読書日和

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「読書日和」備忘録

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2018年 04月 06日 ( 1 )

18年04月

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「いじめる側」にならないために――双葉社営業局 直井翔太郎
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 私は33歳で、4月に入社12年目、結婚7年目を迎える普通の営業マンだ。子供は3歳半と1歳半の息子がいる。男の子は、小さい頃は体が弱いと聞くが、うちの子たちは風邪を引くことも少なく、有難いことにとても元気である。

 小林由香『罪人が祈るとき』の主人公・風見の一家も恐らく、そんな普通の家族だったはずだ。一人息子の茂明が自殺するまでは。茂明の遺体のそばにはいじめを匂わせるノートが遺されていたが、名前が書かれていたと思われる場所は血で一部しか読めなくなっていた。学校からもいじめはなかったとされ、息子の死の真相が分からず風見夫妻は苦悩する。ノイローゼ気味になってしまった風見の妻・秋絵は、ついに息子の死からちょうど一年後に自ら命を絶ってしまう。普通の家族がアッと言う間に崩壊してしまう様が描かれている。

 そして、この小説のもう一人の主人公・祥平は、公園で先輩と同級生から暴行されていたところを、ピエロのペニーに助けられる。家でも居場所を失っていた祥平は、いじめ主犯格の上級生・竜二を殺して、自分も死にたいとペニーに打ち明ける。祥平の物語は、現在進行形でいじめを受けている少年の痛みをともなう闘いのストーリーだが、どこか非現実的なペニーの存在が、物語を先が読めない不思議な展開にしている。

 著者の小林さんは、デビュー作の『ジャッジメント』でも「復讐法」という架空の法律がある世界の物語を描いた。「仇討ち」のような格好いい「復讐劇」ではなく、復讐するべきかどうかを最後まで悩みぬく「人々」を背景まで含めて丁寧に描いている。デビュー作の時から書きたいテーマは一貫していたのだろう。

 ところで、うちの子たちが最近、どんどんやんちゃに育ってきていて少し困っている。特に3歳半の長男は、なかなか弟や友達にオモチャを貸せず、逆にすぐ他人のオモチャを欲しがり、私の息子らしくないジャイアニズムの持ち主になってきている。まだ小さいのだから、そんなものだと言われるかもしれないが、ふとした時にこのままいじめっ子になってしまったら、どうしようと心配になる。


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 先日、飲み会の席で同年代の仲間たちと話していて驚いたのが、そこにいた全員が「自分の子供がいじめられる側になるより、いじめる側になる方がいい」と言っていたことだ。「ちょっとくらい不良になっても更生できるし、弱いより強い方がいい」と。気持ちは分からなくないが、そこには自分の子供にいじめられて人生が変わってしまうかもしれない他人の子供の存在が忘れられている。もちろんどちらにもならないに越したことはないが、どちらかを選べと言われたら、私は息子に「いじめられる」側になって欲しいと思う。なぜなら、自分の子供がいじめられていても、私が注意していれば気がついて助けてあげることも出来るが、自分の子供がいじめをしていて、他人の子供を傷つけていることは、おそらく気がつけないと思うからだ。

『罪人が祈るとき』は、いじめにより自殺を決意した少年と、いじめによる自殺で息子を亡くした父親の苦悩と闘いの物語だ。どうか、この作品を読んだ人が皆、「いじめられる側は嫌だな」ではなく、簡単に他人の人生をめちゃくちゃにしてしまう「いじめる側」にはなりたくないなと感じて欲しい。まずは、そう強く感じた私自身が息子たちに、他人の痛みを感じられることの大切さと、自分がされたら嫌なことは他人にもしないということをきちんと伝えていきたい。そして子供が、もしいじめられていても、ちゃんと気が付いてあげられるように、会話とコミュニケーションを絶やさないように接していきたいと思う。

 分かりやすい子育ての目標としては、先ほど少しジャイアンの話が出たが、いじめる側よりいじめられる側の方が良いという意味では、ジャイアンより、のび太くんということになる。が、ドラえもんが甘やかし過ぎたせいか、のび太は、かなり我がままかつ、捻くれた腹黒い子供になってしまっている。野比家は少し違う。やはりここは、子供をきちんと叱りつつも、一緒にふざけ、親子できちんと喜怒哀楽を表現し合っているクレヨンしんちゃんの野原家のような家族を目指したいと思う。双葉社の営業マンらしく(笑)。



桜の下をめぐりながら――文藝春秋業部 川本悟士
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 この原稿を書いているときは、今年の私はまだ桜を見ていない。

 この言葉をきいて、みなさんはどういう光景を想像しただろう。一年のなかでこの書き出しからはじめるにもっとも適した時期なので、今回は本を取り上げたい。

『葉桜の季節に君を想うということ』という作品がある。とりあげた手前いいづらいが、下手にあらすじを話せないすごい作品である。そのなかで
《 花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは 》
という台詞がある。この言葉から以降がとてもよい話なのだが、ぜひその言葉にたどり着くまで最初から通して読んでもらいたいので、あえて頁数も書かないし、それについてはこれ以上立ち入らない。

 ただ、比べるのもおこがましいが、この言葉とこの原稿の書き出しは、たぶん似たようなものをイメージさせていると思う。東京でいえば3月末から4月上旬に一斉に、枝からあふれんばかりの「絵に描いたような」白紅色の花が咲く樹。ソメイヨシノだ。花見にいけば広大な淡い桃色に溺れてしまいそうになるアレ。その花の下でたくさんの別れを経験し、散るころになって誰かと出会っていることに気づく。「春は出会いと別れの季節」というが、実のところ別れのほうが先に来て、散ってしまったころに「ああ春だったな」と気づくひとも多いのではないだろうか。

『桜が創った「日本」――ソメイヨシノ 起源への旅』は、そんな桜がどう語られてきたかを丹念に追い、背景をひとつひとつ紐解き、やがて近代の日本にもたどり着く、そんな新書である。個人的には、歴史・文学好きであればはっとする文章に出くわすことも多いのではないだろうかと思う。

 実際、日本にある桜の7~9割がソメイヨシノらしい。ご存知のかたもいるかも知れないが、ソメイヨシノは接木や挿木で育てられるので、すべてがクローンである。日本で大きく広まったのも、せいぜいこの百年のこと。では、それ以前の桜の景色はどのようなものだったのだろう。


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 こう聞くと「ヤマザクラこそが日本の本来の桜だ」という話が出てくる。正直なところ、私も高校のときだろうか、国語問題集の論説文で読んだ記憶がある。だが、実はそれほど単純な話ではない。ソメイヨシノ以前の日本では、ひとつの種類の桜で覆われてなかったのである。色々あった桜が、ここ百年かそこらで次第にソメイヨシノにとって代わられたというわけだ。

 本書に出てくる、この辺りをめぐる想像が現実をなぞっていくような関係は面白い。そもそもソメイヨシノの出現以前にソメイヨシノが実在したような桜の景色を何人もが詠っていたり、たとえばTVでみる遠山の金さんの桜はソメイヨシノっぽくみえるが、時代やキャラクターからいえばヤマザクラや八重桜である可能性もありつつ、むしろ絵に描いたような桜であれば、結果的に現実の「ソメイヨシノ」と近い可能性もあったりもする。

 と、同時に面白いのは、桜語りにおいては往々にして、人工/自然、西洋/日本、新しさ/旧さといった単純化された二項対立物語をなぞっていくことである。《 「ソメイヨシノ以前」をヤマザクラで代表させること自体、現在のソメイヨシノの姿を投影したもので、きつい言い方をすれば、ソメイヨシノ的感性の産物といえる 》(60頁)という言葉が出てくるが、一度ものさしを手にしてしまった以上、そのものさしから自由になろうとすることは存外にとてもむずかしい。また、何かと桜は「日本」に関わる色んなことと結びつけられがちであるので、さらに多方面で同時多発的にえらいことになってくる。それらの時代背景を読むのも含めて、本書は単なる桜についての本ではなく、言葉を扱った、日本についての本でもあり、社会についての本でもある。


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 だから余計に、本書は読む人によって感想が異なるんだと思う。二項対立を避けながらAでないからといってBとせず、古文書を紐解く歴史学者のように丹念に古い資料を当たりながらモザイク模様をかき分けていく。今まで当たり前のように見えていた「桜」の風景が、少し変わって見えるようになる。たぶん、本を読んで一番面白い経験のひとつは、こういうことなんだろう。

 そして、東京に暮らすようになって本書を読み返すと、面白いのは実際に文章に出てくる街を歩けることだと思うようになった。桜は、本当に愛される花なんだろう。そして実際、本当に綺麗だ。ソメイヨシノも八重桜もそう。それこそ私は葉桜になっていくソメイヨシノの姿も好きだし、夏の青空が透けて見える緑の姿も好きだ。著者のいう房総のオオシマザクラも、今年こそ見に行きたい。東京各地の桜を十年かけて1本1本数えてランキングした資料も紹介されるが、つくづく、愛されていると思う。それもあって色んなところに咲いているのだが、なかでも地名とともにあげられる場所が、実際にすぐそこにある。桜をめぐる言葉を生み出してきた場所が、その桜とともにすぐそばにいるとさえいっていい。

 総武線で飯田橋まで行き、桜の下をめぐりながらぼんやりと本を読む。ふらっとそういう春の休日をすごせるのは、良くも悪くも特権だと思う。《 桜を見ないと、やっぱり春は終われない 》(216頁)、まさにそういう場所に住んでいるのだ。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 本当はわたしだって恥かしい過去ばかりなんだ。だからこそ、人の悩みに多少は耳を傾けられる。今のうちに苦しんで、悩んで、泣きわめいて、傷ついとけ。絶対にあとになって君の財産になる 》


 特に、この春卒業して社会に飛び出す若い人たちに贈りたい。一年目に苦労すると後がラクだよ。損して得取れなんて言葉もあるし、〝 今 〟だけを見てうんざりしたり諦めたりしないでね。



中学生よ、大志を抱け――丸善津田沼店 沢田史郎
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 14歳の加奈太が夏休みに、父親の故郷である沖縄の離島で過ごす6日間(沖縄と明記されてはいないが)。交互に描かれるのは30年前。即ち加奈太の父親が今の加奈太と同じ14歳だった頃の夏。思春期、中二病、反抗期。意地の悪い奴がいて、頭の切れる奴がいて、のほほんと能天気な奴がいて、ちょっと気になる女子がいて……。

 椰月美智子『14歳の水平線』は、小細工無し、直球勝負の中学生小説。小学生の頃と比べると、人間関係だとか将来の進路だとか、やらなきゃいけないこととか覚えておかなきゃマズいこととか、身の回りの何もかもがいつの間にか窮屈になっていて、そのことにふと気付いて焦ったり苛立ったりする姿が、けれん味の無い文章で紡がれてゆく。《 今までいつも、自分だけが貧乏くじを引いているような気がして 》いた加奈太が、小さな衝突や誤解を経て、《 みんな言わないけど、きっと大変なことや悩みがあって、きっとおれだけじゃなくて…… 》と気付いたのは、子どもから青年への第一歩。さしずめ「てれれ~てってって~加奈太はレベルが上がった。加奈太は〈 友情 〉のじゅもんを覚えた」といったところだろうか。沖縄の波の音が聞こえて来そうな爽やかな読後感。

 はらだみずき『帰宅部ボーイズ』が描くのはタイトル通り、〈 帰宅部 〉としてメインストリートからは外れた学校生活を送る三人の中学生。

 部活で友情を培ったり協調を学んだりといった展開なら、ドラマやマンガでもよくあるが、なんのなんの帰宅部にだって、仲間意識も連係プレーも育つのだ。それが証拠に、上下関係だのシゴキだのといった部活に付きものの煩わしさに辟易して、野球部、サッカー部、写真部をそれぞれ辞めた直樹、カナブン、テツガクの三人は、部活を辞めたからこそつながったのだ。


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 その三人が、例えば退部の意趣返しに来た野球部の連中を返り討ちにしたり、ハワイから〝 密輸 〟したポルノ雑誌に度肝を抜かれたり、スケートボードを手作りして練習に明けくれたりする。そうやって一見、帰宅部生活を謳歌しているように見える彼らだが、能天気な日常の中でおぼろげに理解し始める。今自分たちが歩んでいる道のり、過ごしている時間というのは、過去から未来への一方通行だということに。だから、受験も失恋も関係無かった小学生には戻れないし、いずれ否応無く大人になって、義務と責任でがんじがらめにされてしまうのだということに。

 そうなのだ。この『帰宅部ボーイズ』は、自分の意思とは関係無く〝 成長せざるを得ない 〟ことへの恐れや不満をジワリと描いて、読者の共感を誘う。〝 成長 〟をポジティブな要素として扱う作品が多い中で、〝 成長 〟することの寂しさを描いた小説として推しておきたい。

 鉄塔オタクの伊達成実は、或る日、同じクラスの帆月蒼唯に声をかけられる。美人だが奇行が多く、皆からそれとなく敬遠されている女子だ。《 伊達くんってさ、鉄塔に詳しいんだよね? 》。そして次には、霊が見えるという噂の――だから、これまた皆から敬遠されがちの――比奈山優に、《 比奈山くんって、お化けが見えるんだよね? 》と水を向ける。一体何のこっちゃと訝しみつつ彼女の指定した鉄塔に行ってみると、そのてっぺんにはなんと、着物を着た男の子が座って足をブラブラさせているではないか。えっ!? なんであんなとこにいるの? どうやって登ったの? 何やってんの? ってか、そもそもどこの誰?

 と、やや森見登美彦チックに幕を開けるのは、賽助『君と夏が、鉄塔の上』。これがいい!


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 物語は当然ながら、鉄塔の男の子の謎を軸に進むのだけれど、その過程で、それまでロクに口を利いたことも無かった帆月、伊達、比奈山の三人が急速に心を通わせていく様子には、新しい友達が出来る際のウキウキソワソワした気分が滲み出ていて、何度となく頬が緩む。その合間合間にはまるで幕間劇の如く、伊達くんのオタク仲間である木島との友達付き合いだったり、建築現場の幽霊騒動だったり、或いは帆月の人力飛行機製作だったりが挿入されて、謎解き一辺倒の単調なストーリーでは決してない。と言うか、そっちの脇道の話も本筋に負けず劣らずオモシロ楽しい。例えば次は、自転車を盗まれた伊達くんが、それを木島に報告した時の二人の会話。

《 「マジさ、自転車を、盗む奴って、何考えて、るんだろうな」 「よし、この自転車を盗もうって考えてるんじゃない」 「後先とか、人の気持ちとかは、何も考えてないって、ことか」 「そうだろうね。刹那主義だ」 「自転車を盗む奴と、女を後ろに乗せている奴は、許せんな」 「それ、並列で憎むものか?」 「大事なのは、罪を憎む気持ちだ」 「罪って、後者は何の罪だよ」 「おいおい、何言ってんだ。自転車の二人乗りだろ」 》

どうだろうこの洒落たセリフの応酬は! まるでビリー・ワイルダーかウッディ・アレンの映画にでも出て来そうなこういった会話は随所に散りばめられていて、それらが本作の大きなチャームポイントになっていることは間違いない。

 物語は、鉄塔小僧の謎が解けてゆく終盤、冒険ファンタジーの色彩が濃くなるに従って、三人の息もぴったりと合い始め、加えて〝 大人の都合 〟に振り回される中学生の悔しさとやるせなさの描写も混じったりして、中学生小説としては沢田史に残る傑作である。件の鉄塔を見上げながら、伊達くんが帆月に送電線のルートを延々と語るラストシーンは、何度読んでも目頭が熱くなる(実際、今回で4回目の読了)。

 仮にバラバラの高校に進学したとしても、年に何度かは集まって、近況報告や鉄塔小僧の思い出話に花を咲かせる三人の姿を、きっと誰もがそれぞれに想像しながら、暖かい気持ちで読了するに違いない。そして本書を読了した後は、車を運転していても電車に揺られていても、鉄塔があるとつい見入ってしまうということも、ついでながら付け加えておきたい。



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 そしてそして、重松清だ。近年は登場人物にとって大切な人――家族とか友達とか――を、作中で安易に死なせて泣かせに走る傾向が強い気がするが、『エイジ』は、そんな姑息な手段に頼らずともしっかりと読者の胸を撃ち抜いてくれる、中学生小説の金字塔であり、初期重松文学の代表作。って言うか、「中学生小説」なるジャンルは、『エイジ』によって確立されたと、僕自身は思っている。

 舞台は、東京郊外の桜ヶ丘ニュータウン。《 快速電車を使えば、一時間たらずで、渋谷 》というその街で、その年の夏、通り魔事件が発生した。自転車で後ろから追い抜きざまに、堅い棒で殴って逃げるという程度で、刃物を使ったり金品を奪ったりする凶悪なものではないとは言え、7、8、9月と、犯行は次第にエスカレートしながら二十数回に亘って繰り返される。平凡な街はその話題で持ちきりになり、事件を解決できない警察には非難が集まり、誰もが夜の一人歩きを避けるようになる……。そして10月、遂に捕まった犯人は、なんと中学二年生だった!

 という数か月の騒動を、犯人の少年と同じクラスのエイジ(本名・高橋栄司)の視点で綴った物語。と言っても犯人探しのミステリー的要素はほぼゼロ。何となれば、比較的早い段階――ページ数で序盤1/3程度で犯人は捕まるし、直後、その素性も明かされる。では、犯人探しでないならば、この物語は何を描いたものなのか?

 エイジたちが「タカやん」と呼んでいた犯人が捕まって以後、街にはマスコミが溢れかえり、エイジたちは〈 今どきの中学生 〉として一括りで語られる。だけど中学生が〈 今どきの 〉でくくられるなら、大人だって老人だって〈 今どきの 〉で括れる筈ではないか。にも関わらず中学生だけを、あたかも珍しい生き物でも見るように〈 今どきの 〉で十把一絡げにしてしまうのは、一個の人格として向かい合い、対話し、理解することを放棄した行為ではないか? 勿論、中にはアブナイ奴もいれば非常識な奴もいる。だけどそれは、大人だって同じではないか? いやむしろ、大人になってさえ、やっていいことと悪い事の区別がつかず犯罪に走ってしまうような輩の方が、未熟なままに罪を犯してしまった「タカやん」よりも、よっぽどアブナイ人間ではないか! 世の中に〈 今どきの中学生 〉なんていう中学生は、一人だっていやしないんだ!


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 でも、だったら僕は一体何者なんだ? 通り魔になってしまった「タカやん」と僕の差は、どこにあるんだ? 或いは僕の中にも、通り魔の素質が潜んでいたりするんだろうか?

 といったようなことを、多分エイジは思うんだけど、何しろまだ14歳だもんだから、そこまで考えを整理出来ないし、それを表す語彙も無い。だから伝えたいことを上手く伝えられずに苛立って、家族に八つ当たりしたり授業を抜け出して繁華街を徘徊したりするんだけども、その〝 伝えたいのに伝えられない 〟感じがとにかく出色。いや、中学生の一人称小説って難しいんだよ。セリフだけでなく地の文までもが〝 主人公の言葉 〟な訳だから、ちょっと大人目線の言い方をしただけで全てが台無し。そこんところが、重松清ほど上手い作家は多分いない。

 実際この小説を現役の中学生が読んだらどう感じるんだろう? まだスマホが無い時代の話だからそこら辺の違和感は止むを得ないとしても、十代半ばの少年少女が大人たちに感じる、汚らしさとかズルさとか子どもに媚びる感じとかは、恐らく今も昔もそう大きくは変わらないんだろうから、機会があったら中学生の感想文を是非読んでみたい。「あ、今思い出した。俺も確かにこうだった!」と、膝を打つような文章に、きっと出逢えるような気がする。

 閑話休題。結局「タカやん」は、諸事勘案の上、少年院送りとかにはならずに、保護観察処分になって、エイジたちの教室に戻ってくる。当然、初日の朝は皆〝 遠巻き 〟である。そこに登場するのがエイジが片想いしている相沢志穂と、エイジの親友でジャイアン的存在の「ツカちゃん」で、彼らはそれぞれのやり方で「タカやん」を再びクラスメイトとして受け入れる。そして我らがエイジはと言うと……。

《 エルニーニョがどうしたとか、地球温暖化がどうしたとか、オゾンホールがどうしたとか、難しいことはよくわからないけど、地球はいろいろ大変なことになっているらしい。それに比べれば、日本の、東京の、桜ヶ丘ニュータウンの、ガシチュウ(筆者注:桜ヶ丘東中学校)の、二年C組の、ぼくなんて、死ぬほどちっぽけで、だけどちっぽけはちっぽけなりに、いろいろ大変なんだ。/でも、相沢志穂みたいに言おう、何度でも言ってやろう。/負けてらんねーよ 》
と、視線を上げる。


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 今どきの中学生なんて、括りたければ括るがいいさ。大人たちがどう括ろうが、「タカやん」は「タカやん」だし「ツカちゃん」は「ツカちゃん」だし、そして僕、エイジはエイジであることに変わりは無いんだから。とはエイジは言わないが、多分そんなようなことを考えながら「負けてらんねーよ」と宣言したんじゃなかろうか。ラスト20ページ程は、日本文学史上に残る名場面だ。

 と、暑苦しく述べ立てたように、『エイジ』こそが最高の中学生小説だと思っていたんだ、今までは。ところが、だ。奥田亜希子『青春のジョーカー』が、遂に『エイジ』を追い越した!

 主人公は同じく中学二年の島田基哉。教室では余り目立たないマイナー系……どころではなく、常に蔑みと嘲りの的にされるヒエラルキーの最低辺。有馬啓太ほか数人の男子生徒たちは、お笑い芸人を小突き回すバラエティ番組さながら、事あるごとに基哉たちを俎上に上げてウケを狙う。しかも《 同級生の、からかい以上いじめ未満の言動にたいして、教師たちの反応は驚くほど鈍い 》。故に基哉は、同じ〝 階層 〟に属する友人たちとゲームの話で盛り上がっている時でさえ、メジャー系の生徒たちの言動に神経を尖らせ、〝 笑い 〟の矛先がいつこちらに向くか、岩陰に身を寄せる小動物の如くおどおどしながら過ごしている。


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 といった幕開けで、不活性で後ろ向きな基哉の姿は、言うなれば奥田版野比のび太。一年生の時から一途に片想いしている女の子もいるが、そんなことが周りに知れたらたちまちネタにされて晒し者である。休み時間に仲のいい女子同士キャッキャやっているのを、遠目に眺めるのが関の山。《 自分は総理大臣にも俳優にもなれない。それと同じで、クラスの人気者になることも、異性から好かれることもない。おそらくは、強者の影に怯えて一生を過ごす 》とまで悲観して涙ぐむに至っては、読んでるこちらまでみじめな気持ちでうなだれてしまう。

 そんな基哉が、思いがけずに武器を手にする。ピンチの時でも、たちどころに攻守逆転を可能にする切り札。それが何かは伏せておくけれども、トランプで言うところの〈 ジョーカー 〉を手に入れたことで、基哉は、啓太たちと同じ〝 階層 〟にまで浮上する。これからは、嘲りの対象にされることは無い。学校行事でのグループ分けで、一人あぶれる心配も無い。それどころか、憧れの女子生徒と言葉を交わすことさえ出来るようになった。教室の隅でビクビクしながら過ごす日々よ、サヨウナラ……。

 ところで本書では、基哉が〈 性 〉の問題で一人悶々とする場面が頻出する。中学生の男子にとって、〈 性 〉とは欲望や憧れであるだけでなく、自分が乗っ取られてしまうような怖さや、吐き捨てたくなるような汚らしさをも同時に感じるものであり、それに振り回されて苛立ったり自己嫌悪したりする基哉の生々しい描写が連続する。そういった意味で本書は、窪美澄とは違った形で〈 性 〉を描いた小説であると言えなくはないし、一読して、それがテーマだと思う読者は多いだろう。

 けれど、本当の主題はそこじゃない。

 ある人物から、ゲームの何がそんなに好きなのかと問われた際、基哉は《 こつこつやれば、ちゃんと強くなれるところです 》と迷わず答える。大学進学と同時にイメチェンを図った兄を、「すっかり変わってしまった」と嘆く母親に対しては、《 変わることが許されないなら、弱者は永遠に弱者のままではないか 》と、心中密かに憤る。或いは、初めてのデートを数日後に控えた日、《 僕は顔がだめだから、そのぶん服装で頑張らないと、周りの奴らには勝てない 》とムキになったりもする。そして、そんな基哉を、或る人物が静かに諭す。《 基哉くん、誰かに勝つことが強さじゃないよ 》と。


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 的外れだと笑わば笑え。強さとは何か? そして、優しさとは何か? それこそがこの作品のテーマであると、僕自身はそう読んだ。

 例えば基哉が、とある女性の緊急事態を救うため、彼女の部屋に上がり込む場面。二人で善後策を講じて事無きを得た途端、《 自分がほぼ面識のない女の家に押しかけたことを今更ながらに理解 》して、大慌てに慌てる描写がある。基哉以上にブサイクで、それこそスポットライトにも女性にも一生縁が無さそうな兄の〝 自分にとっては優しかった 〟数々の記憶を手繰りながら、《 お兄ちゃんのことを好きになる人は、必ずどこかにいる 》と、ごく自然に言葉にするシーンもある。

 そして物語の最終盤、窮地に陥った自分を心配そうに見つめる何人かを、視線だけで押しとどめ、一人、荒野を行く決意を固めるクライマックス。「僕に関わると巻き添えになるから。僕は大丈夫だから」と、口にはしないその優しさこそが〝 強さ 〟であると、基哉が自覚していたかどうかは分からない。が、少なくとも、ジョーカーをちらつかせて相手より優位に立つことが〝 強さ 〟ではないということは、この時の基哉は既に気付いていたのではなかろうか。

 読了後、僕の頭には名作絵本『モチモチの木』(作/斎藤隆介 絵/滝平二郎)が浮かんでいた。病から回復した「じさま」が、大任を果たした豆太に向かって、その頭を優しく撫でるようにして言う言葉。《 じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。にんげん、やさしささえあれば、やらなきゃならねえことは、きっとやるもんだ 》。

「タフでなければ生きられない。優しくなければ生きる資格が無い」なんて言葉を基哉が知っていたとは思えないが、彼の数々の行動が、優しさと強さが表裏一体であることを暗示してはいないだろうか?

 結論を急ぐ。如何にも奥田作品といった風情の弱気で後ろ向きな中学生が、スクールカーストの中で自分の立ち位置を手探りする『青春のジョーカー』いう作品は、優しさを伴わない強さは所詮はニセモノだということを、そして、本当に強い奴は、〝 強さ 〟以上に〝 優しさ 〟を湛えているものだということを、宣誓でもするかのような清涼さで描き切った、青春小説の傑作である。









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by dokusho-biyori | 2018-04-06 20:59 | バックナンバー | Comments(0)