読書日和

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「読書日和」備忘録

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18年11月

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読書の秋、積読の秋――文藝春秋営業部 川本悟士

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 いわゆる読書の秋、ということで、いよいよ秋も深まってきました。私の学生時代は中学校以来約10年間ずっと「文化祭」と呼ばれる秋のイベントが11月の第1週に開催されていたので、だいたいこの時期をすぎるとぐっと冷え込むな……としみじみします。私のような引きこもりにはうってつけの季節です。

 ということで世の中的にも読書シーズンですが、先日来、私にもにわかに読書シーズンが来たというのか、読書しなきゃいけないシーズンが来たというのか、いつも以上に急激に部屋に本があふれかえっています。

 思えば、先輩と先日、「僕は『罪の声』が好きで……」という話をしていたときに「じゃあ『レディ・ジョーカー』は読んでみないと!」とプッシュされたあたりから雲行きが怪しくなり、『沈黙のパレード』がでるなら……、杉村三郎の新刊が出るなら……と、一気に巻数の多いシリーズものを読むことになりました。

 ただでさえ『本で床は抜けるのか』を切実な実感から買ってしまう人間なのですが、こう一気に風が吹いてくるといかんせん自分の読書スピードの遅さを呪うばかり。身の周りに文庫本くらいなら1時間もかからないで読んでしまう同級生がいたので、部屋に積まれていく本を見ていると、がーっと一気に読んでしまえれば……と恨めしい……。

 と、こういう時期は今までも何度もあって、そのたびに、どうして俺はこんなに本を読むのが遅いんだ! 一体世の中の人はどうやって本を読んでいるんだ……! と「読書法の本を買う」というさらなる泥沼にハマっていくわけですが(笑)、というわけで、読書の秋。部屋の片隅から「読書についての本」を引っ張り出してみました。


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 私の持っているなかである意味一番の「読書本」は、レーニンの『哲学ノート』かもしれません。いきなり「怪しげ」な本が出てきましたが、この本は、いってみればレーニンの読書ノートの書籍化で、彼自身のノートの記された、哲学書の要点を書き抜き、自身のまとめ、コメントを記したものです。随所に「注意!」などの書きこみや、大事な文章や概念の整理が残されていて、彼がどのように本にマーキングをし、どんなノートをつくっていたのかがわかるかたちになっています。

 この本を手に取るたび、大学の先生に、抜書をしたりまとめたりコメントをつけたりして読書ノートを作るんだよ、と言われたことを思い出します。ただ、えてして凝り性の私がノートをつけ始めるともう考えたくないくらい時間がかかるんですよね……。

 ということで、もっとすっきりシンプルに行こう、と次の本に手を伸ばしました。いわゆる読書法の本については色々あるのですが、そのなかでも有名であり、いってみればそのものズバリのタイトルのものが、『本を読む本』でしょうか。この本によれば、読書は大きく4つのレベルに分けることができるといいます。

 まず第1レベルが初級読書。単純にその文章が何を言っているのか、という文法や単語レベルで理解することです。当たり前と言われればそれまでですが、実は難しいんですよね。

 第2のレベルが、点検読書。限られた時間内にできるだけ多くの情報を手に入れるべく、目次をみたり、拾い読みをしたり、カバーや帯の謳い文句を見たりして、ざっと情報をとってくるレベルです。

 第3レベルが分析読書。この本がどんな本なのかを分類し、テーマや構造をチェックして、キーとなる部分を見つけ、そのうえで正しく批評することです。

 第4のレベルが、シントピカル読書。ほかの本と比較・関連させながら複数の本を読んでいくことです。私を含め、多くの人が書店さんで「この本どんな本かな、買おうかな」とやっている読書方法が点検読書なのかもしれません。真正面からあたって1回でわかろうとしてはいかんよ、ということでしょうか。


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 この4段階をマスターできたらそれで十分だとは思うのですが、もっと踏み込んで、ある意味でこの手の本のなかで究極なのが『読んでいない本について堂々と語る方法』です。

 いいタイトルですよね。私は『ヘッテルとフエーテル』と同じくらい好きなタイトルの一つです。この本は「読んでいない本についてコメントする」状況別に――全然読んだことがないのか、ざっと読んだことしかないのか、人から聞いただけなのか、それを大勢の前で話すのかなど――色々な逸話を入れながらぶった切っていきます。

 なかなかおもしろい本で、たしかに「読書」といわれれば最初から最後まで通読するものだと思いがちだけど、別に通読しても一部しか覚えていないもので、重要なのは本の位置づけを大づかみに捉えることではないか、といわれると、少し肩の力が抜けてきます。

 と、こうやって色々とみてみると、焦って一度でわかろうとするな、ということが色んな形で言われているような気がするわけです。なんだか師匠に諭される弟子みたいですね。

 一方で、本は存外に生鮮食品に似たところがあって、足が早いというか、今日そこにある本とまた別の日に会えるかはわかりません。今日見たその瞬間が、人生でその本を見かけられる最後の日になるかもしれない……。「弟子」としては、だからこそがばーっと読めたらなぁと思うのですが、他方で、別に一度しか読んじゃだめというわけでもないので、振り返って何回も手にとってみる……。大切なのは、そういう時間なのかも……と、先人はいっているのかもしれませんね。

 読書には時間がかかって当然。だから本が積まれていってもしょうがない……! そう言い訳しながら増やした積読本を眺めることが、私にとっての読書の秋なのでした。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 たとえ、嫌いな奴でも愛想よく振る舞っていれば、相手もこちらに悪い感情は抱かない。そうなると、こちらも嫌いな気持ちが薄れてくる 》


 例えば車の運転中なんかでも、割り込みにイライラせずに譲ってやると、意外とハザードランプでお礼されたりすることがある。そうするとやっぱりこっちも嬉しい訳で、絶対に妥協できない状況でないなら、無駄に摩擦を増やすより一歩引いて相手をたてた方が、結局は自分が生き易くなる気がします。



新刊案内

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永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『テルマ』

 北欧の張り詰めた空気と、少女テルマの青春の危うさが見事にマッチ! 平成最後の年に『キャリー』を彷彿とさせる作品が上陸です。

『キャリー』を例に上げたが、実は方向性や角度は結構違う所があって、こちらの方が舞台設定も相まって喪失感が凄い。『キャリー』も相当な喪失感を感じたが、それよりも怒り! 血みどろ! てな感じ。こちらは幻想的で透明感溢れたラヴストーリー! 血が苦手な人はこちらの方がオススメ。しかーし、チカチカ演出があるので注意! 私は何より、チカチカ演出が苦手だったので困った~(汗)。

 と、言っておりますが、それを差し引いても北欧ホラーとして傑作だと思います。そして何と言っても、ラスト! 観る人によって解釈が違うだろう素晴らしい余韻。私は良い方に解釈しました。



〈 異能 〉を手にした者たち――丸善津田沼店 沢田史郎

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 マンガ的、という言い方をすると語弊があるが、人物や状況の設定が極端で「現実には絶対あり得ねー」と思いながらも、ついつい引き込まれてしまう小説というものがあって、難しい事を考えずに、それこそ〝 マンガ的 〟に読めるから、疲れている時などには重宝する。

 上村佑『セイギのチカラ』はまさにソレ。何しろ、狂気の連続殺人犯をやっつける為、超能力を持った七人の老若男女が参集するのだ。これを〝 マンガ的 〟と言わずして何と言おう。

 但し、『幻魔大戦』的な壮大でシリアスな世界観を想像してはいけない。何となれば、彼らの持っている超能力が、どうにもトホホで馬鹿馬鹿しいのだ。

 幕開けは、秋の初めの月食の夜。新宿のネットカフェで女子高生が殺される。駆けつけた警察官が《 被害者が人間であるのかさえ分からなかった 》と言う程のスプラッターな犯行現場には、しかし、捜査のヒントになるような遺留品も目撃者も、何一つ見つからない。

 一方、とあるネットのチャットルーム。〈 異能者の館 〉と名付けられたそこでは、人とは違った能力を持ってしまったが故にちょっと困ったことになっている男女が、お互いの悩みを打ち明け合って、同類相憐れんでいた。せっかく知り合ったんだから一度会おうということになり、所謂〈 オフ会 〉を開催したのが、たまたま件のネットカフェ。事件の捜査を焦った警察に仲間の一人が犯人と誤解されて拘留されたことから、〈 異能 〉を使って真犯人を探し当て、彼女の無実を証明しよう、ということになったのだが……。


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 問題はその〈 異能 〉だ。不随意筋である起毛筋を意識的に動かして、猫のように毛を逆立てられる。30センチだけテレポーテーション出来る。どんなに目の前に立っていても、全く気付いて貰えない。犬や猫と話が出来る、etc……。

 それが一体何の役に立つんじゃー!? という疑問は当の本人たちも痛感しながら生きてきた訳だが、三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、みんなでアイデアを出し合う内に、それぞれの持つ〈 異能 〉に意外な使い道があることに気が付いて、作戦を練り、役割を分担して、警察と真犯人の両方を敵に回していざ勝負!

 各々のキャラがステロタイプと言えばステロタイプ――例えば、異能者の一人である老人は「~じゃ」というのが口癖だけど、実際に「~じゃ」なんて話し方する人は、まさにマンガか時代劇の中にしかいないじゃん――ではあるんだが、その分、所謂〝 キャラ立ち 〟が良くて共感はし易い。全編を通して力の抜け加減が絶妙で、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、その馬鹿馬鹿しさが癖になる。

 そうかと思うと主人公たちの正義感だけは冷やかし抜きで描かれていて、唐突にシビレるセリフが出てきたりするから油断がならない。《 正義は単純なものじゃ。人を傷つけてはいかん。人を騙してはいかん。人から盗んではいかん。子供でも分かるようなことこそ正義じゃ。ああだ、こうだと能書き付きの正義は偽もんじゃ! 》なんて、まるでほんもののヒーローみたいではないか。

 ともあれ、感動で滂沱の涙を流したり、インスパイアされて人生観が変わったりするような作品ではないけれど、税込500円でこれだけ楽しめれば超大特価。お気に召した方には、第2弾『セイギのチカラ Psychic Guardian』、第3弾『セイギのチカラ アングラサイトに潜入せよ!』とシリーズ化されてもいるからそちらも是非!

 さて、〈 異能 〉つながりで思い出したのが、原田宗典『平成トム・ソーヤー』。ネットどころか、まだケータイもろくに普及していない時代の話だから、今の20代、30代にはちょっと違和感があるかも知れないけど、それを補って余りあるスリルと興奮を、必ずや堪能出来るに違いない。


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 本書に登場する〈 異能 〉は超能力のような非現実的なものではなく、指先の違法芸術――掏摸。

 高校3年生のノムラノブオが、自分の指先の器用さに気が付いたのは小学生の頃。当初は家族や友人に手品めいた技術を披露して満足していたが、中学生の頃、ふとした偶然が重なって初めて電車で掏摸を働く。捕まりはしないかという緊張で心臓が飛び出そうな程ドキドキしながら電車を降りたその後には、彼の心の中では、初めて犯罪を犯した罪悪感ではなく、予想以上に上手くいった高揚感が膨らんでいた。

 以来今日まで、ノムラノブオは、ゲーセンやらカラオケやらで遊ぶ金を、通勤の車内で稼いできた。僅か数年で、テクニックも格段に上達した。掏った財布から札だけ抜いて財布は再び持ち主のポケットに戻す、なんていう芸当を、ほんの数秒でやってのける。

 が、或る日、同級生の一人――全国模試の数学と物理で満点をとるほどの秀才で〝 スウガク 〟と渾名される鏑木――に掏摸の現場を見破られる。そして誘われる。

《 この計画はすごく単純なんだ。文房具屋で消しゴムを万引きするのと大差ない。いや、正確に言うなら、誰かが万引きした消しゴムを、さらにかっぱらうんだな。万引きした張本人は、文句の持って行き所がないというわけだ 》。

 要するに――。暴力団関係のある男が、自分の馬鹿息子を一流大学に入れる為に、金やら脅迫やらの手段を駆使して、入試の数日前に試験問題を受け取る手筈を整えた。それを偶然知った女子高生のキクチが、中学からの友人であるスウガクに相談し、二人してその入試問題を横取り出来ないものかと思案に暮れていた時期に、ノムラノブオの離れワザを目の当たりにして、「これは、仲間に引き込むに如くはない」と声をかけて来た……。というところまでが、起承転結の〝 起 〟の部分。


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 そこに、掏摸の世界の大親分のような老女が絡んで来る辺りからが〝 承 〟になり、ストーリーは急加速。素質があるとは言え、その道ン十年のプロから見ればまだまだ危なっかしいノブオの技術を、本番までに完璧に仕上げるために、例の老女が特訓する。爪にカッターの刃を接着して、ポッケに手を突っ込んでいる人のポッケを下から割いて、中身を掏り取る。アタッシュケースを持って歩いてる人の内ポケットからまずはアタッシュケースの鍵を掏り、アタッシュケースを開けて中身を掏る。手に持っている何かを掏り取ると同時に替わりの物を掴ませて、持ってる物が掏り替わった事に気付かせない……。

 もうその神業を読んでるだけで、例えばポールニューマン&ロバート・レッドフォードの『スティング』だとかブラッド・ピットの『オーシャンズ11』なんかを観てるみたいな、ハラハラとワクワクが錯綜した興奮状態。悪い事やってる奴らなのに、拳を握って応援せずにはいられない。

 そしてそして、珍しく東京に雪が降り積もる1月の或る日、物語の結末は刻一刻と近づいて、それからどうなる? 勿論そんなのこここで言う訳ないじゃんか。それでも一つだけ言っとくと、犯罪小説と恋愛小説と友情小説と青春小説が絶妙に融合したのが『平成トム・ソーヤー』だってこと。十数年ぶりに読み返したけど、変わらずにハラハラドキドキさせまくってくれました。

 さて、〈 異能 〉もの特集の3作目は高野和明の『6時間後に君は死ぬ』

 ストーリーはタイトル通り。主人公の美緒が街で若い男に声をかけられる。ナンパかと思って適当にあしらったら、然に非ず。その青年・江川圭史は、いつもいつもと言う訳ではないけれど、何かのはずみで他人の未来が見えてしまうことがあるらしい。そしてつい今しがた、美緒とすれ違った瞬間に分かってしまったのだと言う。即ち、《 6時間後に君は死ぬ 》と……。

 ってな幕開けの後は当然ながら、どうすれば美緒が死なずに済むのか、そもそも未来が分かったからと言ってそれを覆す事が可能なのか、二人で右往左往しながら打開を目指す。


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 こういうの書かせると、この作家はホント巧い! 右に行ったら壁に遮られて、左に行ったら落とし穴があって、後ろに戻ったら待ち伏せされててみたいな焦りと危機感を、文字だけで味わわせてくれるんだからもう!

 ネタに抵触するから詳述はしないけど、例えば、或る事態を避ける為には、終了予定の三時を三分ほど過ぎてしまうと予知されるパーティを、遅滞なく三時ピッタリに終わらせる必要がある。美緒は二人の人物に働きかける事で、パーティを予定通りに終了させようと考えるのだが、圭史曰く《 もしかしたら今の段階で、パーティはもっと遅れることになっているのかもしれない。手塚さんと教授に働きかけることで、それが早まって三時三分に終了を迎えてしまうかも 》……。って、そんな事考え出したらキリが無いじゃんか!

 といったスリルだけでなく、《 未来が定まっていない以上、すべての絶望は勘違いである 》――『幽霊人命救助隊』や、《この世に、生まれてくるべきではなかった人なんているんでしょうか。誰かをつかまえて、お前は生まれてこなかったほうが良かったなどと、他人が言えるんですか?》――『K・Nの悲劇』などと共通する高野節も、勿論健在。

《 普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか 》

《 弱気なこと言わないで。絶望なんてものが人の役に立ったことがあるの? 》

 多分僕は、高野和明のこういった〝 人生肯定 〟の姿勢に惹かれるからこそ、彼の物語を何度も何度も読み返してきたんだと思う。決して、大団円のハッピーエンドではないけれど、そして、苦しい事や悲しい事から解放される訳でもないけれど、それでも、人生は生きるに値する。そんなメッセージが、高野和明の作品には途切れずに流れ続けているように思えるのだ。


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 そして、このテの〈 異能もの 〉と言えば宮部みゆきの『龍は眠る』を外す訳にはいくまいのう。

 こちらの異能は、触れた相手の〝 心を読む 〟と言うか、〝 記憶を読む 〟力。対象は人間だけとは限らなくって、例えば物語の冒頭で、道端に落ちている傘を手にした途端に、その傘の持ち主が数十分前にどうなったか〝 見えて 〟しまう。

 その〈 異能 〉を誰かの為に積極的に使おうと考える少年と、同じ能力を持ちながらそれをひた隠し、極力使うまいとする青年。ふとした偶然から二人と関わることになった雑誌記者・高坂は、当初は半信半疑ながら、或る事件に巻き込まれてゆく過程で、彼らの〈 異能 〉に頼らざるを得なくなり……。

 他のサイキックもの、異能ものと大きく違う点は、この著者の『クロスファイア』なんかもそうだけど、〝 持てる者 〟の悲しさ、生きづらさを描く点だろう。

 例えば、自分にも〝 他者の心や記憶が見える力 〟が備わっていたとしたらどうだろう、と考えてみる。友情とか恋愛とか、成り立つかな? どんなに好きな者同士だって、たまには一緒にいて「面倒くせーな」と思っちゃうことはあるだろうし、どんなに仲が良い相手でも「チェッ」って舌打ちしたくなることはあるだろう。そういうのが全部、一から十までこっちの心に流れ込んで来ちゃったらもう、誰の事も心からは好きになれないし、本当の意味で信頼し合うことなんか出来ないんじゃないかなぁ。

 本作に於いても、〈 異能 〉で人を救いつつも、その〈 異能 〉によって傷ついていく二人の姿が、まるで体験談の如き生々しさで描写されてゆく。

 それでも宮部みゆきもやっぱり人生肯定派であることを、読了後に疑う者はいなかろう。

《僕、誰かの役に立てると思うよ。僕だけじゃないや、みんな、そのために生きてるんじゃないの? すっごく気障かもしれないけどさ、でもね、一年に一度ぐらい、夜中、一人っきりになって、そんなふうに考えてみるのも悪くないよ、きっとね 》

 個人と個人も、国と国も、駅のホームや街角でも、ネット上でも、なんだかギスギスと攻撃的な姿が目立つようになった昨今、サイキックである少年の右のセリフは、とても多くの事を語っているような気がしてならない。



今月の紹介本




編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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by dokusho-biyori | 2018-11-10 06:35 | バックナンバー | Comments(0)

18年10月

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乾杯は……――文藝春秋営業部 川本悟士
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 この原稿を書いているのは、帰路の新幹線のなかになってしまいました。カープがマジックを減らしいよいよ地元優勝か!……ということでいてもたってもいられず、他の用事と合わせて実家広島に帰ったのが三連休前の金曜日。

『Number 962号』のカープ特集号をまって、現地での盛り上がりをルポにしながら……と皮算用をしながらの帰省でしたが、雨まじりの天候とあいまって雲行きが怪しくなり、結局、往路の「ビールかけのにおいをプンプンさせながら帰ったるわ!」くらいのテンションは、復路では「明日は早いしソフトドリンクを一杯飲むか……」という重苦しい言葉へと変わっていきました……。

 というわけで今回は、実家の書棚でみつけた一冊から、あるソフトドリンクについて取り上げます!

 読者の皆さんにとってソフトドリンクといえばお茶でしょうか、ジュースでしょうか。この辺りは年齢によって違ってくるところかもしれませんね。ちなみに、個人的な事情で今回は「スカッとさわやか」にすすみたいところなので、今の私の気分は炭酸ジュースです。

 いくつになってもおいしいですね、炭酸ジュース。夏祭りに秋祭り…八月、九月と小さい頃からよくお世話になりました。まさに「スカッとさわやか」といえばコカ・○ーラ、フランスの国民的炭酸といえばオラ○ジーナ……飲料メーカー社員に聞くとまさに星の数ほど炭酸飲料ジャンルの商品はあって、それぞれに固定のファンがいるようです。


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 今回取り上げる『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』(……今更ですが、なんだかここまで商品名を隠してきた意味があまりないタイトルでしたね……)によれば、そんななかでも今も書店に並ぶような多くの文豪が愛してやまなかった飲料が、サイダーであるといいます。

 著者によれば、炭酸水はそもそも腐敗しにくかったこともあり、大航海時代の船乗りの日常にあふれていたもので、開拓の結果安く砂糖が手に入るようになると、レモン果汁と砂糖と炭酸水を合わせたイギリス式の「レモネード」が誕生しました。当初は治療薬として親しまれていたようです。

 伝来の諸説も色々あるようですが、そのレモネードが海を渡って日本にやってきたのは、幕末のころ。ここから日本のサイダーの歴史がはじまったというわけです。その後多くの日本人に愛されていきます。

 その一人が宮沢賢治で、彼は好物の天ぷらそばを馴染みの蕎麦屋で頼んでは、お店の仲のいい友人とよもやま話をしながら「ちょっと一杯やりましょう」とサイダーを注文していたとか。ちなみに、夏目漱石の家でもよく飲まれていたようです。夏目漱石は洋行帰りなので、当時としてはめずらしく「炭酸水」それ自体を飲むことに慣れている人だったのかもしれません。彼が胃潰瘍で病床に臥せっているときも、口にできたのは炭酸水だけだったというあたり、まさに「命の水」ともいえそうですね。

 意外なところでは、軍隊との相性も良かったようです。当時、旧海軍の戦艦にはすべて、ラムネ製造機が装備されていた、という話もあるとか。ラムネとサイダーはフレーバーの違いが大きく、ラムネはレモンの、サイダーはリンゴとパイナップル風味のものを使っていたようですが、後者のほうが値段が高かったため、ラムネは庶民派、サイダーは高級品とされていました。


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 そんな当時は高級品だったサイダーですが、軍隊の中では比較的安く手に入れることができたのだとか。若い兵士の間で親しまれ、彼らが親世代になっていく頃には「カレー」や「肉じゃが」と同様、世代をまたいで広まっていったのかもしれませんね。

 そんなサイダーは戦後、空襲などによって生産力が落ちた状態でコーラの来襲をうけたりしつつ、そのたびに長く残って現在に至るようです。炭酸が弾けるときに薫る独特のあの風味が、何年も愛されてきたということでしょう。

 今回の帰省では、発売の迫ったガリレオシリーズに触れようと、映画『容疑者Xの献身』を観たりなどもしたのですが、十数年ぶりにあった石神と湯川が杯を重ねるのはスコッチウイスキーのボウモアなんですね。見た瞬間、そうか、ボウモアか! と感動しました。えてして銘柄には銘柄の、個人的な思い出があったりするもので、彼ら二人にも、ボウモアにまつわる何かがあったのかもしれないな、と思ったからです。

 それこそ三ツ矢サイダーについての思い出を振り返ってみれば、中学の部活や試合の帰りにしばしばプシュッと開けて飲んだことでしょうか(今思えば仕事終わりにビールを飲んでる私は無事に正常進化を遂げているのではないかという気がしないでもないのですが、ここでは考えないことにします)。やっぱりそういうときの周りの様子というか、チームメイトの顔、話題になっていた音楽、履いていたシューズ……そういうものがセットで浮かんでくる辺り、あの頃から大して変われていない私は、案外あの時を楽しんでいたのかもな……と思えてきます。

 実家を背に移動しながらいうのも変な話ですが、今度の帰省では昔の友人に声をかけてたくなってきました。そのときに何を飲むのかって? 優勝の美酒なら「最高です」。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 おまえの額が狭いのはおまえが選んだことなのか、
おまえは自分の意志で顎にホクロをつけたのか 》

『リバース&リバース』奥田亜希子

 アトピーの男の子をからかっている小学生たちを、おばあちゃんが一喝する場面。セリフはこの後、こう続く。《 自分では選べないようなことを持ち出して誰かを傷つけるのは、最も品性の下劣な行為だ 》と。いいこと言うなぁ、おばあちゃん。新潮社という出版社は、こういう本もたくさん出版してきたのだ。



ルールなんか知らなくってもPART2――丸善津田沼店 沢田史郎
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 先月に引き続いて、ルールなんか知らなくっても楽しめるスポーツ小説、第2弾。

 春に、なんとも嫌~な事件があったアメリカンフットボールだが、恐らく、あんな酷い話は例外中の例外ではなかろうか。あの一連の騒動を、「こんなことでアメフトを嫌いにならないで」と、祈るような気持ちで見つめていたファンやプレーヤーはさぞ多かろう。あの事件が発した警告や教訓は様々にあるのだろうが、少なくともアメフトというスポーツが悪い訳でない筈だ。

 ということで、今月の一発目は、私立城徳高校アメリカンフットボール同好会。

 僕も本書を読むまでは、アメフト部なんて大学か実業団にしか無いだろうと思っていたんだが、高校にも、全国で100チーム強はあるそうだ。

 と言っても、例えば高校野球なら、千葉県予選だけでも毎年170チーム前後が参加している訳だから、競技人口で言えばアメフトなんぞマイノリティの極みである。故に、テレビで中継されることはめったに無いし、サッカーで言えば天皇杯決勝に当たるライスボールでさえ、スポーツニュースで2、3分も映像が流れれば御の字である。当然、ファンも増えないし、それどころかルールの浸透もままならないというのが現状……と言うよりも、20年も30年も前からずーっとそうだ。

 そもそも、アメリカ生まれのスポーツってのは、概してルールが面倒臭い。

 ヨーロッパ産のサッカーやラグビーにだって初心者には解りにくいルールが全然無いとは言わないが、アメリカ生まれのバスケットボールの〈 バックパス 〉や〈 バスケットインターフェア 〉、ベースボールの〈 ボーク 〉や〈 インフィールドフライ 〉のややこしさに比べれば、〈 オフサイド 〉だの〈 オーバーザトップ 〉だのはカワイイもんである。


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 恐らくは、ヨーロッパ発祥のスポーツってのは、サッカーにしろラグビーにしろ或いはゴルフにしろテニスにしろ、自然発生的な遊びが少しずつ発展したものであるのに対して、アメリカ産のスポーツってのは、粗っぽく言ってしまえば、「こういうスポーツを作りましょう」という目的が先にあって、それに合わせて人工的に作り出されたという歴史があって、例えばバスケは、〝 寒い冬に屋内で出来るスポーツを 〟って目的が先ずあって、それに合致するようなスポーツを言わば無理矢理ひねり出した訳なんだけども、だからこそ無駄にルールが細かくなったと言うか、自然発生的に生れたスポーツなら何となく「こういう場合は、まぁこんな感じでいんじゃね?」といったユルさで長年運用されてきた歴史によって定着したルールを、アメリカ産の場合はゼロから論理的に組み立てたから、無意識の内に〝 緻密 〟になり過ぎたんじゃないか……と個人的には考えているけど正しいかどうかは知りません。

 とにかく、そんな風にルールがややこしいアメリカ産スポーツの中でも、極め付きがアメリカンフットボールであるという意見に、反対する人は少なかろう。大体、試合中に審判が巻尺持ちだして長さを測るって、どんだけ神経質やねん。サッカーのスローインを見てみろ。ボールがタッチを割った場所で構えたからそこから投げ入れるのかと思ったら、ずるずるずるずる5歩も6歩も歩いて、最初とは全然違う場所から投げても審判、何も言わへんやん。「大体、こんぐらいでいんじゃね?」。そういう大らかさが、アメフトには全然無い。

 って、けなしている場合ではなかった。むしろ、誉めなきゃいけなかったのかも知れないが、取り敢えずアメフト知らない人にかなり乱暴に説明すると……。


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①野球のように〈 攻守交代制 〉のスポーツである。サッカーなどは、守備側がボールを持った瞬間に攻撃に転じるが、アメフトの場合、基本的には攻撃側と守備側の交代は、野球のように一度プレーを中断して行われる(多少の例外はある)。

②野球のスリーアウトに対して、アメフトは〈 4アウト制 〉である(ここで言う〈 アウト 〉とは説明の為の造語であって、正式には〈 ダウン 〉と言います)。即ち、攻撃側は〈 4アウト 〉までに10ヤード(約9.1メートル)ボールを進める事が出来なければ、攻守交代。10ヤード進められたらそれまでの〈 アウト 〉はリセットされて、再び〈 4アウト 〉までに10ヤード進みなさい、となる。

③どんな時に〈 アウト 〉になるかと言うと、分かり易いのはボールを持った選手がコートから出てしまった時や、タックルで潰された時。他にも色々あるけど、まぁ最初は細かいことはいい。

④とにかく、〝〈 4アウト 〉以内に9.1メートル以上ボールを進める 〟という行為を繰り返して、結果的にゴールラインの向こうにボールを持ち込めば、めでたく〈 タッチダウン 〉で6点貰える(ラグビーのようにボールを地面につける必要は無い)。

 相当に大雑把だが、これだけ知っていれば、何となくは試合の流れについて行けると思う。

 で、その〝 何となく 〟で楽しめてしまう小説が、須藤靖貴『俺はどしゃぶり』だ。念のために言っておくが、細かいルールや専門用語が出て来ない訳ではない。ただ、そういうところは「よく分からん」と読み飛ばしても話の筋は追えるし、一つ一つ理解してからでないと読み進められないという人には、巻末に専門用語の脚注もある。そして何よりも、この小説の醍醐味は、プレーの描写ではない! ということが大事なとこだ。

 ならば、その〝 醍醐味 〟とは一体なんぞや? それを今から説明するから、まぁお聞きなさい。


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 舞台は先ほど申し上げた通り、埼玉県にある私立の男子高。そこで、語り手であり主人公である国語の教師・佐藤吾郎が、アメリカンフットボール部を立ち上げる。その名も城徳ベアーズ。但し、部員の勧誘で早々につまづく。身体能力が優れた奴はとっくにどこかしらの部に属しており、結果、集まったのは《 運動経験は体育の授業だけ 》といったスポーツ落ちこぼれ軍団。

 そんな彼らが汗と涙と友情でめきめき実力をつけて大会でダークホース的な快進撃を続け……たりは全然しない。

 練習は、サボりも手抜きもせずに黙々とやる。時には喧嘩するぐらい熱くもなる。だから、入部前は体重100キロを越えていた生徒の身体も、数カ月でグッと絞られて逞しくはなった。けれど、ロクに運動したことすら無いズブの素人がそう簡単に強くなれるほど、スポーツってのは甘くない。技術的にはまるっきり亀の歩みである。初めての対外試合では、94対0という大敗を喫した。センスも才能も無いのは明らかだ。それは多分、彼ら自身にも判っている。

 それでもベアーズの面々は、アメフトをやめようとは思わない。「好きこそものの上手なり」と言うよりも明らかに「下手の横好き」の部類なんだが、一向に上達しないのに、毎日飽きもせずグラウンドに出て、真夏のクソ暑い時期でもプロテクターをつけてヘルメットをかぶり、必死ににグラウンドを駆け回る。

 そうなのだ。スポーツというものは、才能があるからやる、才能が無いからやらない、というものではないのである。

 その姿に胸打たれるのは、何も読者だけとは限らない。

《 何かがうまくいかないとき、俺はそれを「でぶ」のせいにしてきた 》と、顧問の吾郎は述懐する。

《 足が遅い、懸垂が一回もできない、勉強ができない、意地汚い、女にもてない……。すべて太っているせいだった 》

《 ならばジョギングするなり減食するなりして痩せればいいのだが、そういう発想は浮かばなかった 》

《 でぶだから仕方ないと自他ともに認めてしまう。何に対してもすぐに諦めてしまう 》


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 でぶで運動音痴でセンスがゼロでも、懸命に前に進もうとするベアーズの選手たちと、過去の自分とを引き比べて、「俺」は頬ゲタを張られたような気持ちになるのだ。

《 拍手を送りたい。誰か脱落すると思っていた。(中略)ダンプカーがラリーコースを走らされているようなものだろう。いつ逃げ出してもおかしくない。なにしろまともに走れなかったのだ。だが連中は頑張った 》

 やはり、である! 若者が損得抜きで何かに打ち込む姿ってのは、胸をうつもんなのである!

 そして、いよいよ今シーズン最後の試合。我らがベアーズの目標は、初勝利! ではない。一度でいいから試合中にタッチダウンを奪ってみたい――。それだけ聞けば、何て情けないチームなんだと思うだろう。だが、ここまで170ページ、彼らの奮闘を見つめてきた読者諸兄は、決してそうは感じない筈だ。アメフトのルールが分からなくても、ベアーズの面々が己の限界に挑戦し続けてきたことは、読者の胸にはハッキリと刻まれている筈だ。

 故に。第4クォーターのラスト数秒。精根尽き果てて足元もおぼつかない選手たち。その一人一人の肩を抱くようにして、吾郎が強く優しく飛ばす檄。《 ……いいか、これが最後のオフェンスだと思え 》から始まるセリフに、手に汗握らない読者はいないだろう。

 先に述べた「この小説の醍醐味は、プレーの描写ではない!」とは、そういうことだ。



今月の紹介本



永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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 レバノンから大傑作の誕生です! 下半期に入ってから断トツに面白い作品! 激押しです!!

 最初はスルーしようと思っていました。何故なら、個人的に宗教や政治が絡んだ作品は少し苦手なのと、この手の作品は著しくエンタメ性に欠ける事が多い印象があるからです。けど、アカデミー賞にノミネートされた作品なので観とくか……と言うのが最初の思いでした。しかし、劇場を出た時の思いは、自分の先入観を悔いました。法廷劇でこんなにエンタメ性が高い作品だったとは……。

 この作品で、まず素晴らしいと思ったのは話の入り。補修工事の現場監督ヤーセルがアパートの水漏れ工事を進めた所、その部屋に住むトニーが出て来て、そんなの頼んでない! と激怒。新しく取り付けた排水管を破壊する。これにヤーセルは我慢できず、クズ野郎と吐き捨てる。何か身近に起こりそうだな~と思い、すぐストーリーに入れました。そして、トニーはヤーセルの悪態を許さず、謝罪を要求。しかし、絶対謝らないヤーセル。

 この小さな出来事から話はドンドン大きくなり、レバノン全土が注目する裁判に……という流れ。あの時、謝っていればな~……。

 そう、これです! これがその作品です。いつの間にか当人同士より外野が大騒ぎ。聞き覚え、身に覚えはありませんか? これです! 勿論、この作品には宗教や政治の問題はありますが、それを抜きにしても最高に面白い作品だと私は思います!



ルールなんか知らなくってもPART2――丸善津田沼店 沢田史郎

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 さて、アメフト以上に〝 設定 〟で忌避されるジャンルがある。競馬だ。興味の無い人にとっては、働きもせずに金儲けを目論む欲張り者たちのギャンブル、程度にしか映らないかも知れない。そういう一面も確かにある。

 だが、それ以上に競馬と言うのは、一秒でも早くゴールを駆け抜けるために、人と馬とが心を一つにして戦うスポーツなのである。だから僕も、野球の日本シリーズやJリーグのチャンピオンシップを観る感覚で、ダービーや有馬記念も結構観るけど、馬券は殆ど買ったことが無い。

 で、スポーツとしての競馬の面白さを、初心者にも分かり易く垣間見せてくれるのが、2001年の小説すばる新人賞受賞作、松樹剛史の『ジョッキー』だ。

 主人公はタイトル通り、中央競馬の騎手・中島八弥・28歳。諸事情あってどこの厩舎にも属さずフリーで活動しているが、最多勝に絡むような有力騎手ではないので、騎乗依頼はなかなか来ない。乗る機会が少ないから、レースで勝ち星を重ねて名を上げることも出来ない。名前が売れないから、騎乗依頼はなかなか来ない。以下同文……といった悪循環で、時には冷蔵庫の中が空っぽになるほどの、食うや食わずの生活が続いている。

 スポーツに限らずどんな世界でも、功成り名を遂げて記憶や記録に残る人というのは、ほんの一握り。大多数は、チャンバラ映画の斬られ役の如く、顔も名前も覚えて貰えないままひっそりと活動してひっそりと舞台から消えてゆく。

 ではそういった名も無き多数派が皆、才能が乏しかったり努力が足りなかったりするのかと言うと多分そうではなく、ある世界で成功する為には人間の力ではどうしようもない〈 運 〉とか〈 巡り合わせ 〉といったものが、やはり必要なんだと思う。


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 で、八弥。それぞれの馬の気質や脚質を見極めて疾走本能を引き出すのは抜群に上手いのに、ツキに恵まれずに結果が出ない。にもかかわらず、腐らない。勝てなくても、人のせいにしない。なおかつ、馬が頑張って走った後には、精一杯誉めてやる。更には、勝てない時もたまに勝てた時も、変わらずに支援してくれる周囲への感謝を忘れない。そんな彼の快活さのお蔭で、物語全体が常に明朗な雰囲気に充ちている。

 また、八弥よりも遥かに運に恵まれているように見える後輩・大路佳康も、憎み切れない生意気さで、ストーリーにユーモラスな味付けをして飽きさせない。何しろ、たまに八弥がレースで勝つと、《 やりましたね! 生活費二ヵ月分! 》などと、馬鹿にしてるのか喜んでるのか判断に迷うような祝福をしたりする。

 その他にも、成績不振で引退するジョッキーや、逆にデビュー以来連勝街道まっしぐらで、八弥の数倍、数十倍の賞金を稼ぐ同期などが、ある時はライバルとして、またある時は同じスポーツに懸ける友人として、八弥の騎手人生に出入りする。

 更には、男性中心の古い体質を引きずる競馬界で孤軍奮闘する女性調教師や、実力はありながら勝ち星に恵まれない八弥を何かと気にかけてくれる調教師、飼い葉の管理から馬小屋の掃除まで厩舎の雑用係とも言える厩務員など、表からは見えない場所で競馬を支えている人々も仔細に描かれ、競馬が〝 馬を走らせるだけ 〟の単純なスポーツではない事がよく解る。

 よく解かると言えば、レース中の騎手のテクニックも具体的に描かれていて、「ただ馬に乗ってムチを振るっているだけじゃないんだ!?」と、初読の時には大いに驚いたのを覚えている。例えば、右脚を前に出す〈 右手前 〉と左脚を前に出す〈 左手前 〉を、手綱とあぶみを操って巧みに入れ替える描写など、まるでサッカーの神業フリーキックでも見せられたかのようで、まさにスポーツと呼ぶに相応しく、読後は〈 競馬 〉を観る目が確実に変わるに違いない。


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 そして終盤。貧乏神に取り憑かれたような八弥にも、遂に巡ってきた一世一代の大勝負。舞台は秋の天皇賞。しかし相手は、競馬史に残るような活躍を見せる名馬中の名馬。対して、八弥が乗るのは、無類の末脚を持ちながら常に後方を気にして、レースに集中出来ない臆病な馬。そんな相棒に八弥は、過去の失敗を後悔し続ける自分をいつしか重ねるようになる。

《 リードはまだ十分にある。ゴールまでは、もう二百メートルを切っている。しかしエスケプはその場所を見ずに、後方ばかりに気を取られて、後方ばかりにおびえている。/情けないと八弥は思った。/同時に八弥は、そこに中島八弥の姿を見た。/――俺も、似たようなものか 》

 本当は、この直後の十数行を引用したいんだが、言ってしまうと読者の楽しみが半減してしまうから我慢する。我慢するが、これだけは言う。このクライマックスを読んでいる最中は、元からの競馬ファンも本書で初めて競馬を知った人も、共に観客の一人となって、「行けーっ!」と叫びながら拳を振り回しているに違いない。

 そして、くどいようだがやっぱり確信する筈だ。〈 競馬 〉はギャンブルである以前に、過酷でドラマチックなスポーツである、と。

 ついでながら触れておくと、本書を読んで競馬に興味を持たれた方は、是非、宮本輝の『優駿』にも手を伸ばして頂きたい。生産者、馬主、騎手、調教師、そしてファン……。幾人もの人生がオラシオンという名馬を軸に次々と連鎖して、思いもよらないドラマが生まれる。オラシオンの活躍をそれぞれが勇気に変えて、人生の艱難を乗り越えてゆく。

 随分前に仲代達矢と斉藤由貴、緒方直人で映画化された事があって、そっちの方はちょっとアレな出来だったけど、原作は吉川英治文学賞を受賞した、宮本輝の初期の代表作。クライマックスは東京優駿=日本ダービーの府中競馬場。これまでの3年間にそれぞれの形でオラシオンに関わってきた人々が、それぞれの思いを胸に見つめる先には、ゲートの中で風にたてがみをなびかせるオラシオン……。


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 初読の時はアルバイト先の休憩室で、物凄い勢いで涙が溢れて止まらなくなって、恥ずかしいからトイレの個室に隠れて読み進めたのを、今でもハッキリと覚えてる。

 競馬の世界を舞台にした小説ではあるけど、主題は競馬そのものではなく、オラシオンという名馬に大なり小なり関わることになった人々が、それぞれの形で迎えることになった〈 人生の岐路 〉。だから、GⅠが何だとか斤量が何だとかいう競馬の知識は、全く無くても大丈夫。読後は、〈 感動 〉などという単純な言葉では表しきれない様々な感情が、胸の奥から溢れ続けるのを止められなくて途惑うに違いない。

 近藤史恵『サクリファイス』は、僕が知る限り〝 初心者に最も優しいスポーツ小説 〟だと思う。

 何しろ初読の2007年には、〈 ツール・ド・フランス 〉なる自転車のレースがあるのは知っていたが、「ル・マン24時間の自転車版?」みたいな、超間違った知識しか持っていなかったのに、読み始めたら一気呵成。しかも、自転車ロードレースの何たるかをストーリーに巧みに織り込んで説明してくれているから、読了後はいっぱしの自転車通気取り(笑)。

 一つには、著者自身がロードレースのド素人で、たまたまテレビで見かけたレースシーンに魅了されて小説化を思い立ち、自転車についてゼロから調べて書き上げたという経緯があるからだろう。だから、ロードレースを知らない人でも〈 ここさえ理解して貰えれば、面白さは伝わる筈 〉というポイントは体験的に知っていたろうし、逆に〈 こういうところを説明しないと、初心者には難しい 〉という点もしっかり把握していたに違いなく、だからこそ、これほどまでに素人が楽しめる作品になったのではなかろうか。


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 で、その自転車ロードレース。所謂〈 競輪 〉のように専用の楕円コースをグルグル回るのではなく、一般の公道を通行止めにして使うという点で、マラソンをイメージして貰うと解かり易いかも知れないが、距離と時間が全然違う。

 何しろ一日に150キロから時には200キロ以上、5時間から7時間も走り続け、レースによってはそれを何日も続けてトータルの優勝者を決めるというのだから、傍から見れば狂気の沙汰だ。因みに前出の〈 ツール・ド・フランス 〉は、山あり谷ありのコースを3週間、2日間の休息日以外は雨の日も風の日も走り続けるというから、もはや非人道的と言っていい(笑)。

 そんな過酷なレースだから、実は個人で競いながらも緻密なチームプレイが不可欠で、故に〈 エース 〉と〈 アシスト 〉という役割が存在する。そして、それこそがこのスポーツを面白くしている最大の要因だ。

 取り敢えず〈 エース 〉については説明は不要だろう。文字通りチームの中心的存在で、勝利の担い手。一番速くて強い人。チームは〈 エース 〉を勝たせる為に戦略を組む。ならば、〈 アシスト 〉とは何ぞや?

 本書『サクリファイス』の中で《 捨て駒 》と喩えられる場面があるが、〈 アシスト 〉とはまさしくそれで、例えば〈 エース 〉の体力温存の為にその前を走って風よけになる。〈 エース 〉がパンクしたら自分のタイヤを差し出す。サポートカーから補給用のドリンクを受け取って〈 エース 〉に届けるなどなど、自分もレース中であるにもかかわらず〈 エース 〉への滅私奉公を優先し、その結果自分がリタイヤしても〈 エース 〉が優勝出来ればそれでヨシという、縁の下の力持ち的な存在。


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 そんな役回りを、《 自由 》だと感じるのが、『サクリファイス』の主人公・白石誓=愛称・チカ。陸上の3千メートルでインターハイ優勝まで勝ち取った実力の持ち主ながら、常に勝つ事を期待され続け、勝利を義務付けられたような窮屈さに心が悲鳴を上げている時に、たまたま知ったロードレース。必ずしも自身の勝利を目指す訳ではないという〈 アシスト 〉に魅力を感じて転身し、プロチームに入って2年目の23歳。

 チカが所属するのは、大阪を拠点とするチーム・オッジ。そこにいるのは、日本でもトップクラスの絶対的エース・石尾豪を初め、7年間石尾をアシストし続けてきたベテランの赤城、若手の中ではスピードはピカイチ、いずれ石尾にとって代わるとさえ囁かれている、チカと同期の伊庭和実など、個性的と言うよりもクセが強いと形容すべき自転車おたくたち。

 そんなオッジが日本各地を転戦する姿を追う内に、自転車を全く知らない人でも少しずつルールを理解し、同時にその魅力に取りつかれてゆくのが『サクリファイス』の凄いとこ。

 と同時に、近藤史恵が本格ミステリーの新人賞・鮎川哲也賞でデビューしたという事を、思い出して頂きたい。

 第2章から始まる〈 ツール・ド・ジャポン 〉。移動日を挟みながら正味6日間で争われる国内有数のこのレースでの、各登場人物の言葉や行動を、決して飛ばし読みなどせずに、どうか細大漏らさず脳裏に刻みながら読んで欲しい。とりわけ、エースである石尾が、〈 勝利 〉へのこだわりをチカに滾々と語る場面。

《 アシストを徹底的に働かせること。それが勝つためには必要だ。自分のために働かせて、苦しめるからこそ、勝つことに責任が生まれるんだ。奴らの分の勝利も、背負って走るんだ 》

 最終章まで読み終えて、この石尾の覚悟と矜持の本当の意味を読者が知ったその時こそ、読者は、近藤史恵がミステリー出身の作家であったことを思い出し、本作が、スポーツ小説の中に巧みにミステリーを織り込んだ稀に見る傑作であることを、思い知るに違いない。


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 勿論、団体競技特有のチーム内の友情や確執、嫉妬や競争心も丁寧に描写されているから、謎解き云々は取り敢えず措いておいて、まずは傑作スポーツ小説としての喜怒哀楽を存分に楽しんで頂きたい。そうして読了した時に、衝撃で呆然とするのも、感極まって落涙するのも、それは皆さんご自由に(笑)。

 因みに本シリーズは長編としては『エデン』 『スティグマータ』と続いていて、更にスピンオフ的な短編集『サヴァイヴ』も刊行されている。そして、それらのどれもが『サクリファイス』に勝るとは言えども劣らない緻密な構成に仕上がっているから、『サクリファイス』がお気に召した方には断固おすすめしておきたい。

 特に短編集『サヴァイヴ』に収録されている「プロトンの中の孤独」は、犯罪や事件など一切発生しないのに、鮎川賞作家・近藤史恵の面目躍如! 『サクリファイス』でチカを鍛え上げたエースの石尾豪。彼がまだ新人だった頃のエピソードを描いた僅か60ページ程の短い話なんだが、本格ミステリーのお手本のようなフィニッシュで、僕なんぞは、結末を知っている今でも、読み返す度に気持ちが高揚するのを抑えられない。

 昨今は〈 ツール・ド・フランス 〉の映像もネットに多数上がっているから、それを流しながら読むのも、気分が盛り上がっておすすめです。



連載四コマ「本屋日和」――丸善津田沼店 西尾文惠
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編集後記
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新刊案内
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by dokusho-biyori | 2018-10-06 10:31 | バックナンバー | Comments(0)

18年09月

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新しい「一眼」――文藝春秋営業部 川本悟士
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『Number』なんか写真が変わったなぁ。

 みなさん、この夏は、お盆は、いかがでしたか。私はといえば、休もうと思って里帰りしたのに父親が急にこんなことを話し始めるので、つくづく出版社には勤めるもんじゃないなと思いました。

 さて、実は『Number959号』、たしかに私も手にとったとき「あれ?」と思いました。編集後記にもあるのですが、連載の位置が変わって、新しいコーナーもできました。少し前に編集長をはじめとした新しい体制になり、それが現れていたというわけです。

 ちなみに、前の『Number』の編集長はどこに……と思われたそこのあなた。実は月刊『文藝春秋』で新しく編集長をしています。そんな目で月刊『文藝春秋』の9月号をめくってみてください。「雑誌は編集長のもの」という言葉も世の中にはあるようです。なにか「あっ」という変化に気づかれるかもしれません。

「ちなみに」ついでにお話すると、新編集長最初の号は〈 芥川賞 〉の掲載号。月刊『文藝春秋』の編集長は芥川賞選考の司会もしなければならないので、早々に大変な重責を担うことになります。前日から当日にかけて、歴代の編集長はどんな準備をしているのでしょうか? かつて話をきいたところでは、芥川龍之介の墓参りをしたり、験を担いで冬でも夏物のスーツをきたり、黒子に徹して目立たないようにと白いワイシャツを選んだりするとか。雑誌一冊とっても、いろんな思いがのっているんですね。


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 閑話休題。さて、実家でいきなりそんな冷水をかけられた私ですが、ふと、「そういえば、親父はどうしてこんなことに気づいたんだろう」と思いました。連載の位置ならまだしも、写真ですよ? 写真の背景の雰囲気、色味の具合、そういったところに目がいくほど、この人はそういうことに興味があったっけ……? きいてみると、あっさりと答えが出てきました。

「俺も昔は写真に凝った時期があるんだよ」なんと……!
 実は私、最近長年興味のあったカメラに、ようやく手を出しました。親子って嫌ですね。もともとスポーツの写真なんかを趣味で撮っていたのですが、もう少しだけ真面目に撮ろうかな、なんて思ったのにはきっかけがあります。

 一番は、宮城谷昌光『海辺の小さな町』と出会ったことでしょう。中国歴史小説界の第一人者である宮城谷先生ですが、これはなんと『アサヒカメラ』に連載されていた、大学生の四年間を描いた青春現代小説です。大学入学の記念に父から贈られたカメラ。カメラを手にしたことで、それまで出会わなかった人と出会い、見えなかった景色を見つけるようになる……。カメラに込められた秘密が次第に解き明かされていくにつれ、ついつい引き込まれてしまいました。

 そんなふうに名作にあてられて、「あぁ、久しぶりに俺もなにか撮りたいなぁ」そんな風に思いつつ、例によってフラフラと書店をさまよっていたそんなある日、思わずカメラのコーナーで立ち止まってしまい、読み始めたら、どんどん実際に触ってみたくなったという、まあ意地悪に簡略化してしまえば、盛り上がっていたところに教本を読んでテンションがあがったよ、という至極単純なお話なのかもしれません(笑)。


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 ようするに、「何かを始めるまでわからなかった景色」というのがあるんだろうな、ということです。たとえば、真夏にバイクで走っている人を見て、多くの人がそう思うように、昔は私も「いいなぁ、涼しそうで」なんて思ったものでした。ところがどっこい、やってみるとあれは結構キツいものです。考えてもみてください。灼熱の日差しのなか、脚でエンジンという「石油ストーブ」を挟んで信号が変わるのを待つあの時間のどれだけ長いことか……! 乗るようになってからというもの、「真夏のライダー」をみるたびに、「大変だなぁ」と反射的に思うようになってしまいました。

 たとえば、こういうことなんでしょう。一度カメラに凝ると、思わず写真のひとつにも目が行くようになり、「なんか変わったなぁ」と思うようになる。もちろん、本当に変わったのかはきいてみないとわかりませんが、ひとつ趣味をもつと、そういう視点というか、それまでだと気づけなかった視点から見ることができる新しい「眼」も、ひとつ増えるんだなぁと思います。

 いよいよ気候は行楽シーズン。それこそバイクに跨って、面白いものを探しに行くにはうってつけの季節がやってきます。旅のおともに、きっかけをくれるかもしれない本を1冊、いかがですか。



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「敵は倒すためにあるんやない」
「何のためにあるんですか?」
「歩み寄るためや」


 わざわざ敵を探しては、揚げ足を取って糾弾する。本筋からは外れた重箱の隅をつついて、鬼の首でも取ったように譴責する。そんな不毛な諍いがここ10年ぐらいで急増した気がする。それって、誰が得するんだろう? 《 汝らの中、罪なき者まず石をなげうて 》と聖書にもある。どう叩くかよりも、どう歩み寄るか。そう考えた方が、世の中の幸せの総量は増えていくんじゃなかろうか。



今月の紹介本



新刊案内
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永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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 緊迫感! 緊迫感! 緊迫感! ピリッピリの緊迫感を味わいたいならこの作品!

 テイラー・シェリダンの脚本は、映像スリルと社会問題提起が素晴らしい。『ボーダーライン』の時も脚本だけの参加だったが、緊迫感凄まじく素晴らしい作品だった。そして今作は自分の脚本で監督。やっぱり面白かったです!

 緊迫感では『ボーダーライン』に及ばないが、今作は地元のハンター演じるジェレミー・レナーと新人FBI捜査官役のエリザベス・オルセンが、このストーリーに厚みを出していてとても良かった。特に、ハンター役のジェレミー・レナーがめちゃくちゃ格好良くてハマり役! これだけキャラが立ってると続編期待しちゃうな~。

 ……で、結局何が言いたいかというと、社会派クライム・サスペンスとして秀逸でバディ作品としても面白いものは中々出会えないのでオススメです!

 話は変わって、今邦画で久々に盛り上がりをみせている作品をご存知でしょうか? 都内2館から始まり、現在は全国二〇〇館を超え大感染! 『カメラを止めるな!』自分も観ました。えっ!? 感想? ウ~ン……言えない(汗)。それがこの作品のミソだから! 勿論、面白かった! 良く出来てる(笑)。皆さんも是非!



ルールなんか知らなくっても――丸善津田沼店 沢田史郎
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 卒爾ながらお尋ねしたい。

 例えばサッカーを題材にしたスポーツ小説を、「私、サッカーよく解らないから」と言って敬遠しているそこのあなた。それならあなたが警察小説を読むのは、殺人事件の捜査を〝 よく解っている 〟からなのか? SF小説を買うのは、宇宙旅行をよく知っているからなのか? 或いは冒険小説に手を伸ばすのは、人跡未踏の砂漠やジャングルに詳しいからなのか? ファンタジー小説のページをめくるのは、魔法や呪いに知悉しているからなのか? 勿論、そうではない筈だ。ってか、そうだったらたまげるよ(笑)。
 巧い小説、面白い物語というものは、そこで描かれている文化や文明に疎い者でも、容易にその世界に引きずり込んでしまう、そういう引力を持っているのだ。いやむしろ、まだ見ぬ世界を垣間見せてくれることこそが、或いは行きたくても行けないどこかに連れて行ってくれることこそが、〈 小説 〉というものの魅力だろう。だからこそ僕らは、常軌を逸したマッドサイエンティストや未知の深海生物、謎の宇宙生命体やゾンビや魔物や妖怪が出て来る話でも、それを〝 荒唐無稽 〟と笑い飛ばさずに、それどころかあたかもそれが目の前に現れたかの如く、ハラハラドキドキと胸高鳴らせてきたのではないか。

 ならば、である。作中で題材になっているスポーツを〝 よく解らないから 〟という理由だけで遠ざけてしまうのは、果たして正しいと言えるのだろうか?

 更に幾つか、検討を重ねたい。


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 主人公が43歳で死んだと思ったら18歳に戻って人生をやり直すケン・グリムウッドの『リプレイ』。タイムスリップものの金字塔であるあの小説は、タイムトラベルの経験が無い人にとっては〝 よく解らない 〟作品だろうか? ナチスドイツの〈 チャーチル拉致計画 〉を「これ、史実じゃね?」というぐらいのリアリティで描き切ったヒギンズの『鷲は舞い降りた』。あの興奮は、特殊部隊に在籍した人にしか伝わらないだろうか? 或いは、吉川英治の『宮本武蔵』池波正太郎の『剣客商売』は、剣術に不案内な者には理解不能な作品だろうか? ついでだからもう一つ。スティーヴン・キングの不朽の青春ホラー『IT』は、殺人ピエロに追いかけられた事が無ければ怖くも何ともないのだろうか?

 答えは全て、〈 否 〉であろう。優れた小説というものは、経験や蘊蓄のある無しで読者をふるいにかけたりしないものなのだ。

 だとしたら、だ。スポーツを描いた小説に於いても、知識や体験にかかわらず心を踊らされたり目頭を熱くさせられたりする事が、あって当然だとは思わんか?

 とまぁそんな訳で、今月はルールなんぞ知らんでも血沸き肉躍るスポーツ小説! を勝手に特集。

 まず最初の舞台は、高校の弱小サッカー部。小野寺史宜の、その名も『ホケツ!』。こちら、長らく品切れのまま放置プレイの憂き目に遭っていたのだが、この9月、遂に文庫化された事を寿ぎたい(因みに巻末の解説は、浦和レッズに全てを捧げる男・本の雑誌社 〈 炎の営業 〉杉江由次氏。高校のサッカー部で最後までレギュラーになれなかった自身の体験を、大人になった今の目線から振り返る、沁み入るような文章は必読だ)。


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 高校3年生の宮島大地は、母親とは死別し、父親は失踪。以来、伯母と二人で暮らしている。サッカー部では万年補欠で、なんと、これまで公式戦に出た事が一度も無い。けれど、伯母にはそうとは言えず、エース並みの活躍をしていることになっている。

 性格は温和で、他人と言い争うようなことはまず無いし、誰かを無理矢理にでも引きずり降ろして、自分がレギュラーになろうなんていうふてぶてしさも持ってない。フリーキックの練習で得意な位置を後輩に横取りされても怒れない。怒りを我慢するのではなく、「まぁいいか」と思ってしまう。部員同士が喧嘩すると、そんなつもりは無くてもいつの間にか仲裁役になっている。何となくいい雰囲気になっている女子もいるが、異性として好きなのかそれともただ気が合うだけなのか、自分の気持ちがよく分からないから、具体的な行動も起こさない。

 といった感じで、宮島大地という青年は、気が小さいと言うか、優し過ぎると言うか、欲が無いと言うか、要するに自己主張がやたらと薄い。《 レギュラーになれねえのに、仲間ヅラして 》などと、時には貶められたりもする。

 けれど、彼のそんな性格を〈 短所 〉ではなく〈 長所 〉と捉えて応援してくれる人もいる。

 例えば、ハンバーガーショップでバイト中の友人を尋ねた時。友人の「おごるよ」という申し出をやんわりと断ると

《 「いいって。バイトしてんだから。ちょっとは割引もあるし」「だからっておごってたら、意味ないでしょ」「おごることに意味はあるだろ」 》

と返されて、ほっこりする。

 経済的な負担をかけまいと、無理をして国立大学を受けようとする大地に、伯母は言う。
《 ねぇ、そんなにわたしに迷惑をかけたくない? 》と。

そして数日後にこうも言う。

《 わたしのために国立大学に行こうなんて思わなくていい。でもわたしがそう言っても思っちゃうんなら、もうそれはそれでいい。大地がそう決めたんなら、がんばってほしい。ただ、落ちたらわたしに迷惑をかけるとか、そうは思わないでほしい。わたしがそれを迷惑だと思うなんて、そんなふうには思わないでほしい 》と。


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 そんな理解者に囲まれることで、ふわふわと中空を漂うように頼りなかった大地にも、漸く自分が見えて来る。

《 ゴールを決めたい。ぼく自身が決めなくてもいい。チームとして、決めたい。一パーセントでも確率が高いほかの選択肢があるなら、ぼくはそちらを選ぶ。それこそがぼくだ 》

自分自身のそんな本心を悟った大地がどう動くかは、勿論ここに書くのは我慢する。

 ただ、一寸の補欠にも五分の魂。レギュラーになることだけがスポーツの価値ではない。それは、学問でも仕事でも子育てでも釣りでもジョギングでもダイエットでも、同じだろう。レギュラーにはなりたい。結果は出したい。でも、結果が出なかったら無駄だ、とも思いたくない。オリンピックは参加する事に意義が在る、なんてきれい事を言いたい訳ではないんだが、それでも、〈 やってみたけど出来なかった事 〉と〈 最初からやろうとしなかった事 〉では、たとえ結果は同じでも、大切なところで何か大きな差があるに違いない。要するに、人生、結果だけが全てじゃない。そんな青臭い事をついつい考えさせられる、爽快な青春小説が『ホケツ!』であった。

『ホケツ!』を読んで気に入ったら、同じ著者の『リカバリー』も是非是非手に取って欲しいサッカー小説だ。実はこれ、僕が巻末の解説を担当しているのでここで詳述はしないけど、父親、母親、チームメイト、幼馴染み、そういったつながりを力に、艱難を乗り越えていく青年とおっさん、二人のJリーガーの〝 三歩進んで二歩下がる 〟微速前進の物語。《 唐揚げならサッカーだ 》という名セリフには、誰もが頬をほころばせる筈。

 因みに、『ホケツ!』 『リカバリー』の著者・小野寺史宜氏が、WEB本の雑誌の「作家の読書道」で特集されているので、こちらも併せてオススメしたい。


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 サッカー小説をもう一つ。はらだみずき『スパイクを買いに』は、ちょっと走っただけで息が上がる、運動不足のおっさんが主人公。出版社で編集の仕事に携わる岡村は、意に染まない異動によってストレスを溜め込んでいる。その上、中学生の息子とも意思の疎通が上手くいかずにギクシャクし、休日に憂さを晴らせるような趣味も無い。

《 まるで毎晩日曜日の夜で、まるで毎朝月曜日の朝のようだった 》……。

 そんな岡村に変化をもたらしたのが、ひょんなことから関わった草サッカー。

《 あの人たち、みんな、なにかしら忘れ物をしてきた連中。今さら、なにになろうってんでもないだろうけど、グラウンドに集まってくるんだよね 》

という素人サッカー。そこのメンバー表に名を連ね、走り回って汗みどろになって翌日は筋肉痛に悩まされるという週末を繰り返すうちに、当然ながら、少しずつ息が続くようになって走れるようになり、筋肉痛も軽くなる。すると不思議な事に、壁にぶつかっていた仕事でも、好転の兆しが見えてくる。と言うのは実は正確ではなくて、多分彼は悟ったのだ。やること為す事全てが上手くいく試合などあり得ないのと同様に、仕事でも家庭でも、障害だの苦境だのが在るのが当たり前だという事を。上手くいかないのが普通なのだという事を。

《 よく、なにかを始めるのに遅すぎることはない、というけれど、半分本当で、半分は嘘のような気がする。子供の頃、若い頃、あるいは今しかできないこと、というのもあると思う。でもたぶん、自分が始めたいと思ったそのことは、その人にとって、始めるのに遅すぎることはない 》

そんな考え方もあるという事に気付いた岡村には、街の風景がいつもと違って見えたに違いなく、同様に本書を読み終わった読者の目にも、きっと見慣れた景色がちょっと違って見えるんじゃないかと思ったりする。


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 サッカーが人気スポーツの西の横綱だとすれば、東の横綱はやっぱり野球だろう。と言っても、Jリーグ誕生の何十年も前からプロリーグがあるだけに、小説の数も膨大だ。故に、今日ここに挙げるのはほんの一例、大海の中の一滴だと思って読んで頂きたい。

 ここで本来なら須賀しのぶを真っ先に挙げたいところだが、いつぞやの本誌で彼女の野球小説をまとめて紹介したので、今回は他の作家にスポットを当ててみたい。

 で、五十嵐貴久の名前を挙げると、多分、新しいファンは意外に感じるかもしれないが、二〇〇三年に発売された『1985年の奇跡』は、彼の出世作だと言っていい。舞台は文字通り、1985年の都立小金井高校野球部。単行本刊行時の帯の惹句は《 練習よりも夕やけニャンニャン 》。

と言っても若い衆はピンと来んだろうが、1985年当時、フジテレビで平日5時からそういう名前のバラエティ番組があってだな、オーディションから誕生したおニャン子クラブなるアイドルユニットが、今のAKBだとか乃木坂だとかに勝るとは言えども劣らない人気を博しておって、その会員ナンバーを全て覚えて自慢げに吹聴する奴がいたりして、部活一筋で夕方5時の番組なんかまず観られなかった俺は、そういう輩をヒマ人どもめ、と心密かに軽蔑などしていたのだが、要するにそういう時代の、とある弱小野球部に、プロからも注目される超高校級のピッチャーが転校してきて、それまでめちゃくちゃテキトーに練習していた部員たちが、「あれれ? ひょっとして俺たち甲子園行けんじゃね!?」と俄かに色めき立って、実際に転校生が投げるようになってからは連戦連勝、何しろ全く失点しないからまぐれ当たりでもエラーでも、一点取りさえすれば勝てるんだから、野球部にはいつしか全校の期待が集まるようになる。


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 ところが……と、当然ながら青春小説に挫折はつきもの。その〈 挫折 〉を詳述してしまうと所謂〝 ネタバレ 〟になってしまうのが、レビューを書く側としては非常に苦しい。かろうじて言えるとすれば、どん底から這い上がれるかどうかの瀬戸際にいるエース・沢渡に送った、野球部員たちの名セリフ。

《 まあ、その、つまり、何だ。沢渡はダチだと、つまりそういうことなんじゃねえのか 》

 もし自分の回りにも沢渡みたいな奴がいたら、彼らと同じ言葉を言える人間でありたいと、そう思いながら目頭を熱くする読者は、決して僕だけではない筈だ。一九八五年の空気を知らなくっても、〝 友だちって何だ? 〟というどの時代にも共通するテーマに真正面から挑んだ爽快な青春小説である。
 野球は9人でやるスポーツである。という言い方はやや正確性に欠けるかも知れない。ピンチになればピッチャーを替えるし、チャンスになれば代打を送ったりもする。9人というのは、試合をするための必要最低限の人数だから、9人いれば試合は出来る、と言うのが正解だろう。では、その9人が揃わない野球部はどうするのかと言えば、昔は、選手が揃わない=試合をする権利が無いということで、夏の高校野球地区大会にも、出場する事すら叶わなかった。しかし2012年、高野連の規則改定により、部員9人に満たない高校は連合チームとして地区予選に出場出来ることになった。

 その恩恵を受けたのが朝倉宏景『野球部ひとり』の野球部員たち。落ちこぼれ満載のヤンキー高校・都立渋谷商業野球部は全部で8人、東大に毎年何人も合格している都立自由が丘高校野球部は、なんとびっくりたった一人で野球部をどうにか存続させていて、その二つが連合チームを組んで、シブ商の武闘派プレーと自由が丘の頭脳プレーの融合で、マジで狙うぜ甲子園!

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 ってな筋書きは、恐らく言わんでも想像はつくだろう。故に、ここで強調したいのはストーリーの山谷ではない。例えば、だ。自由が丘高校の本多選手。くどいようだが、何しろ部員は自分一人だから、バッティング練習をしたくても、投げてくれる投手もいなけりゃ、守備をする内野も外野も捕手もいない。故に彼は、想像上のピッチャーから放たれる想像上の速球を想像上で打ち返し、一人ベースを駆け抜けて、想像上のバックホームに間一髪間に合ってヘッドスライディングでホームインする。そして、想像上のベンチに帰って、壁に向かってハイタッチする。

 そんなおままごとのような練習を繰り返していた彼に、柄は悪いがとにかく8人の仲間が揃ったのだ。これで、リアルな野球が出来る!

 ただし、天才的なプレーヤーがいる訳ではないので、勝つことは簡単ではない。参加する事に意義が在るとは言え、やる以上はやはり勝利を目指したい。そこで、本多くんが日頃から研究してきたデータを使って、野村監督のID野球さながら、頭脳プレーで勝利を目指す。

 そしていよいよ夏の県予選。

《 正直、試合前には半信半疑だったのだ。本当にこんな走塁を繰り返して、強豪校に勝てるんだろうか? そんな不安は、今やすっかり消え去っていた。へとへとになりながら積み上げてきたものがようやく実を結んだ気がした 》

……と、これ以上は書けないが、何しろとにかく、本作をただの野球小説だと思っていたら大きな間違いで、落ちこぼれたちが自分たちにも少しは取り柄があることに気が付いて、その取り柄を最大限に活かして限界を突破しようとする、起き上がり小法師の物語なのだ。

 本当は、他のマイナースポーツも採り上げるつもりだったんだけど、紙幅が尽きたので次回ということで、今月はここまで。



編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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9月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-09-10 09:10 | バックナンバー | Comments(0)

18年08月

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8月の風に乗って――文藝春秋営業部 川本悟士
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 夏休みということで、いつもよりもちょっとだけ違う人が読むのかもしれません。ということで今回は少しだけ社会科の先生のような語り口でお送りいたします。

 それにしても暑いですね。最初は七月の三連休が暑いときいていたのですが、次第にその翌週、7月いっぱい、8月上旬まで……とどんどん暑さの期限が延びています。まるで宿題をしない学生の言い訳みたいですが、その分だと8月過ぎても暑かったりしそうなので今回は考えないでおきましょう。

 そんな8月ですが、夏といえばみなさんどんなことを思い浮かべるでしょうか。年齢が上がるにつれて、段々と概念としての夏といいますか、イメージとしての夏が好きになりました。実にジジ臭い話ですね。キンキンに冷やしたスイカ、花火、夕立に入道雲。風鈴の音に蝉の声、抜けるような青空。プールにでも飛び込めばもう、夏休みだ! という感じですね。社会人になると夏休みという言葉に異様な興奮を覚えるようになるようです。私もすべからくテンションが上ります。まあ現実に上がるのは気温ばかり……。外に出たところでテンションはだだ下がるので、あくまで好きなのはイメージとしての夏でしかないのですが。

 そんな8月ですが、広島出身の私にとってはなんだかんだ、終戦とは切っても切れない関係です。もしかしたら学校でそういうテーマに取り組むことになった学生さんもいらっしゃるかもしれません。なので、そんな人たちに少しくらい役立てるように、今回は戦争に関した文庫からお話しましょう。

 まず、課題に取り組むのであれば、「名作」に当たるのがいいでしょう。第二次大戦にかかわる名作のひとつといえば、やはり玉音放送までの1日を描いた『日本のいちばん長い日』だと、私は思います。



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 これは複数回映画化されている作品で、映画を見比べるのも一興です。簡単に言ってしまえば1945年、ポツダム宣言受諾を知らせる玉音放送を巡って織りなされる24時間の人間模様を描いたノンフィクションの傑作です。決して、当時の会議にのぞんだ人たちもサイボーグではありません。人間として、部下を背負い、立場を背負い、家族を背負い、自分自身の人生を背負って、そのうえで発言を重ねていました。いち人間として、「登場人物」たちをみることができるようになるかもしれません。

 次におすすめなのが、『昭和16年夏の敗戦』です。太平洋戦争での日本の敗戦は、昭和20年夏です。が、その4年前、アメリカとの戦争の経過を予測せよ、という極秘の命令のもと、日本中のエリートが集められていた、というノンフィクションです。その名も〈 総力戦研究所 〉。どうでしょう、実にドラマチックにすぎると思いませんか。私は最初思いました、いやどこのアニメかと。ところがこれを読むと、〈 総力戦研究所 〉に集まった精鋭たちがどれだけ知恵を絞り合い、その上でも日本の敗戦を導きだしたのか、思わず胸の熱くなる展開が続きます。いやまあ、一番の(色んな意味で)胸が熱くなるのは、どうしてその結果が出た上でも日本は開戦に踏み切ったのかというポイントなんですが。この2冊を読んで、私は教科書に書かれていた人名が、たんなる記号ではなく、生きていた人間なんだと妙に腑に落ちました。ああ、俺だったらこのなかで、どういうことが言えるかなぁ……と。

 と、ここまで読むとなんとなく〝 方向性 〟が決まってきそうですね。では最後に、一番私が好きで、そして一番むずかしいと思っている、もっとも短いものをおすすめしましょう。『格差ゲームの時代』(品切れ重版未定)にある、「広島とHIROSHIMA」です。あまりに短いので、かえってまとめないほうがいいかもしれません。なので多少文章の背景的なところから。



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 著者は、1963年広島生まれの男性です。ただし、広島市内をルーツにもつ方ではありません。当時の広島に、そして広島を巡る言説のなかで生活した、ニューカマーの実感。その視点からの、広島、原爆、そして戦争というものの〝 引力 〟が語られています。この〝 引力 〟をいいかえれば、絶対的な正義のもつ〝 磁力 〟といってもいいでしょう。描かれているのは、そのような力に対する〝 嫌な感じ 〟です。《 一つの正義は正義であることによってその外部を消し去ろうとする。/そういう意味の磁場に身をゆだねることが、子どもの私にはできなかった。拒否した、なんてかっこいいものじゃない。ただ、できなかったのだ。あえて成長という言葉をつかえば、私はいまだその子どもから一歩も成長していない。だから、正義を考えつづける。正義と別の正義を考えつづけている。/それが私にとっての戦争と平和である 》

 私は、いつもこの最後の文章が胸に残ります。

 戦争に関するこうした本を読むたびに、私は自分が、気を遣う割には空気に乗り切れない人間なんだなぁとしみじみ思います。でも、きっとそういう人は世の中の人が思うよりも、ずっとたくさんいるのでしょう。息苦しいなぁ、とか、周りの流れに乗れないなぁ、と思うこともみんなたくさんあって、でもそれは、たぶんに普通のことなんだと思います。だからこそ、自分と同じような「普通の」人たちがどんな現実を乗り越えてきたのか。その現実に、自分ならどうできただろう。一方でそんなことを考えながら、他方で「腹が減ったな」とそうめんをすする。かつて戦争の終わった暑い夏の日だからこそ、そんな甘い物としょっぱい物を交互につまむような毎日を、いつもより少しだけ大事にしたいと思います。



残 る 言 葉 、 沁 み る セ リ フ
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《 国を愛する心は、上から植えつけられるものでは断じてない。まして、他国や他の民族への憎悪を糧に培われるものであってはならない。
 人が持つあらゆる感情と同じように、思いやることから始まるのだ。そして信頼と尊敬で、培われていくものなのだ。 》


 西でも東でも北でも南でも、国際情勢が何だかギスギスしてきた昨今、何の力も持たない一般庶民の僕ら一人一人が上記の如き思いをシェア出来たら、悲しいニュースは激減するんじゃなかろうか。終戦記念の8月に、是非読んで欲しい作品の一つです。



お仕事小説で前を向く その2――丸善津田沼店・沢田史郎
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 先月の余勢を駆って、引き続き〈 お仕事小説 〉の巻。

 藤原伊織と言えばハードボイルドのイメージが圧倒的なんだろうけど、実は一般の勤め人、所謂サラリーマンを主役に据えた傑作も幾つか遺してくれている。中でも『シリウスの道』は藤原伊織らしさが満載で、乱歩・直木ダブル受賞の『テロリストのパラソル』よりも、こちらの方こそが代表作だと僕は思う。

 背景は、生き馬の目を抜くが如き広告業界。18億円という巨額の新規競合案件を軸に描かれるのは、プレゼンに向けた新チームの発足とその練成、丁々発止の派閥争い、仕事への誇りと情熱。更には25年前、まだ中学生だった主人公たちの友情と淡い初恋が挿入され、戻れない過去への郷愁と未練を行間に滲ませながら、しかもハードボイルドの香気はしっかりと全体に行き渡らせるという、読みどころ満載、まさに神業のような小説だ。とりわけ強調したいのは、新人営業マンの成長物語としての一側面。決して物語の本流ではないものの、なまじの小説やマンガ、映画などには及びもつかぬ爽快なエピソードの連続に、ザワザワと胸が波立つような興奮を誰もが覚えるに違いない。

 主人公の辰村は38歳で、東邦広告の営業副部長。弱電メーカー大手の大東電機が新規事業に進出するに当たり、その広告展開を18億円の規模で競合にかけるという。指名を受けて競合に参加することになった東邦広告は、辰村と上司の立花を中心に新チームを立ち上げ、プレゼンまでの怒涛の1ヶ月がスタートする、という幕開け。

 そこで登場するのが、広告業界1年目、25歳の戸塚青年。《 超大型のコネ 》で途中入社してきただけに社内のあちこちで《 バカ息子 》と噂されているものの、辰村だけは早くから伸びしろを見抜いて、彼なりのやり方で広告営業のなんたるかを叩き込む。その千本ノックのようなしごきに対して、戸塚の方も、時には涙を流しながらもガムシャラに齧りつく。


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 例えば、あるトラブルを収束させるために、戸塚が誇りも沽券もかなぐり捨てた行動に出たと、辰村が知ったその直後の描写を引用してみる。

《 辰村は「戸塚」と声をあげた。「泣くな」/「はい」/「背筋をのばせ。胸を張れ」/「はい」/ゆっくりと顔をあげ、やがて戸塚がまっすぐにこちらを見た。/「そうだ。仕事をやるときゃその姿勢でいつも胸を張ってろ。こっちが向こうの会社より図体がでかいからいうんじゃない。そいつがまっとうな仕事のやり方だからだ」/戸塚はうなずいた。そして口を開こうとし、ふたたび閉ざした 》

 どうだいこの、厳しさでカムフラージュされた愛情は! 以降、全力で辰村の期待に応えようと精進を続ける戸塚青年のガッツに、誰もが目を離せなくなること請け合いである。その感動と興奮は、喩えるなら『SLAM DUNK』の全国大会1回戦。庶民シュートしか出来なかった花道が、特訓の末に会得したジャンプシュートを成功させた、あの瞬間の洋平たちの心持ち。そう、《 巣立つヒナ鳥を見る母鳥の心境 》ってやつである。

 とは言え、この物語の本筋は多分そこではないんだろうな、ということにも気付いてはいる。

 例えば、欲得と自己保身しか頭に無いような重役連中に足を引っ張られながらも、ジリジリとゲインを重ねるチーム辰村の奮闘だったり、少年期の辰村が、大阪の貧しい下町で培った友情だったり、その頃のとある事件が、太陽の前を横切って一瞬陽射しを遮る雲のように、大人になった辰村たちの人生に時折落とす陰だったりといった具合に、この物語にはとにかく読みどころが満載で、挙句の果てには『テロリストのパラソル』にまで細~く繋がっていたりもして、ファンには勿論、藤原伊織初体験の読者にとっても、巻を措く能わざる傑作であることは間違いない。



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 それでも僕は、何度読んでもどうしても戸塚に感情移入してしまう。ある重要な会議で司会を任された戸塚が、誰からも見えないテーブルの下で、ハンカチを握りしめて緊張に耐えている場面など、思わず「ガンバレ!」と声をかけずにはいられない。ハードボイルドと括られると腰が引ける読者もいるかと思うが、そんな単純な色分けが如何に無意味か、読めばきっと分かる筈。

 2007年にまだ59歳の若さで食道癌に斃れた藤原伊織が、もし今も健在であればきっと世に送り出したであろう未知の傑作を思うと、残念なこと極まりない。

 営業マンの話をもう少し。

 例えばあなたが、接着剤メーカーの営業職だったとして、「〝 接着力がゼロ 〟の新商品を売って来い」と言われたら、如何にする? そんな無茶な、と思うよね(笑)。その無茶な社命を受けたビジネスパーソンたちの四苦八苦。

 今野敏と言えば取りも直さず警察小説の第一人者であるけれど、ヤクザが荒廃した私立高校の立て直しを図る『任侠学園』のように――先日、最新刊『任侠浴場』が刊行、堂々のシリーズ4作目――ユーモア満載の作品も実は得意にしている作家で、トゲの無いジョークの隙間に時折しのばせる人間愛と言うか人生肯定のメッセージは、一度味わってしまうと癖になってやめられない。

 そんな今野敏コミカルバージョンで、僕が最も推したいのが『膠着』

 舞台は老舗の糊メーカー〈 スナマチ 〉。そのやり手営業マン本庄史郎と、その部下で入社数カ月の丸橋啓太の許に、〝 極秘会議 〟への出席要請が届く。何事かと首をひねりながら御殿場工場に赴くと、開発部の担当者は開口一番、新製品の開発に失敗したと宣言する。

《 「結論から申し上げます。出来上がった接着剤は、ええ、そのう、接着能力がありませんでした」/啓太は再びのけぞりそうになった。接着力のない接着剤……。じゃあ、それはいったい何なのだろう 》。



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 そもそもは、耐熱性に優れて、人体に付着しても安全で、なおかつ電導性も確保した画期的商品を目指していたらしいが、

《 接着剤の宿命みたいなものなのですが、付加価値として何かの機能を持たせようとすればするほど、接着力が弱まる傾向があります。今回もある程度それを予想していたのですが、まさか、接着力がまったくなくなってしまうとは予想もしていませんでした 》

って、そりあ予想してたらそんなもん作らねーだろうよなぁ(笑)。

 問題は、だ。まず一つ目に、巨額の開発費を投じてきただけに、失敗しました、じゃあやり直そうという訳にはいかないこと。二つ目。開発失敗が世間に洩れたら、間違いなく株価が急落するであろうこと。そして三つ目。とあるアメリカ資本の接着剤メーカーが、スナマチに対して敵対的TOBを狙っているという確度の高い噂があり、それが事実だとするならば、株価の急落はスナマチにとって命取りになる、即ち、乗っ取られる。

 故に――。本庄や啓太たち営業部隊に、過酷な、かつて誰も経験したことが無いような大命が下る。この、接着力が無い接着剤を、どうにかして売れ、と(笑)。

 といった様相で幕を開ける今野版お仕事小説は、前述の会議からして、その可笑しさときたらキリも無く引用してしまいたくなるレベル。シアノアクリレートが云々、メチル基とエチル基が云々と化学的な説明を重ねる開発担当に、しびれを切らした一人が《 そういうことじゃなくって、例えば何に使えるのかというような話を聞きたいわけで…… 》と問えば、問われた方は《 現時点では、何も用途がありません。何せ、接着力のない接着剤ですから 》とケロリと答えたりする。

 まるで漫才か落語にでもなりそうなこんなやり取りが続くのだけど、話しあってる連中は開発部を初め、宣伝部も販売部も、勿論啓太たち営業部も、誰もが真剣そのものだから、岡目八目のこちらとしてはそれが余計に可笑しかったりして、四六時中クスクス笑いが止まらない。思うに『膠着』というタイトルは、糊がくっつくという意味の他に、毎日のように会議を続けても埒が明かない〝 膠着状態 〟を重ねた絶妙なタイトルではあるまいか。



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 その膠着状態を啓太たちがどう突き破るのか。それは勿論、読んでのお楽しみだけれど、《 野毛さんの説明を聞いていて、何かひっかかるなって思ったんですが…… 》という啓太に対して、本庄が《 一つだけ教えてやる 》と先輩としてのアドバイス。曰く《 そういうのが大化けすることがある。ひっかかりやひらめきをばかにするな 》とは、業種に関わらず全てのビジネスパーソンへの助言にもなりそうで、つまりこの作品はただ面白おかしいだけの小説ではなく、しっかりと啓太の成長譚にもなっている。

 警察小説しか読んだことない今野敏ファンは、騙されたと思って読んでみて欲しい。読後は「俺もちょっと頑張ろうかな」なんて気持ちにきっとなる。

 営業の話をもう一つ。安壇美緒(あだん みお)『天龍院亜希子の日記』は、堂場瞬一や朝井リョウを輩出した、小説すばる新人賞

 主人公の田町讓は27歳。人材派遣会社の営業で、つまり〝 登録して派遣される方 〟ではなく、派遣先を探して派遣社員を送り込む側で、職場はブラック。欲深い経営者が自分だけ得をしようとして起るブラックと言うよりも、金も人も余裕が無いが故に労働環境が過酷にならざるを得ない、といった感じのブラックさ。派遣社員がバックレて派遣先に謝罪に行ったり、代役を探したり、見つからない時は自分が代わりに現場作業に出向いたり、しょっちゅうしょっちゅう終電で、当然土日は寝てばかり。そんな場所で讓も同僚たちも、日々疲弊している。だから職場の雰囲気も年がら年中ピリピリしている。更には讓の場合、遠距離恋愛の恋人とも、最近何となくギクシャクしている。



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 という第一幕目は、どうにもこうにもどんよりした雰囲気なんだが、これが不思議と暗くない。勿論、元気いっぱいハッピーラッキーと言うには程遠いけど、かと言って読む程に気持ちが沈み込むような陰鬱さは無い。それは多分、何だかんだ言っても讓が、仕事にやり甲斐を見出そうとしているからで、その〝 まだ参ってない 〟姿に、僕は救われるのだ。

《 革靴は走るとすぐに傷むというけれど、仕事中にとっさに走りだすこの感じは嫌いじゃない。なんらかのアクシデントで突発的に、何かを急くのはわりと好きだ。俺は仕事が嫌いじゃない 》

 そうは言っても、いいことばかりでは決してない。仕事なんだから当たり前だ。嫌な事も日々てんこ盛りだ。割りの合わないキツい職場に派遣社員を押し込む時など、罪悪感が胸の中で頭をもたげたりもする。それでも讓は、世の中で役に立つ駒でありたいと願う。そのちっぽけな悪あがきが清々しい。

《 この仕事が良いものなのかどうなのか、そういうことはわからない。俺がちゃんと働けてるのかも実のところわからない。だけど、ひとまず自分の目の前にある仕事でもって、ちょっとでも人の役に立てたらいいなと、俺だって人並みに思っている。誰かに喜んでもらえたらいいなと考える日が、俺にだってたまにはあるんだ 》

 この、大袈裟過ぎない前向きさに救われる。悟ったかのような言葉で言い訳を粉飾してカッコつけながら何もしようとしない大人より、一緒にいて気持ちがいいのは、多分、青臭くても愚直でも、讓のように希望を捨てずに行動を起こす人の方だろう。

 作中、讓が思わずこぼした本音によって、会話の相手も讓自身も、自分たちなりの幸福を実感するシーンがある。

《 なんだよ、俺は意外にこんな簡単に幸せになれるんだ 》

 傲慢に言い切ってしまうと、多分このセリフこそが本書のテーマだ。映画やドラマの如く、9回ツーアウトからのサヨナラホームランなんて、現実にはそうそう巡り会えるもんじゃない。もんじゃないけど、だからと言って人生投げ出す訳にもいかないじゃんか。ならば大逆転など狙わずに、ヒットを重ねてジワジワと這い上がる。日々の暮らしの中で、或いは毎日の仕事の中で、ふと手にした小さな安息を、取るに足りないと馬鹿にしないで大事にする。そんな風に幸せを拾っていけたら、きっと、なかなか悪くない人生を送れるんじゃないか。『天龍院亜希子の日記』は、そんな穏やかな気持ちにさせてくれる作品だった。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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 多幸感溢れる作品! 映画好きなら是非観てほしい! あの頃の好きな気持ちを思い起こさせてくれる作品です。

 ビックリしたのが、主人公の生い立ちが超ヘビー。25歳ジェームスは、外気から遮断された地下シェルターで両親と3人で暮らしている。ここで先ず「んっ!?」と引っかかる。そして、子どもの頃から毎週届く『ブリグズビー・ベア』という謎の教育ビデオだけを観て育つ。えっ! 25年間も? 外に出ず、教育ビデオだけ!? そして、ある日警察が来てジェームスを連れ去りこう言う……「あなたが一緒に住んでいた両親は、25年前にあなたを誘拐した犯人です」……!? なんちゅう展開! 人生25年目にして初の外の世界。見覚えのない本当の家族。えっ! ジェームスどうなっちゃうの!? ……ネタバレみたいになってしまったが、ここまでザッと冒頭15分程だろうか……だが、勿論ここからが面白い。

『八日目の蝉』を始め、昨今……〝 産みの親より育ての親 〟という作品が多く見られる。前回、ここで紹介した『万引き家族』もこのモチーフでした。これをストーリーに落とし込むとなると、やはり重い雰囲気になってしまう。しかし、この作品は少し違う。ジェームスは『ブリグズビー・ベア』という謎の教育ビデオだけを観て育った超ピュアボーイ。ここからこの主人公が周りを巻き込んで、遥か斜め上を行く展開で物語は進んで行きます。

 私はこの作品、ファミリー喜劇のジャンルだと思いました。ブラックな部分もありますが、とても優しい世界観で笑える作品に仕上がってるな~と。あと、マーク・ハミルをスター・ウォーズ以外の作品で観られたのがとても新鮮で良かったです!



今月の紹介本
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『格差ゲームの時代』佐藤俊樹(品切れ重版未定)

『膠着』今野敏

『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹

『シリウスの道』藤原伊織

『天龍院亜希子の日記』安壇美緒

『日本のいちばん長い日』半藤一利

『また、桜の国で』須賀しのぶ



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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8月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-08-03 10:17 | バックナンバー | Comments(0)

18年07月

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 私は今、ラジオの収録番組っぽくいうと「時空の狭間」にいる。具体的にいえば、今回のW杯について「事前の厳しい予想のなか、コロンビア戦に勝利した日本は……」以上のことをいえないタイミングで、原稿を書いている。テレビからは連日グループステージの様子が流れていて、スポーツバーに行って「行ったこともない国」同士の試合に一喜一憂。毎日毎夜、中継をつけながら寝る……そんな幸せな毎日を送っている。ただ、掲載されるころには先にあげた文章の続きのかなりの部分が書けるようになっているんだろう。なんなら、次の監督がどうの、というような話も出ているのかもしれない。そうなると完全に手におえない。

 というわけで、「ロシアW杯をとりあげないわけにはいかないが」、「あまり長く書けるほどでもない」という状況なので、今回はあまり長く書いてこれ以上ボロを出したくない(笑)。自分の予想を書いてアレなことになってもアレであることだし、今回は少し、もうひとつの時空の狭間について触れて、大会後出るだろう本のことについて思いを馳せたいと思う。ここでいうもうひとつの時空の狭間とは、4年毎に盛り上がるW杯同士の関係についてである。

 比較的ミーハーな人間なので、W杯が行われるたび、私はわーっと盛り上がって、毎日サッカーを見るようになる。見栄を張って言えば、たぶんそれは私だけじゃないはずだ。ただ、私自身がサッカーファンの友だちを見るたびに少し後ろめたくなるのは、「以前どんな事があったのか」という積み重ねにあまりのっかれないまま、それこそ自戒を込めて皮肉をきかせれば、わーっと盛り上がって、わーっと忘れていく、そんな自分がいる気がすることだ(それこそ、「ハリルホジッチ監督の前」の監督がすっと出てこないことだってありうるレベルで)。それがないことで、少しもったいないことをしているのではないだろうか、そう思うことも多い。だからこそ、そのとき何があったのか、どんな人がいたのか……。当事者でない人が書いた二次のものではなく、まさにその当事者だった人達が書いた一次資料を読んでみたい。そう思って手にとったのが、『通訳日記――ザックジャパン1397日の記録』である。



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 この本は、4年間ザックジャパンの通訳をつとめていた矢野大輔氏の日記である。19冊のノートに綴られた、チームの記録。この本を手にとったきっかけは、そろそろW杯だし、前から気になっていたし、いい機会だから読んでみるか……というような、ごくごく軽い気持ちだった。それだけに、読み終わって、湧き上がってくる色んな感情が心に溢れて、まだうまく言葉にできない自分がいる。

 あとがきにあるように、私も、別に日本代表を総括するべきだとか、勝因や敗因を洗い出そうというわけではない。ただ、どんな人がそこにいたのかを読んでほしい。前のW杯のことを、今こそ思い出してほしい。この人たちの挑戦の向こうに、ロシアがあったことを知ってほしい。たぶん、今から本屋さんでみることになる関連の記事や書籍について、これを読んでいるか読んでいないかは大きく感想に関わってくると思う。

 サッカーは、スポーツは、ゲームのコマを動かすことではないし、テレビの向こうで行われているだけの現実味のない出来事ではない。あくまで、人間同士がやっていることだ。それを実感するほどに、褒めたり、怒ったり、気持ちが揺らいだり、落ち着いたり……そのワンシーンのひとつひとつが、他愛のないやりとりのなかのふとした瞬間の一言が、とても印象に残る。

 もちろん、スポーツは外部のストーリーがなくてもそこで割と問題なく成立する――それこそ「行ったこともない国」同士の試合も、この人はどんな性格の人で、あの人がどういう思いで試合に出ていて……ということを知らなくても、私は普通に楽しく観てしまう――のだが、それと同じくらい、「あいつはすごい」とか、「あいつはだめだ」というものとは別に、そこでどんな人たちがどういうやり取りをしているのかを見ることも、きっと面白いはずだ。それが、わーっと過ぎてしまいがちな大会と大会の時空の狭間をつなぎ、日本代表をみる視線も変わるのではないだろうか。少なくとも、僕はこの本を書棚の目につくいいところに置こうと思った。



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 俗に言うお仕事小説が好きだ。仕事の中身そのものよりも、主人公が仕事に携わる姿を通して、その生き方や人柄を感じ取れるような小説が好きだ。そして、有能な人が次々と難問をクリアしていくようなサクセスストーリーよりも、ありきたりな才能しか持ち合わせない凡人たちが、不器用に七転び八起きしながら三歩進んで二歩下がる物語の方が、より好みだ。仕事に熱中したり、翻弄されたり、つまづいたり、迷ったりといった、人間味あふれる姿をこそ読みたい。

 例えば、安藤祐介の幾つかの作品。デビュー作『被取締役新入社員』はその名の通り、皆から取り締まられる=ストレスの捌け口という役目を背負わされた新入社員の七難八苦。お菓子メーカーの販促キャンペーンで、生身のまま〈 ゆるキャラ 〉にされてしまった宣伝部員を描いたのは『おい!山田』。先日も当欄で採り上げた『ちょいワル社史編纂室』では、ソリの合わない上司の策略で左遷された勤続二十二年のモーレツサラリーマンが、得意の手品を使って人生の大逆転を試みる。

 そして今回紹介したいのは、スマホゲームの開発を手掛けるベンチャー企業を舞台に、社員たちの気概や困惑、焦りやプライドを、ファンにはお馴染みの安藤節で熱く高らかに謳い上げる、その名も『テノヒラ幕府株式会社』

 妙なタイトルはそのまま、舞台となるベンチャー企業の会社名。社員が数人しかいないこの会社で何が起こるのかと言うと、実は大した事件は起こらない。このテのお仕事小説では、奇を衒った舞台設定や、裏の裏をかくどんでん返しなんてものは無くていい。何となれば、僕らが日常的に暮らす世界を描くのに、突飛な設定を持ちこんではリアリティが台無しである。僕に似てる奴や、僕の身の周りの誰かにそっくりな奴らが、僕らが住んでる世界のすぐ隣で、僕らと同じように日々、仕事で四苦八苦している。その親近感があらばこそ、僕らはこういった小説に感情移入できるのだ。

 勿論この『テノヒラ幕府』でも、僕らによく似た人物たちが、僕らと似たような悩みを抱えて働いている。



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 いつまで経っても自信が持てない、イラストレーター志望のモラトリアム青年とか、逆に自負と自信があり過ぎて、世の中ナナメにしか見られない腕利きプログラマーとか、名前を言えば誰でも知ってる一流企業の重役から一転、弱小ベンチャーに転職してきた老人とか、そんな彼らを切り回す若き女社長とかが、日々出くわす小さなエピソード。それを積み重ねることで、仕事って何だ? やり甲斐って何だ? 成功って何だ? 幸せって何だ? といった普遍的な悩みや葛藤を、ジワリジワリと炙り出す。

《 今の拓真が技術を上げるには、とにかく手を動かして描くしかない。量より質とは言うものの、量を生み出さなければ質は生まれないこともまた確かなのだ 》

《 過去ってフィクションみたいなものだと思いますよ。すごく美しく思えたり、すごく苦労したように思えたり。多かれ少なかれ脚色されるものじゃないですかね。きっと純度百パーセントのノンフィクションはただひとつ。今この瞬間だけだと思います 》

《 過去はリセットしてきたつもりだった。だがゲームとは違い、リセットしたように見える過去も連綿と今に続いている。生れてから死ぬまで、人間にはリセットはないのだ。積み上げた経験値は必ず残り、その全てが〝 自分 〟を形造る 》

〝 人間は、努力する限り、迷うものだ 〟と言ったゲーテの如く、仕事でつまづいたり後悔したりした経験がある人なら、きっと胸に刺さるであろう名言の数々も、安藤祐介の大きな魅力。読み終わる頃には、仕事に対するネガティブな感情が、昨日までより少しだけ減っているという人は多かろう。疲れによく効くアリナミンみたいな小説だ。



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 有川浩の『県庁おもてなし課』も効果抜群のアリナミン小説だ。高知県庁に実在する〈 観光部おもてなし課 〉。そこは文字通り、県外からの観光客をどう〝 もてなす 〟かを立案し、県政に活かしていくための部署だ。交通の便が悪く、大きなテーマパークや博物館も無い。有名な桂浜だって、竜馬の像が無ければただの砂浜だし、最後の清流・四万十川も、高知市内から一泊の距離で、気ままに遊びに行けるロケーションとは言い難い。そんな無い無い尽くしの高知県に、どうしたら観光客を呼べるのか。どうしたら、「また行きたい」と思って貰えるのか。それを、主人公たち〈 おもてなし課 〉の面々が額を寄せ合い、喧喧囂囂……という幕開け。

 ところが、だ。これが如何にもお役所然とした発想ばかりで、遂には、観光特使の一人から、全否定に近い駄目出しを喰らう。そこからが、この小説の醍醐味だ。

 ツテを手繰って民間からアドバイザーを招き入れ、県庁の末端にまで沁みついている前例主義、事勿れ主義、伝統指向にご都合主義、そしてナチュラルな上から目線を、小さな知恵を出し合って一つ一つ潰していく。だから読者は、作中のあれやこれやのエピソードに知らず知らず自分を重ねて、「甘えてんじゃねぇ」と頬桁張られたような気がしたり、「グダグダ言ってねぇでやってみろ」と背中を叩かれたような気になったり、喩えて言うなら、頼りになる上司や先輩から叱咤激励されているかの如き錯覚を覚えながら読み進むに違いない。

《 箱のクオリティを上げたところで、そこに箱があることをユーザーに向けて的確に発信できていなかったら意味がないのだ 》

《 自分の家にお客さんを呼んで出迎えるとき、掃除したり料理を用意したり、楽しんでもらおうと思っていろいろ準備しますよね。それと同じ気持ちが必要やと思うんです 》

《 俺ら、県の営業部にならんといかんがですね。職分とか職域考えて縄張り分けしゆう場合じゃなくて、思いついたことを何でもやれる部署にならんといかんがや 》

《 いいビジョンだったと思うよ。でもそういうのって口に出さなきゃ意味ないんだよな。大事にしまい込んでてもそのまま賞味期限切れになることってままあるから。言霊ってあるだろ、口に出して誰かに聞かせりゃ何か動き出すことがある 》



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 物語はあくまでもフィクションなれど、高知県庁観光部おもてなし課に綿密に取材したようで、『プロジェクトX』か『ガイアの夜明け』でも見たかのような読後感。「俺も、現状維持だけじゃなくて動き出さなきゃ」なんて気持ちにきっとなる。最近なんだか仕事が面白くないなぁ、と感じてるビジネスパーソンに胸を張って薦めたい。

 実在の組織をモデルにしたお仕事小説なら、『ビア・ボーイ』も面白い。著者の吉村善彦は、サントリーの宣伝部出身というから、開高健や山口瞳の後輩だ。
 主人公の上杉朗は酒造メーカー〈 スターライト 〉に勤める27歳。入社以来5年間、一貫して花形部署の宣伝部。年間の広告賞を幾つも取って、エリート街道まっしぐら。……の筈だったのだが、ちょっと調子に乗り過ぎた。酒癖と女癖の悪さが祟って、売り上げ最低の広島支店に飛ばされる。当初は、漱石の『坊っちゃん』さながら見るもの聞くものに片っ端から悪態をつきまくり、広島支店のスタッフなんか全員無能と決めつけて白眼視する。

 そんなナチュラルに俺様な上杉は、しかし、彼が見下し小馬鹿にしていた人びとによって、自分の器の小ささに気付かされる。失敗を重ねる度に自分の不完全さを思い知り、その失敗を〝 成長のためのステップ 〟として許容してくれる周囲の懐の深さに、〈 大人 〉とは何かを自問する。

《 人生たかだか八〇年。巡り合う人の数もしれとる。そういう出会いを大切にしたい。売ることばっかし、あくせく考えとると、結局、人生、何も残らん 》

《 以前のおれなら敏捷に動けたのに、今はゆっくりとしか動けない。しかし、焦って動いても、のんびり動いても、結果にたいした変わりはない。一〇〇か一〇一くらいの違い 》

《 ええか。変な大人にはなるな。営業の典型みたいな、曖昧に笑う人間にはなるな。君はいびつなまま大きくなれ。心配せんでも、大きなるうちに、人間まるなる。小さい頃から円い奴は、大きなっても、おもろい人間にはならへん 》



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などなど、前出の二作と同様こちらでも、示唆に富む諫言やアドバイスが頻出する。《 苦労したのはわかる。面白おかしくしゃべってくれるにはいいが、苦労が数字になってもいないのに、手柄のように思っている古株があまりに多い 》なんて上杉が一人ごちる場面など、自分のことを言われているようでハッとした。

 物語の背景は恐らく1980年代初頭。都心はともかく、地方ではまだまだ瓶ビールが主役だった時代。業界第3位のスターライトがシェア奪還の為に繰り出す缶ビール増売キャンペーンは、まるでスポーツの試合でも見ているかのようなスピード感。自分の希望の部署に就けずに腐りかけている若者に、是非是非読んで頂きたい。

 山本甲士と言えば、ふとした偶然が重なって意図しない事態にずるずると引きずり込まれる、〈 巻き込まれ型小説 〉の第一人者だが、その印象が強すぎて、お仕事小説の傑作を幾つも書いている点が見逃されがちなのが勿体ない。

 リストラされた中年オヤジが、川や野原で獲れる〝 自然食材 〟に目をつけて、弁当屋として再起を目指す『ひなた弁当』。突如現れた謎の海洋生物をネタに、町おこしに奔走する町役場を描いた『ひがた町の奇跡』。市役所の市民相談室に勤める主人公が、次々と襲い来るトラブルと、所内の責任転嫁体質に振り回される『とげ』。どれもこれも、〈 巻き込まれ型小説 〉というベースに〈 お仕事小説 〉を加えてシェイクしたような、実にこの作者らしいストーリー。そんな山本版お仕事小説の中から今回は、『迷わず働け』を紹介したい。



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 主人公の三川哲司は、金が無い、仕事が無い、根気も無いという3無い青年で、ヤクザがらみの70万円の借金のみが、唯一〝 ある 〟。その借金の返済がいよいよのっぴきならなくなった時に出会ったのが、自分とそっくりな顔かたちをした同級生の伊部大生。聞けば、気の進まない就職を親に無理強いされて、途方に暮れているところだと言う。これは渡りに舟と、哲司は大生の身代わりを申し出る。

 こうして始まった哲司のなんちゃって営業マン生活だが、勿論、地道に歩き回って新規開拓を考えるような哲司ではない。どうにかして楽にデカい契約を取ろうと悪知恵を働かせる……という序盤。ところがその哲司の策略が哲司の思惑とは違った方向に作用して、淀んでいた社内の空気が徐々に活気づいていく、という辺りからが、これぞ山本甲士の十八番。

 床屋で勝手に髪形を変えられて、それが周りの見る目を変えて、見る目が変わると本人の意識も自然と変わって、結果、予想もしなかったブレイクスルーを成し遂げる『かみがかり』や、道端で拾ったありきたりの落し物が生活を微妙に変化させ、その小さな変化をきっかけにして主人公たちが昨日までとは違う人生に一歩を踏み出す『ひろいもの』など、山本甲士という作家は、ちょっとした思い違いや偶然が引き金となって、本人すら気付いていなかった潜在能力が発露する、といったストーリーを実に巧みに織り上げる。

 そんな〝 甲士音頭 〟とでも呼びたくなる踊らせ方で、登場人物たちを存分に踊らせたのが『迷わず働け』という作品で、そこには他の山本作品と同様に、〝 人は変われる 〟というメッセージが滾々と湧き出ていると感じるのは、僕だけではないだろう。まぁ、実際にこんなに上手くいく訳は無いんだろうけど(笑)、例えばジャック・レモンかエディ・マーフィの映画でも観たような読後感。今まで気付けなかっただけで、自分自身の退屈な生活にも、変化のきっかけは転がっているのかも知れない。明日からの日常に、そんな期待をしてみたいなら、山本甲士はうってつけだ。

 最後に一言。山本幸久『凸凹デイズ』も、弱小広告代理店を舞台にしためっぽう熱いお仕事小説なんだが、どうやら版元品切れ重版未定。山本幸久の代表作と言ってもいいぐらいの完成度で、元気は出るわ涙も出るわの傑作だから、どこの版元でもいいから復刊してくれ。



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『万引き家族』

 映画好きとしては避けては通れない……カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を獲った作品! 今まで、様々な家族の形を描き続けてきた是枝さんだからこそ成し得た偉業だと思います。

 この作品を観ない! と言う人は「万引き!? 犯罪で繋がっている家族にどう感情移入しろってんだよ!」と思う人がいることでしょう。少なからず私もちょっとその思いはありました(汗)。実際、万引きをする場面から始まるので……。しかし、観終わった人の大多数は違う感情を持って劇場を後にする事と思います。なぜなら、そこには綺麗事じゃない人間のそれぞれの弱さが、コレでもか! と描かれているからです。

 是枝さんの家族を描いた作品は、リアルで綺麗事じゃない所がいつも好きだな~と思う。この作品で6人が住んでいる家もそうだが……〝 貧しいから物が無い 〟のでなく〝 貧しいからこそ物を捨てられない 〟そして拾ってきてしまう。という所。その為、家は足の踏み場も無いくらいに物で溢れている。こうゆうディテールがリアルに感じ、凄いな~と感心してしまう。

 この作品、自分は子どもの成長が1番印象に残りました。そして、ラストカットに込められた是枝さんの怒りを出来るだけ多くの人に感じてほしいです。

 今年も半年が過ぎました。早いですね(汗)。なので、上半期の個人的BEST10を載せときます。参考程度にどうぞ(笑)。

①スリー・ビルボード ②孤狼の血 ③タクシー運転手 約束は海を越えて ④アイ・トーニャ 史上最大のスキャンダル ⑤万引き家族 ⑥恋は雨上がりのように ⑦操作された都市 ⑧ちはやふる――結び―― ⑨あなたの旅立ち、綴ります ⑩ファントム・スレッド






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《 きっと人生には、他人にはどんなに愚かで滑稽に映ろうとも「そうするしかなかった」瞬間が、いくつもあるに違いない。そんな瞬間しゅんかんの積み重なりが、「生」をかたちづくっているのかも、しれない。 》


 他人から見た場合だけでなく、自分自身でさえも「なんであんな馬鹿なことをしてしまったんだろう」と悔やまずにはいられない事ってのはしばしばある訳だけれど、その時の自分が真剣に悩んだ末に「そうするしかなかった」んだとしたら、一生懸命やったんだから仕方がないよと、過去の自分を許してあげてもいいんじゃなかろうか。



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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7月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-07-11 09:03 | バックナンバー | Comments(0)

18年06月

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日本の、世界の、ロシアの夏――文藝春秋営業部 川本悟士

 初めて野球場に行ったのは、2000年のことだ。階段を上がり、客席に入る瞬間、光景が目に飛び込んできた。比喩でもなく、熱気の壁にぶつかったような気がした。当時はまだ広島市民球場。狭いといわれた球場だったが、コロシアムのようにグラウンドに注がれる視線、メガホンのかちあう轟音、特有の凪が生み出す熱気……。あの熱狂の渦は、私にとってこの職業につくほどに忘れられないものになった。

 週刊ベースボール5/28号『球場物語』特集で、あの日のことを思い出した。スポーツは生で見ると違うんだと思うようになったのは、あの経験が影響していると思う。ただ、たぶん、スポーツを「生で」見るという言葉には、「その時代のなかで見る」、「リアルタイムで見る」という側面もある。

 この文章が出る頃は、いよいよサッカーW杯が……という空気感のなかだろう。『Number PLUS「ロシアW杯蹴球読本」』にもあるように、悲願の初出場から二十年。「出て当たり前」、「トップリーグでプレーするタレントがいる」とみなされるようになった日本が迎える次のW杯は、平成最後のW杯になる。いい機会なので、会社の資料室にこもって昔の記事を漁ってみた。

 先日の読売新聞5月21日の特集で、サッカー界にとって平成の30年は大きな飛躍の時代だったとあった。記事の言葉を借りれば、日本人が本当の意味でW杯のすごさを知ったのはドーハの悲劇である。それまで大半の日本人にとって遠い存在だったW杯……。平成最初のイタリア大会ではアジアの一次予選で北朝鮮を上回れなかった。敗退を報じた当時の新聞には、写真さえなかったという。



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 それが、ドーハのときにはどうだ。1993年4月5日発売の『Number 313号』では(ちなみに表紙は背番号10を背負ったラモス「選手」である)、「世界へ!」と大きく見出しが出ている。少し長いが、その33頁から引用しよう。

《 日本サッカーは、異常なまでの勢いで拡大した。かつての寒い状況を考えれば、それは素晴らしいことには違いない。Jリーグ開幕戦のチケットは瞬く間に完売。サッカー専門誌は月刊から月二回となり、新たな雑誌も続々と参入して、女性誌の表紙まで飾った選手もいる。…(中略)…でも、それは一時的な流行に過ぎない。大事なのはそんなことじゃない。日本代表チームの22人は今、人生で最も大切な戦いに臨もうとしている。…(中略)…ハンス・オフトが率いているのは、この国がこれまでに持つことのできた最強のチームであることに疑いの余地はない。だから私たちは、ただ力いっぱいの声援を送ろう。彼らはきっと連れていってくれる。世界へ! 》

 熱い、実に熱い……! 四年前はわずかな扱いだったことが考えられないほど、社会全体が熱狂していくその只中の言説である。ご存知の通り、このあと日本は目前でW杯を逃す。1993年11月5日発売の『Number 327号』はその衝撃をもって、「夢の終わり、真実の始まり。」という巻頭から始まる(本当に強烈なタイトルだと思う)。そして、この時間を経たからこそ、1997年11月20日発売の『Number 432号』の表紙に踊る文字がより光って見える。「We did it!」――次のような言葉が、興奮を物語る。



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《 思えば、4年前の10月28日、日本で日付が変わろうとする時、天国への扉が開く合図のホイッスルまであと49秒と迫ったところで、悲劇は起った。無情にも、49秒後に訪れるはずの天国は、4年間の試練に成り変わってしまった。そして日本代表は、再び遠い先にあるゴールのテープを切るために走り出した。…(中略)…世間からのプレッシャーの中、彼らは限界を超えたところで我々の夢でもあるW杯出場を叶えるために戦った。戦いは厳しくとも、この2ヶ月で日本代表は間違いなく拍手で迎えられる勇士となった。 》

 ここまでお読みになった方には、正直に打ち明けたい。私がこの原稿を書いている原動力は、ひとえに、「羨ましいなぁ」という感覚なのだ。当時の社会を取り巻く空気。熱狂の渦。飲み込まれ、興奮し、一瞬のワンプレーに見入ってしまう。それができるのは、リアルタイムにいた人たちだけだ。その瞬間、その時間をもつ人ひとりひとりが、私は本当に羨ましい。ある書店員さんから、ジョホールバルの歓喜の際に、本屋の雑誌コーナーを『Number』で一杯にしたことがあって……という話を聞いたことがある。それを語る横顔が、楽しそうで、面白そうで……。ただただ、羨ましかった。ひがみにも似た感情が、この原稿を書く原動力である。

 一方で、大切なことを忘れてはいけない。今まさに、私たちはその大きなイベントを目の前にしているのだ。リアルタイムのW杯。この原稿を書いていて、資料室にこもっていて、手にする当時の雑誌がついつい面白くて読み込んでしまった。今、書店さんにならぶその一冊一冊が、20年後のあなたにとってそういう一冊になるかもしれない。なら、思いっきり楽しんで、未来の誰かを精一杯、羨ましがらせてやりたいと思う。



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《 手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。 》

『坊っちゃん』夏目漱石

 有名な〝 バッタ事件及び咄喊事件 〟の際の痛快なセリフ。同じ章の別の場所には、《 いたずらだけで罰はご免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない 》なんて言葉もある。ちゃんと謝れない大人をTVの画面で続けざまに見せられて、坊ちゃんに叱って貰いたくなった。



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旅は道連れ、世は情け――丸善津田沼店・沢田史郎

 27歳のジェスは、《 人のためになりなさい 》をモットーに、ズルや怠惰とは無縁の真面目な人生を歩んできた。だけど、これまでのところその生活は、ラッキーと言うには程遠い。

 彼女は17歳の時に産んだ娘タンジーの母親である。そして夫の連れ子、16歳のニッキーの育ての親も兼務している。二人はそれぞれの学校でちょっと浮いていて、しばしばイジメられたりもしている様子だ。ところが頼りにしたい夫は心を病んで生れ故郷に引きこもってしまい、実質的には、ジェスのシングルマザー常態である。しかしジェスには手に職も無いし学歴もコネも資産も無い。故に、清掃業とパブのウエイターをかけ持ちしながら、ギリギリで家計をやりくりしている。

 そんな極貧一家が、ひょんなことからIT長者のエドと知り合って、運命のいたずら的に、イングランド南部のサウサンプトンからスコットランドのアバディーンまで、1,000キロの旅に出る。ジョジョ・モイーズ『ワン・プラス・ワン』(訳=最所篤子)は、愉快で軽妙でちょっと切なくて、だけどその何倍も温かいロードノベルの傑作だ。

 旅の目的は、アバディーンで開催される数学オリンピック。その優勝賞金は五千ポンド。数学の才能を認められ、超難関のセント・アン校に入学を許されたタンジーの、学費をそれで賄おうという計画だ。

 ところが旅は、のっけからトラブル続き。乗り物が苦手なタンジーが後部座席でゲェゲェ吐くから高速道路は使えない。老犬のノーマンは出もの腫れもの所嫌わずで、始終オナラをこきまくる。そのノーマンと一緒に泊まれる宿が見つからない夜は、車内で縮こまって仮眠する。そんな旅の間にも、ニッキーへのイジメは加熱していて、不良たちはフェイスブックでニッキーを笑い者にして盛り上がる。漸くアバディーンに辿り着いた後も、まるで貧乏神に取り憑かれたかの如く、やること為すこと裏目に出る。



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 とうとうニッキーは、堪え切れずにブログで嘆く。《 俺にはわからない。うちの家族は一応、正しいことをやってるのに、なんで必ず結果は滅茶苦茶になるんだろう 》と。タンジーも拙い語彙力ながら失望を隠さない。《 家に帰ったってなんにも楽しみがないよ、だってなにもかも駄目になっちゃったし 》と。そして遂にジェスまでもが、自分たちの人生を否定する。《 昔から、子供たちにうるさく言ってきたの。(中略)盗むな。嘘をつくな。正しいことをしなさいってね。そうすれば宇宙が見てて、ちゃんと報われるからって。ふん、そんなのみんなたわごとよね 》……。

 更にはジェスが生涯悔やむことになるであろう痛恨のミスを犯して、物語もジェスの一家もジ・エンド……。かと思われたのだが、天は自ら助くる者を助くのだ。

 例えば――。《 隣近所ってのはそういうときのためのもんだろ 》と言って、ジェスからの謝礼を断る隣人がいる。《 いいかい、ジェシカ・レイ・トーマス、人の助けを受け入れるべきときってのがあるんだよ 》と、助力を申し出てくれる友達もいる。《 僕も一年前は、きみみたいに感じてたけど、ほんとにいろんなことがいいほうに変わった。それをどうしても言いたかったんだ。大丈夫。元気出せ! 》と、見知らぬ誰かが励ましてくれたこともある。そして、《 彼女がそんなことをしたのは間違ってないって言ってるんじゃないわよ。ただね、その瞬間だけを取り上げて、彼女のすべてを決めつけるべきじゃないって言ってるの 》と、ジェスを擁護してくれる人物さえ現れる。



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 彼らがジェス一家を助けようとしたのは、何もボランティアのつもりではなく、恐らくは、善良で裏表の無いジェスとその子供たちがいつもいつも頑張っているのを見て、そんな彼らが一度の過ちで全てを失うのは不公平だと感じたからだろう。そして、今まで努力を積み重ねてきたんだから、そろそろ彼女たちは報われるべきだと考えたからでもあるだろう。

 要するに……。努力とはその結果が問題なのではなく、努力することそれ自体に価値があるのではないか? たとえ期待通りにはいかなかったとしても、第二のチャンスを与えられるかどうかは、それまでに積み上げてきた努力がものを言うのではないか? だから即ち、努力が必ずしも結果に結びつくとは限らないけど、努力をした事実そのものは、決して無駄にはならないのではないか?

 金にも運にも縁の無い若きシングルマザーとその子供たちが七転び八起きで艱難を乗り越えるこの物語の、一番の読みどころは、まさにそこだと強く思う。

 さて、旅は道連れ世は情け。道連れと言えば宮本輝である。ハンガリーからの留学生を迎えた一家の泣き笑いを描いた『彗星物語』、一頭の名馬がまるで車輪のハブのように、様々な人びとの希望をつなぎ合わせる『優駿』、たまたま貰った文机と茶碗が不思議な縁をもたらす『水のかたち』、人生に倦んだアラフィフ男女と、親に育児放棄された少年が、偶然の出会いから新たな一歩を踏み出す『草原の椅子』……。ちょっとした偶然で知り合った老若男女が、行動を共にするうちにお互いの〝 生きる姿勢 〟に共感して、今までとは違う未来が開けてゆくといったストーリーが、この作家は本当に上手い。『ドナウの旅人』も、そんな宮本輝の魅力が凝縮した一冊だ。



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 と言っても、ストーリーに驚天動地の仕掛けがある訳ではない。主人公は28歳の麻沙子。5年間ドイツのフランクフルトで暮らしていたことがあり、今は日本で、ドイツ語の翻訳を生業にしている。その麻沙子の、50歳になる母親が、なんとびっくり夫も家庭も捨てて出奔した。フランクフルトから届いた手紙によると、「ドナウ川に沿って黒海までの旅をしながら、離婚する決意を夫にはっきり伝える」というではないか。驚いた麻沙子が取るものも取り敢えずフランクフルトに向かうと、そこには、かつて麻沙子が青春を過ごした頃と変わらぬ街と人が待っていた。という辺りが第一幕。

 第二幕では、麻沙子の母親・絹子が17歳も年下(即ち33歳)の恋人と行を共にしていることが分かって麻沙子は怒り心頭、「みっともない真似するんじゃない!」とばかりに母親の後を追うが、その道中で旧友の優しい計略にハマり、2年前にお互いに悔いを残しながら別れた恋人・シギィと再会。すったもんだの末に、麻沙子&シギィ、絹子&道雄(絹子の恋人)という二組のカップルが珍妙な連れとなって、美しく青きドナウを下る。

 ただそれだけの話なのに、なぜこの作家が書くとこうも目が離せないのだろう。

 宮本輝は〝 縁 〟を描く作家だと思う。「縁は異なもの味なもの」とは本来、男女の機微を表す言い回しではあるが、宮本作品の場合、男女を問わずに当てはめられるような気がする。

 多くの宮本文学に共通することだけれど、彼の作品に登場する人びとは、最初から運命に導かれた如くに意気投合する訳ではない。先に挙げた四作もそうだし、『にぎやかな天地』『田園発港行き自転車』『三十光年の星たち』『三千枚の金貨』など多くの作品で、登場人物たちは当初、赤の他人である。「この出会いが一生の宝になる」などとは露ほどにも思っていない。それが、本人たちの恣意や作為を越えたところで人生が重なり合い、共感や仲間意識へと化学変化を起こしてゆく。そこには青春小説のような押しつけがましい友情は無く、「リスペクトすべき人物」として認め合った者同士が、ゆるく静かに、そして深く心を通わせてゆく。その雰囲気に、多分僕は惹かれるのだ。



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 本書でも、ドナウを下る四人のみならず、行く先々で出会う老若男女が、お互いに敬意を以って接する様子は、読んでいて実に清々しい。ウィーンでの、音楽学校の学生たちとの交友などは、「困った時はお互い様」という古き良き日本語を彷彿させるような温かさで、そこだけ取り出しても一編の素敵な短編になり得るのではなかろうか。

 旅の途中で、初めて気付いたといった感じでシギィが呟く。《 人生の扉って、ゆっくり少しずつ開いていくもんじゃないんだな。あるとき、ぱっと開く 》。本来だったらすれ違うだけで終わる筈の人びとが、神様の気まぐれで親密さを増し、それによって人生の歯車が大きく回り出す。そんな宮本文学の醍醐味を、シギィのセリフはものの見事に言い表しているような気がするのだ。

 川を巡る旅ならば、遠藤周作の『深い河』も忘れてはいけない。こちらの〝 河 〟は、ヒンズー教徒にとっての聖なる川、ガンジス。そこを目指すツアーで道連れになった幾人かの視点で、生と死、宗教、神、善と悪など、多様なテーマを炙り出そうとした作品。

 妻に癌で先立たれた後、漸くその愛情に気付いた中年男性。戦時中のビルマで、飢餓とマラリアに苛まれながらの退却戦を生き延びた元兵士の老人。結核と気管支漏の大手術で九死に一生を得た絵本作家。自堕落に男性遍歴を重ねながらも、本当に愛せる相手とは遂に巡り合えなかった魔性の女。カトリックの洗礼を受けフランスの神学校で修業を積みつつも、日本独特の多神教的価値観を捨てきれない修道士。彼らが、それぞれの鬱屈を抱え、或る者は赦しを請うために、或る者は癒しを求めて、また或る者は人生の答えを探して、ガンジスに向かう。



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 遠藤周作の作品は往々にして、答えを明確には提示してくれない。様々なサンプルを挙げるだけで、それのどれが正しいとも言わずに、最後は読者の判断に委ねられてしまう。当然その受け止め方は十人十色で、だから読書会向けではあっても、正直、書評は書きにくい。

 本書も、そんな遠藤周作カラーがモロに出た作品で、何しろ五人の語り手たちの旅の目的がバラバラだから、彼らがそこで見出す〝 答え 〟も各人各様で、しかもどれが正解とも言わずに終わるから、「この作品の主題はコレだ!」とはなかなか言い切れるもんじゃない。

 ならば僕の場合はどう感じたかと言うと――〝 人間は間違いを犯す生き物である 〟ということを一つ一つ例を挙げて論証し、しかも人間のその不完全さを是認するというか、そんなもんだよと許容した上で、不完全だからダメなのではなく、〝 不完全であるにも関わらず前に進もうとすることが尊いのだ 〟といった人生肯定のメッセージ。そんなものを僕は、本書を読む度に勝手に受け取った気になっている。

 インドへの旅で僕が最も推したいのは、実はこっちの方だったりする。さくら剛のデビュー作『インドなんて二度と行くか! ボケ!!』がそれだ。何だかタイトルからしてB級感漂いまくりだが、これが面白い。もう10年以上前に出版された本だが、当時も今も、読む度に笑い転げずにはいられない。

 お笑い芸人の夢破れ、恋人にもフラれた著者は、絶望の底で魔がさしたようにふと思う。《 インドでも行こうか…… 》。そしてホントに行ってしまう。ツアーではなく、一人旅。到着した夜の宿も決めずに行ってしまう。

 当然ながら、旅は初日からトラブル続きだ。一歩外に出た途端に群がる詐欺&タカリ。隙あらば自分が契約しているみやげ物屋に誘導しようとするタクシー。駅に行けば「切符売り場は閉鎖中」などと嘘八百を並べたて、つながりのある旅行会社に連れて行こうとする。何をするにもどこに行くにも、一から十までこの調子。結果、インド放浪第一日目にして《 インド人、信用しないことに決定 》と、著者は断固結論する。



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 人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、トラブルから脱しようとする著者が一生懸命であればあるほど、能天気なインド人とのギャップが際立って、読んでるこちらは抱腹絶倒。デリー、バラナシ、ジャイプル、アーグラと、バックパッカーとして一ヶ月もかけてインドを回ったひきこもり青年が記す、もう一つの『深い河』。難しいこと考えずに馬鹿笑いしたい時にお薦めだ。

 最後に、馬鹿笑い系の旅行記をもう一冊。宮田珠己のエッセイはどれもこれも大抵〝 馬鹿笑い系 〟ではあるのだが、今回は『ジェットコースターにもほどがある』をプッシュする。

 例えば、だ。ロサンゼルスのとある遊園地でのこと。一般的にウォーターシュートと呼ばれる、轟々と流れる滝をコースターが滑り落ちるタイプのジェットコースターに乗ったはいいが、降車場に着いた時には頭のてっぺんから爪先まで全身ずぶ濡れ。あっけに取られた宮田氏は曰く《 あたりにポンチョなどの防水着を貸す気配がまったくなかったことから、アメリカ人は水をはじく、というのが私の仮説である 》だそうである(笑)。

 こんな調子で、最初っから最後までひたすらジェットコースターだけ乗り続けるという、他に類を見ない珍しい旅行記。ジェットコースターには全く興味がない私でも、宮田氏の語り口のトンチキぶりに笑って笑って窒息寸前。ネットで検索すると結構動画も上がっているようなので、それを観ながら読めば、臨場感も抜群だ。






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 今年最高の日本映画。コンプライアンスに怯えている昨今、ガツンとかましてくれました。

 原作は柚月裕子さんの『孤狼の血』で、監督はR15専門の漢、白石和彌。

 昭和63年夏、舞台は広島……ヤクザの抗争を警察はどうするのか!? 暴言・暴挙の連続で好みが分かれる作品かもしれないが……私は凄い好きでした。

 なぜ私がこの作品を今年最高と謳ったかと言うと、単純なヤクザ抗争作品ではなく、刑事バディ作品として秀逸。役所広司演じるアウトローなベテラン刑事・大上と、松坂桃李演じる大卒エリートの新人・日岡がぴったりハマっていて気持ちが良い。とにかく大上が日岡を振り回す。この二人を観てるだけでも単純に面白い。特に、松坂桃李はこの作品のMVPだと思う。去年の『彼女がその名を知らない鳥たち』今年は『娼年』とこの作品で大化けしたと思います。他にも、クラブのママ役をやらせたら個人的に今No.1の真木よう子。安定の悪役でいつも最高の石橋蓮司と演者全員が気持ち良さそうにスクリーンで大暴れしてます。

 セリフも印象的で、大上が『警察じゃけぇ、何してもええんじゃ』というセリフを言うのだが、まさか後半こんなに響いてくるとは思いませんでした。

 とにかく、アウトローの東映が帰ってきてくれて感謝です。あっ、言い忘れてた(汗)薬剤師役の阿部純子……ブレイクの予感。



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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6月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-06-07 09:04 | バックナンバー | Comments(0)

18年05月

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 仕事中、ふと窓の外を見ると、小学生の頃を思い出すことがある(仕事をしなさい)。野球を好きになったのは、転校生がきっかけだった。野球好きな彼に巻き込まれるように、気づけば選手を覚え、バットを握り、ボールを投げていた。サッカー選手の子どもがクラスメートに入ってからはその輪に駆り出されてサッカーをしたし、塾の先生にバスケットを教えてもらえばどれだけ早く教室を出て場所を確保できるかに毎日熱中した。授業中の校庭を見て、今降りれば使い放題だなぁなんて思っていた。

 当時を振り返ると、ふたつのことが心に浮かぶ。ひとつは、何かを変えるのはえてして外から入ってきた人だったこと。もうひとつは、運動のできる人は大体何をやってもうまくこなしたという牧歌的な思い出である。

 なにって、プレイヤ―・大谷翔平のことだ(「選手」とも「投手」ともつけがたいので、あえてこう書いてみた)。彼を特集した『Number 950号』は、私にとって先々も特に思い出に残る号だろうと思う。

 私自身、怪我が多かったので選手を見ているとどうしても心配してしまうのだが、大谷選手のオープン戦の結果が投打ともよくなく、日米のメディアから色んなことを言われているころ、活躍できるか以上に、「大丈夫かなぁ、怪我とかじゃないかなぁ」と気をもんでいた。

 そんな雲行きが晴れたのが、初登板の日だった。見事な勝利に、ああ、これで表紙は決まったな――職業病の一種なのかもしれないが、そんなことを思いながらほっと胸をなでおろした。別の方角に怪しげな雲が現れたのは、彼がホームランを打ったときだった。「これ、編集部は表紙を迷うね」そんな話をえらい人と話したあと、言霊というのだろうか、編集部から「不穏な」話が来るようになった。いわく、「表紙の刷り分けをしたい」と。


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「本」には、個体識別番号のようなものがふられている。表紙を変えると「同じ商品とはいえない(=別個体)」ため、改めてそのコードを取らないといけない。逆にいえば、そうしてしまえばたしかに刷り分けることはできる。たとえば、『Number PLUS』の2016年のプロレス号(中邑真輔版と新日本版があった)なんかがそのいい例だ。ただ、それには事前にコードをとり、輸送路を確保して……といった前もっての準備がいる。だが、今回はその時間がない。

 そこで編集部からあがってきたアイディアが、「片観音」というかたちだった。実物を手にしてもらうとわかりやすいが、表紙の紙を通常の倍近くの大きさにして表紙の裏側に折り込む。すると、①通常の表紙A(ホームランを打った打者大谷)、②表紙部分の左側にある折り込み部分(ベンチで祝福される選手大谷)、③折り込み部分の裏にくる表紙B(勝利する投手大谷)、これであれば表紙が「二刀流」になる。つまり、表紙Aの「打者大谷」の左側を折って逆に折り返すと、表紙Bの「投手大谷」が表紙に来る…!紙の特性を利用すれば、投打の表紙を両立できるというわけだ。

 こうしてNumber史上初のW表紙が完成したのだが、この号はそこで終わらない。

 プレイヤー・大谷の活躍にのせられるように、数年ぶりの重版の検討がされた。雑誌の場合は次の号が出てしまえば戻されてしまうことも多いため、重版の機会はそう多くない。それもあって、えらい人たちの周辺はにわかに騒がしくなった。

 そんな部内を尻目に、私はテレビに映るMLB中継を見ていた(だから仕事をしろ)。場面は一打大量得点の大チャンス。打席には大谷がいた。「これで打ったら、重版が決まる……なんてね……。そうなったら本当にドラマチックだよなぁ……」編集長がかつて「拝啓 清原和博様」で書き出した『Number 908・909・910号』の後記を思い出しながら、湧きあがるわくわくに思わずつぶやいた。次の瞬間、ピッチャーが投げ込んだ一球が、吸い込まれるようにバットの軌道と重なった。弾かれた打球が鋭く、大きく飛んだ。
「……打った……!」
思わず声が漏れた。


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 重版が決まったのは、そんな喧騒の日だった。ダイヤモンドをまわる、そのどこか飄々とした姿が、頭から離れなかった。

 何かを変えるのは、えてして外から入ってきた人だった。新人だったり、転校生だったり、宇宙人だったりが、それまでの常識を変えていく。表紙が変わり、重版が決まり、毎日ニュースが流れる。内にいた人たちは、突然の非日常に迷い込む。でも、それはどこか心躍る迷路だ。こんな毎日は、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 二刀流なんて不可能だという人も多いし、怪我の心配をする人も多い。対策されたら……。疲れてきたとき……。色んな声が聞こえてくる。ただ、グラウンドに立つ彼を見ていると、妙な懐かしさが胸にあふれる。「ああ、そういえばサッカーの得意だったあいつはバスケットも野球も得意だったな。一緒にやってて、みてて、なんか楽しかったっけ……」そういう子どもの頃のような「わくわく」を感じるのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 今日も実況の声が響く。きっと、しばらく仕事が手につかない。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 とは申しましても、優柔不断な私たちは、うっかり迷いに入り込んでしまうもの。そんなとき思い出すとよいのは、迷っているからには、いずれかの選択肢が決定的に優れているわけではないということです。 》


 そしてこの後、《 つまり「より得なほう」を選べても、実はたいした差ではない 》と続きます。日々の買い物や食事、或いは何かの順番待ちや特典の有無etc……。微々たる「得」に目の色を変える自分が如何にみみっちいかを、気付かせてくれる言葉だと思います。



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 僕らの世代で〈 家族小説 〉と言われたら、何はともあれ『ビタミンF』(重松清)という人は多かろう。2000年の下期――即ち20世紀最後の直木賞受賞作だ。

 描かれるのは、バブルの奔流をまともに浴びた世代の、その後の人生。と言っても、株だの土地だのの狂乱に躍らされた挙句に破産したなんていう派手な話ではなく、もっと普通の、言うなれば僕らの中の誰かの話。そしてそれは、例えば向田邦子の『寺内貫太郎一家』や、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』、或いはTVドラマ『北の国から』や、マンガ『ちびまるこちゃん』といった昭和の家族ものとは明らかに違う、21世紀の家族小説の嚆矢であった。

 住む場所は東京郊外のニュータウン。家は一軒家ではなく、バブルの頃にバカ高い値段で買ったマンションで、ローンはまだまだ先が長い。小中学生は週に何回かの塾通いが当たり前。家族の誰かが声を荒げて怒鳴ったりすることはまずないが、何でも打ち明け合うほど心が通ってる訳でもない。田舎で老いた父母のことは気になるが、かと言って同居するのは煩わしい。人生に大きな不満は無いけれど、心ときめく夢も無い……。そんな宙ぶらりんな家族が、それでも前に進んで行こうとする姿を描いた短編集が、『ビタミンF』だ。

 そこには例えば、悪ぶっている少年に《 おとなになればわかるよ、おまえにも 》と説教をする自分に対して、《 ガキの頃にはそういう言葉を吐くおとながいちばん嫌いだったんだよな 》と苦笑するサラリーマンがいる。中学生の息子を見つめながら《 おとなの胸の内をなまじ察することができるぶん、子どもの屈託のなさをなくしてしまい、といっておとなの考えていることの深みにまで思いが届いているわけでもない 》と、苦虫を噛みつぶす父親がいる。そして、《 知らん顔をしてあげるのが、父親らしいのよ。無関心と知らん顔ってのは、ぜったいに違うんだから 》と、夫を諭す妻がいる。


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 登場する家族はどこも大なり小なり厄介事を抱えていて、しかもそれは、家族の努力で解決する類の――例えば借金の返済だとか子どもの反抗期だとかいった解りやすい問題ではなく、もっとハッキリしなくて見えにくい何かであって、故に解決方法もおいそれとは見当たらない。《 俺の人生はこれか――。なーんだ、と拍子抜けするような。ちぇっ、と舌を打ちたくなるような 》。

 といった具合で、七編のどの家庭にも、何とも言えない閉塞感が漂い続ける。にも関わらず、読後感は不思議とそんなに悪くない。

 それは恐らく、家族の構成員それぞれが、それぞれの立場から「なんだかんだ言っても、自分は今の家族が大切なんだ」と再認識していく過程が、ハッキリと書かれてはいないけど、読み進めるにしたがって炙り出しのようにゆら~っと浮き上がって来るからだろう。そして。もしもあの時、別の生き方――別の進学先、別の就職先、別の伴侶――を選んでいたら、今頃はもっと幸せだったのかも知れない。でも、この人生を選んだのは俺だ。俺の人生はこれだ。そんな現在肯定の覚悟が、多分、読む者の背中をそっと押してくれるからだろう。

 巻末の「後記」に於いて、著者は言う。《 炭水化物やタンパク質やカルシウムのような小説が片一方にあるのなら、人の心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい 》。いつの頃からか日本中に漂う停滞感の中で、常に酸欠気味に喘いでいる僕らに、「それでもたまにはいいことも巡ってくるさ」と、優しく発破をかけてくれるような、『ビタミンF』とは、そんな作品だと思う。


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 安藤祐介の『ちょいワル社史編纂室』は、上司に騙され利用され、挙句、リストラ部屋に左遷されたサラリーマンの捲土重来を描いた、どちらかと言えばビジネス小説に近い作品ながら、実はそれ以上に、家族の崩壊と再生を熱く描いた小説である。

 主人公は玉木敏晴45歳。家電大手の東洋電工に入社以来、営業一筋22年。昭和のモーレツサラリーマンさながら、家庭よりも趣味よりも、常に仕事を優先してきた。

 が、騙された。無謀なプロジェクトが失敗に終わった後、責任を取ろうとしない役員たちの捨て駒にされ、まんまとリストラ部屋に飛ばされる。そこでは、使用済みのコピー用紙に「裏面再利用」のゴム印を延々と捺し続ける、といった拷問のような〈 仕事 〉が待っていた……。

 といった幕開けの後は、残業と接待漬けの毎日が一変、アフターファイブの時間を持て余した敏晴の落胆と消沈と迷いと後悔が描かれる訳だけれども、その沈滞の中で彼は徐々に気付き始める。《 男は仕事に生きてなんぼだ 》と嘯きながら自分が捨ててきたもの――家族との時間――の大きさに。しかし、敏晴が漸く家の内側に目を向けたその時には、高校3年の長女はイジメのターゲットにされており、高校1年の長男はヤンキー崩れとの付き合いを深めてグレまくっていた。慌ててコミュニケーションを図ろうとするも、子どもたちばかりか妻までもが、露骨に「何を今更」といった視線と言葉を投げつけて来る……。

 いずれ詳細に語りたいと思っているが、ここからが安藤祐介の読ませどころだ。崖っぷちに追いつめられた分かりやすい大ピンチと言うよりも、八方塞がり的な息苦しさの中で、愛情やら信頼やら情熱やらといった愚直さだけを武器に、ジリジリと活路をこじ開けていく。ともすれば汗臭くなりがちなそんなストーリーを、実に爽やかな読後感に仕立て上げるのがこの作家の十八番。


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 本作に於いても、例えば絶望のどん底から這い上がって来た娘が言う。《 お母さんのせいじゃないよ。お母さんのせいにしようとしてたけど、なんかようやく目が覚めた。結局なにもかも自分で選んでやってきたことだから 》。また、教師にまで「不良」と蔑まれる息子は、自分の味方をして憤ってくれる相手に言う。《 いいよ、別に。誰か一人だけでも信じてくれるなら、それでいい 》。或いは、家族の為に何もかも諦めて生きてきた妻は、《 家族を大切に思うことと、自分の夢や希望を家族に依存することとは違う 》と気付いて、晴れやかな気持ちで空を見上げる。

 そして肝心の敏晴は、と言うと……。《ふと立ち止まった時にできた仲間って、意外といいもんだぞ 》と胸を張って子どもに伝えられたのは、敏晴自身が人生の回り道を経験したことで、恐らくは気付くことが出来たからだろう。勝利に向かって一直線が、必ずしも幸せに結びつくとは限らない、ということに。人と競って、ライバルを蹴落としてでも上を目指すことが、必ずしも明るい未来につながるとは限らない、ということに。《 最初は本当に砂漠の真ん中へ放り出されたような心地がした。でも、歩いているうちに、会社人生の中では見えなかったたくさんのことが見えるようになった 》。そう考えると、45歳にしての周り道も、決して無駄ではなかったのかも知れない。

 物語がどこに着地するのかは勿論伏せるが、取り柄の無いつまらない人生にも、それなりに味があるもんだと、少しだけ明日を明るく感じさせてくれる、そんなプチハッピーな物語が『ちょいワル社史編纂室』だ。


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 最後は小野寺史宜を紹介したい。既に10作以上を出している割に知名度がどうもイマイチなので、この機会に声を大にして主張しておく。幸せの崩壊と、そこからの再起を描かせたら、小野寺史宜の右に出る者はそうはいない。

 例えば『リカバリー』では、交通事故で幼い息子を失った父親と、その事故の加害者の息子、それぞれを語り手にして、周囲の人々に支えられ温められながら、彼らがもう一度自分を肯定していく過程が丁寧に描かれる。『東京放浪』では、仕事と住居を同時に失った青年が、緊急避難的に友人の家を渡り歩く間に、誰もが日々の暮らしに四苦八苦する姿を目の当たりにして、自分の甘さを思い知る。『ひりつく夜の音』では、既に落ち目だと自分で自分に見切りをつけて日々無気力に過ごすクラリネット奏者が、運命のいたずら的に出会った若きギタリストに刺激され、心の中に僅かに残っていた熾き火の火勢を増していく。或いは『本日も教官なり』では、望まない妊娠が発覚した女子高生が、相手の男子生徒に捨てられた上、学校からは厄介者扱いされる中で、逆に、自分は犯罪を犯した訳ではないとハッキリと自覚して、毅然と顔を上げて一歩を踏み出す。

 繰り返しになるが、小野寺史宜は、僕らの日々の幸せなど何かの拍子にあっけなく崩れてしまうのだということを、リアルな描写で悟らせてくれる。と同時に、幾人かの理解者さえいれば、そこから這い上がる力も僕らにはあらかじめ与えられているのだということも、強い説得力で描き出す。

 そんな彼の最新作『ひと』は、これぞ小野寺史宜といった風情の青春小説だ。


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 主人公の柏木聖輔は法政大学の2年生。……だったが、この度事情止むを得ず退学した。3年前、自動車事故で父親を亡くしたのに続いて、今度は病気で母を失い、学費の目処が立たなくなったのだ。僅かに残っていた現金も遠い親戚にむしり取られたりして、学業どころかこのままでは早晩、明日の食事にも事欠くのが目に見えている。が、心を切り替えられない(そりゃそうだろう)。すぐにでも働き口を見つけなければいけないのに、頭も身体も動かない。

 そんな時に、ふと立ち止まった揚げ物屋。そこのメンチカツをオマケして貰ったのがきっかけで、〈 おかずの田野倉 〉で働くことになる。

 そうして動き出す聖輔第二の青春には、汗と涙の友情も、熱く甘い恋愛も、はたまた、現代のわらしべ長者よろしく伸し上がっていくサクセスストーリーも一切無し。描かれるのは、おかずの田野倉とその周辺の人びとの人間模様。

 そしてこの〈 人間模様 〉ってやつが堪らない。例えば、田野倉のおやじ。《 ウチはただの惣菜屋。星三つとかいらねえよ。飛び抜けてなくていい。生れたての赤ん坊が食っても八十のじいさんばあさんが食ってもうまい。それでいいんだ。といっても、くれるんなら喜んでもらうけどな、星 》などと言って、がははと笑ったりしている。聖輔が大学を辞めた後も、なんのかんのと言ってアパートを訪ねて来たり飯をおごってくれたりする友人もいる。本当に困った時には、貸せるお金はあるからと言い、聖輔が遠慮すると《 困ったときは借りられる。そう思っておいて 》と、さらりと言ってのける人もいる。《 時間はね、あるようでないよ。四十年なんてすぐに経っちゃう。気づいたら、できないことだらけになってる。そのときにあれをやっとけばよかったなんて思わなくてすむよう、がんばんな 》と応援してくれる人もいる。《 お金がないのも悪いことばかりじゃないよね。慎重に選んでものを買うようになるし 》という価値観に気付かせてくれた人もいる。ちょっとしたトラブルを解決してくれたお礼を言うと、《 そんなことで礼を言わなくていい。聖輔は人に頼ることを覚えろ 》と怒ってくれる人もいる。


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《たった一人になった。でも、ひとりきりじゃなかった 》という帯の惹句は、こういうことを言っているに違いない。聖輔は20歳にして家族を失った。その代わりに(と言っては語弊があるが)、まるで第二の家族とでも呼びたくなるような人びとと出会い、その思い遣りと励ましに包まれることで、自ら下りようとしていた人生のレールを、もう一度進んでみようと考え直す。《 僕は二十一歳。急がなくていい。一つ一つだ。急がないが、とどまらない。そんなふうにやっていけたらいい。先は大事。でも今も大事。先は見なければいけない。でも今も疎かにしたくない。だって僕は、生きてる 》、そう静かに決意を固める。

そして終盤、田野倉のおやじが断固たる態度で言い放つ。《 聖輔は一人じゃない 》と。こんなセリフこそが、小野寺史宜の真骨頂だ。幸せの崩壊と、そこからの再起。《 空気と光と、友人の愛。これさえ残っていれば気を落とすことはない 》と言ったのはゲーテだそうだが、生きている以上、辛いことや悲しいことは巡って来る。でも、そこから浮上するチャンスも必ずある。ためらっている時に背中を押してくれたり、疲れたときには肩を貸してくれたりする人も、身の回りにきっといる。だから、人生を投げ出すな。小野寺史宜は、そんな声援を静かに送り続けている作家だと思う。






永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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『女は二度決断する』

監督:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヌーマン・アチャル他


テロによって家族を失った女の復讐劇! 三部構成でとても観やすい作りでした!

 特に二部目の法廷劇は、主人公の視点で観ると、もの凄く辛いものがありました。被告側の弁護士がとにかく嫌な奴! あ~……今思い出してもムカつくな~アイツ! まぁ、あのムカつく弁護士のおかげで主人公の気持ちに乗れたんだけど(笑)。

 この作品、復讐の結末はちゃんと用意されています。女の復讐作品で、今年アカデミー賞にノミネートされ、個人的には作品賞だと思っていた『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)という作品があるのだが、とても比較したくなる。何故なら、こちらの作品では前者とは全く違う結末が用意されているからです。良かったら二作品を観比べるのも面白いかもしれません。
丸善津田沼店・永野裕介



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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5月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-05-05 00:08 | バックナンバー | Comments(0)

18年04月

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「いじめる側」にならないために――双葉社営業局 直井翔太郎
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 私は33歳で、4月に入社12年目、結婚7年目を迎える普通の営業マンだ。子供は3歳半と1歳半の息子がいる。男の子は、小さい頃は体が弱いと聞くが、うちの子たちは風邪を引くことも少なく、有難いことにとても元気である。

 小林由香『罪人が祈るとき』の主人公・風見の一家も恐らく、そんな普通の家族だったはずだ。一人息子の茂明が自殺するまでは。茂明の遺体のそばにはいじめを匂わせるノートが遺されていたが、名前が書かれていたと思われる場所は血で一部しか読めなくなっていた。学校からもいじめはなかったとされ、息子の死の真相が分からず風見夫妻は苦悩する。ノイローゼ気味になってしまった風見の妻・秋絵は、ついに息子の死からちょうど一年後に自ら命を絶ってしまう。普通の家族がアッと言う間に崩壊してしまう様が描かれている。

 そして、この小説のもう一人の主人公・祥平は、公園で先輩と同級生から暴行されていたところを、ピエロのペニーに助けられる。家でも居場所を失っていた祥平は、いじめ主犯格の上級生・竜二を殺して、自分も死にたいとペニーに打ち明ける。祥平の物語は、現在進行形でいじめを受けている少年の痛みをともなう闘いのストーリーだが、どこか非現実的なペニーの存在が、物語を先が読めない不思議な展開にしている。

 著者の小林さんは、デビュー作の『ジャッジメント』でも「復讐法」という架空の法律がある世界の物語を描いた。「仇討ち」のような格好いい「復讐劇」ではなく、復讐するべきかどうかを最後まで悩みぬく「人々」を背景まで含めて丁寧に描いている。デビュー作の時から書きたいテーマは一貫していたのだろう。

 ところで、うちの子たちが最近、どんどんやんちゃに育ってきていて少し困っている。特に3歳半の長男は、なかなか弟や友達にオモチャを貸せず、逆にすぐ他人のオモチャを欲しがり、私の息子らしくないジャイアニズムの持ち主になってきている。まだ小さいのだから、そんなものだと言われるかもしれないが、ふとした時にこのままいじめっ子になってしまったら、どうしようと心配になる。


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 先日、飲み会の席で同年代の仲間たちと話していて驚いたのが、そこにいた全員が「自分の子供がいじめられる側になるより、いじめる側になる方がいい」と言っていたことだ。「ちょっとくらい不良になっても更生できるし、弱いより強い方がいい」と。気持ちは分からなくないが、そこには自分の子供にいじめられて人生が変わってしまうかもしれない他人の子供の存在が忘れられている。もちろんどちらにもならないに越したことはないが、どちらかを選べと言われたら、私は息子に「いじめられる」側になって欲しいと思う。なぜなら、自分の子供がいじめられていても、私が注意していれば気がついて助けてあげることも出来るが、自分の子供がいじめをしていて、他人の子供を傷つけていることは、おそらく気がつけないと思うからだ。

『罪人が祈るとき』は、いじめにより自殺を決意した少年と、いじめによる自殺で息子を亡くした父親の苦悩と闘いの物語だ。どうか、この作品を読んだ人が皆、「いじめられる側は嫌だな」ではなく、簡単に他人の人生をめちゃくちゃにしてしまう「いじめる側」にはなりたくないなと感じて欲しい。まずは、そう強く感じた私自身が息子たちに、他人の痛みを感じられることの大切さと、自分がされたら嫌なことは他人にもしないということをきちんと伝えていきたい。そして子供が、もしいじめられていても、ちゃんと気が付いてあげられるように、会話とコミュニケーションを絶やさないように接していきたいと思う。

 分かりやすい子育ての目標としては、先ほど少しジャイアンの話が出たが、いじめる側よりいじめられる側の方が良いという意味では、ジャイアンより、のび太くんということになる。が、ドラえもんが甘やかし過ぎたせいか、のび太は、かなり我がままかつ、捻くれた腹黒い子供になってしまっている。野比家は少し違う。やはりここは、子供をきちんと叱りつつも、一緒にふざけ、親子できちんと喜怒哀楽を表現し合っているクレヨンしんちゃんの野原家のような家族を目指したいと思う。双葉社の営業マンらしく(笑)。



桜の下をめぐりながら――文藝春秋業部 川本悟士
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 この原稿を書いているときは、今年の私はまだ桜を見ていない。

 この言葉をきいて、みなさんはどういう光景を想像しただろう。一年のなかでこの書き出しからはじめるにもっとも適した時期なので、今回は本を取り上げたい。

『葉桜の季節に君を想うということ』という作品がある。とりあげた手前いいづらいが、下手にあらすじを話せないすごい作品である。そのなかで
《 花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは 》
という台詞がある。この言葉から以降がとてもよい話なのだが、ぜひその言葉にたどり着くまで最初から通して読んでもらいたいので、あえて頁数も書かないし、それについてはこれ以上立ち入らない。

 ただ、比べるのもおこがましいが、この言葉とこの原稿の書き出しは、たぶん似たようなものをイメージさせていると思う。東京でいえば3月末から4月上旬に一斉に、枝からあふれんばかりの「絵に描いたような」白紅色の花が咲く樹。ソメイヨシノだ。花見にいけば広大な淡い桃色に溺れてしまいそうになるアレ。その花の下でたくさんの別れを経験し、散るころになって誰かと出会っていることに気づく。「春は出会いと別れの季節」というが、実のところ別れのほうが先に来て、散ってしまったころに「ああ春だったな」と気づくひとも多いのではないだろうか。

『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ 起源への旅』は、そんな桜がどう語られてきたかを丹念に追い、背景をひとつひとつ紐解き、やがて近代の日本にもたどり着く、そんな新書である。個人的には、歴史・文学好きであればはっとする文章に出くわすことも多いのではないだろうかと思う。

 実際、日本にある桜の7~9割がソメイヨシノらしい。ご存知のかたもいるかも知れないが、ソメイヨシノは接木や挿木で育てられるので、すべてがクローンである。日本で大きく広まったのも、せいぜいこの百年のこと。では、それ以前の桜の景色はどのようなものだったのだろう。


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 こう聞くと「ヤマザクラこそが日本の本来の桜だ」という話が出てくる。正直なところ、私も高校のときだろうか、国語問題集の論説文で読んだ記憶がある。だが、実はそれほど単純な話ではない。ソメイヨシノ以前の日本では、ひとつの種類の桜で覆われてなかったのである。色々あった桜が、ここ百年かそこらで次第にソメイヨシノにとって代わられたというわけだ。

 本書に出てくる、この辺りをめぐる想像が現実をなぞっていくような関係は面白い。そもそもソメイヨシノの出現以前にソメイヨシノが実在したような桜の景色を何人もが詠っていたり、たとえばTVでみる遠山の金さんの桜はソメイヨシノっぽくみえるが、時代やキャラクターからいえばヤマザクラや八重桜である可能性もありつつ、むしろ絵に描いたような桜であれば、結果的に現実の「ソメイヨシノ」と近い可能性もあったりもする。

 と、同時に面白いのは、桜語りにおいては往々にして、人工/自然、西洋/日本、新しさ/旧さといった単純化された二項対立物語をなぞっていくことである。《 「ソメイヨシノ以前」をヤマザクラで代表させること自体、現在のソメイヨシノの姿を投影したもので、きつい言い方をすれば、ソメイヨシノ的感性の産物といえる 》(60頁)という言葉が出てくるが、一度ものさしを手にしてしまった以上、そのものさしから自由になろうとすることは存外にとてもむずかしい。また、何かと桜は「日本」に関わる色んなことと結びつけられがちであるので、さらに多方面で同時多発的にえらいことになってくる。それらの時代背景を読むのも含めて、本書は単なる桜についての本ではなく、言葉を扱った、日本についての本でもあり、社会についての本でもある。


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 だから余計に、本書は読む人によって感想が異なるんだと思う。二項対立を避けながらAでないからといってBとせず、古文書を紐解く歴史学者のように丹念に古い資料を当たりながらモザイク模様をかき分けていく。今まで当たり前のように見えていた「桜」の風景が、少し変わって見えるようになる。たぶん、本を読んで一番面白い経験のひとつは、こういうことなんだろう。

 そして、東京に暮らすようになって本書を読み返すと、面白いのは実際に文章に出てくる街を歩けることだと思うようになった。桜は、本当に愛される花なんだろう。そして実際、本当に綺麗だ。ソメイヨシノも八重桜もそう。それこそ私は葉桜になっていくソメイヨシノの姿も好きだし、夏の青空が透けて見える緑の姿も好きだ。著者のいう房総のオオシマザクラも、今年こそ見に行きたい。東京各地の桜を十年かけて1本1本数えてランキングした資料も紹介されるが、つくづく、愛されていると思う。それもあって色んなところに咲いているのだが、なかでも地名とともにあげられる場所が、実際にすぐそこにある。桜をめぐる言葉を生み出してきた場所が、その桜とともにすぐそばにいるとさえいっていい。

 総武線で飯田橋まで行き、桜の下をめぐりながらぼんやりと本を読む。ふらっとそういう春の休日をすごせるのは、良くも悪くも特権だと思う。《 桜を見ないと、やっぱり春は終われない 》(216頁)、まさにそういう場所に住んでいるのだ。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 本当はわたしだって恥かしい過去ばかりなんだ。だからこそ、人の悩みに多少は耳を傾けられる。今のうちに苦しんで、悩んで、泣きわめいて、傷ついとけ。絶対にあとになって君の財産になる 》


 特に、この春卒業して社会に飛び出す若い人たちに贈りたい。一年目に苦労すると後がラクだよ。損して得取れなんて言葉もあるし、〝 今 〟だけを見てうんざりしたり諦めたりしないでね。



中学生よ、大志を抱け――丸善津田沼店 沢田史郎
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 14歳の加奈太が夏休みに、父親の故郷である沖縄の離島で過ごす6日間(沖縄と明記されてはいないが)。交互に描かれるのは30年前。即ち加奈太の父親が今の加奈太と同じ14歳だった頃の夏。思春期、中二病、反抗期。意地の悪い奴がいて、頭の切れる奴がいて、のほほんと能天気な奴がいて、ちょっと気になる女子がいて……。

 椰月美智子『14歳の水平線』は、小細工無し、直球勝負の中学生小説。小学生の頃と比べると、人間関係だとか将来の進路だとか、やらなきゃいけないこととか覚えておかなきゃマズいこととか、身の回りの何もかもがいつの間にか窮屈になっていて、そのことにふと気付いて焦ったり苛立ったりする姿が、けれん味の無い文章で紡がれてゆく。《 今までいつも、自分だけが貧乏くじを引いているような気がして 》いた加奈太が、小さな衝突や誤解を経て、《 みんな言わないけど、きっと大変なことや悩みがあって、きっとおれだけじゃなくて…… 》と気付いたのは、子どもから青年への第一歩。さしずめ「てれれ~てってって~加奈太はレベルが上がった。加奈太は〈 友情 〉のじゅもんを覚えた」といったところだろうか。沖縄の波の音が聞こえて来そうな爽やかな読後感。

 はらだみずき『帰宅部ボーイズ』が描くのはタイトル通り、〈 帰宅部 〉としてメインストリートからは外れた学校生活を送る三人の中学生。

 部活で友情を培ったり協調を学んだりといった展開なら、ドラマやマンガでもよくあるが、なんのなんの帰宅部にだって、仲間意識も連係プレーも育つのだ。それが証拠に、上下関係だのシゴキだのといった部活に付きものの煩わしさに辟易して、野球部、サッカー部、写真部をそれぞれ辞めた直樹、カナブン、テツガクの三人は、部活を辞めたからこそつながったのだ。


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 その三人が、例えば退部の意趣返しに来た野球部の連中を返り討ちにしたり、ハワイから〝 密輸 〟したポルノ雑誌に度肝を抜かれたり、スケートボードを手作りして練習に明けくれたりする。そうやって一見、帰宅部生活を謳歌しているように見える彼らだが、能天気な日常の中でおぼろげに理解し始める。今自分たちが歩んでいる道のり、過ごしている時間というのは、過去から未来への一方通行だということに。だから、受験も失恋も関係無かった小学生には戻れないし、いずれ否応無く大人になって、義務と責任でがんじがらめにされてしまうのだということに。

 そうなのだ。この『帰宅部ボーイズ』は、自分の意思とは関係無く〝 成長せざるを得ない 〟ことへの恐れや不満をジワリと描いて、読者の共感を誘う。〝 成長 〟をポジティブな要素として扱う作品が多い中で、〝 成長 〟することの寂しさを描いた小説として推しておきたい。

 鉄塔オタクの伊達成実は、或る日、同じクラスの帆月蒼唯に声をかけられる。美人だが奇行が多く、皆からそれとなく敬遠されている女子だ。《 伊達くんってさ、鉄塔に詳しいんだよね? 》。そして次には、霊が見えるという噂の――だから、これまた皆から敬遠されがちの――比奈山優に、《 比奈山くんって、お化けが見えるんだよね? 》と水を向ける。一体何のこっちゃと訝しみつつ彼女の指定した鉄塔に行ってみると、そのてっぺんにはなんと、着物を着た男の子が座って足をブラブラさせているではないか。えっ!? なんであんなとこにいるの? どうやって登ったの? 何やってんの? ってか、そもそもどこの誰?

 と、やや森見登美彦チックに幕を開けるのは、賽助『君と夏が、鉄塔の上』。これがいい!


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 物語は当然ながら、鉄塔の男の子の謎を軸に進むのだけれど、その過程で、それまでロクに口を利いたことも無かった帆月、伊達、比奈山の三人が急速に心を通わせていく様子には、新しい友達が出来る際のウキウキソワソワした気分が滲み出ていて、何度となく頬が緩む。その合間合間にはまるで幕間劇の如く、伊達くんのオタク仲間である木島との友達付き合いだったり、建築現場の幽霊騒動だったり、或いは帆月の人力飛行機製作だったりが挿入されて、謎解き一辺倒の単調なストーリーでは決してない。と言うか、そっちの脇道の話も本筋に負けず劣らずオモシロ楽しい。例えば次は、自転車を盗まれた伊達くんが、それを木島に報告した時の二人の会話。

《 「マジさ、自転車を、盗む奴って、何考えて、るんだろうな」 「よし、この自転車を盗もうって考えてるんじゃない」 「後先とか、人の気持ちとかは、何も考えてないって、ことか」 「そうだろうね。刹那主義だ」 「自転車を盗む奴と、女を後ろに乗せている奴は、許せんな」 「それ、並列で憎むものか?」 「大事なのは、罪を憎む気持ちだ」 「罪って、後者は何の罪だよ」 「おいおい、何言ってんだ。自転車の二人乗りだろ」 》

どうだろうこの洒落たセリフの応酬は! まるでビリー・ワイルダーかウッディ・アレンの映画にでも出て来そうなこういった会話は随所に散りばめられていて、それらが本作の大きなチャームポイントになっていることは間違いない。

 物語は、鉄塔小僧の謎が解けてゆく終盤、冒険ファンタジーの色彩が濃くなるに従って、三人の息もぴったりと合い始め、加えて〝 大人の都合 〟に振り回される中学生の悔しさとやるせなさの描写も混じったりして、中学生小説としては沢田史に残る傑作である。件の鉄塔を見上げながら、伊達くんが帆月に送電線のルートを延々と語るラストシーンは、何度読んでも目頭が熱くなる(実際、今回で4回目の読了)。

 仮にバラバラの高校に進学したとしても、年に何度かは集まって、近況報告や鉄塔小僧の思い出話に花を咲かせる三人の姿を、きっと誰もがそれぞれに想像しながら、暖かい気持ちで読了するに違いない。そして本書を読了した後は、車を運転していても電車に揺られていても、鉄塔があるとつい見入ってしまうということも、ついでながら付け加えておきたい。



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 そしてそして、重松清だ。近年は登場人物にとって大切な人――家族とか友達とか――を、作中で安易に死なせて泣かせに走る傾向が強い気がするが、『エイジ』は、そんな姑息な手段に頼らずともしっかりと読者の胸を撃ち抜いてくれる、中学生小説の金字塔であり、初期重松文学の代表作。って言うか、「中学生小説」なるジャンルは、『エイジ』によって確立されたと、僕自身は思っている。

 舞台は、東京郊外の桜ヶ丘ニュータウン。《 快速電車を使えば、一時間たらずで、渋谷 》というその街で、その年の夏、通り魔事件が発生した。自転車で後ろから追い抜きざまに、堅い棒で殴って逃げるという程度で、刃物を使ったり金品を奪ったりする凶悪なものではないとは言え、7、8、9月と、犯行は次第にエスカレートしながら二十数回に亘って繰り返される。平凡な街はその話題で持ちきりになり、事件を解決できない警察には非難が集まり、誰もが夜の一人歩きを避けるようになる……。そして10月、遂に捕まった犯人は、なんと中学二年生だった!

 という数か月の騒動を、犯人の少年と同じクラスのエイジ(本名・高橋栄司)の視点で綴った物語。と言っても犯人探しのミステリー的要素はほぼゼロ。何となれば、比較的早い段階――ページ数で序盤1/3程度で犯人は捕まるし、直後、その素性も明かされる。では、犯人探しでないならば、この物語は何を描いたものなのか?

 エイジたちが「タカやん」と呼んでいた犯人が捕まって以後、街にはマスコミが溢れかえり、エイジたちは〈 今どきの中学生 〉として一括りで語られる。だけど中学生が〈 今どきの 〉でくくられるなら、大人だって老人だって〈 今どきの 〉で括れる筈ではないか。にも関わらず中学生だけを、あたかも珍しい生き物でも見るように〈 今どきの 〉で十把一絡げにしてしまうのは、一個の人格として向かい合い、対話し、理解することを放棄した行為ではないか? 勿論、中にはアブナイ奴もいれば非常識な奴もいる。だけどそれは、大人だって同じではないか? いやむしろ、大人になってさえ、やっていいことと悪い事の区別がつかず犯罪に走ってしまうような輩の方が、未熟なままに罪を犯してしまった「タカやん」よりも、よっぽどアブナイ人間ではないか! 世の中に〈 今どきの中学生 〉なんていう中学生は、一人だっていやしないんだ!


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 でも、だったら僕は一体何者なんだ? 通り魔になってしまった「タカやん」と僕の差は、どこにあるんだ? 或いは僕の中にも、通り魔の素質が潜んでいたりするんだろうか?

 といったようなことを、多分エイジは思うんだけど、何しろまだ14歳だもんだから、そこまで考えを整理出来ないし、それを表す語彙も無い。だから伝えたいことを上手く伝えられずに苛立って、家族に八つ当たりしたり授業を抜け出して繁華街を徘徊したりするんだけども、その〝 伝えたいのに伝えられない 〟感じがとにかく出色。いや、中学生の一人称小説って難しいんだよ。セリフだけでなく地の文までもが〝 主人公の言葉 〟な訳だから、ちょっと大人目線の言い方をしただけで全てが台無し。そこんところが、重松清ほど上手い作家は多分いない。

 実際この小説を現役の中学生が読んだらどう感じるんだろう? まだスマホが無い時代の話だからそこら辺の違和感は止むを得ないとしても、十代半ばの少年少女が大人たちに感じる、汚らしさとかズルさとか子どもに媚びる感じとかは、恐らく今も昔もそう大きくは変わらないんだろうから、機会があったら中学生の感想文を是非読んでみたい。「あ、今思い出した。俺も確かにこうだった!」と、膝を打つような文章に、きっと出逢えるような気がする。

 閑話休題。結局「タカやん」は、諸事勘案の上、少年院送りとかにはならずに、保護観察処分になって、エイジたちの教室に戻ってくる。当然、初日の朝は皆〝 遠巻き 〟である。そこに登場するのがエイジが片想いしている相沢志穂と、エイジの親友でジャイアン的存在の「ツカちゃん」で、彼らはそれぞれのやり方で「タカやん」を再びクラスメイトとして受け入れる。そして我らがエイジはと言うと……。

《 エルニーニョがどうしたとか、地球温暖化がどうしたとか、オゾンホールがどうしたとか、難しいことはよくわからないけど、地球はいろいろ大変なことになっているらしい。それに比べれば、日本の、東京の、桜ヶ丘ニュータウンの、ガシチュウ(筆者注:桜ヶ丘東中学校)の、二年C組の、ぼくなんて、死ぬほどちっぽけで、だけどちっぽけはちっぽけなりに、いろいろ大変なんだ。/でも、相沢志穂みたいに言おう、何度でも言ってやろう。/負けてらんねーよ 》
と、視線を上げる。


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 今どきの中学生なんて、括りたければ括るがいいさ。大人たちがどう括ろうが、「タカやん」は「タカやん」だし「ツカちゃん」は「ツカちゃん」だし、そして僕、エイジはエイジであることに変わりは無いんだから。とはエイジは言わないが、多分そんなようなことを考えながら「負けてらんねーよ」と宣言したんじゃなかろうか。ラスト20ページ程は、日本文学史上に残る名場面だ。

 と、暑苦しく述べ立てたように、『エイジ』こそが最高の中学生小説だと思っていたんだ、今までは。ところが、だ。奥田亜希子『青春のジョーカー』が、遂に『エイジ』を追い越した!

 こちらの主人公は中学三年の島田基哉。教室では余り目立たないマイナー系……どころではなく、常に蔑みと嘲りの的にされるヒエラルキーの最低辺。有馬啓太ほか数人の男子生徒たちは、お笑い芸人を小突き回すバラエティ番組さながら、事あるごとに基哉たちを俎上に上げてウケを狙う。しかも《 同級生の、からかい以上いじめ未満の言動にたいして、教師たちの反応は驚くほど鈍い 》。故に基哉は、同じ〝 階層 〟に属する友人たちとゲームの話で盛り上がっている時でさえ、メジャー系の生徒たちの言動に神経を尖らせ、〝 笑い 〟の矛先がいつこちらに向くか、岩陰に身を寄せる小動物の如くおどおどしながら過ごしている。


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 といった幕開けで、不活性で後ろ向きな基哉の姿は、言うなれば奥田版野比のび太。一年生の時から一途に片想いしている女の子もいるが、そんなことが周りに知れたらたちまちネタにされて晒し者である。休み時間に仲のいい女子同士キャッキャやっているのを、遠目に眺めるのが関の山。《 自分は総理大臣にも俳優にもなれない。それと同じで、クラスの人気者になることも、異性から好かれることもない。おそらくは、強者の影に怯えて一生を過ごす 》とまで悲観して涙ぐむに至っては、読んでるこちらまでみじめな気持ちでうなだれてしまう。

 そんな基哉が、思いがけずに武器を手にする。ピンチの時でも、たちどころに攻守逆転を可能にする切り札。それが何かは伏せておくけれども、トランプで言うところの〈 ジョーカー 〉を手に入れたことで、基哉は、啓太たちと同じ〝 階層 〟にまで浮上する。これからは、嘲りの対象にされることは無い。学校行事でのグループ分けで、一人あぶれる心配も無い。それどころか、憧れの女子生徒と言葉を交わすことさえ出来るようになった。教室の隅でビクビクしながら過ごす日々よ、サヨウナラ……。

 ところで本書では、基哉が〈 性 〉の問題で一人悶々とする場面が頻出する。中学生の男子にとって、〈 性 〉とは欲望や憧れであるだけでなく、自分が乗っ取られてしまうような怖さや、吐き捨てたくなるような汚らしさをも同時に感じるものであり、それに振り回されて苛立ったり自己嫌悪したりする基哉の生々しい描写が連続する。そういった意味で本書は、窪美澄とは違った形で〈 性 〉を描いた小説であると言えなくはないし、一読して、それがテーマだと思う読者は多いだろう。

 けれど、本当の主題はそこじゃない。

 ある人物から、ゲームの何がそんなに好きなのかと問われた際、基哉は《 こつこつやれば、ちゃんと強くなれるところです 》と迷わず答える。大学進学と同時にイメチェンを図った兄を、「すっかり変わってしまった」と嘆く母親に対しては、《 変わることが許されないなら、弱者は永遠に弱者のままではないか 》と、心中密かに憤る。或いは、初めてのデートを数日後に控えた日、《 僕は顔がだめだから、そのぶん服装で頑張らないと、周りの奴らには勝てない 》とムキになったりもする。そして、そんな基哉を、或る人物が静かに諭す。《 基哉くん、誰かに勝つことが強さじゃないよ 》と。


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 的外れだと笑わば笑え。強さとは何か? そして、優しさとは何か? それこそがこの作品のテーマであると、僕自身はそう読んだ。

 例えば基哉が、とある女性の緊急事態を救うため、彼女の部屋に上がり込む場面。二人で善後策を講じて事無きを得た途端、《 自分がほぼ面識のない女の家に押しかけたことを今更ながらに理解 》して、大慌てに慌てる描写がある。基哉以上にブサイクで、それこそスポットライトにも女性にも一生縁が無さそうな兄の〝 自分にとっては優しかった 〟数々の記憶を手繰りながら、《 お兄ちゃんのことを好きになる人は、必ずどこかにいる 》と、ごく自然に言葉にするシーンもある。

 そして物語の最終盤、窮地に陥った自分を心配そうに見つめる何人かを、視線だけで押しとどめ、一人、荒野を行く決意を固めるクライマックス。「僕に関わると巻き添えになるから。僕は大丈夫だから」と、口にはしないその優しさこそが〝 強さ 〟であると、基哉が自覚していたかどうかは分からない。が、少なくとも、ジョーカーをちらつかせて相手より優位に立つことが〝 強さ 〟ではないということは、この時の基哉は既に気付いていたのではなかろうか。

 読了後、僕の頭には名作絵本『モチモチの木』(作/斎藤隆介 絵/滝平二郎)が浮かんでいた。病から回復した「じさま」が、大任を果たした豆太に向かって、その頭を優しく撫でるようにして言う言葉。《 じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。にんげん やさしささえあれば やらなきゃならねえことは きっとやるもんだ 》。

「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きる資格が無い」なんて言葉を基哉が知っていたとは思えないが、彼の数々の行動が、優しさと強さが表裏一体であることを暗示してはいないだろうか?

 結論を急ぐ。如何にも奥田作品といった風情の弱気で後ろ向きな中学生が、スクールカーストの中で自分の立ち位置を手探りする『青春のジョーカー』という作品は、優しさを伴わない強さは所詮はニセモノだということを、そして、本当に強い奴は、〝 強さ 〟以上に〝 優しさ 〟を湛えているものだということを、宣誓でもするかのような清涼さで描き切った、青春小説の傑作である。









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by dokusho-biyori | 2018-04-06 20:59 | バックナンバー | Comments(0)

18年03月

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 小学生の頃、彼にとってラグビーは正月にやっている、ぶつかりあって変わったボールを使う競技だった。磯辺焼きを食べながら、ぼんやりと目で追っていた。なぜそんなに進みたいのにボールを前へ投げないのかと、不思議に見ていたような覚えがある。年齢が上がるにつれて、だんだん試合も見なくなっていった。

 中学生の頃、彼にとってラグビーは、ただひたすら男っぽい、荒くれ者っぽいイメージしかもてないものだった。それを逆手に取って、いわゆる女性らしい、心優しい文化部的なラグビー部員しかでてこないギャグ作品を見ながら、ゲラゲラと友達と笑っていたのを思い出す。

 高校生の頃、彼にとってラグビーは家庭科室にあった。息子が名門校でラグビーをしていた先生が、息子とその部活動の友人たちとで撮ったいかつい写真を冷蔵庫に貼っていたのだ。砲丸のようなおにぎりをたくさん作り、寸胴のようなでかい鍋で味噌汁を作ってもてなしても、じーっと行儀よく座った彼らが食べ始めるとあっという間に全部なくなるのよ、本当にいい子たちなの、と笑う先生の顔は、当時もすごく眩しかった。

 大学生の頃、彼にとってラグビーは次元の違うスポーツだった。彼の大学は決してスポーツの強い大学ではなかった。だが、アメフトとラグビーは別格で、1回生の終わりになると、見どころのあると期待されたやつらがスペシャルメニューに取り組むらしいということをきいた。単なる練習量の話ではない。食べるトレーニングだ。普通の食事に加え、いりこやきなこ、牛乳や納豆、卵やプロテイン……。尋常じゃない量を食べ、身体をデカくしていくのだという。まさに、自分とは違う世界のことのような気がした。
 大学院の頃、彼にとってラグビーは人の背中から感じるものだった。同期に、他の大学のラグビー部で活躍していた学生が入ってきたからだ。クールで、それでいて頼もしい、身長は決して高くないのに、少しばかり背中の大きく見える人だった。その人が言った。


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「ラグビーって、本当に人間性の出るスポーツなんだ。何度相手に当たっても倒されるし、疲れて痛くて足が動かなくなる、もうだめだと思うような瞬間もある。でも、そんなときに顔を上げて、自分のなすべきことをできるのか、それが常に見られているスポーツなんだ。いくら日頃いいこと言ってても、そんなときにサボっちゃうと、ああ、そういうやつなんだな、と正直思う。それがいいか悪いか、って話じゃなく、でもプレーヤーとしてはそこで立って走り続けてほしいんだ。」

 ひょえぇ……と震えながら、でもこれが彼の見てきた景色なんだな、そう思った。

 同じ頃、彼は近所で美味しい飲み屋を見つけた。温かい自家製の豆腐が名物の、品のいい割烹のお店だった。人の良さそうなマスターと、きれいな女将さんが切り盛りしていた。あるとき、カウンター席の上に、木彫りのラグビーボールがあることを見つけた。訊くと、もともと同級生は社会人リーグに進んでバリバリと活躍するような大学でラグビーをプレーしており、お店を始めるときいたその同級生たちが、お祝いにとプレゼントしたのだそうだ。その横に飾ってあるミニチュアのラグビージャージと、そう話すマスターの照れ笑いが、どこか誇らしげにも見えた。

 そんな折、彼は入院した。食中毒に無理が重なったんだと思う。入院すると不思議なもので、本当に暇でしょうがなかった。本を読んでも暇、寝て起きても暇……。次第に彼は自分のそれまでを考えて、これからの身の振り方を考えるようになった。夢に挫折した頃で、時期的にも進路を変えなければいけないとは思っていたが、変えても変えなくても、どちらも自信はなかった。そんなとき、退院してテレビをつけた。高校生の頃、冷蔵庫に貼ってあったあの選手たちが、ワールドカップの大舞台で、当たっても倒れても、立ち上がって走っていた。

「頑張れ……!」
たぶん、人生で初めてラグビーにのめり込んでいた。ルールがわかるようになったからだけではない。わからないことも多かった。でもどういうわけか、これはどうしても見てなきゃダメなんだ、そう確信していた。試合に勝ってからは、よく覚えていない。


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 社会人になってすぐ、彼にとってラグビーは恩師のゆかりのあるスポーツだった。就職のときに相当に鍛えてもらった恩師は、ラグビー名門校の出身だった。毎年リーグ戦に足を運ぶ相当に熱心な卒業生である。就職して、一緒に秩父宮に行った。逆転負けに痛恨、動けなくなった恩師を促して、バーで飲んだ。恩師は言った。

「就職したとき、先輩から『迷ったらゴーだ。だから迷わずゴーだ』と教えてもらった。以来、迷うたびにいつもこの言葉に立ち返るようにしている」

 その言葉をきいたとき、走馬灯のようにラグビージャージが彼の目に浮かんだ。振り返れば、トライを分けるあのラインは、彼の見てきたラガーマンたちにとって単なるゴールではなかった。そのラインを飛び越えて、彼らはずっと走り続けていたんだと思う。

 彼にも僕にも、ラグビーの経験はない。だからここではあえて、ラグビーを愛する人をラガーマンとして呼ぼうと思う。そのうえでいうなら、『Number PLUS サンウルブズ 狼の咆哮。』のなかで「2019年のワールドカップを超えて」と繰り返し言葉にするラガーマンたちをみると、かなわないなぁと思ってしまう。2019年のラグビーワールドカップは、日本である。それまでに色んなことがあるんだろう、と平凡に言ってしまうことは容易だろうが、それを超えていくのは容易ではないことくらい、私にも容易に想像できる。

ただ、それはゴールではないのだ。



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《 いまよりずっと歳を重ねたとき、そこから見る今は、若い、だろう。あのころのわたしはもう若くないと思って控えめな格好だった、と振り返るのと、無茶やってたなと笑うのなら、後者のほうがずっといい、そう思わないか? 》


 知り合いの老人に「もっと派手な服装でもいいんじゃないか?」と促されて断固拒否した主人公に、その老人がそっと諭したセリフ。ファッションに限らず、〝 今しか出来ない冒険 〟というものを、少しは持っていたいものでござる。



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 明日、世界が終るかも知れない――。という設定は、『宇宙戦艦ヤマト』から『風の谷のナウシカ』から『ドラえもん のび太と鉄人兵団』から『ディープ・インパクト』から『アルマゲドン』から『インターステラー』まで、古今東西玉石混交、挙げ出したらキリが無い。世界の終末、人類の滅亡というテーマに何故人々は、これほど惹きつけられるのか? ひょっとして、みんな滅亡してみたいのか? いや、まさかな。

 なんてことを考えたのは、L・ブルックス=ダルトン『世界の終わりの天文台』(訳=佐田千織)を読んだから。帯の惹句は《 きょうで世界が終わるなら、あなたは誰と過ごしたい? 》。

 舞台は、北緯81度という世界最北の天文台。そこに戦争の噂が聞こえてきたと思ったら、空軍のジェット機が来て、職員・研究員を残らず乗せてあっと言う間に帰って行った。ただ一人、老天文学者のオーギーを除いては。偏屈で頑固なオーギーは、星空を眺めながら孤独に人生を終えようと、北極圏からの脱出の機会を自ら望んで放棄したのだ。

 ところが。その翌日だったか翌々日だったか、彼は二段ベッドの下の段に、8歳ぐらいの女の子が丸くなって寝ているのを発見する。可哀そうに、急な撤収騒ぎの中で〝 不在 〟に気付かれず、置いてけぼりを食ったのだろう。そう考えたオーギーが無線であちこちの基地に連絡を取ろうと試みるも、どの周波数帯もてんで反応が無い。やがて日が経つに連れて、彼は認めざるを得なくなる。理由は皆目見当もつかないが、人類は滅亡したか、或いはほぼそれに近い状態まで追い込まれてしまったようだ、と。

 しかしオーギーは、それならそれで構わなかった。彼にはそもそも残された人生は長くはなく、遣り甲斐のある研究も思う存分積み上げてきた。あとは、ゆっくり老いて、静かに死ねれば充分だ。

 とは言え、さしもの偏屈老人も、この極北の地に、しかも極夜が始まろうとしているこの時期に、10歳にも満たない少女を「自分の力で生きてゆけ」と突き放すほどの冷血漢ではない。世界で何が起こったのか、アイリスと名乗るこの少女が誰なのか、分からないことばかりだけれど、取り敢えず二人で生きていくしかあるまいな……。


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 こうして、珍妙な二人組の生活がスタートする訳だが、初読の時は〝 友達以上、親子未満 〟といった二人の親交に、幾度も胸を温められた。人類滅亡後の地球などと言うと、血沸き肉躍るSF巨編をついつい想像しがちだが、本書はむしろその対極。静謐に、安寧に、世界の終わりなどどこ吹く風といった雰囲気で、ゆっくりと二人は心を通わせてゆく。例えば或る夏の日、アイリスが綿毛がいっぱいの野草を取って来る。最近めっきり白髪が増えたオーギーは、《 こいつがわたしに似ているといいたいのか? 》と苦笑しながら、《 しおれた花のひとつを引き抜いて、自分のボタンホールにそっと挿した 》。どうということもないシーンだが、心を開ききっている二人の仲良しぶりが垣間見えて、ホロリとさせられる名場面だと思う。

 しかし、実はこの物語にはもうひと組の主人公がいる。2年前に人類初の木星探査に飛び立った六人の宇宙飛行士たち。彼らが見事にミッションを成功させ、いざ地球に帰還せんとしたその矢先、どんな手段で幾ら通信を試みても、地球と交信出来なくなる。しかもそれが、何週間も続いている。ということは、核戦争か地殻変動か或いは未知の病原菌によるパンデミックか、原因は不明ながら地球は既に、「自分たちが出発した頃の地球」ではない、と覚悟した方が良さそうである……。

 二度目の時には、こちらの宇宙飛行士たちに随分と感情移入して読んだ。どうやら地球に帰っても人間は一人もいないかも知れない。放射能汚染があったりすれば、自分たちもタダでは済まない。かと言って、このまま宇宙をさ迷い続ける訳にもいかない。そんな状況に追い込まれた時に、人は何を考えるのだろう?

 こうなると分かっていたら、喧嘩なんかするんじゃなかった。せめて、仲直りしておくべきだった。大事な人に、ちゃんと大事だと伝えておけばよかった。振り返る度に温め直せる思い出を、もっとたくさん作っておくべきだった。そもそも宇宙探査になど出たりせず、最後まで大切な人の隣りに居ればよかった……。


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 人類に一体何が起こったのか? これから地球はどうなるのか? オーギーとアイリスは無事に暮らしていけるのか? そして、宇宙飛行士たちの運命は? 様々な謎を抱えたまま、物語は静かに進む。しかし、主題は恐らくそこではない。世界の終わりに臨んだ時に、あなたが後悔することは何? その後悔の芽は、今の内に摘んでおかなくて大丈夫? アイリスたちのそんな声が聞こえてくるような気がするのは、恐らく僕だけではないだろう。

 お次は、もっと明確に人類が滅亡する話。B・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(訳=上野元美)は、「半年後に小惑星が地球に衝突して人類は壊滅する」という予測が発表された世界。当然、ヤケになって犯罪に走りまくる輩もいれば、《 死ぬまでにしたいことリスト 》を実現させるために南太平洋のリゾートに旅立ったりする者も急増している、という世の中。

 そんな中、かろうじて機能を保っている警察署でも、事件の捜査はおざなりで、分かり易い犯人がいなければすぐに事故や自殺で片付けようとする。まぁあと半年で地球が滅亡するとあらば、それも無理からぬことだろう。

 しかし、新米の捜査官パレスだけはそうではなかった。ベルトで首をつったと見られる遺体を見分して、ベルトだけが高級品なのを見逃さず、他殺であると確信して捜査を進める。当然、周囲には変人扱いされるか、多少マシでも「物好きな奴」といった好奇の目で見られ続ける。


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 物語はSF的要素をほぼ排して淡々と描かれる。数少ない手掛かり、数少ない協力者、そして限られた時間……。滅亡を前に日に日に荒んでいく世情を背景に、パレスが親代わりとなって育て上げた妹とのすれ違いや、唯一パレスの味方をする若き巡査との連帯などの人間模様も絡み、ハードボイルドタッチのミステリーとして堪能した。「このご時世に、何故そうまで熱心に捜査を続けられるのか?」と、或る人物に尋ねられて、《 未解決だからです 》と即答する、愚直でストイックな一人のプロフェッショナルの物語。

 もしノーベル文学賞に「小惑星衝突部門」が出来たとしたら、真っ先にこの作品に受賞させたい。伊坂幸太郎『終末のフール』である。

「8年後に小惑星が衝突して人類は滅亡する」と発表されてから5年が過ぎた、という世界。つまり残りはあと3年。パニックに陥った人々の暴走や、ヤケッパチの犯罪は、半年ぐらい前から不思議と落ち着きを取り戻した。多くの人が「騒ぎ疲れた」「暴れ飽きた」という精神状態であることに加え、どうせあと3年の命ならば、せめて穏やかに暮らした方が得だということに気付き始めた、という二つが小康状態の理由だと言われている。

 それでもジワジワと暮らしにくくなっている世の中で、夫と娘の反目を仲裁しようとする妻がいたり、自殺に追い込まれた妹の仇をとろうとする兄弟がいたり、試合のアテも無いのにひたむきにトレーニングを続けるプロボクサーがいたり、死んでしまった恋人の後を追おうとする青年がいたりと、実に十人十色な生き方で人びとはカウントダウンを迎えようとしている。

 袖振り合うも多生の縁。様々な人生がふとすれ違ったり交差したりしながら、彼らの意思とは無関係に影響を及ぼし合って、全体の大きな物語が積み上がっていく構成は、伊坂幸太郎の十八番。どの登場人物に感情移入するかはそれぞれだろうが、「自分だったらどうするか?」という自問自答は、全ての読者の脳裏に等しく浮き沈みするに違いない。


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 僕の場合は、或るひと組のおしどり夫婦。子どもが欲しいけど出来なくて、不妊治療もさんざんやったけど効果が無くて諦めて、そしたら地球が滅亡すると発表されて。大混乱の5年間を何とか生き抜いてあと3年という今になって、ひょっこり妊娠が発覚する。To be or not to be !? 産むべきか、産まざるべきか? そりゃ悩むよな誰だって――という程度の感慨しか無かったのだ、初読の時は。今回久しぶりに読み返してみて、この作品のメッセージ性に漸く気付いた。

 僕らは通常、当分は生きる前提で生活している。勿論「当分」の長さには個人差があるだろうが、少なくとも「3年後に死ぬ確率100%」という覚悟で生きてる人は稀だろう。生きていればいずれ死ぬのは定めだけれど、それは明日ではないし明後日でもなく、はっきりはしないけど「当分」先。そういう感覚で過ごしている人が、恐らくは大半なのではあるまいか。だから例えば子どもを産むと決める時は、この先30年も40年も親子でいられると信じて疑わないし、就職にしろ学問にしろスポーツにしろ恋愛にしろ、長い人生の途上で少しずつクリアしていくつもりでいる。

 だが、ちょっと待て。僕らが明日死なないという保証はどこにある? 事故や事件に巻き込まれるかも知れないし、大災害に見舞われるかも知れない。病に襲われるかも知れないし、ふと死にたくなって自ら死を選ぶ可能性だってゼロとは言えない。神ならぬ身の僕らにとって、一寸先は闇なのである。にもかかわらず僕らは日頃、たっぷりと時間を与えられている気で過ごしている。

 前述のプロボクサーが「明日死ぬと言われたらどうするか?」と尋ねられて、《 明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか? 》と、逆に問い返す場面があるのだが、果たして僕らは、同じ問いに同じように返せる生き方をしているだろうか? 僕自身の答えは「否」である。明日死ぬ、或いは3年後に死ぬ、そう断定されたら、やり残したことと後悔することだらけである。

 それでいいのか? と、この小説は静かに読者に問いかけてくる。明日死ぬかも知れないつもりで、今日を存分に生きているか? と。その時になって「こうなると分かっていたら……」なんて言っても手遅れだぞ、と。


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 そう思って読んでみると、「あと三年」の為に「今」を精一杯生きようとする登場人物たちの人生は、実は案外幸せなんじゃないかという気もしてくる。少なくとも今の僕のように、切られた期限に気付かずに日々を浪費しているよりも、遥かに充実した「晩年」になることは確かだろう。物語の終盤、ある人物がふとこぼす《 死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ 》という言葉が、読後も長く余韻を引く。伊坂幸太郎の、初期の代表作と言っていい名作だ。

 日本の作品をもう一つ。『塩の街』は、有川浩のデビュー作にして、自衛隊三部作の第一作。

 或る日何の前触れも無く、巨大な――大きな物だと500メートルもある――塩の塊が世界中に飛来して、以降、人間が塩になってしまう奇病が大流行する。塩になった人間は、無論死ぬ。治療法も予防法も見つからないまま、致死率100%の《 塩害 》により、日本は半年で8000万の人口を失ったというから、まさに滅亡の危機。

 ヤケクソ気味の犯罪が多発したり、パニクった人々が無責任な噂に振り回されて右往左往するといった大混乱は、このテの滅亡文学のお約束。そんな荒んだ世界に一人放り出された小笠原真奈は高校生、見るに見かねて彼女を保護したタフガイの秋庭は三十歳のちょい手前。行きがかり上一つ屋根の下で暮らし始めた二人が、例えば「海に行きたい」と群馬から徒歩旅行を続ける青年に力を貸したり、刑務所からの脱獄犯と出くわしたりといったエピソードが続く連作かと思いきや、それらはほんのプロローグ。或る日、秋庭の旧知の――秋庭の様子からは、決して望んで会いたい相手ではなさそうな――人物が訪ねて来て、真奈と秋庭の関係も、そして世界と人類の運命も、音を立ててガラガラと転がり始める……。


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 以降、ハリウッドで映画化すればさぞ面白かろうというアクション&ラブストーリーが一気呵成に進むのだけど、一読すれば、有川浩はデビュー当時からやっぱり有川浩だったんだと、ファンなら大いに納得する筈。巨大なエビの大群が横須賀を襲ったり書物を守る為に図書館員が武装して戦ったりと、これまで数々の〝 常ならぬ発想 〟を物語化してきた彼女だが、その作風の根底には、〝 人が人を真剣に想う時のパワー 〟みたいなものが常に流れているように思う。愛が地球を救うかどうかは分からんが、本気の〝 想い 〟は誰か一人ぐらいなら多分救える。そんな等身大のメッセージを、舞台を変え、登場人物を変え、世界観を変えながら、幾つもの作品で描き続けてきたのが有川浩ではないかと思っている。

 だから〝 人が塩になる 〟などという突飛な発想に尻ごみせず、安心してページを開いて頂きたい。そこには、老若男女や肌の色に関わらず、誰もが持っている普遍的な感情がページ一杯に展開していることを約束しよう。

 今月のトリは、A・ケイ『残された人びと』(訳=内田庶)。こちら、知る人ぞ知る名作アニメ『未来少年コナン』の原作である。昭和53年の春から半年間NHKで放映されたこのアニメ、あの宮崎駿監督のなんと〝 初監督作品 〟なのである。僕ら昭和40年代前半生れの人間にとって、「コナン」と言えば名探偵ではなく「未来少年」であり、その仲間は毛利蘭や服部平次ではなく、ラナやジムシィ、ダイスにモンスリーなのである。

 世界中を巻き込んだ大戦争に於いて、核兵器をも越える超磁力兵器によって地球は大変動に見舞われる。大きな大陸は殆ど海に沈んでしまい、僅かに残った陸地に、僅かに残った人類がへばりつくように暮らしている。往年の科学技術は殆ど根こそぎ失われ、水車で小麦を挽いたり牛馬に頼って畑を耕したりといった、中世に戻ったかのような生活。人びとは皆貧しく、暮らしは楽ではないけれど、戦争よりはマシな世の中であることは間違いない。


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 しかし、支配欲が強い奴とかその欲を暴力で叶えようとする輩はいつの世にもいるもので、かつての科学兵器を復活させて、世界征服を目論む一派が、いよいよ実力行使に出ようとしていた……。という舞台で、その組織に捉まった青年コナンを中心に、超能力で遠くの人と会話が出来る少女ラナや、その祖父で地殻変動を予測した科学者のラオ博士などが、悪の野望を砕く為に立ち上がる。

 アニメを知っている僕からすると、『未来少年コナン』のダイジェスト版を読んでる感じで、〝 原作 〟と言うよりも〝 原案 〟と呼んだほうがしっくり来る。物語そのものよりも、「宮崎監督、この小説をよくぞあそこまで膨らませたな!」と、そっちの方に感心してしまう。アニメを知らない人が本書だけ読んだら、う~ん、どうなんだろ(笑)。正直、設定も人物も一つ一つのエピソードも大味で、面白くない訳ではないんだけど、現代の緻密なミステリーやSFに慣れていると、ちょっと物足りないかも。

 3月頭の時点で店頭に一冊在庫があるけど、版元品切れ重版未定なので、今後は二度と入荷しないかも。欲しい方はお早めに。とは言え、アニメも原作もどちらも知っている身としては、むしろアニメのDVDをこそ薦めたい。コナンの大胆な野性児ぶりや、ジムシィの極端な食いしん坊ぶりに笑い転げつつも、人間が人間らしく生きて行く為に必要なものは何か? そしてそれ以上に、不要なものは何か? といったメッセージが、説教臭くなく物語に溶け込んでいて、何度観ても心が洗われる。

 コナンの育ての親である「おじい」が、コナンに旅立ちを促すシーン。《 人間は一人では生きてはいけない。いや、一人で生きてはならないんだ 》と諭し、《 仲間を見つけ、仲間の為に生きろ 》と励ます言葉が、この作品の本質を一言でずばり表していると言っていいだろう。

 余談ながら、随分前の『ダ・ヴィンチ』だったかのインタビューで、俳優の石田ゆり子さんが「理想の男性は『未来少年コナン』のコナン」と語ってました。僕としては、ダイスとジムシィも捨てがたい。






編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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3月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-03-05 08:35 | バックナンバー | Comments(0)

18年02月

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「平成三十年二月」たぶん、それこそ30年くらいしても一読の価値があるものは、こういうものだと思う。『月刊文藝春秋』の2018年2月号の話である。同時に、目次をはじめてみたとき、ああ、いよいよ来たなぁ、とぞくっとした。それは雑誌云々という話より、社会の流れのなかで感じるたぐいの感覚だったと思う。私がみた範囲ではじめての、本格的な「平成を振り返る」特集だったからである。いいかえれば、「平成とは何か」という、平成が振り返られる対象になったことを実感した感触である。今期のアニメ・ポプテピピックで平成サブカルを煮詰めに煮詰めた演出が出てくるのをみて感じた、ああ、平成が終わっていくなという感覚にどこか近いものだ。

 平成という元号に、言葉に馴染めないまま30年が過ぎてしまった、という巻頭の言葉は、多くの人の実感と違わないのかもしれない。平成生まれの私にとってそれはあくまで推測するしかできないことなのが悔しいのだが、実は歴代でも有数の長さになった平成という期間をもってしても、昭和の長い時間はそこにあり続けた。

 平成の時間がそっくり自分の生きてきた時間になる私にとって、世のなかでかわされる平成という言葉をめぐる色々なやりとりの多くはあまり心地の良いものではない。自分でもそれがなぜなのかよくわからない。ただ、ありうる回答をするなら、次の元号という話題がでている今日をもってしても昭和が特集されることは多いし、それに一定の需要があることもわかるが、それだけに、どこかよそもの感というか、アウトサイダーというか、「君たちの知らない時代があってね……」という、見えない境界線のようなものでくくられて、平成やいわゆるゼロ年代を生きてきた私は身につまされるようなものを感じるのだと思う。


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 その私にとって、まさに待望の……といえる特集が、この号の平成特集である。数ある記事のなかでもある意味で今一番気になったのものが、「元号決定までの舞台裏」という241ページからの記事だった。生前の譲位については、『週刊文春』2018年1月25日号の「この人に会いたい」対談でもあったように、そもそもがかなりのインパクトをもった話である。また、気がつけば平成になって30年が経っているため――経験していない私がいうのも変な話だが――元号の決定に際してどんなことが伴うのか、その実際のところはおぼろげである。そのなかで、「天皇陛下のご存命中に次の元号を準備するのは、不敬という批判も免れません。ですから機密保持が最重要となります。」(241ページ)という前提にたったうえで、当時どのように元号が決まっていったのか詳細に書かれている記事は、法という近代の仕組みに根拠をもたなかった年号というものが、そのなかで組み込まれつつ、組み込みきれない部分をすくいあげ続けるという、平成の次の時代にも再び考えられなければならない現実があることを教えてくれるように思った。

 また、雑誌というメディアに載っていることを加味すれば、279ページのスマホ革命についての記事も平成で起こったメディアをめぐる最大級の「事件」といえるように思う。あなたの周りを思い返してほしい。iPhoneをはじめてもっていたのは、身の回りの誰だっただろうか。そしてそれをみたとき、自分はどう思っただろうか。私にとってのそれは、クラスメートにいた「変わりもの好き」で、彼がなにやらよくわからない形をしたタッチパネル式のガジェットをもっているのをみた私は、また色々と不便そうなものを買ったなぁ、と、なかば呆れながらみていた。テレビやパソコンの画面を触っちゃいけません! といわれ続けた世代だからというわけではないのだろうが、ガンガン指で画面を触ることに違和感をもつ友人もいたのを、今でもよく覚えている。今ではその「不便そう」なものは、無くてはならないものになった。フリック入力ではない「ケータイの数字キーを連打することで日本語を入力する」という、もはや一部の世代の人々にしか共有されていない身体経験にもとづいて操作する人を、今の高校生や中学生はどうみているのかな、と思ってしまうこともある。その意味でも、ここでいう「破壊的イノベーション」の先を、私たちはまだ共有しきれていないのではないだろうか。そして、その状態のまま、総体としての社会ではなく、浮島のような小さなクラスタとして集合体を形成するしかなくなったのかもしれない。


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「最大公約数ではなく最小公倍数の時代」(276ページ)という認識に基づくなら、そういう大きな集合体がないから、一人のものに収束しきらないのだろう。当時私が大好きだったフルメタル・パニックという作品のアニメが、いま東京では毎週日曜の朝に再放送されているのだが、そのなかに一人の人気アイドルのパロディがある。これは今やるなら誰でやるんだろうな、やろうとしても難しいんだろうね、そういって先日も友人と話したことを、今ふと思い出した。二七五ページの記事にあるようなAKBに代表されるように、グループという形でのアイドルが活躍するようになったことに慣れたが、系譜的にはそれも平成になってから顕著になったことなのかもしれない。

 私にとって、平成という時代は自分の生きてきた時間そのものである。「いいか、今日は平成12年12月12日だから、歩くときはちゃんとイチ、ニ、イチ、ニって歩くんだぞ」と父からわけのわからないことをいわれて送り出された小学生の朝も、みんなと太陽の塔の背に満開の桜をみながら酒を飲んだ大学生の夜も、こうして千葉の駅で手帳を確認しながらふと空を見上げる今日の昼も、私にとっての平成だった。これから、きっと「平成」特集号は増えてくるのかと思う。だからこそ、こういう号を手にとって、書棚にいれてほしい。あなたにとって、平成はどういう30年だっただろうか。



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《 職人は端っこに一番気ぃつかう。小さな端っこがようでけてるかどうか。そこに職人の腕がかかってる。職人は端っこから世の中、見てるんや。 》


〈 神は細部に宿る 〉という言葉もある。〈 凡事徹底 〉などとも言う。小さな仕事、些細な作業、取るに足らない役回り。そういった事が出来ない奴に、デカい仕事など出来る訳がないのだ、多分。






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 本を狩る。時の権力者が自己保全の為に、都合の悪い書物を強制的に接収し、焼却する。無論、逆らえば罰せられる。史上最も有名なのは秦の始皇帝の焚書坑儒だろうが、規模の大小を問わなければ、古今東西の様々な場所と時代で同様の狼藉が繰り返されてきた。

 第二次大戦中のドイツでは、ナチスに扇動された学生たちが、フロイトやハイネ、ケストナーやレマルクを〝 非ドイツ的 〟であるとして、片っ端から焼き捨てたと言うし、スターリン体制下の旧ソ連とか、ポルポトのクメール・ルージュとか、毛沢東の文化大革命とか、或いは南米やアフリカの軍事政権下でも、権力基盤の強化を狙った思想弾圧の一環として、必ずと言っていいほど「本」が標的にされた歴史がある。

 日本でもスケールは小さいながら、例えば高野長英らが徳川幕府の迫害を受けた「蛮社の獄」は〝 書物狩り 〟の一種と言えるだろうし、第二次大戦中の軍部による発禁・削除処分も、やはり〝 本を狩る 〟蛮行と言っていいだろう。また、今こうしている瞬間にも、例えばイスラム過激派が牛耳る地域では、膨大な数の書物が焼かれ、破かれ、踏みにじられているに違いない。

 現代のこの平和な日本で本屋の店員などというこれまた平和な仕事に就いていると、殆ど実感することはないが、「本」とは、支配者階級がそれほどまでに忌み嫌うものらしい。

 だが……。有史以降、何度となく焼き捨てられてきた「本」たちは、時の権力者が衰退し暴政が去った後には、瓦礫の下から新たな植物が芽吹くが如く、何度でも甦った。そして、混乱と荒廃の中で打ちひしがれる人々に、長く冷たい夜が明けたことを知らしめた。無論、本が勝手に自衛手段を講じて生き延びた訳ではなく、そこには、いつ終わるとも知れない暴力の中で、身を挺して本を守った名も無き勇者が必ず存在した。今回は、そんな勇者たちを、何人か紹介してみたい。


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 まずはフィクションから。『火星年代記』と並ぶ、レイ・ブラッドベリの代表作。『華氏451度』とは、僕らが日常使う摂氏に直すと約233℃だそうで、紙が自然発火する温度らしい。

「本」が禁じられて数十年。30歳のモンターグは、違法に秘匿されている本を燃やす「昇火士」という仕事に、誇りと遣り甲斐を感じている。《 いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ 》。

 その世界では人々は、本の代わりに小型ラジオと立体映像にどっぷりと浸かって、自ら考えることを放棄し、人間ならではの思考とコミュニケーションを忘れ去って既に久しい。その姿は、頭が空っぽの操り人形と化しているようで、うつろな目と半開きの口といった不気味な表情が、容易く想像出来てしまう。もしかしたらそれらのラジオや映像機器は、人民支配の為に――言い換えると民衆を洗脳する為に――政府が開発し支給した……とは書いてはいないが、あながち邪推とは言い切れないのではないか。民は寄らしむべし、知らしむべからず、だ。

 しかしモンターグは、徐々に本に惹かれ始める。そして、その気配を感じ取ったらしい上司から忠告される。《 昇火士の仕事をしていると、誰でも少なくとも一度は、むずむずと来るもんだ。本は何をいってるんだろう、と思うわけさ(中略)本はなにもいってないぞ! 人に教えられるようなことなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない 》。ならば何故、政府はやっきになって本を取り締まるのだろう? とモンターグは――この世界の住人としては極めて珍しいことだが――自分の頭で考え始める。もし本当に〝 本はなにもいってない 〟ならば、放っておいても害は無い筈ではないか。《 もしかしたら本が、ぼくらを洞窟から半分そとへ出してくれるのかもしれない 》。そんな危険思想を抱いたモンターグは、「バレたら身の破滅だ」と警告する内なる声を振り切って、徐々に深みにはまって行く……。

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 冒険の過程でモンターグが頼りにするある人物が、こんなことを言っている。《 いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ 》と。

 個人的には、知識も感動も娯楽も教養も、「本」の専売特許だとは思わない。映画にだって音楽にだって絵画にだって、心を動かされることはたくさんある。でも、だからと言って「感動させてくれるものは他にもあるんだから、本など読まんでもいいだろう」とは思わない。映画には映画の、音楽には音楽の、絵画には絵画の良さがそれぞれあるのと同様に、本には本でしか味わえない良さがある。皆が自ら読むのをやめてしまった先が『華氏451度』の世界なのだとしたら、そんなところに誰が住みたいと思うだろう?

 終盤、モンターグを救うあるグループのリーダーが、人類の愚行を不死鳥になぞらえる場面がある。有史以前、自ら起こした炎でその身を焼き、灰の中から甦ってはまた自らを焼いた不死鳥という鳥がいたという。何度も同じ過ちを繰り返してきた人類は、まるでこの不死鳥の如くだと。しかし、と彼は続ける《 われわれにはひとつ、不死鳥が持ちえなかった美点がある。われわれは、自分がいまどんな愚行を演じたか知っているという点だ 》。過ちを繰り返さない為には、その過ちを決して忘れてはいけない、ということだろう。

 因みに、ナチス時代に膨大な数の本を焼き捨てた過去を持つドイツでは、ベルリンのベーベル広場に、かつて燃やした二万冊の本がぴったり収まるだけの空っぽの本棚が展示されているそうだ。


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 そのナチスドイツのホロコーストが吹き荒れた時代。悪名高きアウシュヴィッツから生還した、一人のユダヤ人少女の物語。『アウシュヴィッツの図書係』は「著者あとがき」によると、《 事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉付けされている 》とのことで、主人公ディタ・アドレロヴァのモデルとなった女性は、現在もイスラエルで元気に生活しているという。

 本書で初めて知ったのだが、アウシュヴィッツには〈 家族収容所 〉と呼ばれる一帯があり、親が強制労働をしている間、子どもたちが集まって過ごした〈 子どもブロック 〉なるバラックまであったそうだ。とは言え学童保育のような呑気な施設である筈はなく、赤十字などの国際機関が査察に来た際に、人道にもとることはやっていないという、言わばカムフラージュの役目を果たしたらしい。故に食事や労働などで優遇された訳ではなく、入ったが最後死を待つのみという点は、他の区画となんら変わらない。アウシュヴィッツとはそういう場所だ。

 ところが、その〈 子どもブロック 〉を最大限に利用しようと考えた人たちがいた。

 収容者たちから没収した荷物が、一時的に保管されている倉庫から、監視の目を盗んで持ち寄った八冊の本。それを使って、有志の大人たちが〈 子どもブロック 〉で、隠密裏に学校を開校していたのだという。念の為に記すが、アウシュヴィッツでは本を所持することも閲覧することも厳禁だし、子どもに勉強を教えるなどもってのほか。見つかれば、それは死と直結する。

 その学校に於いて、図書係をかって出たのが、14歳のディタ・アドレロヴァだった。囚人服の内側に隠しポケットを作って本を運ぶ。監視の目をかい潜って本を貸し出す。大人たちは、地図帳を使って世界の地理を教え、ウェルズの『世界史概観』で、人類の歴史を語り聞かせる。ディタは、授業が終われば回収して秘密の隠し場所に戻す。はがれかけた表紙を縫い、破れたページを貼り合わせ、蔵書八冊の図書館を愛情たっぷりに管理する。そして一日の終わりが近づく頃、彼女は図書係の〝 役得 〟で、お気に入りの『兵士シュヴェイクの冒険』を一人でゆっくりめくりながら、辛い現実をしばし忘れる。


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 といった書き方をすると、「監禁されてはいるけれど、本の楽しさで乗り越えました」みたいな〝 ハートウォーミングな話 〟に思われるかも知れんが、ここはアウシュヴィッツである。ガス室から漏れ聞こえる悲鳴も餓死もチフスも投げ捨てられた遺体の山も、ディタたち少年少女は、毎日見て聞いて体験し続けているのだ。

 或る時、収容者たちを〈 まだ働ける者 〉と〈 もう役に立たない者 〉に選別する作業が行われた。〈 役に立たない 〉と判定されたら、言うまでもなくガス室送りである。ディタが仲良くしているマルギットという少女は、自身は〈 働ける組 〉に振り分けられたものの、母親と妹はダメだった。その時の様子を、マルギットはこう打ち明ける。《 あのね、ママも妹も微笑んでいたのよ! さよならって手を振りながら、微笑んでた。信じられる? 死刑を宣告されていたのににっこりと(中略)助かる可能性があるグループに私がいるのを喜んでくれていたのよ 》。

 そんな状況で読書。明日殺されるかも知れないのに学校。何の意味があるんだ? と思うのは僕だけではない筈だ。実際、ディタが一人の女性教師に食ってかかる場面もある。しかし、その女性教師は――恐らくはしゃがんでディタと目の高さを合わせるようにして――優しく、しかしキッパリと諭すのだ。《 戦争は永遠に続くわけじゃない。平和が来たときの準備もしなくちゃ。子どもたちはしっかり勉強しておかなければね。だって、廃墟になった国や世界を建て直すのはあなたたち若者なんだから 》と。『華氏451度』と同じように、ここにも武器を持たない勇者がいた。

 そうして1945年の春、何の前触れもなく収容所に自由と平和がもたらされる。連合軍がやって来て、昨日まで威張り散らしていた看守たちを連行して行く。《 三十一号棟の図書係ディタ・アドレロヴァは泣き始めた。この瞬間を見ることなく死んでいったすべての人たちのために涙を流す 》。ディタたちは、地獄から生還した。


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 解放の数日後、ディタが、イギリス人の兵士から本を貰う場面がある。兵士は、英語が理解できないディタを気遣って、拙いドイツ語で「その本は英語だよ」と告げるのだが、ディタは笑顔で応じた後、本の表紙を撫で回し、本の匂いを嗅ぐ。ページをめくって紙の音に耳をすます。「やっと自由に本が読めるようになった」というディタの歓びが行間から滲みだしてくる名場面で、仮に当時、電子書籍なるものがあったとしても、このシーンの温もりは紙の本でなければ伝わらないだろうな。だから紙の本を買ってくれ、と言いたい訳ではないのだが(笑)。

 自由に本を売り、買い、読めることの幸せをを噛みしめつつ、『アウシュヴィッツの図書係』を強く推したい。

 同じく、暴力から本を守った市民の実話だが、こちらはついこの間の出来事。『アルカイダから古文書を守った図書館員』はその名の通り、西部アフリカのマリ共和国で、イスラム過激派によるテロが吹き荒れた2013年、数百年間保管されてきた様々な古文書を、隠密裏に疎開させた市民たちのノンフィクション。

 西欧の知識層からは――ヘーゲルやカントでさえも――近代まで文字文化は存在しなかったと言われていた中西部アフリカで、代数や物理学に天文学、アリストテレスやプラトンの哲学、医学、薬学に至るまで、幅広いジャンルの書籍が11世紀には既に流布しており、16世紀には百を越える図書館や大学まで存在したという。それを世界に証明・紹介するために、各地に散っていた古文書を集めて蔵書37万冊の図書館を作ったのが、本書の主人公アブデル・カデルという図書館員。

 しかし、その古文書がイスラム過激派のテロと内戦によって、風前の灯となる。過激派たちは、自分たちの意に沿わないものを片っ端から「反イスラム的である」として、世の中から抹殺しようとやっきになる。


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 そんな訳で、過激派たちの目を盗んで古文書の大疎開作戦が展開される訳だが、何しろその数37万冊である。前述のディタのように、隠しポケットに忍ばせて、という訳にはとてもいかない。そこで登場するのが、名も無き大勢の一般市民たち。彼らは命の危険も顧みず、多くは無償で、古文書の移動、隠匿に協力する。一人一人が、今自分に出来る範囲で奔走する。

 物質的には日本ほど恵まれてはいない地域だけれど、僕らよりも――少なくとも僕個人よりも――遥かに〝 文化 〟を大切に考える人々の、小さな勇気の集合の物語だった。

 重い話が続いたので、最後は極め付けに能天気なヤツを。『バーナード嬢曰く。』は、どこかの高校の図書室を舞台にした、一風変わったギャグマンガ。登場するのは四人の男女。読書家キャラには憧れるが本を読むのは面倒臭いという町田さわ子。そんな町田を好奇心丸出しで観察する遠藤くん。その遠藤くんに密かに思いを寄せる図書委員の長谷川スミカ。そして、読まずにツウぶろうとする町田を激しく罵るSFマニアの神林しおり。

 この四人が毎日のように放課後の図書室にたむろして、読んで面白かった本つまらなかった本、今読んでる本これから読む本、いつか読みたい本読みたいのに挫折した本etcと、めちゃくちゃ気ままに語り尽くす。登場するのは、古典的名作から一昔前の流行本から芥川賞直木賞から本屋大賞から村上春樹からケータイ小説まで多岐様々。


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 その自由奔放さは「本の読み方に〝 絶対のルール 〟など無い!」と主張しているようでもあり、「本の面白さは十人十色。自分が面白ければそれでいい!」と語っているようでもあり、四人の書評や主張や感想や迷いに、共感しまくりながら全3巻を一気に読了。当駄文『読書日和』の読者なら、「あ、分かる分かる!」と膝を打つこと、一再ではない筈だ。例えば、神林しおりの以下のセリフ。《 本は読みたいと思った時に読まなくてはならない その機会を逃し「いつか読むリスト」に加えられた本は 時間をかけて「読まなくてもいいかもリスト」に移り やがて忘れてしまうのだ 》なんて、実に言い得て妙ではないか!

 更に。日常的に図書室にたむろするだけあって、彼らの書評がまた実に巧い。しつこく引用を続けると、海野十三「電気風呂の怪死事件」を、神林しおりが町田さわ子に紹介するセリフ。曰く《 銭湯の電気風呂で客が感電死するところから始まる短いミステリーなんだけど……すぐ読めて勢いがあって当時の銭湯の雰囲気も伝わってきて面白かったよ でもトリックとか雑でいろいろツッコミたくなるから人を選ぶかも 最後の最後でびっくりしたんだけど 》って、内容には殆ど触れてないのに、何だかものすごく面白そうに聞こえないか? 彼ら四人が実在するなら、是非とも『読書日和』に寄稿して貰いたいものである。

 そんな訳で、正直に白状しよう。面白い本を見つけたいなら、『読書日和』よりも『バーナード嬢曰く。』を読んだ方がいいかもしんない(笑)。それにしても、四巻いつまで待たせるんだ?



新刊案内
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まも無く文庫化
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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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2月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-02-02 10:07 | バックナンバー | Comments(0)