑事」、「ウイスキーを商品になるまで育てられる人」……そういったものを育てる時間まで考えると、一言で言ってしまうのにはなかなか厳しい。それゆえに、物語にうっかり没入してしまうのかもしれない。

 ドラマで人気になって以降どんどん高騰して投資の対象のようになっている洋酒を皮肉るわけではなく、本当に言葉のままの意味で、そこまで大切に、大切に育てられたものだったら……と、大事に大事に……とより高い価値がつけられていくのが人情だろう。だが、そうやって囲い込んだところで、時間は無情に、そして等しくすべてに訪れる。残酷だとか、すばらしいとか、様々な言い方で色をつけられてしまいがちだが、実際のところ、そのままに受け入れるより他の方法はまだあまりわかってないように思う。


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 ああ、時間がたったんだな、と感じる瞬間は、人それぞれだろう。小さいと思っていた子供が学校に通うようになったことに感じる人もいれば、できたことができなくなっていくことに感じる人もいる。自分を振り返ってみて、私がその容赦なさというか、無機質さというか、ともかくそういったものを感じるのは、オリンピックやワールドカップのような四年に一度の祭典を迎えたときだ。『Number  940号』の表紙をみて、ああ、もうそんなにたったのか、と素直に思った。

 件の号は、ワールドカップの出場国のリストと選手がすべて揃っている号である……らしい。というのも、オランダ、イタリアがそこにはいないから、どこか違和感を覚えてしまう。

 特にこの二十年の日本にとって、サッカーは成長していく夢だったのかもしれない。Jリーグができ、ブラジルに勝ち、ヨーロッパのトップリーグに選手が出ていくようになった。ワールドカップは、出場どころか開催までした。世間には失われた二十年だのなんだのと暗い話も多かったが、そのなかでも折に触れてひときわ明るい話題だったのだと思う。だからこそ、ドイツで負けたときは呆然としたし、ブラジルで負けたときも喪失感があったという声が聞かれたのではないだろうか。

 日本がそうやって坂道を駆け上っていくなかで、坂道の上の雲はやはりまぶしかったように覚えている。二つ前のワールドカップ。オランダはロッペンやスナイデル、ファン・ペルシーらスターを揃えて、準優勝を果たした。三つ前のワールドカップ。イタリアはブッフォンらを中心とした守りでジダン率いるフランスに勝って、優勝を果たした。あ、聞いたことがある、という名前が出てきた人も多いのではないだろうか。中学生、大学生で迎えた当時は夜な夜なテレビにかじりつき、睡眠不足の不用意な高揚感のまま友だちと話した私も、その一人だ。そして容赦なく、本当に容赦なく、ここにあがった彼らのすべてが、ロシアのピッチに立つことはない。


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 この号の記事で言えば、時間とともに変わったと思うのはサッカーだけではない。アイルトン・セナというドライバーの名前を聞いたことのある人も多いであろうF1でも、かつては常勝を誇ったマクラーレン・ホンダが、信頼性不足・性能不足でいったん幕を閉じた。「マクラーレン・ホンダの名前だけでは一馬力も出ない」という現実は、ただただ厳然とそこにあった。組織としてF1に挑めるものでなければ、サーキットという戦場では生き残れない……記事は重く語る。ありきたりだが、常に変わり続けないと、常に変わらないでいることはできない、ということなんだと思う。オランダの育成制度に物を申すロッペンしかりだ。

 何か変わるということは、何かを失うということでもある。そう思えば、何も持っていないというのは幸せなことなのかもしれない。逆に、何かを得てしまったということは、そこからが本当に大変なのだろう。何かを失わないために、別のことを失う勇気が必要になり、そこからはひたすらに、失う恐怖と付き合っていかざるをえない。年齢が上がって常勝という言葉に憧れ以上の敬意を感じるようになったのは、そのことに気づいたからかもしれない。

 あなたは今年、何を手にし、そして何を失っただろう。時間はまた、等しく積み上がっていく。次のワールドカップでは、またいくつものドラマが生まれるのだろうし、またヒーローが生まれ、それを数年後懐かしく、どこか喪失感をもって思い出すのだろう。そのときに、このワールドカップに至るまでのドラマを、読み直してもらいたい。スポーツ好きとして、こういう号は是非オススメしたい。来るべき一年が、よきものでありますように。



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《 どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか。どうせ小便するからって、おまえ、水、のまないか? どうせうんこになるからって、おまえ、もの、くわないか? 喉、渇かないか? 腹、すかないか? 水やくいものは、小便やうんこになるだけか? 》


 やる前からさかしらに悪い結果を予測して、やらないことを正当化する、その格好悪さよ。その気になれば、「やらない理由」は幾らでも挙げられる。



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 昨今の日本の文学界で、後ろ向きにしか生きられないネガティブな人物を描かせたら、奥田亜希子が断トツだろう。過去に区切りをつけられず延々と後悔し続けたり、失くした幸せにばかり焦点を合わせて未来があることを忘れていたり、或いは、容姿やセンスや才能が極端に劣っていると信じ込み、人並みの幸せなど端から諦めていたり……。要するに彼女が生み出す人物たちは、男も女も、人生が実につまらなそうなのだ。

 勿論、日々の暮らしの中で笑ったり喜んだりということはあるだろう。が、胸の奥の深い部分で「自分には価値が無い」と確信しきっているために、幸せに対する執着が極度に薄い。喩えるなら、カリブ海に浮かぶセレブの別荘だのアラブの石油王が持つロールスロイスだのをテレビで見ても、僕らはフツー、自分には縁が無さ過ぎて本気で手に入れたいとは思わない。そういったレベルで、奥田亜希子の作中人物たちは、夢や希望を諦めている。手に入らなくて当然だと思っている。そこに見え隠れするのは、自虐と言うよりも自嘲。自己嫌悪ではなく自己否定。

 にもかかわらず――。どの作品でも、晴れた空の下で大きく伸びでもしたかのような、清々しい読後感が待っている。それをこれから、順番に紹介してみたい。

まずは、第三十七回すばる文学賞受賞のデビュー作『左目に映る星』(集英社)。主人公の早季子は、都内の会社の事務職で二十六歳。外見も性格もごく普通のOLさんのようだけれども、ただ一点、小学生の頃の初恋の相手が忘れられず、「あんなにも理解し合える相手は彼が最初で最後だろう」と新しい恋は諦めて、その代わり(と言ってはなんだが)、合コンで出会う好みのタイプと一晩だけの情事を楽しんで、相手の男から正式に交際を申し込まれると《 特定の人の恋人になるようには、性格ができていないみたい 》などとのたまわったりして、なんだかやたらと刹那的に生きている。


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 が、その合コンがきっかけで、初恋の男子児童と同じ癖を持つ宮内なる人物と知り合うことになる。と言っても勿論全くの別人で、それどころか「リリコ」なる売れないアイドルの追っかけにほぼ全ての休日を費やしているような、まぁひと言で言えば〝 おたく 〟な訳で、だから早季子は情事が目的ではないし、ましてや恋愛の対象などとは毛ほどにも思っておらず、ただ、「時々右目をつぶって左目だけで世界を見る」癖について問いただしたくて近付いただけ。しかし、そうとは知らない宮内は、早季子もリリコのファンなのだという勘違いを深めてゆき、大小様々なリリコ情報を律儀に早季子に知らせて寄越す……。

「まいっちゃうなぁ」という早季子の溜息が聞こえてきそうな展開であるが、とは言え、彼女の様子を不審に思った親友が《 早季ちゃん、そんな人と話が合うの? 》と問えば、早季子は《 誰にだって一つくらい、好きで好きで堪らないものはあるんじゃない? 映画とか車とか仕事とかさ。それが家族や今の恋人だと健全に見えるってだけの話で 》と即答するあたり、彼女は宮内が〝 おたく 〟であることで彼を蔑んだり嘲笑したりということはなく、そんな偏見の無さが早季子の、ひいてはこの物語全体のチャームポイントになっているのは間違いない。しかしそれ以上に、多くの読者の共感を呼ぶであろう本作品の最大の魅力は、著者の細やかな心情描写にあると思っている。

 例えば。早季子が宮内と、動物園に行く場面がある。待ち合わせ場所には宮内の方が先に来ており、彼は《 ちょうど一本早い電車に乗れたもので 》と淡々と口にするが、その手にある動物園内マップを目にした瞬間に、早季子は《 この人はわざわざ早く来たのだ 》と確信する。話の本筋には絡まない実に何気ないシーンだが、宮内が持つマップを見ただけで、早季子を退屈させたりしないよう早めに着いて計画を練っていたらしい彼の気遣いを慮ることが出来る早季子の、ナチュラルな温かさに思わずホッとさせられる名場面である。


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 或いは、紆余曲折を経て気持ちを沈ませる早季子の描写を挙げてもいい。《 早季子は冬に閉じ込められた気がしていた。明日も明後日も何日後も、朝、目を覚ましては寒さに身を震わせ、ストールを肩にかけて出勤し、ときどき自動販売機で温かい飲み物を購入して、凍えた指先を缶の熱に浸す。自分のそんな姿しか思い描けなかった。暖かい季節は二度と巡ってこないように思えた 》。どうだろう。悲しいとも落ち込むとも寂しいとも言わずに、見事に早季子の内面を浮き上がらせた名文ではなかろうか。

 ちょっとエラそうなことを言わせて貰うと、小説とは〝 何を書くか 〟よりも〝 何を書かないか 〟の方が重要だったりすることがしばしばあって、そもそも人間の心理など「悲しみ一色」とか「寂しさ一色」などといった単純なものではなく、様々な感情のグラデーションである筈で、それを悲しいとか寂しいなどと一言で言い切ってしまっては、それは文学ではなくもはや「説明」に過ぎず、そういった安直な表現に頼らずに、人物の心の周辺を丁寧に描き重ねることで一番の核心部を読者に想像させる、こういった文章をデビュー作の時点で既に使いこなしている奥田亜希子は、ここ何年かの内に必ずや直木賞の候補に挙がってくると断言したい。

ついでに言及しておくと、彼女の小説は心情描写だけでなく情景描写も読み応えがあり、例えば早季子と宮内が夜の公園のベンチで話しているこんな場面。《 そのとき、一台の車が背後の道を通った。車体からはエンジン音より大きな音楽がもれていて、こぼれた旋律が残り香のように周辺を漂った 》。これなども、目から入った文章が瞬時に音と映像に変換されはしないだろうか? こういった細かい――下手をすると気付かれずに読み飛ばされてしまうかも知れないぐらい些細な――リアリティを積み重ねることでしか出せない〝 物語の立体感 〟とでも言うべきものが、本作に限らず、奥田亜希子の小説には溢れている。読者諸兄には、ストーリーを追うだけでなく、奥田亜希子ならではの表現を、是非とも堪能して頂きたい。


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 で、ストーリーの方はと言うと、例の幼い初恋以来、「一致すること」と「分かり合うこと」がイコールだった早季子が、〝 不一致だからこそ生まれる一体感 〟に気付くことで急転直下の展開を迎える。終盤、《 このあいだの映画、私、本当は全然面白いと思わなかったんです 》から始まる早季子の言葉は、日本の恋愛小説史に残る名セリフだと思う。引用は控えるので、是非ご自分の目で読んで、温かい勇気が湧いてくるのを実感して欲しい。

 さて、先を急ぐ。デビュー二作目『透明人間は204号室の夢を見る』(集英社)は、これまた人生を投げてしまったような二十三歳の女性が主人公。幼い頃からコミュニケーションが苦手で、《 分かりやすくいじめられるというよりは、触れてはならないものとして扱われ続けた学校生活 》を送り、今は雑誌のライターと棚卸しのアルバイトの兼業で生活している実緒。実は高校生の頃に文芸誌の新人賞を受賞したことがあるが、以降全く書けていない。出版界からは半ば忘れられ、私生活でも友人と呼べる存在はおらず、いわんや恋人をやといった感じで、稀に好意を抱く相手が現れても、《 自分なんかに関われば、相手の素晴らしい性質はきっとマイナスに傾き、損なわれてしまうだろう 》とまで後ろ向きに考えるのだから、悲観的にも程がある。

 そんな実緒がふとしたきっかけから、春臣といづみという大学生カップルと知り合い、不器用な友情を育んでゆく、というのがこの物語の大まかな筋。……なのだが、そこは奥田亜希子である。安物のテレビドラマのような分かりやすい起承転結とも、予定調和のハッピーエンドとも、一切無縁。人生で初めて、友だちと呼ぶに相応しい相手と知り合った実緒の心の浮き沈みを、ただひたすら丁寧に書き紡ぐ。それによって、「期待し過ぎては後で落胆する」と自らをネガティブに戒めながらも、どうしても高揚してしまう彼女の情感が、読者の心にジワジワと沁みてゆく。


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 実緒がいづみから、「ほいっ」っといった気軽さで飴玉を貰う場面がある。そんな気取らない親しさで誰かから何かを貰った経験が無い実緒は、その包み紙をどうしてもゴミとは思えずに、なんと自宅のデスクにそっと飾っておくのだ。多分実緒は、嬉しかったのだろう。そしてそれ以上に、いづみとの関係が壊れてしまうのが怖かったのだろう。だから、どうか壊れませんようにと、きっと祈るような気持ちで包み紙を飾っていたのではないか。そんな想像を働かせながら読み進めると、男の俺でさえ、しくしくと胸が疼くような切なさを感じずにはいられない。

 物語は終盤、実緒のコミュニケーション下手がモロに出て、ありきたりのハッピーエンドには至らない。が、曲折浮沈の果てに彼女は頓悟する。自分が原稿用紙と向き合うのは、誰かに読んで貰うためではなく、自分が書きたいからこそだと。ならば、買い物をするのも料理をするのも仕事をするのも、生活全般、生きて暮らしていく全ての瞬間に於いて、人にどう思われるかではなく、自分がどうしたいかの方が大事なのだと、多分彼女は気付いたのだ。だから、かつてはジーンズを買っても《 裾をきれいに切ってもらったところで、自分を見る人はいない 》と、裾上げにすら尻ごみしていたが、恐らく今後は、試着室から店員に声をかけるに違いない。たとえ誰も見てくれてはいなくても、おしゃれを楽しむのに「自分がしたいから」という以上の理由など要らないのだと、ごく自然に思えるようになったのだから。

 三作目の『ファミリー・レス』(KADOKAWA)は、当欄17年2月号で大きく採り上げたので、今回は、軽く触れるにとどめたい。

 とある事情から最愛の姉と絶縁した妹が、自分の傷を正面から見つめて新たな一歩を踏み出す「プレパラートの瞬き」、妻の親類一同とソリが合わない売れない画家が、妻の祖父と意外な点で趣向が一致することを知って、初めて親しみを覚える「指と筆が結ぶもの」、婚約が破談になった娘と、その父親の教え子だったという青年の奇妙な邂逅を、彼女の飼い犬の視点から綴った「アオシは世界を選べない」など、ちょっとギクシャクしてしまった六つの家庭を題材に、家族のあり方を鋭く問いかけてくる短編集。どの作品も奥田亜希子らしい深くて繊細な文章が溢れていて、実に甲乙つけがたい。


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 例えば第四話、冴えない中学生男子のピュアな恋を描いた「さよなら、エバーグリーン」では、主人公の曾祖母が、散りゆく桜を眺めながら《 きっと、また来年も春が来ることを知っているから、咲くことにも散ることにもためらわないんでしょうね 》と、誰にともなく呟く場面があるのだが、その言葉が、主人公が健気な決意を表明するラストシーンにきれいにつながってゆくあたり、下手なミステリーよりも遥かに「ハッ!」とさせられる。これがあるから、奥田亜希子はやめられない。どうか皆さんも、話の筋だけでなく、ちょっとした文章の裏に作者が忍ばせた登場人物たちの心の機微にも、目を配り心を配りながら楽しんで欲しい。

 さて四作目。『五つ星をつけてよ』(新潮社)も、自分を肯定出来ない六人の男女が登場する短編集。

 第一話「キャンディ・イン・ポケット」は、自己否定型の女子高生の、卒業式当日を描いた青春小説。自分を地味で冴えないマイナー系だと規定して、《 ピエロになるかもしれない危険な橋は渡りたくなかった 》と、目立たないことだけを心がけて学校生活を送ってきた沙耶。そんな彼女に、学年中の人気者で男子にも女子にも友だちの多い椎子が、どういう訳だか親しげに接してくる。が、沙耶は、自分のようなつまらない人間が椎子の親友になろうなどと高望みしてはいけないと、常に自分を戒めてきた。《 地元の友だち、という重りでもって椎子のそばに留まるには、私の存在は軽すぎた 》と、卒業後には忘れられることを覚悟して、「親友になりたかった憧れの同級生」との最後の一日を、そっと抱き締めるようにして過ごす。


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 ところが! という起承転結の「転」以降は、この作家の本領発揮! ラストシーンは、校門を出て駅までの歩き慣れた道を踏みしめる沙耶。《 呼吸を整えるため、目を閉じて大きく息を吸った。/春の匂いがした 》という僅か二行の文章が、この作品を最高の成長小説へと昇華させている。沙耶が己の皮膚感覚のみで春の到来を感知した、その意味するところを推し量りながら、ゆっくりと物語の余韻に浸って頂きたい。

 そして最新刊『リバース&リバース』(新潮社)は、傷つき折れかけた人々が、もう一度頭をもたげて一歩を踏み出す物語。

  視点は二つ。ティーンズ雑誌「Can・Day!」の編集者・菊池禄は、「ろく兄」のペンネームで読者からの相談コーナーを担当している。《 僕の回答で気持ちが楽になったと、一件でも反響があれば疲れは吹き飛んだ 》と、やり甲斐を感じていたが、年を追うごとに読者からの手紙は減り続け、遂に編集長からは、コーナーの大幅削減を示唆される。そしてプライベートでは、少年の頃の後悔を払拭出来ずに自分を価値の無い人間だと決めつけて、《 つまらないのは自分だけではないと思いたかった 》という、それこそつまらない動機で、誰のものとも知れない退屈なブログをチェックするのを日課にしている。

 もう一つの視点は、長野の山里でその「Can・Day!」を毎月楽しみにしている女子中学生の郁美。幼稚園の頃から常に一緒だった親友の明日花が、イケメンの転校生にのぼせあがって、急速に自分から離れていくことに焦りを覚え、苛立ちを募らせる。

 そんな二人が、交わること無くそれぞれの視点でそれぞれの日常が進行してゆくのだが、周囲にはごく当たり前に生きているように見せかけながらも、心の〝 芯 〟と言うよりも〝 底 〟の方で自分を信頼しておらず、自分自身への不信感が生き方を窮屈にしてしまっている様子は、読んでいるこちらまで時に息苦しくなる。


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 くどいようだが、奥田亜希子は後ろ向きにしか生きられない人物を描くのがホントに巧い。と同時に、いや、だからこそと言うべきか、後ろしか見えていなかった彼や彼女がふとしたきっかけで振り向いて、「なんだ、道は前にも続いているのか」と半ばあっけに取られながらも踏み出す一歩が、彼女の作品には必ず描かれている。それは例えば松岡修三氏のようにポジティブを無理強いするのではなく〝 ネガティブに傾きがちな自分をも受け入れる 〟〝 ネガティブであることで自分を否定しない 〟、そんなふんわりとした自己肯定。まさにそれこそが、奥田亜希子の文学の一番の魅力ではなかろうか。

 勿論それは『リバース&リバース』でも同様で、例えば、ある人物が終盤に放つこんなセリフ。《 人はね、ずっと被害者の立場ではいられないの。日常生活の中では、誰もが被害者にも加害者にもなるの。なっちゃうの。なにかでは傷つけられる側にいても、また別のなにかでは人を傷つけてる。私たちはね、許したり許されたりしながら、何度も何度も関係をひっくり返しながら、なんとか進んでいくしかないんだよ 》。この言葉は自分が被害者であることばかりを強調するある人物に向けてのものなのだが、実は、加害者の側、傷つけてしまった側に対しても、「だからといって、自分を完全に否定する必要はないんだよ」と、優しく諭してくれているように、僕には思えるのだ。

 さて、思いがけず長くなった。最後にもう一度だけ言わせて貰おう。奥田亜希子の作品には、後ろ向きにしか生きられないネガティブな人物ばかりが登場する。しかし、だからこそ、そんな彼らに、僕らは落ち込んだり凹んだりする自分を重ね、彼らが不器用ながらも前を向いて一歩を踏み出す姿に、清々しい励ましを感じるのではないか。本当に心が俯いてしまっている時に、「元気を出せ」と言われて元気が出るなら苦労は無い。元気を出したくても出せないから、僕らは苦しむ。ならばいっそ、「前を向けない自分も、自分。否定しないで受け入れてあげよう」と言われた方が、遥かに救われる時がある。ポジティブな考え方ばかりが奨励される世の中で、ちょっと疲れたなと思ったら、奥田亜希子を試して欲しい。きっと、心の凝りがほぐれる筈だ。



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連載四コマ「本屋日和」
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12月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-12-08 09:07 | バックナンバー | Comments(0)

17年11月

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清原和博の手帳――文藝春秋業部 川本悟士

 この原稿を書いているのは、十月も暮れのことだ。夏といい、CSといい、今年は雨が降りまくっているような気がするが、そんな一年ももう佳境。ドラフト、日本シリーズ、ストーブリーグといったプロ野球の話から離れても、ハロウィンの、忘年会の計画が聞こえてくる。もう少ししたら、クリスマスの話が出て、一気にお正月になってしまうのだろう。

 そんなときに、書店をふらっとのぞくと、今年も手帳のシーズンである。立場から離れていえば、文房具好きな私はこのシーズンが結構好きだ。来年はどんな手帳を使おうか、どういう手帳の使い方をしようか。レイアウトはどうして、カバーをどうして、手帳に合わせた万年筆は、インクは……と、同じような文房具マニアのブログを徘徊しながら、ああ、年末だなぁと思わずにはいられない。中学生のときはジーンズ生地のシステム手帳ファイルを毎年愛用して、リフィルを入れ替え差し替えしながら毎年新しく作っていた。ルーズリーフだと一年使っても見返さずもったいないなと思い、大学生になってからは週間レフトの細身の手帳を使ってみたり、デイリーの手帳をサイズを変えて使ってみたりしつつ、一月始まりや四月始まりを使い分けながら、毎年「手帳放浪の旅」を続けている。この職業についたんだったら、どうせなら黒革のカバーを! を思って作ったりもした(会社が違うことには後から気づいた)。私はそういう人である。

 ただ、毎年そうやって手帳を楽しく選び買い続けているということは、裏を返せば、それは毎年続いていない使い方や、何かしらがあるということでもある。それは、たぶん私だけではない。私は多少人よりも文具が好きでこういうことに凝ってしまう人だが、そうでない人も、そして私よりもっと凝ってしまう人も、ほとんどの人はむしろ後者の「毎年続いていない何かしら」の方がおなじみなのではないだろうか。「三日坊主」という言葉が慣用句になっていることが、その証拠だろう。

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 枕はここまで。『Number 937号』の清原和博「告白」第七回目のインタビュー「黄金ルーキーの手帳。」で、あの番長が一年目に手帳をつけていたことを私は初めて知った。それによれば、ゲームを終えて球場の駐車場に行くと他の選手たちの家族が待っており、その時の選手や家族の表情を見ていて『ああ、みんな生活がかかっているんだ』と思い知らされたことがきっかけで、高校生の一四〇キロとプロの投げる一四〇キロは背負っているものの重さが違うんだと思い知らされたことがきっかけで、自分もこの世界で飯を食っていくんだという意識を強くもったことがきっかけで、その日の打席での配球を手帳につけるようになったのだという。それを毎日毎月続けていくことで、入団当初はプロの一線級のエースたちが自分の打席で彼らの「決め球」を投げてくれなかったが、九月頃になるとだんだんスピードにも慣れ、ホームランを打てるようになっていく。手も足も出なかったはずが、狙い球に自分のスイングができれば、結果がついてくるようになった。そういう成長を周りも認め、次第に他球団のエースが自分に「決め球」を投げてくれるようになる。それは、その積み重ねがあった上に達成できたことなのだろう。同じようにまったく新しい環境で生活を始めるようになった自分としては、ここになんともいえない感情を抱いてしまう。それは、共感とも憧れとも焦燥ともいえない感覚である。ああ、いいな、この人はすごいな、自分はそれができているんだろうか……と。

 一方で、本人が最後に語るように、これを続けられたのはあの一年だけだったという。何かを続けることは本当にしんどい。それは、たぶん続けられるようになってしまえばそれほど苦だと感じないようなことなのだろうと、頭ではわかっていてもである。会社でもそうだと思うし、学校でも家庭でもそうだと思う。自分なりのリズムややり方をつかむまではなかなかうまくいかないし、どうにかうまくいくようになると、なんとなくそれに安心してしまったわけでもないのだろうが、どうもそれまでとは違って、階段を登っていたはずが踊り場に出てしまったような感覚に襲われる。病院で、学校で、職場で、もっと~してくださいねといわれ、わかってはいてもついついそれができない。テレビや雑誌で見たこの方法を試そうと思って、ついつい忘れてしまう。流石に「僕らの」と自信をもってはいえなくとも、少なくとも「僕の」日常はそれの積み重ねでできている。だからこそ、続けられる人は憧れるし、同時に悔しくもある。

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 ただ、続けられないことは、別に無為に毎日が過ごされているわけではないのだと思う。同じく『Number 937号』での桑田真澄「これが僕のドラフトのすべてです」でも語られるように、中学生の時の先生の言葉、ドラフト前のスカウトの目……鮮烈な印象は何かに記録しなくても目に焼き付いている。それは鮮烈なものでなくてさえいい。清原和博の一年目を支えたもののひとつは、チームの先輩・渡辺久信が運転する車で食べに行く街道沿いの店で、長崎ちゃんぽんを食べながらああだ、こうだと話すその時間だったという。それは、きっと手帳や日記に書く必要のないくらい、他愛のない毎日の一ページ。だが、そんなことでも、今もしっかり覚えている。それこそが、毎日がただ過ぎていったわけではないことの証拠だと、私は思う。

 だから、今年も新しい手帳を、新しい使い方で……と夢想する私がいることを、私自身はどこか安心してみている。何かを続けられなかったからといって、またこれからやる何かがいつもつねに続けられないとは限らない。続けられることはもちろんすごい。だが、続けられないからといって悲観しなくても、印象的な何かはどうしたって残っていく。それ以上に、来年を楽しみに自分が思えていることの方が大切である。そう自分に言い訳をしながら、私は今年も手帳に友だちの誕生日を書き込み、わかっている予定を書き込んで、年末を過ごしていく。そうやってこれまでもやってきたし、これからもやっていくのだろう。多くの人がそうだろうし、私もまたその一人だ。

 ただ……。私の祖父母は、いつもけんかばかりしているような印象もあり、あまりそうは見えなかったが、もう何十年も交換日記――A4だかB5だかの版の週間レフトで、左側には祖父の予定が、右側には祖母の日記が書かれている――をしていた。祖父が亡くなってからも祖母は毎年手帳を書き続け、彼女は今も年末になると私たちに手帳を買ってきてくれるように頼む。毎年のそういうとき、サイズと品番を確認しようと手帳をめくると、今は片方のページだけずっと白紙であることに気づく。僕はあの二人のそういうところを、尊敬してやまない。


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残る言葉、沁みるセリフ

《 人工物には完全がありますが、生物に完全はありません 》

『左目に映る星』奥田亜希子 集英社

 奥田亜希子の作品はいつも、人間の不完全さを肯定してくれる。それは、欠点も短所も放っておけという意味ではなく、パーフェクトな人間など存在し得ない以上、不完全であることが、或いは不完全である度合いが、その人の存在価値を左右する要素ではないと、そう言っているように僕には思える。


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神様は、本当にいるのか?――丸善津田沼店 沢田史郎

 現役の精神科医でもある帚木蓬生は、常に虐げられる人々を描いてきた作家である。

 山本周五郎賞を受賞した『閉鎖病棟』(新潮文庫)では、精神科病棟の入院患者たちが、世の中から疎まれ役立たずと蔑まれながらも、真摯に人生と向き合う姿を、温かな目線で浮かび上がらせた。南アフリカのアパルトヘイトをモデルにした『アフリカの蹄』(講談社文庫)では、家畜同然の扱いを受けてきた黒人たちが手に手を取って立ち上がり、「自分たちは人間だ!」と声を揃える姿を力強く描き切った。ナチスドイツのホロコーストに材を採ったのは、『ヒトラーの防具』(新潮文庫)だ。ユダヤ人のみならずロマ人や同性愛者、精神病患者や身体障害者など、罪無き数百万の人々を虫けらの如く抹殺したナチスの狂気を、筆を折らんばかりの怒りを以って刻んでいる。中世ローマ教会の異端狩りを暴いた『聖灰の暗号』(新潮文庫)では、同じキリスト教徒でありながら、邪なるものとして虐殺されるカタリ派の悲しみと苦しみが、行間から滲むが如くに綴られている。

 そして最新作の『守教』(新潮社)では、豊臣政権末期から明治維新の数年後まで、三百年間に亘って虐げられ続けた隠れキリシタンが採り上げられる。上下二巻、600ページ余りの大作で最も紙数が割かれるのは、権力に屈することなく信仰を守ろうとする彼らの、勇気ではなく迷い、決意ではなく葛藤。

 例えば、西の村で信徒が拷問にかけられたと耳にすれば、当然明日の我が身が心配になるし、東の村でキリシタンが一家揃って火炙りにされたと聞けば、やはり信仰が揺らいだりもする。或いは、監視の網をかい潜って密航して来る伴天連の神父を、匿ったりすればタダでは済まないことは分かっていながら、ならば宿を請う神父を無碍に追い返せるかと言うと、信仰が邪魔をしてそれも出来ない。こうなるともう、やって来る神父や修道士たちが幾ら「日本の信徒を救うため」と言ったところで、むしろありがた迷惑でしかない訳で、そんな自分の本音に気付いた信徒が、罪悪感に打ちひしがれたりもする。

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《 私は転ぶこつにしました。転んだほうが楽に生きていけるような気がするとです。びくびくしながら生きていくのは辛かです。私が転ばんでも、子や孫が苦しむだけでっしょ。そんなら、私の代で転んで、子孫にいらん悩みば持ち越さんほうがよかち思うたとです 》。――本書で描かれる信者たちの殆どは、艱難辛苦をものともせずに意志を貫く勇者ではなく、捕吏や密告に怯え、伝え聞く拷問の苛烈さに恐怖しながら、信仰と現実との間で激しく動揺する弱き人々だ。

 それでも、彼らの一部が、明治六年のキリスト教禁教の撤廃まで信仰の火を灯し続けたことは、歴史が証明する通りである。その時には日本で育まれた「イエズス教」は、神道や仏教などと混同されたり融合されたりして、正当なローマカトリックとはかけ離れたものになっていたようだけれども、だからと言って、多くの命が奪われ、家族が離散しても尚、300年にも亘って権力者たちから信仰を守り通した数千、数万の名も無き信者たちの勇気と忍耐とが、その価値を減ずることはないだろう。

 とは言え、僕自身は全くの無宗教なので、どうしてそこまでして信仰を貫き通せるのか、本当のところは理解できない。逆に、弾圧の嵐の中で神の存在を疑ってしまう人や、拷問に耐えきれず棄教してしまう人の気持ちの方が解りやすい。現世がどんなに辛くても神が救って下さる、なんて言われても、死後の天国より今の無事。やっぱり今日一日を平穏に暮らしていく事の方が大事だと思ってしまう訳で、恐らく大半の日本人は、僕と似たようなもんじゃなかろうか。

 そんな僕らにも大いに共感できてしまうキリシタン文学が、遠藤周作の『沈黙』(新潮文庫)だろう。余りにも有名なこの作品を、こんな場所で今更採り上げる意義があるのかどうか、我ながら疑問を感じないではないが、『守教』を読んだ勢いで久しぶりに再読したので紹介してみる。

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 時は17世紀の半ば。島原の乱を平定した幕府が、キリシタンの探索と捕縛のシステムを一層強固にさせつつあった頃。ロドリゴとガルペという二人のポルトガル人司祭が日本に向かう。目的は三つ。第一は言うまでもなく、風前の灯となっている日本のキリスト教とその信徒を救うこと。第二に、キリシタン弾圧が強まるに従って、日本での布教の情報が教会に全く届かなくなったため、その探索と報告。そして第三に、彼らの師であり、イエズス会の重鎮でもあるフェレイラ神父が幕吏に捉えられた上、拷問に耐えきれずに棄教したという噂の真偽を確かめること……。そして二人は、神の御加護を信じて長崎の貧村に潜入するのだが、そこで彼らは、日本に於けるキリスト教徒が、如何に苛烈で無慈悲な扱いを受けているかを目の当たりにする。

 その拷問や処刑は、これが同じ人間のすることか!? と正気を疑わずにはいられないレベルなのだが、ここで引用したいのはその残酷な描写の数々ではなく、そういった過酷な運命を前にして、一人の貧しい日本人信徒が泣きながらロドリゴに訴えかけたひと言。曰く《 なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに 》。この素朴な疑問はしかし、信仰の根幹を揺るがす大問題を孕んでいることに、ロドリゴは気付いてしまう。そして、気付いたが故に彼は苦しむ。例えば或る夏の昼下がり、貧しい信徒の一人が、ロドリゴの目の前で処刑された時、彼は全霊で神に問いかける。《 なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片目の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける 》。

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 この言葉に共感する日本人は、きっと多いんじゃあるまいか。斯く言う僕もその一人で、唯一絶対の神っていうなら苦しんでる信者を救ってやれよと、彼らは何も悪いことはしてないだろと、そう思わずにはいられない。信心深き我らがロドリゴも同じように悩み続ける。何故、神は沈黙を続けるのか? そもそも、神は本当にいるのか? と。そして、そんな疑問を抱いてしまう自分自身を、心弱き者として責め続ける。

 しかし彼は、ギリギリの瀬戸際で理解する。神は、見て見ぬ振りをしていた訳ではない、ということを。では、その沈黙は何を意味するのか? その答えは敢えてここには挙げないけれど、不信心な僕でも納得できたと言うか、宗教論争にありがちな牽強付会な臭いは感じなかった。そして、ロドリゴが下した決断も、「きっとそれしか無かったろう」と思うし、それを実行に移した彼は――たとえ教会がどんなに非難しようとも――立派なクリスチャンなんだという気がする。

 以下は蛇足。本書を原作にしてマーティン・スコセッシ監督が映画化した『沈黙――サイレンス――』は、脚本がかなり原作に忠実だから、本書を読んでから映画を観ても、逆に映画を観てから本書を読んでも、相互にイメージを補完し合って作品の理解の一助になると思う。既にDVDも発売されているので、気になる方は是非。キチジロー役の窪塚洋介の存在感が凄かった。あと、フェレイラ神父を『シンドラーのリスト』のリーアム・ニーソンが静かに熱演しているんだけど、最初は誰だか気付かなかったよ。歳とったなぁ。


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陽気な藤沢周平――丸善津田沼店 沢田史郎

 前記のように重苦しい時代物が続いたので、カラッとしたのを読みたくなって、こちらも再読。『よろずや平四郎活人剣』(文春文庫)は、恐らく藤沢周平の作品では最も陽気な物語。

 時代は、水野忠邦が天保の改革で辣腕を振るっていた頃。一千石のお旗本、神名家の末弟……と言えば聞こえはいいが、実際は女中上がりの妾腹の子、平四郎。屋敷内での冷遇にほとほと嫌気がさして、剣術仲間と三人で道場を開こうと家を飛び出した。ところが予想外のトラブルで資金が不足してしまう。だからと言って、あの冷たい実家におめおめと帰る訳にはいかないという事で、陽の当らない裏長屋にひとまず居を構え、元手無しでもできる商売を始めることにした。その商売というのが、《 喧嘩五十文。口論二十文。取りもどし物百文。さがし物二百文。よろずもめごと仲裁つかまつり候 》という、胡散臭げな手間取り仕事。果たしてこれで食っていけるのか?

 といった幕開けの後には、当然、平四郎の仲裁屋稼業のドタバタが続く訳だけど、まず、やって来る客たちがバラエティ豊かで飽きさせない。浮気の後始末から放蕩息子の鍛え直し、かどわかされた子どもの探索から、盗賊に目をつけられた大店の用心棒まで、まさに《 世に揉めごとの種は尽きまじ 》だ。平四郎が実家を出てから二年間、24の事件の中には少し悲しい話も稀に混じるが、大概はスカッと爽やか勧善懲悪。明るい未来を感じさせる決着が用意されている。

 同時に、平四郎が相手をする小商人や貧しい裏長屋の住人たち、或いは岡場所の安女郎など、皆々、悩み事を抱えてお金に苦労し、明日への不安も尽きない暮らしを送っていながら、「江戸ものゝ生れそこない金をため」とばかりに、不平不満を笑い飛ばすバイタリティを持っていて、そういった社会の底辺に潜り込んで生活する平四郎自身も、時には米櫃がスッカラカンになるほど困窮したりもするのだが、そこはやはり未来溢れる青年である。「まぁどうにかなるだろう」的な呑気さを常にまとっていて、物語全体が快活な雰囲気に包まれているのはそのお蔭だろう。

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 そして、事件が平四郎一人の手に負えなくなると、件の二人の剣術仲間に助太刀を頼む訳だが、「なんで俺たちが」などとぶつくさ言いながらも、請われる度に加勢する彼らの友情が微笑ましい。加えて、剣術道場という夢を諦めずに追い続ける彼らの一途さが、終始、物語に〝 希望 〟という彩りを添え続ける。

 更に。本作に限った事ではないが、藤沢周平の文章の美しさにも、忘れずに言及しておきたい。例えば次は、年の瀬の夕暮れに、家路を急ぐ平四郎。

《 うす暗くなった橋の上を、黙黙と人が行き交っている。寒気はさほどでないが、ひとはけ日没の赤いいろを残している西空は、もう冬のものだった。季節は師走に入っている。平四郎も肩をまるめて、人ごみにまぎれながら、橋を渡った。/――年も暮れるか。ふとその感慨が胸にうかんできた 》

この、浮世絵にでもありそうな、リアルで綺麗な情景描写! 日没を前にしてせかせかと人が行き交う町の様子だけでなく、苦し紛れに始めた珍商売で、どうにか年を越せそうな平四郎が安堵のため息をつく姿まで、目に見えるようではありませんか? 昨今の時代小説ではめったにお目にかかれないこんな文章があちこちで頻繁に顔を出し、単にストーリーを追うだけが小説を読む愉しみではないという事を、改めて噛みしめる読者も多いだろう。

 平四郎の日常の大事小事に加えて、天保の改革に関する推進派と反対派の暗闘が物語を縦に貫いて、更には、五年前に行方が分からなくなった平四郎の許嫁という謎も絡まって、上下二巻の文庫本がアッと言う間。かつてNHKで『新・腕におぼえあり』と題して連続ドラマ化されたことがあって、高嶋政伸が平四郎役を好演していたけれど、今ならさしづめ、大泉洋あたりがハマリそう。『蟬しぐれ』(文春文庫)『たそがれ清兵衛』(新潮文庫)といった沁み入るような作品だけでなく、陽気な藤沢文学もいいもんですぞ。


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『守 教』帚木蓬生 新潮社 上下巻 各¥1,600+税
『Sports Graphic Number 937号』 文藝春秋 \546+税
『沈 黙』遠藤周作 新潮文庫 ¥550+税
『左目に映る星』奥田亜希子 集英社 9784087715491 \1,200+税
『よろずや平四郎活人剣』藤沢周平 文春文庫 上下巻 各\730+税



新刊案内

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編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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11月のイベントカレンダー

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by dokusho-biyori | 2017-11-03 10:42 | バックナンバー | Comments(0)

17年10月

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 あなたにとって、プロフェッショナルとはなんだろうか。黒い画面に白い文字、ピアノの音を背景に……とテレビ番組を思い出す人もいれば、月に行った時計を思い出す人もいるかもしれない。あの番組が長く続いていることや、件の時計がアイコン化してロングセラーになっていることを引き合いに出すまでもなく、言葉をあげていけばキリがないほど、そのイメージは多様だろう。

 今回その書き出しを選んだのは、『Number PLUS B.LEAGUE 2017-18 OFFICIAL GUIDEBOOK』の田臥勇太インタビューを読んだからだ。

 Bリーグが開幕して、一年がたった。二年目のリーグ開幕。二回目のリーグ開幕。バスケットがひとつのリーグになって最初の一年を超えて、初めてのシーズン。初めての二年目シーズンが、幕を開けようとしている。

 九月はサッカー日本代表のワールドカップ出場決定で幕を開けた。広島出身の私の目線でいえばカープも優勝したし(これを書いている今ではまだ手にはしていないが、『Number』のカープ特集号は個人的にとても楽しみにしている)、そして月末には、いよいよこうしてバスケットが開幕する。私がそこに注目したくなるのには、理由がある。約十年前、私はバスケットボールを追いかける学生だった。これを読んでいるあなたも、野球部だった、サッカー部だった、テニス部だった、帰宅部だった……そういう学生だったかもしれない。部活動のメジャーさを思い出せば、バスケ部であったことはそれらと同じくらい、匿名といってもいいプロフィールだと思う。それだけ、本来バスケットは日本に根づいているスポーツだろう。

 その個人的な印象をもとに、ワールドカップ出場に湧いたサッカーを引き合いに出していうなら、サッカーは「ゴールを決めたほうが勝つスポーツ」で、バスケットボールは「ゴールを決められなかったほうが負けるスポーツ」といえるのかもしれない。バスケットボールはマイボールを相手ゴールにいれ続ければ、基本的には負けないスポーツだからだ。

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 そういった張り詰めた空気をまとうこの競技において、この十年率先して象徴であり続けたのは、たしかに田臥勇太だろう。その彼にいわせれば、「挑戦することがプロ」だという。そのために入念な、本当に入念な準備を重ね、自分を貫き通したし、ベテランとなった今もなお、新しい感覚を掴もうと挑み続ける。それはたしかに、プロフェッショナルだと思う。

 ただ、個人的には彼の締めくくりの言葉が印象に残った。「勝ったときも負けたときも楽しめるチーム」である。興行である以上、それは原点なのかもしれない。もちろんそれは、ひとりひとりが挑み続けているからなのだろうと思う。入念な準備を重ねて象徴を続けることに挑む田臥勇太。日本という異国で自分のベストを尽くそうとするファジーカス。50歳を目前に、選手としても社長としても奮闘する折茂武彦。そして、一六七センチの身長で二メートルの選手たちをかいくぐって得点を取り続ける富樫勇樹。彼らひとりひとりの挑戦があるからこそ、勝ったときも負けたときもコートから目が離せない。

 だが、忘れてはいけないことがある。そう、ここにはもうひとり、共通の登場人物がいるのだ。

 あなたである。

 スタジアムで、アリーナで、その現場で、彼らを見つめ続けるあなたがいて、はじめてこの物語は成立する。応援する選手がいるからという人も、何か大きな声を出したくなったからという人も、その現場で見ている人はみんな、彼らがプロフェッショナルでいることの証人であるという意味で、また欠かせない存在である。

「ルールは大丈夫、体育でやったんだからみているうちに思い出すし、みているうちにガンガン点が入っていくからそれで十分楽しいって。だからさ、今度一緒に試合を見に行こうよ」

 Bリーグが初めて挑む二年目のシーズン。幕があがるこの瞬間に、彼らの声を読んでいて周りにこう言いたくなった。……遊びにしてもデートにしても、もう少しいい言い方はなかったものかと、自分でもほとほと嫌気がさす。ただ、これを読んでいるあなたが、私ならきっとこの人よりもうまく誘えると思っていただければ、嫌気がさした甲斐もあったと思う。


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 ジャーマン・シェパードのマギーは、爆発物探知犬。海兵隊の一員として中東で任務についていた時、自爆テロに巻き込まれてパートナーは爆死、マギーも数発の銃弾を浴びて、心身に軽くはない後遺症を抱えて帰国する。

 同じ頃、ロサンゼルス市警のスコットは、パトロール中に銃撃事件に遭遇し、目の前で相棒が惨殺された上、自身も瀕死の重傷を負い、以後、強いPTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされる。

 そんな二人、と言うか一人と一頭がペアを組んで犯罪者を追いつめてゆく警察小説が、ロバート・クレイス『容疑者』(訳=高橋恭美子)だ。

 物語の主軸は、スコットが巻き込まれた銃撃事件の真相解明。遺留品は僅かで、目撃者も皆無というただでさえ困難な捜査に、終盤には誰が敵で誰が味方かという疑心暗鬼も加わって、ミステリー小説としての読み応えは充分である。

 が、勘の良い人なら既にお分かりだろう。本作の一番の読みどころはそこではない。

 例えば或る夜。スコットが悪夢にうなされて目を覚ますと、マギーが寝ながら四肢を痙攣させ、時々「クーン」と鼻を鳴らしている。どうすべきか分からずに様子をうかがっていると、不意に目を覚ましたマギーは、スコットに猛然と吠えかかる。が、次の瞬間には自分の居場所を認識して、深呼吸でもするかのように息を吐き出し、もたげていた頭を床に下ろす。《 スコットはゆっくりとマギーに触れた。頭をひとなでする。目が閉じた。「おまえはだいじょうぶだ。おれたちはだいじょうぶだ」マギーは身体が揺れるほど大きな吐息をついた 》。

 或いは、街中での捜査中、車道を走り抜ける車の音に、マギーはいちいちビクビクと反応して視線を向ける。警察犬としては明らかに不適格なその挙動を、しかしスコットは優しく容認する。《 いいんだよ、マギー。怖がっていいんだ。おれだって怖い 》。そして、背中を撫でながら言葉を重ねる。《 おれがついてる 》と。

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 痛みを知る者同士だからこそ理解できる苦悩。苦しさが分かるからこその慰撫。励まし、励まされる時間が育む信頼。結ばれた絆によって癒される傷。そして彼らは、奪われた自信を奪還する――。

 そう、この作品は警察小説である以上に、深い傷を負った一人と一頭の再生の物語なのだ。マギーとスコット――過去のトラウマから、ちょっとした物音に過敏に反応してしまい、警察犬失格の烙印を押されたシェパードと、目の前で同僚が殺される情景が脳裏に焼き付いて離れない警察官というコンビ――が、お互いの弱さを許容し合い、少しずつそれを克服してゆくと同時に、相互の信頼を強くしてゆくその過程こそが、読者を最も惹きつける本書の魅力であると断言したい。

 終盤、スコットがマギーに静かに、しかし決然と語りかける名場面。《 だれも置き去りにはしない、いいな? おれたちは仲間だ 》。そして、そんなスコットの顔をなめて応えるマギー。次の瞬間、猛然と走り出した彼らの捨て身の賭けがどうか成功するようにと、祈るような気持ちで手に汗握る読書を、是非ともご堪能頂きたい。

 スペンサー・クイン『助手席のチェット』(訳=古草秀子)は、やはり警察犬落第の大型犬が主人公。

 私立探偵のバーニーは、元刑事でバツイチ。陸軍士官学校を出て従軍経験もあるツワモノだが、探偵事務所は流行っておらず、浮気調査のようなしょぼい案件で何とか糊口を凌いでいる。

 そのバーニーのところに或る日転がり込んで来たのは、15歳の少女の失踪事件。当初は反抗期のちょっとした家出か夜遊びと高をくくっていたバーニーだったが、捜索を開始した途端、彼の車は何者かにタイヤを引き裂かれ、相棒のチェットは謎の車に当て逃げされる。

 チェット。彼は警察犬の訓練を卒業寸前でスベッた大型犬で、今はバーニーと共に張り込みから追跡、場合によっては格闘戦までこなす、唯一無二の親友である。そしてこの物語は、徹頭徹尾彼の――即ち、犬の視点で語られる。

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 だから、バーニーが目撃者に聞き込みをしていても、チェットには全部は理解できないし、テーブルやソファの下に落ちているスナックに気を取られて大事なことを聞き洩らしたりする。張り込み中に予想通りの人物が現れて、バーニーが思わず「ビンゴ」と呟くと、チェットは、ビンゴゲームが事件とどう関係するのか暫し困惑したりもする。

 こう書くと何とも頼りない相棒に思われるかも知れないが、然に非ず。このチェット、普段のひょうきんな言動からは想像しにくいが(現に、彼に会った人物は大抵「かわいいワンちゃんね」的な発言をするものの、強そうだとか精悍だなどとは、ついぞ言われたことがない)、実はチェットこそは、やる時はやるタフガイである。

 例えば、捜査の途中でチェットが何者かに監禁される場面がある。敵はチェットに水も食べ物も与えず弱らせた上で、目の前に水の入った椀をちらつかせ、手なずけようとする。訓練を済ませた犬であることを承知している敵は、チェットに「座れ」「立て」などと指示を飛ばすが、チェットは毅然と言い放つ(勿論、人間にはその言葉は理解できないのだけど)。《 ぼくに命令できるのはバーニーだけだ 》と。あからさまに反抗的な態度をとる犬に、敵は顔を真っ赤に染めて更に怒鳴る。《 座れ! 座るんだ! このばか犬め 》。するとチェットは、《 冗談じゃない 》と言い放って(同じく、人間には伝わらないが)仁王立ちする。そんなことをすれば、目の前の水が貰えなくなると分かっていながら……。

 或いは、容疑者の追跡中に絶体絶命に陥ったバーニーを、渾身の力を振り絞ってチェットが救出する名場面。《 おまえに大きな借りができたな、名犬くん 》とチェットの背中を撫でるバーニーに、チェットはひと言《 ばかなことは言わないでくれ。ぼくらは相棒なんだから 》。

 何だ何だこのクールな犬は! まるでハンフリー・ボガードかゲーリー・クーパーではないか。いや、僅かに三枚目が混ざることを勘案すれば、『大脱走』や『荒野の七人』のスティーブ・マックイーンかも知れない。

 とにかく、だ。『助手席のチェット』は、少女失踪事件の謎を追うミステリーではあるが、それ以前に、ちょっとハードボイルドな名犬と、冴えない私立探偵の友情を描いた物語であり、ツーと言えはカーと応える彼らの以心伝心ぶりに、謎解き以上に心を奪われる読者はさぞ多かろう。続編の『誘拐された犬』『チェットと消えたゾウの謎』も刊行されているので、ホームズ&ワトソンにも劣らない名コンビぶりを、思う存分お楽しみ頂きたい。
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 と、名犬が活躍するミステリーを二つお届けした訳だけれど、この機に、是非とも復刊を希望したい作品がある。ディーン・R・クーンツ『ウォッチャーズ』(訳=松本剛史)がそれだ。邦訳が刊行されたのが1993年だからもう四半世紀近く前だけれども、全く古さを感じさせないと言うか、むしろ、遺伝子工学だのAIだのといった技術が極度に高度化した今の方が、物語の設定がよりリアルに迫ってくると思うのだが、どうだろう?

 事件の幕開けは、孤独で投げ遣りな人生を送るトラヴィスが、或る日、一頭のレトリバーを拾う場面。薄汚れたその犬は、どうも人間の言葉を理解しているようなふしがある。それどころか、人間並みのIQを持つのではないかと確信したトラヴィスは、アインシュタインと名づけて飼いはじめる。が、アインシュタインは常に何かを警戒している。時には怯えているというレベルの過敏さは、やがて、「追手」が迫りつつあることをトラヴィスに悟らせる。一体、誰が、何のために……。

 といったストーリーには、柱となる読みどころが幾つもあって紹介が大変。まず第一に、アインシュタインとは何者なのか? 高度な知能を持つその訳は? 第二に、アインシュタインは何に怯えているのか? 彼らを追う影は何者なのか? 第三に、正体不明の敵の目的は何か? というこれらの謎解きに、第四のファクターとして、残虐性剥き出しの敵が刻一刻と迫るホラー要素があり、第五として、彼らが無事に逃げ切れるのか? というサスペンス要素も加わって、更に、トラヴィスとアインシュタインがお互いを無二の存在と認め合うプロセスが編み込まれるようにして描かれるのだから、読み始めたら一気呵成。

 また、終盤、敵の正体が明らかになった後には、読者は、その敵を悪役、ヒールとして単純には憎み切れなくなっているに違いなく、こういったクーンツの職人芸にも、是非とも感嘆して頂きたい。

 ……のだが、冒頭で述べたように、本書は久しく重版されていない(泣)。ここ一、二年、品切れや絶版の小説が、他社レーベルから復刊することが静かに流行っているようだから、かつてスティーヴン・キングと並び称されたクーンツの代表作である『ウォッチャーズ』も、どこかがエイヤッと復刊してくれんもんだろうか。「飼うなら猫」という俺でさえ、アインシュタインなら一緒に暮らしてみたいと思わされる、犬派も猫派も虜にする名犬なのだから。


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『ウォッチャーズ』ディーン・R・クーンツ 訳=松本剛史 文春文庫
『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫
『助手席のチェット』スペンサー・クイン 訳=古草秀子 創元推理文庫
『B.LEAGUE 2017ー18 OFFICIAL GUIDEBOOK』Sports Graphic Number PLUS 文藝春秋
『容疑者』ロバート・クレイス 訳=高橋恭美子 創元推理文庫


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『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫


編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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10月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-10-05 14:15 | バックナンバー | Comments(0)

17年09月

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 自分よりも年齢が上の相手に「死ね、じじい」と心のなかで悪態をついたことが、あなたには今まで何回あっただろうか。あったかなかったかではない。私は、もちろんそんなもの到底数えられない。「今まで食べたパンの枚数」と同じ類のものだ。今日もまた、この野郎ふざけんなよ、と思い、絶対に許さない覚えてやがれ、と心のなかで「ぶっとばしてやるリスト」を更新する……いくぶんの誇張こそあれ、実際のところ、これを読んでいるあなたの毎日にも多かれ少なかれこんなシーンがあるのではないだろうか。

 スポーツを「見る側」にも、人生のなかでのタイミングというものがあるのかもしれない。最近、ふとそう思ったのは、『Number 933号』の「甲子園ライバル伝説。」の巻頭、「田中将大に、勝ちたかった。」で明かされる当時の智辯和歌山メンバーのドラマを読んだときである。私にとって抗いがたい魅力をもつ話だった。きっと、中・高校生だった十年前では感じなかったと思う。仮に読んだとしても、表面上そうそう、そうだよなと思いつつ、すり抜けるように読み流してしまっただろう。

 ここで残されているのは「最大の田中将大対策は、彼が卒業するまで待つこと。無駄な対策はしない」と他校からサジを投げられるような巨大な壁に対して、全力を尽くして挑んだ声である。冒頭の言葉は、そのなかのひとつだ。

 野球部の顧問も勤めた私の恩師は、高校野球を評して「あまりにスペシャルな世界」と言った。言い得て妙だと思う、なるほどあれは特異点(スペシヤル)だ。先日の夏の甲子園も、実力を限界以上に引き出した神がかり的プレーが続く、目の離せないシーソーゲームがいくつもあった。帰省中の車内や家電量販店のテレビコーナー、スマホの画面……モノは何であれ、思わず食い入ってしまった人も多くいるのではないだろうか。メディアを賑わせるのは、そういったゲーム展開だけではない。怪我をおしての出場や、炎天下の中での熱投が美談のように語られたり、それに対しての非難が巻き起こったりする。それは、夏にとって甲子園と同じくらいの風物詩かもしれない。それらを見聞きしていて、一方で将来を考えてほしいという気持ちもわかりながら、他方でどこかはばかられる自分にも気づく。あの場に立っている、いや、あの場所を目指したことのある多くの人間にとって、甲子園という場所はそれまでの人生の何割を占めているのだろうか。それまでの人生の大部分をかけたその濃度だからこそ、外野は好きなことをいえるのかもしれない。それこそちゃぶ台をひっくり返せば、本稿もそういった甲子園をめぐる言葉の一部である。


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 だからこそ、冒頭の言葉を目にしたとき、正直な実感でいえば、高校生の自分がすぐそばにいるような気になった。選手は、サイボーグのような身体をもつでもなければ、ロボットのように一心不乱にプレーに打ち込むわけでも、シナリオにそって動く駒でもない。普通の、本当に普通の人間味ある高校生だ。それは、いつになっても変えられない。子供の頃、甲子園を見ていると、どこか選手たちをそういった無敵のヒーローとして、本当に大きな存在として感じている自分がいた。だが、実際に自分がその年齢になって、そしてそれを超えてみると、キツい状況になれば悪態もつきたくなり、雨が降ればどこかで緊張の糸が切れてしまう……そんな気持ちが痛いほどよく分かるようになった。そう、「イタい」のだ。高校を出て何年もたつはずの今日の私もきっとそうしてしまうし、その未熟さを突きつけられているような気がして、より自分自身が痛々しくなってしまう。君はかつて高校生であり、今もまだそこから遠くはなれていないのだと、見せつけられた気がするのだ。


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 もちろんというべきか恥ずかしながらというべきか、今でも試合を見ているとその一挙手一投足に魅入られてうっかり童心にかえり、選手たちを再びそういったスーパーマンのように思ってしまいがちである。だが、今にして思えば、私にとって甲子園球児が自分の年下になった瞬間の衝撃は、むしろ彼らが私たちと同じ人間であるという当たり前のことと、その同じ人間が神がかったプレーを続けているという、そのはざまにあるものだったのだと思う。

 この記事の魅力は、それだけではない。いいかえれば、この記事からは、そういった「男の子」たちの気持ちの揺れが見えるだけではない。たとえば、智辯和歌山の高嶋監督が見せる意地とあがきの交差する姿勢である。決め球を打ちたい、どんな方法でもそれに信念を持って向かい続ける。それを続けることは、実際のところ本当に難しい。また、話し手としては一切出てこないのに引き立つのが、田中将大という壁のあまりの大きさと、その彼もまた、今では「あの日全く打てなかった」スライダーを投げず、「スプリットばっかり」にモデルチェンジをしながら、今日を戦っているという姿である。

 田中将大という存在の――もっといえば斎藤佑樹という存在の――光が明るいだけ、またそこには影も浮かび上がる。その対比のなかで、最後まで笑ってプレーできたのは今年も優勝校ただ一校。影が深い分、裏面もまた、幾重も光を重ねていく。

 人間同士が戦い、そしてそれを人間が見ているというそのなかでは、いつその瞬間(ゲーム)に出会ったかによっても、たくさんの見え方がある。八月の甲子園が終われば、次はサッカー、プロ野球……。スポーツの秋は、もうそこにいる。



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『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介



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 まずは、元気一杯の青春小説から。越谷オサム『階段途中のビッグ・ノイズ』(幻冬舎文庫)は、とある平凡な高校の軽音楽部の物語。事の起こりは、主人公の神山啓人が二年生に上がる直前の春休み。僅か三人しかいなかった軽音楽部の先輩二人が、大麻やら覚醒剤やらで逮捕され、煽りを食って軽音楽部の廃部がほぼ決まる。友人の伸太郎が連帯責任の理不尽さを校長に直談判して、かろうじて存続を許されはしたものの、半年以内に何らかの成果を上げられない場合は予定通り廃部、という条件。

「何らかの成果」と言われても、件の薬物騒動のお蔭で部員勧誘は大苦戦。どうにか集まったのは、ギターの腕はピカイチながら、それをナチュラルに鼻にかけるリアルスネ夫みたいな勇作と、全国レベルの吹奏楽部から落ちこぼれた急造ドラマーの徹。これに、ベースをかって出てくれた伸太郎と、サイドギター兼ボーカルの啓人を加えた四人組。

 如何にも凸凹なメンツだし、練習場所は校舎の四階と屋上の間の階段の踊り場だし、顧問は昼行燈みたいで頼りない。それでも啓人は、小さな喜びを噛みしめる。かつて、例の二人の先輩がいた頃は、耳障りだからとギターをアンプには繋げさせてくれなかった。先輩たちが屋上でタバコだか大麻だかを弄んでいる間、仕方なく独りで練習し続けた。試しにアンプにつないでちょっと弾いたら、途端に「うるせぇ」と怒られた。

 でも今は、俄か作りとは言え、ちゃんとバンドを組んで音楽をやっている。薄暗い階段の奥で何をやっているか分からない怪しげな集団ではなくなった。技術的には未熟なところも多いけど、それはこれから少しずつ磨いてゆけばいい。今は、演奏出来ることがひたすら嬉しい。啓人は、初めての四人での音合わせの時に、そっと呟く。《 俺、一人じゃなくなった 》。

 勿論、それで全てが上手く回り始める程、人生は甘くない。意見が食い違って喧嘩したり、警察沙汰を起こした軽音楽部を敵視する教師から嫌がらせのような仕打ちを受けたり、挙句の果てには、春からずーっと目標にしてきた文化祭の直前に、選りにも選って……。


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 とまぁ、一難去ってまた一難。だけれども、作中のとある登場人物が言っている。《 若さを武器に勝負できるのはせいぜい十代のうちだから、少々不躾でもやりたいことをやるといいよ 》と。これこそが、本書の主題ではないかと思うのだがどうだろう? 実際、啓人たち四人は突き進む。周囲の白い目も、教師たちの敵意も、予算その他の悪条件も、ものともせずに突っ走る。

 かの司馬遼太郎が、名作『坂の上の雲』(文春文庫)の序盤でこんなことを言っている。《 青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない 》。こういった損得勘定抜きの元気を堪能したいからこそ、僕らは青春小説を手に取るのだし、それこそが青春小説の醍醐味だろう。若さのバカさと真っすぐさに胸を熱くしたいなら、『階段途中のビッグ・ノイズ』は必読だ。

 青春一直線の次は、おっさんと青年。小野寺史宜『ひりつく夜の音』(新潮社)は、落ち目のクラリネット奏者と、新進気鋭の若手ギタリストとの、奇妙な友情の物語。

 下田保幸は四十六歳。ジャズのクラリネット奏者として生計を立ててはいるが、最近はジャズファンそのものがめっきり減って、それに連れて仕事も減って、貯金を切り崩しながら細々と生きている。そんな彼の家に、ひょんなことから、二十二歳の佐久間音矢が転がり込む。こちらは、目下売り出し中のギタリスト。超有名ではないけれど知ってる人は知っているというぐらいには有名で、彼の腕前ならばその知名度は、これからぐんぐん上昇すると思われる。そんな二人が、寄り添うでもなく対抗するでもなく、成り行きと惰性で一つ屋根の下での暮らしを始める。

 保幸は、ジャズという音楽の未来も自分自身の行く末も、淡泊に見切ってしまっており、《 腕を上げるためではなく、下げないために 》最低限の練習しかしない。ジャズの普及に努めるでもなく、自分の技術を売り込むでもなく、かといって、音楽はすっぱり諦めて別の生き方を探るでもなく、縮小均衡のような人生を、良く言えば受け入れている。悪く言えば諦めている。

 こういうの、「解るわぁ」っていう中年は、きっと少なくはない筈だ。「このまんまじゃジワジワと先細りだよなぁ」と感じてはいても、「とは言え今すぐ何かを変えないとヤバイ、というほどの緊急事態じゃないしなぁ」とも半分ぐらいは思っていて、いずれはどうにかしなきゃと思いつつ、その〈 いずれ 〉はいつまで経っても来やしない(笑)。


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 ところが若者にとっては、ここで動かない理由が解らない。変化と現状維持とでリスクが五分なら、変化を選択しない理由が無いだろ、と考える。だから音矢は、生活の全てをギター中心に組み立てて、朝から晩まで弾きまくる。当然、恐ろしい早さで上達する。興味を持ったらバンジョーにまで迷わず挑戦したりする。

 そんな音矢を間近で見ながら、保幸は、羨ましいと感じると同時に、かつては自分もそうだったことを思い出す。クラリネットさえ吹いていれば幸せだった二十代の日々。新しい音を次々と自分のものにしていく達成感。その記憶が、「お前、まだやれるだろ?」と、保幸自身に問いかけてくる。古い友人からは《 伸びなくても、ふくらむことはできるんじゃない? 》などと背中を押されたりもする。そしてトドメは音矢のひと言。超一級の演奏技術を、活かすどころか持ち腐らせているだけの保幸に、彼は堪りかねて発破をかける。《 自分の音楽をやれよ 》と。そして続ける。《 うめえのに、何で吹かねえんだよ 》と。《 またバンドを組みゃいいじゃん。逆に訊きてえよ。何でそうしねえんだよ 》と。

 そんな訳でこの作品は、「あの頃はよかった」的な中年自己満足懐古小説などでは断じてない。惰性で人生を浪費していたおっさんが、幾つかの出会いに刺激を貰って、老けこむにはまだ早いだろ、と思い直して一歩を踏み出す。その一部始終を描いた落ちこぼれ中年再出発小説。それが、『ひりつく夜の音』なのだ。


 最後は先月号でもチラッと触れた、須賀しのぶ『革命前夜』(文藝春秋)。登場する楽器はピアノ、ヴァイオリン、パイプオルガン。

 時は一九八九年――東西冷戦の最末期。駆け出しのピアニスト眞山柊史は、憧れの音楽家バッハの息吹を肌で感じながらピアノの腕を磨くため、東ドイツはドレスデンの音楽大学に留学して来る。そこで出会った三人の音楽家。よく言えば自由奔放、悪く言えば傲岸不遜。独自の解釈でエゴイスティックな演奏を繰り返す天才肌のラカトシュ・ヴェンツェル。同じヴァイオリニストながらヴェンツエルとは正反対に、正確無比な演奏でどんな難曲も弾きこなす理論家のイエンツ・シュトライヒ。西側への移住を希望したために生活の細部までシュタージ(=国家保安省)の監視を受けながら、音楽への情熱を胸の最深部で燃やし続ける美貌のオルガニスト、クリスタ・テートゲス。


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 そんな彼らの狭間で自らの音を見失った柊史が、のたうち回るように苦悩する姿を描いた本書は、だがしかし、「若者が苦難を乗り越えて成長しました!」といったスポ根ノリの単純な小説では全くない。ならば何が描かれるのか?

 それは、一言で言えば〈 戦い 〉である。

 先に挙げた三人の他にも、柊史は、バロック音楽の聖地で幾人もの人間との出会いを重ね、意気投合したり反発を覚えたりするのだが、その誰も彼もが、まるで命を削るようにして何かと戦いながら生きている。或る者は理想の音楽のために、或る者は大切な人を守るために、或る者は国家から自由と尊厳を取り戻すために、そして或る者は国民から見捨てられつつある母国の未来のために。時には愛する人を傷つけ、時には自らの身を炙るが如き凄惨な様相を呈するその〈 戦い 〉の真っただ中に、誰もが怯むことなく突っ込んでゆく。

 そこに、油絵の具を塗り重ねるようにして描かれるのが、東欧を席巻した民主化革命である。これまで正しいと信じてきたものが一夜にして覆される。築き上げてきた栄えある過去が音を立てて崩れ去る。後には自分たちが依って立つべき何物も無く、茫漠とした未来だけが陽炎の如く揺らいでいる。

 その様子が、彼らの人生に重ならないという読者は恐らくいまい。

 そうなのだ。若きピアニストの挫折と再起を描いたように見せながら、実は本書の肝はそこではなく、東欧革命の嵐の中にすっくと立ち上がって未来を見据える人々――矜持や信頼や愛情や希望を木端微塵に撃ち砕かれて満身創痍になりながらも、懸命に明日への道を切り開こうとする柊史やヴェンツェルやクリスタや、その他大勢の登場人物たち――の生き方を、まるで袈裟斬りでもするような激しさと鋭さで描き出した、それこそが『革命前夜』の読みどころであり魅力であるのだ。

 物語の最終盤で描かれる革命の熱狂と、それとは対照的に静かに鼓動を刻む柊史たちの友情。その余韻は、読了後いつまでも読者の胸にこだまし続けるに違いない。そしてふと耳を澄ませば、聴いたこともない『革命前夜』なる名曲が、胸の奥で高らかに鳴り響いていることに気付くだろう。



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『階段途中のビッグ・ノイズ』越谷オサム 幻冬舎文庫
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋
『Sports Graphic Number 933号』 文藝春秋
『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介 講談社文庫
『ひりつく夜の音』小野寺史宜 新潮社



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by dokusho-biyori | 2017-08-31 20:09 | バックナンバー | Comments(0)

17年08月

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 ナチスドイツに蹂躙されるポーランドを舞台に、民族の尊厳と人命の尊さを訴えた直木賞候補作『また、桜の国で』(祥伝社)。片やナチスの親衛隊、片や修道士という正反対の道に進んだ幼馴染みを対比させながら、戦争の残酷さとレイシズムの愚かさを浮き彫りにした『神の棘』(新潮文庫)。東西統一直前の監視国家・東ドイツで、若き音楽家たちの苦悩とプライド、情熱と友情がほとばしる『革命前夜』(文藝春秋)

 右の三作はほんの一例ではあるけれど、奥行きの深い背景と立体感に富んだ人物を端折らずに描いて、一段一段、まるでレンガでも積み上げるようにして重厚な物語を築き上げてゆくのが、須賀しのぶの持ち味である。『革命前夜』の大藪春彦賞受賞にとどまらず、恐らくは近い将来、この路線で幾つもの文学賞を獲得することになるのだろう。

 そんな彼女には、実はもう一つ別の顔がある。

 ファンには既に広く知られていることだが、須賀しのぶは超のつくほどの野球好きである。好き、どころではない。パ・リーグ・楽天ゴールデンイーグルスの「オタク」とでも言うべきマニアであり、高校野球の熱狂的なファンでもある彼女は、野球のルールは勿論、その戦術や駆け引きの機微に至るまで、驚くほど知悉している。

 故に、彼女が描く「野球」のクオリティは、昨今の文壇ではずば抜けている。投手と打者の心理の読み合いや、寄せては引きを繰り返すゲームの潮目など、単に「野球」というスポーツを忠実に再現しているだけではない。チームの内外の人間関係の陰影や、登場人物それぞれの迷いや不安、決意や自尊心など、プレイ以外のエピソードをコツコツと塗り重ねることで滲み出るリアリティ。勿論、魔球だのメジャー顔負けの天才少年だのといった、現実感ぶち壊しの設定など皆無である。登場するのは、僕らの知ってるどこかの誰か、みたいなフツーの野球少年や野球ファン。

 ってくどくどと説明するよりも、実際に作品を知って貰った方が話が早かろう。

 まずは、五月に文庫化された『ゲームセットにはまだ早い』(幻冬舎文庫)から。


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 大学生の頃はプロ入り確実のスラッガーと騒がれていた高階は、故障やらスランプやらでドラフトから漏れ、捲土重来を期して都市対抗野球の強豪企業に入社する。が、パッとした成績を残せないまま数年が過ぎた頃、業績低迷から抜け出せない会社は、リストラの一環として野球部の廃部を決定する。目立った実績を上げていない高階には移籍先の当ても無く、殆ど野球を諦めかけた時に出会ったのが、新潟県三香田市にある新興のクラブチーム、〈 三香田ヴィクトリー 〉。

 午前中だけ仕事をして、あとは一日中野球をやっていれば給料が貰えた企業チームと違って、地元の企業に普通に勤めて生活基盤を確保した上で、終業後や週末など、勤務に支障が無い範囲で練習をするのが「クラブチーム」。傍から見ればまさに〈 趣味の延長 〉であり、勿論、年俸や給料などは支払われない。高階にとってはまた一歩プロから遠ざかる選択ではあるが、背に腹は代えられず、半ば渋々、三香田ヴィクトリーに合流する。

 そして、そこで出会ったメンバーは……大手スーパーで最新の流通・小売を学ぶつもりが、何故か赤字続きの三香田店に配属されて腐る安東。大学時代、封建的な上下関係に適応できず、不当な評価で二軍に甘んじ続けた尾崎。有り余る才能を持ってプロ入りしながら、酷使された肘の故障と素行不良が重なって干された直海。……チームは、監督からコーチ、マネージャーまで、エリートとは程遠い寄せ集め。

 そんな寄せ集めたちが見せる意地。それこそが、須賀しのぶが「野球」以上に描きたかったことではないか。

 例えば……《 俺たちは、ただ野球がやりたいわけじゃない。野球やってりゃ幸せってほどお気楽なわけでもない。自分はまだこれで食っていける、てっぺん目指せると思いこんでるバカだから、ここまで来てんだよ 》と吼える選手がいる。

例えば……《選手も、そして観客たちも、みな楽しそうな笑顔だ。ああ、楽しんでくれている。そう思った途端、安東の胸にも喜びが弾けた 》と、弱小クラブチームの運営に遣り甲斐を見出してゆくマネージャーがいる。

 或いは終盤、三香田ヴィクトリーを支援する或る弱小企業の老経営者が、ヤケッパチになっている選手の一人に、懇懇と説き聞かせる場面がある。

《 人生には、努力が報われないことはいくらでもある。なんの才能もない人間でも、ただ堅実に努力を続けていればいつかは報われると信じてやってきて、それでもどうにもならないことってのはあるんだ 》
《 そういう人間でも、ぎりぎりまでやれるだけやったと思えれば、それはひとつの誇りになるんだ。自分を誇る瞬間がなければ、人は前にも後ろにも行けないものさ 》


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 実はこういった描写こそが、須賀しのぶの真骨頂なんだが、それをご理解頂くために、更に幾つか例を挙げたい。

 2015年発売の『雲は湧き、光あふれて』(集英社オレンジ文庫)には、実は二通りの愉しみ方がある。まずは、収録された三編をそれぞれ短編として味わうフツーの読み方。

 一編目の「ピンチランナー」は、代走を主人公にした変わり種なので、野球小説慣れした人にも新鮮だろう。ヒットやフォアボールで出塁した打者に代わって出場し、ただ盗塁することだけを期待された――逆に言うと、バッティングも守備も期待されてはいない役。そんな立場に途惑ったり腐ったりを繰り返しながら、少しずつ自分の価値を見出してゆく主人公。ちょっと斜に構えた感じのモノローグがユーモラスだ。

 二話目「甲子園への道」の主役は新聞記者。野球経験ゼロの新米女性記者が、夏の高校野球、埼玉県予選を取材する。その過程で気づく、己の弱さや承認欲求。《 負けたくない。否定されたくない。だから最初から、興味のないふりをする。そこそこでいいんだ、と自分に言い聞かせてる。だけどそんなのは、嘘なんだ 》。

 自分が病気であることに気づかなければ治療しようとは思わない。同じように、自分の過ちに自分自身で気づかないうちは、修正も成長も難しい。せっかく気づいても、腐ったり諦めたりでは、やはり前には進めない。高校野球を素材にしている本作ではあるが、物語の底にはまるで地下水脈のように、もっとずっと普遍的なメッセージが流れている。

 三話目の表題作はガラリと変わって、舞台は昭和16年、太平洋戦争開戦前夜。その夏に甲子園切符を手に入れながら、〈 時局がら 〉開催が中止となって涙を飲んだ球児たちの、これもある種の青春譚。
 当然ながら、明るく爽やかな前二作とは、だいぶ趣が異なって初めての読者は驚くかも知れんけど、『紺碧の果てを見よ』(新潮社)あたりの〈 須賀カラー 〉がジワリと滲む好短編。

《 国の大事? わけがわからない。だったら甲子園だって、自分たちの一大事だ。戦争なんて、国が勝手にはじめたことだ。そんなもののために、なぜこんな目に遭わなければならないのだろう 》というやりきれなさを、恐らくは当時、多くの人々がそれぞれの形で味わい尽くしたことだろう。終盤、《 あんな時代でなければ 》という主人公の悔恨がずっしりと胸に重い。と同時に、《 あんな時代 》ではない現在に生きていることを、感謝せずにはいられない。


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「雲は湧き、光あふれて」というタイトルは、言わずと知れた夏の全国高等学校野球選手権大会歌『栄冠は君に輝く』の一節。本作を読んで初めて知ったんだが、かつて甲子園を目指しながらも怪我で足を失った青年が作った曲で、昭和24年の大会で初めて使われて以来、半世紀以上に亘って、球児たちを激励し続けてきたそうだ。恐らくは、平和への祈りも多分に込められて――。

 とまぁ、そんな感じの三編なんだが、先に述べたようにこの文庫本は、短編集として読む以外にもう一つ、長編小説としても楽しめる。即ち、2016年に出た『エースナンバー』(同)が、「甲子園への道」でスポットが当たる埼玉県立三ツ木高校を軸にした続編になっておるのだ。

 第一話「監督になりました」は読んで字の如く、三ツ木高校野球部の監督になった青年教師の物語。時間軸は、前作「甲子園への道」の数か月前。だから、こっちを先に読んでも面白いかも。

 驚くべきは、生徒の頑張りとか空回りとか最近流行りの〈 空気読み過ぎ 〉とかを、教師の目線から実に生々しく描き出してる点である。《 うまいやつ、才能があるやつが評価されるのは当然だ。それが最も自然な形だろう。だがここは、高校の部活なのだ。強豪でもなんでもない、ごく普通の。一番努力したやつが報われる場であってほしい 》という主人公の独白に思わず肯きながら、自分も教師目線、保護者目線になって球児たちを叱咤激励する読者はさぞ多かろう。

 第二話「甲子園からの道」は、タイトルが暗示するように、先の「甲子園への道」の女性記者が、再び語り手となって、三ツ木高校野球部とそのライバルを追う。作中時間としては「甲子園への道」で描かれた埼玉大会のすぐその後。

《 だって、高校球児の大半は、まさにその「日の当たらないところで黙々と努力をし続ける」子たちなんだ。そしてその子たちの背後には、ものすごくたくさんの人たちの献身がある 》。エースや四番よりも脇役たちをこそズームアップしたいと願う彼女の視線が温かい。

 三話目の「主将とエース」も「甲子園への道」の直後から始まる話なんだが、こちらは、三年生が引退した後の、新キャプテンを軸に話が進む。一年前にゴタゴタがあって退部した、センス抜群の傲慢屋が復帰して、だけどワンマンプレーでやっぱり浮いたり、そんな彼を新キャプテンもマネージャーも、そして監督もどうにかしたいと悩んだり。《 おまえ、まだ笛吹のこと信用してないだろ? なのに頼ってる。勝つにはあいつは必要だって言ったよな。だが今のおまえ見てると、仲間として受け入れているようには見えない 》……と、こんな風に注意深く見てくれる監督の許でなら、二年半の野球人生は幸せだろうな。そう感じながら、『本の雑誌』の去年の10月号で俺はこう書いた。《 願わくはこの『雲は湧き』のシリーズを、長編でじっくりどっぷり堪能させてくれんもんだろうか 》と。


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 だから、という訳ではないんだろうけど、やってくれたよ須賀しのぶ。今年発売された第三弾『夏は終わらない』(同)は、件の三ツ木高校野球部を舞台にした、一冊丸ごとの長編だ。しかも、第一弾『雲は湧き、光あふれて』の「甲子園への道」から『エースナンバー』、『夏は終わらない』と通して読めば、彼らと一緒に一年半を走り回ったかのような充実感と達成感。それを味わいたいから、新刊を我慢して第一弾から改めて読み直したのはこの俺さ。

 監督の若杉先生と部長の田中先生のコンビも息が合ってきて(余談ながら、若杉って名前、〝 若過ぎる 〟から来てるんちゃうかな)、チームの面々も、自信失くして辞めようとする奴とか、陰で悪口言われても果敢に前を向くマネージャーとか、あれやこれやてんこ盛りしながらジワリジワリと前進してゆく。彼らにとって最後の夏が、このシリーズのグランドフィナーレ。《 スコアボードで確認しても、にわかには信じがたい。あの東明から、二点とっている。当然だと胸を張る気持ちも事実だが、頬をつねりたくなるのも事実だった 》っていうこの心の機微。どうだ見たか! と誇ると同時に、マジかよ? と俄かには信じられなかったりもする。何故そんなややこしい心境なのかを、ここで説明するのは野暮だろう。まぁ、須賀しのぶ節全開である、とだけ言っておく。

 そして最後にもう一つ。これまた新刊『夏の祈りは』(新潮文庫)は、まさに須賀野球文学の現時点での集大成。

 舞台はやはり埼玉県。県立北園高校野球部は甲子園出場こそ無いものの、公立のわりには強い伝統校――という設定でナインの七転び八起きが描かれる、と言えば間違いではないけど正確でもない。実はこの作品の主人公は、北園高校野球部そのもの。つまり、昭和63年の第70回大会から平成29年(つまり今年だ)の第99回大会まで、毎年部員は入れ代わりながらも甲子園を目指す〈 野球部そのもの 〉に焦点を合わせ続けた、大河小説のような野球部小説。

 公立高校である。派手な選手勧誘とか越境入学とか特待生制度とか、勿論ない。それでも毎年果敢に、設備も資金も人材も潤沢な私立四強に挑んでいく。挑んでは、弾き返される。


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その過程では、例えば、実力では控え選手に抜かれたのに、相変わらず「背番号1」を背負わされている〈 元エース 〉が《 どうせなら、エースナンバーから下ろしてくれれば楽なのに 》と弱音を吐く。例えば、お行儀のいい現代っ子たちに、もやもやとした不満を感じてしまう監督が独りごちる。《「自分の若いころはこうだった」という大人にだけはなりたくないと思っていたが、やはり指導者の立場に長くいると、物足りなく思うところも増えてきた 》といった述懐には、野球抜きで共感してしまう上司や先輩は多かろう。或いは、雑用係として選手からは名前も覚えて貰えないマネージャーという役割に、懸命に遣り甲斐と価値観を見出そうとする女子生徒がいる。或いは、甲子園まであと一歩まで迫った三年生と、中学野球で活躍した選手が揃った一年生に挟まれて《 ハズレ世代 》と陰口を叩かれる二年生たちがいる。

 圧巻は、その《 ハズレ世代 》たちがハズレなりの意地を見せる第五話「悲願」。

《 ハズレでもいいだろ。外野に言わしときゃいい。見返してやろうなんて考えんな 》
《 それよりも、おまえがやりたいようにやったほうが楽しいんじゃねえの 》
《 俺が打てなくても誰かが打つ。誰かが打てなければ俺がなんとか打ってみせる。そう思えるのは、なんて幸せなことなのだろう 》
《 もう二十年以上この仕事をやってるが、それでも未だに、君たちがもつ力に驚かされることがしばしばある 》
《 なぁおい、信じられるか。この中に、「ハズレ」って呼ばれてた連中が何人もいるなんて 》

 こんな風に、須賀しのぶの野球小説は、「野球」だけを描いている訳では決してない。むしろそれ以上に、プレイ以外の部分を略さず描くことで――それはまるで、細密な原画を元に鑿を振るう熟練の彫り師の如く〈 一寸の虫に宿る五分の魂 〉を浮き上がらせて見せてくれる。だからそもそもの野球好きが読んで楽しいのは勿論、野球に興味のない人間が読めば、逆に、現実の野球を見てみたくなるに違いない。例えば去年のリオ五輪で、普段見もしないアーチェリーだの卓球だのバドミントンだのに、あれだけ多くの人が喝采を叫んだのと一緒。そのスポーツに詳しくなくても、誰かが頑張ってる姿を見るのは、誰だって気持ちがいいものなのだ。

 折しも、『夏の祈りは』で素材となった第99回全国高校野球選手権の季節である。須賀しのぶの野球小説を傍らに、NHKの中継やテレビ朝日「熱闘甲子園」で熱くなる、というのが、今年の夏のお薦めである。



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『エースナンバー』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800921 540円+税
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋 9784163902319 1,850円+税
『神の棘』須賀しのぶ 新潮文庫 ①9784101269719 750円+税 ②9784101269726 890円+税
『雲は湧き、光あふれて』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800297 540円+税
『ゲームセットにはまだ早い』須賀しのぶ 幻冬舎文庫 9784344425934 770円+税
『図書館戦争』有川浩 角川文庫 9784043898053 667円+税
『夏の祈りは』須賀しのぶ 新潮文庫 9784101269733 520円+税
『夏は終わらない』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086801409 540円+税
『また、桜の国で』須賀しのぶ 祥伝社 9784396635084 1,850円+税



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by dokusho-biyori | 2017-08-06 11:26 | バックナンバー | Comments(0)