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16年06月 前編

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最近の携帯ゲーム、いわゆるソーシャルゲームでは、通常の戦闘ゲームに出てくるような戦士、魔法使いなどは出て来ず、歴史上の人物、神々、デフォルメされた女の子たちが戦に駆り出されます。

真田幸村や織田信長なんかは実際に戦っていた(?)のでまだわかりますが、ベートーヴェンやバッハといった音楽家たちまで戦場に赴かなくてはならないなんとも世知辛い時代になりました。

そのうちゲーム会社もキャラのネタがなくなって、ついには大統領や首相なんかもでてくるのかな? 必殺技、アベノミクスなんつってね。

『どこかでベートーヴェン』中山七里



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 実はこの書籍は、入荷後二日で売り切れてしまったんです。私は洋服大好き、買い物大好き人間なので、片付けは長年の悩みです。なのでこの本を買おうと思っていたところでの売り切れで、買いたい心に火がついてしまい、津田沼じゅうの本屋を探し回りましたが見つけられませんでした(本屋さんが本を見つけっれないってっ……(笑))。

 入手まで待ちに待った分、一気読みしました。

 正直、片付け本はたくさん出版されています。大ブームになったものもあります。タイトルの「1週間で8割捨てる」って、すごく難しいことですよね? ですが本書の中では「捨てる意味、捨てる方法、捨てることに対する気持ち」を丁寧に教えてくれています。特に私が印象的だったのは

☆いつか使うかもしれないの「いつか」は絶対に来ない。
☆迷ったら捨てる。
☆捨て続けると捨て疲れる⇒捨てることに期待し過ぎない。
☆1日5分で捨てグセがつく。
☆15分で27個捨てる。
☆買ったら48時間以内に使う。
☆いつ、どんなシチュエーションで使うか、イメージしながら買う。
☆すぐに買わない。


特に最後の3つは、本当に心に響きました。

 便利な環境で生活していると、ついつい簡単にモノを買ってしまいますが、本来は「いつ必要なのか?」「本当に必要なものなのか?」きちんと考えてから買うべきなんですよね。セールで安かったからとか、ポイント○倍だったからとかの機会を上手く使うのも大事なことですが、それこそがモノを増やしてしまっているのかもしれません。

 本書を読んでから私は、買う前にしっかり考えるようになりました。そうすると、今までは買った(手に入れた)ことに対する満足だったものが、納得して決めたことへの満足に変化しました。勿論まだまだ8割は捨てられませんが、確実に「技術」は身に付いたと思っています。いつか8割捨てられる日が楽しみです。

『1週間で8割捨てる技術』筆子



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「ああロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」

 恐らく誰もが一度は耳にしたことがあろう台詞。どうしてロミオなの、って言われてもそう名づけられちゃったからね、と捻くれてみるが実際の意図はそうではない。ただの男であるのにその名前が、家柄が少女の恋愛の邪魔をする。ただの男だから恋してもいいじゃない! 家柄なんて知るかー!

 相変わらずの超訳だがこの台詞は、演劇界では知らない人はまずいないであろう、劇作家ウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』である。現在では劇やミュージカルのみならずパロディーなど様々なところで目にするが、この怒濤の恋愛模様と救いようのない悲劇をぜひ文章でも読んでいただきたい。

 さて、皆さんはシェイクスピアというとどういう印象を持つだろう。因みに私は「要約すれば一言で終わるようなものが何行にも書かれてる。つまり長い」この印象だ。ロミオとジュリエットに関しても変わらない。冒頭の台詞の後薔薇が云々かんぬんと出てくるが、結局「薔薇もただの花やん。だからロミオもただの男でしょ!? 好きで何が悪いの!!」とまとめられる。あんなにも長く書けるシェイクスピアには脱帽だ。

 ではロミオとジュリエットの印象はどうだろう。身分違いの恋とか、悲劇とか、そんなところだろうか。私の第一印象は「ああ、不法侵入した男と無知な女の子の恋ね」とまあ酷いものである。だがあながち間違っていないと言い張りたい。

 冒頭の台詞の場面は知っている人は知っている、バルコニーでのシーンである。この後ロミオが壁を登ってくるという御坊ちゃまにはあるまじき行為をしでかすのだが、ロミオとジュリエットのすごいところはこの更に後になる。

 そのすごさを話す前に一つ関係性を整理しておこう。ロミオの家とジュリエットの家は古くから敵対してきた。街中で出会えば口喧嘩から始まり暴力沙汰まで当たり前である。そんな敵対している両家の跡取りが恋に落ちるなんてもってのほか。だからこそこのお話はある意味禁断の恋を描いている。

 二人の出会いはジュリエットの家の仮面舞踏会にロミオとその親友が参加した時のこと。まあ仮面舞踏会なので仮面をつけているので正体は分からない。だが本能的なものなのだろうか、ダンスで偶然ペアになった二人は恋に落ちるのである。つまり一目惚れ。すごい、顔見えないのに!

 いや、確かにすごいけれども! 私が主張したいすごさはそこではない。この物語は恋に落ちてから二人が訣別するまでわずか一週間足らずの事なのである。たった一週間の中で二人は出会い、恋をし、両家の反対を押し切り逢瀬をし、そして別れ。なんて怒濤なのだろうか。それもロミオは現代で言う高校生ぐらいの年だし、ジュリエットは中学生ぐらいの年だ。まだ大人とは決して言えない二人が誰よりも純粋に人を愛し本当の愛を知る。それこそ、知識を得て汚い部分を見てきた大人にはできない、優しくて無垢な恋をだ。

 さらに二人は恋のみならず死と憎しみにも触れていく。それは親友の死であったり、従兄の死であったり。いずれも両家の古くからの諍いによる憎悪に巻き込まれたのと、幼い頃から好いていた相手が対立する家の男に惚れてしまったという憎しみ、悔しさ、嫉妬。人は汚いと思うかもしれない感情が、どうしてかそれこそ綺麗に見えてくる。不思議な感覚である。

 何度も言うがこの物語はわずか一週間足らずの出来事である。その中でこんなにも人の感情に触れる事などあるのだろうか。二人を取り巻く環境は到底現代で生きている私達には理解できないが、死を覚悟してまでの恋愛や誰かを想う気持ちがこんなにも全面に出されているのは、純真無垢なロミオとジュリエットの二人だからかもしれない。

 これは悲劇だ。ただしそれは一般論である。私は完全なる悲劇だとは思えない。ではハッピーエンドか? ロミオとジュリエットにとってはハッピーエンドだ。だが二人以外からすればバッドエンドかもしれない。どういう風に捉えるかは読んでいる方の自由であって欲しい。もしかしたらシェイクスピア自身も悲劇として出したが、受取手の自由に解釈して欲しいと思っていたのかも。推測だが。

 今年はシェイクスピアの没後400年である。また数多くのシェイクスピア作品を手がけた演出家・蜷川幸雄氏が亡くなられた。これを機に、とは言わないがシェイクスピア作品に触れてみて欲しい。また元々大嫌いだったシェイクスピア作品を好きにさせてくれた蜷川氏に、哀悼の意を込めて。

『ロミオとジュリエット』ウィリアム・シェイクスピア/中野好夫 訳




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 刑事とは、警察とは常に正義の側にある。特に物語の中において刑事は常に悪人を追い、捕らえ、世界に秩序をもたらす存在として描かれることが多い。稀に越権行為をしたり物のはずみで人を殺めてしまう場面はあるが、その時は非常に重大な問題として物語に重苦しい陰を落とすことになる。結局何を述べたいのかというと、違法な捜査行為を繰り返し、平気で人を殺すような人物は物語の中では悪人として主人公に追われる立場にあると言うことだ。

 本当にそうなのだろうか? それは単なる我々の願望なのであって、平気で違法な行為を繰り返す刑事が主人公の警察小説があるのではないか。それが、ある。

 アメリカ警察小説の第一人者であり、国内外問わず後進の作家たちに多大なる影響を与えた作家、ジェイムズ・エルロイが20年ぶりに警察小説を発表した。タイトルは 〝 Perfidia 〟 (邦題『背信の都』)、戦前のロサンゼルス市警を舞台に日系一家惨殺事件をめぐる陰謀を描いた作品だ。

 市警の刑事たちが殺人鬼を追う、という筋書きは普通の警察小説と変わりないのだが、その操作方法が想像を絶するほど「黒い」。違法捜査は当たり前、証拠だって必要とあらば捏造、裏稼業の方々とは良好な関係だ。腐りきった警察組織――、エルロイの描く警察小説には欠くことのできない要素だ。

 果たしてそんな警察に真相究明などできるのか? ちゃんと事件は解決するのか? こういった疑問が浮かんでくるのは当然といえよう。しかし、ご安心あれ。腐っていても彼らは非常に優秀な刑事である。地道な(!?)捜査の末にはキチンと真相にたどり着いてくれる。

 と、書いてしまうと、単に有能な悪徳刑事が活躍する小説のように思えてしまうのだが、事はそう単純ではない。刑事たちが腐敗しているからこそ、裏社会と繋がっているからこそ描くことのできる、ある意味壮大な犯罪叙事詩がエルロイの警察小説なのである。

 小説において違法捜査、証拠捏造が行われることは既に書いた。ということは真相までの道のりは決して正統な道を通るわけではない。裏道、脇道といった普通じゃない道のりで真相に近づいていくのだ。当然、表の道ではうかがい知ることのできない事件の側面がそこでは見えてくる。事件を己の利権のために利用しようとするやからや、自分に降りかかろうとする火の粉を避けようとするやからたちの様々な陰謀が事件を取り巻いているのだ。そう、エルロイが描く「事件」とは、被害者がいて加害者がいる単純な構図ではなく、犯人の思惑とは別に交錯する陰謀をも含めた、人間の欲望なのだ。

 大見得を切ってしまったが、事実、エルロイの小説の最大の魅力は様々な人物の思惑が交錯していく構成の巧さにあるように思う。単純に事件があってそれを解決するのではない。その事件をきっかけにして引きおこされる人間の行動がどんどん物語を複雑に、面白くさせていくのである、今回の『背信の都』でも日系一家殺害事件が戦前の(太平洋戦争前後の)アメリカ社会においてどういう意味を持つことになるのか、それによって引きおこされる人々の行動とは、それぞれが必然の結びつきのようにして物語を作っていく。これだけ壮大な構相を一人の人間の頭で考えられたのかと思うと「鬼才」といった二文字が浮かんでくる。

 さて、ジェイムズ・エルロイは今回、久々の警察小説の刊行となったわけだが、20年以上前に書かれた作品で「伝説の警察小説」としてコアなミステリファンの間では愛されてきたシリーズがある。『ブラック・ダリア』『ビッグ・ノーウェア』『LAコンフィデンシャル』『ホワイト・ジャズ』の四作からなる「暗黒のLA四部作」である。1950年頃のLA市警を舞台に書かれたこれら作品もまた、「黒い警察小説」である。というよりそのジャンルの超有名作であり先駆け的作品である。どれもこれもミステリ、警察小説として一級品であるとの評判なのだが、残念ながら現在新刊で手に入るのは『ホワイト・ジャズ』のみ。ただ、『ブラック・ダリア』と『LAコンフィデンシャル』は映画化されているのでそこからエルロイの世界に入ってもいいだろう。『LAコンフィデンシャル』はアカデミー賞でいくつかの部門を受賞した名作でもある。また、今回の新作発売に合わせて、四部作全ての電子書籍化が決定したとか。無料の「エルロイ読本」も配信されるようだ。

 ミステリ好き、警察小説好きであるなら読んで損なしのエルロイ作品、新作刊行を機に手にとってみては?

『背信の都』ジェイムズ・エルロイ/佐々田雅子 訳



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 統合失調症という精神障害と闘っている人がたくさんいることは、勿論知っている。けど、それがどんな症状で、どんな風に苦しいのかは全く知らなかった。それどころか、相手の考えていることが上手く読み取れない不安や、こちらの意思が伝わっていないのではないかという危惧が拭えず、失礼千万だとは自覚しながらも、どうにも近寄りがたかった。この二作品を読むまでは。

 佐久本庸介『ドラッグカラーの空』も、倉科透恵『泣いて笑ってまた泣いた』も、ともに統合失調症を抱える著者が自身の体験を大きく反映させて紡いだ物語だ。一応小説仕立てになってはいるものの、読んだ印象はエッセイ、或いは作文のようで、だけどそれはヘタクソという意味ではなく、無理にカッコイイことを言おうとせずに自分の言葉で素直に認められた文章に、非常に好感を持ったし共感もした。

 『ドラッグカラーの空』の主人公・伊知郎は二十代半ば。大学生の時に統合失調症を患って学校を中退し、以来何度かの入退院の果てに、今はデイケアセンターと呼ばれる訓練施設に通っている。仕事はしていない、と言うか出来る状態ではない。秀才肌の弟は、顔を見る度に「クレイジー」だの「ろくでなし」だのと罵ってくる。そんな弟を叱る立場であるべき父親までもが、「甘えていないで仕事に就け」と責め立てる。という訳で、伊知郎の毎日はほぼどん底。

 ところが或る日、「アビリンピック=全国障害者技能競技会」の存在を知ったことから、真っ暗だった未来に僅かながらも光明が射す。伊知郎は数ある種目の中から「ホームページ職種」を選び、大会に向けてプログラミングの勉強を始めるが……。といったストーリー。

 この作品は、統合失調症を抱えている主人公の心理描写が、とにかく際立っている。同級生たちとは大きな差が開いてしまった焦り、何をやっても人並みに出来ない悔しさ、将来への不安、周囲の無理解に対する苛立ちなどなどが、教科書に載るような文章ではなく、当事者の口から出た生の言葉として綴られる。統合失調症とは何がどう辛いのか、それが解ると言ってしまうと言い過ぎだけど、それでも相当シンドイんだろうなという程度のことは、無知だった僕にも容易に想像出来てしまう。

 だからこそ、懸命に前に進もうとする伊知郎に、精一杯の拍手を贈りたくなるし、同時に、彼を朗らかに支える人たちの心ばえに、何度も胸を暖められた。人間関係の失敗で自己嫌悪に陥る伊知郎に、或る人物がそっと言う。《 はじめからなにも間違いがなかったら人間じゃなくて神様になってしまいますよ 》なんて、素敵な励ましだと思いませんか?

 さてもう一作。『泣いて笑ってまた泣いた』は、著者本人を主人公にした自伝小説風。統合失調症の症状は、右の伊知郎青年よりも回復がやや進んでいるようで、印刷会社に職を得て二年ぶりに「通勤」を体験するところから、物語がスタートする。

 本書を読もうとするなら何を措いても、主人公=著者の頑張る姿を見て欲しい。

 例えば、電車でほんの数駅移動するだけのことが、彼女にとっては物凄い苦行になるらしく、駅に着く度に「降りてしまおうか、いや、もう少しだけ我慢しよう」と自分を鼓舞する。《 自分の代わりに働く人ならいくらでも代わりがいる。でも病気の自分を雇ってくれる会社はここしかない 》との覚悟で、仕事で必要なデザインソフトの勉強も始める。勿論、腕前はそう簡単には上がらない。それでも、《 心は毎回折れるが言い訳してはいけない。できないから勉強している 》とやっぱり自らを叱咤して前を向く。統合失調症を出来ないことの逃げ口上に使わない。どこかとぼけた様なユーモラスな語り口ながら、その向こうに透けて見える、克己のスタンスがとても凛々しい。

「生きているだけで立派です」――物語の中盤で、或る人物が主人公に贈ったこの言葉で、ふと思い出した文章がある。蛇足ながら、それを最後に紹介したい。「騙されるな」という詩で、作者はビートたけしだ。

 人は何か一つくらい誇れるものを持っている
 何でもいい、それを見つけなさい
 勉強が駄目だったら、運動がある
 両方駄目だったら、君には優しさがある
 夢をもて、目的をもて、やれば出来る
 こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
 人は生れて、生きて、死ぬ
 これだけでたいしたもんだ

『ドラッグカラーの空』佐久本庸介

『泣いて笑ってまた泣いた』倉科透恵



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『1週間で8割捨てる技術』筆子

『どこかでベートーヴェン』中山七里

『ドラッグカラーの空』佐久本庸介

『泣いて笑ってまた泣いた』倉科透恵

『背信の都』ジェイムズ・エルロイ/佐々田雅子 訳

『ロミオとジュリエット』ウィリアム・シェイクスピア/中野好夫 訳



⇒後編に続く
by dokusho-biyori | 2016-05-29 17:15 | バックナンバー