読書日和

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「読書日和」備忘録

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18年05月

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 仕事中、ふと窓の外を見ると、小学生の頃を思い出すことがある(仕事をしなさい)。野球を好きになったのは、転校生がきっかけだった。野球好きな彼に巻き込まれるように、気づけば選手を覚え、バットを握り、ボールを投げていた。サッカー選手の子どもがクラスメートに入ってからはその輪に駆り出されてサッカーをしたし、塾の先生にバスケットを教えてもらえばどれだけ早く教室を出て場所を確保できるかに毎日熱中した。授業中の校庭を見て、今降りれば使い放題だなぁなんて思っていた。

 当時を振り返ると、ふたつのことが心に浮かぶ。ひとつは、何かを変えるのはえてして外から入ってきた人だったこと。もうひとつは、運動のできる人は大体何をやってもうまくこなしたという牧歌的な思い出である。

 なにって、プレイヤ―・大谷翔平のことだ(「選手」とも「投手」ともつけがたいので、あえてこう書いてみた)。彼を特集した『Number 950号』は、私にとって先々も特に思い出に残る号だろうと思う。

 私自身、怪我が多かったので選手を見ているとどうしても心配してしまうのだが、大谷選手のオープン戦の結果が投打ともよくなく、日米のメディアから色んなことを言われているころ、活躍できるか以上に、「大丈夫かなぁ、怪我とかじゃないかなぁ」と気をもんでいた。

 そんな雲行きが晴れたのが、初登板の日だった。見事な勝利に、ああ、これで表紙は決まったな――職業病の一種なのかもしれないが、そんなことを思いながらほっと胸をなでおろした。別の方角に怪しげな雲が現れたのは、彼がホームランを打ったときだった。「これ、編集部は表紙を迷うね」そんな話をえらい人と話したあと、言霊というのだろうか、編集部から「不穏な」話が来るようになった。いわく、「表紙の刷り分けをしたい」と。


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「本」には、個体識別番号のようなものがふられている。表紙を変えると「同じ商品とはいえない(=別個体)」ため、改めてそのコードを取らないといけない。逆にいえば、そうしてしまえばたしかに刷り分けることはできる。たとえば、『Number PLUS』の2016年のプロレス号(中邑真輔版と新日本版があった)なんかがそのいい例だ。ただ、それには事前にコードをとり、輸送路を確保して……といった前もっての準備がいる。だが、今回はその時間がない。

 そこで編集部からあがってきたアイディアが、「片観音」というかたちだった。実物を手にしてもらうとわかりやすいが、表紙の紙を通常の倍近くの大きさにして表紙の裏側に折り込む。すると、①通常の表紙A(ホームランを打った打者大谷)、②表紙部分の左側にある折り込み部分(ベンチで祝福される選手大谷)、③折り込み部分の裏にくる表紙B(勝利する投手大谷)、これであれば表紙が「二刀流」になる。つまり、表紙Aの「打者大谷」の左側を折って逆に折り返すと、表紙Bの「投手大谷」が表紙に来る…!紙の特性を利用すれば、投打の表紙を両立できるというわけだ。

 こうしてNumber史上初のW表紙が完成したのだが、この号はそこで終わらない。

 プレイヤー・大谷の活躍にのせられるように、数年ぶりの重版の検討がされた。雑誌の場合は次の号が出てしまえば戻されてしまうことも多いため、重版の機会はそう多くない。それもあって、えらい人たちの周辺はにわかに騒がしくなった。

 そんな部内を尻目に、私はテレビに映るMLB中継を見ていた(だから仕事をしろ)。場面は一打大量得点の大チャンス。打席には大谷がいた。「これで打ったら、重版が決まる……なんてね……。そうなったら本当にドラマチックだよなぁ……」編集長がかつて「拝啓 清原和博様」で書き出した『Number 908・909・910号』の後記を思い出しながら、湧きあがるわくわくに思わずつぶやいた。次の瞬間、ピッチャーが投げ込んだ一球が、吸い込まれるようにバットの軌道と重なった。弾かれた打球が鋭く、大きく飛んだ。
「……打った……!」
思わず声が漏れた。


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 重版が決まったのは、そんな喧騒の日だった。ダイヤモンドをまわる、そのどこか飄々とした姿が、頭から離れなかった。

 何かを変えるのは、えてして外から入ってきた人だった。新人だったり、転校生だったり、宇宙人だったりが、それまでの常識を変えていく。表紙が変わり、重版が決まり、毎日ニュースが流れる。内にいた人たちは、突然の非日常に迷い込む。でも、それはどこか心躍る迷路だ。こんな毎日は、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 二刀流なんて不可能だという人も多いし、怪我の心配をする人も多い。対策されたら……。疲れてきたとき……。色んな声が聞こえてくる。ただ、グラウンドに立つ彼を見ていると、妙な懐かしさが胸にあふれる。「ああ、そういえばサッカーの得意だったあいつはバスケットも野球も得意だったな。一緒にやってて、みてて、なんか楽しかったっけ……」そういう子どもの頃のような「わくわく」を感じるのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 今日も実況の声が響く。きっと、しばらく仕事が手につかない。



残る言葉、沁みるセリフ
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《 とは申しましても、優柔不断な私たちは、うっかり迷いに入り込んでしまうもの。そんなとき思い出すとよいのは、迷っているからには、いずれかの選択肢が決定的に優れているわけではないということです。 》


 そしてこの後、《 つまり「より得なほう」を選べても、実はたいした差ではない 》と続きます。日々の買い物や食事、或いは何かの順番待ちや特典の有無etc……。微々たる「得」に目の色を変える自分が如何にみみっちいかを、気付かせてくれる言葉だと思います。



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 僕らの世代で〈 家族小説 〉と言われたら、何はともあれ『ビタミンF』(重松清)という人は多かろう。2000年の下期――即ち20世紀最後の直木賞受賞作だ。

 描かれるのは、バブルの奔流をまともに浴びた世代の、その後の人生。と言っても、株だの土地だのの狂乱に躍らされた挙句に破産したなんていう派手な話ではなく、もっと普通の、言うなれば僕らの中の誰かの話。そしてそれは、例えば向田邦子の『寺内貫太郎一家』や、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』、或いはTVドラマ『北の国から』や、マンガ『ちびまるこちゃん』といった昭和の家族ものとは明らかに違う、21世紀の家族小説の嚆矢であった。

 住む場所は東京郊外のニュータウン。家は一軒家ではなく、バブルの頃にバカ高い値段で買ったマンションで、ローンはまだまだ先が長い。小中学生は週に何回かの塾通いが当たり前。家族の誰かが声を荒げて怒鳴ったりすることはまずないが、何でも打ち明け合うほど心が通ってる訳でもない。田舎で老いた父母のことは気になるが、かと言って同居するのは煩わしい。人生に大きな不満は無いけれど、心ときめく夢も無い……。そんな宙ぶらりんな家族が、それでも前に進んで行こうとする姿を描いた短編集が、『ビタミンF』だ。

 そこには例えば、悪ぶっている少年に《 おとなになればわかるよ、おまえにも 》と説教をする自分に対して、《 ガキの頃にはそういう言葉を吐くおとながいちばん嫌いだったんだよな 》と苦笑するサラリーマンがいる。中学生の息子を見つめながら《 おとなの胸の内をなまじ察することができるぶん、子どもの屈託のなさをなくしてしまい、といっておとなの考えていることの深みにまで思いが届いているわけでもない 》と、苦虫を噛みつぶす父親がいる。そして、《 知らん顔をしてあげるのが、父親らしいのよ。無関心と知らん顔ってのは、ぜったいに違うんだから 》と、夫を諭す妻がいる。


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 登場する家族はどこも大なり小なり厄介事を抱えていて、しかもそれは、家族の努力で解決する類の――例えば借金の返済だとか子どもの反抗期だとかいった解りやすい問題ではなく、もっとハッキリしなくて見えにくい何かであって、故に解決方法もおいそれとは見当たらない。《 俺の人生はこれか――。なーんだ、と拍子抜けするような。ちぇっ、と舌を打ちたくなるような 》。

 といった具合で、七編のどの家庭にも、何とも言えない閉塞感が漂い続ける。にも関わらず、読後感は不思議とそんなに悪くない。

 それは恐らく、家族の構成員それぞれが、それぞれの立場から「なんだかんだ言っても、自分は今の家族が大切なんだ」と再認識していく過程が、ハッキリと書かれてはいないけど、読み進めるにしたがって炙り出しのようにゆら~っと浮き上がって来るからだろう。そして。もしもあの時、別の生き方――別の進学先、別の就職先、別の伴侶――を選んでいたら、今頃はもっと幸せだったのかも知れない。でも、この人生を選んだのは俺だ。俺の人生はこれだ。そんな現在肯定の覚悟が、多分、読む者の背中をそっと押してくれるからだろう。

 巻末の「後記」に於いて、著者は言う。《 炭水化物やタンパク質やカルシウムのような小説が片一方にあるのなら、人の心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい 》。いつの頃からか日本中に漂う停滞感の中で、常に酸欠気味に喘いでいる僕らに、「それでもたまにはいいことも巡ってくるさ」と、優しく発破をかけてくれるような、『ビタミンF』とは、そんな作品だと思う。


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 安藤祐介の『ちょいワル社史編纂室』は、上司に騙され利用され、挙句、リストラ部屋に左遷されたサラリーマンの捲土重来を描いた、どちらかと言えばビジネス小説に近い作品ながら、実はそれ以上に、家族の崩壊と再生を熱く描いた小説である。

 主人公は玉木敏晴45歳。家電大手の東洋電工に入社以来、営業一筋22年。昭和のモーレツサラリーマンさながら、家庭よりも趣味よりも、常に仕事を優先してきた。

 が、騙された。無謀なプロジェクトが失敗に終わった後、責任を取ろうとしない役員たちの捨て駒にされ、まんまとリストラ部屋に飛ばされる。そこでは、使用済みのコピー用紙に「裏面再利用」のゴム印を延々と捺し続ける、といった拷問のような〈 仕事 〉が待っていた……。

 といった幕開けの後は、残業と接待漬けの毎日が一変、アフターファイブの時間を持て余した敏晴の落胆と消沈と迷いと後悔が描かれる訳だけれども、その沈滞の中で彼は徐々に気付き始める。《 男は仕事に生きてなんぼだ 》と嘯きながら自分が捨ててきたもの――家族との時間――の大きさに。しかし、敏晴が漸く家の内側に目を向けたその時には、高校3年の長女はイジメのターゲットにされており、高校1年の長男はヤンキー崩れとの付き合いを深めてグレまくっていた。慌ててコミュニケーションを図ろうとするも、子どもたちばかりか妻までもが、露骨に「何を今更」といった視線と言葉を投げつけて来る……。

 いずれ詳細に語りたいと思っているが、ここからが安藤祐介の読ませどころだ。崖っぷちに追いつめられた分かりやすい大ピンチと言うよりも、八方塞がり的な息苦しさの中で、愛情やら信頼やら情熱やらといった愚直さだけを武器に、ジリジリと活路をこじ開けていく。ともすれば汗臭くなりがちなそんなストーリーを、実に爽やかな読後感に仕立て上げるのがこの作家の十八番。


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 本作に於いても、例えば絶望のどん底から這い上がって来た娘が言う。《 お母さんのせいじゃないよ。お母さんのせいにしようとしてたけど、なんかようやく目が覚めた。結局なにもかも自分で選んでやってきたことだから 》。また、教師にまで「不良」と蔑まれる息子は、自分の味方をして憤ってくれる相手に言う。《 いいよ、別に。誰か一人だけでも信じてくれるなら、それでいい 》。或いは、家族の為に何もかも諦めて生きてきた妻は、《 家族を大切に思うことと、自分の夢や希望を家族に依存することとは違う 》と気付いて、晴れやかな気持ちで空を見上げる。

 そして肝心の敏晴は、と言うと……。《ふと立ち止まった時にできた仲間って、意外といいもんだぞ 》と胸を張って子どもに伝えられたのは、敏晴自身が人生の回り道を経験したことで、恐らくは気付くことが出来たからだろう。勝利に向かって一直線が、必ずしも幸せに結びつくとは限らない、ということに。人と競って、ライバルを蹴落としてでも上を目指すことが、必ずしも明るい未来につながるとは限らない、ということに。《 最初は本当に砂漠の真ん中へ放り出されたような心地がした。でも、歩いているうちに、会社人生の中では見えなかったたくさんのことが見えるようになった 》。そう考えると、45歳にしての周り道も、決して無駄ではなかったのかも知れない。

 物語がどこに着地するのかは勿論伏せるが、取り柄の無いつまらない人生にも、それなりに味があるもんだと、少しだけ明日を明るく感じさせてくれる、そんなプチハッピーな物語が『ちょいワル社史編纂室』だ。


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 最後は小野寺史宜を紹介したい。既に10作以上を出している割に知名度がどうもイマイチなので、この機会に声を大にして主張しておく。幸せの崩壊と、そこからの再起を描かせたら、小野寺史宜の右に出る者はそうはいない。

 例えば『リカバリー』では、交通事故で幼い息子を失った父親と、その事故の加害者の息子、それぞれを語り手にして、周囲の人々に支えられ温められながら、彼らがもう一度自分を肯定していく過程が丁寧に描かれる。『東京放浪』では、仕事と住居を同時に失った青年が、緊急避難的に友人の家を渡り歩く間に、誰もが日々の暮らしに四苦八苦する姿を目の当たりにして、自分の甘さを思い知る。『ひりつく夜の音』では、既に落ち目だと自分で自分に見切りをつけて日々無気力に過ごすクラリネット奏者が、運命のいたずら的に出会った若きギタリストに刺激され、心の中に僅かに残っていた熾き火の火勢を増していく。或いは『本日も教官なり』では、望まない妊娠が発覚した女子高生が、相手の男子生徒に捨てられた上、学校からは厄介者扱いされる中で、逆に、自分は犯罪を犯した訳ではないとハッキリと自覚して、毅然と顔を上げて一歩を踏み出す。

 繰り返しになるが、小野寺史宜は、僕らの日々の幸せなど何かの拍子にあっけなく崩れてしまうのだということを、リアルな描写で悟らせてくれる。と同時に、幾人かの理解者さえいれば、そこから這い上がる力も僕らにはあらかじめ与えられているのだということも、強い説得力で描き出す。

 そんな彼の最新作『ひと』は、これぞ小野寺史宜といった風情の青春小説だ。


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 主人公の柏木聖輔は法政大学の2年生。……だったが、この度事情止むを得ず退学した。3年前、自動車事故で父親を亡くしたのに続いて、今度は病気で母を失い、学費の目処が立たなくなったのだ。僅かに残っていた現金も遠い親戚にむしり取られたりして、学業どころかこのままでは早晩、明日の食事にも事欠くのが目に見えている。が、心を切り替えられない(そりゃそうだろう)。すぐにでも働き口を見つけなければいけないのに、頭も身体も動かない。

 そんな時に、ふと立ち止まった揚げ物屋。そこのメンチカツをオマケして貰ったのがきっかけで、〈 おかずの田野倉 〉で働くことになる。

 そうして動き出す聖輔第二の青春には、汗と涙の友情も、熱く甘い恋愛も、はたまた、現代のわらしべ長者よろしく伸し上がっていくサクセスストーリーも一切無し。描かれるのは、おかずの田野倉とその周辺の人びとの人間模様。

 そしてこの〈 人間模様 〉ってやつが堪らない。例えば、田野倉のおやじ。《 ウチはただの惣菜屋。星三つとかいらねえよ。飛び抜けてなくていい。生れたての赤ん坊が食っても八十のじいさんばあさんが食ってもうまい。それでいいんだ。といっても、くれるんなら喜んでもらうけどな、星 》などと言って、がははと笑ったりしている。聖輔が大学を辞めた後も、なんのかんのと言ってアパートを訪ねて来たり飯をおごってくれたりする友人もいる。本当に困った時には、貸せるお金はあるからと言い、聖輔が遠慮すると《 困ったときは借りられる。そう思っておいて 》と、さらりと言ってのける人もいる。《 時間はね、あるようでないよ。四十年なんてすぐに経っちゃう。気づいたら、できないことだらけになってる。そのときにあれをやっとけばよかったなんて思わなくてすむよう、がんばんな 》と応援してくれる人もいる。《 お金がないのも悪いことばかりじゃないよね。慎重に選んでものを買うようになるし 》という価値観に気付かせてくれた人もいる。ちょっとしたトラブルを解決してくれたお礼を言うと、《 そんなことで礼を言わなくていい。聖輔は人に頼ることを覚えろ 》と怒ってくれる人もいる。


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《たった一人になった。でも、ひとりきりじゃなかった 》という帯の惹句は、こういうことを言っているに違いない。聖輔は20歳にして家族を失った。その代わりに(と言っては語弊があるが)、まるで第二の家族とでも呼びたくなるような人びとと出会い、その思い遣りと励ましに包まれることで、自ら下りようとしていた人生のレールを、もう一度進んでみようと考え直す。《 僕は二十一歳。急がなくていい。一つ一つだ。急がないが、とどまらない。そんなふうにやっていけたらいい。先は大事。でも今も大事。先は見なければいけない。でも今も疎かにしたくない。だって僕は、生きてる 》、そう静かに決意を固める。

そして終盤、田野倉のおやじが断固たる態度で言い放つ。《 聖輔は一人じゃない 》と。こんなセリフこそが、小野寺史宜の真骨頂だ。幸せの崩壊と、そこからの再起。《 空気と光と、友人の愛。これさえ残っていれば気を落とすことはない 》と言ったのはゲーテだそうだが、生きている以上、辛いことや悲しいことは巡って来る。でも、そこから浮上するチャンスも必ずある。ためらっている時に背中を押してくれたり、疲れたときには肩を貸してくれたりする人も、身の回りにきっといる。だから、人生を投げ出すな。小野寺史宜は、そんな声援を静かに送り続けている作家だと思う。






永野裕介のスクリーンからこんにちは。
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『女は二度決断する』

監督:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヌーマン・アチャル他


テロによって家族を失った女の復讐劇! 三部構成でとても観やすい作りでした!

 特に二部目の法廷劇は、主人公の視点で観ると、もの凄く辛いものがありました。被告側の弁護士がとにかく嫌な奴! あ~……今思い出してもムカつくな~アイツ! まぁ、あのムカつく弁護士のおかげで主人公の気持ちに乗れたんだけど(笑)。

 この作品、復讐の結末はちゃんと用意されています。女の復讐作品で、今年アカデミー賞にノミネートされ、個人的には作品賞だと思っていた『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)という作品があるのだが、とても比較したくなる。何故なら、こちらの作品では前者とは全く違う結末が用意されているからです。良かったら二作品を観比べるのも面白いかもしれません。
丸善津田沼店・永野裕介



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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5月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2018-05-05 00:08 | バックナンバー | Comments(0)