読書日和

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「読書日和」備忘録

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14年09月

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『闇に香る嘘』下村敦史 講談社 9784062190947 ¥1,550 + 税

 村上和久は孫に腎臓を移植しようとするが、検査の結果、適さないことが分かる。和久は兄の竜彦に移植を頼むが、検査さえも頑なに拒絶する兄の態度に違和感を覚える。中国残留孤児の兄が永住帰国をした際、既に失明していた和久は兄の顔を確認していない。27年間、兄だと信じていた男は偽者なのではないか――。全盲の和久が、兄の正体に迫るべく真相を追う。選考委員の有栖川有栖氏が「絶対評価でA」と絶賛し、選考会では満場一致で受賞が決定。第60回を迎える記念の年にふさわしい、江戸川乱歩賞受賞作!(講談社HPより)

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 小説という表現形態をとる以上、単に 〝 ストーリーが魅力的 〟 なだけでは片手落ちだと常々思っておりまして。だって、ストーリーを楽しむだけなら「小説」である必要は無い訳で、漫画でも映画でも構わないじゃん。むしろ、文字という極端に限られた情報しか伝達出来ない「小説」よりも、視覚的に訴えられる漫画や映画の方が、ストーリーを理解し楽しむ為には向いている、とさえ思う訳です。故に、小説を手に取った時は 〝 ストーリー以外の部分 〟 でどれだけ魅せてくれるのか、言い換えれば 〝 文字でしか出来ない表現 〟 でどこまで楽しませてくれるのか、そこにいつも期待する訳です。
 出来合いの言葉を適当に見つくろって綴った文章というのは、こちらの想像力を刺激してくれない。例えば「憤怒の形相」とか「目にも止まらぬ速さ」とか言われても、余りにも定型的な言い回しで、怒りや速さがちっとも伝わってはこない。「ふ~ん、そうなんだ」としか思えない。小説というものが、〝 映像ならば一目瞭然であることを文字で説明した文章 〟 というだけなら、わざわざ読む意味はきっと薄い。
〝 実際に見ているかの如くに感じさせるには、どう言うか 〟 〝 この言葉は、もっとピッタリくる言い方が他にあるのではないか 〟 と、作者が考え抜いた痕跡のようなものに出逢える時が、私にとっては小説を読む楽しみの大きなウエイトを占めていたりする訳です。

 で、漸く本題。第60回の江戸川乱歩賞受賞作『闇に香る嘘』が、凄いぞ!
 主人公は、盲目の村上和久。戦中に満州で生まれて敗戦で日本に引き揚げて来た。その途中で生き別れた兄とは、中国残留孤児の肉親捜しで運よく再会を果たし、以来27年間家族として接してきた。……が、ふとしたことからその兄を疑い始める。これ、本当に兄貴か? もしかして永住権や母の遺産を狙った偽物ではないか……? 和久は、盲目のハンデを背負いながら、一人真相を探り始める。
 といったストーリーで、まずはミステリーとしての謎解きが凄い。途中、「伏線か?」と気付く場面がチラホラ在り、「ナルホド、真相はこうなんじゃね?」とこちらが予想した通りに話が進んで「ほら見ろ、やっぱり」と思った次の瞬間もう一回ひっくり返されて、まんまとしてやられた感、満載で読了。ただし、それだけだったら想定の範囲内。謎解きが弱い作品が、乱歩賞を獲れる訳が無い。

 それよりも驚かされたのは、洗練されたその文章。研ぎ澄まされた、と言っても過言ではない。例を挙げて説明しましょう。まずは、満州の避難民をソ連の戦闘機が機銃掃射する場面。
【突如、ソ連機が飛来し、爆音を轟かせながら急降下して掃射した。大雨に打たれた泥沼の水面のように地面が弾けた】
この映像的な、それでいて誰のものでもない作者自身が生み出したのであろう言葉の使い方! 或いは、盲目の主人公が土砂降りの雨の中を外出するシーン。
【車のエンジン音は、ボートの舳先に切り裂かれる海面のような水音を伴って、右側を駆け抜けていく】
どうです? 盛大な水しぶきを上げて車道を走る車の音が、聞こえてくるような気がしませんか? また、件の「兄」に関して、ある人物に話を聞こうとする場面で、歩きながら話そうとする相手に、和久が言うセリフ。
【お話はベンチに座ってからお願いします。今は白杖の感触に集中しなければいけませんので】
この説得力! 目が見えないということはこういうことなんだなと、ハッとさせられます。

 そして極めつけは、和久が外出から帰って来て、自宅の電話の線が抜かれていることに気付くシーン。「留守の間に誰かが侵入したのか?」と、誰もが抱くであろう疑問を彼も抱くところまでは、まぁ普通。凄いのはその次。彼は、一つの可能性に思い至って戦慄する。即ち「もし、今もまだ家の中で息を潜めていたらどうしよう」、と。以後の三ページほどは、読みながら無意識の内に息を止めてしまうほどの緊迫感。これ、晴眼者には解らない怖さと言うか、目が見えないということの不利を圧倒的な迫力で描いていて、読んだ誰もが映像で見るよりも遥かにドキドキさせられる筈。

 こういった描写力の確かさは幾らでも挙げられるのでここらでやめるけど、妥協の無い言葉の選び方、つなぎ方が、ちょっと道尾秀介さんに似ている気がします。また、「私」という一人称の硬質な文体は、藤原伊織さんを彷彿とさせられました。その藤原さんの『テロリストのパラソル』を筆頭に、高野和明さんの『13階段』薬丸岳さんの『天使のナイフ』が乱歩賞ビッグ3だと思っているんですが、今度の『闇に香る嘘』は、その三作と堂々渡り合える快作だと断言しますよ。もしつまらなかったら責任をとって、目でピーナッツを噛んでもいいレベル。いや、マジマジ。(沢田史郎)



『サクリファイス』近藤史恵 新潮文庫 9784101312613 ¥490 + 税
『エデン』 9784101312620 ¥520 + 税
『サヴァイヴ』 9784101312637 ¥550 + 税

 ぼくに与えられた使命、それは勝利のためにエースに尽くすこと――。陸上選手から自転車競技に転じた白石誓は、プロのロードレースチームに所属し、各地を転戦していた。そしてヨーロッパ遠征中、悲劇に遭遇する。アシストとしてのプライド、ライバルたちとの駆け引き。かつての恋人との再会、胸に刻印された死。青春小説とサスペンスが奇跡的な融合を遂げた! 大藪春彦賞受賞作。(新潮社HPより)

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 自転車のロードレースほどミステリー向きのスポーツは、もしかしたら無いのではないかと思うのだ。コースや天候などの環境、各チームの戦略と選手個々人の実力。そして、運。そういったものが複雑に作用し合った結果、ある瞬間に勝ち負けが一気にひっくり返る……。野球もサッカーもバスケもラグビーもスポーツはどれもみんな好きだけど、意表を突かれたり裏をかかれたりというサプライズは、自転車ロードレースがずば抜けているのではなかろうか。

 ただし自転車と言っても、トラックの中をぐるぐる回る競輪とは全く違う競技である。選手が走るのはマラソンと同じように街中の公道だし、走る距離も長いと一日200km、しかもレースによっては宿泊を重ねて三週間も走り続けると言えば、競輪との違いはすぐにご理解頂けようか。
 そしてロードレースの最大の特徴は何よりも、チーム戦である、という点だろう。初めての人には、この辺り少し説明が要るかも知れない。
 例えば、一チーム六人で出場する大会があるとする。参加チームにはそれぞれ「エース」と呼ばれる選手がいて、監督からメカニック、チームドクターに至るまでチームのメンバーは一人残らず、「エース」を勝たせることを目標に行動する。ならば、エース以外の五人の選手は何の為に走るのか? 一言で言えば、エースの踏み石になるのだ。
「アシスト」と呼ばれるそれらの選手は、例えばエースの空気抵抗を減らす為に、エースの前を走って風よけになる。当然、後半にはスタミナが尽きて失速する。そして代わりに、それまで体力を温存していたエースがラストスパートに飛び出して行く。喩えるなら、エースは宇宙を目指して打ち上げられるスペースシャトル、アシストは途中で切り離されるブースター、といったところだろうか。
 また、早い段階でスパートをかけて、他チームの選手を消耗させるのも、アシスト選手の役割だ。例えば「A」というチームのアシストがある地点でスパートをかけたとする。他チームは、彼の独走を許して優勝をさらわれる訳にはいかないので、止むを得ず追う。先頭集団のスピードはじわじわと上がり、いつしかオーバーペースになる。結果、後半にはバテて失速する。そこを、淡々と自分のペースを守って走り続けてきたチーム「A」のエースが、あっさり追い抜くという戦略。この場合もやはり、アシスト選手の順位はチーム戦略の中ではどうでもいい。エースが勝ちさえすれば、それでオールOK。
 更には、エースのタイヤがパンクした時には、アシストは自分のタイヤを差し出すことすら厭わない。くどいようだが、その結果アシストの選手がリタイアしても構わない。むしろ、アシストが全員脱落しても、たった一人のエースが勝ってくれさえすれば、それが彼らの勝利となる。
 そんなんで、アシストの選手は楽しいのか? やり甲斐とか達成感とか味わえるのか? そう疑問に思ったアナタは、『サクリファイス』を読むといい。

『サクリファイス』『エデン』『サヴァイヴ』と続く三部作では、チーム戦略の駆け引きや虚々実々の心理戦が、微に入り細を穿って描かれる。バラバラだったように見えるチームと選手の思惑が、実は最初っから「勝利」というただ一点にのみ絞られていたことに気付いた時、読者は、上質の本格ミステリーでまんまと騙されたような気がするに違いない。
 そしてその行間からは、「勝利とは何か?」とか「何の為に走るのか?」などといった問いに対する答えの、十人十色の多様さが炙り出されてくるように思えるのだ。登場人物たちは誰も皆、迷ったり途方に暮れたり時には諦めたり思考停止したりを繰り返して、答えを探しながら走り続ける。

 例えば主人公の白石が所属する「チーム・オッジ」には、日本でもトップクラスの選手が不動のエースとして君臨している。石尾というその選手が或る時、こんなことを言う。
【アシストを徹底的に働かせること。それが勝つためには必要だ。自分のために働かせて、苦しめるからこそ、勝つことに責任が生まれるんだ。奴らの分の勝利も、背負って走るんだ】
 必死でペダルを踏み続ける彼らの姿を読んでいると、ちょっと大袈裟な言い方かも知れないが、やり甲斐も達成感も人それぞれなんだから自分で探して見つけるしかないんだな、という覚悟めいた気持ちが芽生えてくる。

 ふと山本周五郎さんの『さぶ』(新潮文庫)に出てくる名セリフを思い出したので、最後についでながら紹介しておく。
【世の中には生まれつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生まれつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ】(沢田史郎)



『野球部ひとり』朝倉宏景 講談社 9784062190473 ¥1,500 + 税

 部員8人の不良校野球部と、エリート進学校の変人が合わさったら!? 彼らの武器は、無駄に余った体力と偏差値77の知能。17歳の夏、異次元チームが本気で甲子園を目指す。先入観は捨てろ! 常識を打ち破れ! 奇跡を待つな! 野球を変えろ!! 本気で部活をやる意味は? 高校生活を費やした部活の先には何がある? あの頃、何かに夢中になった、そしてなれなかったすべての人に答えます。(講談社HPより)

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 さてここで、唐突だけど問題だ。サイコロを振った時に、一が出る確率はどのくらいでしょう? 正解は言うまでもなく六分の一、1.666……%だ。では、二が出る確率は? 勿論、同じく六分の一。では三は? 当然、六分の一だし、四も五も六も、みんな均等に六分の一の確率で出るのは自明の理。ならば、サイコロを6回振ったら、一から六までが仲良く1回ずつ出るかというと、なかなかそうはならないのが不思議なところ。一が2回出ることもあれば、二が3回出たりもする。
 だがしかし。サイコロを振る回数を60回にしたらどうなるか? 或いは600回では? 6,000回では? 振る回数が増えれば増えるほど、各々の目が出る回数は限り無く近づいていく筈だ。

 野球も同じだと、いや、人生そのものがサイコロみたいなもんだと言うのである。短いスパンで見れば一が2回出たり、六は一度も出なかったりと偏りがあるかも知れないが、長い目で見れば良い事も悪い事も同じ確率でやって来る。偏った運は、決して長くは続かない。ピンチの後にチャンスあり。人間万事塞翁が馬。【いい加減 損徳も無し 五十年】だから、チャンスは確実に活かし、ツイてなかった事はすぐに忘れて切り替える。
 それが、我らが「都立渋谷商業高校」「都立自由が丘高校」合同チームのモットーだ。

 いやいや、順を追って説明しよう。まず、「都立渋谷商業高校」という偏差値最底辺の高校があって、そこには当然、野球部もある。が、諸事情により三年生が一人もおらず、一、二年生だけの部員は全部で八人。こりゃあ夏の大会は棄権だな……。と半ば諦めていたところに朗報が! 何年か前に高野連の規則が変更されて、一定の条件を満たせば部員が足りないチーム同士が合併して甲子園予選に出場出来ると言うではないか!! そしてリサーチした結果、渋谷商業から電車で僅か30分の距離にある、こちらは偏差値トップレベルの都立自由が丘高校野球部が浮上した。聞くところによるとなんとそこは、どんな事情があるんだか知らないが部員はたったの一人だそうで、八人の渋商と一人の自由が丘が組めば無駄なレギュラー争いも避けられるし一石二鳥じゃん!
 そう考えた渋商野球部が自由が丘を訪ねてみると、この一人野球部の練習がちょっと常軌を逸している。例えば、外野フライで三塁からタッチアップする走塁練習も、打つ人間も守る人間もいないから全部想像、エア、ごっこ。想像上のバッターが想像上の外野フライを打ち上げて、想像上のライトが捕球して、それと同時に本人は三塁からホームに向かって走り出す。想像上のバックホームを取った想像上のキャッチャーが繰りだす想像上のタッチを掻いくぐってヘッドスライディング! 想像上のアンパイアが「セーフ!」と絶叫し、最後は壁に向かってハイタッチを繰り返す。
 こんな練習をたった一人で一年半も続けて来た本多春一に、最初はドン引きしていた渋商野球部だったが、いつしか彼の無節操な前向きさに引きずり込まれて……。

 といったストーリー。著者は元・高校球児だけあって、野球の描写は練習にしろ試合にしろリアリティ抜群。特に終盤、いよいよ始まった夏の地区予選では、一行ごとに手に汗握りまくり。クライマックスでは、「打ってくれ~!」とマジで声が出そうになった。
【限界は突破するもんじゃない。じわじわと押し広げていくものなんだよ】
【悪いことが起こるように、やっぱりいいことも人生ではたくさんあるんだなって僕、今ようやくわかったんです】
【奇跡があるのか、ないのか、そんなことはわからない。でも、奇跡なんかいらない。俺たちは、一つでも先の塁を目指して走り続けるだけだ】

 野球に限らず、日本中の大部分の部活動少年は、将来そのスポーツで食っていけるとは思っていない。部活なんかせずに塾にでも通って少しでもいい大学に入る努力をした方が、損得勘定で考えれば絶対「得」に決まってる。だのに、何故やるのか? 何の為に続けるのか? 無駄とも思える努力を何故するのか? という、恐らくは誰もが一度は抱くそんな問いにも、渋商・自由が丘合同チームは、彼らなりの答えを探っていく。その過程が清々しくって意地らしくって可笑しくて、時に吹き出し、時に目頭を熱くしながら一気読了した後は、きっと爽やかな笑顔になれることを胸を張って保証したい。これは、年間ベスト級。(沢田史郎)



『二千七百の夏と冬』荻原浩 双葉社 上巻9784575238631 下巻9784575238648 各¥1,300 + 税

 2011年、夏――ダム建設工事の掘削作業中に、縄文人男性と弥生人女性の人骨が同時に発見された。二体は手を重ね、顔を向け合った姿であった。3千年近く前、この二人にいったいどんなドラマがあったのか? 新聞記者の佐藤香椰は次第にこの謎にのめりこんでいく。 紀元前7世紀、東日本――ピナイの村に住むウルクは15歳。5年前に父を亡くし、一家を支える働き頭だが、猟ではまだまだ半人前扱い。いろいろと悔しい目にあうことも多い。近ごろ村は、海渡りたちがもたらしたという神の実〝コーミー〟の話でもちきりだが、同時にそれは「災いをもたらす」と噂されていた。(双葉社HPより)

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工事現場から発見された、向かい合い手を重ね合った2体の人骨。
調べてみると、なんと縄文時代の男性と弥生時代の女性のものだとわかる。
今から3千年前、二人にいったいどんなドラマがあったのか。

そんなプロットを読んで、興味を抱かないほうが難しい!
わたしはすっかりタイムトラベルものの歴史ファンタジーかと思って読み始めたのだった。
だって! 小学校のときの社会の授業では、たしかこのへんからこのへんまでが縄文時代ですよー。なんて、パッキリ分かれていませんでしたか。年表なんかも線で引かれて色分けされて・・・。
でも、実際はいつまでが縄文時代だったかなんてよくわかっていないのだそう・・・。たしかによく考えてみれば実際は、はーい、あしたから弥生時代にかわりまーす! みなさん狩りはやめてお米をつくりましょー! てなことあるわけがない。だれが言うのそれ。
そう、縄文から弥生の特色が色濃くなってゆく長い年月があったはずで。

前置きが長くなりましたが、この物語はつまりそんな時代のラブストーリーなのです。

物語は現代と、三千年前を交互に行き来する(いやはや、そんな物語今まであっただろうか・・・)。
核になるのはもちろん後者。
最初は聞き慣れない単語も多く、とまどった。入り込むのに時間がかかった。なんせ縄文時代の話なのだ。それでも、進むうちにどんどんのめり込んでいった。登場人物たちが知らない世界を飛び越えて、その先にあるものを見せようとしてくれているかのようだった。

読んでいて、はたと止まった箇所がいくつかあって、ひとつがこれ。
『歴史をつくっているのは国家や政治や経済じゃない。歴史は恋がつくっているのだ。』
なんだかここだけ抜粋すると安い少女まんがのようだけど、これ実はけっこう深い。つまりは歴史をつくっているのは 〝 人 〟 だということです(いや、この言い方も安っぽいか、、、)。
いつの時代にも恋はあった。もちろん政略的な結婚もたくさんあったのだろうけど、それでも恋はあって子孫が栄えてきた。
それってものすごく重要なことなんだけど、それよりも権力のほうが重要だと思う人間がたくさん出てきて、世界を作ってしまった。
恋はいまだに二の次三の次の扱いでしかない。
縄文から弥生に移ってゆくとき、人々は物を所有するようになった。
所有している人は強くなり、人が人の上に立つようになった。
所有すると失うのが怖くなった。自然、取られる前に攻撃するようになった。怠けると配分が減ったり、人から蔑まれたりして、怠けられなくなった。結果、幸せってなんだったっけと思うようになった。

なんだか今とほとんどもう変わらないような。
わたしたち三千年たっても進化していないどころか、退化しているのかもしれない。
そんなことを考えて、なんだかがっくりしてしまった中で、縄文人のウルクと弥生人のカヒィの純粋な恋には本当に心洗われた。

この物語はたしかに、創造かもしれない。
でも時代が移り変わるとき、そこにはたしかにこういう変化があったはずで、その過程を物語で想像していけるのは、とても貴重なことだと思う。
そしてたしかにそこにはウルクとカヒィみたいな恋するふたりがいたはずだ。
そうでなければ、今、歴史はつづいていないもの。(酒井七海)



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(*`▽´*) (∩.∩) ┐(´ー)┌ (*´∀`) (*`▽´*) (∩.∩) ┐(´ー)┌ (*´∀`) 

以下、出版情報は『読書日和 09月号』製作時のもです。タイトル、価格、発売日など変更になっているかも知れませんので、ご注意ください。


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編集後記
読書日和のゆかいな仲間たち
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連載四コマ『本屋日和』
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by dokusho-biyori | 2014-08-21 22:51 | バックナンバー | Comments(0)