17年06月 前編

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 今回取り上げた『不連続殺人事件』や『黒死館殺人事件』は該当作のみで一冊の文庫本もあるが、創元推理文庫は当時の挿絵が入っていたり、他の作品を読むことで該当作へのウォーミングアップができるということもあり、わざわざ日本探偵小説全集収録と記した。作品の雰囲気を十分に味わうことができるので是非挿絵つきで読んでいただきたい。

21位『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫

 妖しげな屋敷に招待された客が次々と不審な死を遂げる……本格ミステリーではテンプレートのような設定だ。そのテンプレートの中で雪の山荘があったり絶海の孤島の屋敷といった様々なバリエーションがあるのだが、エッフェル塔のように傾いだ屋敷で起きる連続殺人事件というのはミステリーの長い歴史でも1982年の『斜め屋敷の犯罪』を待たねばならなかった。「斜めの建築? 欠陥住宅のことかな」と思ったら大間違い。設計段階から斜めになるように運命付けられた奇妙奇天烈な屋敷なのだ。そして、その奇妙な設定の中で描かれる犯罪もまたその緻密さにおいてミステリー史上類稀な名建築といえる。

 事件は不可解を極めた密室殺人だ。古式ゆかしい針と糸のトリックでは絶対にひらくことのない堅牢な密室の中に死体が横たわっているのである。一つ二つと死体が増えていくにつれて一層堅牢になっていく密室の扉はいかに開かれるのか、という疑問と期待が膨れあがっていく。そして探偵が披露するトリックはあまりにも大胆で衝撃的で、絶対に読者は予測できないだろうと思われる。と同時に、この屋敷はどうしても傾いでいなくてはならなかったのだと、なんと大胆で緻密な設計図なのかと思い知らされる。他に類を見ないトリック、これぞ本格ミステリーと思わず叫びたくなる。


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20位『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫

 島田荘司が建てた斜めの屋敷は一人のミステリー好きの青年の心を捉え、後に彼をして奇妙な建築物を舞台にしたミステリーのシリーズを書かせることになる。その青年が綾辻行人であり、そのシリーズが彼の「館シリーズ」である。『時計館の殺人』はその五作目にあたる作品であり、日本推理作家協会賞を受賞している。

 島田荘司に感銘を受けたからといってその作風は似ていない。島田が密室の鍵をいかに開けるかという不可能犯罪の魅力で読者を魅了したのに対し、綾辻はサスペンスフルな展開の最後に明かされる衝撃の事実で読者をあっと驚かせるのだ。

 時計館とはその名の通り古今東西あらゆる時計が収集された館である。幽霊が出るといわれるその館に取材に訪れた一行が次々と殺されていくというのがあらすじだ。妖しげな降霊術が行われたり、仮面の殺人鬼が目撃されたりと物語を盛り上げる雰囲気もばっちり。次々と死体が増えていく恐怖を登場人物と共有しながら一気読みしてしまうだろう。ところどころに著者の張り巡らせた巧妙な伏線に気づきもしないで。読者が大きな勘違いをさせられていたと気づくのは全て終わった後、たったこれだけのことで犯人に騙されていたのかと思うほど単純な事、しかしそのシンプルかつ独創的な事実によって、事件の全貌がガラッと変わってしまうマジックであるからこそ騙された時の快感もひとしおなのだ。

19位「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』収録他

 坂口安吾といえば『堕落論』『白痴』など退廃文学で有名な作家だし、国語の教科書でもそういった扱いである。ところが、もしミステリー好きな少年がいたとして、彼が坂口安吾という作家に出会うのはミステリー作家として出会うことになるだろう。それほどミステリー界隈でも有名かつファンの多い作家なのである。そんな「ミステリー作家・坂口安吾」の代表作がこの『不連続殺人事件』である。「連載最終回までに真相を当てたら原稿料を差し上げます」と懸賞がかけられた作品という坂口安吾らしいエピソードを持った作品でもある。

 タイトルからして様々な憶測をさせる小説だ。不連続というからには全く別々の殺人事件が発生してそれぞれの犯人を当てなさいということなのかと思いきや、一つのコミュニティーのなかで次々と殺人事件が起こるのだから、表面上は連続殺人事件である。それがなぜ「不連続」なのか、という理由が事件の様々な要素に絡んでくる鍵であり、文豪の余技として描かれたミステリー小説などと思わせないミステリー作家・坂口安吾の独創が光る読みどころでもある。メイントリックの逆転の発想といい、犯人の心理をたどる探偵の推理のパズル性といい、そして安吾独特の諧謔的な文体といい、他では読むことのできない一風代わった本格ミステリーである。


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18位『白夜行』東野圭吾 集英社文庫

 小説においてどこまで書くか、どこまで書かないかというのは非常にデリケートな問題である。書きすぎると説明過多のつまらない小説になるし、書かな過ぎると何が起こっているのか読者が理解できなくなってしまう。その点において『白夜行』は絶妙な「書かない小説」である。

 物語の主人公は、幼少期に親を殺された二人の男女。彼らが事件後にどのように生きぬいたのかを描く長編である。ところが、物語が二人の視点で描かれることはない。常に彼らの周囲にいる人物から間接的に描かれるのである。もちろん、他人から見た二人の物語は表面の物語である。読者も始めはその表面の物語しか見えないのだが、ふとした折に浮かぶ疑惑が重なるにつれてこの物語には裏の顔があるのではないかと疑うようになる。そして、物語が進むにつれて二人が真に生きていた壮絶な(としか形容できない)人生が浮かび上がってくるのである。丁寧に説明されることはないのだが、文字で理解させられるのではなく、直感的に気づかされることによって物語の「壮絶さ」がダイレクトに働きかけてくるようである。ゾクゾクするような興奮と恐怖がそこにはある。

17位『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫

 ミステリー=殺人小説、「ミステリー小説といえば人が殺される小説」という認識のされ方をされることは多い。たしかにミステリー小説の多くが殺人事件の謎を解き明かすことを主眼にしているのだから、あながち間違いではないのだが、ミステリー小説の要は「殺人」にあるのではなく「謎」にあるのだから何も人が殺される必要なないのである。つまり人が死ななくてもミステリーたりうるのだ。例えば日常で起こるちょっとした不思議な事、この謎を解き明かすだけでも十分ミステリーたりうるのである。

 例えば紅茶にひたすら砂糖を入れ続ける学生グループの不思議、例えば座席シートだけ盗まれた車の謎、とりたてて騒ぐほどじゃないけど気になる「謎」だ。「地味だな」とお思いになるかもしれない。しかし、真相が明らかにされた瞬間、それまでの日常が裏返った時の驚きは殺人事件のそれ以上のものがある。つまり「あの謎からここまで発展するの!?」と一瞬で周りが異世界になってしまったような感覚に陥るのだ。いわゆる「日常の謎」系のミステリーの醍醐味はここにあるのだし、論理的な謎解きの快感と様々な読後感を残す展開の妙という点において『空飛ぶ馬』は収録作全てが「日常の謎」の真髄を味わわせてくれるのだ。

 また、この連作短編は主人公の大学生の青春譚としての一面も上手いので、中高生を始めとして強く薦めたい。


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16位『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫

 珍味である。登場人物も世界観も事件さえ奇妙としか言いようがないミステリー、決して不味くはないが味わうのにコツがいる。ただ、一度気に入ってしまえば病みつき、極上の美味と感じられる短編集だ。実際、私も初読時は噂ほどではないな、とガッカリしたのだが、今回再読したところ見事その味にハマってしまったのである。

 謎解きは、伏線を論理的にたどって真相にたどり着くのだが、もしその論理自体が奇妙なものだったら、あるいは伏線自体が奇妙な短編ばかりの証書は、珍味と言い表すべき小説になるのではないか。例えば第一短編の「DL2号機事件」がその好例。犯行にいたるまでの心理の軌跡は「狂人の理論」ともいうべき突拍子のないもの。しかしそれを、「常人の理論」が積み上げていくことでいつの間にか「狂人の理論」の領域に読者を引っぱっていってしまう技巧は論理のアクロバット、超絶技巧といえるだろう。他の短編も結末だけ聞いたら納得できないはずが、絶妙な舞台設定と論理で成立させてしまっている。論理遊戯というミステリーの特製を存分に活かした作品集である。

15位『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫

 特殊状況下におけるミステリーというのは色々あって、例えば70位の『七回死んだ男』では一日を何回も繰り返してしまう主人公が殺人事件を阻止しようとする小説だった。あれも強烈な設定と結末だったが、『生ける屍の死』はもっと凄い。なんと、死んだ人間が蘇るという設定のミステリーなのだ。つまり、殺人事件の被害者がむくりと起き出してその後も物語に干渉し続けるのである。しかも、死者が全て蘇る世界ではなく、流行り病的に人によって蘇ったり蘇らなかったりするのである。

「被害者が生き返るんだったら、犯人の名前を言ってもらえば一気に解決じゃん?」と思ったら大間違い。後ろから襲われたら犯人の顔は見えないし、そもそも死者だって偽証しないとは限らないのだ。誰が本当に死んだのかどこまでが容疑者なのか、そもそも死者が生き返る世界で殺人なんて意味があるのか等々、単純化どころかむしろ謎は深まるばかりなのだ。ゾンビの存在を前提にして事件は解決されなければならないのだ。つまり、人が蘇るからこそ起きる事件を人が生き返るから通用する理論で解き明かしていくという、超変化球ミステリーである。とはいえ、推理の過程は納得できる正統派、キチンとミステリー好きのストライクゾーンに入っている。

 蛇足だが、ゾンビが出てくるといってもホラー要素は皆無で、むしろおとぼけたゾンビと生者が入り乱れてコメディーの様相を呈した非常にリーダビリティーの高い作品だ。


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14位『黒死館殺人事件』小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集』収録他

 本書を読み始めるにあたって、まずまとまった休みを取ることをオススメしたい。読書なれした人なら週末を使って読みきることができるかもしれないが、それでも翌日魂が抜けている可能性もあるので三、四日は読書に集中できる環境が欲しい。次に食料を確保したほうが良い。休みの間食料の買出しなどという下らない理由で読書が中断されるのはもったいない。あとはスマホの電源を切って、お気に入りのソファーにでも座って本を開くだけだ。日本三大奇書(『匣の中の失楽』もいれて四大奇書とすることも)の一冊、『黒死館殺人事件』はそこまで体制を整える価値がある一冊だ。

 殺人事件の推理を語る時に宇宙の構造から話し始める探偵は世界広しと言えど本作の探偵・法水麟太郎くらいのものだろう。古今東西あらゆる書物に精通し、その莫大な知識を使った衒学的な推理はまさに人知を超えた超推理と呼ぶにふさわしい。しかも先のたとえのようにとんでもない方向から推理し出したりするので、推理の方法も常人とは一線を画している。他にも意味不明な詩の引用合戦を突然始めたり、墓の形象を見て梵語の話を始めたり、今までレビューしてきたミステリーの理論とは異質で独自の理論であふれている。絶対に現実では起こりえないことをも理論上可能にしてしまう超理論を楽しめるのであればこれほど面白い本はないと断言できる。

 知識の氾濫に怯んでしまうかもしれない。それでも恐々ページを開いてほしい。たとえ一度挫折したとしても、また時間をおいてまたチャレンジして欲しい。いつかこの本の面白さに嵌り、読み終えた時が来たら絶対に物の見方が変わっているはずだ。それほどの破壊力がこの本にはある。


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13位『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫

 犯人側からの視点で事件が描かれる「倒叙ミステリー」において、犯人がいかに捜査の手から逃れるかと智慧をめぐらすのは読みどころの一つである。犯人の計画が巧妙であればあるほど探偵との対決にワクワクするのだから、天才数学者と天才物理学者の探偵と対決するとあってはつまらない訳がない。

 タイトルに「献身」とあるように、やむを得ず殺人を犯してしまった母子を天才数学者が手助けして捜査当局の疑いを晴らそうと巧妙な計画を立てて遂行していく姿が描かれる。つまり、読者は犯人と手口を知りえた上で、計画にはまってしまう警察の姿にほっとしたり天才数学者・湯川学の思わせぶりな言動にハラハラしたりすることになる。ただし、それは物語の九割程度。本当の真相が明かされたときに読者は二種類の驚きを体験することになる。ひとつは数学者の立てた計画の全貌があまりにも巧妙であることに。捜査をすればするほど真相から離れていくように仕向けられた計画の何と巧妙なことか。そして、ふたつ目は「献身」の真の意味に。捜査の目くらましだけではない「献身」が明らかになったとき、思わず読み返して登場人物の言動を読み返してみたくなるに違いない。きっと見える景色が違ってくるはずだ。そう、「倒叙ミステリー」の最大の面白さは、自分は全部知っていると思いながら、気づかずにいた事実に足元をすくわれる快感なのだ。

12位「戻り川心中」連城三紀彦 光文社文庫『戻り川心中』収録

 連城三紀彦という作家は恋愛小説での方が有名かもしれない。というのも、彼が直木賞を受賞したのは『恋文』、ミステリー要素が無い純粋な恋愛小説だからだ。それほど連城作品において男女の心の機微は鮮やかに描出されているし、その文章はミステリー界屈指の美しさを誇っているのだ。「戻り川心中」はそんな著者の恋愛小説家としての才能とミステリー作家としての才能が相乗して生まれた短編である。

 まるで太宰治のように二回の心中未遂の末に自殺した天才歌人の、死に彩られた生涯が秘めた秘密を生前の友人が解き明かしていく。謎を解く鍵になるのは歌人が遺した短歌。心中から自殺までの心理の軌跡を歌った短歌集には、世間が思う意味とは別の隠された真意があったのではないかとして、短歌の舞台を訪れながら夭折の歌人の心理を分析するのだ。すると短歌の舞台を訪れ、証言を集めていくうちに歌と実際の行動との間に奇妙な齟齬があることが判明する。そこから短歌の裏の意味を推理するのだが、その過程は短歌の世界観も相まってゾクゾクするほど美しい。心中事件の真相は、自殺の真意は、そして歌人が真に愛したものとは何だったのか、やがて美しくも哀しい恋物語は全く予測不可能な真の姿を現し始める。その意外性と、そのどんでん返しを可能にする周到な伏線にただただ唖然とするばかりである。

 最後に、短編としてそれだけで成立する作品ではあるが、短編集の最後に収録されているこの作品、他の短編を読んでからの方がその美しさも意外性も一層感じられる。短編集としての構成も超一級品なので、頭から通読することを強く勧めたい。


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11位『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫

 鉄道アリバイトリックのミステリーというと、刑事が時刻表とにらめっこした挙句に意外な乗り換え方法(一旦反対方向へ向かって特急に乗り換えるとか)を発見する、みたいなYahoo!乗り換えがある現代では通用しないミステリーという印象がある。黒いトランクもアリバイトリックの古典と聞いて大したことないんだろうなと思ってしまっていたが、大間違いで大反省であった。

 鍵となるのはタイトルにもある黒いトランク。東京駅に着いたこのトランクから死体が発見されたことが事件の発端となる。やがて捜査の過程でもう一つ同型の黒いトランクの存在が浮かび上がり、二つのトランクはいつ・どの駅に存在したのか、トランクに死体が詰められたのは何処なのか、さらには死体がトランク間を移動したのではないかという疑惑まで出てきて容疑者、トランク、死体、三つのピースが複雑に入り乱れる何とも魅力的なパズルが展開されるのだ。もちろん時刻表とにらめっこする場面もあるのだが、容疑者の動きだけでなく死体も動かすことで「特殊な乗り換え」以上のトリックが可能になるのだ。更に更に、このパズルは真面目に解こうとするほどに容疑者のアリバイを堅固にしてしまうという凝った作りになっている。この時トランクがこの駅にあって、ここで死体の詰め替えがあって、という解き方から一つひねった発想が求められる。単純だけれども巧妙に隠されたひねりが本作の「アリバイものの逸品」としての名声をより確たるものにしているのだ。


⇒後編に続く



















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# by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:57 | バックナンバー | Comments(0)

17年06月 後編

⇒前編から続く


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 元々は、ロシアの文豪・チェーホフが恋人だか友人だかに宛てた手紙の一節。主人公の憲太郎が、人生に迷った時、生きることに疲れた時、日々の暮らしに嫌気がさした時などに、自分に向かって呟く言葉。『草原の椅子』は、登場人物たちが、進路を塞ぐ障害物を一つずつ取りのけながらゆっくりと歩んでゆく小説。


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 トビと豚とオオカミとカモメと猫。さて、これらの動物にはある共通点があります。その共通点とは一体何でしょう? 正解者の中から抽選で百名の方に何もあげません! なんてクイズにしたところでまず当たらないだろうから答えを言っちゃうけど、白水社のペーパーバック・レーベル「白水Uブックス」を四冊続けて読んだら、たまたま動物つながりだったんだな。

 因みにこのUブックスというのは殆どが千円以下で買える上、ヤングアダルト向けの平易な文章の作品も多いので、僕のような海外文学尻ごみクラスターには是非お薦めしたいレーベルでござる。

 で、まずはトビ。トビと言えば、川崎店に勤務していた頃、江ノ島の徒歩圏内でアパート暮らしをしていたのだけれど、彼の地のトビに初めてハンバーガーをかっさらわれた時の衝撃は忘れられない。こちらの身体には全く触れず傷つけず、手に持っていたハンバーガーだけを奪っていく手腕は、喩えるならルパン三世かキャッツ・アイかといった華麗さで、被害者であるにもかかわらず「すげぇ!」と思わず感嘆の溜息を漏らした程だという話は、今回のレビューとは一切関係無い。

 ユベール・マンガレリ著/田久保麻理訳『おわりの雪』は、少年がトビをどうしても手に入れたいと思う場面で幕を開ける。そのトビは、露店の古道具屋で様々なガラクタに混じって売られていた。狭い籠の中で、時折翼を広げようとして、けれどもその度に駕籠に邪魔されて広げられずに、黙って佇んでいた。

 少年の父親は、病で伏せっている。恐らく、結構長い期間、闘病している。だから、恐らく少年の家は貧しくて、だから少年も、養老院で老人たちの散歩の介添えをして小銭を稼いでいる。母親は、夜になると出掛けていく。仕事なのか、それとも何か別の用事なのか。仕事だとしたら、どんな仕事なのか。それが明かされることは無いけれど、その度に少年の父は苛立ちを露わにする。それは自分だけが働けず家族のお荷物になっていることの不甲斐なさからなのか、それとも何か別の感情の発露なのか。

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 少年は、養老院で得た金の半分を家計に入れ、もう半分はトビを買い取るための貯金に回す。しかしその額は微々たるもので、当分トビは買えそうにない。少年はトビが元気でいるか確かめる為に、毎日、養老院からの帰り道に件の露天商を覗いて行く。そして毎晩、父親の枕元でトビの美しさを語って聞かせる。少年は、悲しい体験は胸に秘めたまま、楽しいことだけを父親にうちあける。そして父親は、少年が出くわすのが楽しい体験だけだなどとは恐らくは信じていないのだけれども、黙って話を聞いている。悲しい出来事や辛い体験を打ち明けられたところで、その傷を癒してやれないのならば、無理に聞き出しても益が無いと考えているのか、それとも、自ら語らないのはそれを乗り越えたからだと思っているのか、或いはもっと別の考えがあってのことなのか。

 物語は、余分な説明的描写をとことん排して綴られる。だから、言葉にされない部分は想像力で補いながら読み進む。ちょっと詩に似ている。ままならない現実を生きながら、人生にはどうしても避けようの無い悲しみというものがある、という事を自分に言い聞かせるようにして育つ少年の、幼い覚悟とでも言うべき胸中が痛々しくも美しい。読了後は『おわりの雪』の「おわり」が意味するところを想像して、心がシーンとなる。
《 悲しみがいつも私をつよくする
  今朝の心のペンキぬりたて 》俵万智

 お次は豚。生れたばかりの雌で、名前はピンキー。ロバート・ニュートン・ペック著/金原瑞人訳『豚の死なない日』はかなり自伝に近い小説のようで、恐らくは1940年前後のアメリカのド田舎で、小規模の農場を営む一家の話。主人公ロバートの父親は生活の為に、農業の他に村の屠畜場で豚を殺す仕事も請け負っている。

 一家は敬虔なシェーカー教徒で、奢侈を禁じる教義を厳格に守って質素に暮らす。その倹約ぶりは、例えば服はほぼ自分たちで仕立てるし、自動車はおろか自転車すらも《 なくてすむもの 》として遠ざける。だから、ロバートが隣人の農家から乳離れしたばかりの子豚を貰った時には、文字通り欣喜雀躍する。《 この世でたったひとつ、「これはぼくのだよ」そういって指さすこと 》が出来る存在として可愛がる。

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 物語全体の質朴な雰囲気は、どことなく宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を彷彿とさせるものがある。と同時に僕は、小学校の頃音楽の授業で習った『グリーングリーン』を思い出しながら読んでいた。《♪ 或る日パパと~二人で~語り合ったさ~》というあれである。

 ロバートの視点で綴られる一家の生活は、現代人にはとても耐えられそうもない程つましくて、殆ど貧乏と言ってもいいくらいだし、父親も母親も無学で自分の名前すら書けないのだけど、「生きる」為に必要な知恵や優しさは、21世紀に暮らす僕らより遥かにふんだんに持っている。

 例えば或る時、父親が隣りの農場との境の柵を修理していると、「喧嘩している訳でもないのに、どうして柵で区切るのか?」とロバートが不思議がる。父親は当然と言わんばかりに、《 柵はいがみあうためのものじゃなくて、仲良くやっていくためのものだ 》と答える。また或る時、「どうしてうちは貧しいのか」と嘆くロバートに、彼は言う。《 豊かじゃないか。互いに守るべき人がいて、耕すべき土地がある 》と。また或る時は、リンゴの木の害虫駆除に失敗したロバートを、叱り飛ばすのではなく優しく諭す。《 手間ひまを惜しむな。仕事はきちんと一回やるほうが、いいかげんに二回やるよりもいい 》と。

 こんな風に朴訥で実直な父親に対して、母親の方は彼の足りないところを全て兼ね備えたような人物で、前向きな朗らかさととっさの機転が充溢している。例えば物語の冒頭でロバートが少々大きな怪我をして傷口を縫合しなければならなくなるのだけれども、その怪我をした際にズボンもビリビリに破れてしまっていて、それを気に病むロバートに向かって言う一言。《 おまえを縫うくらいなら、ズボンを縫うほうがずっといいわ 》。或いはロバートが泥だらけで帰宅した時もこの母親は、洗濯の大変さを嘆いたりするのではなく《 雨の日に掘りだしたジャガイモみたいね 》と面白がるし、また別の日、屠畜の際の血なまぐささが身体に染みついている事を詫びる夫には、《 誠実な仕事のにおいじゃありませんか。あなたがあやまる必要はないし、わたしも聞きたくありません 》とサラリと言ってのける。

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 といった具合に、威厳とユーモアが同居したような家庭で、ロバートは、辛い局面も誇らしい出来事も経験しながら、生きる事の喜びと悲しみを学んでゆく。そして、「豚の死なない日」、父親が、或いは自分たち家族が、金持ちではないけど決して貧しくはないと気づいた時、多分、ロバートは大人になった。本当の豊かさとは何か? などと教訓めいた主題を無理に読み取ろうとするよりも、ペック一家の仲睦まじさをストレートに味わいたい。

 さて三番目はオオカミ。ダニエル・ぺナック著/末松氷海子訳『片目のオオカミ』の舞台は、どこかの動物園。そこの檻に一頭だけで飼われている青いオオカミは、十年前、妹を庇って捕らえられた際に片目を怪我して以来、あらゆる人間を憎悪している。生きる目的も楽しみも無い不毛な生活。そこに或る日、黒人の少年が現れる。オオカミの気持ちを酌んで、自分も片方の目を閉じて、ひたすらオオカミを見つめる。檻の前に立つ少年と檻の中のオオカミは、一つずつの目で、じっと見つめ合う。やがて二人(一人と一頭)は、瞳と瞳で語り合うようになる。お互いの不遇な過去や、別れなければならかった大切な存在について、問わず語りに打ち明ける。

 少年もオオカミも、今の境遇を決して自ら望んだ訳ではない。運命と一言でくくってしまうには余りに不公平な巡り合わせで、止むを得ず今の場所で生きている。それはもしかすると少年とオオカミの二人だけではなく、物語を読んでいる僕ら自身にも言えることで、勿論彼ら程には過酷な生活ではないけれど、今いる場所にうんざりして「ここではないどこか」「自分ではない誰か」を羨望して、そして「今いる場所」「今の自分」を諦めてしまった経験が、誰でも一度や二度はあるだろう。

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 物語は、例えばオオカミが野生に戻るみたいな安易なハッピーエンドは用意していない。けれども少年は、諦める代わりに変化させようとする。「今いる場所」から動くことが出来ないならば、そこで可能な限りの愉しみや喜びを見出そうとする。

 かの夏目漱石も『草枕』の冒頭で言っている。《 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ 》と。運命は自分で切り開く、なんて大上段に構えるのではなく、今いる場所でも工夫次第で少しは生きやすくなるんじゃね? という気にさせてくれる本。

 そして最後はカモメと猫。ルイス・セプルペダ著/河野万里子訳『カモメに飛ぶことを教えた猫』は、以前にも紹介したことがあるような気がするのだけど、実は今こそ、即ち国の内外を問わず排他的な空気がじわじわと広がって、自分とは違う者を個性として尊重するのではなく異端者として排除するべきだという論調が勢いを増している今こそ、多くの人に読んで欲しい本。

 舞台はドイツのハンブルク。或る日、黒猫ゾルバが出会った瀕死のカモメ。彼女は死ぬ間際に卵を産み落とし、ゾルバは、卵をかえして雛に飛び方を教えることを約束する。とは言え、勿論ゾルバにカモメの子守なんぞ解る訳はなく、フォルトゥナータ(=幸運な者)と名付けた雛を、彼は港の猫仲間たちと一緒に四苦八苦しながら育ててゆく。

 ところが、フォルトゥナータは、猫に囲まれて育ったが故に自分も猫だと言い張って、いつまで経っても飛ぼうとしない。そこでゾルバは、静かに優しく言って聞かせる。

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《 ぼくたちはみんな、きみを愛している、フォルトゥナータ。たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、美しいすてきなカモメだからこそ、愛しているんだよ 》

《 これまできみが、自分を猫だと言うのを黙って聞いていたのは、きみがぼくたちのようになりたいと思ってくれることがうれしかったからだ 》

《 でもほんとうは、きみは猫じゃない。きみはぼくたちとは違っていて、だからこそぼくたちはきみを愛している 》

《 きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれが、できるようになった 》

 金子みすゞ風に言えば《 みんなちがって、みんないい 》ってところでしょうか。国家や民族といった大きな違いから、性格や趣味嗜好といった個人的なことまで、ゾルバのように《自分とは違っている者を認め、尊重し、愛すること 》が出来るようになれば、きっと世の中の嫌なニュースは半減するんじゃないだろうか。

 小一時間もあれば読めてしまう話だけど、児童向けと侮る勿れ。涙腺の弱い人はきっと泣かされるに違いない。一度読んだら二度読みたくなって、二度読んだらきっと三度目も読みたくなる、素敵な友情の物語。


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『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫 9784488402143 800円+税
『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫 9784488416010 1,200円+税
『おわりの雪』ユベール・マンガレリ/田久保麻理[訳] 白水Uブックス 9784560071823 950円+税
『片目のオオカミ』ダニエル・ペナック/末松氷海子[訳] 白水Uブックス 9784560071618 850円+税
『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ/河野万里子訳[訳] 白水Uブックス 9784560071519 800円+税
『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫 9784488403034 760円+税
「黒死館殺人事件」小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集 6』所収 9784488400064 1,200円+税
『草原の椅子』宮本輝 幻冬舎文庫 上9784344401006 600円+税 下9784344401013 648円+税
『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫 9784488413019 680円+税
『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫 上9784062772945 下9784062772952 各690円+税
『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫 9784062932653 800円+税
『白夜行』東野圭吾 集英社文庫 9784087474398 1,000円+税
『豚の死なない日』ロバート・ニュートン・ペック/金原瑞人[訳] 白水Uブックス 9784560071328 900円+税
「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集 10』所収 9784488400101 1,200円+税
『戻り川心中』連城三紀彦 光文社文庫 9784334740009 533円+税
『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫 9784167110123 670円+税



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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# by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:29 | バックナンバー | Comments(0)

海外文学に見る 自由と抑圧

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『暗い時代の人々』ハンナ・アーレント/阿部斉 訳
『半分のぼった黄色い太陽』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ/くぼたのぞみ 訳


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『侍女の物語』マーガレット・アトウッド/斎藤英治 訳
『セカンドハンドの時代』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/松本妙子 訳


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『一九八四年』ジョージ・オーウェル/高橋和久 訳
『動物農場』ジョージ・オーウェル/山形浩生 訳


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『夢宮殿』イスマイル・カダレ/村上光彦 訳
『審判』フランツ・カフカ/池内紀 訳


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『マイケル・K』J.M.クッツェー/くぼたのぞみ 訳
『約束』イジー・クラトフヴィル/阿部賢一 訳


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『共産主義黒書 ソ連篇』ステファヌ・クルトワ、ニコラス・ワース/外川継男 訳
『共産主義黒書 アジア篇』ステファヌ・クルトワ、ジャン・ルイ・マルゴラン/高橋武智 訳


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『23分間の奇跡』ジェームズ・クラベル/青島幸男 訳
『真昼の暗黒』アーサー・ケストラー/中島賢二 訳


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『われら』エヴゲニー・イヴァノヴィチ・ザミャーチン/川端香男里 訳
『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』サーシャ・スタニシチ/浅井晶子 訳


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『すべての見えない光』アンソニー・ドーア/藤井光 訳
『チャイルド44』トム・ロブ・スミス/田口俊樹 訳


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『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー/市川恵里 訳
『アルグン川の右岸』遅子建/竹内良雄、土屋肇枝 訳


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『月は無慈悲な夜の女王』ロバート・A・ハインライン/矢野徹 訳
『ある一族の物語の終わり』ペーテル・ナーダシュ/早稲田みか、簗瀬さやか 訳


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『茶色の朝』フランク・パヴロフ 物語/藤本一勇 訳
『すばらしい新世界』オルダス・レナード・ハクスリ/黒原敏行 訳


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『少年が来る』韓江/井手俊作 訳
『監視国家』アナ・ファンダー/伊達淳 訳



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『華氏451度』レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫 訳
『階級の敵と私』バーバラ・ボルバーン/落合直子 訳


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『狙われたキツネ』ヘルタ・ミュラー/山本浩司 訳
『服従の心理』スタンリ・ミルグラム/山形浩生 訳


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『バニヤンの木陰で』ヴァデイ・ラトナー/市川恵里 訳
『さすらう者たち』イーユン・リー/篠森ゆりこ 訳


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『セカンドハンドの時代』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/松本妙子 訳
『われら』エヴゲニー・イヴァノヴィチ・ザミャーチン/川端香男里 訳
『マイケル・K』J.M.クッツェー/くぼたのぞみ 訳
『真昼の暗黒』アーサー・ケストラー/中島賢二 訳
『23分間の奇跡』ジェームズ・クラベル/青島幸男 訳
『チャイルド44』トム・ロブ・スミス/田口俊樹 訳
『すべての見えない光』アンソニー・ドーア/藤井光 訳
『月は無慈悲な夜の女王』ロバート・A.ハインライン/矢野徹 訳
『華氏451度』レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫 訳
『侍女の物語』マーガレット・アトウッド/斎藤英治 訳
『一九八四年』ジョージ・オーウェル/高橋和久 訳
『動物農場』ジョージ・オーウェル/山形浩生 訳
『茶色の朝』フランク・パヴロフ 物語/藤本一勇 訳/ヴィンセント・ギャロ 絵/高橋哲哉 メッセージ
『半分のぼった黄色い太陽』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ/くぼたのぞみ 訳
『バニヤンの木陰で』ヴァデイ・ラトナー/市川恵里 訳
『約束』イジー・クラトフヴィル/阿部賢一 訳
『服従の心理』スタンリ・ミルグラム/山形浩生 訳
『さすらう者たち』イーユン・リー/篠森ゆりこ 訳
『すばらしい新世界』オルダス・レナード・ハクスリ/黒原敏行 訳
『狙われたキツネ』ヘルタ・ミュラー/山本浩司 訳
『暗い時代の人々』ハンナ・アーレント/阿部斉 訳
『共産主義黒書 ソ連篇』ステファヌ・クルトワ、ニコラス・ワース/外川継男 訳
『共産主義黒書 アジア篇』ステファヌ・クルトワ、ジャン・ルイ・マルゴラン/高橋武智 訳
『夢宮殿』イスマイル・カダレ/村上光彦 訳
『監視国家』アナ・ファンダー/伊達淳 訳
『審判』フランツ・カフカ/池内紀 訳
『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』サーシャ・スタニシチ/浅井晶子 訳
『アルグン川の右岸』遅子建/竹内良雄、土屋肇枝 訳
『テヘランでロリータを読む』アーザル・ナフィーシー/市川恵里 訳
『ある一族の物語の終わり』ペーテル・ナーダシュ/早稲田みか、簗瀬さやか 訳
『階級の敵と私』バーバラ・ボルバーン/落合直子 訳
『少年が来る』韓江/井手俊作 訳





















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# by dokusho-biyori | 2017-05-21 09:07 | 開催中フェア | Comments(0)