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18年01月

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 新年ということで、新しいことを始めようという人も多いかもしれない。案外、そういうきっかけをくれる節目やらなにやらは、「何かをやりはじめる言い訳をくれる」という、実のところ思った以上に替えのきかない役割を果たしているのかもしれない。そう思うようになったのは、大学に入って親元を離れた辺りだった。

 というわけで……というほどきちんとしたものではないが、年のはじめくらい、時にはちゃんと雑誌コーナーからレビューのようなものを書いてみよう。

 テレビでも雑誌でも、毎回楽しみにしている特集があるという人はこれを読んでいる人のなかにもいるかしれない。私にもそういう特集があり、また今回とりあげるこれは、つくづくよくこれを紙で実現しているなあと驚かされるものである。『趣味の文具箱』のインク特集がそれだ。電子書籍の話題は頻出するが、本という数千年残ってきたフォーマットでこれを実現しているあたり、私はこういうものこそ現物で手元に欲しくなる。

 公式ホームページからの紹介を使いながら便宜的にいえば、『趣味の文具箱』とは「若者から大人まで広い世代の文具ファンに向け、万年筆や美しく機能的な文具を趣味と実用の視点から紹介」している年四回発行の「雑誌」である。

 いきなりレビューを放棄するようだが、私が何事かを書くより、どんな雑誌だろうと思われた方には実際に『趣味の文具箱』44号「インク沼へ、ようこそ!」を手にとって、そして最初のとじ込みページを読んでもらいたい。そこにあるのは、市販されている数多くの万年筆のインクを集め、その微妙な色合いが表現された特集である。


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 万年筆を使ったことのある人には伝わるかもしれないが、インクは紙との相性や経過時間によって微妙に色合いをかえていく性質がある。そのため、万年筆愛好家のなかには実際に書いてみないとわからないという感覚をもつ人も多い。そういうマニアックな次元からちょっと距離をおいても、年賀状や年末の繁忙期の資料作りで「画面で見たらいい感じの色味なのに印刷したらぜんぜん思ったような写真がプリントできない!」と思った方はそれを思い出してもらいたい。いわば、こうした紙と印刷技術の限界に挑戦した企画がこの特集であり、実際に私が関西に住んでいたときも、百貨店的な高級文具店のインクコーナーの店員さんがすっとこの特集号を出しながら色の説明をしているのを何度もみた、文具コーナー定番の号である。

 このとじ込みを開いたら、じっと自分の好きな色味を探してもらいたい。「ああ、この緑はきれいだな。あ、この深い青は落ち着いてみえるな」という感想をぼんやりと抱いているうちに、こんなことが頭をよぎらないだろうか。「微妙な違いだなぁ……この深い青とその近くにあるあの紺色は、どちらがより暗いんだろう」と。

 そういうときに68ページを開くと、思わず笑ってしまうと思う。ここには、市販されているインクの多くをきちんと測定し、その結果をもとにチャートに落とし込んだえげつない分類表がある。左上には一見同じようにみえる「黒インク」の僅かな色味の違いもサポートされている。

 これらの色味の違いをみると、一見同じようなブルーでも多くの色の重なりによって作られていることがわかる。このことがより実感できるのが、52ページからの色素分類である。理科の実験でしたようなペーパークロマトグラフィーによって細かな色味の違いがわかり、これらが重なり合うことでああいった僅かな差異が生まれているのだ。そしてこの構成比があるからこそ、66ページのように水分が増減してしまうと色味にもゆらぎが生じていく。


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 インクに紙の上で水を加え始めた辺りで個人的には「牛カツ天丼」を食べたようなずっしり感があるのだが、『趣味の文具箱』はここでとどまらない。先程も話題にしたように、インクは時間の経過とともに色合いが変わっていく。それは特に、古典インクと呼ばれる昔ながらの製法で作られたインクであれば顕著だ。このことが一番わかるのが、48ページからの古典インク色変化チェックだろう。筆記直後、5秒後、10分後、24時間後とその色味をとらえ、最終的に書いた当初との色の違いが明らかになっている。ほとんど違いのないような色味もあれば、原型が残らないような大変化をするものもある。

 これらがすべて合わさって、『趣味の文具箱』のインク特集はできている。現物として手にもってみていると、そのすべてを印刷技術でこなしていることの凄みを感じるし、だからこそ今でもインク売り場の片隅に必ず常備されているのだと思う。

 こうした特集は、ある意味で一番の顔であり、そして顔であるがゆえに、それぞれの「雑誌の差異」が一番際立つ瞬間でもある。実はそういう話をはじめると、またひとつの私が毎回楽しみにしている別の雑誌の特集号に話題が移り、そしてまたそれこそがいわば真打ちのような話になるのだが……今回はここまでにしておきたい。まだ今年は、11/12ヶ月も残っているのだ。



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《 世の中には生まれつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生まれつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ。 》

『さぶ』山本周五郎

 支えてくれる裏方さんへの感謝の気持ちを忘れないだけでなく、自分が裏方に回った時は、感謝して貰えるような働きが出来る、サウイフモノニワタシハナリタイ。



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 リトアニア第二の都市カウナスと言われても、正直余りピンとは来ない。僕を含めて大多数の日本人は、杉原千畝の命のビザをかろうじて思い出す程度だろう。1940年夏、カウナスの日本領事館に赴任していた杉原が、ナチスの迫害から逃れて来たユダヤ系難民たちを救うべく、外務省の訓令に逆らってビザを発給し、数千に上る人々の脱出を助けた、というあれである。

 実はその1、2か月前にリトアニアは、ソ連の軍事侵攻によって独立を失っており、以後リトアニアの老若男女は、スターリン率いるソ連共産党から激しく迫害されることになる。具体的には、膨大な数の一般市民が故無き罪を着せられて投獄されたり処刑されたりしたのだけれど、共産党が徹底して隠蔽し続けたために、戦後も長く世界には知られないままだった。しかし1991年にバルト三国が独立すると、漸く埋もれた史実が明らかになる。その実態は、《 リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国は、ソ連による虐殺の時代に、じつに人口の三分の一以上を失った 》と言うから、ヒトラーも真っ青の暴虐非道ぶりである。

 そういった第二次世界大戦の知られざる一側面、ソ連とナチス双方に蹂躙され続けたバルト三国の近代史をベースに紡がれたのが、ルータ・セペティス『灰色の地平線のかなたに』である。描かれているのは、戦争の悲劇と、独裁国家の恐怖。そして、何度踏みにじられても息を吹き返す、雑草のようなリトアニア国民の逞しさ。

 作者ルータ・セペティスの父は、リトアニア軍将校の息子として生まれ、侵攻するソ連軍に追われて難民キャンプに逃れたという、まさに歴史の生き証人。「作者あとがき」によると彼女は《 自分の遠い親戚、シベリアに追放されて生還した人たち、強制労働収容所を生きのびた人たち、心理学者、歴史家、政府関係者など 》に取材し、《 この物語に出てくる出来事や状況の多くは、生還者やその家族が私に語ってくれたもの 》だと言うから、小説の体裁をとってはいるものの、強制連行と強制労働の描写は相当の事実を反映してると思って良さそうである。


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 1941年6月の夜更け、カウナスに暮らす15歳の少女リナ・ヴィルカスの家に、突如、ソ連の秘密警察NKVDが押し入って来る場面で、物語の幕は開く。そして彼女は、10歳の弟ヨーナスと母親のエレーナと三人まとめて、「反革命的」であるとして逮捕される。無論、裁判など無いし弁護士もおらず、銃で小突かれながら大勢の町の人々と一緒に連行されるのだが、たかだか10歳の少年の一体何が「反革命的」だと言うのだろう。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 リナたちが連行される直前、支度をするために与えられた20分間に、母親のエレーナが大切にしてきた食器を片っ端から叩き割る描写がある。《 ママ、大事にしていたものをなぜこわすの? 》と問うリナにエレーナがカップを床に投げつけながら《 大好きだからよ 》と答えるシーンが、いきなり切ない。NKVDの連中に持っていかれるぐらいなら、という悔しさが、ひしひしと伝わって来る場面である。

 職場から直接連行されたらしい父親とは一切連絡が取れないまま、三人は家畜用の貨車――座席どころかトイレすら無く、必要な時には床に空いた穴を使って、共に乗車している人々に背を向けて用を足さなければならない――に詰め込まれて約六週間。栄養価が低く不衛生な食べ物をほんの僅かしか与えられず、体力の無い老人と子供が次々と死んでいく。その遺体は、列車が停車する度に外に放り出される。葬儀も埋葬もないまま、野ざらしで。

 そして連れて行かれたのは、シベリヤの原野に浮かぶ孤島のような強制労働収容所。そこでリナたちが聞かされたのは、《 ソビエト連邦に対する反革命的活動の罪 》により、25年の重労働の刑に処せられるという通告……。

 この時の彼女たちの胸中は、「絶望」などと一言で簡単に言い表せるものではなかった筈で、僕らがどんなに想像力を逞しくしようとも、絶対に想像し切れないに違いない。


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 家族や恋人や友達と離れ離れに引き裂かれて、手紙のやり取りどころか安否すらも知らされず、相手が無事に生き延びている事をただ願う。髪の毛が凍ってポキンと折れてしまう程の極寒の中、重さ30キロにもなる穀物袋を運んだり、森林を伐採して薪を作ったりと散々こき使われた上、与えられる食料は一日にパンがたったの300グラム。

 スーパーで売ってる食パン1斤が大体400グラム前後で約1,000キロカロリー。成人男子の一日に必要なカロリーのざっと半分。300グラムのパンならその四分の三だから、リナたちには一日に必要なカロリーの3~4割しか与えられなかったことになる。しかも、病気や怪我で仕事を休めば、その日の配給はカットされるし、勿論、肉や野菜などの副食物もめったには手に入らず、それでいて土曜も日曜も無く毎日12時間以上も重労働を課せられて、それで健康を維持できる訳がない。或る日、空腹に耐えかねて畑の作物を盗み食いした老人は、見せしめのために皆の面前で、ペンチで前歯を全て抜かれてしまったり、収容者たちの扱いは、もう完全に奴隷以下。

 栄養失調が常態化した収容所では、赤痢とチフスと壊血病が蔓延し、栄養不足から一度怪我や病気をするとなかなか治らず、更には精神を病んでしまう人や、生きる気力を失くして自ら命を絶ってしまう人も出る始末。そして何より辛いのは、まさにこの世の地獄とでも形容すべき惨状を仮に生き抜いて、約束通り25年後に出所出来たとしても、現在15歳のリナは、その頃には40歳になっているのだ。

 いや、無理無理無理無理。俺なら「死んだ方がマシだ」と、きっと考えてしまうだろう。俺だけじゃない。読者の皆さんも、本書を読む際は是非、「もし自分がリナの立場だったら?」という想像力を精一杯働かせて読んで欲しい。「私は絶対挫けない」と言い切れる人が、果たして何人いるだろう?


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 ところがどっこい、なのである。リナたちはいつか故郷に帰る日を夢見ながら、そして、生死も定かではない家族や恋人の無事を祈りながら、収容所内の人々と助け合って懸命に生きのびようとする。

 病気で仕事を休んだ人には、皆でパンを分け合い、火にくべたレンガで体を温めてやる。誕生日には、様々な手段でくすねて来たジャガイモで、ささやかなパーティを催す。また或る日、フクロウの死体を見つけたリナが、病気で寝ている母親に食べさせるために持ち帰るのを、NKVDに見つからないように、何人もの収容者たちがそれとなく囲んで隠してくれる場面があるのだが、そうやって協力しても自分がフクロウの肉にありつける訳ではないのである。自分自身もいつ栄養失調で倒れるかも分からないという状態で、人に食わせるためだけに協力して肉を運ぶ、そんなことが可能なのか、人間は!?

 物語は、当然ながら終始陰鬱で、読んでいて気が滅入る場面も数々あるが、ただ一点、リナを始めとして多くの収容者たちが懸命にいたわり合おうとする姿に、僅かな光を感じ続けてページをめくった。些細な幸運を全員で喜び合い、ちっぽけな希望を全員で温め合う。誰か一人に降りかかって来た辛苦は、皆で力を併せてはね返す。不意に天から落ちて来た「運命」という大岩を、一人で支えようとすると潰されてしまうから、皆で力を出し合って懸命に堪える。誰かが弱れば、その人を休ませるために皆が少しずつ、自ら望んで負担を増やす。例えば芥川の『蜘蛛の糸』の犍陀多も人間の生の姿ではあるのだろう。でもその正反対のリナたちのような生き方も、人間に元来備わっている天稟なのかも知れない。いや、そうであって欲しいと切に願う。


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「作者あとがき」でセペティスは言う。《 ソ連による五十年間もの残酷な占領ののちに、一九九一年、バルト三国は独立を取りもどしました。しかも戦いによってではなく、平和的に、尊厳を持って。彼らは憎しみよりも希望を選び、どんなに暗い夜も必ずいつかは明けると、世界じゅうに示してくれたのです 》。

「読んで損した」と感じる人はいない筈だと言い切れる、数少ない本の一つだと思う。

 そうしてリナたちがシベリアで、命をつなぐための闘いを静かに展開していた頃、彼女のいとこのヨアーナもまた、生きのびるための試練に直面していた……。セペティスの二作目『凍てつく海のむこうに』は、『灰色の地平線のかなたに』の続編と言うよりは、「一方その頃ヨアーナは……」といった感じの、時期的にほぼ平行する物語。扱われるのは、やはり第二次大戦の埋もれた史実、史上最大規模の海難事件。

 舞台は東プロイセン。今ではポーランドの一部とロシアの飛び地カリーニングラードになっている一帯で、大戦中はナチスドイツが支配していた地域。

 1945年1月、その東プロイセンの目と鼻の先までソ連軍が迫って来て、住民たちは家を捨て学業も仕事も諦めて、西に向かって避難する。目指すは、バルト海沿岸のゴーテンハーフェン。そこでは、客船から漁船まで使って一般市民を避難させる「ハンニバル作戦」の準備が進められており、或る者は老体に鞭打ち、或る者は乳飲み子を抱えて、また或る者は生き別れた家族を案じながら歩き続ける。リトアニアから東プロイセンに移り住み、外科医の助手をしていたヨアーナも、そんな避難民の一人として西を目指す。

 そのヨアーナの他、彼女とたまたま行動を共にすることになった三人の若者たちを合わせた四人の視点が入れ代わりながら、この逃走劇は進んでゆく。


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 その道中では、例えば《 溝の中で死んでいた若い女の子は、スカートを大きくまくられていた 》といった無残な光景を、毎日のように見聞きするのだが、辛く悲惨な体験は死者だけではなく、今生きて避難の道程を辿っている一人一人にも容赦なく襲いかかる。例えばどうにか辿り着いた港では、一人の母親が泣きわめいている。《 いっしょに船に乗る子どもを、ひとりだけ選べっていうのよ。選べるわけないでしょ? 》と。無論、ヨアーナたちに何が出来る訳でもなく、本書ではこういった悲劇が、これでもかというぐらい念入りに描かれる。

 中でも、大虐殺のあったネンメルスドルフからたった一人で逃げて来た15歳の少女エミリアの境遇は、どんなに同情しても足りないぐらいの痛ましさで、しかも地獄のようなその記憶を懸命に嘘で上塗りして正気を保とうとする姿は、戦争というものの本質をはっきりと読者に提示する。即ち戦争とは、街や村を破壊する以上に、罪も無い市井の人々の心と、思い出と、希望と、笑顔と、そして幸せを破壊する行為に他ならないのだ。

「作者あとがき」にて、セペティスは言う。先の大戦では《 勝者、敗者を問わず、戦争に関わったすべての国が苦しみました 》と。そして《 たとえ、戦争で生きのびた人たちがいなくなっても、真実まで忘れ去られてはなりません 》と。

 本書では、多くの善良な男女が死ぬ。その死を乗り越えて生き抜いた少数の登場人物たちが、戦後、せめて健やかな暮らしを手に入れたことを、誰もが祈らずにはいられないに違いない。僕らが生まれた時代と場所を、つくづく幸せだと実感しながら。そしてこの幸せを、永遠に残し続けなければと決意しながら。



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 さて、こちらはうって変わって、思いっ切りエンターテインメント。アクション映画でも観るつもりで――実際、既に映画化が決まっているらしい――気楽にハラハラドキドキして欲しい。

 主人公のサム・ドライデンは38歳。かつて陸軍の特殊部隊に在籍していたこともあるタフガイ中のタフガイだが、今は除隊して平凡な一市民として暮らしている。そのドライデンのところに、以前の戦友クレアから、緊急の呼び出しが入る。詳しいこと説明しているヒマは無いと言われて取るものも取り敢えずに駆けつけると、連れて行かれたのは砂漠の中の一軒家。そこで変態野郎に監禁されていた四人の少女をアッと言う間に救いだしたかと思ったら、息つく間もなくその場を離れなければいけないと言う。一体何事やねん? と訝るドライデンにクレアが見せたのが、なんとびっくり、10時間24分後の放送をキャッチしてしまう不思議なラジオ。

 パトリック・リーの『予言ラジオ』はその名の通り、未来の放送が聞こえてくるラジオを巡って、悪の組織と正義の味方が、騙したり騙されたり裏をかいたりかかれたりしながら二転三転するストーリー。

 その不思議なラジオの原理を説明した小難しい部分は、よく解らなくてもそのまま読み進めて大丈夫。覚えておかなきゃいけない「前提」は、そう多くない。

 まず、予言ラジオは計画されて開発されたものではなく、某企業の研究室で偶然発見された技術だということ。開発者たちはその技術が悪用された場合の悲劇を即座に認識して、扱いには慎重の上にも慎重を期した。が、流出した。

 そもそもは偶然の産物であった予言ラジオは、あくまでも未来から一方的に送られる電波を、ただ傍受するだけの機械だった。どこどこの放送局の、いついつの放送を聴きたい、といった具合に手に入れる情報をこちらで取捨選択することは不可能だった。だが、予言ラジオの技術を盗み出した組織は、任意の未来を指定して放送させるバージョンアップを施した。


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 ここで、例えば『ドラえもん』なら、のび太が明日の出木杉くんの答案を盗み見て本日のテストに臨むとか、ジャイアンに殴られる場所を特定してそこを徹底して避けて過ごすとか、或いは宝クジの当選番号を調べてパパに買わせるとか、まぁせいぜいその程度の話だろう。その結果がどう転んだところで、のび太の身の回りでひと騒動あるだけで、世界は相変わらず至って平和に回り続ける。

 だが、ドライデンが相手にしなければならない敵は、当然ながらそんな暢気な輩ではない。狙うは世界征服なのである。それを阻止するために立ち上がるドライデンとクレアだが、その闘争が始まるや否や、二人は不意打ちをくらい、ドライデンは重傷、クレアに至ってはなんと敵に拉致されてしまう。なぜ、そんなにも敵は強いのか?

 そこで思い出して欲しい。予言ラジオの技術を盗んだ敵は、それを〝 未来に起こる事象を任意に選択して放送させることが出来る 〟ように改造したのだということを。即ち、《 これから立ち向かわなければならない敵は、自分がミスをおかすまえにそれがどんなミスか知っているのだ 》ということになる。もっと分かり易く言い換えれば、敵は常に後出しでジャンケンすることが可能なのだ。こっちがどんなに裏をかこうとも、こっちの采配をじっくりと見極めてから、最適と思われる手を後から落ち着いて打てばいいのだ。更に、である。応援を頼みたくてもおいそれとは頼めないという点でも、ドライデンたちは分が悪い。悪用の危険が常につきまとう技術故に、話す相手は余程慎重に選ばないといけないし、それ以前に「未来の放送が聴けるラジオ」などと言ったところで、こちらの頭がおかしいと思われるのがフツーだろう……。ドライデン、勝ち目無ぇ~。

 勿論、こういったエンターテインメントは、ネタバレと目くじらを立てるほどのこともなく、最後には正義が勝つように出来ている。バラしてはいけないネタは、誰が勝つかではなく「どうやって」勝つかという部分。ここでもちょっと小難しい理屈が並ぶけど、じっくり読み進めれば「ドライデン頭いいっ!」と、スカッと爽やかに驚ける筈。スピード感あふれる文章で、ホント、ハリウッドの豪華スペクタクルを観たような読後感。
























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by dokusho-biyori | 2018-01-06 23:35 | バックナンバー