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18年02月

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「平成三十年二月」たぶん、それこそ30年くらいしても一読の価値があるものは、こういうものだと思う。『月刊文藝春秋』の2018年2月号の話である。同時に、目次をはじめてみたとき、ああ、いよいよ来たなぁ、とぞくっとした。それは雑誌云々という話より、社会の流れのなかで感じるたぐいの感覚だったと思う。私がみた範囲ではじめての、本格的な「平成を振り返る」特集だったからである。いいかえれば、「平成とは何か」という、平成が振り返られる対象になったことを実感した感触である。今期のアニメ・ポプテピピックで平成サブカルを煮詰めに煮詰めた演出が出てくるのをみて感じた、ああ、平成が終わっていくなという感覚にどこか近いものだ。

 平成という元号に、言葉に馴染めないまま30年が過ぎてしまった、という巻頭の言葉は、多くの人の実感と違わないのかもしれない。平成生まれの私にとってそれはあくまで推測するしかできないことなのが悔しいのだが、実は歴代でも有数の長さになった平成という期間をもってしても、昭和の長い時間はそこにあり続けた。

 平成の時間がそっくり自分の生きてきた時間になる私にとって、世のなかでかわされる平成という言葉をめぐる色々なやりとりの多くはあまり心地の良いものではない。自分でもそれがなぜなのかよくわからない。ただ、ありうる回答をするなら、次の元号という話題がでている今日をもってしても昭和が特集されることは多いし、それに一定の需要があることもわかるが、それだけに、どこかよそもの感というか、アウトサイダーというか、「君たちの知らない時代があってね……」という、見えない境界線のようなものでくくられて、平成やいわゆるゼロ年代を生きてきた私は身につまされるようなものを感じるのだと思う。


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 その私にとって、まさに待望の……といえる特集が、この号の平成特集である。数ある記事のなかでもある意味で今一番気になったのものが、「元号決定までの舞台裏」という241ページからの記事だった。生前の譲位については、『週刊文春』2018年1月25日号の「この人に会いたい」対談でもあったように、そもそもがかなりのインパクトをもった話である。また、気がつけば平成になって30年が経っているため――経験していない私がいうのも変な話だが――元号の決定に際してどんなことが伴うのか、その実際のところはおぼろげである。そのなかで、「天皇陛下のご存命中に次の元号を準備するのは、不敬という批判も免れません。ですから機密保持が最重要となります。」(241ページ)という前提にたったうえで、当時どのように元号が決まっていったのか詳細に書かれている記事は、法という近代の仕組みに根拠をもたなかった年号というものが、そのなかで組み込まれつつ、組み込みきれない部分をすくいあげ続けるという、平成の次の時代にも再び考えられなければならない現実があることを教えてくれるように思った。

 また、雑誌というメディアに載っていることを加味すれば、279ページのスマホ革命についての記事も平成で起こったメディアをめぐる最大級の「事件」といえるように思う。あなたの周りを思い返してほしい。iPhoneをはじめてもっていたのは、身の回りの誰だっただろうか。そしてそれをみたとき、自分はどう思っただろうか。私にとってのそれは、クラスメートにいた「変わりもの好き」で、彼がなにやらよくわからない形をしたタッチパネル式のガジェットをもっているのをみた私は、また色々と不便そうなものを買ったなぁ、と、なかば呆れながらみていた。テレビやパソコンの画面を触っちゃいけません! といわれ続けた世代だからというわけではないのだろうが、ガンガン指で画面を触ることに違和感をもつ友人もいたのを、今でもよく覚えている。今ではその「不便そう」なものは、無くてはならないものになった。フリック入力ではない「ケータイの数字キーを連打することで日本語を入力する」という、もはや一部の世代の人々にしか共有されていない身体経験にもとづいて操作する人を、今の高校生や中学生はどうみているのかな、と思ってしまうこともある。その意味でも、ここでいう「破壊的イノベーション」の先を、私たちはまだ共有しきれていないのではないだろうか。そして、その状態のまま、総体としての社会ではなく、浮島のような小さなクラスタとして集合体を形成するしかなくなったのかもしれない。


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「最大公約数ではなく最小公倍数の時代」(276ページ)という認識に基づくなら、そういう大きな集合体がないから、一人のものに収束しきらないのだろう。当時私が大好きだったフルメタル・パニックという作品のアニメが、いま東京では毎週日曜の朝に再放送されているのだが、そのなかに一人の人気アイドルのパロディがある。これは今やるなら誰でやるんだろうな、やろうとしても難しいんだろうね、そういって先日も友人と話したことを、今ふと思い出した。二七五ページの記事にあるようなAKBに代表されるように、グループという形でのアイドルが活躍するようになったことに慣れたが、系譜的にはそれも平成になってから顕著になったことなのかもしれない。

 私にとって、平成という時代は自分の生きてきた時間そのものである。「いいか、今日は平成12年12月12日だから、歩くときはちゃんとイチ、ニ、イチ、ニって歩くんだぞ」と父からわけのわからないことをいわれて送り出された小学生の朝も、みんなと太陽の塔の背に満開の桜をみながら酒を飲んだ大学生の夜も、こうして千葉の駅で手帳を確認しながらふと空を見上げる今日の昼も、私にとっての平成だった。これから、きっと「平成」特集号は増えてくるのかと思う。だからこそ、こういう号を手にとって、書棚にいれてほしい。あなたにとって、平成はどういう30年だっただろうか。



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《 職人は端っこに一番気ぃつかう。小さな端っこがようでけてるかどうか。そこに職人の腕がかかってる。職人は端っこから世の中、見てるんや。 》


〈 神は細部に宿る 〉という言葉もある。〈 凡事徹底 〉などとも言う。小さな仕事、些細な作業、取るに足らない役回り。そういった事が出来ない奴に、デカい仕事など出来る訳がないのだ、多分。






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 本を狩る。時の権力者が自己保全の為に、都合の悪い書物を強制的に接収し、焼却する。無論、逆らえば罰せられる。史上最も有名なのは秦の始皇帝の焚書坑儒だろうが、規模の大小を問わなければ、古今東西の様々な場所と時代で同様の狼藉が繰り返されてきた。

 第二次大戦中のドイツでは、ナチスに扇動された学生たちが、フロイトやハイネ、ケストナーやレマルクを〝 非ドイツ的 〟であるとして、片っ端から焼き捨てたと言うし、スターリン体制下の旧ソ連とか、ポルポトのクメール・ルージュとか、毛沢東の文化大革命とか、或いは南米やアフリカの軍事政権下でも、権力基盤の強化を狙った思想弾圧の一環として、必ずと言っていいほど「本」が標的にされた歴史がある。

 日本でもスケールは小さいながら、例えば高野長英らが徳川幕府の迫害を受けた「蛮社の獄」は〝 書物狩り 〟の一種と言えるだろうし、第二次大戦中の軍部による発禁・削除処分も、やはり〝 本を狩る 〟蛮行と言っていいだろう。また、今こうしている瞬間にも、例えばイスラム過激派が牛耳る地域では、膨大な数の書物が焼かれ、破かれ、踏みにじられているに違いない。

 現代のこの平和な日本で本屋の店員などというこれまた平和な仕事に就いていると、殆ど実感することはないが、「本」とは、支配者階級がそれほどまでに忌み嫌うものらしい。

 だが……。有史以降、何度となく焼き捨てられてきた「本」たちは、時の権力者が衰退し暴政が去った後には、瓦礫の下から新たな植物が芽吹くが如く、何度でも甦った。そして、混乱と荒廃の中で打ちひしがれる人々に、長く冷たい夜が明けたことを知らしめた。無論、本が勝手に自衛手段を講じて生き延びた訳ではなく、そこには、いつ終わるとも知れない暴力の中で、身を挺して本を守った名も無き勇者が必ず存在した。今回は、そんな勇者たちを、何人か紹介してみたい。


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 まずはフィクションから。『火星年代記』と並ぶ、レイ・ブラッドベリの代表作。『華氏451度』とは、僕らが日常使う摂氏に直すと約233℃だそうで、紙が自然発火する温度らしい。

「本」が禁じられて数十年。30歳のモンターグは、違法に秘匿されている本を燃やす「昇火士」という仕事に、誇りと遣り甲斐を感じている。《 いい仕事さ。月曜にはミレーを焼き、水曜はホイットマン、金曜はフォークナー。灰になるまで焼け、そのまた灰を焼け。ぼくらの公式スローガンさ 》。

 その世界では人々は、本の代わりに小型ラジオと立体映像にどっぷりと浸かって、自ら考えることを放棄し、人間ならではの思考とコミュニケーションを忘れ去って既に久しい。その姿は、頭が空っぽの操り人形と化しているようで、うつろな目と半開きの口といった不気味な表情が、容易く想像出来てしまう。もしかしたらそれらのラジオや映像機器は、人民支配の為に――言い換えると民衆を洗脳する為に――政府が開発し支給した……とは書いてはいないが、あながち邪推とは言い切れないのではないか。民は寄らしむべし、知らしむべからず、だ。

 しかしモンターグは、徐々に本に惹かれ始める。そして、その気配を感じ取ったらしい上司から忠告される。《 昇火士の仕事をしていると、誰でも少なくとも一度は、むずむずと来るもんだ。本は何をいってるんだろう、と思うわけさ(中略)本はなにもいってないぞ! 人に教えられるようなことなんかひとつもない。信じられることなんかひとつもない 》。ならば何故、政府はやっきになって本を取り締まるのだろう? とモンターグは――この世界の住人としては極めて珍しいことだが――自分の頭で考え始める。もし本当に〝 本はなにもいってない 〟ならば、放っておいても害は無い筈ではないか。《 もしかしたら本が、ぼくらを洞窟から半分そとへ出してくれるのかもしれない 》。そんな危険思想を抱いたモンターグは、「バレたら身の破滅だ」と警告する内なる声を振り切って、徐々に深みにはまって行く……。

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 冒険の過程でモンターグが頼りにするある人物が、こんなことを言っている。《 いいかね、昇火士などほとんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ 》と。

 個人的には、知識も感動も娯楽も教養も、「本」の専売特許だとは思わない。映画にだって音楽にだって絵画にだって、心を動かされることはたくさんある。でも、だからと言って「感動させてくれるものは他にもあるんだから、本など読まんでもいいだろう」とは思わない。映画には映画の、音楽には音楽の、絵画には絵画の良さがそれぞれあるのと同様に、本には本でしか味わえない良さがある。皆が自ら読むのをやめてしまった先が『華氏451度』の世界なのだとしたら、そんなところに誰が住みたいと思うだろう?

 終盤、モンターグを救うあるグループのリーダーが、人類の愚行を不死鳥になぞらえる場面がある。有史以前、自ら起こした炎でその身を焼き、灰の中から甦ってはまた自らを焼いた不死鳥という鳥がいたという。何度も同じ過ちを繰り返してきた人類は、まるでこの不死鳥の如くだと。しかし、と彼は続ける《 われわれにはひとつ、不死鳥が持ちえなかった美点がある。われわれは、自分がいまどんな愚行を演じたか知っているという点だ 》。過ちを繰り返さない為には、その過ちを決して忘れてはいけない、ということだろう。

 因みに、ナチス時代に膨大な数の本を焼き捨てた過去を持つドイツでは、ベルリンのベーベル広場に、かつて燃やした二万冊の本がぴったり収まるだけの空っぽの本棚が展示されているそうだ。


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 そのナチスドイツのホロコーストが吹き荒れた時代。悪名高きアウシュヴィッツから生還した、一人のユダヤ人少女の物語。『アウシュヴィッツの図書係』は「著者あとがき」によると、《 事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉付けされている 》とのことで、主人公ディタ・アドレロヴァのモデルとなった女性は、現在もイスラエルで元気に生活しているという。

 本書で初めて知ったのだが、アウシュヴィッツには〈 家族収容所 〉と呼ばれる一帯があり、親が強制労働をしている間、子どもたちが集まって過ごした〈 子どもブロック 〉なるバラックまであったそうだ。とは言え学童保育のような呑気な施設である筈はなく、赤十字などの国際機関が査察に来た際に、人道にもとることはやっていないという、言わばカムフラージュの役目を果たしたらしい。故に食事や労働などで優遇された訳ではなく、入ったが最後死を待つのみという点は、他の区画となんら変わらない。アウシュヴィッツとはそういう場所だ。

 ところが、その〈 子どもブロック 〉を最大限に利用しようと考えた人たちがいた。

 収容者たちから没収した荷物が、一時的に保管されている倉庫から、監視の目を盗んで持ち寄った八冊の本。それを使って、有志の大人たちが〈 子どもブロック 〉で、隠密裏に学校を開校していたのだという。念の為に記すが、アウシュヴィッツでは本を所持することも閲覧することも厳禁だし、子どもに勉強を教えるなどもってのほか。見つかれば、それは死と直結する。

 その学校に於いて、図書係をかって出たのが、14歳のディタ・アドレロヴァだった。囚人服の内側に隠しポケットを作って本を運ぶ。監視の目をかい潜って本を貸し出す。大人たちは、地図帳を使って世界の地理を教え、ウェルズの『世界史概観』で、人類の歴史を語り聞かせる。ディタは、授業が終われば回収して秘密の隠し場所に戻す。はがれかけた表紙を縫い、破れたページを貼り合わせ、蔵書八冊の図書館を愛情たっぷりに管理する。そして一日の終わりが近づく頃、彼女は図書係の〝 役得 〟で、お気に入りの『兵士シュヴェイクの冒険』を一人でゆっくりめくりながら、辛い現実をしばし忘れる。


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 といった書き方をすると、「監禁されてはいるけれど、本の楽しさで乗り越えました」みたいな〝 ハートウォーミングな話 〟に思われるかも知れんが、ここはアウシュヴィッツである。ガス室から漏れ聞こえる悲鳴も餓死もチフスも投げ捨てられた遺体の山も、ディタたち少年少女は、毎日見て聞いて体験し続けているのだ。

 或る時、収容者たちを〈 まだ働ける者 〉と〈 もう役に立たない者 〉に選別する作業が行われた。〈 役に立たない 〉と判定されたら、言うまでもなくガス室送りである。ディタが仲良くしているマルギットという少女は、自身は〈 働ける組 〉に振り分けられたものの、母親と妹はダメだった。その時の様子を、マルギットはこう打ち明ける。《 あのね、ママも妹も微笑んでいたのよ! さよならって手を振りながら、微笑んでた。信じられる? 死刑を宣告されていたのににっこりと(中略)助かる可能性があるグループに私がいるのを喜んでくれていたのよ 》。

 そんな状況で読書。明日殺されるかも知れないのに学校。何の意味があるんだ? と思うのは僕だけではない筈だ。実際、ディタが一人の女性教師に食ってかかる場面もある。しかし、その女性教師は――恐らくはしゃがんでディタと目の高さを合わせるようにして――優しく、しかしキッパリと諭すのだ。《 戦争は永遠に続くわけじゃない。平和が来たときの準備もしなくちゃ。子どもたちはしっかり勉強しておかなければね。だって、廃墟になった国や世界を建て直すのはあなたたち若者なんだから 》と。『華氏451度』と同じように、ここにも武器を持たない勇者がいた。

 そうして1945年の春、何の前触れもなく収容所に自由と平和がもたらされる。連合軍がやって来て、昨日まで威張り散らしていた看守たちを連行して行く。《 三十一号棟の図書係ディタ・アドレロヴァは泣き始めた。この瞬間を見ることなく死んでいったすべての人たちのために涙を流す 》。ディタたちは、地獄から生還した。


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 解放の数日後、ディタが、イギリス人の兵士から本を貰う場面がある。兵士は、英語が理解できないディタを気遣って、拙いドイツ語で「その本は英語だよ」と告げるのだが、ディタは笑顔で応じた後、本の表紙を撫で回し、本の匂いを嗅ぐ。ページをめくって紙の音に耳をすます。「やっと自由に本が読めるようになった」というディタの歓びが行間から滲みだしてくる名場面で、仮に当時、電子書籍なるものがあったとしても、このシーンの温もりは紙の本でなければ伝わらないだろうな。だから紙の本を買ってくれ、と言いたい訳ではないのだが(笑)。

 自由に本を売り、買い、読めることの幸せをを噛みしめつつ、『アウシュヴィッツの図書係』を強く推したい。

 同じく、暴力から本を守った市民の実話だが、こちらはついこの間の出来事。『アルカイダから古文書を守った図書館員』はその名の通り、西部アフリカのマリ共和国で、イスラム過激派によるテロが吹き荒れた2013年、数百年間保管されてきた様々な古文書を、隠密裏に疎開させた市民たちのノンフィクション。

 西欧の知識層からは――ヘーゲルやカントでさえも――近代まで文字文化は存在しなかったと言われていた中西部アフリカで、代数や物理学に天文学、アリストテレスやプラトンの哲学、医学、薬学に至るまで、幅広いジャンルの書籍が11世紀には既に流布しており、16世紀には百を越える図書館や大学まで存在したという。それを世界に証明・紹介するために、各地に散っていた古文書を集めて蔵書37万冊の図書館を作ったのが、本書の主人公アブデル・カデルという図書館員。

 しかし、その古文書がイスラム過激派のテロと内戦によって、風前の灯となる。過激派たちは、自分たちの意に沿わないものを片っ端から「反イスラム的である」として、世の中から抹殺しようとやっきになる。


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 そんな訳で、過激派たちの目を盗んで古文書の大疎開作戦が展開される訳だが、何しろその数37万冊である。前述のディタのように、隠しポケットに忍ばせて、という訳にはとてもいかない。そこで登場するのが、名も無き大勢の一般市民たち。彼らは命の危険も顧みず、多くは無償で、古文書の移動、隠匿に協力する。一人一人が、今自分に出来る範囲で奔走する。

 物質的には日本ほど恵まれてはいない地域だけれど、僕らよりも――少なくとも僕個人よりも――遥かに〝 文化 〟を大切に考える人々の、小さな勇気の集合の物語だった。

 重い話が続いたので、最後は極め付けに能天気なヤツを。『バーナード嬢曰く。』は、どこかの高校の図書室を舞台にした、一風変わったギャグマンガ。登場するのは四人の男女。読書家キャラには憧れるが本を読むのは面倒臭いという町田さわ子。そんな町田を好奇心丸出しで観察する遠藤くん。その遠藤くんに密かに思いを寄せる図書委員の長谷川スミカ。そして、読まずにツウぶろうとする町田を激しく罵るSFマニアの神林しおり。

 この四人が毎日のように放課後の図書室にたむろして、読んで面白かった本つまらなかった本、今読んでる本これから読む本、いつか読みたい本読みたいのに挫折した本etcと、めちゃくちゃ気ままに語り尽くす。登場するのは、古典的名作から一昔前の流行本から芥川賞直木賞から本屋大賞から村上春樹からケータイ小説まで多岐様々。


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 その自由奔放さは「本の読み方に〝 絶対のルール 〟など無い!」と主張しているようでもあり、「本の面白さは十人十色。自分が面白ければそれでいい!」と語っているようでもあり、四人の書評や主張や感想や迷いに、共感しまくりながら全3巻を一気に読了。当駄文『読書日和』の読者なら、「あ、分かる分かる!」と膝を打つこと、一再ではない筈だ。例えば、神林しおりの以下のセリフ。《 本は読みたいと思った時に読まなくてはならない その機会を逃し「いつか読むリスト」に加えられた本は 時間をかけて「読まなくてもいいかもリスト」に移り やがて忘れてしまうのだ 》なんて、実に言い得て妙ではないか!

 更に。日常的に図書室にたむろするだけあって、彼らの書評がまた実に巧い。しつこく引用を続けると、海野十三「電気風呂の怪死事件」を、神林しおりが町田さわ子に紹介するセリフ。曰く《 銭湯の電気風呂で客が感電死するところから始まる短いミステリーなんだけど……すぐ読めて勢いがあって当時の銭湯の雰囲気も伝わってきて面白かったよ でもトリックとか雑でいろいろツッコミたくなるから人を選ぶかも 最後の最後でびっくりしたんだけど 》って、内容には殆ど触れてないのに、何だかものすごく面白そうに聞こえないか? 彼ら四人が実在するなら、是非とも『読書日和』に寄稿して貰いたいものである。

 そんな訳で、正直に白状しよう。面白い本を見つけたいなら、『読書日和』よりも『バーナード嬢曰く。』を読んだ方がいいかもしんない(笑)。それにしても、四巻いつまで待たせるんだ?



新刊案内
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文庫発売カレンダー
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まも無く文庫化
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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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2月のイベントガイド
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by dokusho-biyori | 2018-02-02 10:07 | バックナンバー