読書日和

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「読書日和」備忘録

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15年11月 前編


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 ここ最近、どんでん返し系のミステリが流行っている気がする。物語の最後の最後で意外な真相が明かされて読者をびっくりさせるという趣向の小説だ。直近でいちばん話題になったどんでん返し系ミステリといえば『イニシエーション・ラブ』となるだろうか。他にも『葉桜の季節に君を想うということ』『最後のトリック』あたりがヒットし、『大絵画展』とか『強欲な羊』が今売れているどんでん返し系のミステリとなるか。

 このジャンル(?)の何が優れているかといって作品の面白さを言葉にして表現しやすいという点にある、と考えている。人生の妙をしみじみと感じさせる小説の良さを言葉にするのは非常に大変で、安直な言葉選びをすると「人生の妙」が平凡に堕してしまう可能性が高いし、挙句の果てには「あれ、自分が感じた感動ってこんなのだったっけ?」と首をかしげてしまうことにもなりかねない。その点、「どんでん返し系」のミステリは安心だ。「いやー、まさか死体が生き返っていたとは」「犯人が〝 透明人間 〟だったなんて」「犯行現場が宇宙空間だったなんて誰が思いつく?」などなど楽しむポイントが明確である分、その魅力も言葉にしやすい(ちなみに例に挙げた三つの「真相」は実際にある小説で使われているもの。どの作品なのかは実際に遭遇するまでのお楽しみ)。他人にも勧めやすいし、話しているうちに読んだ時の興奮がよみがえって鼻息荒くなることもあるだろう。つまり、面白さが伝播しやすいということだ。これはヒットして当然だ。

 もちろん、いいこと尽くめではない。「分かりやすさ」のうらには必ず弊害がある。このケースでは、面白さが画一化されてしまうこと、つまりみな同じような内容であるという印象を与えてしまうことが一番に挙げられる。「驚愕のラスト」「驚天動地の結末」「大どんでん返し」……。違う内容なのに全く同じ言葉で語られる本たち。なんだかのっぺらぼうを見ているようだ。最後の意外性を追及するのはいいけれども、そこまでの物語もないがしろにしては元も子もないと思うのだ。
 ということで、結末は意外性に満ちながら、物語自体も一級品の小説をご紹介。先ずはクラシカルなものから。

アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ文庫)
 言わずと知れたミステリの女王の代表作。孤島に集められた男女がインディアンの数え歌をなぞるように次々と殺されていく。犯人は一体誰なのか。生存者が少なくなるにつれ、容疑者が絞られていくスリルが本を閉じるのを許してくれない。「え? こんなに殺しちゃって大丈夫? 犯人候補どんどん少なくなるけど……」と思い始めた時点で既に騙されている。後世の作品に絶大な影響を及ぼし続ける傑作。クリスティ作品はあらゆるどんでん返し系ミステリの名作を残している。誰かにネタばれされる前に読んだほうがいい。

山田風太郎『明治断頭台』(ちくま文庫)
 伝奇、ミステリ、時代小説等々様々なジャンルで名作を残している山田風太郎だが、この作品はそれら全てをミックスしたような小説。明治初期のまだ近代的な警察組織がない日本が舞台。連作短編集なのだが、最後の一話で明かされるネタはそれまでの短編に残された伏線を一気に回収する離れ業。これを連載している最中に思いついて後付で作り上げたラストだという話もあり、本当ならば天才としか言いようがない。実在した人物も何人も出てきて歴史好きにもたまらない。

赤川次郎『マリオネットの罠』(文春文庫)
 赤川次郎といえば「三毛猫ホームズ」「三姉妹探偵」シリーズそして「カ・イ・カ・ン」といったフレーズで知られ、ユーモラスな作風で有名だが、実は結構ブラックな面もあったりする。それが本作。(『その女アレックス』などの)フランスミステリに倣った予測不能な展開を二回・三回した果てには読者への最大の裏切りが待っている。それまでの物語の印象がガラッと変わる瞬間はまさに「どんでん返し」系ミステリの醍醐味そのもの。   (文藝春秋 販売促進チーム 安江拓人)



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 島田ゆかさんの絵本の代表作といえば、やはりバムとケロシリーズである。しかし私と小2の娘が好きなのは、ガラゴシリーズなのである。しかも二作目の『うちにかえったガラゴ』がお気に入り。
 ガラゴは旅するかばんやさんなのだが、旅をするのはあたたかい季節だけだけなので、寒くなり家に帰るところから物語ははじまります。
 家に帰ってガラゴは暖かいお風呂に入ろうとお湯をはりますが、何匹も動物が訪ねてきてなかなかお風呂に入れず……。
 島田ゆかさんの作品全般に言える事だが、細かいところまで凝って描いてあり、読むたびに新しい発見がある。この作品でいえば、ガラゴの家のドアノックがガラゴの形をしていたり、お風呂がスーツケース型だったり……。登場する動物たちは、バムとケロシリーズを読んでる人ならニヤリとするはず。最後に訪ねてくる二匹も見逃せません。

 続いてはSAKAEさんの
『おばけのケーキ屋さん』。ずっと欲しくて、最近やっと手に入れたこの絵本。
 おばけさんがケーキを作りだすのは夕方になる頃。夜になるとお店がオープン☆そこへめずらしくおばけじゃない女の子のお客さんが来ます。自分のケーキが世界一美味しいと思っているおばけさんが女の子にケーキを食べさせても……あれ? まったく女の子が驚きません。「うん。おいしい。だけど パパがつくるケーキと同じくらい」……。
 いやぁ、何となく話の流れは読めるのだけど、まさか絵本で泣くなんて思ってなかったので自分でもビックリ。泣けて心温まる絵本でさらに絵も可愛いので、ぜひお子様と読んでもらいたいな。

 最後にもう一冊。ヨシタケシンスケさんで
『もうぬげない』。これは説明なしに面白い! オススメです。当店でも売れています。読書日和が出た時点で在庫なし&重版待ちだったらゴメンナサイ。

 夏も終わったと言うのに、今さらですが怪談系を二冊。
 一冊目は辻村深月さんの
『きのうの影踏み』。前作の『朝が来る』が各方面から絶賛の嵐だった著者が書く初の本格怪談短編集。
 その中の一編である「噂地図」。噂の出処をさがす地図を作るという話が、辻村さんの手にかかるとこんな風に怖くなるんだ……。それはどの話にも共通していて最後に必ずゾクッっとしますよ……。
 それにしても、小さい頃って都市伝説的なものにも怯えていたように思う。この話にも出てくる、口裂け女やムラサキカガミなど……やはり小学生あたりまでは純粋で信じてしまうのだろうか……この歳になると、さすがになぁ(笑)。

 二冊目は第22回日本ホラー小説大賞受賞作、澤村伊智
『ぼぎわんが、来る』。これ一気読みでした。選考委員の方も絶賛だったそうだ。怪談・都市伝説・民俗学など色々な要素を孕んだノンストップ・ホラー! との事でしたが、まさかこんなに引き込まれるとは思ってなかった。
 ぼぎわんという化け物から逃れようとする話なのだが、章によって語り手が違う。今までこうだと思って読んでいたものが、章がかわると「実はこうだったのか」と驚き、化け物とは違う意味で怖い。実は一番怖いのって人間だよな~と思ってしまうほど。いや、本当にそう。言葉だけじゃ伝わらないし、見えている部分だけが全てではないのだな……と怪談を読んで書くような感想じゃなくなるという、不思議現象(笑)。

 時季外れになってしまいましたが、どちらもゾクリとするので、ぜひ読んでみてください。ふふふ。(正樂 公恵)



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「国民的」という枕詞が、これほどしっくりくるアニメもそうそう無かろう。1979年の放送開始から休まずたゆまず三十六年間。今では「ドラえもん」を知らない日本人など珍しいに違いない。

 そのドラえもんが……。

 2005年にレギュラー陣が揃って「卒業」するまで、26年間に亘ってドラえもんの声を演じ続けた大山のぶ代さんが現在、アルツハイマー型の認知症で闘病中、だそうである。50年間連れ添ってきた夫の砂川啓介さんが、
『娘になった妻、のぶ代へ』で、介護の日々を赤裸々に綴っている。それによると既に大山さんは、ドラえもんのことも殆ど覚えていないのではないか、と。

 長年のファンとしては、「衝撃」どころの騒ぎではない。上手く言えないが、ドラえもんはいつまでもドラえもんでいて欲しい。勝手な言い草ではあるが、当初はそんな思いを禁じ得なかった。が、本書を読んで少しホッとした。いや、人の幸不幸など他人に判断出来ることではないし、本には書けない大変なことも沢山あったに違いないから、僕が安易に「安心した」などと言ってはいけないんだろうけど、それでも、大山さんが幸せそうで安心した。

 無論、心温まる逸話だけではない。日ごとに記憶が欠けていき、まともな会話も成り立たなくなって、感情のコントロールも利かなくなっていく大山さんと、古女房のそんな姿に途惑い、苛立ち、失望する砂川さん。不意に訪れた不運に七転八倒する二人の姿が、ページをめくる度にこれでもかという程描かれる。読み進めるのが辛くなった描写も一再ではない。

 が、それ以上に、長年連れ添った者同士にしか為し得ない心の交流が、あっちこっちに垣間見える。例えば、笑顔でいることが認知症の進行を遅らせると確信した砂川さんは、「シワが少なくて肌がキレイだ」と毎日のように大山さんの容姿を誉める。めったに外出などしなくなった彼女を美容院に連れて行って、おしゃれな髪型にイメチェンする。砂川さんの姿が見えないと不安がる大山さんを、毎晩ハグし握手して、「どこにも行かないよ」と約束する。同時に、「ペコ(大山さんのあだ名)、お前は今、幸せかい?」と問いかけながら、「絶対に、ペコより先には死なないぞ」と、何度も何度も決意する。そうやって砂川さんは、大山さんの「認知症」を少しずつ受け入れて、それを前提とした生活を設計していく。
 そんな二人のオシドリ夫婦ぶりを読了する頃には、決して楽しいだけの話ではないのに、なんだかこっちまで嬉しくなった。やっぱりこれは、老老介護の本と言うよりも、とても素敵な夫婦の物語なんだろうと思う。

 更に。砂川さんが懐かしそうに振り返る、大山さんが元気だった頃の思い出話も本書の魅力。例えば、興奮すると無意識のうちにドラえもんの声になってしまう大山さん、夫婦ゲンカでもいつの間にかドラえもんになっていて、それに気付いたどちらかがプッと吹き出すと、それでもう喧嘩はうやむや、とか(笑)。

 とりわけ印象的だったのは、藤子・F・不二雄さんが初めてスタジオを訪れた時のエピソード。緊張でガッチガチの大山さんが恐る恐る挨拶に向かうと、藤子さんは開口一番「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ」。この言葉は本書で砂川さんが語っているだけでなく、大山さん自身がドラえもんの裏話を綴った
『ぼく、ドラえもんでした。』にもほぼ同じ表現で登場する。嬉しくって嬉しくって、帰宅するや否や大興奮で砂川さんに報告する大山さんの姿が、目に見えるような逸話だと思う。

『ドラえもん』の初めての長編映画『のび太の恐竜』が公開されたのは1980年の3月だった。当時、小学四年生と5年生の間の春休みで、即ちのび太とドンピシャのおない歳だった僕は、スクリーンの中ののび太もしずかちゃんもジャイアンもスネ夫も、とにかくひたすら羨ましかった。勿論、マンガだアニメだ作り話だと判る歳ではあったけど、或る日不意に、僕の机の引き出しからもドラえもんが出て来やしないかと、何度夢想したことだろう。いや、僕だけではあるまい。昭和40~50年代生まれなら、何かちょっと困った時や悲しい時に、「ドラえもんがいたらなぁ」と、チラッとでも思ったことのない人は、恐らくいないのではなかろうか。アトムよりもアンパンマンよりもトトロよりもピカチュウよりも、僕らにとってはドラえもんこそが夢だった。だから、もし本当に大山さんが忘れてしまっているとしても、僕はドラえもんを忘れない。

 そして大山のぶ代さん、今までお疲れさまでした。これからは砂川さんと二人でのんびり人生を楽しんで下さい。(沢田史郎)



⇒後編に続く




















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by dokusho-biyori | 2015-10-28 22:22 | バックナンバー | Comments(0)