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19年07月



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夏休みの読書にむけて――文藝春秋営業部 川本悟士
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 7月というと、あと少しで夏休みという学生さんも多い時期でしょうか。梅雨もあけると空はモクモクとした入道雲であふれ、鮮やかな青空に思わず目を細めてしまうような季節。私自身はインドア派ですが、一方でその鮮やかなスカイブルーも好きだったので、学生時代は晴れた夏の日に友だちとどこかに行くとなると、それだけでちょっと楽しくなってしまう気持ちもわかります。

 そんな外に出たくて仕方がない時期に、まるで外に出ることを阻むように出ることが多いのが、読書感想文でしょうか(笑)。

 読書感想文。本の内容を半分まとめながら、自分の意見や立場を書く……大まかな構成は色々と言われますが、最大公約数をとるとこんな感じになるように思います。他人の話をまとめながら自分なりのメモを残すという作業は学生を終えても使われる能力ですが、読書感想文という作業となると、まとまった文量があるだけにそれよりも手間のかかる作業のような気がしますね。

 それだけに苦手というか、読書自体から距離をおいてしまいがちなときもあるのですが、今回はそんなときに「それでもまあ、本でも読んでみるか」と思えるような言葉から取り上げてみたいと思います。

 ショウペンハウエルという人の書いた本に『読書について』というそのものズバリのものがありますが、そこでの有名なフレーズに、読書とは他人にものを考えてもらうことである、というものがあります。他人がどんなものの考え方をしているのか、その人の視点からだと世の中はどんなふうに見えているのか。そういうものを得ることができ、その本に出会うまでとは違う自分になってしまう体験が、読書なのかもしれません。


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 私がそれを実感したのは、スポーツを取り上げた本でした。私はスポーツが単純に好きです。勝敗を楽しみ、チャンスになれば盛り上がり、得点が決まるとテンションが上ります。一方で、見方は人それぞれなわけで、何かしらの本をきっかけに、それまで見えなかった、ゲーム全体の景色が見えてくることもあります。

 たとえば、サッカーや野球を例にしてみましょう。

 突然ですが、サッカーのゲームとしての特徴は何だと思いますか? 私が中学生の頃に読んだ体育の教科書では、テニスのようなネットを挟んでやるネット系の球技、サッカーのようなゴールを目指したゴール系の球技、野球のような塁を進めていく球技と、大まかに3種類にわけて球技を紹介していました。

『砕かれたハリルホジッチ・プラン』によれば、この2つ目の、サッカーやバスケットのようなゴール型ボールゲームの特徴は、敵陣・自陣にそれぞれゴールが存在し、攻守の切り替えが行われながら得点を目指すスポーツ、とまとめられるといいます。同じようなスポーツにはバスケットやラグビーなんかがありますね。

 そのなかでもグラウンドの広さ・プレイヤーの人数を比べてみると、サッカーはとりわけ人数に対してカバーしなければならない範囲が広く、脚を使って一気にボールを移動させることが際立っています。それゆえに、サッカーの試合ではしばしば、その広いスペースをどうやって守り、そして攻めていくのか、というのが問題になる、と本は語ります。

 同じように、野球というスポーツの特徴は何でしょうか。 『セイバーメトリクスの落とし穴』では、野球を考える原点として、3アウトになるまでに塁を進むと得点できるイニングを9回繰り返す、すごろくやボードゲームの要素が強い競技、というものをおいています。できるだけアウトにならないようにしながら、できるだけランナーを1つでも次の塁に進めていくゲーム。


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 団体競技だけど個人競技でもある、という言葉でも表現されるスポーツですが、ストライクを投げ、打てる球を打ち、できるだけ再現性を高めてプレーを重ねながら、一方でその時々で出てくる色んな状況に対応して、アウトにならないように塁を狙っていくスポーツ、とまとめられるのかもしれません。

 本を読んでこんな見方に触れて以降、サッカーやバスケットを見るときにもボールをもった選手だけでなく全体のスペースの空き具合が気になるようになりましたし、野球を見ていても強いチームは色んな形でそつなくランナーを進めていることに目がいくようになりました。

「他人の頭で考える」ではありませんが、自分とは違う視点を持った人たちの本を読むことで見え方が変わった経験です。

 その意味で、読書はそれまでの自分とは違う自分になってしまう可能性のある作業です。それが必ずしもいいことかはわかりませんが、何かのときには頼ってみる価値のあるものだと、個人的には思います。

 私はいまでもこの言葉をどこか信じていて、先日子どもを生んだ友人が陣痛からのことを詳細に覚えているのをみて、男性にはわからないことだけに、それだけ自分の身体のことをよく覚えているものだろうか、と、本棚から出産・産後を綴ったエッセイ『きみは赤ちゃん』を手にとって読んでしまいました。本ってきっと、そんな関わり方でもいいんだと思います。

 別に、本は腰を据えて読まなくて構いません。もちろんどかっと気合を入れて読んで……という時間もあっていいですし、辞書のように必要なところだけ調べるように「ひく」という作業もできるにこしたことはありません。本との付き合い方は色々あってしかるべきだと思います。

 そうやって肩肘をはらずに見回せば、そのときにピンとくる本がきっとどこかに埋もれています。私にとって本屋さんは、そういうところです。



残る言葉、沁みるセリフ


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《 でもね、おじいさん。その時刻表がないと、バスがどれぐらい遅れているか分かりませんよ 》


 時刻通りに来ないバスに「こんな時刻表ならあっても無駄だ」と癇癪をおこすおじいさん。その連れ合いの老婦人が、のんびりと諭して言ったのが上記の言葉。こういう大らかな考え方をした方が、イライラと不満をぶつけるよりも、遥かに益になるんじゃないでしょうか。自分にとっても周りにとっても。





 カンヌ国際映画祭で賛否両論納得! 狂っているが魅力的な作品でした!

 とにかく残忍な殺人描写が続くので苦手な人にはオススメ出来ません。R18+なのも納得(汗)。主人公のジャックは強迫性障害のシリアルキラー。強迫性障害を身近な例で説明すると、家を出る際に鍵を締めて外出すると思いますが、少し時間が立って「あれ? 鍵締めたっけ?」と思うアレです。その症状を酷くしたのがこの主人公です。

 ジャックは建築家になる夢を持つ技師。納得のいく家を建てるため構想を考える最中、ある女性と出会い殺人鬼のスイッチが入ってしまいます。アートを創作するかのように殺人に没頭するジャック。5つのエピソードが語られるが、2つ目のエピソードがジャックの性格を上手く表現していて面白かった。

 あるおばさんの家を訪問し、警察ですとウソをつく。おばさんは怪しいと思い、警察手帳を見せてと言う。焦ったジャック、本当は保険屋ですとウソを上塗りする。すると、たまたま未亡人だったおばさんが興味を持ち、家に上げてしまう……。

 このシーン、見事にジャックの欲が理性を越えてしまっていて醜い。しかし運が良い事に家に上がることに成功し殺人を犯す。綺麗に血を拭き取り、死体を車に運び終えたその時、強迫性障害に悩まされます。家に戻り血痕がないか、チェックを3回程繰り返します。

 そうこうしていると、本物の警官が来て事情聴取されます。完全アウトだなぁと観ていると、運良くその場を免れます。とにかく運が良いこのエピソードは、ジャックの方向性を決める事になります。

 この作品、褒められたもんじゃないが、人生において運は付きものだなと感じさせてくれる。それだけで観た価値がある作品だなと思いました。哲学的な考えやセリフも面白かった!

 話は変わって、今年も上半期が終わりましたので、個人的ベストテンをどうぞ!

①THE GUILTY/ギルティ
②僕たちは希望という名の列車に乗った
③バーニング 劇場版
④ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
⑤グリーンブック
⑥岬の兄妹
⑦ハウス・ジャック・ビルト
⑧デイ アンド ナイト
⑨ある少年の告白
⑩天国でまた会おう

『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、あえて外しました。特別な作品です。



とにもかくにも藤沢周平――丸善津田沼店 沢田史郎

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 藤沢周平を初めて読んだのは、もう25、6年も前になる。新潮文庫の『竹光始末』。それまで時代小説など殆ど読んだ事がなかったのに、何がきっかけで手に取ったのか、今となっては忘れてしまった。ただ、文庫の表四(裏表紙)に《 世の片隅で生きる男たちの意地と度胸を、ユーモラスに、陰翳豊かに描く 》とあって、それに惹かれたのは覚えている。

 で、読んでみたら、まぁハマった。《 ユーモラス 》と言う割に暗い話も多かったが、ろくな予備知識も無かった僕があれだけ一気にのめり込んだのだから、多分、未経験者が尻ごみする程には、藤沢周平のハードルは高くない。いやむしろ、中途半端に近い昔を描いた現代小説よりも、江戸時代を舞台にしたものの方が、感情移入しやすいのではないか。

 と言うのも、ほんの30年ぐらい前までは、少なくとも僕ら平凡な一般庶民には、ケータイ電話もインターネットも全く無縁であった。にもかかわらず、その他の文化文明は今とそれほど変わらないから、当時を描いた小説を今の若い人たちが読んだ場合〝 世相風俗は今っぽいのにスマホもメールもLINEも無い 〟という状況を、想像しにくかったりしないだろうか。

 ならばいっそ、もっともっと大昔、車も電車も飛行機も無く、日本橋から京都の三条大橋まで2週間近くもかけて歩いていた時代の方が、全く体験したことが無いからこそ、文章が頭に沁み込みやすいような気がする。

 とまぁそんな訳で、藤沢周平である。

 時代小説初心者でも楽しめる作品は、短編にも長編にもあるのだが、最初は短編集の方が敷居が低いかと思う。となればやっぱり『竹光始末』がいいだろう。


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 表題作は、食うに困って刀まで売り払ってしまった武士の話。何故そんなにお金に困っているかと言うと、長い間、妻子ともども諸国を流浪しているから。何故、流浪しているかと言うと、仕える主がいないからで、何故いないかと言うと、例えば戦国時代ならば戦に負けて滅ぼされたり、或いは泰平の世であっても、何らかの理由で幕府の不興を買って取り潰しになったりして、仕えていた主家が瓦解することはしばしばあったようである。勿論、自分自身が何かやらかして馘になるケースもあったろう。

〈 浪人 〉と呼ばれたそのテの輩を、秀吉亡き後の豊臣勢が大量に大阪城に集めて対家康戦に備えたのは有名な話だし、殿様が切腹させられてお家断絶となった播州赤穂は浅野家の家臣たち、世に言う赤穂浪士は〈 浪人 〉の代表格だ。また、幕末に藩の束縛を嫌って脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎は、自ら望んで〈 浪人 〉になった物好き(?)な例。

 因みに、受験浪人や就職浪人という言葉の語源はこれ。今はどこにも籍は無く、でも所属出来る組織(=学校とか会社)を探している人たちを、いつの頃からかマスコミがそう呼んだのが始まり。

 閑話休題。つまりは本作の主人公・小黒丹十郎も仕えるべき主を失って、即ち今で言う失業状態で、自分を雇って扶持(=給料)をくれる殿様と巡り合うため、妻子ともども旅を続けてきた、という訳である。

 で、舞台となる〈 海坂藩 〉に辿り着いたところ、殿様に無礼を働いて家に立てこもっている不届き者を討ち取れば、褒美がわりに雇って貰えるとの約束を得た。チャンス到来! 剣の腕には少々覚えがある丹十郎である。首尾よくし遂げれば、時には日雇いの土木工事までやって食いつないできた5年間の苦労が報われる。

 ……だがしかし。最初に述べたように、丹十郎は、食うに困って刀を売ってしまっている。今、腰に差してあるのは、外見は立派でも鞘の中身は竹製のおもちゃである。無論、人どころか大根だって斬れやしない。さてどうする、丹十郎?

 といったストーリーは、正味40ページ程の短い話で入り組んだ背景も無いから、時代小説の入門書にはもってこいではないかと思う。


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 本書にはその他、気の強い妻の尻に敷かれているものの、剣の腕前は藩でも指折りという平藩士が、藩命で逃亡者を追う「恐妻の剣」や、博打が元で人生の危機に陥った若い職人が、ふとした出会いをきっかけに立ち直りの一歩を踏み出す「冬の終わりに」など、6編が収められている。

 それらは武士を主人公にした〈 武家もの 〉もあり、町人を描いた〈 市井もの 〉もあり、ハッピーエンドもあり、哀れな結末もありとバラエティに富んでいて、初読ならばまず結末の予想はつかないだろうから、飽きずにぐいぐい読み進められる筈で、その点でもやはり時代小説の入口に丁度いい。

 さて、『竹光始末』で初めて藤沢文学を味わった方々、感想は如何だろう? もし面白かったと思って貰えたなら、次に勧めたい作品は、好みによって幾つかに分かれる。

 まず〈 武家もの 〉が面白いと思った方には、是非とも『たそがれ清兵衛』を紹介したい。

 病身の妻の世話に忙殺され、仕事が終わるや否や毎日そそくさと帰宅する。居残り仕事はやらないし、酒の誘いも一切お断りという井口清兵衛が主人公。今で言う五時まで男の典型で、いつしか〝 たそがれ 〟などと陰で噂され、皆に軽んじられている。

 ところが実は清兵衛は、今でこそパッとしない暮らしぶりで皆の記憶からはこぼれ落ちてしまっているものの、青春時代には血の滲むような剣術修行を積んでおり、並ぶ者の無い腕前を誇っていた。

 そして、ある年の春。藩の危難に直面した重役たちが、清兵衛の剣名をはたと思い出す。「そうだ、清兵衛の腕なら抜かりなくやりおおせるのではあるまいか」という訳で、たそがれ清兵衛、一世一代の大勝負。藩の浮沈を左右する重要な役どころが回って来る。その帰趨や如何に……。


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 という「たそがれ清兵衛」を筆頭に、「うらなり与右衛門」「日和見与次郎」など、日頃の立ち居振る舞いや身なり風采から不名誉なあだ名を付けられた下級武士が、人知れずマスターしていた武芸の腕で、汚名返上を果たす全8編。読後感はどれもすっきりと爽快で、時代小説の楽しさを存分に味わえる一冊だ。

 そして、町人や農民を主人公にした〈 市井もの 〉の方が好みだという方には、何を措いても『橋ものがたり』を勧めたい。

 江戸は川と運河の町である。だから、そこかしこに橋がある。東海道の起点である日本橋を始めとして、江戸橋、水道橋、永代橋に吾妻橋、鍛冶橋、浅草橋、汐留橋に呉服橋と、今でも活用されていたり地名として残っていたりする有名どころだけでなく、隅田川と神田川を中心に網の目のように張り巡らされた運河には、それこそ数えきれないほどの橋が架かっていたそうだ。

 その〈 橋 〉を起点に描かれるのは、出会いと別れ、平凡な日常に一瞬立つさざ波、つましい暮らしに差し込んだ一条の光……etc。その文章たるや、奥行きのある言葉遣いと馥郁たる余韻で、江戸情緒とはこのことか! と膝を打ちたくなること必至。

《 幸助が、不意にそう思ったのは、川を照らしていた日射しが輝きを失い、西に傾いた日が雲とも靄ともつかない、分厚く濁ったものの中に入りこんで、赤茶けた色で空にぶらさがっているのを見たときだった。/時刻は間もなく七ツ半(午後五時)になろうとしていた。橋は鈍く光り、その上には相変わらず人通りがあった 》

《 いつの間にかうす暗くなっている店先に、おすみはしばらく黙って坐り続けた。かくまっているのは、れっきとした人殺しだった。(略)/そう思ったが、不思議なほど恐怖心は湧いて来なかった。行きどころなくこの家に閉じこめられている若者に、憐れみが募るようだった 》

《 一面に夕焼け空の下を、人が二人歩いている。一人は長身の男で、一人は子供だった。赤い、漂うように穏やかな光が二人を染めていた。夕日に染まっているのは、二人の人間だけではなかった。二人が歩いている長い土堤も、土堤の影が落ちかかる田圃もその影が切れる先から赤く日を浴び、遠くの村も夕焼けていた 》


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 例えば星の瞬き1つとっても、希望に胸を膨らませている人には幸せへの道しるべと映るだろうし、逆に不安で夜も眠れない時は凶兆にしか思えなかったりもするだろう。風景は、見る者の心次第で美しくも陰鬱にも変化するのだ。そういった心の揺れを文中にさりげなく忍ばせることで、藤沢周平は、その場の情景をまるで静止画のように読者の胸に焼き付ける。

 そして肝心のストーリーは、と言えば、個人的にはこの『橋ものがたり』は今風に言えば〈 神編集 〉。数ある藤沢周平の短編の中でも指折りの作品ばかりが惜しげも無く詰め込まれた、豪華絢爛威風堂々完全無欠面目躍如な短編集だと断言しよう。

 疑う人は、第1話「約束」だけでも、騙されたと思って読んでみて頂きたい。

 年季奉公が明けて、明日からは親方の家の居候ではなく、家からの通いで仕事が出来る。つまり職人の卵として、曲がりなりにも暮らしを立ててゆく目途がついた。その幸吉が、小名木川の萬年橋の上に立っている。5年前、年季が明けたらこの橋の上で会おうという、お蝶との約束を果たすためだ。

 しかし、約束の刻限を過ぎてもお蝶は現れない。

《 ――しかし、五年前の約束だ。お蝶がおぼえているとは限らないのだ 》

《 ――たとえおぼえていても、来ない場合だってある 》

 幸吉の心は揺れる。何度も「もう帰ってしまおうか」と思うものの、もう少しだけ、もう半時だけと踏ん切りをつけられない――。

 といった形で幕を開ける恋愛小説は、昨今のベッタリしたラブストーリーに慣れている人にとっては、湿度が低くて驚くかも知れない。だがすぐに、一見淡白に見える文章には、男女の心の〝 機微 〟といったものが実に細やかに描かれていることに気付くだろう。


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 話の中ほどで、橋の向うに漸く一人の女の影が差して、幸吉がハッとする場面がある。しかしそれはお蝶とは別人で、見知らぬ男が迎えに来ており、二人連れだって遠ざかる姿を、幸吉は茫然と見送るのだが、この時の幸吉の胸の内などは、恐らくは誰もが一度は味わったことがあるのではないか。

 こういった〝 機微 〟こそが、藤沢周平の真骨頂で、この短編集にはそれがギュッと凝縮されているのだ。

 毎朝夕、仕事の行き帰りに橋の上ですれ違う女性への、仄かな恋心に忠実に生きる不器用な職人を描いた「思い違い」。

 姉の不倫を子供心にも心配している僅か十歳の広次が、幼馴染の〝 恋 〟と呼ぶには幼すぎる優しさに支えられて前を向く「小さな橋で」。

 今にも川に身を投げるかに見えた女に、一声かけて自殺を思いとどまらせ、少しずつ親しくなったものの、何故か頑なに過去を隠そうとする。それでも一途に彼女を助ける若き職人の静かな強さを描いた「川霧」。

 どれもせいぜい40ページほどの掌編だから、読むのに苦労は無い筈だ。そして、その僅か四十ページには、僕らありふれた一般庶民の誰もが持つ様々な感情が溢れているのが、解って貰えるのではあるまいか。

 愛しい人の側にいたいという願い、束縛したいというエゴ、親が子にかける愛情、子が親を労わる心、人の幸せへのねたみや嫉妬、大切なものに気付いた幸福感、etc。

 例えばどんなに真面目で正直な人だって、ふと魔が差して卑劣な行動に走ることもあるだろうし、逆に神をも恐れぬ極悪人でも――芥川の『蜘蛛の糸』のカンダタのように――気まぐれに善行を施すこともあるだろう。

 即ち人間という種には、一点の曇りも無い混じりっ気無しの善人などいないし、全身全霊骨の髄からの極悪人というのもいなくって、僕らの心は善と悪のグラデーションで彩られている訳で、そのグラデーションの様々な濃淡が、過剰な演出を排した抑制の効いた筆致で、丁寧に描かれているのが藤沢周平の文学なのだ。


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 さぁ、ここまでの3作を読んだアナタはもう、藤沢周平のトリコである。次は何を読むべきか? ご安心めされよ。どれを読んでも、つまらないということはない。

 それでも強いてと請われたならば(請われてないけど)、『よろずや平四郎活人剣』『蟬しぐれ』を勧めよう。

 どちらも過去にこの項で紹介したことがあるので、今回は軽く済ませるが、まずは『よろずや平四郎』。

 さる旗本の妾腹の子、平四郎。妾腹だから家では冷遇されるし、当然、家督を継ぐことも叶わない。このまま飼い殺しのような生涯を送るぐらいならいっそ町に飛び出そうと、剣術仲間と3人で金を出し合って道場を開いた……筈だったのだが、その直前でトラブルによって金が無くなり、かと言って今更おめおめと実家に帰る訳にもいかず、進退極った平四郎。

 取り敢えずのねぐらと定めた裏長屋に《 よろずもめごと仲裁つかまつり候 》と看板を掲げた。即ち、喧嘩や探し物など、世のもめごとを解決して金を稼ごう思い立った訳だが、果たしてそんな怪しげな商売が成り立つのか……?

 といったストーリーは、件の剣術仲間の手も借りながら、チャンバラあり、推理あり、友情あり、恋もありのボンビー青春ストーリー。藤沢文学の中で、ユーモア度ではナンバーワン。

 そして最後は、泣く子も黙る、泣かない子は泣き出す、時代小説の金字塔『蟬しぐれ』。

 藩政に良からぬ陰謀を企てたとして父は切腹、家は僅かな捨扶持をあてがわれて、貧村に押し込められた牧文四郎。しかしそれは、藩上層部の権力闘争の巻き添えであったことが次第に明らかになり、更には、幼馴染までもが命を狙われる事態となって、文四郎は、一か八かの大勝負に打って出る。父の無念を晴らせるか、そして、仄かに想っていた幼馴染を守れるか……。


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 家柄にこだわらずに苦楽を共にした剣術仲間との友情。自分でもそうとは気付かない程の、淡い淡い恋心。尊敬する父親との絆。そして、子供から大人へと成長してゆく過程で失う何か。もう、青春小説のエッセンスが全て詰まった、20世紀の大傑作。これを読んでつまらないと言う輩とは、多分私は友だちにはなれないだろう(笑)。

 因みに、『蟬しぐれ』の舞台である〈 海坂藩 〉とは実在しない架空の藩で、藤沢周平の故郷山形県の庄内藩がモデルではないかと言われており、他の作品でも(冒頭に挙げた「竹光始末」でも)頻繁に登場する。はっきりと時代を明言していない作品が多いから、「今読んでるこの作品は、こないだ読んだあの作品の、30年後ぐらいかなぁ」などと想像しながら読むのも面白い。

 さてさて長くなったが、とにもかくにも藤沢周平。冒頭でも述べた通り、予備知識なんぞ無くったって心配はご無用である。

 例えば、ロードレースのルールが解らなくても近藤文恵の『サクリファイス』に夢中になった人は多いだろう。4×100メートルリレーを知らなくても佐藤多佳子の『一瞬の風になれ』に興奮を抑えきれなかった人もいるだろう。或いは、ピアノどころか楽譜さえ読めないのに恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を一気読みした人も多かろう。

 だから、日本史の点数が悪かったとか、時代背景に不案内だとかいう苦手意識はひとまず措いて、試しに1度、藤沢周平を読んでみて欲しい。そこには、歴史とか社会制度だとか経済だとか政治だとかに関わり無く、ただただ僕たちと同じように、毎日あくせくと働き、心配事を抱え、時にずる賢く、時に優しくなったりを繰り返し、僅かな事で傷ついたり喜んだりしながら毎日を懸命に生きる〈 人間 〉が、ひたすら描かれている事に気付くだろう。

《 いいかげん 損徳(ママ)もなし 五十年 》とは、江戸時代の川柳で、人生五十年と言われていた当時「実際に50年生きてみたら損した事と得した事と半分半分、足し引きゼロだったなぁ」ぐらいの意味だが、藤沢周平の作品を読むといつも、まぁそんなもんだよなと、ほどほどに辛くてほどほどに楽しくて、それぐらいが丁度いいんだよなと、〈 諦め 〉とは微妙に異なる穏やかな気持ちに、いつも決まって僕はなるのだ。



編集後記


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連載四コマ「本屋日和」


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7月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-07-12 11:01 | バックナンバー | Comments(0)

19年06月


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「医療」が医療にいたるまで――文藝春秋営業部 川本悟士

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 みなさん、そろそろ梅雨ですね!……爽やかにいえば気候がスッキリするかというとそういうわけではありませんが、そもそもみなさんはスッキリとした毎日をお過ごしですか? 結構五月病を引きずっていて……という人もいらっしゃるのではないでしょうか。

 五月病。ゴールデンウイーク直後というわけではありませんが、たしかに梅雨が近づいてくる頃になるとなんとも言えない体調不良がやってくる……なんて人も多いのではないでしょうか。気分の問題だと片付けられてしまいがちですが、実際のところ身体は重たいし具合は悪いし、文字通り「病」という文言をつけてしまいたくなる気分はよくわかります。

 実際、「病気」と一言に言っても、その範囲を定めるのは本当に難しいものです。これだけ医療が発達した現在でもうまいこと解決できないことはたくさんありますし、「なんか具合がわるいけど、病院に行っても『疲れですかね』とか、『ストレスですかね』、『もう年齢も重なっていますしね』なんて体のいい言葉を使われて、はっきりしないまま帰されてしまった」なんてことも、悲しいかな、日常茶飯事なんですよね。

 いってみれば、現在の医療として私たちの目に見えているものは多くの失敗や試行錯誤のうえに成り立っているわけで、今日をもってわからないことは多いし、いまわかっていることの背景には結構な悪戦苦闘や盛大な勘違いがあったわけです。そして、これからもその失敗を積み重ねていかないことには、そのフロンティアは開拓されていきません。

 とはいえ、もちろんそういったことはわかっているんですが、今から振り返ってみれば「それにしたってこれはないでしょう!」と言いたくなるような失敗の数々があるもので……。


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 というわけで、今回はジトジトした毎日を吹き飛ばすほどの大真面目な大失敗について、こんな本を手にとって見てはいかがでしょうか。

 リディア・ケイン&ネイト・リーダーセン『世にも危険な医療の世界史』は、今からすれば「インチキ療法」ともいえてしまう、かつての医療に存在した「残念な常識」を集めた一冊です。「生まれる時代が違ったら誰もが受けていたかもしれない『医療行為』がどんなものだったのか」ということについてまとめていった本ですね。

 せっかく具体例が豊富に出てくるので、では二つほど事例をピックアップしてみましょう。

 たとえば、あなたが子どもの夜泣きに悩まされているとします。夜泣きは今も昔も悩みの種ですね。解決すればいいなぁと思う親御さんたちも多いはず。百年前にその望みを叶えてくれたのは、モルヒネやアヘンの含まれた「治療薬」でした。「騒々しい子どもをドラッグで黙らせる」というとかなりヤバい字面ですが、古代エジプトの医学文書にも泣き止まない子どもにはケシとスズメバチの糞を混ぜ合わせたものを与えるべしとあったそうです。実に伝統的な治療方法だったんですね。ちなみにこの治療法には問題もあって、子どもを預かった乳母自身がアヘンに手を出して中毒になったりもしたそうです。問題ってそこかよ、という気がしないではないですが。

 また、仮にあなたが失恋のショックで落ち込んだとしましょう。いまだと定番は何でしょうか。友達と愚痴りながら一杯ひっかけにいくのも、馬鹿みたいにヤケ食いするのもいいかもしれません。ちなみに、もしこれが17世紀だったら、イチオシの方法は外科手術だそうです。外科手術。失恋のショックから立ち直るにしてはいかにもヤバそうですね。それもそのはず、「心不全になるまで血を抜き続ける」のだそうです。ただ、これは古代中国でも興奮状態が続いてしまう躁の状態にも対処法として用いられていたようで、「いくらか血を抜けば落ち着くだろう」という思考プロセスかと思われます。それは落ち着いていると言うより単に具合が悪くなっているだけのような気もしますが……。


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 こんな感じに事例が積み重なった本だけに、気になったところだけつまみ食いもできる本ですが、ざっと列挙してみても、強壮剤として金粉を飲み、美容のためにヒ素を食べ、頭痛の治療薬として水銀を飲んだ人たちは、現在の常識からすればかなりヤバいことをしているように思います。一方で、そのときどきの当人たちは本気で治そうと真面目に信じてやっていたのであって、そこには一種の真剣さがあり、それっぽい理屈や、効能らしきものがありました。

 私が気になったのは実はこの部分でして、この「何となくどうにかなっていそうなロジック」や「何だかきいているような感じがするという実感」というのがいってみれば曲者で、それがあったからこそ、どうにもならない具合の悪さに直面したときに、人々はそれを信じて没入できたのかもしれません。その構図自体は、実は現代でも容易に当てはまることでしょう。

「色んな状況のなかで、いまはひとまず何の気なしに常識だと思っており、しかもそれが普通に通じているものの、何かのきっかけに常識ではないものとして分類されるようになり、その瞬間にこれまでが急に古びて見えてしまう」という感触。

 こう広げてしまえば、それは医療に限られた話ではありません。ゲラゲラと笑ってスッキリしたあとに、どこか妙に頭の冴えるような感覚が残る……。まさに湿気の多い季節にピッタリの一冊かもしれませんね。



新刊案内

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永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『アベンジャーズ/エンドゲーム』

 終わってしまった……。この作品を観るために、2019年は存在していたと言っても過言ではない! 素晴らしい終わり方でした!

 MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)は、『アイアンマン』から始まって11年間で22作品……長いシリーズでした。長い筈なのに短くも感じる面白い作品の数々でした。

 今作は、『インフィニティ・ウォー』で最狂の敵サノスに全生命体を半分にされた後の世界から始まります。絶望的な状況です。残されたアベンジャーズの面々はどうするのか? もちろんサノスを倒しに行きます。

 ここで、最狂の敵サノスを知らない人の為に紹介します。単純に腕っぷしが強い! のは勿論だが、一番厄介なのが〝 独善者 〟という点。自らの世界征服の為ではなく、全宇宙の為に行動していて、目的の為なら犠牲は問わないと思っている事です。独りよがりで明らかに狂った考えの敵です。ここから少しネタバレになってしまうのを許してほしい……なぜなら、あっさりサノスを倒してからこの作品の本当の物語が始まるからです。

 まず、なぜサノスはあっさり倒されてしまうのか? サノスの人物像を考えてみると簡単な事です。既にサノスは、自分の計画を終えていて、戦意を持ってないからです。サノスのゴール(勝利)は〝 全生命体を半分にする事 〟なので、もう終えているのです。その証拠に、作品の中で老後の生活を始めているではないですか(笑)。土いじりしてるサノスに可愛さを感じたのは私だけではないはず!

 そんな事はどうでも良くて、本来の目的は、失った仲間・家族を取り戻す事。それには、サノスが奪い取って使用した六つのインフィニティ・ストーンを奪い返す事。しかし、既にサノスは持っておらず消滅させた模様。元に戻せないと知り、残されたアベンジャーズは再び絶望します。怒り狂ったソーがサノスの首を取り、物語は一旦暗転します。そう、ここからです! ここから壮大な奇跡のような感動物語が始まるのです!

 5年後。絶望を感じながらも少しづつ現実と向き合い始めた世界。あの男が姿を現します! アントマンです。量子の世界から奇跡的に帰還した男は、自分の経験を元に驚きの提案をします。タイムトラベルです。この夢みたいな提案を形に出来ちゃうのがアイアンマン。急速に物語が動き始めます!

「タイムトラベルずりぃ~」と思われている方がいると思う。私も思った! しかーし、予想は遥かに超えて11年間全作品観てくれてありがとう物語が幕を開けます!

 2回観終わった今(潤沢な資金があれば後3回観たい)、この作品のシリーズに携わった全ての人に言いたい……3,000回愛してる!



視野狭窄という魔法――丸善津田沼店 沢田史郎

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 以前この項で(2017年12月号)、《 後ろ向きにしか生きられないネガティブな人物を描かせたら、奥田亜希子が断トツだろう 》と書いたことがある。今回、14か月ぶりの新刊『魔法がとけたあとも』と併せて過去の作品も久し振りに読み返してみたら、ネガティブなのは相変わらずなんだが、それ以上に、彼や彼女たちの視野狭窄の方が強く心に焼き付いた。

 デビュー作の『左目に映る星』では、主人公の早季子は幼い頃の体験が元で、自分と価値観が重なる人はこの世にいないと、諦めにも似た思い込みに捉われて生きている。故に、恋愛などは自分には無縁だと決め付けていて、誰かに本気で交際を申し込まれると、《 特定の人の恋人になるようには、性格ができていないみたい 》などと嘯いてはぐらかす。そのくせ、合コンで知り合った行きずりの相手と、一夜限りの情事を楽しんだりして、その生き方はルーズと言うか嗜虐的と言うか、まだ26歳なのに随分と投げやりで危なっかしい。

 2作目の『透明人間は204号室の夢を見る』の実緒はもっと極端だ。子供の頃から意思表示が不器用で、あからさまなイジメは受けなかったものの、いわゆる〝 変な奴 〟として遠巻きに敬遠されるような十代を過ごしてきた結果、《 自分なんかに関われば、相手の素晴らしい性質はきっとマイナスに傾き、損なわれてしまうだろう 》とまで自分を否定するようになる。

 高校生の頃に出版社の新人賞を受賞して華やかにデビューしたものの、2年も保たずに書けなくなり、デビューから6年が経った今では、《 書けない作家は作家ではない 》と、自身の存在意義すら疑い始めている。


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 3作目の『ファミリー・レス』は短編集だ。挙式直前に結婚が破談になり、以来、実家でダラダラと真昼間から酒ばかり飲んでいる……という亜砂が主人公を務めるのは、最終話「アオシは世界を選べない」。婚約破棄は相手の浮気が原因で、誰が考えても亜砂に非が無いのは明らかなのに、《 でも、私が悪かったような気もする。彼の優しさに、ものすごくつけいっていたんだよね 》などと自分を責めながら、じめじめとした毎日を送っている。

 6編を収録した短編集、4作目の『五つ星をつけてよ』からは、表題作を紹介したい。

 42歳バツイチの恵美は、どんな些細なことでも自分一人では決められない。成人する頃までは着るものから受験する高校、大学まで、母親の勧めを素直に受け入れた。長じてからは、もっぱらネットの口コミが頼みの綱。買い物からその日の献立まで、ネットでの評価を確認しないと行動できない。

 そして今、母親の介護をゆだねているホームヘルパーの不穏な噂を耳にして、恵美の心は大揺れに揺れる。それまでは何とも思わなかったような日々の些細な出来事が、噂を耳にしてからはいちいち虐待の兆候であるかのような気がしてくる。頼みのネットも、片田舎の小さな事業所のたった一人のホームヘルパーの優劣までは、さすがに網羅してはいない。このまま母親を託し続けていいのか、それとも別のヘルパーに切り替えるべきなのか、答えを出せないまま、恵美は悶々と悩み続ける。


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 5作目『リバース&リバース』では、ティーンズ雑誌の編集部で読者の相談コーナーを担当する菊池禄が、読者からの手紙が激減していることに密かに傷ついている。同時に、かつて恋人に言われた「もっと面白い人かと思ってた」という言葉がフラッシュバックして、担当するページもろとも、読者から〝 つまらない 〟とそっぽを向かれたかのような寄る辺なさに苛まれている。

〝 つまらない 〟ことは罪ではない。けれど、誰かの役に立つこともない。そんな自分の価値は、果たしてどこにあるのだろう……。

 6作目『青春のジョーカー』の島田基哉は、中学3年生。学校生活での最優先事項は、クラスで嘲笑の的にならない事という、典型的なマイナー系。ロバがどんなに頑張ってもサラブレッドにはなれないように、自分はひのき舞台に立つことも、スポットライトを浴びることも、一度も無いまま大人になってしまうのではないかと、焦りと不安を募らせている。そうしていつの頃からか、彼は、世の中を強弱の二元論で見るようになってゆく。

《 自分は総理大臣にも俳優にもなれない。それと同じで、クラスの人気者になることも、異性から好かれることもない。おそらくは、強者の影に怯えて一生を過ごす 》 《 本当に魅力的なものはすべて強者の世界にあり、自分は所詮、貧しく惨めな場所で、かろうじて喜びを見出しているに過ぎないのではないか 》

 だからこそ強者の側に行けさえすれば、鬱々とした毎日が一変するに違いないと、身分の飛躍を夢に見る。

 といった調子で、どの作品の主人公たちも己を信じていないこと甚だしい。ちょっと周りを見渡せば、自分を必要としてくれる人や寄って立てる場所が見つかる筈なのに、過去の失敗から帰納して「私なんかには無理だ」と、端から可能性を排除してしまう。独り善がりならぬ〝 独り悪がり 〟とでも言うべき精神の金縛り状態は、奥田作品ではもはや定番と言っていい。

 しかし、である。ひょんなことから、彼または彼女たちは、その金縛りをふりほどく。


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『左目に映る星』の早季子は、アイドルのおっかけに全精力を傾ける青年と知り合うことで、価値観が違う者同士が理解を深めてゆく過程を初めて体験する。そして一人、胸の内で宣誓する。

《 でも、伝わらなかったならば、また言えばいい。いつだってどこでだって、何度だって言えばいいのだ。通じたという勘違いが得られるそのときまで 》

『透明人間は204号室の夢を見る』の実緒のコミュ障は、結局いつまで経っても改善しない。けれども彼女は、大事だと思い込んでいたものが全て崩れ去った後に、書きっ放しで放り出していたたくさんの原稿を思い出す。そして、自分には文章という表現手段があることを確信する。丸腰ではなく、自分にも武器があることを実感する。

《 私には小説しかない、のではない。私は小説を書く。読んで欲しい人は、いつだって私の中にいる 》

「アオシは世界を選べない」の亜砂は、たまたま知り合った青年と、将来の夢について語るうちに、自身の選択が正解だったのか間違いだったのか、それを決めることが出来るのは世界中で自分だけだと諭される。

《 自分で選んだものには、もうそれだけで意味がある。それこそ瞬きくらいに些細なことでも、決して無価値じゃない。なにも選ばずに生きていくことは絶対にできないから、だったらせめてそうあって欲しいなって 》

「五つ星をつけてよ」の恵美は、根拠薄弱な噂に振り回されるうちに、とうとう全てを信じられなくなってしまう。しかしそのギリギリの状態で脳裏に浮かんできたのは、契約しているホームヘルパーの朗らかな心遣いだった。《 あの弾けんばかりの笑顔が嘘だったとは、とても思えない 》と己の気持ちを確かめ得た次の瞬間、何かに頼らなければ決断できない自分に別れを告げる。

《 随分長いあいだ、自分を照らしてくれる光ばかり求めていた。しかし、暗闇を進む方法はほかにもある 》


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 自分の記事ばかりか自分自身についてまで存在価値を見失っていた、『リバース&リバース』の菊池禄。しかし、彼の文章は、彼の知らないところでそれを必要とする誰かに、しっかりと届いていた。《 でも、いつか君もきっと、誰かから否定されるときがくるよ。人は、否定する側にだけい続けることはできません。価値観や考え方が人それぞれだというのは、そういうことのように思います 》という、かつて読者に向けて書いた文章が、今になって自分の胸に深々と刺さる。

 否定する側にだけい続けることができないなら、逆に、否定され続けるだけの人生というのも無いのではないか。自分が励ましたつもりでいたかつての読者に、逆にそう教えられて確信する。そして、自信を持って宣言する。

《 取り柄のない人間に価値がないなんてこと、絶対にない 》

 どうにかして強者の側に所属したいと歯噛みするような思いでいた、『青春のジョーカー』の基哉はしかし、いざ強者のグループに入ってみると、〈 強さ 〉というものの本質を見誤っていたことに、おぼろげながらも気付いてゆく。強さを誇示する為に標的をいたぶる〝 強者 〟たち。そんな強者たちにいいように利用されながらも、常に基哉にだけは優しかった兄。或いは、強者たちから白眼視されながらも、卑屈になることなく胸を張る二葉。彼らに囲まれながら基哉は、本当の〈 強さ 〉とは、弱者の上に君臨することではないと悟ってゆく。

《 大丈夫だから。声には出さず、基哉は小さくかぶりを振ってみせた。偽物のジョーカーで、裏技で、向う側に行こうとしたことが、そもそもの間違いだったのだ。気分は不思議と明るかった 》

基哉は、せっかく加盟できた〝 強者 〟のグループに、自ら背を向ける。

 過去6作を駆け足で振り返ってみたが、さて、どうだろう?


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 例えば、雨の中、傘をさして歩いている。前も周りも見ずに、ただ足元だけを見つめている。嫌な雨だと思いながらも、自分にはどうしようもないと諦めて歩を進める。

 ところが、ふとした拍子に――垂れてきた前髪を掻き上げるためか、飛んできた虫を払おうとしてか――顔を上げると、周りの人はみんな傘を畳んで手にぶら下げている。あれっ? と思ってそっと傘を下ろすと、向うには雲の切れ間から薄陽も差している。なんだ、雨やんでたのか(笑)。

 そんなちっぽけな発見で、見えていた景色がガラリと変わる。まるでミステリーのどんでん返しのような視野の転回こそが、奥田亜希子の十八番ではないだろうか。

 ならば、久し振りの新刊『魔法がとけたあとも』はどうだろう? 収められた5編の短編に共通するのは、身体の変化。妊娠、腫瘍、ホクロ、白髪、顔の傷、etc。それらをきっかけにして、生活の一部が微妙にズレる。その違和感をそれぞれの目線でスケッチしていくような五つの物語。

 そしてやはり、視野を狭めて自らを息苦しい環境に追い込むかのような、そんな生き方を誰もが選んでしまっている。

 例えば第3話「君の線、僕の点」の主人公、晴希は、鼻の付け根にあるホクロに、幼い頃からコンプレックスを抱いてきた。ホクロを見られるのが嫌で、人と話す時きちんと相手と目を合わせらなかった。そのせいかどうか、幼少期からずっと、休日を一緒に過ごせる友人がいたことはないし、会社の昼休みに一緒に食事をする相手すら見つけられない。

 これは読者としての勝手な想像だが、恐らく晴希は、「このホクロさえ無ければ」と何度も思ったことだろう。或いは「このホクロのせいで」と恨んだりもしただろう。ことによると、「このホクロがあるから」と、ホクロを言い訳に使ったこともあったかも知れない。


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 晴希の場合はホクロだが、第1話「理想のいれもの」の志摩の場合は、妊娠だった。待望の第一子ではあるものの、妊娠が判明して以降、どんな場合でも〝 妊婦の志摩 〟という枠の中からはみ出すことができずに苛立ちを募らせる。

 第4話「彼方のアイドル」の敦子の場合は、自身の白髪と息子の髭だった。白髪によって突きつけられた老い。髭によって暗示される息子の親離れ。それらを肯定できずにただ苛立ち、焦り、うろたえる。

 やはり今回も、である。どの短編の主人公たちも、悩みや憂い、或いはコンプレックスを顕微鏡で眺めるが如くにクローズアップして、当然の帰結として周囲の風景はまるで目に入らずに、狭い視野の中で身を縮こまらせている。それはあたかも、悪い魔女によって〈 視野狭窄 〉という魔法にかけられたかのように僕には見える。その魔法にかかったが最後、自分を肯定する材料を見つけられずに、じわじわと自分を嫌いになってゆく。

 だがしかし、だ。奥田亜希子は、その魔法を解く鍵も、ちゃんと彼らに与えている。それを詳述してしまうとネタバレになるので控えるが、悪い魔法にかけられて自分を否定していた老若男女が、ちょっとした鍵――それは例えば夫の大らかさだったり、幼馴染の涙だったり、或いは20年間追いかけていたアイドルの一言だったりと、当人以外には意味を持たない瑣末な事柄――を見つけて、自分にかけられていた魔法を振りほどく。そこに至るまでの七転び八起きこそが、この短編集の読みどころではなかろうか。

 更に、である。魔法にかけられる前には輝いていた。それが魔法で色彩を失った。けれど魔法が解けた時、それは再び光を取り戻した。そんな何物かをも、仄めかすようにして暗示しているのがこの短編集だと思うのだ。つまり、である。〝 魔法がとけたあとも 〟それぞれの胸の中で輝き続けるものこそが、『魔法がとけたあとも』を貫通する一番のテーマではないか。

〈 視野狭窄 〉という魔法。それによる〈 自己否定 〉。そして、視野の転換とそれまでとは違う方向に踏み出す新しい一歩。そういうものを描くことで、僕らを控えめに励ましてくれている作家。それが、奥田亜希子だと結論しつつ、全ての作品を自信を持って勧めたい。



残 る 言 葉 、 沁 み る セ リ フ

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「知っておいてほしいことがある。君は私を独占できない。みんなと分かち合わなくちゃならないんだ」
「みんなって?」
「私の生徒たちだ」


 東ドイツのとある高校教師が、妻となる女性に贈ったプロポーズの言葉。こういう先生に導かれた生徒たちは、幸せだったんじゃなかろうか。因みにその生徒たちが1956年の冬、自由を求めて西ドイツに亡命した時も、この先生は次のような言葉で応援している。《 私が若かったら同じことをしただろう。一致団結し、熱狂して何かをするのは、若者の特権だ 》。




編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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6月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-06-06 23:19 | バックナンバー | Comments(0)

19年05月

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年号のコード進行――文藝春秋営業部 川本悟士

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 大学の頃からの癖ですが、何か原稿を書くことになると、近くの本屋さんを見て回ります。理想では「あ! これでいこう!」とすぐにアイディアが浮かび、手にとった本をスススっと読んで、さらさらと書き出せるのですが、現実はどうもそうはいきません。入ってすぐの平台に置かれている本を見ては「あ、こんな本出てたんだ!」「え、こんな本あるんだ!」と立ち止まってしまってしまいますし、棚の前でも「『聞く力』が売れてたときには一緒に買った『聞き出す力』も熱心に読んでいる学生だったなぁ』と妙に昔を思い出してしまいます。

 ちゃぶ台を返すようなことを言ってしまえば、そもそも本が沢山あるのがよくありません。誘惑に負けてまったく関係のない趣味のものを買ってしまうこともしばしば。花より男子……もとい、花より団子を人生の指針とする私としては、先月はお花見にかこつけていろいろと散財をしてしまったところ。誘惑に負ける前に出なければ……と思っているうちに、気がつけばレジの前に。今月も誘惑に負けてしまった私は、社内の棚を覗くことにしました。

 とはいえそこは出版社。資料室に行けば色んな本があります。テーマがないことにはなかなか絞りきれません。五月にふさわしいもの……5月にふさわしいもの……。うわ言のように漂っていると、こんな本を見つけました。『元号――年号から読み解く日本史』。今回はこの1冊を手にとってみることにします。

 10連休を前に観光ガイドに目移りしながら渋滞予想にめまいがする思いですが、みなさんはどう過ごされたでしょうか。そして、ゴールデンウイークといえば、そろそろ年号が変わって令和になった頃合いですね。個人的には初めて目の当たりにする改元だったので、テレビではヘリコプターで黒塗りの車を追いかける映像が流れたり、インターネット上で誰もいない会見場の様子が中継され続けていたりと、『踊る大○査線』的というか、平凡な言葉ですが映画を見ているような現実感のなさが印象的な四月一日でした。


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 そんな盛り上がりを見せた新年号発表ですが、そもそも年号は古代中国ではじまったものです。日本に伝わってきたのは大体6世紀頃までのこと。日本以外でも周辺地域で使われていたもののようなので、広い意味では「漢字文化」の流れのなかにあるものといってよさそうです。

 日本で初めて公的な年号は「大化の改新」で馴染みのある「大化」ですが、この当時はまだ中国からの影響が強く、周辺諸国も「中華の年号」をそのまま使用するように強制される可能性もあったので、あまり実用例は見つからないようです。一気に変わったのが「大宝」のとき。その頃に出たのが「大宝律令」です。この頃、書類や文書には年次を記すときに年号を用いるように、と決まったんですね。

 こう見ていくと、年号は天皇制と距離の近い時間のはかり方なので、じゃあ徳川家の政治制度だった時代はどうだったのでしょうか。そう思ってページを進めると、どうも改元に伴う「事前調整」があったようです。「年号勘者から提出された年号案を、朝廷内である程度絞り込んだ後、幕府に送って事前に意見を求めることにした」(169頁)というくだりは家康の頃の話とは思えないデジャヴ感が……。

 幕府と朝廷が双方の立場を出しながら折り合わせていくということは、昔の人も色々と現場の人は気を使ったんだろうかなぁ、なんてサラリーマン的な思考に花が咲きます。


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 そんな妄想はさておき、基本的にはこの「朝廷内で年号案を絞り込んで、幕府に提示していく」というフォーマットが幕末まで続いていきますが、幕府の力が弱まっていくと段々とその形式にも変化が現れてきます。「安政の大獄」の「安政」では孝明天皇自身の関与や意向が強く働くようになり、江戸幕府時代最後の年号「慶応」のときにはついに幕府は朝廷に丸投げします。

 そして「明治」の時代になり「明治維新」で幕府側から朝廷側に政治の主人公がうつると、改革のなかで「ひとりの天皇にひとつの年号」という今の形が公式のものとなり、「大正デモクラシー」にうつっていく「大正」の頃には、政府が年号決定の渦のなかに入っていきます。この頃になると、江戸時代以上に今と似たような感触になってきますね。

 こう振り返ってみると、歴史の授業で聞いたワードが確かに年号と結びついているような気がします。決定プロセスを見ていくとより一層そうですが、年号によって天皇という存在が歴史のなかで際立ち、そのときの政治状況、現場の息遣い、そして、脈々と続いてきた人々の時間の流れがあらわになります。

 それは、特に日本という範囲に限られた話ではありません。古代中国の影響ではじまった年号という単位が、日本などの周辺諸国で使われるようになり、中国の古典をベースに積み上げられてきました。それこそ今回は『万葉集』という国書が出典で……と出ていますが、「元ネタの元ネタ」に中国の古典があることは、報道でもいわれています。

 もっといえば、それこそあの「初春の令月にして……」というくだりも、花を見ながらの歌会、いわば今にも続く花見的な東アジアの文化的文脈にのっているような気がします。

 大陸を中心に生まれたものが、それをベースに周辺に響き合い、編曲された形で戻ってきては重奏的に呼応していく……。それが必ずしも〝 Beautiful Harmony 〟かは別にして、結局、私たちはそのような、ある種の「コード進行」の上で踊っているのかもしれません。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 二杯目以降は発泡酒。酔ったら酒は皆一緒 》

『新小岩パラダイス』又井健太

 貧乏人ばかりが肩寄せ合って暮らす、新小岩のシェアハウス。そこの住人規約の一つが上記。「発泡酒しか飲めないよ(泣)」と〝 持っていないこと 〟を嘆くのではなく、持っているもので如何に幸せを掴むかを考える、〈 前向きな諦め 〉とでも言うべき陽気さがいい。因みにこの規約、最期の一つは《 来る者拒まず、去る者追わず。ここは地球の停留所 》。身近な幸せを大切にしたくなる本です。



ラストに驚ける話いくつか――丸善津田沼店 沢田史郎

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 中垣拓也は、25歳の新進気鋭の弁護士。或る日、耳に飛び込んできたのは、国民的人気を誇るプロ野球監督の殺害事件。その容疑者として逮捕された宇土健太郎は、かつて共に甲子園を目指したチームメイトだった。依頼を受けた中垣は、躊躇うことなく彼の弁護を引き受ける。

 が、警察の捜査では既に凶器も目撃者も見つかっており、更には、複数の関係者の証言から、宇土には動機もあったとされる絶体絶命。

 果たして中垣は、旧友の無実を証明出来るのか? といった筋立ての、措く能わざるミステリー。

 ……ではあるのだが、この作品、実はもう一つ、青春小説としてのストーリーも併せ持っている。 即ち、中垣がまだ坊主頭の高校球児だった頃。チームのエースだった宇土がその才能を開花させ始めたことで、無名の公立高校にとって絵空事でしかなかった甲子園が、俄かに真実味を帯びてくる。そして今から7年前の夏、中垣たち長崎県立島原北高校野球部は、夢と現実を繋ぐ道程を、じりじりと進み始める。

 という訳で、凶器、目撃者、動機と三拍子揃った崖っぷちの被告人の、無実を如何にして証明するかというリーガルサスペンス。そして、ヘボ野球部の奇跡の快進撃という主旋律に、恋や友情を絡めた青春小説。二つの全く異なるストーリーを交互に読み進んだ末に、実はそれが、巧妙に織り上げられた一枚の生地の裏表だったことを明かされて、僕ら読者は「そういうことだったのか!」と思わず膝を打つ。それが、佐藤青南の『ジャッジメント』だ。

 この作品の何が凄いって、中垣たちが高校生だった頃の描写と、彼らが大人になってそれぞれが社会人として日々を送っている現在の様子と、そのどちらもが、それだけで独立した一遍の小説になり得るクオリティである点だろう。そのクオリティを支えているのが、微に入り細をうがった人物の内面描写、心理描写であるのは間違いない。


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 マスコミの無責任な報道に影響されて、宇土を100%は信じきれない中垣の、自分自身への不安と苛立ち。宇土が、弁護人である自分に隠し事をしていたと知った時の憤り。そして、次の瞬間訪れた悔恨。

《 だが現在の宇土は、紛れもなく被告人だ。身体の自由を奪われ、罪を否認しながらも信用してもらえず、二度と妻のもとに戻れないのではないかと怯える夜を過ごす、弱い立場の人間だ。(略)被告人の信頼を勝ち取るのは、弁護人の仕事だ。義務と言い換えてもいい。友人であることに甘えて、それを怠っていたのかもしれない 》

 こういった胸中の吐露は、高校時代パートでも周密だ。チームの調子が上がらずに思わぬ敗戦を喫したロッカールームでは、宇土と他のチームメイトとの温度差が露呈する。このままチームは空中分解かと、それぞれが不安を抱えていたそんな時期、宇土の母親が重い病気で入院していることが漏れ伝わる。

《 でもな……それでも、おまえ一人で野球はできんとぞ。(略)病気のおふくろさんば勇気づけるための戦いに、おれたちも加勢させてくれんか 》

 そして再び、現代のパート。孤軍奮闘する中垣の電話に、「おい中垣!」と、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。

《 水臭いやないか! 》《 おまえと宇土と塚田が困っとるとに、助けんわけにはいかんやろうが 》

 実は宇土は、高校最後の試合の後に、中垣たちに一方的に絶交を宣言している。しかし今は非常事態。高校の頃は高校の頃としてひとまず脇へ措いておいて、島原北高ナインは宇土の為にひと肌脱ごうと久し振りに集結する。

 ならば7年前、彼らはどうして袂を分かったのか? その謎は、現在の裁判の進捗とともに徐々に明らかにされてゆくので、そういった意味で本作品は、法廷サスペンスと青春小説が交互に入れ替わりながら、そのどちらにもミステリーとしての要素を含むという凝った作りになっていて、しかもその両方が最終的には一か所にきれいに収斂するのみならず、読者の視界を涙で滲ませるのだから、もはや曲芸と言っていいのではないか。


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 野球というスポーツを背景に描かれる小説ではあるが、「アウト」「セーフ」「ストライク」「三振」ぐらいの言葉を知っていれば、野球の細かいルールなど分からなくても存分に楽しめる筈。スポーツものをつい敬遠してしまう人にも、無理矢理にでも薦めたい作品だ。

 お次は、もう少しお気軽なミステリー。ってか、もしかしたらミステリーに分類するのは間違いなのかな? 集英社文庫編集部謹製『短編少年』はその名の通り、少年を描いた短編小説が全部で9つ。どんでん返しというほど派手ではなく、謎解きと呼ぶほどの凝った仕掛けも無いけれど、どれもが最後に「あっ」と思わせる結末で、ちょっと癖になる面白さ。

 居並ぶのは伊坂幸太郎、あさのあつこ、佐川光春、朝井リョウ、柳広司、奥田英朗、山崎ナオコーラ、小川糸、石田衣良という9人。

 個人的な印象では、全編を通してトーンが統一されていると言うか、読み味が近いので、お好みの作家が一人か二人いれば、未知の作家の作品もきっと楽しめるのではないかと思う。

 中でもとりわけ印象深かった作品を、幾つかを紹介してみよう。

 あさのあつこの「下野原光一くんについて」は、大学生の円藤季美が、小中学時代を一緒に過ごした下野原光一くんとの思い出を振り返る。

 特別にカッコイイ訳でもない、クラス中の笑いを取るような人気者でもない、だけど5年生の時に一緒に飼育委員になって、ふとしたことから意識するようになったら、それまで何とも感じていなかった例えば声や笑顔やちょっとしたしぐさが、なんだか妙に気になって、無意識の内に光一くんのことばかり考えている……。


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 向こうは、ただの友達としか思っていないだろう。告白する勇気はない。けど、諦める踏ん切りもつかない。だから、ふとした偶然で――例えば、忘れ物を取りに戻った放課後の校舎で――光一くんと二人っきりで話が出来た時のことは、それがとりとめのない雑談であっても、季美の中では、大事にしまっておきたい思い出になる。

 甘過ぎず、淡白過ぎず、絶妙な糖度で描かれるそんな片思いには、初恋ものにありがちなべたつきが無く、恋愛小説が苦手な人も素直に感情移入出来るのではないか。

 佐川光春の「四本のラケット」は、中学校のテニス部で、イジメが始まろうとする気配を敏感に察知した主人公が、イジメる側につくか、それとも巻き添えを覚悟してイジメられる側の味方をするか悩み続ける。終盤、主人公の予想外の機転に、拍手喝采を送りたくなるのは、僕だけではないだろう。

 朝井リョウの「ひからない蛍」は、福祉施設に預けられた小学3年生の太輔の目線。事情あってともに暮らす子供たちの、幼い思い遣りが読む者の涙腺を刺激する。

 太輔は、どうやら虐待らしき環境から保護されたらしいと想像はつくものの、子供視点であるが故に、それ以上の詳細は語られない。描かれるのは、寂しさを懸命に抑え込もうとする太輔の、幼い意地とプライド。

 とは言え、所詮は8歳の子供である。意地にもプライドにも限度がある。太輔が遂に悲しみに押し流されそうになった、まさにその時、施設の子供たちによって彼は、自分が独りぼっちではないという温かさに包まれる。

 読後は、若くして人生の苦渋を味わうことになった少年少女に、どうか幸あれと願わずにはいられない。

 その他、自転車に乗れない小学2年生の男の子と、母親を亡くした従妹の交流を描いた、奥田英朗「夏のアルバム」や、女手一つで自分を育ててくれた母親の、第二の人生の門出に精一杯のエールを贈る中学生、小川糸「僕の太陽」など、短いのに胸に深い余韻を刻む名編ぞろい。読んだ者同士で読後感を語り合っても盛り上がりそう。

 集英社文庫の『短編』シリーズは他に、『短編復活』『~少女』『~学校』などなど、全部で8つも出ているから、読むものに困った時にページをめくってみれば、意外な出会いがあると思う。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『ある少年の告白』

 本質的な感情を否定される恐怖。実際にある矯正施設を描いた衝撃的な内容に心を締め付けられました。

 私は大きな勘違いをしていました。アメリカという国は性的指向に寛大だと。お恥ずかしい。アメリカには同性愛を認めないどころか、その指向を矯正する施設が実際にあるという事を。

 この作品の主人公はゲイなのだが、両親がキリスト教徒で聖書を信じる聖書原理主義者。彼らは同性愛を神に対する罪と考えているという事で、息子は凄く思い悩み苦しむ。さらに父が牧師の資格を持つことから、息子は思いを打ち明けられない日々が続く。

 ある日、ある事件が起こるのをキッカケに父にバレ、同性愛を治す施設にブチ込まれる。その施設は、科学的に根拠のない治療をする恐怖の施設でした。という、にわかに信じがたい内容で実話。驚いた……。

 想像してみてほしい、親に人格を否定されたうえに、矯正施設にブチ込まれる事を……。この時点で絶望的な状況だ。そして、施設でのワケわからん治療の数々……。

 唯一の救いは、この原作者の本人が今は幸せに暮らしているという事。しかし、こんなにも精神的にキツイ作品が今まであっただろうか? もしかしたらあったかも知れない。だが、この時代このタイミングで映画化されたのは、世間への警報なのかも知れないと痛感して劇場をあとにした事を忘れないだろう。






新刊案内

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編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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5月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-05-02 22:57 | バックナンバー | Comments(0)

19年04月

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世界の通勤車窓から――文藝春秋営業部 川本悟士

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 卒業・入学シーズンに桜が咲いていたのも今は昔……そろそろ花びらの舞う時期でしょうか。四月になると何かと変化があるもので、いわゆる新生活といいますか、生活のリズムが変わった人も多いのではないでしょうか。その変化が如実に現れる瞬間はどんなところでしょう。個人的には通勤・通学の移動時間かなぁ、なんて思います。

 私の場合、基本的に移動は自分で動かす乗り物を中心に生活をしてきたので、公共交通機関に毎日必ず2回は乗るようになったのは社会人になってからでした。満員電車――最初は思わずめまいがするかと思いましたが、みなさんはどうでしたか。日本の通勤・通学といえば満員電車を代名詞に、どうしてもいいものという印象は少なくなりますね。でも、そんなときこそ通勤を苦行としてではなく、通勤こそが近代社会の発展を促してきた原動力のひとつであると描いた、こんな本をめくってみるのはどうでしょう。

 イアン・ゲートリー『通勤の社会史』は、通勤という習慣を通して近代社会がどう発展してきたのかを描き出す、一種の世界史本ともいえる1冊です。それによれば、通勤とは仕事場と休息の場を何らかの移動手段によって結びつけることであり、鉄道や自動車などの離れた場所をつなぐ移動手段が誕生するにあわせて生まれてきたものだといいます。

 上記のように、大きなきっかけは鉄道の誕生で、それによって居住と職場とを離した生活スタイルが可能になり、人々が郊外へと移り住んでいくようになりました。19世紀から20世紀にかけて、都会という密集した生活環境のよくないエリアから緑豊かな郊外へと移住をしていく自由が広まっていくことで、いわば職場への移動が「他者と顔を合わせるための準備の時間」を提供してくれるようになり、生まれた土地に縛られたり都会の面倒事に囚われたりしないための手段になったわけです。


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 ただ、当時の鉄道通勤は必ずしも安全なものではありませんでした。月に1度は大規模な事故が起きる命がけの危険なものだったようです。そんななかT型フォードが誕生し、爆発的に自動車が人々の生活に入り込んで、移動の自由を拡大した人々はさらに広範囲に生活圏を広げていきます。アメリカを中心として、企業自体も自動車通勤者に続いて郊外にうつっていきました。

 要するに、通勤は一種の自由というか、制限の少なさによって成立した習慣である、という側面があるようです。その証拠というわけではありませんが、国が住む場所を定めた東側諸国では、必ずしも変化は訪れていませんでした。

 と、こう書くと通勤が万々歳の良いもののようですが、もちろん負の側面もあり、たとえば、自動車での通勤が進むに連れて渋滞が大きな社会の問題になりました。それを解消しようと高速道路やバイパスが建設され、社会は自動車の輸送を大前提としたものへと変貌していきますが、今でもアメリカでは渋滞によってイライラをつのらせたドライバー同士のイザコザが――なまじ銃を持っているだけに大きく拡大した形で暴発して――問題にもなっています。

 とはいえ、アンケートをとると通勤を不快と捉えている人より通勤が楽しいと回答した人のほうが多く、通勤時間を有効に使っている回答が多いようです。実際、通勤によって変わった生活習慣のなかには消費活動も含まれ、たとえば、今でも電車のなかではケータイや本が欠かせないという人が一定数いることはそのひとつかもしれませんし、運転中はラジオ番組をかけっぱなしにするというドライバーの存在もそのひとつでしょう。通勤という活動が広まることで、生活習慣が変わり、娯楽が変わり、時間の流れが変わって人の動きが変わる…そうやって社会が動いていくというわけですね。


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 実際、通勤をなくしてオンライン上で完結しようとすると、セキュリティの問題だけでなく電力をかなり使うことが問題になっているとあげられているように、まだしばらく通勤は馴染みのあるものであり続けるようです。

《 通勤には職場と家庭生活を切り離す効果がある 》(P.316)と著者は述べていますが、たしかにこの感覚、妙に実感としてわかるところがあるもので、イライラするようなことやヘコむようなことがあっても、ハンドルを握って帰っているうちにちょっと頭が冷めてきたり、つり革を片手に文庫本を開いたり音楽を聞いているうちに気持ちが落ち着いたり……ということが、みなさんもご経験あるのではないでしょうか。

 そうやって気持ちを切り替えているうちに、それこそ能町みね子『お話はよく伺っております』であるような、乗り合わせた隣の席の人の会話が妙に面白く聞こえて振り返ったらそれが全部オジサンの独り言だったことがわかってびっくりしたり、いやいやなんでやねんと思わず心のなかでツッコミを入れてしまったり……なんて余裕が、あなたにも生まれるかもしれません。

 4月は、その意味ではいい時期ではないでしょうか。ぼーっと本を読むのもそうですし、窓の外の景色もそう。多くの人の環境が変わった時期、周りを見回すと面白い光景に出会えるかもしれません。そんな通勤時間で出会った何かが職場や学校で出会う誰かとの話題になれば、それはテレビで映る世界中の車窓と同じくらい、あざやかな通勤の車窓だと思います。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 ひとは、ふっと弱くなるときも、悪くなるときもあると思うんだ。だれにでもあると思うんだ。 》


 だからと言って何でもかんでも大目に見ろと、主人公は言っている訳ではない。世の中には取り返しのつかない間違いや失敗もある。だけれども〝 取り返し 〟がつくならば、そして本人が悪かったと思っているならば、ミスを見逃さずに糾弾する人よりも、大らかに許してやる人の方が、人間としての器は大きいんじゃないだろうか。自分だっていつ何どき、へまして迷惑をかけないとも限らないんだし。





 超問題作! 倫理観? そんなの関係ねぇ! なタブー作品でした。

 好きな作品の中に、稀に「ニオイ」を感じるものがある。良い匂いを感じる作品は沢山あるが、この作品はその逆。漢字にすると「臭い」の方で、クサくてこの場から逃げたくなる様なニオイ。この臭いをスクリーンから発するこの作品は傑作だと思う。

 ここでストーリーをざっくり簡単に説明すると、生活に困った脚が不自由な兄が自閉症の妹に売春させてギリギリの生活から抜け出そうとする話です。何て不謹慎な作品を紹介してくれてんだ! と怒る人が目に浮かぶが、そうゆう人にこそ観てほしい。暗くなりそうな話を、驚くほど面白可笑しい作品に仕上がっているからです。いや~、まさか自分もこの作風で声を出して笑うとは思いませんでした。

 泥臭く生きるこの兄妹にスポットライトを当てた片山慎三監督は、良い意味で世の中をフラットに見ている凄い貴重な方だと思いました。

 ここでもう一つ、どうしても紹介したい作品があります。デンマークの映画で『THE GUILTY/ギルティ』という作品です。めっっちゃ面白かった!! 今年断トツで好み! 本当はコチラを全面に推して行こうと思ったのだが、変な感想を書いて先入観を与えたくないなと。好きだからこそわかって欲しいこの気持ち。何かすみません(汗)。

 じゃあこれだけ教えちゃう! 「電話からの声と音だけで、誘拐事件を解決します」シンプルな設定だけど、色々予想超えて来るから! 以上。



正義の味方、参上!――丸善津田沼店 沢田史郎

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 言葉を介さずに心と心で直接会話が出来るテレパシー。遠く離れた場所に一瞬で移動できるテレポーテーション。対象に指一本触れることなく念じるだけで物体を動かすサイコキネシスetc。

 最近はめったに見かけなくなったけど、昭和という時代には〈 超能力 〉なるものがかなり頻繁に話題に上っていた記憶がある。恐らく、ユリ・ゲラーのブームも大いに影響したんだろう。スプーン曲げだの念写だのがしばしば雑誌やテレビで特集され、UFO、UMAと並んで超能力は、〝 もしかしたら本当に在るんじゃね? 〟的興奮を以て語られる定番の話題だった。

 とは言え、それはあくまでも小学生男子に限ったブームであって、ウルトラ6兄弟だの戦隊ヒーローだのと同列の、所詮は子供だましの絵空事に過ぎなかった。

 ところが、その〝 子供だまし 〟に真正面から取り組んだ作品が、昭和50年代に立て続けにヒットする。平井和正の『幻魔大戦』聖悠紀の『超人ロック』大友克洋の『AKIRA』……。これらの作品の新しさは、〈 超能力 〉の必殺技的な格好良さではなく、その危険性を提示し、持てるが故の苦悩や代償を描いた、という点だろう。

 即ち右に挙げた名作たちは、超能力の負の部分にスポットを当てることによって、それまでの〝 子供だまし 〟にリアリティの息吹を吹き込み、大人の鑑賞に耐え得るクオリティに仕上げた訳だが、その分、〝 子供だまし 〟には無かったある種の暗さを帯びてゆく。

『超人ロック』で、不老不死の主人公が、「相手の姿は変わらないまま、自分だけが老いていくということに耐えられる人はいない」との理由から、告白された愛を拒絶するというくだりがあるが、〝 持てるが故の苦悩 〟を象徴する場面だろう。


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 しかしここに、そんな暗さとは全く無縁の作品がある。笹本祐一の『妖精作戦』は、右の3作とほぼ同時期に発表され、しかも「超能力など、持ちたくて持ってる訳じゃない」というスタンスも一緒ながら、例の暗さとは一切無縁。っつーか、殆どバカ陽気といってもいいノリの、エンタメ路線一直線。

 夏休み明けの九月の頭。東京都国立市に在る私立星南大付属高校に、1人の女子生徒が転校してくる。その少女・小牧ノブこそが全ての発端。何しろ、未開発ながら途方もなく強力な超能力の持ち主で、その力を利用しようと企む超国家的な秘密組織から追われているのだ。が、それはおいおい判明してゆくことで、我らが主人公である星南大付属2年生の榊くんたちにとっては、かわいい転校生がやって来たなという程度。

 ところがそのノブちゃんが目の前で誘拐されそうになり、マグナムをぶっ放す謎のおっさんがそれを救出するのを目の当たりにして、榊たちは、タダナラヌ事態に巻き込まれつつあるのを自覚する。以降は、時速200キロで大型バイクをかっ飛ばすわ、横須賀沖に停泊している原潜に忍び込むわ、挙句の果てには宇宙船かっぱらって月まで行くんだから、リアリティもへったくれもあったもんじゃない(笑)。

 その半面、主役を務める若者たちの人物造形はやたらとビビッドで、アホだなぁコイツらと苦笑しながらも、ついつい応援せずにはいられない。面白そうなことがあれば後先考えずに首突っ込むし、勉強は嫌いなのに大人を騙す時だけは頭の回転が速くなるし、自分たちなら上手くやれるという根拠の無い自信に満ち満ちているし、「やばい」と気付くのはいつも絶体絶命に追い込まれてからだしetc……。


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 司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中で、若き日の秋山真之や正岡子規の軽挙妄動を、こう評している。曰く
《青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない 》

著者の微苦笑が目に浮かぶような名文であるが、『妖精作戦』の高校生たちもまた、無鉄砲と紙一重の野放しのエネルギーで以て、物語をぐるんぐるん振り回す。

 例えば『ドラえもん』を見ながら「小学生だけでこんなこと出来っこないじゃん」などと冷静なツッコミをする人には、恐らく一生『ドラえもん』の面白さは分からないであろう。それと同様に『妖精作戦』も、数多ある現実離れは笑って愉しむのが読む際のコツ。それさえ出来れば、悪の組織に拉致された罪無き同級生を救うために、無謀な戦いを挑むフツーの高校生たちが、愉快で頼もしい正義の味方に見えてくる筈だ。

 さて、正義の味方と言えば高野和明である。第47回江戸川乱歩賞を受賞したデビュー作『13階段』は、無実が立証されないまま刑の執行を待つ死刑囚の冤罪を晴らすために、主人公たちが命がけの調査に奔走する。

 自殺した幽霊たちが浮かばれない霊となって地上に舞い戻り、100人の自殺志願者たちを救う『幽霊人命救助隊』では、4人の主人公たちはタイトル通りの救助隊となって、自殺志願者たちを翻意させるために四苦八苦する。
《 未来が定まっていない以上、すべての絶望は勘違いである 》
というセリフに生きる勇気を貰った読者は、私だけではない筈だ。

 このミスと週刊文春で1位を獲得、山田風太郎賞と日本推理作家協会賞を同時受賞した怒涛のハードSF『ジェノサイド』では、中東の内戦で命の綱渡りを続ける傭兵と、日本の大学で薬学を学ぶ学生が、そうとは知らずに人類の未来を脅かす強大な敵と対峙する。


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 こうして改めて振り返ってみると、〝 正義の味方 〟を描いて高野和明と肩を並べる作家はそうはいないと、つくづく思う(だから早く次を書いてくれ)。

 そして今月紹介する『グレイヴディッガー』も、勿論、正義の味方感満載だ。しかも、庶民感覚の等身大で、街のどこかに本当にいそう。

 その正義の味方は、前科数犯の小悪党、八神俊彦、32歳。殺人や婦女暴行などの凶悪犯罪こそ犯していないものの、詐欺や強請りたかりなど、楽して金を儲けるためなら幾らでも他人を犠牲にしてきた人間のクズ。それが、とある事件から改心し、真人間への第一歩として骨髄バンクにドナー登録すると、たちまちHLAの適合患者が見つかって、明後日はいよいよ骨髄移植という晩秋の或る日。

 八神が部屋に戻ってみると、風呂場には悪党仲間の他殺死体。「えっ!? 何なに? なんで?」と思う間もなく部屋になだれ込んできた3人の男たちに問答無用で襲われて、何が何だか分からずに取り敢えず逃げたはいいものの、緊急走行するパトカーのサイレンを耳にしてふと我に返る。「俺の部屋で俺の知り合いが殺されてたんだから、俺が重要参考人として追われることになるんだろうな」と。

 無論、八神が殺した訳ではないのだから、自ら警察に出向いて事情を説明すれば、一度は嫌疑をかけられたとしても、鑑識の結果などからすぐに無実は証明される筈である。件の正体不明のグループから逃れるためにも、その方が賢明だろう。

 だがしかし。どこの誰とも明かされはしないが、八神の骨髄が移植されることになっている白血病患者は既に移植準備の最終段階で、《 大量の抗がん剤投与と放射線治療で、骨の髄が空になってます 》という状態。《 万が一の話だ。俺が六郷総合病院に行きそこねたらどうなる? 》という八神の問いには、医師は断固明言する。《 間違いなく、患者さんの命に関わります 》と。即ち、八神の骨髄を待っている患者を救うためには、警察での取り調べで時間を浪費する訳にはいかないのだ。


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 斯くして八神は、素姓の分からない謎のグループと警察との両方から追われる身となって、東京都北区赤羽から、大田区の六郷まで、23区縦断の逃避行を開始する。

 という辺りまでで最初の20ページほど。以降繰り広げられる耐久レースは、見せ場、山場、読ませどころのつるべ打ち。

 電車や幹線道路は、警察が真っ先に網を張るであろうから使えない。それどころか、タクシー会社やレンタカーの事業所にまで手配の連絡が行き亘っていて、どうやらまともな方法で六郷に行き着くことは諦めた方が良さそうだと、早々に観念した八神は、チャリを盗み、隅田川を泳ぎ渡り、挙句の果ては羽田行きのモノレールの軌道によじ登ってまでして、逃げまくる。

 そのサバイバルゲームだけでも書を伏せること能わざる緊迫感だが、それとは別に、23区内で謎の猟奇連続殺人が発生しており、その謎解きがまたスリリング。無軌道に見える犯行に翻弄されながらも懸命に事件解決を目指す刑事たち。誰が何のために殺人を繰り返すのか、それが話の本筋にどう絡むのか、その推理はまさに乱歩賞作家の面目躍如。

 作中の時間は、驚いたことに僅か20時間ほど。そこに様々な善意と悪意を凝縮して、これほど濃密なミステリーに仕上げる手腕には、きっと誰もが舌を巻く筈。息継ぐ間もなく駆け抜ける460ページを存分にご堪能されたし。

 さて、三つ目の正義の味方は、ぐっと渋めに。海坂藩の下級武士の子、牧文四郎。数え年で15の夏、普請組に勤める父親が、はっきりとした理由も明かされないまま藩から切腹を申し付けられる。牧家は母親と2人でやっと食っていける程度の捨扶持とみすぼらしい長屋をあてがわれ、以後、赦されもせず処罰もされず、飼い殺しのように放置される。

 ところが文四郎が18になった或る日、今度は何の前触れもなく赦免され、禄高も元に戻される。藩の唐突な処置を訝りながらも、ひとまずはほっと胸を撫で下ろした文四郎だったが、やはりそこには、下級藩士には想像もつかないような権力者たちのエゴと欲が吹き荒れており……。


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 言わずと知れた(と書くと「だったら言うな」とつっこまれそうだが)藤沢周平の『蟬しぐれ』。親と子の信頼があり、友情があり、仄かな恋があり、剣術の切磋琢磨があり、陰謀渦巻く権力闘争があり、そして大切な人の絶体絶命を命がけで救い出す正義の闘いがあり……。青春小説のエッセンスを、たった1冊にここまで凝縮した作品は、ジャンルを問わずそうそう見つかるものではないだろう。しかも、何度読んでもその度ごとに新たな発見があり、違った場面で心が震える。

 序盤、幼いヒロインの〝 ふく 〟と文四郎が夜祭りを愉しむつかの間の平穏。理不尽に切腹させられた父の遺骸を大八車に乗せて運ぶ運命の暗転。境遇が変わっても陰日向なく支えてくれる幼馴染。剣術を通して培った友情。自らの危険をも顧みずに助太刀してくれる友との絆。そして、《 バカをやった時代は終わった 》という、子供から大人へと成長することの寂しさ……。


 本作の魅力を語りだせば、誇張抜きで紙数が幾らあっても足りないのだが、もし一つに絞れと言われたら、強大な権力に押し潰される寸前で、身を寄せ合い歯を食いしばって堪える〝 一寸の虫 〟たちの五分の魂。身分も家柄も損得勘定も度外視して〝 どうしても譲る訳にはいかないもの 〟が、きっと誰にでも一つはある。それが何なのかは一切の説明は無いけれど、時代を越えて共有されるべき、生きて行く上で本当に必要なものが、この作品にはそっと忍ばせるようにして書かれているのではないか。それが何なのかは、未だに言葉に出来ずにいるのだけれども。



編集後記

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連載四コマ「本屋日和

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@maruzen_tsudanm



フロアガイド

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4月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-04-02 06:21 | バックナンバー | Comments(0)

19年03月

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また明日――文藝春秋営業部 川本悟士

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 昔から、どうも「また明日」という言葉を、気楽に使い切れない子どもでした。友だちと別れるときに、どうしてもフラットなテンションで口にできない。明日何かあって会えなかったらどうしよう。万が一、これが最後になったらどうしよう。嘘をつくようなことはいいたくない。自分でも考えすぎで難儀なやつだとは思いながら、とはいえ無邪気に「また明日―!」といって別れるクラスメイトほどの力の抜け具合では、やっぱりなかなかそれを使うことができない。

 この妙な均衡からふっと開放されたのは、みんなが「またね!」という言葉にいつもとは違う実感を込めて使う、卒業式の日だったのかもしれません。

 というわけで、3月というと卒業式のシーズンでしょうか。生まれなければ死ぬことはないように、入らなければ出ることはないので、本来は入学のほうが先なのですが、季節を繰り返していくようになると、昔より出会いよりも別れのほうが先にあるような気がしますね。

 卒業式。みなさんはどんな思い出がありますか。黒板にいろいろ書き込んだり、なにか贈り物をもらったり、後輩にボタンをねだられたりした人もいるのかもしれません。ただ、この話題を身近な人と話してもらえるとわかるのですが、何かと学校や時代によって違うので、細かなところを詰めていくと写真を撮ったことくらいしか共通の思い出として語れるものはなかったりするかもしれません。

 そんななかで高い確率で共通しているのが、「先生からの贈る言葉」ではないでしょうか。やる側とすれば結構に頭を悩ませたりするものらしいのですが、みなさんはどんなことを言われましたか? よくは覚えていないって? あらら、実は大事なことをいわれていたかもしれませんよ? そんなときはこんな1冊を手に取ると思い出せるかもしれません。


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『巨大な夢をかなえる方法――世界を変えた12人の卒業式スピーチ』は、卒業式のスピーチに焦点を当てた1冊です。この本には、分野の最前線を切り開く起業家、投資家、教育者、俳優、映画監督たちが、イェール大学、マサチューセッツ工科大学などの卒業式で学生たちへ伝えた、一世一代の「贈る言葉」が綴られています。その一つ一つのスピーチを楽しめるのはもちろんなのですが、思った以上に各人が自分の人生を振り返りながら語っていることや、それぞれの人の国籍や育ち方で伝えるメッセージが結構違うんだな、というのもみえる作品です。

 たとえば、同じアジア圏のジャック・マーのいう「私が14年間で得た哲学はひとつ。今日はつらい。明日はもっとつらい。でも明後日には、素晴らしい一日が待っている」という言葉と、メリル・ストリープが「生き延びるために演じなければいけなかった」と形容する言葉は、背景にある各人の経験の差異を感じる一幕です。

 また、やはり卒業式だからなのか、未来を見据えた、リリカルな言い方をすれば「明日を信じる」視点が共通している点もいえるでしょうか。人類の地球外移住の計画を真剣に考えるイーロン・マスク。科学の力で細胞を創り出せる日について展望を語るジェフ・ベゾス。卒業式はその意味で、明日に向かっての〝 はじまりの日 〟といえるのかもしれません。

 この〝 はじまりの日 〟は、例年3月の決まった時期に訪れるのが恒例でしょう。そして、その恒例が崩れるほどの大事件は、めったに起こらないからこそ、大事件であるわけです。この10年でいえば、それはあの3月11日に起きた大地震の日になるのだと思います。



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 先日、七つの震災をテーマにした短編集・重松清『また次の春へ』を読んで、震災後五年目の春に被災地でその時刻を迎えたことを思い出しました。本当に何もない、いや、何もない状態にすることだけでも時間がたってしまったであろう海岸をみて、リアルタイムで同じ時代を生きながら誰にでも同じ重さを持った事件ではないのだと、その一端の現実と向かい合ったような気がしました。あの日を生きていたそれぞれに、ひとりひとりの昨日があって、それぞれが明日を考えていた。

 たとえば三つ目の短編では「明日を信じる」という行為そのものが、本にしおりをはさむというその瞬間に入り込む形で描かれています。また、四つ目の短編ではカレンダーという形で、読者はそうした毎日の積み重ねに触れていきます。「また明日」という言葉もそう、しおりを挟む行為もそう、1日たってしまえばなんてことはなくわかることがまったく見えないからこそ、次を仮定して進んでいく。そうやって毎日をすごすことが、私たちの日常なのかもしれません。

 卒業式で、先生からどんなことをいわれたか、そろそろ思い出せましたか? 今、もし仮に当時の自分たちにどんな贈る言葉を言うのかと自問自答して類推すると、それはえてして、将来についての言葉ではなかったかな、と思います。

 ちなみに私は、「君たちが一歩進むたびに、私たち大人は二歩も三歩も先を行く。頑張ってついてきなさい」という途方も無いものでした(笑)。

 今日がいつ、「3月10日」だったといわれるかわかりませんし、逆に、あとから振り返ってあの日が「3月11日」だったんだと思うこともあるでしょう。先が見通せないだけに当然ですが、なんだか考えてみるとわからないことだらけで、ちょっと疲れてしまいそうですね。そういうときこそ細かなことをいったん「また明日」考えることにして、ひとまず今日を一歩進めていく……。思えば、そんな先にある言葉だったのかもしれません。


残る言葉、沁みるセリフ

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《 たとえ4打席ノーヒットでも、
  5打席目が回ってきて欲しいと思える気持ちかな。 》



 スポーツジャーナリストの石田雄太が、《 自分に与えられた最大の才能は何だと思うか 》と問うた際の、イチローの答えが上記。「今日はダメな日だ。明日がんばればいいや」と自分で勝手にゲームセットを宣言してチャレンジをやめてしまう、なんてことがよくある僕は、初読の時に、頬桁をひっぱたかれたような衝撃を受けました。



大切な人を守る話Part1――丸善津田沼店 沢田史郎

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 時間ものSFと言われたら、僕の場合は、何を措いてもまずはロバート・ゼメキス監督の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と、藤子・F・不二雄大先生の『ドラえもん』。小説ならば、『スキップ』『ターン』『リセット』の北村薫〈 時と人三部作 〉。《 昨日という日があったらしい。明日という日があるらしい。だが、わたしには今がある 》は、日本SF史に永遠に刻まれるべき名セリフだろう。そして、43歳のおっさんが全ての記憶を保持したまま18歳に戻って人生をやり直す、ケン・グリムウッドの『リプレイ』や、現代の受験生が2・26事件前夜に跳んでしまう宮部みゆきの『蒲生邸事件』も忘れる訳にはいかない。

 知名度では右に及ばずとも、内容は勝るとは雖も決して劣らないのが次の二つ。或る坂道を自転車で後ろ向きに下ると過去に戻れるという中山智幸『ペンギンのバタフライ』。過去の任意の3分26秒間を〝 無かったこと 〟にしてしまえる方波見大志『削除ボーイズ0326』

 同様に誰もが知っている作品とは言い難いが、グレゴリー・ホブリット監督の映画『オーロラの彼方へ』は、30年前に死んだ父親とアマチュア無線で交信するという着想が斬新で、本広克行監督の映画『サマータイムマシン・ブルース』は〝 エアコンのリモコンが壊れて暑くて我慢出来ないから、過去に戻って壊れる前のリモコンを取って来る 〟という、余りにも馬鹿馬鹿しいタイムマシンの使い道がゲラゲラおかしい。更には、1980年代のアニメ『未来警察ウラシマン』からスーパーファミコンの『クロノ・トリガー』まで、要するに、時間ものなら硬軟によらず私のストライクゾーンは極めて広い。

 純粋にストーリーを愉しむのは勿論だけれど、それ以外にも、例えばタイムパラドックスの諸問題をあれこれと空想するのが面白い。


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 有名な〝 父殺しのパラドックス 〟のような重大問題でなくても、例えば僕がタイムマシンで昨日に戻ったら、昨日には僕が二人いるという訳だが、そんなことが果たして可能なのか? その二人の僕が一緒にタイムマシンに乗って一昨日に行ったら、一昨日には僕が同時に三人存在することになり、その三人がそのまた1日前に行ったら今度は僕が四人になって……。

 という展開は実は『ドラえもん』ではしばしば登場するシチュエーションで、のび太が未来から大学生の自分を連れて来て夏休みの宿題をやらせたり、のび太に宿題を頼まれたドラえもんが、2時間後、4時間後、6時間後の自分を連れて来て、何人ものドラえもんが手分けして宿題を片付けたりと、まぁ夢があると言うか何と言うか、ツッコミどころは満載なのに許せてしまうのは、それが『ドラえもん』であるが故だろう。

 或いは、こんなことも考える。僕がタイムマシンで過去でも未来でもいいけど、今ではない時間に移動する。すると、移動先の地球では、って言うか宇宙全体では、僕一人分、質量が増加する訳だよね? 別な言い方をすれば、僕一人分、全宇宙の密度が高くなるってことだよね? その増えた分はどうなるんだろう?

 例えば僕が24時間前にタイムスリップしたとする。その時に僕が現れた場所がどこであろうと、そこには元々、質量を持った何らかの物体――気体なり液体なり固体なり――が存在していた筈だけど、それらは一体どうなるのか? 分かり易く言うと、タイムスリップ先で運悪く海の中に出現してしまった場合、僕が出現したところに本来あった筈の海水は、果たしてどこに行くんだろう?


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 また歴史に材を取った小説を読んだ時など、「あの時の人類が、もう少しだけ賢明だったなら……」と、死児の齢を数える事もある。例えば、1920年代のミュンヘンに行って若きヒトラーを殺してしまえば、その後に行われる数多の蛮行を阻止することは出来るのだろうか?

 喩え話の説明に更に喩えを重ねるようで文脈的にこんがらがりそうだが、数十年前のアメリカで、接近するハリケーンの被害を軽減しようと、所謂〈 台風の目 〉の部分にドライアイスを投入したことがあるそうな。それによって、ハリケーンが上陸する前に雨を降らせて積乱雲を弱体化させることを狙ったらしいが、結果は、ハリケーンの進路が大きくブレて蛇行した為、却って被害が増したらしい。

 先の〝 歴史改変 〟でも、これと同様のことが起こらないとは言い切れまい。たとえヒトラーを殺しても、いや、ヒトラーがいなくなった世界だからこそ、ヒトラーに代わる超ウルトラ極悪人が出現するという可能性を、完全に否定することは出来ない筈だ。無論、そうなってからでは手遅れである。

 もっと卑近な例を挙げてもいい。例えばあなたが小学生だった或る日、宿題を忘れて先生に怒られたことを後悔していて、タイムマシンで戻って当時の自分に忠告し、宿題をきちんとやらせた、とする。しかし、宿題を忘れなかったが故に、あなたは放課後居残りさせられることもなく、結果、友だちと遊び耽って家の門限に間に合わず、両親から大目玉を食う羽目になるかも知れない。

 飲み過ぎて二日酔いに苦しむ朝、あなたは「ゆうべあんなに飲まなきゃ良かった」という後悔と共にタイムマシンに乗りこんで、昨夜の自分にそっと耳打ちする。「明日、二日酔いで死ぬ思いをするから、早めに切り上げろ」と。昨日のあなたはその忠告を素直に聞き入れて、1本早い電車で帰路につく。が、その電車でたまたま座れたもんだからつい寝入ってしまって乗り過ごし、結果、高いタクシー代を払って終電よりも遅い時間に漸く帰宅、という末路が待っているかも知れない。


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 要するに、過去を変えても必ずしも今より状況が良くなるとは限らないと言うか、今より良くなる保証が無いと危なくって歴史改変なんて手を出せないと思う訳だ。

 やはり時間ものの隠れた名作、畑野智美の『ふたつの星とタイムマシン』に、こんな場面がある。主人公の女の子がタイムマシンで過去に戻り、長年の後悔の種を取り除こうとする。しかし、すんでのところで或る人物にマッタをかけられる。曰く《 過去を変えたら、もっと悲惨な未来になるかもしれない。今が一番いいと思っていた方がいいです 》と(実はこの〈 或る人物 〉は既に〝 もっと悲惨な未来 〟を経験しているからこそ忠告する訳なんだが、それは続編である『タイムマシンでは、行けない明日』読んでのお楽しみ)。

 それでも、何を犠牲にしてでも変えたい過去がある。その〝 どうしても変えたい過去 〟に向って、全てをなげうって跳ぶ。そんな老若男女の懸命さに何度読んでも涙腺を刺激されるのが、梶尾真治の代表作『クロノス・ジョウンターの伝説』である。

 取り敢えず、とある企業の研究所で極秘裏にタイムマシンが開発された、という設定は珍しくも何ともない。それを使って、今は鬼籍に入っている母親や想い人、或いは親友を救おう、といった動機もありふれている。但し、ここに登場するタイムマシン〈 クロノス・ジョウンター 〉が、未完成と言うか不完全であり、それ故に過去へ跳ぶには大きな代償を伴う、という点が他の時間ものとはだいぶ違う。そして、若干ややこしい。

 過去へ跳ぶ為の大きな代償。それは、戻って来る際には〈 今 〉を通り越して、未来にまで弾き飛ばされてしまうという欠陥。その〈 未来 〉とは、〈 戻った時間 〉プラス〈 戻った時間の二乗 〉分。


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 だから例えば今から5年前に戻ったとすると〈 5+5×5 〉=〈 5+25 〉=30 という訳で、帰って来るのは西暦2049年というだいぶ先の未来で、当然ながら現在身の周りにいるあの人もこの人も自分以外はみんな等しく30年分歳をとっている訳だし、文化文明もどうなってるか分からない。最悪の場合、人類が滅亡しているかも知れない。

 そこまで大袈裟な話にはならないとしても、一人一台の電話を持ち歩き、その電話でテレビを見たりゲームをしたりお金を払ったりなどという今の世の中を、30年前の1989年当時に我々は想像し得ただろうか。当時の私がいきなり現代に跳ばされたら、そりゃもう大パニック請け合いである(笑)。誰か知り合いに助けを求めようにも、そもそも公衆電話を見つけるのが至難の業だ。

 ところでその1989年と言えば、ベルリンの壁が崩れて、当時学生だった私は「俺、今、歴史の目撃者になってる!」的な興奮と共にテレビのニュースに見入っていたのだが、仮に1989年の30年前である1959年から1989年に跳ばされた人がいたとすると、そもそもベルリンの壁が出来たのが1961年だから、その人はベルリンに壁が出来たことすら知らないのだけど、その壁が崩れたと言って世界中で大騒ぎになっていて、マジでちんぷんかんぷんに違いない。

 更に副次的な事を言えば、仮に衣食住が何とかなったとしても、運転免許証は更新しないまま30年経過してる訳だから、とっくのとうに失効してるし、お札や硬貨も変わってるかも知れなくて、勿論、過去に行って今の貨幣が使えないのは考えるまでもないけど、未来に跳ばされた場合でも、貨幣が変わってたら自販機の類は使えないのではなかろうか。今のジュースや切符の自販機で岩倉具視の500円札が使えるとは思えんもん(試したことないけど)。

 お札で思い出した。鯨統一郎『タイムスリップ森鴎外』では、現代(作品が刊行された2002年当時)にタイムスリップしてきた森鴎外が、漱石はお札になってるのに(当時の千円札)、自分はなっていない事を知って凹む、という描写があって、作者の馬鹿馬鹿しいアイデアに大笑いした記憶がある。


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 閑話休題。要するに〈 クロノス・ジョウンター 〉には致命的な欠陥がある、と。しかし、彼らは決断する。

 或る人物は、毎日の通勤途中で見かける片思いの女性を救う為。或る人物は、反目しあったまま他界した母親の素顔を確かめる為。また或る人物は、妻との時間を再び取り戻す為。大きなリスクを冒して過去へ跳ぶ。

 そして、跳んだ以上は、いつかは戻らなければならない。しかもそれは元いた世界からは遥かに先の、見も知らぬ未来の世界だ。その時には、かつて自分と結びついていた様々な絆は、殆どが消えてしまっているだろう。何しろ、周囲の人間にとっては30年間も行方知れずだったのだ。死んだと思われていても不思議はない。

 それでも、それを承知の上で、誰かを救う為に過去に跳べるか? 言い換えれば、そこまでの犠牲を払ってでも救いたいと思う誰かがいるか? この作品は読む者全てに、そう問いかけてくる。

 収録される七つの短編の主人公たちは皆、迷い無き「Yes!」の意思を、自らの行動によって示して見せる。そこが、刺さる。第一話の主人公が、引き留める同僚に向ってきっぱりと言う。《 きみにも、自分の生命より、社会的立場より、そのすべてをなげうってでも守るべき人がいるはずだ 》
これだろう、この作品の本当のテーマは。SFであり、時間ものであり、読み方によってはミステリーだったり恋愛小説だったりもするけれど、それら全てをひっくるめて、本作は〝 どんな犠牲を払ってでも守りたい人を、全力で守ろうとする名も無き勇者たち 〟の物語だろうと思う。

 蛇足ながら付け加えておきたい。読んでる間じゅう、そして読後も暫く、こんな事を考えた。

 僕ら人間が神ならぬ身である限り、後悔というものは、どんな生き方をしようとも必ず付いて回るものだろう。ならば何かを決断する時に〝 後悔しないか? 〟ではなく、〝 後悔することになったとしても、それでもやるか? 〟を、自分自身に問うべきなのかも知れない、と。だって「後悔しないか?」って訊かれたって、そんなもん、その時になんなきゃ分かる訳はないんだから。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『アリータ:バトル・エンジェル』

 キャメロンはやはり映画界の革新者です! 『アバター』と『タイタニック』で世界興行収入のトップ2を独占している彼に今回もアドレナリンMAX体験させて頂きました。

 とはいえ、キャメロンは『アバター』の続編製作中で大忙し。そこで白羽の矢が立ったのは、本作でメガホンを取ったロバート・ロドリゲス。『シン・シティ』辺りが日本では有名かと思う。ロドリゲスはキャメロンと違い、これまでの映画製作はほとんど自分と自分のプロダクションでこなしてきた。彼にとってこのような大作は初だと思うので、キャメロンとの仕事はとても良い経験になったに違いない。キャメロンは既に180ページもある脚本を書いていて、それを60ページ削って作品にしたのがロドリゲス。凄い度胸! 実際、超スペクタクルな作品に仕上がっていて面白かった!

 この作品、驚くべきなのはやはり主役のアリータの造形美。パフォーマンス・キャプチャーを使って彼女を演じるのは女優のローサ・サラザール。予告編で気になっていたアリータの大きな目も、ものの数分で納得させられる。アリータはサイボーグだが、とても人間くさい。そして夢見る少女なのだ。スクリーンの中で誰よりも魅力的に存在し躍動する彼女は最高の一言! 是非、映画館で観てほしい作品だと心から思いました。

 話は変わって、今年もアカデミー賞が発表されました。作品賞は『グリーンブック』でした。この作品は、3月1日から公開されますのでよかったらどうでしょうか? 私は絶対観に行きます!



大切な人を守る話Part2――丸善津田沼店 沢田史郎

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 さて、話が脇道に逸れまくったので、残りは駆け足。

 金城一紀『フライ,ダディ,フライ』も、やはり〝 大切な人を守る 〟話だ。本来は『レヴォリューションno.3』から始まる〈 ザ・ゾンビーズ・シリーズ 〉の第2弾なんだが、読む順番には余りこだわらなくても大丈夫。まぁざっと説明しておくと、ゾンビーズというのは偏差値最低の落ちこぼれ高校で生ける屍の如き学生生活を送っていた、落ちこぼれの中の落ちこぼれグループのこと。

 だけど今回の主役は彼らじゃない。鈴木一(ハジメ)47歳、ごくごくフツーのサラリーマン。或る夏の日、彼の最愛の娘が、とある男子高校生に暴力を振るわれて病院に運ばれる。駆けつけた鈴木はしかし、まともな反省も謝罪もないまま事件をもみ消そうとする加害者側に対抗する術を持たず、はした金を寄こして去っていく彼らの背中を、ただ見送る事しか出来なかった。そんな鈴木に、娘も、妻も、そして誰よりも鈴木自身が傷つき、幻滅し、失意に沈む。

 家族が再び前を向くには、娘の仇を討つしかない! そう決意した鈴木が、出会いがしらのようにして知り合ったのが、件のゾンビーズの面々。事情を打ち明けられた彼らは、ひと夏をかけて鈴木に喧嘩の極意を伝授しようと、半ば一方的に盛り上がる。そうして始まる、鈴木一、47歳にして初めての夏……。

 って、昭和のツッパリ漫画かよ(笑)、などと侮ってはいけない。安ものの格闘ゲームの如く、ただ喧嘩ばっかりしてる話だと思ったら大間違い。本書には、友情があって、家族愛があって、不可能への挑戦があって、喜びと悲しみの共有があって、勧善懲悪があって、男子三日会わざれば刮目して待つべしがある、実に爽快で痛快な中年よ大志を抱け小説なのだ。


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 物語の序盤、まだ幼かった娘がひきつけを起こして、鈴木が慌てて医者に担ぎ込んだ時の記憶を、懐かしそうに語る場面がある。
《 あの時の俺は、これまでの人生で一番速く走ったよ。そのまま浮き上がって、空でも飛べそうな感じだった 》
結局ひきつけそのものは大したことなく、医者に診せる必要さえ無かったらしいのだが、その思い出をを鈴木は実に愛おしそうに語るのだ。
《 本当は間抜けな話なんだけど、でも、病院から家に帰るあいだ、俺は父親である自分が誇らしかった。あんなに速く走れた自分が、好きになった 》
でも、と彼は続ける。
《 いまは違う。俺はこのままじゃ、死ぬまで自分を好きになれそうもないよ 》

 さて、そろそろお分かり頂けただろうか。本書『フライ,ダディ,フライ』は、平凡なおっさんが大切な人を守る為に強敵に立ち向かう雪辱譚ではあるのだが、実はそれ以上に、矜持とプライドを守るために闘う、いや、大切な人を守る為にはまず自らの矜持とプライドをこそ取り戻さなければならないと気付いた事勿れ主義者の、一世一代の大勝負を描いた〈 精神一到何事か成らざらん小説 〉なのだ。

 因みに今作では脇役のゾンビーズたち。彼らの活躍をもっと読みたければ、前述の通り、シリーズ第一弾である『レヴォリューションno.3』を、また今作でしばしば顔を覗かせる、日本に於ける差別問題に興味を持った方には、やはり金城一紀の『GO』を、是非にとお薦めしておきたい。どちらも、読後は心を消毒して貰ったような気になるに違いない。


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 駆け足と言いながら長くなったので、以降はダッシュ。

 大切な人を守る、と言えば薬丸岳である。「えっ、そうなの?」と疑問に思う向きもあるかも知れないが、そうなのだ。

 デビューから一貫して〝 償うとは何か 〟〝 赦すとは何か 〟という問題を扱ってきた作家なので、常にその文脈での評価ばかりが目立つが、それ以上に、大切な人を全力で守ろうとする人々を描き続けてきたのが、薬丸岳という作家ではないか。

 デビュー作『天使のナイフ』では、小さな喫茶店のオーナー店長が、亡き妻の思い出を胸に、親鳥が翼を広げてヒナを守るが如く、幼い娘の未来を身を挺して守ろうとする。
 通り魔事件で愛娘を奪われた夫婦の苦悩を描く『虚無』では、復讐の鬼と化した元妻を、犯罪者にしない為に主人公が奔走する。
『神の子』では、少年院出身ながらIQ161という天才青年が、生まれて初めて得た〝 友だち 〟の為に、持てる能力を注ぎ込んで全力で彼らを守ろうとする。
 初めて心を許せるかも知れないと感じた友人が、あの事件の犯人〈 少年A 〉かも知れない……。という状況に置かれた、人付き合いが苦手な青年。アダルトビデオに出演した過去を消せずに、住処も仕事も転々としてきた薄倖の女性。そして、件の〈 元・少年A 〉。三人が出会って苦悩を重ねながらも、自分にとって本当に大切なものを見極め、それを守るために眦を上げる『友罪』

 どれも〝 償いと赦し 〟がテーマであるのは一読、紛れも無いけれど、その奥には、まるでみなもから海底を透かし見るかのようにして、〝 大切な人を、全力で大切にしようとする姿 〟が見えてくる筈だ。


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 そのスタンスがとりわけ際立っているのが、吉川英治文学新人賞を受賞した『Aではない君と』だろう。

 吉永の一人息子である翼は、14歳で中学2年生。離婚した元妻が引き取って育てている。その翼が、死体遺棄の容疑で逮捕された。被害者は、翼の同級生。警察にも弁護士にも、何も話そうとしない翼。吉永は、保護者自らが弁護士に代わり話を聞ける〈 付添人制度 〉を使って、翼の真意を探ろうとする。

 という幕開けだけでもどうにも重いストーリーであり、その後も実に薬丸岳らしく〝 償いと赦し 〟の描写が、ずっしりと読む者の胸に響き続ける。
《 物事のよし悪しとは別に、子供がどうしてそんなことをしたのかを考えるのが親だ 》
《 更生というのは、二度と罪を犯させないというだけではありませんよ 》
《 幼い頃、君はどうして子猫を拾ったんだろう。泥にまみれて死にそうだった子猫を、どうして君は拾ったんだろう(略)その猫と過ごした十年間を思い返してほしい。その猫を失ったとき、君がどんな気持ちになったのかを思い出してほしい 》

 父と子は、自分たちが犯してしまった罪について、その犠牲となった人たちの悲しみについて、そしてそれを償う術について、ひたすらに考え続ける。そして、どんなことをしても償うことが出来ない罪があるという事実を、鑿で彫り刻むようにして心に刻みつける。

 もし翼が誰かに殺されたとしたらと、吉永は息子に向って静かに語る。
《 お父さんは自分の命がなくなるまで、その人間を恨み続けるだろう 》
そういうことを、お前はしてしまったのだ、と。


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 だが、世間では重大犯罪を犯した〈 少年A 〉という扱いであっても、父親である吉永にとっては、彼は〈 A 〉ではなく〈 翼 〉という名を持った息子である。世界中が敵に回ったとしても、自分だけは〈 Aではない君と 〉共に生きる。そんな決意を静かに告げる。

《 お父さんが人生の最後に考えるのは、翼のことだ 》

これこそが、薬丸岳の真骨頂だろう。そしてこれこそが、本作のタイトルが『Aではない君に』ではなく、『君へ』でもなく、『君と』である所以だろう。

 自分の子供が重大犯罪を犯してしまったら、親には何が出来るのか。どうすれば、子供に罪の重さを実感させることが出来るのか。どうすれば、反省したことになり、どうすれば償ったと言えるのか。そんな重い主題で貫かれた『Aではない君と』という作品は、同時に、全てを犠牲にしてでも子供を守り抜こうとする親の愛情の物語でもあり、薬丸岳の現時点での代表作と言って間違いない。

 昨今見聞きする、血も涙も無い虐待事件の加害者たちには、吉永の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいもんだ。






新刊案内

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編集後記

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3月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-03-11 00:06 | バックナンバー | Comments(0)

19年02月

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お茶うけの世界史は思い出にのって――文藝春秋営業部 川本悟士

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 そろそろ世のなかはバレンタインの時期でしょうか。バレンタインの話題といいますと、個人的には「いい仕事にはある程度無理をしてしまうのがつきものだが、無理をしすぎると体を壊してしまう。そのライン引きが大切だ。私の場合は高級チョコレートとコンビニチョコレートの味の区別ができなくなったとき、それ以上は無理せず引き下がるようにしている」とおっしゃっていた大の甘党の先生が、バレンタインの時期はチョコレートを一人で買いづらくなるから困る、とおっしゃっていたのが印象的です。

 そんな思い出話だけでなく、お菓子会社がどうのとか、私の学生時代はどうだったとか、本来は小ネタから「自慢」まで色々と展開のしようがあるテーマではあるのだと思いますが、コーヒー党の私としては、チョコレートだけでバクバクと食べるだけでなく、お茶やコーヒーと一緒に楽しむ方も多いのではないでしょうか、ということを第一に訴えたいところです。

 チョコレートとコーヒー。昔から、なんかどうもギアが入らない……というときに思わず手が伸びる定番の組み合わせです。でも、思えばコーヒーも紅茶も、そしてチョコレートも、本来はヨーロッパのものではないものが海の向こうから伝わってきたことで花開いた習慣です。本来は別々のところにあったものが様々な事情によって一箇所に集まり、またてんでバラバラに広まっていく……。そう考えると、定番も決してありきたりではなさそうです。

 ということで、今回は「お茶うけとしてのチョコレート』を紐解いてみましょう。


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 武田尚子『チョコレートの世界史――近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』によれば、そもそもチョコレートには二種類あるとされています。職人が手作りするものと、工場で大量生産されるものです。私たちが気軽に贈り物として渡すことができるのは(手作りチョコレート問題は一度横におくことにして)、工場で生産されるようになったからこそでしょうから、現代の多くは後者でしょうか。

 いってみれば、技術改良によって大量に工場で生産されるようになり、それらが鉄道網の整備など産業基盤の近代化によって展開されるようになったことが、このようにチョコレートが手頃な価格になった背景にあるようです。

 チョコレートはもともと中南米にあり、マヤ・アステカ文明では「神々の食べ物」として食物として口にできる人は限られた、貨幣的な価値まで付与されていたものだったのだとか。宗教的な捧げ物として機能していたり、マヤ文明当時は苦く刺激の強い煎じ薬のようなものだったようなので、近い感じでいえばありがたーい滋養強壮薬というような感じだったのでしょうか。

 そんなカカオがヨーロッパに広まっていくのは大航海時代以降。貿易によって集められたカカオ豆を加工して、ココアなどの加工食品に生産する仕組みが広まっていったことにはじまるようです。

 具体的には、カカオを加工して飲む習慣は、植民地にしたヨーロッパに伝わったあと、16世紀から17世紀にスペインから他の諸国へと伝わり、次第に「カカオは薬品なのか食物なのかは」が宗教的・医学的問題としてとりあげられるくらい、教義に絡んだ一種切実な問題になっていたようです。それだけ社会的に浸透していったことの裏返しだったといえるのかもしれません。


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 ちなみに、こうやってココアが知られるようになった時期は、紅茶やコーヒーが普及した時期と重なります。小林章夫『コーヒー・ハウス 18世紀ロンドン、都市の生活史』旦部幸博『珈琲の世界史』をみても、コーヒーハウスでは当初からココアも親しまれたようで、政党が本拠とするなどの集会所として機能したコーヒーハウスというその場所自体とともに、社会に浸透していきます。

 思えば、集会を開けるほどの政治的に権力を持つようになった市民階層の経済基盤の一つが海外との貿易業だったことをみても、それはある種、とてもわかりやすいことなのかもしれません。

 それにしても、『一杯の紅茶の世界史』を読んでいてもそうですが、農業として原料を生み出す生産プロセスと、加工食品として製品を生み出す加工プロセス。この両方のプロセスを貿易によってつなげ、宣伝的に大きく広げられることによって消費されていく……。近代に向かうに連れて大量生産・大量消費が可能になり、社会をうつしだす形をおびて身近にあらわれてくるあたり、嗜好品の奥は深いものなのだなぁと思わされます。


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 そんなお茶うけとしてのチョコレート、みなさんはどんな思い出をもっていますか?

 思えば、私が最初にコーヒーに親しんだのは高校生の頃。仲のいい先生のところで待ち時間にだしてもらいましたっけ。コーヒーのおともにチョコレートをかじりながら話すその時間は、単なる待ち時間をそれ以上のものにしてくれたように思います。高校に上がる前も、冬の寒いときに背伸びして買った缶コーヒーを飲んで暖を取ったり、コーヒー缶に入った粉末からいれたコーヒーを「子どもには早いから」と牛乳をたくさん入れられて祖父母の家で飲んでました。

 紅茶好きの友人が、受験勉強中に何をつまむでもなく、一日中ひたすら紅茶を沸かしてはガブガブ飲みながら勉強をしているときいたときは、コーヒー党の私でも流石に少し心配になりました。

 もともと、縁あっていろんなところにあったものが一つのところに集まることで生まれた習慣です。伝統とか格式とかそういう背伸びの前に、手軽に手を伸ばせばすぐ届くいつものところにあり、そして、その日常のなかでどういう景色を彩ってきたのか。バラバラのところから集まってできた習慣だからこそ、それが続いているのは、何気ない日常の毎日が積み重なっていったからなのかもしれません。

 今年のバレンタイン、何か特別なことでなくても、振り返っていい思い出になるといいですね。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 事業がうまくいっているときは、誰が責任者かなどと言う必要はなく、「皆のおかげで……」と言っておればよい。しかし、事をはじめるときには失敗の可能性も考えねばならない。そして、もしも失敗したときは自分が責任を負う、とはっきりと決意して動いている人物がいるので、その集団はうまく動くことができるのである 》


 著者はそれを〈 負け戦の責任 〉と呼ぶ。そして《 「攻め込む時の責任」ではなく「負け戦の責任」をとれる人が、それぞれの部署にいなかったら、会社は潰れてしまう 》のだそうだ。これは何も会社に限ったことでもあるまい。失敗したら俺が責任をとる。そう言い切ってくれるリーダーの下でなら、みんな、安心して行動できるのだ。


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今月の紹介本




永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『ミスター・ガラス』

 シャマラン、タマラン! ヒーローとは何か? シャマラン監督が18年掛けて答えを出してくれました!

 この作品は『アンブレイカブル』『スプリット』に続く三部作の完結作になっていて、シャマラン監督がこの世界に超人(ヒーロー)は必要なのか? を説いた、メッセージ性がある作品だと感じました。

 物語は、三人の超人を軸に進みます。一人目がブルース・ウィリス演じる、不死身のダン。二人目がサミュエル・L・ジャクソン演じる、ガラスのように脆い体と超人的な頭脳を持つイライジャ(通称:ミスター・ガラス)。そして三人目のジェームズ・マカヴォイ演じる、多重人格者(24重人格)ケヴィン。この三人は、境遇は違えど同じ悩みを持っています。それは、自分の〈 存在意義 〉です。これは多くの人に当てはまるのではないでしょうか?

ダンは、不死身の体を活かして法律無視の自警行動。イライジャは、自分がガラスのように脆い体なので、その対となる存在がいる事を確かめる為に恐ろしい計画を実行(『アンブレイカブル』を観てね)。ケヴィンは、誘拐を繰り返して自分を理解する者を探していきます(『スプリット』を観てね)。手段は間違っていると思いますが、それ位〈 存在意義 〉を知る事は難しい。しかし、そこはシャマラン監督、素晴らしい人間讃歌を感じる作品になっています!

『アベンジャーズ』等のアメコミ作品みたいな派手な演出は無いが、この作品は誰もが救いになる存在になっていたと思うし、静かなシーンの中にもカッコイイシーンが幾つもあって凄い好きな作品でした! なのに……何でパンフレット作ってないの!?



幸せは自分で決める――丸善津田沼店 沢田史郎

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 埼玉、長野、山梨の三県が接する辺りを、覆うように連なる奥秩父山塊。八ヶ岳や北アルプスと違って交通至便でもなく、特別に景観がいい訳でもない地味な山岳地帯。その一角に建つこれまた地味な山小屋・梓小屋のオーナーの視点から大自然の優しさと厳しさを描き、そこを訪れる人々の人生をほんの一瞬垣間見せる――。

 笹本稜平の『春を背負って』は、舞台である奥秩父の山々と同様、派手な演出とは一切無縁。逆にだからこそ、登場する人物たちの心模様や、日ごとに移ろう奥秩父の四季など、笹本稜平の円熟の筆遣いを味わえる、いぶし銀の一冊だ。

 主人公の長嶺亨が事故で急逝した父親の跡を引き継ぐ形で、梓小屋の経営に乗り出したのは四年前。当時、電子機器のトップメーカーで最先端の開発競争に明け暮れていた亨が、何故、地位も収入も捨てて、半ば隠棲のような山小屋暮らしを選んだのか?

 生き馬の目を抜くが如き開発競争に疲れた為。チームの手柄を独り占めにする上司に愛想を尽かした為。大きな成果を達成してその後の目標を見失った為。そして、梓小屋を続けたいという父の気持ちに、遅ればせながら応える為。

 作品の序盤でそう説かれているのは、しかし、亨が人生のベースキャンプとして梓小屋を選んだきっかけではあるのだろうが、その不便で不自由な暮らしをそれだけで四年も続けられるかと言ったら、それはやっぱり違うだろう。ならば彼が辺鄙な山奥で難儀な生活を続ける理由は何か? それははっきりとは書かれておらず、読者は、梓小屋で折に触れて自分の生き方を見つめ直す亨と一緒に、手さぐりで確かめてゆくことになる。


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 主な登場人物は亨の他に、父の代から小屋の運営を手伝ってくれているゴロさんと、遭難しかけていたところを亨とゴロさんに救われてそのまま居着いてしまった美由紀の三人。或る時は、群生地のシャクナゲを盗掘から守るために寝ずの番をし、或る時は野ざらしになっていた白骨遺体を発見し、また或る時は低気圧に襲われて立ち往生したパーティの救援に向かったりと、派手ではないと言いつつも山を媒介にした一期一会に感動したり憤ったり、彼らの日常はなんやかんやと忙しい。

 そんな毎日の中で亨は知る。傍からは順風満帆に見えても、或いはお気楽に生きているように見えても、義務や責任、後悔や自責を、誰もがそれぞれに背負って生きているのだという現実を。人の一生、上り坂ばかりは続かないし、かと言って下り坂だけの人生というのも無いものなのだ。そう考えると、山登りと人生はちょっと似てはいないか?

 そうなのだ。『春を背負って』という題名は、奥秩父の遅い春に小屋開きの為の荷物を背負って登って来るゴロさんの姿を、遠目に見た亨が漏らした呟きなのだが、同時にそれは、いろいろなものを背負って歩んでいく〝 人生 〟という意味をも込められた絶妙のタイトルなのだ。

 物語の後半で、或る登山客の平らかならぬ生き方に思いを馳せる亨と美由紀に、ゴロさんが達観したように告げる場面がある。

《 幸福を測る万人共通の物差しなんてないからね。いくら容れ物が立派でも中身がすかすかじゃどうしようもない 》。そして続ける。

《 ところが世のなかには、人から幸せそうに見られることが幸せだと勘違いしてるのが大勢いるんだよ 》と。

 これこそが、亨が〝 辺鄙な山奥で難儀な生活を続ける理由 〟だろう。と同時に、この作品の底を伏流水の如く流れ続けるテーマでもあるように僕には思える。人からどう見えようが、亨自身は、世間の脚光を浴びて収入も将来も約束されていた研究者時代よりも、今の山小屋暮らしの方に幸せを感じているのだ。ならばそれこそが亨にとっての幸せであり、他人がとやかく言うことではあるまい。

 昨今のSNSブームなどを見るにつけ、先のゴロさんの言葉をつい思い出す。そして自分に問いかける。俺は、世間からどう見えるかではなく、俺自身が幸せだと感じる事の出来る道を歩けているのか? と。


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 自分自身の幸せ、と言うと思いだすのが、はらだみずきの『海が見える家』だ。主人公の若者が亡き父親から財産を受け継ぐという設定も同じなら、その財産が世間からは見向きもされないような無価値なものという点も一緒。但し、こちらは山ではなく海。

 舞台は我らが千葉県、房総半島の先っぽ辺り。そこにあばら家を構えて脱サラし、贅沢とは無縁の地味で変化に乏しい人生を送っていた父親。いつの頃からか疎遠になっていたその父の訃報が、主人公・文哉のもとに飛び込んできたのは、彼が、勤め先のブラック企業で散々に疲弊して退職した直後。文哉自身、今後食っていくアテも無いのにそれどころじゃないよ、とは思いつつも放っておく訳にもいかず、遺品整理やら役所での諸手続きやらの為に、父親が暮らしていた海辺の一軒家を渋々といった感じで訪ねて行く。

 といった幕開けの後には、生前は窺い知れなかった――と言うよりも、そもそも殆ど付き合いを断ったも同然だった父親の、食べて寝て働いて、時には気の合う仲間と杯を傾けてといった〝 生活臭 〟を、少しずつ知ってゆく。そして、父親の生涯に想いを巡らす。

 大学受験を控えた高校生の頃、文哉は漠然と《 父のような人生は送りたくない 》と感じていた。サラリーマンとして単調な日々を無表情でこなす父親を見て、《 絶対にあなたのような、退屈な大人にはならない 》とまで考えていた。

 その父親が脱サラして、南房総の別荘地におんぼろ小屋を買って、一体何をしようとしていたのか?

 それは、物語が進むにつれて徐々に明らかにされていく訳だが、勿論ここでは詳細は伏せる。ただ一つ、かつて文哉が父親に言い放った一言が、曲がりなりにも〈 社会人 〉を経験した現在の文哉自身に、ブーメランの如く返って来る。

《 他人にどんなに評価されようが、自分で納得していない人生なんてまったく意味がない 》

 ならば自分は、大学を選ぶ時、就職試験を受ける時、或いは今回、退職を決めた時、果たして〝 自分で納得して 〟いたのか? だとしたら、就職して半年もたたずに退職して今は無職であることを、友だちの誰にも話せずにいるのはどういう事だ? 結局は自分も、〝 他人の評価 〟を気にして生きてきただけではないのか? それに比べれば父の晩年は、自分なんかよりも遥かに自由で充実していたのではあるまいか?


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 そう気が付いた時には既に文哉は、売り払って生活費の足しにするつもりでいた父のあばら家に半ば移り住み、父親が生前に親交を結んでいた人々と、新しい繋がり方を模索し始める。

 実はこの作品、文庫の解説は僕が担当したので、それを自店のフリーペーパーで採り上げるのは少々下品かとも思ったのだが、前出の『春を背負って』とテーマが非常に近く、併せて紹介するのがベターだろうと結論した次第。故に、ご興味があれば小学館文庫版の『海が見える家』巻末解説をご笑覧頂ければと思うが、要するに、『春を背負って』も『海が見える家』も、〈 幸せの尺度 〉というものについて、非常に考えさられる物語なのだ。

 梓小屋のゴロさんが《 幸福を測る万人共通の物差しなんてない 》と呟いたように、或いは、若き文哉が《自分で納得していない人生なんてまったく意味がない 》と言い放ったように、僕らは日々あくせくと世の中の動きに流されていく中で、いつの間にか自分が考えていた幸せをどこかに置き忘れて、世間が幸せだと主張するものこそが幸せだと思い込み、本当は欲しくも無い筈のその幸せを懸命に追いかけていたりはしないだろうか?

『海が見える家』では終盤、文哉が、大学を出てまで、こんな田舎の海っぺりで収入の不安定な暮らしを始めようとしている自分の生き方を、ふと省みる場面がある。《 おれはいったいこんなところでなにをやっているのだろう 》と。しかし次の瞬間、すぐに彼は宣誓でもするかのように言い切ってみせるのだ。

《 いいじゃないか、これは自分の人生なのだから 》と。

 人生は受験とは違うのだ。全員にとっての正解などどこにも在る筈はなく、強いて言うならばその正解は、僕ら一人一人が自分に合ったものを見つけてゆくしかないのだろう。それがサラリーマンであっても起業家であっても、自分が納得していればそれでいいのだ。勿論、本屋の店員であってもいいのだ、多分……。


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 とまぁ、知命も近いというのに青臭い言葉を並べたてたが、こうなったらとことん行こう(笑)。

 こちらは同じ〝 ハラダ 〟でも、原田マハ。『独立記念日』はそのタイトル通り、何かに縛られて動けずにいた老若の女性たちが、自分を縛り付けいていたものから独立して、新たな一歩を踏み出す物語が二十四編。彼女たちを縛っていたものとは、例えば同僚たちへの〈 見栄 〉だったり、同級生たちの〈 いじめ 〉だったり、或いは〈 病気 〉だったり〈 会社 〉だったり、時としては若い頃から思い描いて生きた〈 夢 〉でさえも、〝 自分を縛り付けるもの 〟として描かれる。そして、どの主人公たちも、その縛りを断ちきる事を一度は諦める。

 住みたい街ランキング上位の街に憧れつづけ、そこに住みさえすれば幸せになれると盲信して、高い家賃に悲鳴を上げながらカツカツの生活を続けるOLがいる。夫に先立たれ、遺された子を育てることに精一杯で、自分の幸せなどとっくに諦めている女性がいる。夢を追って故郷を飛び出したはいいものの、泣かず飛ばずで結局は派遣の工場労働でその日その日を食いつなぐ漫画家志望の女の子がいる。不倫現場をスクープされて退職を余儀なくされ、夫との関係も冷え切ってしまった元アナウンサーがいる。

 といった具合に、二十四の短編の主人公は皆、ちょっとやっかいな事情を抱えている。或いは、長い人生の道のりで進む方向を見失って戸惑っている。一言で要約してしまえば、運に見放されている感がある。

 恐らくは、誰が読んでも、「あ、この気持ち解る」と共感する人物が、二人や三人はいるのではあるまいか。それぐらい、彼女たちが見舞われている不運は、ありふれている。自分も過去に経験したような、或いは、どこかで聞いた事があるような、そんな日常的な不運がズラリと並ぶ。念の為に言っておくと、抱えているトラブルが重大ではないと言っているのではない。皆々それ相応に重大だし、そもそも、運不運の重大さなど当人以外に判断出来る筈もない。

 が、彼女たちは、自分を縛っているものの正体を見破る。「どうせ私なんか……」「きっと、こうなるに決まってる……」「上手くいく筈なんてない……」。そういった、根拠のない自己否定。失敗の記憶の連続再生。それこそが、自分を縛ってきた鎖であると、ふとした瞬間に彼女たちは気が付いてそれを断ち切る。


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 そのきっかけは決して大げさな出来事ではなく、例えば傘をさして歩いている時に、ふと周りを見回すと皆が傘を畳んで手に提げていて、「あら、雨やんでるわ」と初めて気が付くといったような、客観的に見れば難しくもなんともない事で、だけど〝 雨が降っている 〟と思い込んでいるというただそれだけで、気付ける事にも気付けなくなるという、〈 自縄自縛 〉とはまさにそういうものなんだろうけど、とにかく何しろ『独立記念日』の主人公たちは、ふとしたきっかけで自分を縛っていたものを見極めて、それまでの自分に向って「そんなに難しく考える事ないんだよ」などと諭すように呟きながら歩き出す。

 自分はここから動いてはいけないと、暗示にでもかかったように思いつめる女性に、一人の精神科医が噛んで含めるように助言するシーンがある。
《 田淵さん、『案ずるより産むが易し』ってことわざ、知ってますか? 》と。唐突な問いに首を傾げる〈 田淵さん 〉に向って、先生はこう続ける。

《 こんなことしたら、こうなっちゃうんじゃないか。こう言ったら、こう言い返されるんじゃないか。そう考えてなかなか行動できない。けど、思い切ってやってみれば、けっこう想像もしなかったほうに、物事っていうのは転がっていくものですよ 》

 さぁ、皆さん。今年の春は、ためらっている自分に〝 案ずるより産むが易し 〟と言い聞かせて、一歩を踏み出してみるってのも、悪くないとは思いませんか? そうそう、ついでながら。この作品の担当編集者と営業担当者と私の三人で、鼎談を開いたことがあります。それぞれの立場から作品の魅力を好き勝手に語った座談会で、今でもWEBで読めますので、ご興味があってかつお閑ならこちらからどうぞ。


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 大袈裟ではない人生という事なら、こちらも紹介しない訳にはいかない。他の三作に比べるとやや古い本だけど、久しぶりに読み返したらちゃんと面白かったから、自信を持ってお薦めするぞ。

 沢木耕太郎『彼らの流儀』はタイトル通り、有名無名の三十数名が、誰かのではなく〈 彼らの 〉流儀で生きていく、その一瞬を切り取ったノンフィクションのような、コラムのような、エッセイのような、不思議な魅力の作品集。

 千葉に古くから伝わる〈 上総掘り 〉の技術を素人ながらに、水不足のアフリカの村々に伝えて歩く老人は、《 玄人はまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない 》と、自分の強さの源を語る。一年に一度、東京タワーのテッペンの航空障害灯を交換する技術者は、僅かな高所手当でどうして危険な業務を続けるのかと問われて、《 自動車通勤をしているので、鉄塔にでも登っていないと体がなまってしまう 》と笑う。深夜ラジオのパーソナリティは、半泣きで悩みを訴えてきた電話の向こうの若き視聴者を、《 ね、できるよ。泣くことができる人だもん、悔しくてさ。やれるはずだよ、な、え? 》と優しく励ます。

 そして、それぞれの人生をそれぞれの価値観で生き抜こうとしている登場人物たちを、観察者であり記録者とも言える著者は、例えばこんな風に評したりする。

《 頂きに登ろうともせず、しかしだからといって人生から降りているわけでもない。当たり前の人生を当たり前に生きている。だが、当たり前の人生を当たり前に生きていくということの、なんと難しいことだろう 》


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 この作品集を読んでいると、SNSでの〈 いいね 〉の数とか、空気を読んで曖昧に笑っておくとか、女子力がどうとか男らしさがどうとか、そういう誰が決めたんだか解らないままに定着しているあれやこれやが、ホントどうでもいいちっぽけな価値観だと気付かされる。試しにもう一節、引用してみる。

《 彼の幸せは、彼が頭に描いた「絵」を実現することにあるのだ。そして、彼がその「絵」を次々と描くことができていると感じている以上、彼の幸せを疑うわけにはいかない 》

 とまぁそんな訳で、本書でもやっぱり〈 自分の幸せは自分が決める 〉という、当たり前なのについ忘れてしまいがちな価値観が、北極星の如き輝きを放ち続ける。太陽ほど明るく周囲を照らす訳ではない。だけれども、北極星さえ見失わなければ、大海原でも迷わずに航海を続けられるのだ。

 ならば、さて。僕は世間のでもなく、会社のでもなく、〈 僕の流儀 〉を持っているのだろうか? 「Yes!」と即答することは出来なくても、せめて、持っていたいとは思っていようか。



編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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2月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-02-11 06:54 | バックナンバー | Comments(0)

19年01月

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平成と2010年代を振り返って――文芸春秋営業部 川本悟士

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「本年もお世話になりました。良いお年をお迎えください。来年もまたよろしくおねがいします」から「あけましておめでとうございます。昨年はお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。」のフレーズが口に馴染んだみなさん、こんにちは。無事に年を越せた一方で、新しい1年も部屋にはびこる本の山でホコリがえげつないことになっている私、今年も頑張る所存です。

 さて、平成最後がいろいろと取り沙汰される昨今ですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。個人的には、いろんなところで平成最後という言葉を目にするわりに、「昭和っぽい」という言葉はあれど「平成っぽい」という言葉があまり聞こえないのは、なんだか自分が何者なのかもフォーマットされないまま古くなっていくような感触を覚えて、ちょっと微妙な、不思議な気分になります。

 まあ平成という30年はそれだけ変化が激しかったのかもしれませんが、そのへんはまた今度考えるとして、実は2019年は2010年代最後の1年でもあるわけです。ちょっと前にそれに気づいたときに「あ、この10年はどんな1年だったんだろう」と気になったので、今回は平成スポーツ史を振り返った『Number』の968・969号から、特にこの10年のスポーツを振り返ってみたいと思います。

 思い返せば2010年、私は深夜までサッカーを見ていました。前日深夜までテレビにかじりついて、立て続けに食らったゴールにクラスメートたちと呆然とした2006年のワールドカップがセンセーショナルだったこともあり、始まる前は「決勝トーナメントは遠いなぁ」なんていっていたのを覚えています。もちろん、口ではそんなことをいいつつ、結局またテレビにかじりつき、案の定熱狂。そこから日本人選手がインテルやミラン、マンチェスターユナイテッドに移籍し、中田英寿や中村俊輔が活躍するニュースできいたことのある世界的クラブがすぐ近くの存在になったような気がしました。


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 その後も2011年、なでしこジャパンがワールドカップを制しました。あのときもウトウトしながらでも思わず見てしまったのをよく覚えています(笑)そして2014年のブラジルワールドカップでまた衝撃を受け、2018年はロシアに熱中するという、こうして考えると典型的な揺れ動きをした世代なのかもしれません。

 ただ、サッカーはそれこそまさに平成の時代と並行して進んで来た面もあり、その意味では2010年代に印象的なものというと、どうしても震災になるんでしょう。プロ野球は3時間半ルールみたいな直接的な変化もありますが、あの頃はそれこそどんなものでもそことの関係のなかで言及されているような気がして、さまざまな形で影響し続ける、無意識レベルで目を背けることができなくなっていたように感じたのを覚えています。

 その震災とのからみで思い出すのは、野球好きとしては「2013年の田中将大」でしょうか。24連勝という驚異的な記録と、ドラマチックな胴上げ。2013年はバレンティンのホームラン60本、上原浩治のワールドシリーズ胴上げ投手など、ドラマチックなことが多かった1年でした。あのあとに両リーグでトリプルスリーがでたり、Bクラスの常連だったカープがぐっと強くなったり、十年一昔とは言いますが、近鉄バファローズのローズ・中村応援歌を口ずさんでいた身としては時代が変わったんだなぁ……と思わざるを得ませんね。


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 そんな2013年ですが、オリンピック東京開催がきまった年でもあります。思えばこの10年、夏季・冬季かかわらずオリンピックのたびに結果に一喜一憂していた気がします。バンクーバー、ソチ、平昌、ロンドン、リオ……それこそ水泳の個人メドレーや陸上の短距離走でメダルがとれる未来なんて小さい頃は想像できませんでしたし、トレーニングの進化など背景は様々なのでしょうが、驚きを隠せません。

 日本で行われるのは2020年。大河ドラマでもとりあげられ、いよいよまた渦に収斂していく感覚がやってくるのでしょうか。新しい10年のスタートになる大会期間の数週間は、もうすぐそこです。

 すぐそこ、といえば、2019年のスポーツイベントこそ目の前です。女子ワールドカップ、バスケットボールのワールドカップもありますが、国内的話題でいうと、2015年の熱狂が懐かしいラグビーが、いよいよ4年後のワールドカップを迎えます。日本代表の活躍もさることながら、世界各国のラグビーが間近で見られるチャンス。MLBの開幕戦が日本で行われるのもそうですが、こういう普段は見られない選手の一挙手一投足を食い入るように見つめることができる機会がやってくるのは、首都圏に住んでいてよかった、と思う田舎者です(苦笑)。

 いよいよはじまる1年。また年末に『Number』で総決算されるころには、どんな1年かわかることでしょう。また、たくさん写真を撮らなくちゃなあ……。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 人生には時々、流されないと生きて行かれない瞬間が来る。そういう時は流されてもいい。だけど流れが穏やかになって自力で泳げるようになったら、泳ぐことだ。(略)そうじゃないといつまでも流されて、どんどん自分が本来着きたかった場所から遠ざかる 》


 そしてこう続く。《 自力で泳いでいる間に目的地を自分の意思で変更するのは構わないんだ。だが流されているだけなのに、安易に手近の岸にあがろうとしちゃダメだ 》と。さて、僕は今、流されているんだろうか。それとも、自力で泳げているんだろうか。



珍しく青春ミステリーなど Part1――丸善津田沼店 沢田史郎

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 今更、念を押すまでもないとは思うが、僕はミステリー読みでは全くない。

 Who、Why、Howといった知恵比べよりも、人物造型や感情表現のリアリティ、印象的な情景描写などに関心が向いてしまい、作者が周到に仕込んだ伏線や陽動にはちっとも気付かないまま読み進んだ挙句、いざ種明かしの段になっても「やられた!」とか「そう来たか!」なんていう驚愕を味わう以前に、「えっ? なんでそうなるんだっけ??」などと、そもそも謎解きというゲームに参加出来ていないという状況が頻繁にある。

 そんな僕がミステリーを薦めたところでどれ程の説得力があるのか甚だ疑問ではあるが、珍しくミステリーを立て続けに読んで、しかもそれがどちらもアタリだったから、ちょっと紹介してみたい。

 素人を主人公にしたミステリーって、制約が多くて大変だろうなとは、ミステリー音痴の僕でも想像はつく。捜索令状さえあれば鍵をこじ開けてでも建物内に入り込んで、ちょっとでも怪しいと思った物品は片っ端から押収出来る警察と違って、素人探偵の場合は何かを強制する権利を持たないのは勿論、相手の敷地に一歩でも無断で入れば不法侵入だし、犯罪の証拠と云えどもこっそり持ち帰れば堂々たる窃盗罪である。

 20~30年前頃のミステリーでは、一般庶民の俄か探偵が、悪役の首筋をエイヤッと叩いて気絶させるだとか、針金を使ってものの数分で扉を解錠したりだとかいうケースが決して珍しくなかったんだけど、そんなこと、特殊な訓練受けた人じゃなきゃ出来っこないっちゅーねん(笑)。

 流石に最近は、そういった作者のご都合主義は見かけなくなったけど、それだけに、創作のハードルは一層高くなっているのではあるまいか。


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 ましてや主人公が未成年だったりしたら、その困難さは尚更だろう。親や教師の目はごまかさなきゃいけないし、当然、徹夜の張り込みなんかは無理だろうし、移動するにしても車の運転は出来ないしとっさに何万円も払って飛行機に飛び乗るなんてのも難しかろう。

 って言うか、そもそも「さっさと警察に届けろよ」って話だし、何かの事情でそれが難しくても、親とか先生とか周りの大人に相談するのがフツーだし、そういう常識を無視して未成年だけで事件を解決しようとするならば、その理由は何やねんってことになるけど、読者が納得出来る〝 理由 〟を作り出すのは至難の業に違いない。

 かと言って、親や警察をアテにしなくても済む程度の〝 事件 〟にしてしまうと、今度は緊迫感と言うか重大さが欠けてしまい、「そんなん、どーでもエエやろ」ってことになってしまって、そもそもミステリーとしてどうなの? ってことになりかねない。

 永嶋恵美の『一週間のしごと』は、そこんとこのバランスが絶妙で、〝 自分たちだけでどうにかしなきゃいけない状況 〟のリアリティと、子どもたちだけで解決できるギリギリの難易度という匙加減が大変巧み。故に、僕のようなミステリーを愉しむ事が下手な読者も、「いや、それあり得ないでしょ」などと野暮なツッコミを入れることなくハラハラ出来る。

 とりわけ、中盤以降、〝 事件 〟が当初の予想から少しずつズレ始めてからは、危機一髪の連続でかなりヒヤヒヤさせられるんだが、それは取りも直さず、主人公たちをきちんと〈 素人 〉らしく描いてきた作者の努力の賜物だろう。即ち、侵入だの戦闘だのに慣れていない高校生だからこそ「オイオイ大丈夫かよ」と心配になる訳で、先に述べたような〝 敵の後ろから忍び寄って首筋に手刀一発 〟的なご都合主義ミステリーだったら、この緊迫感は絶対に生まれない。

 と言う訳で、前置きが長くなったが『一週間のしごと』である。


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 主人公はともに高校1年生の恭平と菜加。恭平は頭脳明晰冷静沈着、菜加はおっちょこちょいの直情径行型。そして、高校受験を控えた菜加の弟・克己は、しっかり者だが少々ビビリ、というキャラ設定。

 物語の幕開けは土曜日の渋谷。ヤンママ風の母親が、幼い子供を怒鳴り散らして置き去りにする場面を、菜加がたまたま目撃する。放っておくのも気が咎めるので声をかけると、小学校に上がるかどうかという歳の子どもが、なんと一人で家に帰ると言う。鍵もちゃんと持っている。きっと慣れてはいるんだろう。とは言えさすがに心配だからと、子どもの自宅まで付き添ってみたものの、待てど暮らせど親が帰宅する気配はない。やがてお腹も空いてくる。

 と、ここで菜加が、交番ではなく自分の家に連れ帰ってしまうから、物語がこんがらがる。彼女としては、ちょっと飯でも食わせてやろうという程度の軽いおせっかいだったに違いない。が、実はタロウ――殆ど喋ろうとしないから、便宜上、菜加と克己が付けた名前――とその母親は、この時点でかなり危険な状況に置かれていて……。

 という導入部。繰り返しになるが、未成年がヤバい事件にそうとは知らずに首を突っ込んで、ヤバいと気付いた時には後戻りするには遅すぎた、というリアリティはなかなかのもの。

《 善良なる市民の義務は、迷子を交番に連れていくことであって、自宅に送り届けることじゃない。渋谷の駅前に交番くらいあっただろ 》

と、相談を受けた恭平が菜加を責めたところで後の祭り。教師や友人の目をごまかしながら、学校を抜け出したり、夜中に民家を見張ったりといった描写は、喩えるなら『007』を高校生レベルにスケールダウンしていながらも、緊迫感はそのまんまといった風情。


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 そして本作を傑作たらしめているもう一つの要素が、主役を務める3人の若者たち。先に述べたように〝 頭脳明晰でクールな恭平 〟〝 お人好しだけどおっちょこちょいの菜加 〟〝 一番の常識人で危ない橋は極力避けたい克己 〟というそれぞれの個性が徹頭徹尾ブレることなく、気弱だった筈のキャラがピンチに陥って発作的に勇敢になっちゃうみたいな強引さが全く無い。

 そして、事件のそもそもの発端ともいえるタロウ少年。セリフらしいセリフは殆ど無いにもかかわらず、こんなにも魅力的なのは何故なんだ? 物語の中盤、かすかな笑顔を見せる程度で喋りもしないし怒りもしなかったタロウが、思わず涙をこぼす場面がある。ちょっと長いが引用したい。

《 最近までタロウは母親のことを「ママ」と呼んでいたのだろう。菜加にも覚えがある。ちょうどタロウくらいのころ、子供っぽい呼び方が恥ずかしくなって、急に「お母さん」と呼ぶようになった。それでも、時折、思い出したように「ママ」と呼んでしまったことがある。
 リュックサックからハンカチを出して、タロウの涙を拭いてやった。「お母さん」と呼び始めたばかりの子供が「ママ」という呼び方に戻る時。それは、寂しかったり、心細かったりするときだ。
 泣くな、とは言えなかった。もしも菜加が泣くなと言えば、タロウは泣きやむに違いない。無理矢理にでも泣きやむこと出来る、タロウはそんな子どもだ 》

 そんなタロウが、泣くまいとしながらも抑えきれずに涙をこぼしているのだ。この健気さに胸打たれない読者は鬼である。そしてこの頃には既に我々は、どうにかしてタロウを幸せにしてやりたくて、だけど自分たちには手出しが利かないから菜加と恭平と克己を、全力で応援することになる。いや、よく組み立てたね、このストーリーを。

 実は本作、2005年の単行本発売時に読んで、面白い面白いとやたら盛り上がった記憶があるんだが、今回の文庫化で久しぶりに読んだらやっぱりめっちゃ興奮しながら読了した。書店員としてまたこの作品を販売できるのは実に恐悦至極に存じます。って言うか、もっと早くに文庫化しろよ、東京創元社。




 悲劇のヒロインとして生まれ変わったブロリーに心奪われました!

 昔からドラゴンボールが好きで、その中でも一番好きな敵キャラがブロリーでした。ブロリーは映画限定のキャラというプレミア感と屈強な肉体で不死身。子供の頃の私は、ブロリーを観て絶望を覚えたほど最強の敵キャラでした。

 これまで三度、劇場に登場した事から人気なのは周知の事実。そのキャラを改めて軸にし、今現在のドラゴンボールの世界に入れ込むのはどうなんだろう?と、最初は凄い心配でした。しかし、ものの見事に溶け込んでくる作品に仕上がっていて驚きました。ドラゴンボールを知ってる人も知らない人も、すんなり世界観に入っていける前半の重厚なストーリー。迫力のあるアクションシーン。鑑賞後の今、ありがとうと心から思う。

2018年も終わりましたので、年間の個人的ベストテンを上げます。

①スリー・ビルボード
②判決、ふたつの希望
③ブリグズビー・ベア
④孤狼の血
⑤彼が愛したケーキ職人
⑥タクシー運転手~約束は海を越えて
⑦ボヘミアン・ラプソディ
⑧ドラゴンボール超 ブロリー
⑨THE WITCH 魔女
⑩アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル



珍しく青春ミステリーなど Part2――丸善津田沼店 沢田史郎

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 越谷オサムと聞いて多くの人が思い出すのは、やっぱり『陽だまりの彼女』なんだろう。あの松潤が主演で映画化されて、たちまち文庫もベストセラー。くすぐったくなるような甘酸っぱい描写、思わず吹き出さずにはいられないユーモア、そして誰もが夢にも思わなかったクライマックスと、三拍子揃った実に完成度の高い小説だと思う。恋愛ものが好きな人ならまずもって後悔はしないだろうから、未読の方にはこの機会に、是非にとお勧めしておきたい。

 とは言え、だ。越谷オサムの本来の土俵は、決して恋愛小説だとは思わない。いや、恋愛小説が下手だと言っているのではないよ、念のため。恋愛の描写も巧いんだけど、彼にはもっと得意なジャンルがあるのだと、そう言いたいだけだ。

 その一例として、今回は『空色メモリ』を挙げてみたい。汗かきデブとひょろひょろメガネという典型的な〝 非モテ男子 〟という素材に、『陽だまりの彼女』的な恋愛要素と、北村薫『空飛ぶ馬』風の〝 日常のちょっとした謎 〟をブレンドして、恋と友情が弾ける、痛快で爽快な青春ミステリーに仕上がっている。

 舞台はとある田園地帯にある高校の文芸部……っていうだけで、既に非モテフラグって感じだが、その部長がひょろひょろメガネのハカセこと、河本博士、2年生。読書家故にやたらと博識ではあるが、その知識が他人とのコミュニケーションに役立った試しは無く、イジメられている訳ではないけれど注目を浴びることもないという典型的なマイナー系。

 ハカセの友人の桶井陸は、ブーちゃんというあだ名が示す通り、身長は170センチ弱なのに、体重は98キロ、ウエストは115センチという小さな巨漢。居場所が無いのかヒマなのか、多分両方なんだろうけど、正式な部員ではないのに文芸部に入り浸り。

 こんな2人だけが出入りする、校舎のはじっこの寂れた部室に、或る日、控えめで可愛らしい1年生のメガネ女子が、何故か入部を希望してやって来る。その楚々とした風情にハカセは解りやすく一目惚れ、陸はそんなハカセを面白がりながらもそこは友だち、一生懸命に援護射撃を開始する。


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 といった日常を、陸が日記とも随筆ともノンフィクションともつかない形で、我流に書き綴った文章が、本書『空色メモリ』であるいう構図。そのタイトルは、この文章を保存しているのが空色のUSBメモリだからってだけで、ロマンチックでもセンチメンタルでもないんだが、自分たちの日常をあけすけに綴っているだけに、陸としては、誰かに読まれてはちょっとマズい。

 ところが或る日、そのUSBメモリが盗まれたことで、陸とハカセを中心に何人かの高校生たちの運命の歯車が動き出す――って程大げさな話ではないんだが、山も谷も無かった彼らの学校生活が、途端にバタバタと騒がしくなる。

 物語の背骨になるのは当然、そのUSBメモリの捜索と奪還な訳だけど、他にも読みどころは幾つもあって、例えば件の〝 ハカセ一目惚れ事件 〟の行方。と言うか、一目惚れ事件を通して描かれる、ハカセと陸の間柄。

 恋愛経験ゼロのハカセは、野村さんというその1年生を前にすると、告るどころか、ごく常識的な会話すら成り立たない。《 沈黙がこわくてむやみに焦る 》と陸にアドバイスを求めたところで、陸だってまともに女の子と付き合ったことなど無いのである。《 その焦りが向こうにも伝わってんじゃないの? それで『なんか話しにくい人』みたいに思われてんだよ 》という気配までは察しても、じゃあどうすりゃ良いのかなんて、知恵も経験も持ち合わせは無い。

 だから、ちょっとした緊急事態でハカセが初めて野村さんに電話しなくちゃならなくなった時、上手く話せるかどうか不安がる彼に、陸は一言《 心配するな。相手も日本語だ 》と、無茶な励まし方をする。

 或いは、野村さんをカラオケに誘えるシチュエーションを陸がせっかく演出してやったにもかかわらず、そうとは気づかずにハカセがスルーしてしまった場面では、《 あー、じゃねえよ。絶好球見逃してむずかしい球に手を出しやがって 》と叱ったりもする。


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 そんな彼らのやりとりは〈 友情 〉とか〈 友誼 〉などの硬い響きではなく、〈 ツーカー 〉とか〈 馬が合う 〉といった柔らかさを感じさせる仲の良さで、読んでて実に心地が良い。

 そして我らが陸である。ブーちゃんなどと体型をネタにイジられてもどこ吹く風といった風情の彼はしかし、その体型こそが一番のコンプレックスになっており、だけども、体型を気にしてるのを悟られるのは恥ずかしいから、さも気にしていない風を装って、陽気で愉快な三枚目を演じ続ける。

 実は彼には、中学の時に勇気を出して告白したら、《 デブじゃなくて、普通の人じゃないとやだ 》とこっぴどくフラれた過去があり、それは当然大きなトラウマになっていて、そうは書いてないけど「俺みたいなデブが女の子を好きになるなんて、おこがましい」ぐらいに深々と、自己否定の根が張っている気配がある。だから、ちょっと気になる女子がいても、自分で自分の気持ちを、まるで生き埋めにでもするかのように葬ろうとする。

《 いやちょっと待て。なんでそんなことが気になる。なに色気出してんだ。デブだろ。ただのデブとしか思われてないよ 》と。気になる彼女は《 おれと仲がいいんじゃなくて、おれとも仲がいいというだけのことだろ 》と。そして、例のトラウマが顔を出す。《 中学のとき、そのへんを履き違えて痛い目に遭ってんじゃん 》と。

 解るよね? 誰だって、ピエロになりたいとは思わないじゃん。

 けれども、だ。件のUSB盗難事件を解決するため四苦八苦してゆく過程で、〝 デブの陸 〟を肯定してくれる仲間が、一人、二人と現れる。

 最初は陸も気付かない。体型が話題になると自虐的なギャグで笑いをとって、その裏では、トイレにこもって汗ふきシートを使いまくる。デブで汗かきというコンプレックスを覆い隠すのは、陸に取って三度の飯よりも大事な日課だ。ところが、少しずつ見えてくる。「なんか俺のデブとか汗かきとか、相手、あんまり気にしてなくね?」と(笑)。


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 そうなのだ。この小説、友情と恋愛で味付けしたミステリーという体裁を採りながらも、実は、コンプレックスだらけの若者がそのコンプレックスに懸命に抗って自分を肯定してゆく姿を描いた、めちゃくちゃ爽やかな青春小説なのだ。そしてその、自分の欠点から目を逸らそうとする弱い自分を、ナチュラルに受け入れて支えてくれる存在。即ち、〈 仲間意識 〉や〈 連帯感 〉をケレンも美辞麗句も無く実に真っ直ぐに描き出す。それこそが越谷オサムの、最も越谷オサムらしいところだと思うのだ。

 日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞となったデビュー作『ボーナス・トラック』では、ひき逃げされて命を落とした若者の幽霊と、その事故を目撃した青年が、奇妙な同居生活をしながら友情を培ってゆく姿を、爆笑+爆笑+最後は切なくという絶妙の筆遣いで描いてみせた。

 廃部寸前の軽音楽部を舞台にした『階段途中のビッグ・ノイズ』では、たった一人の部員となった主人公が、部員を集め、切磋琢磨し、時には言い争ったりもしながら、メンバーを信頼することとメンバーの信頼に応えることを学んで、四面楚歌だった状況をじわじわと変えてゆく。

 そして『空色メモリ』だ。

 人は見かけじゃないとか、恋愛は顔じゃないなんてキレイ事を言うつもりはない。スタイルが悪いよりかは良いに越したことは無いし、ブサイクよりも美形の方が、誰だって良いと思うだろう。でもさ……と、これ以上続けるとそれこそキレイ事になるから止めておくけど、「自分なんて」と欠点ばかりを挙げて一歩を踏み出せずにいる若者たちに、是非とも読んで貰いたい。

 無鉄砲なエネルギーと、傷つきやすい繊細さが矛盾することなく同居する十代という世代を、越谷オサムほど活き活きと描く作家は、そう多くはいないと思う。



新刊案内

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編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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1月のイベントガイド

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by dokusho-biyori | 2019-01-08 06:16 | バックナンバー | Comments(0)

18年12月

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年暮の今、手に取った本――文藝春秋営業部 川本悟士

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 いつの頃からでしょうか、「ハロウィンでメインストリートから裏通りまですごいことになっています!」というニュースが流れ、学校でも街でもひとしきり盛り上がり終わると、一気にクリスマスの足音が耳元近くに響くようになりました。

 一方ではプレゼントに添えるカードに一筆いれ、他方では年賀状のシーズン……。筆まめな人は大変だなぁとつくづく思います。この時期になるたびに、「自分の文字はどうしてこういう形なんだろう……。なんかこう、もっとパッとしないもんかしら……」と思うことも多いのですが、新保信長『字が汚い!』を読む限り、世のなかには私と同じような実感をもつ人がたくさんいそうで心強く思います。

 それにしても、12月25日の夜から一夜にして門松をおかねばならない変わり身の早さもどうかとは思うものの、かといってハロウィン当日を境目として、11月からほぼ2ヶ月クリスマスムードなのも不思議といえば不思議な気がしますね。

 境目といえば、先日「なにかクリスマスっぽい本もってなかったかな」と何気なく手にとったレヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』も、この時期に読むと子どもたちを見る目に変化が生じる一冊だと思います。


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 人類学者として名高い彼によれば、そもそもクリスマスの背景には生と死の境があったそうです。なぜ「サンタクロース」がここまで世のなかで浸透し、クリスマスにはどんな意味があったのか……。しきたりの背後にある大きな構造が描き出され、「生きていることの穏やかさ」に捧げられた構図が示されるうちに、生と死の境といいますか、超えると一気に景色が変わってみえる一線といいますか、そういった境界は意識できるところ――日常のすぐそば――にあるのかもしれないなあ、と思わされました。

 最近でいうと、そういう感覚は特に「杉村三郎シリーズ」の読後感にやってきました。最新刊の『昨日がなければ明日もない』でもそうですし、『希望荘』でもそうですが、何気ない日常のなかでひゅっと背中に冷たいものがあたったような、急激にあらわれる「みえてなかったもの」にびっくりしてしまうあの感じ。誰かと会ってしまったがばっかりに人生が変わり、たまたま起きた地震で見えていたものがみえなくなる……。

 ミステリーについてはあまりネタバレのようなことをしたくないのでこれ以上は触れませんが、先日読んで以来、駅のホームに立つたびに「ここから一歩踏み出してしまうと戻ってこれないかもしれない」といううすら寒い不安感を感じるのは、気温が低くなってきたからだけではない気がします。


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 さて、戻ってこれないかもしれない、というと、いま一番その言葉がふさわしいのは森見登美彦『熱帯』といっていいと思います。年末休みが近づく今だからこそ読んでほしい、誰も読み終わったことのない不思議な一冊の本をめぐる冒険譚。
 私も読んでいて何度「戻ってこれるのだろうか」と不安に思ったことでしょう。そのたびに触り心地で残り何ページなのかを確かめて、「戻ってこれるんだ!」と前に読み進めていきました。その意味でも「本」の形で手にとっていただきたい一冊ですが、ぜひこの本を手に入れた方は読みながらカバーを外してみてください。本当に凝った装幀の一冊で、最初に見たときはモノとしてとてもオシャレだなぁと年甲斐もなくテンションが上りました。

 それにしても、読後、「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」という読書好きの心をくすぐる帯をみるたびに、小学生のときに図書館で見つけて読んでいた、『はてしない物語』を思い出します。

 思えば、人生のなかで一番本を読んだ時期はいつだろうな、と思うと、案外小学生の頃かもしれません。中学生以降はマンガ、大学生ではなんだかんだ学術書と種類は変わりましたが、小学生の頃に読んだ小説の山がいつの間にか自分のベースに残っているような、そんな感じ……。三つ子の魂百までではありませんが、結局「振り返れば奴がいる」感とでもいいますか、自分は過去の自分が歩いた先から逃れられないのだと思います。それこそ、「昨日がなければ明日もない」わけですね。

 もちろん、それだけにときたま過去の自分ながら「そこまで読んでてどうしてこれを読んでないんだ」と今からそいつを殴りに行きたくもなるのですが(笑)。

 と、気になる『熱帯』の内容についても深く立ち入っていきたいところですが、「これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」ということで、本日はここまで……。クリスマスがすぎればお正月。来年は2010年代最後の一年。この10年色々ありましたが、来るべき年がいい一年になりますように。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容れてやった。 》


 台詞はこの後こう続く。《 然るに鳩は、いくらはばたいても飛び上がることが出来なかった 》。この鳩にとっての〈 空気 〉と同じ性質のものが、僕らの身の回りにも結構ありはしないだろうか。普段は邪魔だ邪魔だと感じていても、本当はそれが無くなると困ってしまう、というものが。それが何かは、勿論、人それぞれだろうけど。



苗木と添え木――丸善津田沼店 沢田史郎

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 宮本輝は、人と人とのつながりを描き続ける作家だと思う。もう少しくどく言うと、人が人とつながることによって生き方や価値観が変わってゆく、そのプロセスを、劇的な出来事ではなく日常の小さなエピソードや会話を使って丁寧に浮き彫りにする、そういう作家だと思う。その構成を例えるならば、霧に覆われた道の上でどっちが前か後ろかも分からない冒頭から、読み進めるうちに少しずつ視界が晴れてきて、最終的には「あぁ、ここに向かって歩いていたのか」と合点がゆく、そんなイメージをいつも抱く。

 今回紹介する『三十光年の星たち』もまさにそれ。

 主人公は坪木仁志、30歳。自ら始めた小商いがトラブルで水泡に帰し、80万円ほどの借金を背負いこむ。その借金の相手が佐伯平蔵という75歳の老人で、たまたま隣に住んでいるというだけで何をやって暮らしているのか、家族はいるのか、その他〝 素姓 〟というものが全く分からない。

 と言っても先方にとってはこちらの方こそ素姓が分からない若造である筈で、そんな自分に無利子無担保でどうして金を貸してくれたのか、ちょっと薄気味悪くも思っていたら案の定。

 商売が立ち行かなくなったので、車を売って借金返済の一部に充てるつもりだと正直に白状すると、「ならばその車を売らずに、暫くの間、運転手をやれ」と言う。一体どんな風にこき使われるのかと恐る恐る承諾すると、まずは福知山に向えとの指示。道々、佐伯老人が話すともなく話すのを総合すると、その福知山には32年前に200万円を貸した女性が住んでいるという。そして彼女は、月によって3千円だったり5千円だったりという小額ながら、32年間一度も滞ることなく毎月返済を続けてきたという。

 それは確かに立派なことだとは思うけど、だから何やねん? と言うか、その女性のところに行って何するつもりやねん、このおっさん……。というのは一人仁志だけの疑問ではなく、本書を読み始めた全ての読者に共通に浮かぶ問いだろう。


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 物語はその後も、佐伯老人が随分昔にお金を貸した人のところをあっちこっち回る形で進んでゆく。仁志はその間、律儀に運転手をやりながら、貸した金の取り立てなんぞもやらされて殆どパシリ。当然ブツクサと不平ばかりこぼしていた仁志だが、佐伯老人の命令や説教は常に一本筋が通っていることに気が付き始める。

《 現代人には二つのタイプがある。見えるものしか見ないタイプと、見えないものを見ようと努力するタイプだ。きみは後者だ。現場が発しているかすかな情報から見えない全体を読み取りなさい 》

《 自分なりになら、だれでもできるよ。自分なりにという壁を越えるんだ。きみは世の中に出てからずっと自分なりにしか頑張ってこなかったんだ 》

《 きみが、十年必死に稽古をしても、大相撲の横綱にはなれないんだ。横綱どころか幕内力士にもなれない。(略)きみは、これからの十年、自分の何を磨くのか。それを決めなさい 》

 と同時に仁志は、仕事にしろ人間関係にしろ、気に入らないこと、苦しいことからはいつも逃げ出していた自分の生き方を、否が応でも振り返ることになる。

《 規模の大小にかかわらず、会社というところには、どうにも尊敬しようのない上司が多い。(略)自分は、社会に出て以来、ずっとそういう連中のもとで働いて、すぐに愛想が尽きて癇癪をおこし、こんなところで辛抱してもどうにもならないと決めつけて見切りをつけ、勤め先を転々としてきたのだ。そのあげくが、このていたらくだ 》

《 自分は、なにか間違った考え方をしてきたのではないのか。すぐに人の欠点に腹をたてるという己の性格を省みることがいちどとしてあったか。それこそ「慢心」というやつではないのか…… 》

 こうやって、仁志が自分を見つめ直し、一から磨き直そうと腹をくくる、この辺りからがこの小説の多分キモ。


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 著者は、「あとがき」の中で、若い人たちのトライ&エラーに対して冷淡になってゆく世の中を見渡して、こんなことを言っている。

《 人間には何らかの支えが必要だ。とりわけ若い人は、有形無形の支えを得て、難破船とならずに嵐をくぐり抜ける時期が必ずある。だが、いまのこのけちくさい世の中は、若者という苗木に対してあまりにも冷淡で、わずかな添え木すら惜しんでいるかに見える。/私は「三十光年の星たち」で、その苗木と添え木を書いたつもりである 》

 要するに、だ。この作品は、現代の若者に向けた(我ながら、じじむさい言い方だなぁ)宮本輝からの厳しくも温かい声援であり、それ以上に、能力主義だの成果主義だのと尤もらしい理屈で若者を縛り付けて追いたてている大人たちに対する、痛烈な叱責ではないだろうか。

 それが証拠に、仁志が行く先々で出会う〝 大人 〟たちの中で、真摯に後継者を育てることを考えている人物は、異口同音に、若者には時間が必要なことを説く。曰く

《 自分で考えてつかんだもの。自分で体験して学んだもの。それ以外は現場では役に立たない 》

《 やれ、と言われたことを、やれ。こんなことをして何になるんですかなんて、いちいち訊くな。なんでこんなことをさせられたのかは、何年かあとになってわかる 》

《 これから先、三十年のあいだ、そのつどそのつど、悩んだり苦しんだり、師匠を疑って反発したり、ときには恨んだりもするだろう。そしてそのつど、なぜだろうと考えつづけるだろう。/そうやって考えつづけて、あるときふっと、ああそうなのかと自分で気づいたこと以外は何の役にもたたないのだ 》

 これらの台詞は、若い人たちにも響くんだろうが、それ以上に〝 かつて若い人だった世代 〟が、その〝 かつて 〟を振り返った時に、大いに首肯するのではあるまいか。

 あの時、あの上司に怒られて無性に腹が立ったけど、あれは俺を一人前に育てようとしての一言だったんだな……。

 そんな追想こそが、我々中高年の武器だろう。体力では若い者には叶わない。記憶力も衰えた。多分もう、自分自身の伸びしろは殆ど残っていないだろう。だけどまだ、出来ることはあるんじゃないか? 多分、宮本輝はそう言っている。自分たちが伸び切ってしまったその代わりに、周りを見回せば、これから漸く伸びようとしている苗木たちが、きっと見つかるに違いない。だったらその添え木になることが、我々中高年の存在価値だろう。

 さぁ、一緒に添え木にならないか? もうすぐ50に手が届く歳になった僕が読むと、『三十光年の星たち』という小説は、そんな風に語りかけて来るように思えるのだ。


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 人生の先輩が後輩を導き諭す系の小説を、もう一つ。

 青春小説のイメージが強い古内一絵の異色作かつ意欲作。『赤道 星降る夜』は、青春小説と言えばまぁ青春小説なんだけど、頑張りました、挫折しました、汗と涙と友情のトライアゲインを経て、遂に大きな壁を乗り越えました、といったよくあるタイプの青春ものとはだいぶ違う。

 冒頭、ブラック企業で上司に追い込まれ、自殺を計るのが、主人公の達希青年。それをすんでのところで救ったのが、なんと、今は鬼籍に入っている勉、即ち達希のおじいさんの幽霊で、助けてやった礼にボルネオに連れて行けと言う。

 ボルネオという地名だけで、勘のいい人はお察しだろうが、勉じいさんは青春時代を、ボルネオのジャングルで過ごしたのだ。大日本帝国の軍人として。英雄扱いされて故郷を離れ、お国の為にと勇んで向った赤道直下の島で、しかし勉が実際に目にしたのは――。

《 見えない敵の艦砲射撃を浴び、有無もなく突然肉塊と化してしまう爆死と、爆撃の負傷や熱帯の病気に罹り、満足な薬もない野戦病院に放置され、下半身を糞尿で真っ黒に汚し、傷口に蛆を湧かせ、次第に瞬きすることもできなくなっていく衰弱死ばかりだった 》

《 そこには見事なものはもちろん、勇壮さの欠片もなかった 》

 つまりはこの旅は、成仏できずに彷徨っていた勉の鎮魂の旅であり、同時に、仕事で失敗した程度で自らの命を断とうとした達希が、〝 生きたくても生きられなかった 〟数十年前の青春を知る旅でもあるのだ。

 ならば達希がそこで何を学んだか。それを文字にしてしまうと途端にキレイゴトに堕してしまうのでここでは敢えて書かないが、《 彼らが見られなかった新しい世の中を、今、自分は生きている 》と気付いた彼が、そこから思考を膨らませていく過程は、清々しいと言う以外に言葉が無い。

 そしてもう一つ。この作品が秀でているのは、かつての戦争で日本が被った被害だけでなく、日本が他国の人々に及ぼした〈 加害 〉をも、偽装することなく描いている点だろう。そして現地の人々が歴史を客観的に学び直し、《 恨むことよりも赦すことを、自ら選び取っていた 》ことを、感謝と尊敬の念を込めた筆遣いで、浮かび上がらせている点だろう。

 巻末の「あとがきにかえて」で著者は言う。

《 今なお多くの組織で改竄や隠蔽が繰り返されていること等から、執筆時の四年前以上に、社会情勢はますます危うい状況に瀕しているのではないかと考えずにはいられなかった。慰霊祭で出会った誰もが口にした「過去を学んで前へ進む」という言葉を実践することが、真実求められていると痛感する 》

 例えば初めての土地で道を間違えた時、「俺は今、道を間違えているようだ」ということを認識しないと、正しい道を調べ直すことが出来ないように、間違いは間違い、失敗は失敗と認めることからしかやり直せないことってのは、やっぱりあるんじゃなかろうか? 個人でも会社でも、国家でも。



永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『ボヘミアン・ラプソディ』

映画史に残るであろうラスト21分のライブシーン! QUEENの素晴らしさ、そしてフレディ・マーキュリーの魅力が爆盛の大傑作でした!

 私はQUEENのファンでもなけりゃ世代でもない。何曲かは耳にした事がある程度の者。だったのは、この作品を観る前までの自分……今は違う! めっっちゃ好き! CD買っちゃったし(笑)。

 この作品は、宣伝の段階で〈 彼 〉の物語と言っていた通り〈 フレディ・マーキュリー 〉視点。天才は孤独とよく言うが、まさにこの作品がそれでした。フレディのセクシャリティの部分も隠さず描いていて、スターになってからの苦悩と葛藤が上手く表現されている様に感じました。その為、ラストのライブシーンにとてつもない感動が押し寄せて来るのです! そして、フレディ役を演じたラミ・マレックも完全に本人が憑依してるんではなかろうかという熱演!

 個人的には雨のシーンも好きでしたが、やはりラスト! 30分前位から涙腺崩壊状態でライブシーンで感情が爆発する感覚は、是非映画館で味わってほしい。とても愛が詰まった作品で素晴らしかった! 彼こそが史上最高のエンターテイナーでチャンピオンだ! ありがとう! 応援上映行こうかな(笑)。









by dokusho-biyori | 2018-12-13 09:58 | バックナンバー | Comments(0)

18年11月

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読書の秋、積読の秋――文藝春秋営業部 川本悟士

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 いわゆる読書の秋、ということで、いよいよ秋も深まってきました。私の学生時代は中学校以来約10年間ずっと「文化祭」と呼ばれる秋のイベントが11月の第1週に開催されていたので、だいたいこの時期をすぎるとぐっと冷え込むな……としみじみします。私のような引きこもりにはうってつけの季節です。

 ということで世の中的にも読書シーズンですが、先日来、私にもにわかに読書シーズンが来たというのか、読書しなきゃいけないシーズンが来たというのか、いつも以上に急激に部屋に本があふれかえっています。

 思えば、先輩と先日、「僕は『罪の声』が好きで……」という話をしていたときに「じゃあ『レディ・ジョーカー』は読んでみないと!」とプッシュされたあたりから雲行きが怪しくなり、『沈黙のパレード』がでるなら……、杉村三郎の新刊が出るなら……と、一気に巻数の多いシリーズものを読むことになりました。

 ただでさえ『本で床は抜けるのか』を切実な実感から買ってしまう人間なのですが、こう一気に風が吹いてくるといかんせん自分の読書スピードの遅さを呪うばかり。身の周りに文庫本くらいなら1時間もかからないで読んでしまう同級生がいたので、部屋に積まれていく本を見ていると、がーっと一気に読んでしまえれば……と恨めしい……。

 と、こういう時期は今までも何度もあって、そのたびに、どうして俺はこんなに本を読むのが遅いんだ! 一体世の中の人はどうやって本を読んでいるんだ……! と「読書法の本を買う」というさらなる泥沼にハマっていくわけですが(笑)、というわけで、読書の秋。部屋の片隅から「読書についての本」を引っ張り出してみました。


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 私の持っているなかである意味一番の「読書本」は、レーニンの『哲学ノート』かもしれません。いきなり「怪しげ」な本が出てきましたが、この本は、いってみればレーニンの読書ノートの書籍化で、彼自身のノートの記された、哲学書の要点を書き抜き、自身のまとめ、コメントを記したものです。随所に「注意!」などの書きこみや、大事な文章や概念の整理が残されていて、彼がどのように本にマーキングをし、どんなノートをつくっていたのかがわかるかたちになっています。

 この本を手に取るたび、大学の先生に、抜書をしたりまとめたりコメントをつけたりして読書ノートを作るんだよ、と言われたことを思い出します。ただ、えてして凝り性の私がノートをつけ始めるともう考えたくないくらい時間がかかるんですよね……。

 ということで、もっとすっきりシンプルに行こう、と次の本に手を伸ばしました。いわゆる読書法の本については色々あるのですが、そのなかでも有名であり、いってみればそのものズバリのタイトルのものが、『本を読む本』でしょうか。この本によれば、読書は大きく4つのレベルに分けることができるといいます。

 まず第1レベルが初級読書。単純にその文章が何を言っているのか、という文法や単語レベルで理解することです。当たり前と言われればそれまでですが、実は難しいんですよね。

 第2のレベルが、点検読書。限られた時間内にできるだけ多くの情報を手に入れるべく、目次をみたり、拾い読みをしたり、カバーや帯の謳い文句を見たりして、ざっと情報をとってくるレベルです。

 第3レベルが分析読書。この本がどんな本なのかを分類し、テーマや構造をチェックして、キーとなる部分を見つけ、そのうえで正しく批評することです。

 第4のレベルが、シントピカル読書。ほかの本と比較・関連させながら複数の本を読んでいくことです。私を含め、多くの人が書店さんで「この本どんな本かな、買おうかな」とやっている読書方法が点検読書なのかもしれません。真正面からあたって1回でわかろうとしてはいかんよ、ということでしょうか。


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 この4段階をマスターできたらそれで十分だとは思うのですが、もっと踏み込んで、ある意味でこの手の本のなかで究極なのが『読んでいない本について堂々と語る方法』です。

 いいタイトルですよね。私は『ヘッテルとフエーテル』と同じくらい好きなタイトルの一つです。この本は「読んでいない本についてコメントする」状況別に――全然読んだことがないのか、ざっと読んだことしかないのか、人から聞いただけなのか、それを大勢の前で話すのかなど――色々な逸話を入れながらぶった切っていきます。

 なかなかおもしろい本で、たしかに「読書」といわれれば最初から最後まで通読するものだと思いがちだけど、別に通読しても一部しか覚えていないもので、重要なのは本の位置づけを大づかみに捉えることではないか、といわれると、少し肩の力が抜けてきます。

 と、こうやって色々とみてみると、焦って一度でわかろうとするな、ということが色んな形で言われているような気がするわけです。なんだか師匠に諭される弟子みたいですね。

 一方で、本は存外に生鮮食品に似たところがあって、足が早いというか、今日そこにある本とまた別の日に会えるかはわかりません。今日見たその瞬間が、人生でその本を見かけられる最後の日になるかもしれない……。「弟子」としては、だからこそがばーっと読めたらなぁと思うのですが、他方で、別に一度しか読んじゃだめというわけでもないので、振り返って何回も手にとってみる……。大切なのは、そういう時間なのかも……と、先人はいっているのかもしれませんね。

 読書には時間がかかって当然。だから本が積まれていってもしょうがない……! そう言い訳しながら増やした積読本を眺めることが、私にとっての読書の秋なのでした。



残る言葉、沁みるセリフ

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《 たとえ、嫌いな奴でも愛想よく振る舞っていれば、相手もこちらに悪い感情は抱かない。そうなると、こちらも嫌いな気持ちが薄れてくる 》


 例えば車の運転中なんかでも、割り込みにイライラせずに譲ってやると、意外とハザードランプでお礼されたりすることがある。そうするとやっぱりこっちも嬉しい訳で、絶対に妥協できない状況でないなら、無駄に摩擦を増やすより一歩引いて相手をたてた方が、結局は自分が生き易くなる気がします。



新刊案内

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永野裕介のスクリーンからこんにちは。

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『テルマ』

 北欧の張り詰めた空気と、少女テルマの青春の危うさが見事にマッチ! 平成最後の年に『キャリー』を彷彿とさせる作品が上陸です。

『キャリー』を例に上げたが、実は方向性や角度は結構違う所があって、こちらの方が舞台設定も相まって喪失感が凄い。『キャリー』も相当な喪失感を感じたが、それよりも怒り! 血みどろ! てな感じ。こちらは幻想的で透明感溢れたラヴストーリー! 血が苦手な人はこちらの方がオススメ。しかーし、チカチカ演出があるので注意! 私は何より、チカチカ演出が苦手だったので困った~(汗)。

 と、言っておりますが、それを差し引いても北欧ホラーとして傑作だと思います。そして何と言っても、ラスト! 観る人によって解釈が違うだろう素晴らしい余韻。私は良い方に解釈しました。



〈 異能 〉を手にした者たち――丸善津田沼店 沢田史郎

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 マンガ的、という言い方をすると語弊があるが、人物や状況の設定が極端で「現実には絶対あり得ねー」と思いながらも、ついつい引き込まれてしまう小説というものがあって、難しい事を考えずに、それこそ〝 マンガ的 〟に読めるから、疲れている時などには重宝する。

 上村佑『セイギのチカラ』はまさにソレ。何しろ、狂気の連続殺人犯をやっつける為、超能力を持った七人の老若男女が参集するのだ。これを〝 マンガ的 〟と言わずして何と言おう。

 但し、『幻魔大戦』的な壮大でシリアスな世界観を想像してはいけない。何となれば、彼らの持っている超能力が、どうにもトホホで馬鹿馬鹿しいのだ。

 幕開けは、秋の初めの月食の夜。新宿のネットカフェで女子高生が殺される。駆けつけた警察官が《 被害者が人間であるのかさえ分からなかった 》と言う程のスプラッターな犯行現場には、しかし、捜査のヒントになるような遺留品も目撃者も、何一つ見つからない。

 一方、とあるネットのチャットルーム。〈 異能者の館 〉と名付けられたそこでは、人とは違った能力を持ってしまったが故にちょっと困ったことになっている男女が、お互いの悩みを打ち明け合って、同類相憐れんでいた。せっかく知り合ったんだから一度会おうということになり、所謂〈 オフ会 〉を開催したのが、たまたま件のネットカフェ。事件の捜査を焦った警察に仲間の一人が犯人と誤解されて拘留されたことから、〈 異能 〉を使って真犯人を探し当て、彼女の無実を証明しよう、ということになったのだが……。


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 問題はその〈 異能 〉だ。不随意筋である起毛筋を意識的に動かして、猫のように毛を逆立てられる。30センチだけテレポーテーション出来る。どんなに目の前に立っていても、全く気付いて貰えない。犬や猫と話が出来る、etc……。

 それが一体何の役に立つんじゃー!? という疑問は当の本人たちも痛感しながら生きてきた訳だが、三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、みんなでアイデアを出し合う内に、それぞれの持つ〈 異能 〉に意外な使い道があることに気が付いて、作戦を練り、役割を分担して、警察と真犯人の両方を敵に回していざ勝負!

 各々のキャラがステロタイプと言えばステロタイプ――例えば、異能者の一人である老人は「~じゃ」というのが口癖だけど、実際に「~じゃ」なんて話し方する人は、まさにマンガか時代劇の中にしかいないじゃん――ではあるんだが、その分、所謂〝 キャラ立ち 〟が良くて共感はし易い。全編を通して力の抜け加減が絶妙で、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、その馬鹿馬鹿しさが癖になる。

 そうかと思うと主人公たちの正義感だけは冷やかし抜きで描かれていて、唐突にシビレるセリフが出てきたりするから油断がならない。《 正義は単純なものじゃ。人を傷つけてはいかん。人を騙してはいかん。人から盗んではいかん。子供でも分かるようなことこそ正義じゃ。ああだ、こうだと能書き付きの正義は偽もんじゃ! 》なんて、まるでほんもののヒーローみたいではないか。

 ともあれ、感動で滂沱の涙を流したり、インスパイアされて人生観が変わったりするような作品ではないけれど、税込500円でこれだけ楽しめれば超大特価。お気に召した方には、第2弾『セイギのチカラ Psychic Guardian』、第3弾『セイギのチカラ アングラサイトに潜入せよ!』とシリーズ化されてもいるからそちらも是非!

 さて、〈 異能 〉つながりで思い出したのが、原田宗典『平成トム・ソーヤー』。ネットどころか、まだケータイもろくに普及していない時代の話だから、今の20代、30代にはちょっと違和感があるかも知れないけど、それを補って余りあるスリルと興奮を、必ずや堪能出来るに違いない。


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 本書に登場する〈 異能 〉は超能力のような非現実的なものではなく、指先の違法芸術――掏摸。

 高校3年生のノムラノブオが、自分の指先の器用さに気が付いたのは小学生の頃。当初は家族や友人に手品めいた技術を披露して満足していたが、中学生の頃、ふとした偶然が重なって初めて電車で掏摸を働く。捕まりはしないかという緊張で心臓が飛び出そうな程ドキドキしながら電車を降りたその後には、彼の心の中では、初めて犯罪を犯した罪悪感ではなく、予想以上に上手くいった高揚感が膨らんでいた。

 以来今日まで、ノムラノブオは、ゲーセンやらカラオケやらで遊ぶ金を、通勤の車内で稼いできた。僅か数年で、テクニックも格段に上達した。掏った財布から札だけ抜いて財布は再び持ち主のポケットに戻す、なんていう芸当を、ほんの数秒でやってのける。

 が、或る日、同級生の一人――全国模試の数学と物理で満点をとるほどの秀才で〝 スウガク 〟と渾名される鏑木――に掏摸の現場を見破られる。そして誘われる。

《 この計画はすごく単純なんだ。文房具屋で消しゴムを万引きするのと大差ない。いや、正確に言うなら、誰かが万引きした消しゴムを、さらにかっぱらうんだな。万引きした張本人は、文句の持って行き所がないというわけだ 》。

 要するに――。暴力団関係のある男が、自分の馬鹿息子を一流大学に入れる為に、金やら脅迫やらの手段を駆使して、入試の数日前に試験問題を受け取る手筈を整えた。それを偶然知った女子高生のキクチが、中学からの友人であるスウガクに相談し、二人してその入試問題を横取り出来ないものかと思案に暮れていた時期に、ノムラノブオの離れワザを目の当たりにして、「これは、仲間に引き込むに如くはない」と声をかけて来た……。というところまでが、起承転結の〝 起 〟の部分。


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 そこに、掏摸の世界の大親分のような老女が絡んで来る辺りからが〝 承 〟になり、ストーリーは急加速。素質があるとは言え、その道ン十年のプロから見ればまだまだ危なっかしいノブオの技術を、本番までに完璧に仕上げるために、例の老女が特訓する。爪にカッターの刃を接着して、ポッケに手を突っ込んでいる人のポッケを下から割いて、中身を掏り取る。アタッシュケースを持って歩いてる人の内ポケットからまずはアタッシュケースの鍵を掏り、アタッシュケースを開けて中身を掏る。手に持っている何かを掏り取ると同時に替わりの物を掴ませて、持ってる物が掏り替わった事に気付かせない……。

 もうその神業を読んでるだけで、例えばポールニューマン&ロバート・レッドフォードの『スティング』だとかブラッド・ピットの『オーシャンズ11』なんかを観てるみたいな、ハラハラとワクワクが錯綜した興奮状態。悪い事やってる奴らなのに、拳を握って応援せずにはいられない。

 そしてそして、珍しく東京に雪が降り積もる1月の或る日、物語の結末は刻一刻と近づいて、それからどうなる? 勿論そんなのこここで言う訳ないじゃんか。それでも一つだけ言っとくと、犯罪小説と恋愛小説と友情小説と青春小説が絶妙に融合したのが『平成トム・ソーヤー』だってこと。十数年ぶりに読み返したけど、変わらずにハラハラドキドキさせまくってくれました。

 さて、〈 異能 〉もの特集の3作目は高野和明の『6時間後に君は死ぬ』

 ストーリーはタイトル通り。主人公の美緒が街で若い男に声をかけられる。ナンパかと思って適当にあしらったら、然に非ず。その青年・江川圭史は、いつもいつもと言う訳ではないけれど、何かのはずみで他人の未来が見えてしまうことがあるらしい。そしてつい今しがた、美緒とすれ違った瞬間に分かってしまったのだと言う。即ち、《 6時間後に君は死ぬ 》と……。

 ってな幕開けの後は当然ながら、どうすれば美緒が死なずに済むのか、そもそも未来が分かったからと言ってそれを覆す事が可能なのか、二人で右往左往しながら打開を目指す。


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 こういうの書かせると、この作家はホント巧い! 右に行ったら壁に遮られて、左に行ったら落とし穴があって、後ろに戻ったら待ち伏せされててみたいな焦りと危機感を、文字だけで味わわせてくれるんだからもう!

 ネタに抵触するから詳述はしないけど、例えば、或る事態を避ける為には、終了予定の三時を三分ほど過ぎてしまうと予知されるパーティを、遅滞なく三時ピッタリに終わらせる必要がある。美緒は二人の人物に働きかける事で、パーティを予定通りに終了させようと考えるのだが、圭史曰く《 もしかしたら今の段階で、パーティはもっと遅れることになっているのかもしれない。手塚さんと教授に働きかけることで、それが早まって三時三分に終了を迎えてしまうかも 》……。って、そんな事考え出したらキリが無いじゃんか!

 といったスリルだけでなく、《 未来が定まっていない以上、すべての絶望は勘違いである 》――『幽霊人命救助隊』や、《この世に、生まれてくるべきではなかった人なんているんでしょうか。誰かをつかまえて、お前は生まれてこなかったほうが良かったなどと、他人が言えるんですか?》――『K・Nの悲劇』などと共通する高野節も、勿論健在。

《 普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか 》

《 弱気なこと言わないで。絶望なんてものが人の役に立ったことがあるの? 》

 多分僕は、高野和明のこういった〝 人生肯定 〟の姿勢に惹かれるからこそ、彼の物語を何度も何度も読み返してきたんだと思う。決して、大団円のハッピーエンドではないけれど、そして、苦しい事や悲しい事から解放される訳でもないけれど、それでも、人生は生きるに値する。そんなメッセージが、高野和明の作品には途切れずに流れ続けているように思えるのだ。


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 そして、このテの〈 異能もの 〉と言えば宮部みゆきの『龍は眠る』を外す訳にはいくまいのう。

 こちらの異能は、触れた相手の〝 心を読む 〟と言うか、〝 記憶を読む 〟力。対象は人間だけとは限らなくって、例えば物語の冒頭で、道端に落ちている傘を手にした途端に、その傘の持ち主が数十分前にどうなったか〝 見えて 〟しまう。

 その〈 異能 〉を誰かの為に積極的に使おうと考える少年と、同じ能力を持ちながらそれをひた隠し、極力使うまいとする青年。ふとした偶然から二人と関わることになった雑誌記者・高坂は、当初は半信半疑ながら、或る事件に巻き込まれてゆく過程で、彼らの〈 異能 〉に頼らざるを得なくなり……。

 他のサイキックもの、異能ものと大きく違う点は、この著者の『クロスファイア』なんかもそうだけど、〝 持てる者 〟の悲しさ、生きづらさを描く点だろう。

 例えば、自分にも〝 他者の心や記憶が見える力 〟が備わっていたとしたらどうだろう、と考えてみる。友情とか恋愛とか、成り立つかな? どんなに好きな者同士だって、たまには一緒にいて「面倒くせーな」と思っちゃうことはあるだろうし、どんなに仲が良い相手でも「チェッ」って舌打ちしたくなることはあるだろう。そういうのが全部、一から十までこっちの心に流れ込んで来ちゃったらもう、誰の事も心からは好きになれないし、本当の意味で信頼し合うことなんか出来ないんじゃないかなぁ。

 本作に於いても、〈 異能 〉で人を救いつつも、その〈 異能 〉によって傷ついていく二人の姿が、まるで体験談の如き生々しさで描写されてゆく。

 それでも宮部みゆきもやっぱり人生肯定派であることを、読了後に疑う者はいなかろう。

《僕、誰かの役に立てると思うよ。僕だけじゃないや、みんな、そのために生きてるんじゃないの? すっごく気障かもしれないけどさ、でもね、一年に一度ぐらい、夜中、一人っきりになって、そんなふうに考えてみるのも悪くないよ、きっとね 》

 個人と個人も、国と国も、駅のホームや街角でも、ネット上でも、なんだかギスギスと攻撃的な姿が目立つようになった昨今、サイキックである少年の右のセリフは、とても多くの事を語っているような気がしてならない。



今月の紹介本




編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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by dokusho-biyori | 2018-11-10 06:35 | バックナンバー | Comments(0)

18年10月

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乾杯は……――文藝春秋営業部 川本悟士
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 この原稿を書いているのは、帰路の新幹線のなかになってしまいました。カープがマジックを減らしいよいよ地元優勝か!……ということでいてもたってもいられず、他の用事と合わせて実家広島に帰ったのが三連休前の金曜日。

『Number 962号』のカープ特集号をまって、現地での盛り上がりをルポにしながら……と皮算用をしながらの帰省でしたが、雨まじりの天候とあいまって雲行きが怪しくなり、結局、往路の「ビールかけのにおいをプンプンさせながら帰ったるわ!」くらいのテンションは、復路では「明日は早いしソフトドリンクを一杯飲むか……」という重苦しい言葉へと変わっていきました……。

 というわけで今回は、実家の書棚でみつけた一冊から、あるソフトドリンクについて取り上げます!

 読者の皆さんにとってソフトドリンクといえばお茶でしょうか、ジュースでしょうか。この辺りは年齢によって違ってくるところかもしれませんね。ちなみに、個人的な事情で今回は「スカッとさわやか」にすすみたいところなので、今の私の気分は炭酸ジュースです。

 いくつになってもおいしいですね、炭酸ジュース。夏祭りに秋祭り…八月、九月と小さい頃からよくお世話になりました。まさに「スカッとさわやか」といえばコカ・○ーラ、フランスの国民的炭酸といえばオラ○ジーナ……飲料メーカー社員に聞くとまさに星の数ほど炭酸飲料ジャンルの商品はあって、それぞれに固定のファンがいるようです。


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 今回取り上げる『なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか』(……今更ですが、なんだかここまで商品名を隠してきた意味があまりないタイトルでしたね……)によれば、そんななかでも今も書店に並ぶような多くの文豪が愛してやまなかった飲料が、サイダーであるといいます。

 著者によれば、炭酸水はそもそも腐敗しにくかったこともあり、大航海時代の船乗りの日常にあふれていたもので、開拓の結果安く砂糖が手に入るようになると、レモン果汁と砂糖と炭酸水を合わせたイギリス式の「レモネード」が誕生しました。当初は治療薬として親しまれていたようです。

 伝来の諸説も色々あるようですが、そのレモネードが海を渡って日本にやってきたのは、幕末のころ。ここから日本のサイダーの歴史がはじまったというわけです。その後多くの日本人に愛されていきます。

 その一人が宮沢賢治で、彼は好物の天ぷらそばを馴染みの蕎麦屋で頼んでは、お店の仲のいい友人とよもやま話をしながら「ちょっと一杯やりましょう」とサイダーを注文していたとか。ちなみに、夏目漱石の家でもよく飲まれていたようです。夏目漱石は洋行帰りなので、当時としてはめずらしく「炭酸水」それ自体を飲むことに慣れている人だったのかもしれません。彼が胃潰瘍で病床に臥せっているときも、口にできたのは炭酸水だけだったというあたり、まさに「命の水」ともいえそうですね。

 意外なところでは、軍隊との相性も良かったようです。当時、旧海軍の戦艦にはすべて、ラムネ製造機が装備されていた、という話もあるとか。ラムネとサイダーはフレーバーの違いが大きく、ラムネはレモンの、サイダーはリンゴとパイナップル風味のものを使っていたようですが、後者のほうが値段が高かったため、ラムネは庶民派、サイダーは高級品とされていました。


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 そんな当時は高級品だったサイダーですが、軍隊の中では比較的安く手に入れることができたのだとか。若い兵士の間で親しまれ、彼らが親世代になっていく頃には「カレー」や「肉じゃが」と同様、世代をまたいで広まっていったのかもしれませんね。

 そんなサイダーは戦後、空襲などによって生産力が落ちた状態でコーラの来襲をうけたりしつつ、そのたびに長く残って現在に至るようです。炭酸が弾けるときに薫る独特のあの風味が、何年も愛されてきたということでしょう。

 今回の帰省では、発売の迫ったガリレオシリーズに触れようと、映画『容疑者Xの献身』を観たりなどもしたのですが、十数年ぶりにあった石神と湯川が杯を重ねるのはスコッチウイスキーのボウモアなんですね。見た瞬間、そうか、ボウモアか! と感動しました。えてして銘柄には銘柄の、個人的な思い出があったりするもので、彼ら二人にも、ボウモアにまつわる何かがあったのかもしれないな、と思ったからです。

 それこそ三ツ矢サイダーについての思い出を振り返ってみれば、中学の部活や試合の帰りにしばしばプシュッと開けて飲んだことでしょうか(今思えば仕事終わりにビールを飲んでる私は無事に正常進化を遂げているのではないかという気がしないでもないのですが、ここでは考えないことにします)。やっぱりそういうときの周りの様子というか、チームメイトの顔、話題になっていた音楽、履いていたシューズ……そういうものがセットで浮かんでくる辺り、あの頃から大して変われていない私は、案外あの時を楽しんでいたのかもな……と思えてきます。

 実家を背に移動しながらいうのも変な話ですが、今度の帰省では昔の友人に声をかけてたくなってきました。そのときに何を飲むのかって? 優勝の美酒なら「最高です」。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 おまえの額が狭いのはおまえが選んだことなのか、
おまえは自分の意志で顎にホクロをつけたのか 》

『リバース&リバース』奥田亜希子

 アトピーの男の子をからかっている小学生たちを、おばあちゃんが一喝する場面。セリフはこの後、こう続く。《 自分では選べないようなことを持ち出して誰かを傷つけるのは、最も品性の下劣な行為だ 》と。いいこと言うなぁ、おばあちゃん。新潮社という出版社は、こういう本もたくさん出版してきたのだ。



ルールなんか知らなくってもPART2――丸善津田沼店 沢田史郎
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 先月に引き続いて、ルールなんか知らなくっても楽しめるスポーツ小説、第2弾。

 春に、なんとも嫌~な事件があったアメリカンフットボールだが、恐らく、あんな酷い話は例外中の例外ではなかろうか。あの一連の騒動を、「こんなことでアメフトを嫌いにならないで」と、祈るような気持ちで見つめていたファンやプレーヤーはさぞ多かろう。あの事件が発した警告や教訓は様々にあるのだろうが、少なくともアメフトというスポーツが悪い訳でない筈だ。

 ということで、今月の一発目は、私立城徳高校アメリカンフットボール同好会。

 僕も本書を読むまでは、アメフト部なんて大学か実業団にしか無いだろうと思っていたんだが、高校にも、全国で100チーム強はあるそうだ。

 と言っても、例えば高校野球なら、千葉県予選だけでも毎年170チーム前後が参加している訳だから、競技人口で言えばアメフトなんぞマイノリティの極みである。故に、テレビで中継されることはめったに無いし、サッカーで言えば天皇杯決勝に当たるライスボールでさえ、スポーツニュースで2、3分も映像が流れれば御の字である。当然、ファンも増えないし、それどころかルールの浸透もままならないというのが現状……と言うよりも、20年も30年も前からずーっとそうだ。

 そもそも、アメリカ生まれのスポーツってのは、概してルールが面倒臭い。

 ヨーロッパ産のサッカーやラグビーにだって初心者には解りにくいルールが全然無いとは言わないが、アメリカ生まれのバスケットボールの〈 バックパス 〉や〈 バスケットインターフェア 〉、ベースボールの〈 ボーク 〉や〈 インフィールドフライ 〉のややこしさに比べれば、〈 オフサイド 〉だの〈 オーバーザトップ 〉だのはカワイイもんである。


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 恐らくは、ヨーロッパ発祥のスポーツってのは、サッカーにしろラグビーにしろ或いはゴルフにしろテニスにしろ、自然発生的な遊びが少しずつ発展したものであるのに対して、アメリカ産のスポーツってのは、粗っぽく言ってしまえば、「こういうスポーツを作りましょう」という目的が先にあって、それに合わせて人工的に作り出されたという歴史があって、例えばバスケは、〝 寒い冬に屋内で出来るスポーツを 〟って目的が先ずあって、それに合致するようなスポーツを言わば無理矢理ひねり出した訳なんだけども、だからこそ無駄にルールが細かくなったと言うか、自然発生的に生れたスポーツなら何となく「こういう場合は、まぁこんな感じでいんじゃね?」といったユルさで長年運用されてきた歴史によって定着したルールを、アメリカ産の場合はゼロから論理的に組み立てたから、無意識の内に〝 緻密 〟になり過ぎたんじゃないか……と個人的には考えているけど正しいかどうかは知りません。

 とにかく、そんな風にルールがややこしいアメリカ産スポーツの中でも、極め付きがアメリカンフットボールであるという意見に、反対する人は少なかろう。大体、試合中に審判が巻尺持ちだして長さを測るって、どんだけ神経質やねん。サッカーのスローインを見てみろ。ボールがタッチを割った場所で構えたからそこから投げ入れるのかと思ったら、ずるずるずるずる5歩も6歩も歩いて、最初とは全然違う場所から投げても審判、何も言わへんやん。「大体、こんぐらいでいんじゃね?」。そういう大らかさが、アメフトには全然無い。

 って、けなしている場合ではなかった。むしろ、誉めなきゃいけなかったのかも知れないが、取り敢えずアメフト知らない人にかなり乱暴に説明すると……。


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①野球のように〈 攻守交代制 〉のスポーツである。サッカーなどは、守備側がボールを持った瞬間に攻撃に転じるが、アメフトの場合、基本的には攻撃側と守備側の交代は、野球のように一度プレーを中断して行われる(多少の例外はある)。

②野球のスリーアウトに対して、アメフトは〈 4アウト制 〉である(ここで言う〈 アウト 〉とは説明の為の造語であって、正式には〈 ダウン 〉と言います)。即ち、攻撃側は〈 4アウト 〉までに10ヤード(約9.1メートル)ボールを進める事が出来なければ、攻守交代。10ヤード進められたらそれまでの〈 アウト 〉はリセットされて、再び〈 4アウト 〉までに10ヤード進みなさい、となる。

③どんな時に〈 アウト 〉になるかと言うと、分かり易いのはボールを持った選手がコートから出てしまった時や、タックルで潰された時。他にも色々あるけど、まぁ最初は細かいことはいい。

④とにかく、〝〈 4アウト 〉以内に9.1メートル以上ボールを進める 〟という行為を繰り返して、結果的にゴールラインの向こうにボールを持ち込めば、めでたく〈 タッチダウン 〉で6点貰える(ラグビーのようにボールを地面につける必要は無い)。

 相当に大雑把だが、これだけ知っていれば、何となくは試合の流れについて行けると思う。

 で、その〝 何となく 〟で楽しめてしまう小説が、須藤靖貴『俺はどしゃぶり』だ。念のために言っておくが、細かいルールや専門用語が出て来ない訳ではない。ただ、そういうところは「よく分からん」と読み飛ばしても話の筋は追えるし、一つ一つ理解してからでないと読み進められないという人には、巻末に専門用語の脚注もある。そして何よりも、この小説の醍醐味は、プレーの描写ではない! ということが大事なとこだ。

 ならば、その〝 醍醐味 〟とは一体なんぞや? それを今から説明するから、まぁお聞きなさい。


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 舞台は先ほど申し上げた通り、埼玉県にある私立の男子高。そこで、語り手であり主人公である国語の教師・佐藤吾郎が、アメリカンフットボール部を立ち上げる。その名も城徳ベアーズ。但し、部員の勧誘で早々につまづく。身体能力が優れた奴はとっくにどこかしらの部に属しており、結果、集まったのは《 運動経験は体育の授業だけ 》といったスポーツ落ちこぼれ軍団。

 そんな彼らが汗と涙と友情でめきめき実力をつけて大会でダークホース的な快進撃を続け……たりは全然しない。

 練習は、サボりも手抜きもせずに黙々とやる。時には喧嘩するぐらい熱くもなる。だから、入部前は体重100キロを越えていた生徒の身体も、数カ月でグッと絞られて逞しくはなった。けれど、ロクに運動したことすら無いズブの素人がそう簡単に強くなれるほど、スポーツってのは甘くない。技術的にはまるっきり亀の歩みである。初めての対外試合では、94対0という大敗を喫した。センスも才能も無いのは明らかだ。それは多分、彼ら自身にも判っている。

 それでもベアーズの面々は、アメフトをやめようとは思わない。「好きこそものの上手なり」と言うよりも明らかに「下手の横好き」の部類なんだが、一向に上達しないのに、毎日飽きもせずグラウンドに出て、真夏のクソ暑い時期でもプロテクターをつけてヘルメットをかぶり、必死ににグラウンドを駆け回る。

 そうなのだ。スポーツというものは、才能があるからやる、才能が無いからやらない、というものではないのである。

 その姿に胸打たれるのは、何も読者だけとは限らない。

《 何かがうまくいかないとき、俺はそれを「でぶ」のせいにしてきた 》と、顧問の吾郎は述懐する。

《 足が遅い、懸垂が一回もできない、勉強ができない、意地汚い、女にもてない……。すべて太っているせいだった 》

《 ならばジョギングするなり減食するなりして痩せればいいのだが、そういう発想は浮かばなかった 》

《 でぶだから仕方ないと自他ともに認めてしまう。何に対してもすぐに諦めてしまう 》


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 でぶで運動音痴でセンスがゼロでも、懸命に前に進もうとするベアーズの選手たちと、過去の自分とを引き比べて、「俺」は頬ゲタを張られたような気持ちになるのだ。

《 拍手を送りたい。誰か脱落すると思っていた。(中略)ダンプカーがラリーコースを走らされているようなものだろう。いつ逃げ出してもおかしくない。なにしろまともに走れなかったのだ。だが連中は頑張った 》

 やはり、である! 若者が損得抜きで何かに打ち込む姿ってのは、胸をうつもんなのである!

 そして、いよいよ今シーズン最後の試合。我らがベアーズの目標は、初勝利! ではない。一度でいいから試合中にタッチダウンを奪ってみたい――。それだけ聞けば、何て情けないチームなんだと思うだろう。だが、ここまで170ページ、彼らの奮闘を見つめてきた読者諸兄は、決してそうは感じない筈だ。アメフトのルールが分からなくても、ベアーズの面々が己の限界に挑戦し続けてきたことは、読者の胸にはハッキリと刻まれている筈だ。

 故に。第4クォーターのラスト数秒。精根尽き果てて足元もおぼつかない選手たち。その一人一人の肩を抱くようにして、吾郎が強く優しく飛ばす檄。《 ……いいか、これが最後のオフェンスだと思え 》から始まるセリフに、手に汗握らない読者はいないだろう。

 先に述べた「この小説の醍醐味は、プレーの描写ではない!」とは、そういうことだ。



今月の紹介本



永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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 レバノンから大傑作の誕生です! 下半期に入ってから断トツに面白い作品! 激押しです!!

 最初はスルーしようと思っていました。何故なら、個人的に宗教や政治が絡んだ作品は少し苦手なのと、この手の作品は著しくエンタメ性に欠ける事が多い印象があるからです。けど、アカデミー賞にノミネートされた作品なので観とくか……と言うのが最初の思いでした。しかし、劇場を出た時の思いは、自分の先入観を悔いました。法廷劇でこんなにエンタメ性が高い作品だったとは……。

 この作品で、まず素晴らしいと思ったのは話の入り。補修工事の現場監督ヤーセルがアパートの水漏れ工事を進めた所、その部屋に住むトニーが出て来て、そんなの頼んでない! と激怒。新しく取り付けた排水管を破壊する。これにヤーセルは我慢できず、クズ野郎と吐き捨てる。何か身近に起こりそうだな~と思い、すぐストーリーに入れました。そして、トニーはヤーセルの悪態を許さず、謝罪を要求。しかし、絶対謝らないヤーセル。

 この小さな出来事から話はドンドン大きくなり、レバノン全土が注目する裁判に……という流れ。あの時、謝っていればな~……。

 そう、これです! これがその作品です。いつの間にか当人同士より外野が大騒ぎ。聞き覚え、身に覚えはありませんか? これです! 勿論、この作品には宗教や政治の問題はありますが、それを抜きにしても最高に面白い作品だと私は思います!



ルールなんか知らなくってもPART2――丸善津田沼店 沢田史郎

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 さて、アメフト以上に〝 設定 〟で忌避されるジャンルがある。競馬だ。興味の無い人にとっては、働きもせずに金儲けを目論む欲張り者たちのギャンブル、程度にしか映らないかも知れない。そういう一面も確かにある。

 だが、それ以上に競馬と言うのは、一秒でも早くゴールを駆け抜けるために、人と馬とが心を一つにして戦うスポーツなのである。だから僕も、野球の日本シリーズやJリーグのチャンピオンシップを観る感覚で、ダービーや有馬記念も結構観るけど、馬券は殆ど買ったことが無い。

 で、スポーツとしての競馬の面白さを、初心者にも分かり易く垣間見せてくれるのが、2001年の小説すばる新人賞受賞作、松樹剛史の『ジョッキー』だ。

 主人公はタイトル通り、中央競馬の騎手・中島八弥・28歳。諸事情あってどこの厩舎にも属さずフリーで活動しているが、最多勝に絡むような有力騎手ではないので、騎乗依頼はなかなか来ない。乗る機会が少ないから、レースで勝ち星を重ねて名を上げることも出来ない。名前が売れないから、騎乗依頼はなかなか来ない。以下同文……といった悪循環で、時には冷蔵庫の中が空っぽになるほどの、食うや食わずの生活が続いている。

 スポーツに限らずどんな世界でも、功成り名を遂げて記憶や記録に残る人というのは、ほんの一握り。大多数は、チャンバラ映画の斬られ役の如く、顔も名前も覚えて貰えないままひっそりと活動してひっそりと舞台から消えてゆく。

 ではそういった名も無き多数派が皆、才能が乏しかったり努力が足りなかったりするのかと言うと多分そうではなく、ある世界で成功する為には人間の力ではどうしようもない〈 運 〉とか〈 巡り合わせ 〉といったものが、やはり必要なんだと思う。


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 で、八弥。それぞれの馬の気質や脚質を見極めて疾走本能を引き出すのは抜群に上手いのに、ツキに恵まれずに結果が出ない。にもかかわらず、腐らない。勝てなくても、人のせいにしない。なおかつ、馬が頑張って走った後には、精一杯誉めてやる。更には、勝てない時もたまに勝てた時も、変わらずに支援してくれる周囲への感謝を忘れない。そんな彼の快活さのお蔭で、物語全体が常に明朗な雰囲気に充ちている。

 また、八弥よりも遥かに運に恵まれているように見える後輩・大路佳康も、憎み切れない生意気さで、ストーリーにユーモラスな味付けをして飽きさせない。何しろ、たまに八弥がレースで勝つと、《 やりましたね! 生活費二ヵ月分! 》などと、馬鹿にしてるのか喜んでるのか判断に迷うような祝福をしたりする。

 その他にも、成績不振で引退するジョッキーや、逆にデビュー以来連勝街道まっしぐらで、八弥の数倍、数十倍の賞金を稼ぐ同期などが、ある時はライバルとして、またある時は同じスポーツに懸ける友人として、八弥の騎手人生に出入りする。

 更には、男性中心の古い体質を引きずる競馬界で孤軍奮闘する女性調教師や、実力はありながら勝ち星に恵まれない八弥を何かと気にかけてくれる調教師、飼い葉の管理から馬小屋の掃除まで厩舎の雑用係とも言える厩務員など、表からは見えない場所で競馬を支えている人々も仔細に描かれ、競馬が〝 馬を走らせるだけ 〟の単純なスポーツではない事がよく解る。

 よく解かると言えば、レース中の騎手のテクニックも具体的に描かれていて、「ただ馬に乗ってムチを振るっているだけじゃないんだ!?」と、初読の時には大いに驚いたのを覚えている。例えば、右脚を前に出す〈 右手前 〉と左脚を前に出す〈 左手前 〉を、手綱とあぶみを操って巧みに入れ替える描写など、まるでサッカーの神業フリーキックでも見せられたかのようで、まさにスポーツと呼ぶに相応しく、読後は〈 競馬 〉を観る目が確実に変わるに違いない。


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 そして終盤。貧乏神に取り憑かれたような八弥にも、遂に巡ってきた一世一代の大勝負。舞台は秋の天皇賞。しかし相手は、競馬史に残るような活躍を見せる名馬中の名馬。対して、八弥が乗るのは、無類の末脚を持ちながら常に後方を気にして、レースに集中出来ない臆病な馬。そんな相棒に八弥は、過去の失敗を後悔し続ける自分をいつしか重ねるようになる。

《 リードはまだ十分にある。ゴールまでは、もう二百メートルを切っている。しかしエスケプはその場所を見ずに、後方ばかりに気を取られて、後方ばかりにおびえている。/情けないと八弥は思った。/同時に八弥は、そこに中島八弥の姿を見た。/――俺も、似たようなものか 》

 本当は、この直後の十数行を引用したいんだが、言ってしまうと読者の楽しみが半減してしまうから我慢する。我慢するが、これだけは言う。このクライマックスを読んでいる最中は、元からの競馬ファンも本書で初めて競馬を知った人も、共に観客の一人となって、「行けーっ!」と叫びながら拳を振り回しているに違いない。

 そして、くどいようだがやっぱり確信する筈だ。〈 競馬 〉はギャンブルである以前に、過酷でドラマチックなスポーツである、と。

 ついでながら触れておくと、本書を読んで競馬に興味を持たれた方は、是非、宮本輝の『優駿』にも手を伸ばして頂きたい。生産者、馬主、騎手、調教師、そしてファン……。幾人もの人生がオラシオンという名馬を軸に次々と連鎖して、思いもよらないドラマが生まれる。オラシオンの活躍をそれぞれが勇気に変えて、人生の艱難を乗り越えてゆく。

 随分前に仲代達矢と斉藤由貴、緒方直人で映画化された事があって、そっちの方はちょっとアレな出来だったけど、原作は吉川英治文学賞を受賞した、宮本輝の初期の代表作。クライマックスは東京優駿=日本ダービーの府中競馬場。これまでの3年間にそれぞれの形でオラシオンに関わってきた人々が、それぞれの思いを胸に見つめる先には、ゲートの中で風にたてがみをなびかせるオラシオン……。


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 初読の時はアルバイト先の休憩室で、物凄い勢いで涙が溢れて止まらなくなって、恥ずかしいからトイレの個室に隠れて読み進めたのを、今でもハッキリと覚えてる。

 競馬の世界を舞台にした小説ではあるけど、主題は競馬そのものではなく、オラシオンという名馬に大なり小なり関わることになった人々が、それぞれの形で迎えることになった〈 人生の岐路 〉。だから、GⅠが何だとか斤量が何だとかいう競馬の知識は、全く無くても大丈夫。読後は、〈 感動 〉などという単純な言葉では表しきれない様々な感情が、胸の奥から溢れ続けるのを止められなくて途惑うに違いない。

 近藤史恵『サクリファイス』は、僕が知る限り〝 初心者に最も優しいスポーツ小説 〟だと思う。

 何しろ初読の2007年には、〈 ツール・ド・フランス 〉なる自転車のレースがあるのは知っていたが、「ル・マン24時間の自転車版?」みたいな、超間違った知識しか持っていなかったのに、読み始めたら一気呵成。しかも、自転車ロードレースの何たるかをストーリーに巧みに織り込んで説明してくれているから、読了後はいっぱしの自転車通気取り(笑)。

 一つには、著者自身がロードレースのド素人で、たまたまテレビで見かけたレースシーンに魅了されて小説化を思い立ち、自転車についてゼロから調べて書き上げたという経緯があるからだろう。だから、ロードレースを知らない人でも〈 ここさえ理解して貰えれば、面白さは伝わる筈 〉というポイントは体験的に知っていたろうし、逆に〈 こういうところを説明しないと、初心者には難しい 〉という点もしっかり把握していたに違いなく、だからこそ、これほどまでに素人が楽しめる作品になったのではなかろうか。


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 で、その自転車ロードレース。所謂〈 競輪 〉のように専用の楕円コースをグルグル回るのではなく、一般の公道を通行止めにして使うという点で、マラソンをイメージして貰うと解かり易いかも知れないが、距離と時間が全然違う。

 何しろ一日に150キロから時には200キロ以上、5時間から7時間も走り続け、レースによってはそれを何日も続けてトータルの優勝者を決めるというのだから、傍から見れば狂気の沙汰だ。因みに前出の〈 ツール・ド・フランス 〉は、山あり谷ありのコースを3週間、2日間の休息日以外は雨の日も風の日も走り続けるというから、もはや非人道的と言っていい(笑)。

 そんな過酷なレースだから、実は個人で競いながらも緻密なチームプレイが不可欠で、故に〈 エース 〉と〈 アシスト 〉という役割が存在する。そして、それこそがこのスポーツを面白くしている最大の要因だ。

 取り敢えず〈 エース 〉については説明は不要だろう。文字通りチームの中心的存在で、勝利の担い手。一番速くて強い人。チームは〈 エース 〉を勝たせる為に戦略を組む。ならば、〈 アシスト 〉とは何ぞや?

 本書『サクリファイス』の中で《 捨て駒 》と喩えられる場面があるが、〈 アシスト 〉とはまさしくそれで、例えば〈 エース 〉の体力温存の為にその前を走って風よけになる。〈 エース 〉がパンクしたら自分のタイヤを差し出す。サポートカーから補給用のドリンクを受け取って〈 エース 〉に届けるなどなど、自分もレース中であるにもかかわらず〈 エース 〉への滅私奉公を優先し、その結果自分がリタイヤしても〈 エース 〉が優勝出来ればそれでヨシという、縁の下の力持ち的な存在。


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 そんな役回りを、《 自由 》だと感じるのが、『サクリファイス』の主人公・白石誓=愛称・チカ。陸上の3千メートルでインターハイ優勝まで勝ち取った実力の持ち主ながら、常に勝つ事を期待され続け、勝利を義務付けられたような窮屈さに心が悲鳴を上げている時に、たまたま知ったロードレース。必ずしも自身の勝利を目指す訳ではないという〈 アシスト 〉に魅力を感じて転身し、プロチームに入って2年目の23歳。

 チカが所属するのは、大阪を拠点とするチーム・オッジ。そこにいるのは、日本でもトップクラスの絶対的エース・石尾豪を初め、7年間石尾をアシストし続けてきたベテランの赤城、若手の中ではスピードはピカイチ、いずれ石尾にとって代わるとさえ囁かれている、チカと同期の伊庭和実など、個性的と言うよりもクセが強いと形容すべき自転車おたくたち。

 そんなオッジが日本各地を転戦する姿を追う内に、自転車を全く知らない人でも少しずつルールを理解し、同時にその魅力に取りつかれてゆくのが『サクリファイス』の凄いとこ。

 と同時に、近藤史恵が本格ミステリーの新人賞・鮎川哲也賞でデビューしたという事を、思い出して頂きたい。

 第2章から始まる〈 ツール・ド・ジャポン 〉。移動日を挟みながら正味6日間で争われる国内有数のこのレースでの、各登場人物の言葉や行動を、決して飛ばし読みなどせずに、どうか細大漏らさず脳裏に刻みながら読んで欲しい。とりわけ、エースである石尾が、〈 勝利 〉へのこだわりをチカに滾々と語る場面。

《 アシストを徹底的に働かせること。それが勝つためには必要だ。自分のために働かせて、苦しめるからこそ、勝つことに責任が生まれるんだ。奴らの分の勝利も、背負って走るんだ 》

 最終章まで読み終えて、この石尾の覚悟と矜持の本当の意味を読者が知ったその時こそ、読者は、近藤史恵がミステリー出身の作家であったことを思い出し、本作が、スポーツ小説の中に巧みにミステリーを織り込んだ稀に見る傑作であることを、思い知るに違いない。


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 勿論、団体競技特有のチーム内の友情や確執、嫉妬や競争心も丁寧に描写されているから、謎解き云々は取り敢えず措いておいて、まずは傑作スポーツ小説としての喜怒哀楽を存分に楽しんで頂きたい。そうして読了した時に、衝撃で呆然とするのも、感極まって落涙するのも、それは皆さんご自由に(笑)。

 因みに本シリーズは長編としては『エデン』 『スティグマータ』と続いていて、更にスピンオフ的な短編集『サヴァイヴ』も刊行されている。そして、それらのどれもが『サクリファイス』に勝るとは言えども劣らない緻密な構成に仕上がっているから、『サクリファイス』がお気に召した方には断固おすすめしておきたい。

 特に短編集『サヴァイヴ』に収録されている「プロトンの中の孤独」は、犯罪や事件など一切発生しないのに、鮎川賞作家・近藤史恵の面目躍如! 『サクリファイス』でチカを鍛え上げたエースの石尾豪。彼がまだ新人だった頃のエピソードを描いた僅か60ページ程の短い話なんだが、本格ミステリーのお手本のようなフィニッシュで、僕なんぞは、結末を知っている今でも、読み返す度に気持ちが高揚するのを抑えられない。

 昨今は〈 ツール・ド・フランス 〉の映像もネットに多数上がっているから、それを流しながら読むのも、気分が盛り上がっておすすめです。



連載四コマ「本屋日和」――丸善津田沼店 西尾文惠
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編集後記
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新刊案内
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by dokusho-biyori | 2018-10-06 10:31 | バックナンバー | Comments(0)