読書日和

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「読書日和」備忘録

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2016年 07月 01日 ( 2 )

16年07月 後編

⇒前編から続く

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以下、出版情報は『読書日和 7月号』製作時のもです。タイトル、価格、発売日など変更になっているかも知れませんので、ご注意ください。
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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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7月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2016-07-01 01:08 | バックナンバー | Comments(0)

16年07月 前編

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世間では、貞子VS伽倻子なる異形の者の戦いで盛り上がっているが、忘れてはいけない存在がいる。
インドネシアの異形なる者、その名も「クンチルアナック」。
魔法の粉を振りまきながら飛び回りそうななんとも可愛げのある妖精のような名前だが、本の表紙を見て分かる通り、女性の姿を模した化け物である。

貞子しかり、伽倻子しかり、クンチルアナックしかり、なぜホラーの恐怖の象徴は女性なのだろうか‥
色々な理由が考えられるが、保身の為黙っておくことにしよう。

兎にも角にも、もちろん今回も紹介書籍は未読なので、分かっていることはクンチルアナックが出てくるということだけだ。

今夏は『邪し魔』を読んで肝を冷やそうじゃあないか。



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『そえぶみ箋の使い方 世界一短い手紙で気持ちを伝える』 むらかみかずこ

『バッテリー』 あさのあつこ

『昨夜のカレー、明日のパン』 木皿泉

『邪し魔』 友成純一

『ラスト・イニング』 あさのあつこ

『流転の魔女』 楊逸



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 とても個人的な話だが、私は夏が嫌いである。理由はいうまでもない。「暑い」からだ。だがそんな嫌いな夏の中でも好きなものはある。それは高校野球である。残念ながら私は高校野球の試合を生で見たことはない上に、高校生時代も応援に行った事はない。何せ女子高であったから。

 では何故、男子不在で高校野球という素晴らしき青春を生で体験していないのに好きなのかと問われれば、その原点としてあさのあつこの『バッテリー』が根底にあるからだ。

 あさのあつこといえばこれ、と言ってもおそらく過言ではない『バッテリー』は元々児童書という類に分類される。だが児童書にしておくのは勿体無いと年を重ねるにつれて思う。読んでいない方は今からでもいいのでぜひ読んでいただきたい。

 主人公の巧は都会から引っ越してきた、ちょっとツンとした少年である。野球が大好きなそれこそどこにでもいる少年。だがしかし少々性格に難がある。難……と言っても思春期の少年達を見てほしい。あんな感じだ(どんなだ)。素直になれず不器用でそのくせ野球には人一倍努力を怠らない。野球の面においてはそれこそ天才肌だ。周りに比べればひどく冷静な彼だが内心は誰よりも熱い。

 そんな巧をそれこそ普通の中学生と変わらないような感情を持たせるために影響を与えたのが、引っ越した先で出会った豪である。彼は巧とは正反対で物腰柔らかく人懐っこくて、さらには面倒見もいい。空気も読めるいい男である。巧が猫ならば豪は犬だろう。

 どんな場合でも正反対というものは必ず反発が起きる。それは自分とは違いすぎて理解が追いつかないからだ。巧と豪もそれに当てはまる。最初こそはうまく友情を築き上げ野球も楽しくやってきた。だが衝突は突然訪れる。この衝突こそ『バッテリー』のひとつの醍醐味である。大切な場面だ。

 正直ハラハラさせられるような展開なのか、と問われればそんなことはない。いや主観だから分からないけれども。ただ私は今も昔もこの衝突に関してはただ黙って見ていたいというのが心情である。どこかで当人同士の問題、と現実味を帯びた感情があるのかもしれない。そのくらい読んでいて「あーあるよね」と思わせられる場面。どこか俯瞰で見ている私だがそれでも彼らがこの衝突でどう変わっていくのか、乗り越えていくのか、そして自分がこの年で同じような境遇だったらどうしていただろうと考えさせられる。後半の話になるが、ここはじっくりと読みすすめてほしいエピソードだ。

 また巧には生まれつき身体が弱い弟の青波がいる。これまた絵に描いたような聞き分けのよい可愛らしい弟なのだが、そんな青波もまた兄である巧に憧れて野球をやりたがっている。それに対して反対な母親。巧を取り巻く家族関係はリアルでも存在しそうな話だ。

 一作品の中に、家族・友情・青春・恋愛と様々な要素が取り入れられている『バッテリー』は学生に向けただけの話ではないだろう。それこそ色んな角度から巧を捉えることが出来る。だが最終的に行き着く先は全てを混ぜ込んで「青春」。その一言に尽きる。

 またライバル校の登場人物たちも巧やチームメイトに対して一味もふた味もスパイスとして関わってくる。彼らの話までここに載せてしまうとお楽しみがひとつ減ってしまうので大人しくしておくが、全ては巧を中心に日常が回っている。そんな作品だ。ちなみに『バッテリー』を読み終えてなおかつライバル校の彼らが気になる場合スピンオフ作品に当たる『ラスト・イニング』を激しく薦めておく。そして読了後再び『バッテリー』を読むとまた違った感想が生まれてくるのではないだろうか。

 あさのあつこの作品は少年少女たちの「今」を描くものが多い。だがどれをとっても共感しのめりこんでしまうのは、実際に登場人物たちの感情を自分と重ねることが出来るからかもしれない。私という存在を形成する上であさのあつこの作品、特に『バッテリー』は重要なポジションにいる。大切な物語だ。

 もうすぐ夏本番。全国の高校球児たちには悔いなく戦ってきてほしい。またその応援の片手間にでも『バッテリー』はいかがだろうか。



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 あれは小学校四年生くらいの頃だったか。今でも鮮明に覚えている「事件」がある。

 お祭りの露店に、砂糖で作った型と画鋲で切り抜く「型抜き」なる店がある。うまく型どおりに切り抜くと難易度に従った賞金がもらえるというやつだ。ただ、賞金といっても300円から高くて1,000円程度。一回200円くらい取られたから冷静に考えれば、コレにはまっていた僕はいいカモだった。滅多に成功することはなかったのだが、ある日ある夏祭りで300円程度の型抜きに成功した。賞金の多寡よりも、初めて成功したという事実に興奮し、僕は意気揚々と店主のもとに向かった。ところが、得意げに抜いた型を差し出す僕に店主はもごもごと何か言い訳し、お金を渡そうとしなかった。

 要するに「賭博法に引っかかるからお金は渡せない」ということらしい。さらに「お金が渡せないから」と差し出したのは残念賞の10円ガム一つ。

 何か苦いものが全身を駆け抜けたのを覚えている。怒りなのか、失望なのか、軽蔑なのか、悔しさなのか良くわからない。とにかくあまりにも予想外な展開に僕は一言も発することが出来ず、ただすごすごと店をあとにした。

 人の欲望の、どろどろとした醜さに手で触れたような感覚だった。

 金にまつわる話はいつも胸くそ悪い。それは金が人を狂わせる「魔性」のようなものを持っているからなのかもしれない。そんな金に振り回される人々を斜め上からの目線で『流転の魔女』の物語は描かれている。

 主人公はとある中国人留学生の女の子。彼女が通訳のアルバイトで15,000円を手に入れたところから物語は始まる。貧乏留学生の典型であった彼女は初めて手にする高額紙幣に感激し、一万円札に「万次郎」、五千円札に「おせん」、と名前をつける。

すると、物語は奇妙な視点を手に入れることになる。五千円札もとい、「おせん」の視点である。物語に紙幣の一人称視点が加わるのである。

 一方では中国人留学生が関わることになった刑事事件の顛末が描かれ、一方ではあらゆる持ち主の財布を転々とするお札の物語が描かれる。出発点こそ同じものの決してまじわることのない物語はしかし、どちらも金にまつわる人の欲望を描いている。

 ただ、金銭欲を描いた作品なら掃いて捨てるほどあると思うかもしれない。ところがこの作品が特異なのはやはり「おせん」の存在だろう。紙幣の視点から見た浮世というのもなかなかおもしろいのだが、それよりも「おせん」が五千円としての価値とは違った価値を付与される点が何よりおもしろい。どういうことかといえば、「おせん」の所有者は日本人とは限らず、日本の貨幣体系を知らない人間が必要以上に高額な紙幣だと勘違いしたり偽ったりすることが多々あるのだ。

 われわれ日本人からすれば「おいおいそんなに高価なお札じゃないぞ……」と思ったところで彼らには問題にならない。「おせん」は彼らの思い込みを否定すことなく(できず?)ただまるで、彼らの欲望をそっくりそのまま受容れる器のような存在としてあり続ける。

 いや、そもそも貨幣なんてそんなものじゃないかという気がしてくる。特に紙幣は言ってみればただの紙切れだ。その価値を保障しているのは制度であり、人々の暗黙の了解であり、「価値があってほしい」と思う人々の欲望である。とすれば、その制度から離れてしまえば五千円札は「お金」という巨大な概念の中で人々の欲望に従ってその価値を無限に膨張させることができる。逆に、極限まで収縮させることもできる。最後、「おせん」を人形のように扱う少女にとって「おせん」はそれこそ一銭の価値もないと言えるし、貨幣とは違った価値を持った存在として必要とされているのだと考えることもできる。「おせん」は所有者を映す鏡といえるかもしれない。

 お金にまつわる様々な欲望を描く、醜い万華鏡のような世界。もし、あの露店の老婆が「おせん」を手に入れたら、「おせん」はどんな物語を語ってくれるだろうか。



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 分かり切ったことを言うようだけど、僕ら平凡な一般庶民の生活に、奇跡と呼べる出来事などまず起こらない。

 昨日の延長で今日を生き、今日の延長に明日があり、その更に延長線上に来年があって十年後があって三十年後があって、やがて死ぬ。そこに恐らく飛躍は無い。朝目覚めたら人生がバラ色に一変していた、なんて都合のいい展開はあり得ない。無難で凡庸で当り前の一生。それが無性につまらなく思える時がある。特にこれといった原因も見当たらないのに、目に映る景色が色褪せたまま戻らない。川の澱みにハマった落ち葉のように、思考が同じところをぐるぐる回って抜けだすきっかけが掴めない。

 そんなエアポケットに落ち込んで溜め息をつく人々を、著者ならではの大らかな眼差しで描き出したのが、『昨夜のカレー、明日のパン』ではなかろうか。

 物語の軸になるのは、七年前に癌で他界した寺山一樹。まだ二十代だった。数年前に結婚したばかりだった。二十歳を幾つか越えただけの若い奥さんを遺して、あっと言う間に逝ってしまった。そんな一樹の生前の姿がこの物語では描かれる……訳ではなく、彼を中心にしてその周りをあたかも衛星のように――或る者は近く、或る者は遠く――巡る人たちの「一樹のいない暮らし」が、大袈裟な演出をとことん控えた筆致で綴られる。

 登場するのは、ごくありきたりの生活を営む普通の人々。

 一樹の妻だったテツコは、一樹との生活が未だに続いているかの如く、一樹の実家で彼の父と同居を続ける。特に同居しなければならない理由もないのだけれど、出るきっかけが無かったと言うか、新しい生活を組み立て直すのが億劫だったと言うか、恐らくはそんな曖昧な煩わしさに引きずられて、ズルズルと七年間も同じ暮らしを続けている。

 そんなテツコの現在の恋人・岩井さんは、思い切ってテツコにプロポーズするも、煮え切らない彼女の態度に途惑い苛立つ。

 一樹の幼馴染みだったフライトアテンダントは、或る日突然理由も無く笑えなくなり、仕事を辞める。そのまた友達の男性は顔面神経痛を患い、彼女とは逆に常にニヤついているような表情しか作れなくなって、やはり仕事に支障をきたして退職する。

 一樹より少し年下の従弟は、一樹の車を形見分け的に譲り受けたものの、乗る機会も無く、さりとて廃車にするのも忍びなく、実家の庭の片隅に置きっ放しのまま持て余す。

 その他にも本書には一樹の周りにいた幾人かが登場するのだけれど、その誰もがなんとなく足踏みしている。それぞれが「このまんまではよろしくないなぁ」と薄ぼんやりと自覚していながら、では何が足りなくて次の一歩を踏み出せずにいるのか、どうすればこの停滞から抜け出せるのか、その答えが見つからないまま、ぐるぐると現状維持のターンテーブルに乗り続ける。

 だがしかし。実は「奇跡」は起きていた。誰も気づかないうちに、つとめて自然にさりげなく、まるで何かのついででもあるかのように、極めて身近なところで「奇跡」は起きていた。

 その「奇跡」を、昔の人は例えば「縁」と呼んだりした。《 合縁奇縁 》なんて言葉があるし、《 袖振り合うも多生の縁 》などとも言う。《 縁は異なもの粋なもの 》なんて、それこそ粋な言い方もある。僕らのすぐ隣にいる大切な人。逆に、僕らを大切に思ってくれる人。全世界数十億人の中から、そういう人と出会えた「縁」。それを「奇跡」と呼ばずして何と言おう。僕らはその「奇跡」に支えられて、これまで歩いて来たのではなかったか。本書の登場人物たちも、それぞれがそれぞれなりの気づき方で、そこに気がつく。自分を支えてくれる存在、自分が支えている存在。それを改めて実感し直した時には、あれほど抜け出し難かった袋小路からほんの半歩踏み出している。

 そう言えば、かの天才物理学者・アルバート・アインシュタイン博士が、「奇跡」に関してこんなことを言ったらしい。
《 人の一生には二通りの道しかない。一つは、奇跡などあり得ないと考えて生きる道。もう一つは、全てが奇跡だと思って生きる道 》

 縁は奇跡。『昨夜のカレー、明日のパン』は、それをそーっと教えてくれる。



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 最近、手紙をいつ書きましたか? 手紙をいつ貰いましたか? 私はラブレターを……貰って……いません……(笑)。この前、誕生日だったので、友達からお手紙と色紙を貰いました。日頃から顔を合わせている人でも、文字にして気持ちを伝えて貰えるとすごく嬉しくなりますよね。

 でも、いざ自分が書こうと思うと、「何をかいたらいいのか……」「きれいな字で書かなきゃ……」「肝心なところで書き間違えた……」などなど問題が。

 そんな時にはこの「そえぶみ箋」がおすすめです。

 タイトルにもあるように、《 世界一短い手紙で気持ちを伝える 》。長文を書こうと思うと大変ですが、そえぶみ箋ならひと言、ふた言で大丈夫です。

 私が以前働いていた会社で、人事異動の後、新しい職場で凄く仕事に悩んでいた時期があり、毎日毎日が本当に辛かったのですが、どこかでそれを耳にした(らしい)前の店舗の上司が、社内便で小さなお菓子とメッセージを送ってくれました。「大変みたいですね。持ち前の明るさで乗り切って下さい。愚痴ならいくらでもききますよ」と、小さな黄色い付箋に書いてありました。本当に本当に小さなメモでしたが、大きな勇気を貰いました。

 皆さんも、小さなメッセージ書いてみませんか? 近くても遠くても、大切な人にぜひ。

☆ 当店3階文具売り場、「そえぶみ箋」取り扱ってます。色々な種類があるので、是非ご覧ください。



⇒後編に続く

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by dokusho-biyori | 2016-07-01 01:08 | バックナンバー | Comments(0)