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17年10月

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 あなたにとって、プロフェッショナルとはなんだろうか。黒い画面に白い文字、ピアノの音を背景に……とテレビ番組を思い出す人もいれば、月に行った時計を思い出す人もいるかもしれない。あの番組が長く続いていることや、件の時計がアイコン化してロングセラーになっていることを引き合いに出すまでもなく、言葉をあげていけばキリがないほど、そのイメージは多様だろう。

 今回その書き出しを選んだのは、『Number PLUS B.LEAGUE 2017-18 OFFICIAL GUIDEBOOK』の田臥勇太インタビューを読んだからだ。

 Bリーグが開幕して、一年がたった。二年目のリーグ開幕。二回目のリーグ開幕。バスケットがひとつのリーグになって最初の一年を超えて、初めてのシーズン。初めての二年目シーズンが、幕を開けようとしている。

 九月はサッカー日本代表のワールドカップ出場決定で幕を開けた。広島出身の私の目線でいえばカープも優勝したし(これを書いている今ではまだ手にはしていないが、『Number』のカープ特集号は個人的にとても楽しみにしている)、そして月末には、いよいよこうしてバスケットが開幕する。私がそこに注目したくなるのには、理由がある。約十年前、私はバスケットボールを追いかける学生だった。これを読んでいるあなたも、野球部だった、サッカー部だった、テニス部だった、帰宅部だった……そういう学生だったかもしれない。部活動のメジャーさを思い出せば、バスケ部であったことはそれらと同じくらい、匿名といってもいいプロフィールだと思う。それだけ、本来バスケットは日本に根づいているスポーツだろう。

 その個人的な印象をもとに、ワールドカップ出場に湧いたサッカーを引き合いに出していうなら、サッカーは「ゴールを決めたほうが勝つスポーツ」で、バスケットボールは「ゴールを決められなかったほうが負けるスポーツ」といえるのかもしれない。バスケットボールはマイボールを相手ゴールにいれ続ければ、基本的には負けないスポーツだからだ。

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 そういった張り詰めた空気をまとうこの競技において、この十年率先して象徴であり続けたのは、たしかに田臥勇太だろう。その彼にいわせれば、「挑戦することがプロ」だという。そのために入念な、本当に入念な準備を重ね、自分を貫き通したし、ベテランとなった今もなお、新しい感覚を掴もうと挑み続ける。それはたしかに、プロフェッショナルだと思う。

 ただ、個人的には彼の締めくくりの言葉が印象に残った。「勝ったときも負けたときも楽しめるチーム」である。興行である以上、それは原点なのかもしれない。もちろんそれは、ひとりひとりが挑み続けているからなのだろうと思う。入念な準備を重ねて象徴を続けることに挑む田臥勇太。日本という異国で自分のベストを尽くそうとするファジーカス。50歳を目前に、選手としても社長としても奮闘する折茂武彦。そして、一六七センチの身長で二メートルの選手たちをかいくぐって得点を取り続ける富樫勇樹。彼らひとりひとりの挑戦があるからこそ、勝ったときも負けたときもコートから目が離せない。

 だが、忘れてはいけないことがある。そう、ここにはもうひとり、共通の登場人物がいるのだ。

 あなたである。

 スタジアムで、アリーナで、その現場で、彼らを見つめ続けるあなたがいて、はじめてこの物語は成立する。応援する選手がいるからという人も、何か大きな声を出したくなったからという人も、その現場で見ている人はみんな、彼らがプロフェッショナルでいることの証人であるという意味で、また欠かせない存在である。

「ルールは大丈夫、体育でやったんだからみているうちに思い出すし、みているうちにガンガン点が入っていくからそれで十分楽しいって。だからさ、今度一緒に試合を見に行こうよ」

 Bリーグが初めて挑む二年目のシーズン。幕があがるこの瞬間に、彼らの声を読んでいて周りにこう言いたくなった。……遊びにしてもデートにしても、もう少しいい言い方はなかったものかと、自分でもほとほと嫌気がさす。ただ、これを読んでいるあなたが、私ならきっとこの人よりもうまく誘えると思っていただければ、嫌気がさした甲斐もあったと思う。


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 ジャーマン・シェパードのマギーは、爆発物探知犬。海兵隊の一員として中東で任務についていた時、自爆テロに巻き込まれてパートナーは爆死、マギーも数発の銃弾を浴びて、心身に軽くはない後遺症を抱えて帰国する。

 同じ頃、ロサンゼルス市警のスコットは、パトロール中に銃撃事件に遭遇し、目の前で相棒が惨殺された上、自身も瀕死の重傷を負い、以後、強いPTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされる。

 そんな二人、と言うか一人と一頭がペアを組んで犯罪者を追いつめてゆく警察小説が、ロバート・クレイス『容疑者』(訳=高橋恭美子)だ。

 物語の主軸は、スコットが巻き込まれた銃撃事件の真相解明。遺留品は僅かで、目撃者も皆無というただでさえ困難な捜査に、終盤には誰が敵で誰が味方かという疑心暗鬼も加わって、ミステリー小説としての読み応えは充分である。

 が、勘の良い人なら既にお分かりだろう。本作の一番の読みどころはそこではない。

 例えば或る夜。スコットが悪夢にうなされて目を覚ますと、マギーが寝ながら四肢を痙攣させ、時々「クーン」と鼻を鳴らしている。どうすべきか分からずに様子をうかがっていると、不意に目を覚ましたマギーは、スコットに猛然と吠えかかる。が、次の瞬間には自分の居場所を認識して、深呼吸でもするかのように息を吐き出し、もたげていた頭を床に下ろす。《 スコットはゆっくりとマギーに触れた。頭をひとなでする。目が閉じた。「おまえはだいじょうぶだ。おれたちはだいじょうぶだ」マギーは身体が揺れるほど大きな吐息をついた 》。

 或いは、街中での捜査中、車道を走り抜ける車の音に、マギーはいちいちビクビクと反応して視線を向ける。警察犬としては明らかに不適格なその挙動を、しかしスコットは優しく容認する。《 いいんだよ、マギー。怖がっていいんだ。おれだって怖い 》。そして、背中を撫でながら言葉を重ねる。《 おれがついてる 》と。

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 痛みを知る者同士だからこそ理解できる苦悩。苦しさが分かるからこその慰撫。励まし、励まされる時間が育む信頼。結ばれた絆によって癒される傷。そして彼らは、奪われた自信を奪還する――。

 そう、この作品は警察小説である以上に、深い傷を負った一人と一頭の再生の物語なのだ。マギーとスコット――過去のトラウマから、ちょっとした物音に過敏に反応してしまい、警察犬失格の烙印を押されたシェパードと、目の前で同僚が殺される情景が脳裏に焼き付いて離れない警察官というコンビ――が、お互いの弱さを許容し合い、少しずつそれを克服してゆくと同時に、相互の信頼を強くしてゆくその過程こそが、読者を最も惹きつける本書の魅力であると断言したい。

 終盤、スコットがマギーに静かに、しかし決然と語りかける名場面。《 だれも置き去りにはしない、いいな? おれたちは仲間だ 》。そして、そんなスコットの顔をなめて応えるマギー。次の瞬間、猛然と走り出した彼らの捨て身の賭けがどうか成功するようにと、祈るような気持ちで手に汗握る読書を、是非ともご堪能頂きたい。
 スペンサー・クイン『助手席のチェット』(訳=古草秀子)は、やはり警察犬落第の大型犬が主人公。

 私立探偵のバーニーは、元刑事でバツイチ。陸軍士官学校を出て従軍経験もあるツワモノだが、探偵事務所は流行っておらず、浮気調査のようなしょぼい案件で何とか糊口を凌いでいる。

 そのバーニーのところに或る日転がり込んで来たのは、15歳の少女の失踪事件。当初は反抗期のちょっとした家出か夜遊びと高をくくっていたバーニーだったが、捜索を開始した途端、彼の車は何者かにタイヤを引き裂かれ、相棒のチェットは謎の車に当て逃げされる。

 チェット。彼は警察犬の訓練を卒業寸前でスベッた大型犬で、今はバーニーと共に張り込みから追跡、場合によっては格闘戦までこなす、唯一無二の親友である。そしてこの物語は、徹頭徹尾彼の――即ち、犬の視点で語られる。

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 だから、バーニーが目撃者に聞き込みをしていても、チェットには全部は理解できないし、テーブルやソファの下に落ちているスナックに気を取られて大事なことを聞き洩らしたりする。張り込み中に予想通りの人物が現れて、バーニーが思わず「ビンゴ」と呟くと、チェットは、ビンゴゲームが事件とどう関係するのか暫し困惑したりもする。

 こう書くと何とも頼りない相棒に思われるかも知れないが、然に非ず。このチェット、普段のひょうきんな言動からは想像しにくいが(現に、彼に会った人物は大抵「かわいいワンちゃんね」的な発言をするものの、強そうだとか精悍だなどとは、ついぞ言われたことがない)、実はチェットこそは、やる時はやるタフガイである。

 例えば、捜査の途中でチェットが何者かに監禁される場面がある。敵はチェットに水も食べ物も与えず弱らせた上で、目の前に水の入った椀をちらつかせ、手なずけようとする。訓練を済ませた犬であることを承知している敵は、チェットに「座れ」「立て」などと指示を飛ばすが、チェットは毅然と言い放つ(勿論、人間にはその言葉は理解できないのだけど)。《 ぼくに命令できるのはバーニーだけだ 》と。あからさまに反抗的な態度をとる犬に、敵は顔を真っ赤に染めて更に怒鳴る。《 座れ! 座るんだ! このばか犬め 》。するとチェットは、《 冗談じゃない 》と言い放って(同じく、人間には伝わらないが)仁王立ちする。そんなことをすれば、目の前の水が貰えなくなると分かっていながら……。

 或いは、容疑者の追跡中に絶体絶命に陥ったバーニーを、渾身の力を振り絞ってチェットが救出する名場面。《 おまえに大きな借りができたな、名犬くん 》とチェットの背中を撫でるバーニーに、チェットはひと言《 ばかなことは言わないでくれ。ぼくらは相棒なんだから 》。

 何だ何だこのクールな犬は! まるでハンフリー・ボガードかゲーリー・クーパーではないか。いや、僅かに三枚目が混ざることを勘案すれば、『大脱走』や『荒野の七人』のスティーブ・マックイーンかも知れない。

 とにかく、だ。『助手席のチェット』は、少女失踪事件の謎を追うミステリーではあるが、それ以前に、ちょっとハードボイルドな名犬と、冴えない私立探偵の友情を描いた物語であり、ツーと言えはカーと応える彼らの以心伝心ぶりに、謎解き以上に心を奪われる読者はさぞ多かろう。続編の『誘拐された犬』『チェットと消えたゾウの謎』も刊行されているので、ホームズ&ワトソンにも劣らない名コンビぶりを、思う存分お楽しみ頂きたい。
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 と、名犬が活躍するミステリーを二つお届けした訳だけれど、この機に、是非とも復刊を希望したい作品がある。ディーン・R・クーンツ『ウォッチャーズ』(訳=松本剛史)がそれだ。邦訳が刊行されたのが1993年だからもう四半世紀近く前だけれども、全く古さを感じさせないと言うか、むしろ、遺伝子工学だのAIだのといった技術が極度に高度化した今の方が、物語の設定がよりリアルに迫ってくると思うのだが、どうだろう?

 事件の幕開けは、孤独で投げ遣りな人生を送るトラヴィスが、或る日、一頭のレトリバーを拾う場面。薄汚れたその犬は、どうも人間の言葉を理解しているようなふしがある。それどころか、人間並みのIQを持つのではないかと確信したトラヴィスは、アインシュタインと名づけて飼いはじめる。が、アインシュタインは常に何かを警戒している。時には怯えているというレベルの過敏さは、やがて、「追手」が迫りつつあることをトラヴィスに悟らせる。一体、誰が、何のために……。

 といったストーリーには、柱となる読みどころが幾つもあって紹介が大変。まず第一に、アインシュタインとは何者なのか? 高度な知能を持つその訳は? 第二に、アインシュタインは何に怯えているのか? 彼らを追う影は何者なのか? 第三に、正体不明の敵の目的は何か? というこれらの謎解きに、第四のファクターとして、残虐性剥き出しの敵が刻一刻と迫るホラー要素があり、第五として、彼らが無事に逃げ切れるのか? というサスペンス要素も加わって、更に、トラヴィスとアインシュタインがお互いを無二の存在と認め合うプロセスが編み込まれるようにして描かれるのだから、読み始めたら一気呵成。

 また、終盤、敵の正体が明らかになった後には、読者は、その敵を悪役、ヒールとして単純には憎み切れなくなっているに違いなく、こういったクーンツの職人芸にも、是非とも感嘆して頂きたい。

 ……のだが、冒頭で述べたように、本書は久しく重版されていない(泣)。ここ一、二年、品切れや絶版の小説が、他社レーベルから復刊することが静かに流行っているようだから、かつてスティーヴン・キングと並び称されたクーンツの代表作である『ウォッチャーズ』も、どこかがエイヤッと復刊してくれんもんだろうか。「飼うなら猫」という俺でさえ、アインシュタインなら一緒に暮らしてみたいと思わされる、犬派も猫派も虜にする名犬なのだから。


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『ウォッチャーズ』ディーン・R・クーンツ 訳=松本剛史 文春文庫
『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫
『助手席のチェット』スペンサー・クイン 訳=古草秀子 創元推理文庫
『B.LEAGUE 2017ー18 OFFICIAL GUIDEBOOK』Sports Graphic Number PLUS 文藝春秋
『容疑者』ロバート・クレイス 訳=高橋恭美子 創元推理文庫


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『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫


編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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10月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-10-05 14:15 | バックナンバー | Comments(0)

17年09月

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 自分よりも年齢が上の相手に「死ね、じじい」と心のなかで悪態をついたことが、あなたには今まで何回あっただろうか。あったかなかったかではない。私は、もちろんそんなもの到底数えられない。「今まで食べたパンの枚数」と同じ類のものだ。今日もまた、この野郎ふざけんなよ、と思い、絶対に許さない覚えてやがれ、と心のなかで「ぶっとばしてやるリスト」を更新する……いくぶんの誇張こそあれ、実際のところ、これを読んでいるあなたの毎日にも多かれ少なかれこんなシーンがあるのではないだろうか。

 スポーツを「見る側」にも、人生のなかでのタイミングというものがあるのかもしれない。最近、ふとそう思ったのは、『Number 933号』の「甲子園ライバル伝説。」の巻頭、「田中将大に、勝ちたかった。」で明かされる当時の智辯和歌山メンバーのドラマを読んだときである。私にとって抗いがたい魅力をもつ話だった。きっと、中・高校生だった十年前では感じなかったと思う。仮に読んだとしても、表面上そうそう、そうだよなと思いつつ、すり抜けるように読み流してしまっただろう。

 ここで残されているのは「最大の田中将大対策は、彼が卒業するまで待つこと。無駄な対策はしない」と他校からサジを投げられるような巨大な壁に対して、全力を尽くして挑んだ声である。冒頭の言葉は、そのなかのひとつだ。

 野球部の顧問も勤めた私の恩師は、高校野球を評して「あまりにスペシャルな世界」と言った。言い得て妙だと思う、なるほどあれは特異点(スペシヤル)だ。先日の夏の甲子園も、実力を限界以上に引き出した神がかり的プレーが続く、目の離せないシーソーゲームがいくつもあった。帰省中の車内や家電量販店のテレビコーナー、スマホの画面……モノは何であれ、思わず食い入ってしまった人も多くいるのではないだろうか。メディアを賑わせるのは、そういったゲーム展開だけではない。怪我をおしての出場や、炎天下の中での熱投が美談のように語られたり、それに対しての非難が巻き起こったりする。それは、夏にとって甲子園と同じくらいの風物詩かもしれない。それらを見聞きしていて、一方で将来を考えてほしいという気持ちもわかりながら、他方でどこかはばかられる自分にも気づく。あの場に立っている、いや、あの場所を目指したことのある多くの人間にとって、甲子園という場所はそれまでの人生の何割を占めているのだろうか。それまでの人生の大部分をかけたその濃度だからこそ、外野は好きなことをいえるのかもしれない。それこそちゃぶ台をひっくり返せば、本稿もそういった甲子園をめぐる言葉の一部である。


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 だからこそ、冒頭の言葉を目にしたとき、正直な実感でいえば、高校生の自分がすぐそばにいるような気になった。選手は、サイボーグのような身体をもつでもなければ、ロボットのように一心不乱にプレーに打ち込むわけでも、シナリオにそって動く駒でもない。普通の、本当に普通の人間味ある高校生だ。それは、いつになっても変えられない。子供の頃、甲子園を見ていると、どこか選手たちをそういった無敵のヒーローとして、本当に大きな存在として感じている自分がいた。だが、実際に自分がその年齢になって、そしてそれを超えてみると、キツい状況になれば悪態もつきたくなり、雨が降ればどこかで緊張の糸が切れてしまう……そんな気持ちが痛いほどよく分かるようになった。そう、「イタい」のだ。高校を出て何年もたつはずの今日の私もきっとそうしてしまうし、その未熟さを突きつけられているような気がして、より自分自身が痛々しくなってしまう。君はかつて高校生であり、今もまだそこから遠くはなれていないのだと、見せつけられた気がするのだ。


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 もちろんというべきか恥ずかしながらというべきか、今でも試合を見ているとその一挙手一投足に魅入られてうっかり童心にかえり、選手たちを再びそういったスーパーマンのように思ってしまいがちである。だが、今にして思えば、私にとって甲子園球児が自分の年下になった瞬間の衝撃は、むしろ彼らが私たちと同じ人間であるという当たり前のことと、その同じ人間が神がかったプレーを続けているという、そのはざまにあるものだったのだと思う。

 この記事の魅力は、それだけではない。いいかえれば、この記事からは、そういった「男の子」たちの気持ちの揺れが見えるだけではない。たとえば、智辯和歌山の高嶋監督が見せる意地とあがきの交差する姿勢である。決め球を打ちたい、どんな方法でもそれに信念を持って向かい続ける。それを続けることは、実際のところ本当に難しい。また、話し手としては一切出てこないのに引き立つのが、田中将大という壁のあまりの大きさと、その彼もまた、今では「あの日全く打てなかった」スライダーを投げず、「スプリットばっかり」にモデルチェンジをしながら、今日を戦っているという姿である。

 田中将大という存在の――もっといえば斎藤佑樹という存在の――光が明るいだけ、またそこには影も浮かび上がる。その対比のなかで、最後まで笑ってプレーできたのは今年も優勝校ただ一校。影が深い分、裏面もまた、幾重も光を重ねていく。

 人間同士が戦い、そしてそれを人間が見ているというそのなかでは、いつその瞬間(ゲーム)に出会ったかによっても、たくさんの見え方がある。八月の甲子園が終われば、次はサッカー、プロ野球……。スポーツの秋は、もうそこにいる。



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『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介



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 まずは、元気一杯の青春小説から。越谷オサム『階段途中のビッグ・ノイズ』(幻冬舎文庫)は、とある平凡な高校の軽音楽部の物語。事の起こりは、主人公の神山啓人が二年生に上がる直前の春休み。僅か三人しかいなかった軽音楽部の先輩二人が、大麻やら覚醒剤やらで逮捕され、煽りを食って軽音楽部の廃部がほぼ決まる。友人の伸太郎が連帯責任の理不尽さを校長に直談判して、かろうじて存続を許されはしたものの、半年以内に何らかの成果を上げられない場合は予定通り廃部、という条件。

「何らかの成果」と言われても、件の薬物騒動のお蔭で部員勧誘は大苦戦。どうにか集まったのは、ギターの腕はピカイチながら、それをナチュラルに鼻にかけるリアルスネ夫みたいな勇作と、全国レベルの吹奏楽部から落ちこぼれた急造ドラマーの徹。これに、ベースをかって出てくれた伸太郎と、サイドギター兼ボーカルの啓人を加えた四人組。

 如何にも凸凹なメンツだし、練習場所は校舎の四階と屋上の間の階段の踊り場だし、顧問は昼行燈みたいで頼りない。それでも啓人は、小さな喜びを噛みしめる。かつて、例の二人の先輩がいた頃は、耳障りだからとギターをアンプには繋げさせてくれなかった。先輩たちが屋上でタバコだか大麻だかを弄んでいる間、仕方なく独りで練習し続けた。試しにアンプにつないでちょっと弾いたら、途端に「うるせぇ」と怒られた。

 でも今は、俄か作りとは言え、ちゃんとバンドを組んで音楽をやっている。薄暗い階段の奥で何をやっているか分からない怪しげな集団ではなくなった。技術的には未熟なところも多いけど、それはこれから少しずつ磨いてゆけばいい。今は、演奏出来ることがひたすら嬉しい。啓人は、初めての四人での音合わせの時に、そっと呟く。《 俺、一人じゃなくなった 》。

 勿論、それで全てが上手く回り始める程、人生は甘くない。意見が食い違って喧嘩したり、警察沙汰を起こした軽音楽部を敵視する教師から嫌がらせのような仕打ちを受けたり、挙句の果てには、春からずーっと目標にしてきた文化祭の直前に、選りにも選って……。


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 とまぁ、一難去ってまた一難。だけれども、作中のとある登場人物が言っている。《 若さを武器に勝負できるのはせいぜい十代のうちだから、少々不躾でもやりたいことをやるといいよ 》と。これこそが、本書の主題ではないかと思うのだがどうだろう? 実際、啓人たち四人は突き進む。周囲の白い目も、教師たちの敵意も、予算その他の悪条件も、ものともせずに突っ走る。

 かの司馬遼太郎が、名作『坂の上の雲』(文春文庫)の序盤でこんなことを言っている。《 青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない 》。こういった損得勘定抜きの元気を堪能したいからこそ、僕らは青春小説を手に取るのだし、それこそが青春小説の醍醐味だろう。若さのバカさと真っすぐさに胸を熱くしたいなら、『階段途中のビッグ・ノイズ』は必読だ。

 青春一直線の次は、おっさんと青年。小野寺史宜『ひりつく夜の音』(新潮社)は、落ち目のクラリネット奏者と、新進気鋭の若手ギタリストとの、奇妙な友情の物語。

 下田保幸は四十六歳。ジャズのクラリネット奏者として生計を立ててはいるが、最近はジャズファンそのものがめっきり減って、それに連れて仕事も減って、貯金を切り崩しながら細々と生きている。そんな彼の家に、ひょんなことから、二十二歳の佐久間音矢が転がり込む。こちらは、目下売り出し中のギタリスト。超有名ではないけれど知ってる人は知っているというぐらいには有名で、彼の腕前ならばその知名度は、これからぐんぐん上昇すると思われる。そんな二人が、寄り添うでもなく対抗するでもなく、成り行きと惰性で一つ屋根の下での暮らしを始める。

 保幸は、ジャズという音楽の未来も自分自身の行く末も、淡泊に見切ってしまっており、《 腕を上げるためではなく、下げないために 》最低限の練習しかしない。ジャズの普及に努めるでもなく、自分の技術を売り込むでもなく、かといって、音楽はすっぱり諦めて別の生き方を探るでもなく、縮小均衡のような人生を、良く言えば受け入れている。悪く言えば諦めている。

 こういうの、「解るわぁ」っていう中年は、きっと少なくはない筈だ。「このまんまじゃジワジワと先細りだよなぁ」と感じてはいても、「とは言え今すぐ何かを変えないとヤバイ、というほどの緊急事態じゃないしなぁ」とも半分ぐらいは思っていて、いずれはどうにかしなきゃと思いつつ、その〈 いずれ 〉はいつまで経っても来やしない(笑)。


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 ところが若者にとっては、ここで動かない理由が解らない。変化と現状維持とでリスクが五分なら、変化を選択しない理由が無いだろ、と考える。だから音矢は、生活の全てをギター中心に組み立てて、朝から晩まで弾きまくる。当然、恐ろしい早さで上達する。興味を持ったらバンジョーにまで迷わず挑戦したりする。

 そんな音矢を間近で見ながら、保幸は、羨ましいと感じると同時に、かつては自分もそうだったことを思い出す。クラリネットさえ吹いていれば幸せだった二十代の日々。新しい音を次々と自分のものにしていく達成感。その記憶が、「お前、まだやれるだろ?」と、保幸自身に問いかけてくる。古い友人からは《 伸びなくても、ふくらむことはできるんじゃない? 》などと背中を押されたりもする。そしてトドメは音矢のひと言。超一級の演奏技術を、活かすどころか持ち腐らせているだけの保幸に、彼は堪りかねて発破をかける。《 自分の音楽をやれよ 》と。そして続ける。《 うめえのに、何で吹かねえんだよ 》と。《 またバンドを組みゃいいじゃん。逆に訊きてえよ。何でそうしねえんだよ 》と。

 そんな訳でこの作品は、「あの頃はよかった」的な中年自己満足懐古小説などでは断じてない。惰性で人生を浪費していたおっさんが、幾つかの出会いに刺激を貰って、老けこむにはまだ早いだろ、と思い直して一歩を踏み出す。その一部始終を描いた落ちこぼれ中年再出発小説。それが、『ひりつく夜の音』なのだ。


 最後は先月号でもチラッと触れた、須賀しのぶ『革命前夜』(文藝春秋)。登場する楽器はピアノ、ヴァイオリン、パイプオルガン。

 時は一九八九年――東西冷戦の最末期。駆け出しのピアニスト眞山柊史は、憧れの音楽家バッハの息吹を肌で感じながらピアノの腕を磨くため、東ドイツはドレスデンの音楽大学に留学して来る。そこで出会った三人の音楽家。よく言えば自由奔放、悪く言えば傲岸不遜。独自の解釈でエゴイスティックな演奏を繰り返す天才肌のラカトシュ・ヴェンツェル。同じヴァイオリニストながらヴェンツエルとは正反対に、正確無比な演奏でどんな難曲も弾きこなす理論家のイエンツ・シュトライヒ。西側への移住を希望したために生活の細部までシュタージ(=国家保安省)の監視を受けながら、音楽への情熱を胸の最深部で燃やし続ける美貌のオルガニスト、クリスタ・テートゲス。


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 そんな彼らの狭間で自らの音を見失った柊史が、のたうち回るように苦悩する姿を描いた本書は、だがしかし、「若者が苦難を乗り越えて成長しました!」といったスポ根ノリの単純な小説では全くない。ならば何が描かれるのか?

 それは、一言で言えば〈 戦い 〉である。

 先に挙げた三人の他にも、柊史は、バロック音楽の聖地で幾人もの人間との出会いを重ね、意気投合したり反発を覚えたりするのだが、その誰も彼もが、まるで命を削るようにして何かと戦いながら生きている。或る者は理想の音楽のために、或る者は大切な人を守るために、或る者は国家から自由と尊厳を取り戻すために、そして或る者は国民から見捨てられつつある母国の未来のために。時には愛する人を傷つけ、時には自らの身を炙るが如き凄惨な様相を呈するその〈 戦い 〉の真っただ中に、誰もが怯むことなく突っ込んでゆく。

 そこに、油絵の具を塗り重ねるようにして描かれるのが、東欧を席巻した民主化革命である。これまで正しいと信じてきたものが一夜にして覆される。築き上げてきた栄えある過去が音を立てて崩れ去る。後には自分たちが依って立つべき何物も無く、茫漠とした未来だけが陽炎の如く揺らいでいる。

 その様子が、彼らの人生に重ならないという読者は恐らくいまい。

 そうなのだ。若きピアニストの挫折と再起を描いたように見せながら、実は本書の肝はそこではなく、東欧革命の嵐の中にすっくと立ち上がって未来を見据える人々――矜持や信頼や愛情や希望を木端微塵に撃ち砕かれて満身創痍になりながらも、懸命に明日への道を切り開こうとする柊史やヴェンツェルやクリスタや、その他大勢の登場人物たち――の生き方を、まるで袈裟斬りでもするような激しさと鋭さで描き出した、それこそが『革命前夜』の読みどころであり魅力であるのだ。

 物語の最終盤で描かれる革命の熱狂と、それとは対照的に静かに鼓動を刻む柊史たちの友情。その余韻は、読了後いつまでも読者の胸にこだまし続けるに違いない。そしてふと耳を澄ませば、聴いたこともない『革命前夜』なる名曲が、胸の奥で高らかに鳴り響いていることに気付くだろう。



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『階段途中のビッグ・ノイズ』越谷オサム 幻冬舎文庫
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋
『Sports Graphic Number 933号』 文藝春秋
『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介 講談社文庫
『ひりつく夜の音』小野寺史宜 新潮社



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by dokusho-biyori | 2017-08-31 20:09 | バックナンバー | Comments(0)

17年08月

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 ナチスドイツに蹂躙されるポーランドを舞台に、民族の尊厳と人命の尊さを訴えた直木賞候補作『また、桜の国で』(祥伝社)。片やナチスの親衛隊、片や修道士という正反対の道に進んだ幼馴染みを対比させながら、戦争の残酷さとレイシズムの愚かさを浮き彫りにした『神の棘』(新潮文庫)。東西統一直前の監視国家・東ドイツで、若き音楽家たちの苦悩とプライド、情熱と友情がほとばしる『革命前夜』(文藝春秋)

 右の三作はほんの一例ではあるけれど、奥行きの深い背景と立体感に富んだ人物を端折らずに描いて、一段一段、まるでレンガでも積み上げるようにして重厚な物語を築き上げてゆくのが、須賀しのぶの持ち味である。『革命前夜』の大藪春彦賞受賞にとどまらず、恐らくは近い将来、この路線で幾つもの文学賞を獲得することになるのだろう。

 そんな彼女には、実はもう一つ別の顔がある。

 ファンには既に広く知られていることだが、須賀しのぶは超のつくほどの野球好きである。好き、どころではない。パ・リーグ・楽天ゴールデンイーグルスの「オタク」とでも言うべきマニアであり、高校野球の熱狂的なファンでもある彼女は、野球のルールは勿論、その戦術や駆け引きの機微に至るまで、驚くほど知悉している。

 故に、彼女が描く「野球」のクオリティは、昨今の文壇ではずば抜けている。投手と打者の心理の読み合いや、寄せては引きを繰り返すゲームの潮目など、単に「野球」というスポーツを忠実に再現しているだけではない。チームの内外の人間関係の陰影や、登場人物それぞれの迷いや不安、決意や自尊心など、プレイ以外のエピソードをコツコツと塗り重ねることで滲み出るリアリティ。勿論、魔球だのメジャー顔負けの天才少年だのといった、現実感ぶち壊しの設定など皆無である。登場するのは、僕らの知ってるどこかの誰か、みたいなフツーの野球少年や野球ファン。

 ってくどくどと説明するよりも、実際に作品を知って貰った方が話が早かろう。

 まずは、五月に文庫化された『ゲームセットにはまだ早い』(幻冬舎文庫)から。


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 大学生の頃はプロ入り確実のスラッガーと騒がれていた高階は、故障やらスランプやらでドラフトから漏れ、捲土重来を期して都市対抗野球の強豪企業に入社する。が、パッとした成績を残せないまま数年が過ぎた頃、業績低迷から抜け出せない会社は、リストラの一環として野球部の廃部を決定する。目立った実績を上げていない高階には移籍先の当ても無く、殆ど野球を諦めかけた時に出会ったのが、新潟県三香田市にある新興のクラブチーム、〈 三香田ヴィクトリー 〉。

 午前中だけ仕事をして、あとは一日中野球をやっていれば給料が貰えた企業チームと違って、地元の企業に普通に勤めて生活基盤を確保した上で、終業後や週末など、勤務に支障が無い範囲で練習をするのが「クラブチーム」。傍から見ればまさに〈 趣味の延長 〉であり、勿論、年俸や給料などは支払われない。高階にとってはまた一歩プロから遠ざかる選択ではあるが、背に腹は代えられず、半ば渋々、三香田ヴィクトリーに合流する。

 そして、そこで出会ったメンバーは……大手スーパーで最新の流通・小売を学ぶつもりが、何故か赤字続きの三香田店に配属されて腐る安東。大学時代、封建的な上下関係に適応できず、不当な評価で二軍に甘んじ続けた尾崎。有り余る才能を持ってプロ入りしながら、酷使された肘の故障と素行不良が重なって干された直海。……チームは、監督からコーチ、マネージャーまで、エリートとは程遠い寄せ集め。

 そんな寄せ集めたちが見せる意地。それこそが、須賀しのぶが「野球」以上に描きたかったことではないか。

 例えば……《 俺たちは、ただ野球がやりたいわけじゃない。野球やってりゃ幸せってほどお気楽なわけでもない。自分はまだこれで食っていける、てっぺん目指せると思いこんでるバカだから、ここまで来てんだよ 》と吼える選手がいる。

例えば……《選手も、そして観客たちも、みな楽しそうな笑顔だ。ああ、楽しんでくれている。そう思った途端、安東の胸にも喜びが弾けた 》と、弱小クラブチームの運営に遣り甲斐を見出してゆくマネージャーがいる。

 或いは終盤、三香田ヴィクトリーを支援する或る弱小企業の老経営者が、ヤケッパチになっている選手の一人に、懇懇と説き聞かせる場面がある。

《 人生には、努力が報われないことはいくらでもある。なんの才能もない人間でも、ただ堅実に努力を続けていればいつかは報われると信じてやってきて、それでもどうにもならないことってのはあるんだ 》
《 そういう人間でも、ぎりぎりまでやれるだけやったと思えれば、それはひとつの誇りになるんだ。自分を誇る瞬間がなければ、人は前にも後ろにも行けないものさ 》


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 実はこういった描写こそが、須賀しのぶの真骨頂なんだが、それをご理解頂くために、更に幾つか例を挙げたい。

 2015年発売の『雲は湧き、光あふれて』(集英社オレンジ文庫)には、実は二通りの愉しみ方がある。まずは、収録された三編をそれぞれ短編として味わうフツーの読み方。

 一編目の「ピンチランナー」は、代走を主人公にした変わり種なので、野球小説慣れした人にも新鮮だろう。ヒットやフォアボールで出塁した打者に代わって出場し、ただ盗塁することだけを期待された――逆に言うと、バッティングも守備も期待されてはいない役。そんな立場に途惑ったり腐ったりを繰り返しながら、少しずつ自分の価値を見出してゆく主人公。ちょっと斜に構えた感じのモノローグがユーモラスだ。

 二話目「甲子園への道」の主役は新聞記者。野球経験ゼロの新米女性記者が、夏の高校野球、埼玉県予選を取材する。その過程で気づく、己の弱さや承認欲求。《 負けたくない。否定されたくない。だから最初から、興味のないふりをする。そこそこでいいんだ、と自分に言い聞かせてる。だけどそんなのは、嘘なんだ 》。

 自分が病気であることに気づかなければ治療しようとは思わない。同じように、自分の過ちに自分自身で気づかないうちは、修正も成長も難しい。せっかく気づいても、腐ったり諦めたりでは、やはり前には進めない。高校野球を素材にしている本作ではあるが、物語の底にはまるで地下水脈のように、もっとずっと普遍的なメッセージが流れている。

 三話目の表題作はガラリと変わって、舞台は昭和16年、太平洋戦争開戦前夜。その夏に甲子園切符を手に入れながら、〈 時局がら 〉開催が中止となって涙を飲んだ球児たちの、これもある種の青春譚。
 当然ながら、明るく爽やかな前二作とは、だいぶ趣が異なって初めての読者は驚くかも知れんけど、『紺碧の果てを見よ』(新潮社)あたりの〈 須賀カラー 〉がジワリと滲む好短編。

《 国の大事? わけがわからない。だったら甲子園だって、自分たちの一大事だ。戦争なんて、国が勝手にはじめたことだ。そんなもののために、なぜこんな目に遭わなければならないのだろう 》というやりきれなさを、恐らくは当時、多くの人々がそれぞれの形で味わい尽くしたことだろう。終盤、《 あんな時代でなければ 》という主人公の悔恨がずっしりと胸に重い。と同時に、《 あんな時代 》ではない現在に生きていることを、感謝せずにはいられない。


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「雲は湧き、光あふれて」というタイトルは、言わずと知れた夏の全国高等学校野球選手権大会歌『栄冠は君に輝く』の一節。本作を読んで初めて知ったんだが、かつて甲子園を目指しながらも怪我で足を失った青年が作った曲で、昭和24年の大会で初めて使われて以来、半世紀以上に亘って、球児たちを激励し続けてきたそうだ。恐らくは、平和への祈りも多分に込められて――。

 とまぁ、そんな感じの三編なんだが、先に述べたようにこの文庫本は、短編集として読む以外にもう一つ、長編小説としても楽しめる。即ち、2016年に出た『エースナンバー』(同)が、「甲子園への道」でスポットが当たる埼玉県立三ツ木高校を軸にした続編になっておるのだ。

 第一話「監督になりました」は読んで字の如く、三ツ木高校野球部の監督になった青年教師の物語。時間軸は、前作「甲子園への道」の数か月前。だから、こっちを先に読んでも面白いかも。

 驚くべきは、生徒の頑張りとか空回りとか最近流行りの〈 空気読み過ぎ 〉とかを、教師の目線から実に生々しく描き出してる点である。《 うまいやつ、才能があるやつが評価されるのは当然だ。それが最も自然な形だろう。だがここは、高校の部活なのだ。強豪でもなんでもない、ごく普通の。一番努力したやつが報われる場であってほしい 》という主人公の独白に思わず肯きながら、自分も教師目線、保護者目線になって球児たちを叱咤激励する読者はさぞ多かろう。

 第二話「甲子園からの道」は、タイトルが暗示するように、先の「甲子園への道」の女性記者が、再び語り手となって、三ツ木高校野球部とそのライバルを追う。作中時間としては「甲子園への道」で描かれた埼玉大会のすぐその後。

《 だって、高校球児の大半は、まさにその「日の当たらないところで黙々と努力をし続ける」子たちなんだ。そしてその子たちの背後には、ものすごくたくさんの人たちの献身がある 》。エースや四番よりも脇役たちをこそズームアップしたいと願う彼女の視線が温かい。

 三話目の「主将とエース」も「甲子園への道」の直後から始まる話なんだが、こちらは、三年生が引退した後の、新キャプテンを軸に話が進む。一年前にゴタゴタがあって退部した、センス抜群の傲慢屋が復帰して、だけどワンマンプレーでやっぱり浮いたり、そんな彼を新キャプテンもマネージャーも、そして監督もどうにかしたいと悩んだり。《 おまえ、まだ笛吹のこと信用してないだろ? なのに頼ってる。勝つにはあいつは必要だって言ったよな。だが今のおまえ見てると、仲間として受け入れているようには見えない 》……と、こんな風に注意深く見てくれる監督の許でなら、二年半の野球人生は幸せだろうな。そう感じながら、『本の雑誌』の去年の10月号で俺はこう書いた。《 願わくはこの『雲は湧き』のシリーズを、長編でじっくりどっぷり堪能させてくれんもんだろうか 》と。


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 だから、という訳ではないんだろうけど、やってくれたよ須賀しのぶ。今年発売された第三弾『夏は終わらない』(同)は、件の三ツ木高校野球部を舞台にした、一冊丸ごとの長編だ。しかも、第一弾『雲は湧き、光あふれて』の「甲子園への道」から『エースナンバー』、『夏は終わらない』と通して読めば、彼らと一緒に一年半を走り回ったかのような充実感と達成感。それを味わいたいから、新刊を我慢して第一弾から改めて読み直したのはこの俺さ。

 監督の若杉先生と部長の田中先生のコンビも息が合ってきて(余談ながら、若杉って名前、〝 若過ぎる 〟から来てるんちゃうかな)、チームの面々も、自信失くして辞めようとする奴とか、陰で悪口言われても果敢に前を向くマネージャーとか、あれやこれやてんこ盛りしながらジワリジワリと前進してゆく。彼らにとって最後の夏が、このシリーズのグランドフィナーレ。《 スコアボードで確認しても、にわかには信じがたい。あの東明から、二点とっている。当然だと胸を張る気持ちも事実だが、頬をつねりたくなるのも事実だった 》っていうこの心の機微。どうだ見たか! と誇ると同時に、マジかよ? と俄かには信じられなかったりもする。何故そんなややこしい心境なのかを、ここで説明するのは野暮だろう。まぁ、須賀しのぶ節全開である、とだけ言っておく。

 そして最後にもう一つ。これまた新刊『夏の祈りは』(新潮文庫)は、まさに須賀野球文学の現時点での集大成。

 舞台はやはり埼玉県。県立北園高校野球部は甲子園出場こそ無いものの、公立のわりには強い伝統校――という設定でナインの七転び八起きが描かれる、と言えば間違いではないけど正確でもない。実はこの作品の主人公は、北園高校野球部そのもの。つまり、昭和63年の第70回大会から平成29年(つまり今年だ)の第99回大会まで、毎年部員は入れ代わりながらも甲子園を目指す〈 野球部そのもの 〉に焦点を合わせ続けた、大河小説のような野球部小説。

 公立高校である。派手な選手勧誘とか越境入学とか特待生制度とか、勿論ない。それでも毎年果敢に、設備も資金も人材も潤沢な私立四強に挑んでいく。挑んでは、弾き返される。


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その過程では、例えば、実力では控え選手に抜かれたのに、相変わらず「背番号1」を背負わされている〈 元エース 〉が《 どうせなら、エースナンバーから下ろしてくれれば楽なのに 》と弱音を吐く。例えば、お行儀のいい現代っ子たちに、もやもやとした不満を感じてしまう監督が独りごちる。《「自分の若いころはこうだった」という大人にだけはなりたくないと思っていたが、やはり指導者の立場に長くいると、物足りなく思うところも増えてきた 》といった述懐には、野球抜きで共感してしまう上司や先輩は多かろう。或いは、雑用係として選手からは名前も覚えて貰えないマネージャーという役割に、懸命に遣り甲斐と価値観を見出そうとする女子生徒がいる。或いは、甲子園まであと一歩まで迫った三年生と、中学野球で活躍した選手が揃った一年生に挟まれて《 ハズレ世代 》と陰口を叩かれる二年生たちがいる。

 圧巻は、その《 ハズレ世代 》たちがハズレなりの意地を見せる第五話「悲願」。

《 ハズレでもいいだろ。外野に言わしときゃいい。見返してやろうなんて考えんな 》
《 それよりも、おまえがやりたいようにやったほうが楽しいんじゃねえの 》
《 俺が打てなくても誰かが打つ。誰かが打てなければ俺がなんとか打ってみせる。そう思えるのは、なんて幸せなことなのだろう 》
《 もう二十年以上この仕事をやってるが、それでも未だに、君たちがもつ力に驚かされることがしばしばある 》
《 なぁおい、信じられるか。この中に、「ハズレ」って呼ばれてた連中が何人もいるなんて 》

 こんな風に、須賀しのぶの野球小説は、「野球」だけを描いている訳では決してない。むしろそれ以上に、プレイ以外の部分を略さず描くことで――それはまるで、細密な原画を元に鑿を振るう熟練の彫り師の如く〈 一寸の虫に宿る五分の魂 〉を浮き上がらせて見せてくれる。だからそもそもの野球好きが読んで楽しいのは勿論、野球に興味のない人間が読めば、逆に、現実の野球を見てみたくなるに違いない。例えば去年のリオ五輪で、普段見もしないアーチェリーだの卓球だのバドミントンだのに、あれだけ多くの人が喝采を叫んだのと一緒。そのスポーツに詳しくなくても、誰かが頑張ってる姿を見るのは、誰だって気持ちがいいものなのだ。

 折しも、『夏の祈りは』で素材となった第99回全国高校野球選手権の季節である。須賀しのぶの野球小説を傍らに、NHKの中継やテレビ朝日「熱闘甲子園」で熱くなる、というのが、今年の夏のお薦めである。



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『エースナンバー』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800921 540円+税
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋 9784163902319 1,850円+税
『神の棘』須賀しのぶ 新潮文庫 ①9784101269719 750円+税 ②9784101269726 890円+税
『雲は湧き、光あふれて』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800297 540円+税
『ゲームセットにはまだ早い』須賀しのぶ 幻冬舎文庫 9784344425934 770円+税
『図書館戦争』有川浩 角川文庫 9784043898053 667円+税
『夏の祈りは』須賀しのぶ 新潮文庫 9784101269733 520円+税
『夏は終わらない』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086801409 540円+税
『また、桜の国で』須賀しのぶ 祥伝社 9784396635084 1,850円+税



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by dokusho-biyori | 2017-08-06 11:26 | バックナンバー | Comments(0)

17年07月 前編

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 今回でこのチャレンジも最後である。ここまでくると全て名作ぞろい。ほとんど読んだことがある作品ばかりである。必然的に再読という形になったが、どれも新しい発見があって面白い。その中でも一番はやはり『獄門島』である。再読すればするほどおもしろくなっている気がするというのは、やはり一位を獲得するゆえんなのだろう。

10位 横溝正史『本陣殺人事件』角川文庫

 密室殺人というのは魅力的な謎であるにもかかわらず、実際的な面から考えるとこれほど不経済な殺し方はない。トリックを考えるのには時間と労力が必要だし、「針と糸をあやつって閂を……」などと只今絶賛トリック実行中に誰かに目撃されてしまう可能性だってあるし、何よりもわざわざ密室を演出する理由が「自殺に見せかけるため」以外にそうそう思いつかない。つまり、ミステリー作家がわざわざ密室殺人を描くとしたら、以上の不経済をふまえて読者を納得させるトリックを考えなければならないのだ。

 その点において『本陣殺人事件』ほど見事に、密室殺人事件の不経済性を解決しているトリックはなかなか無い。結婚式の後、初夜を迎える夫婦が日本刀で切り刻まれ、現場となった離れの周囲には足跡ひとつない新雪が積もっているといった所謂「雪の密室」のトリックは、その周囲にちりばめられた伏線と見事に連携した傑作である。真っ向から勝負した密室トリックとあっと言わせる捻りの効いた犯人、そして何よりもある怪現象が物語の雰囲気を盛り上げるだけでなくトリックの重要な部分に関わっているという、全てが一つの絵のピースでありながら人工的なわざとらしさを感じさせない構成はもはや神業である。江戸川乱歩の「D坂の殺人」以降、日本でも様々な密室トリックが考案されてきたが、かくも物語と融合したトリックは本作くらいではないか。密室トリックを扱ったミステリーとして初期の作品でありながら一つの完成型ともいえる傑作である。

 余談だが、本作はかの有名な名探偵・金田一耕助の初登場作品である。その歴史的価値も感慨深いものがある。


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9位 京極夏彦『魍魎の匣』講談社文庫

 ミステリー小説はよくパズルに例えられるけれども、この『魍魎の匣』はタイトルにあるように匣に例えられる小説かもしれない。バラバラな断片が綺麗に、みっちりと詰った匣――。事件の要素を匣の中身とするならば、物語るとは断片を一つ一つ取り出して読者に見せることであり、事件を解決することは取り出した断片をきっちり元通りに匣につめる行為になるだろう。つまり『魍魎の匣』を読むということは、バラバラの断片を一つ一つきっちり匣につめていく様子を眺めるようなものだ。

 新興宗教、少女連続バラバラ殺人、密室から消えた瀕死の美少女……、著者はそれら断片を次から次へと読者の目の前においてみせる。全ての断片が読者に提示されたとき、つまり小説でいう事件部分が終わり、さあこれから探偵が謎解きを始めようと腰を上げる瞬間、読者は困惑してしまう。「はたしてこれだけのものがもう一度、あの匣に入りきるのであろうか?」と。ところがそんな読者の心配をよそに、京極堂は次々と真相を明らかにして複数の事件と断片は小説『魍魎の匣』という匣の中に収められる。そう、彼の推理が全て語り終わったとき明らかになる事件の全体像は、断片=ピースが全て有機的に繋がったパズルとはちょっと違っている。強い関係性はないけれども、確かに小説の中では共存している断片同士。やはりそこは、隙間もなく飛び出すこともなく小説『魍魎の匣』に詰められた断片同士の関係性を思ってしまうのだ。「パズルではなく匣? はて何のことやら」と首を傾げてしまうのは当然。それほどこの小説は奇妙な構造をしているのだ。複数の事件が発生するミステリーの新たな視点。よくもまあ、あれだけ奇妙で数多い断片を綺麗に「収納」したものだと感心せずにはいられない。


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8位 綾辻行人『十角館の殺人』講談社文庫

「ミステリーに興味があるけど何から読み始めたらいいかわからない」という人に最初の一冊として、必ず『十角館の殺人』を薦めるようにしている。なぜなら本格ミステリーの醍醐味を一番分かりやすく、かつ高い完成度で味あわせてくれるのはこの本をおいて他にないと考えているからだ。

 設定はアガサ・クリスティーの傑作『そして誰もいなくなった』(海外ランキングの一位。読んで損なし!)のオマージュで孤島に招待された男女が次々と殺されていくというクローズドサークルもの。そこに本島に残された者たちが過去に孤島で起きた事件の真相を探る「本島パート」が謎解きの妙味をプラスしている。それぞれ単独で素晴らしく面白いミステリーとして完成されているのだが、最後に最大の一撃が待っている。たった一行、たった数文字にこれほど驚かされたことはいまだかつて無い。

 かような仕掛けはミステリーマニアでも、いやマニアだからこそ引っかかってしまうかもしれない。というのも、『十角館の殺人』は古今東西あらゆるミステリーの小ネタやオマージュが散りばめられているので、マニアはそのディティールを「俺は分かるぞ」とニヤニヤしながら読むことになる。しかし、散りばめられた小ネタはトリックを覆い隠す煙幕となってマニアの目を曇らせているのである。自身も相当なミステリーマニアだった著者が、同類の生態を踏まえて描いた驚きの犯罪に、(ネタばれされる前に)一度驚くことを強くオススメする。

7位 天藤真『大誘拐』創元推理文庫

 立てこもり犯や誘拐犯に感情移入してしまう被害者の心理をストックホルム症候群というらしいのだけれど、『大誘拐』の誘拐被害者であるおばあちゃんはその域を超えて、犯人グループに助言を与え、陣頭指揮を執るボスのような役割を果たす。古今東西あらゆるミステリーはあれども被害者が犯人に協力する事件などこの作品を除いては他にないだろう。

 そもそも誘拐ミステリーの面白さは、必ず現在進行形の事件を描かざるをえず、目に見えぬ犯人の、着地点の分からない指示に作中の警察と一緒に翻弄され続けるサスペンス性にあると思っている。その点で言うと『大誘拐』は犯人側の視点で描かれる倒叙形式であるので犯人側の目的が分からないというサスペンス性はうすい。分からないのは被害者側の目的である。誘拐されたおばあちゃんが次はどんな指示を出すのか、身代金の受け渡しはどうするのか、そしてなぜ犯人に協力するのか。警察と読者が翻弄されるのは犯人ではない。物語の主導権を握っているのは誘拐事件の被害者なのである。「犯人が事件の主導権を握る」という常識をひっくりかえしたところに『大誘拐』の最大の魅力が詰っており、最大のトリックが隠されてもいるのだ。

 警察、犯人、そして読者を手玉に取る最強の被害者は、最高の誘拐劇を味わわせてくれる。


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6位 松本清張『点と線』新潮文庫

 ミステリーというジャンルは納得のいく解決=現実での再現性がありそうな事件の真相が強く求められる反面、密室殺人やバラバラ殺人など派手で荒唐無稽な事件ほど好まれるという矛盾を抱えているのではないだろうか。謎解きの意外性と面白さを追求するほどに、現実から乖離してしまうのだ(その極限的な例が『黒死館殺人事件』である)。では、リアリティを求めたミステリーは退屈なのか、その反証として松本清張の『点と線』はミステリー史に屹立している。

 事件自体は極めて単純な殺人事件であり、用いられているアリバイトリックも凡庸だし探偵役の刑事の推理も快刀乱麻を断つとは程遠い。しかし、小説の主眼はそこにはない。鉄壁と思われた容疑者のアリバイをあらゆる証言・証拠と小さな発見から崩していく過程にあるのだ。というミステリーは今までもいくつかあったように思うが、『点と線』の捜査過程は挫折の連続である。手がかりをつかんだと思えばアリバイは崩せず、トリックを見破ったと思えば別の証言で否定され、用意周到すぎる犯人の計画に敗北の連続である。いったいどうすれば犯人のアリバイを崩せるのかという興味が尽きない。

 荒唐無稽な事件も、派手派手しいトリックも必須ではない。捜査そのものへの歓心を得ることができればミステリーの傑作たりうる。松本清張の処女長編であり社会派ミステリーブームの火付け的な役割という歴史的価値を差し引いても一読する価値がある。

5位 宮部みゆき『火車』新潮文庫

 たった一人の女性が行方不明になったというだけの事件のはずだった。しかし、行方不明者の探索は、やがて隠された重大な犯罪にたどり着く。ピアノ独奏曲を聴いたと思っていたらいつの間にかオーケストラの演奏を聴いていた、そんな気分である。

 物語のベースにあるのはカード破産問題だ。婚約者がカード破産した過去が知られた瞬間行方不明になってしまった、という甥からの相談に休職中の刑事が捜査に乗り出すというあらすじだが、要するに一人の女性の半生を、関係者を辿りながら明かしていく物語である。一見単調なあらすじだが、行方不明の女がただものではない。「ただの行方不明者」という字面も奇妙だが、それの奇妙さが腑に落ちてしまうほど前半のクライマックスに用意されているある事実は物語を一変させてしまう威力を持っている。興信所にでもどうぞと言いたくなる依頼は、いつのまにか謎と犯罪のにおいがプンプンするミステリーへと変貌するのだ。

 60位の『理由』でもそうだったが、宮部みゆきという作家は、現実にある社会問題からミステリーとしての謎を創造する手腕に優れている。現実から虚構を生み出す能力は、『火車』ではカード破産という誰の身にも振りかかる災難(作中では「公害のようなもの」とまで言われる)から、この小説でしかありえない特別な事件を生み出してしまったのだ。まるで日常という足場が音をたてて崩れて、恐ろしくも魅力的な虚構の世界に足を踏み入れてしまったアリスのように味わっていただきたい。


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4位 夢野久作『ドグラ・マグラ』角川文庫

 読んだ人間は一度精神に異常をきたす――『ドグラ・マグラ』をかように評した言葉がある。精神病の患者を描いたミステリーであるこの小説の、あまりに真にせまった内容が読む者の精神にまで影響を及ぼすということなのだろう。確かにこんなにも奇妙キテレツな小説はなかなかナイにしても精神に異常をきたすことはないと思うので安心されたい。現に二回読んで平気だった人間がここにいる。

 ただ、「精神に異常をきたす」といわれるのもムリないと思わせるほど異形の小説であることは確かだ。オープニングから記憶を失った青年の一人称で語られるその文体、読むほどに彼の混乱や狂気がヒシヒシと脳髄にしみこんでくるかのよう。その切なさ、狂おしさ……。自分は一体誰なのか、どうしてここ(精神病院)にいるのか……、懊悩する彼に追い討ちをかけるように妖しさと狂気に満ちた奇妙キテレツな殺人事件が語られる。そうすることが記憶を取り戻す治療になるとして。それならば、彼の言う婚約者を殺した青年とは私のことなのか、膨らむ疑問に話者は否定も肯定もしない。ただ思わせぶりな態度をとるだけで、右に寄らば左、左に寄らば右という具合に主人公も読者も不安定な状態に置かれる。ああ、果たして何が真実なのだろう、何が起こっているのだろう、そして私は誰なのだろう……。拠るべき事実がない物語、もし読む者の精神へ影響を与えるとすればかくも不安定な状態を強いられる、ある意味恐ろしい読書体験ゆえだろう。

 面白いとかつまらないとかの次元を超えた読書体験ができる、日本三大奇書の一冊である。


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3位 島田荘司『占星術殺人事件』講談社文庫

 人を殺した後、その死体をバラバラにする行為というのは、密室殺人と比べて極めて現実的である。その証拠ではないが、現実社会で密室殺人は起きないけれでもバラバラ殺人事件は起きている。それは死体をバラす行為が、死体の移動を容易にしたり身元の特定を困難にしたり、犯人にとって実用的なメリットがあるからだ。とはいうものの、ミステリー小説においてそんな安直な理由で死体をバラバラにしたら、批判こそされないものの冷ややかな目で見られることはほぼ間違いない。ミステリーにおけるバラバラ殺人を扱うということは相応の覚悟と奇想が必要なのである。

『占星術殺人事件』では娘六人が行方不明になり、一部を切り取られた死体が次々と日本各地六ヵ所で発見される。死体の切り取られた部位や発見された場所が、死んた画家が遺した手記の内容に酷似している。その手記は六人の娘の一部を使って完璧な女「アゾート」を作り上げるという計画を記したものであった。「アゾート」を作るために娘たちは殺されたのか、もちろん違う。いくらバラバラ殺人に奇抜な理由付けが必要とはいえ、オカルトに走ってはいけない。占星術や「アゾート」といった装飾に巧みに隠された真相があるのだ。そのバラバラ殺人の真相こそ『占星術殺人事件』をミステリー史に名を残す傑作たらしめている名トリックなのである。運搬のためでもなく死体の身元を隠すためでもなく、それ以上の恩恵を犯人にもたらすバラバラ殺人の理由とは何なのか。おそらくこれ以上見事なトリックは今までも、そしてこれからも現れることはないだろうと思われる傑作である。

2位 中井英夫『虚無への供物』講談社文庫

 我々がミステリー小説を読むとき、こう思っていないだろうか。「もっと面白い事件を。もっと陰惨な殺人を……!」と。極言してしまうと、ミステリー小説は人が殺されたことをある種ゲーム化して楽しむジャンルだ。人の死を、「ああでもない。こうでもない」とひねくり回すジャンルといえよう。そのジャンルの倒錯性そのものにスポットを当てたミステリーが『虚無への供物』である。

 作中で起こる変死事件は普通の事故死であったり自殺であったり、特筆すべき事件性はない。ところが、作中に登場する自称探偵たちの毒牙にかかると、たちまち恐るべき計画性に満ちた殺人事件のように「解釈」されてしまうのである。同時に、読んでいる我々も「これは殺人事件だ」と思わず宗旨替えしてしまう現象まで同時発生する。探偵たちが推理をすればするほど事件が歪められていく不思議な現象を目の当たりにしつつも、推理合戦の面白さにそれを許容してしまうし、一つの推理が否定されるたびに「次はもっと驚きに満ちた推理を」という期待までしてしまう。そして、嬉々として推理遊戯に淫する探偵の姿は、次第に読者のそれと重なってくるのであるが、探偵たちの推理が極限に達してどれもあり得そうな推理が揃った最後、明かされる真相の何と皮肉なことか。

 普通のミステリー小説として読んでも楽しめるが、その床板を外したところに黒々とした世界も足を踏み入れて欲しい。ミステリー小説にしてミステリー小説でない、「アンチ・ミステリ」と評された日本三大奇書最後の一冊である。


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1位 横溝正史『獄門島』角川文庫

 ケレン味を利かせると事件が浮世離れしたものになり、登場人物の行動もどこか機械めいてきてしまう。かといって現実に寄せすぎると地味な小説になってしまう……。今までのレビューの中で何度か触れてきたミステリーの抱える葛藤である。その葛藤を物語の中で絶妙に解消してみせる作家が横溝正史であり、その最高傑作が『獄門島』なのだろう。

 事件はケレン味たっぷりに展開される。瀬戸内海の孤島で美しくも狂った美少女が次々と殺される。死体は木に逆さに括り付けられたり吊り鐘で覆い隠されたり、事件現場には島にいる狂人の犯行を匂わせるモノがあったりと盛りだくさんだ。とはいえ、それらは物語をただ面白くする装飾物なのではない。事件の真相が明らかになれば、あらゆる要素が獄門島で起きた連続殺人事件にとって不可欠であったことが分かるのだ。ただ、それもムリにひとつにまとめたような人工臭さはまるで無い。ある出来事に対する人々の反応がまた新たな出来事を発生させるという、事件が生き物のように生成されていくような真相なのだ。メイントリックも素晴らしい。個々の殺人に用いられたトリックも面白い。しかし、真にこのミステリーの素晴らしいところは、人々の思惑の集合体としての殺人事件をかくも自然に描き出した構成にあるのではないか。

 以上、長々と分析めいたことをしてみたが、初読時は何も考えずにただ楽しめばいい。雰囲気たっぷりの舞台に没入し、大胆なトリックに驚き、そして悲劇的な結末にやるせない気持ちになる。その後に、是非とも再読することを薦めたい。登場人物一人ひとりの言動が事件にどう関与しているのか見えてくる。そして今度は恐ろしく完成された物語に慄くべきなのである。



後編に続く⇒





















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by dokusho-biyori | 2017-07-09 21:12 | バックナンバー | Comments(0)

17年07月 後編

⇒前編から続く



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『ジェノサイド』高野和明 角川文庫
 世界的規模の陰謀が進行する傍らで、そうとは知らずに、薬学を専攻する主人公が人類の未来を握る新薬の開発に邁進する。その研究を諦めかけた時に、相棒が静かに主人公に告げる名セリフ。「科学」の部分は、色んな言葉に置き換えられるような気がします。



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 本書の著者であり語り手でもあるジャコモが五歳の時――姉は七歳、妹は二歳だった――間も無く弟が生まれると、両親から知らされた。しかもその弟はちょっと特別なんだと言う。何がどう「特別」なのかを尋ねると、父親の返事は《 みんなとは少し……違うってことなんだ 》と、なんだか要領を得なかったのだけど、ジャコモにとっては初めての男の兄弟であり、今まで何かと多数決で女性陣に負けてきた彼は、遂に姉たちと対等にテレビのチャンネルを争えると大喜びし、DVDプレーヤーやチョコチップクッキーのために同盟を結ぶことを心に誓い、一緒にバスケットのチームで活躍する日を夢に見る。その浮かれようときたら《 弟が生まれるというニュースを聞いてからというもの、僕はずっと喋りっぱなしで、少しも黙っていなかった 》というぐらい。

 そして数カ月後。生れてきた男の子は、ジョバンニと名付けられ、家族で一番の人気者になった。けれどもジャコモは、自分たちが成長するに従って少しずつ少しずつ、弟の「特別」な部分が見えてくる。幼稚園に通う年頃になってもまともに歩けず、移動したい時には這ったり転がったりする。言葉も解らず数も数えられず、会話もなかなか成り立たない。でんぐりがえしすら出来ないほど首が弱いから、戦いごっこなんてもってのほかだ。

 要するに、ジョバンニは、ダウン症だった。

 という訳で、ジャコモ・マッツァリオール『弟は僕のヒーロー』(小学館/関口英子訳)は、ダウン症の弟を持った著者が、日々の暮らしの中の驚きと発見、悩みと希望を時にエッセイ風に、時に小説風に綴ったノンフィクション。特筆すべきは、弟の成長を描いている以上に、己の変化を素直に告白している点だろう。

 著者が中学生になると同時に、あれほど仲の良かった兄弟の関係に変化が現れる。例えば或る日、弟が何人かの小学生にからかわれているのを見かけたジャコモは、自分がその兄だと知られるのが嫌で、見て見ぬ振りをしてしまう。だからと言ってジョバンニへの愛情が枯れた訳ではなく、見て見ぬ振りをしている間中、心の中で彼は、弟に謝り続ける。そして帰りの道すがら、ひたすら涙を流し続ける。或いは別の日、友達が家に遊びに来ると、ジャコモはジョバンニに「部屋から出るな」とくどいほど言い聞かせて、友達の目からジョバンニを隠そうとする。

 全く同じ経験は無いとしても、ジャコモの気持ちがなんとなく分かるような気がする人は多いのではなかろうか。かく言う僕もそのくちで、しかも分かるような気がしてしまうことに、罪悪感に似た後ろめたさまで感じてしまう。さて、この感情は一体何だ?

 それはジャコモの小学校からの親友――だからジョバンニのダウン症のことも知っている――ヴィットが見事に言い当てる。実は中学に入ってからジョバンニのことをみんなに隠していると打ち明けたジャコモに対して、ヴィットは言う。《 どうして隠す必要があるのかも、俺には理解できない…… 》《 みんなにからかわれる 》《 ということは、問題は、ジョーが世間の食いものにされるってことじゃなくて、おまえ自身が世間の食いものになるのが怖いんだな 》。

 持つべきものは友、とはよく言ったもので、この会話を契機に、ジャコモの中で何かが変わり始める。更に、ジョバンニと同じハンデを抱えた人たちとの出会いが、その変化を加速させる。或るダウン症患者は言う。《 誰もがなにかしら障害を抱えてるものなんだ 》と。そして、かつてからかわれたりいじめられたりした体験を告白しながら、こう続ける。《 おかげで僕は、僕のことをいじめる連中みたいに生まれてこなかったことを神に感謝するようになったんだ 》と。

 そういった体験を重ねることで、ジャコモはやがて確信する。《 ひとは、自分に理解できないものや、恐怖を覚えるものをさげすむ傾向がある 》と。そして《 きみの作る曲は理解できないと言われたボノだって、最終的にあれほどの高みに行きついたじゃないか 》と、イギリスのミュージシャンを引き合いに出して、ジョバンニと兄弟であることを誇りに思う。

 さて、長くなったがそろそろお解り頂けたことだろう。本書は、兄の目からみたダウン症の弟の成長日記ではなく、ダウン症の弟を持ったことで成長出来た自分自身の記録なのだ。その文章は正直で誠実で、かつて弟を恥ずかしいと思っていたことも、今は誇りに感じていることも、ストレートに読者の胸に響くだろう。

 ジャコモがジョバンニの様子を撮影したショートムービーが、Youtubeで29万回も再生されたことが本書出版のきっかけになったそうで、本書と併せてご覧頂けば、マッツァリオール兄弟に一層の親しみが湧くこと請け合いだ。
http://www.youtube.com/watch?v=0v8twxPsszY


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 朝倉宏景『風が吹いたり、花が散ったり』(講談社)はフィクションだけれども、やはりハンディキャップと共に生きる人の物語。皆さん、「盲人マラソン」ってご存知ですかね。僕はテレビでチラッと見かけたことがある程度なんだけど、読んで字の如く、視覚障害を持った人が走るマラソン。勿論一人では危険極まりないから、一人一人のランナーに、健常者の伴走がつく。選手と伴走者は、輪になった一本のロープを握ってつながっている――というスポーツ。その「伴走者」を主人公にしたのが本書。

 この「伴走」というのが、単に一緒に走ればいいというほど簡単なものではなさそうで、当然ながら、選手が三時間半で走ろうとするなら、伴走者も同じ時間で走る実力があるのは最低限。更に、カーブだ段差だ坂道だと、コースの状況を的確なタイミングで分かり易く伝えなければならないし、抜いたり抜かれたりする時だって他の選手とぶつかったりしないように上手く誘導する必要がある。その他にも、給水だ折り返しだ一キロのラップが何秒だと、フツーなら見りゃ分かることを逐一言葉で伝えなきゃならない。その上、走者とは短いロープでつながっている訳だから、腕の振りや足の運びなどは、自分のペースではなく走者に合わせなきゃならない。且つ、走者をレースに集中させるために、ゼーゼーハーハーと呼吸を乱したりも出来ない。そして何よりも大切なのが、走者との信頼関係。視覚に頼れない走者は、伴走者が右と言えば右、左と言えば左に、伴走者だけを信じて動く訳で、右に動いた次の瞬間、別のランナーにぶつかりはしないか、石や空き缶などを踏みつけて捻挫しやしないか、或いはコースが間違っていやしないか、そんなこと心配しながら四二・一九五キロ走り切るなんて無理だというのは経験が無くても容易く想像出来る訳で、即ち、伴走者が右と言ったら何も考えずに右に行く。そんな信頼関係が無いとこの競技には参加出来ない。ただ走れりゃいいっていう単純なもんじゃない。

 といったこの競技の難しさと緊張感が、ピリピリと行間から伝わって来る本書、実際に競技に関わっている人に、恐らくは相当細かい取材をしたのではなかろうか。その甲斐あって、終盤のレースシーンでは、文字通り手に汗握る描写の連続。更に、そこに行きつくまでの主人公たちの信頼関係の醸成のプロセスや、暗い過去をふっ切って前に進もうとする彼らのトライ&エラーも大きな読みどころ。きっと読了する頃には、「走ってみたいな」「観てみたいな」と感じる読者が多発するに違いない。


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 視覚障害を背負った人たちの凄さを紹介する本をもう一冊。『息を聴け』(新潮社)の著者・冨田篤氏は、日本を代表する打楽器奏者。その冨田氏が、熊本県立盲学校アンサンブル部を指導した数年間の驚異の記録。

 冨田氏がいくら世界的な奏者であるとは言え、視覚障害者に教えた経験は勿論無く、初めは試行錯誤と七転び八起きの繰り返し。例えば、全盲ではなく僅かに視力が残っている弱視の生徒でさえ、木琴だのマリンバだののズラッと並んだ音版は見分けられず、どデカイ一枚の板にしか見えない。それを叩くマレットだって、いちいち手渡してやらないと握れない訳で、演奏中に別のマレットに持ち替えるなんて技を、使えるようになるとはとてもじゃないが思えない。「こうやるんだ」と手本を見せても生徒たちには見えない訳で、最初の数カ月はまさに手取り足取り四苦八苦。

 ところが或る日……。たどたどしいながらも何とか演奏らしいことが出来るようになった頃、彼らの音を聴いていた冨田氏はふと気付く。生徒たちは、自分が教えていない音を出しているぞ、と。自分が教えていないテクニックを使っているぞ、と。そして愕然とする。これは、自分の演奏の「癖」ではないか!? そうなのだ。目に頼ることが出来ない視覚障害者の生徒たちは、代わりに常人離れした耳を持っていた! その耳で、冨田氏のお手本演奏を何度も聴くうち、無意識のうちに「耳コピ」していたのだ! 世界的な奏者の奏法を!!

 実は打楽器アンサンブルのコンテストでは一般的に指揮者は置かず、演奏を始めるのも終わらせるのも、奏者同士のアイコンタクト一つでやらなければならないそうで、仮に出場するとなると、そのハードルをどう乗り越えるかが冨田氏の悩みの種だったのだけれども、生徒たちの「耳コピ」を目の当たりにした彼は瞬時に決意して彼らに告げる。《 息を聴け! 気配を感じろ! お前たちの武器はその耳だ! 》。

 こうして練習を続けた熊本県立盲学校アンサンブル部は、四年後、なんと、第28回全日本アンサンブルコンテストで金賞を受賞する。念のために言っておくと、このコンテストは障害者を対象としたものではなく、即ち、健常者に混じって出場した視覚障害者のチームが、正々堂々、金賞を勝ち獲ったのだ。

 こんなにも感動的で勇気づけられるノンフィクションなのに、本書は現在、絶版。もっと読まれるべきだし、本屋として僕も売りたい。どこか復刊してはくれんもんだろうか。


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 最後にもう一つ、復刊を強く希望したい書籍を。平山譲『4アウト』(新潮社)は、障害者野球に打ち込む選手たちを追ったノンフィクション。帯には《 一度は「3アウト」を宣告された人生。でも、まだ終わったわけじゃない――。 》とあり、恐らくそれがタイトルの由来だろう。

 登場する選手は、例えば、25歳の時に事故で右腕を肩から失った島田泰幸・27歳。やはり25歳の時に、突発性難聴で前触れも無く聴力を失った57歳の山泉邦夫。幼少期に左足神経が麻痺したまま動かなくなった26歳の谷口貴之。バスケットボールで全国大会を目指していた大学3年生の時、交通事故で右足を切断、今は義足で走り回る竹田賢仁は31歳――などなど、選手全てが何らかの障害を背負って生きており、中には一度は絶望して人生を諦めかけた者もいる。

 この選手たちが凄いんだ! 例えば、右腕を失った島田さんは、左手のグローブで捕球するや否や
《 左手にはめたグローブで球を宙に投げ上げ、その間にグローブを外して地に落とし、素手になった左手でボールだけを掴み、矢本めがけてストライクを投げてきた 》
だけでなく、なんとその間、一秒にも満たないというから、俄かには信じ難いほどの神業である。勿論、最初っからそんな離れ業が出来た訳ではない。怪我をしてから一年余りは、生きる意味を見失って家にこもっていた島田さん。もう一度《 自分で自分を褒められるように 》なりたいと願って障害者野球を始めた当初は、捕球から送球まで十秒以上もかかっていた。それから僅か数ヶ月で――中学で野球部に在籍していた経験があったとは言え――まるで漫画にでも出てきそうなスーパープレイを身につけるなんて、恐らくは、当の本人でさえ想像できなかったんじゃなかろうか。

 印象的な描写がある。その島田さんが、障害者野球チーム・東京ブルーサンダースを初めて訪れた時のこと。両親も弟も、心配半分、応援半分でグラウンドまで一緒に来ていたんだけど、最初のノックを――健常者ならどうってことない平凡なフライを――島田さんが無事キャッチした次の瞬間の両親を描いた場面だ。
《 「おとうさん、おとうさん、ヤスユキが捕ったよ」と叫びながら、幾度も夫の肩を揺すって驚喜した。ふと、とよ子は息子から目を離し、無言のままでいる夫の横顔を見た。夫は、泣いていた。事故のときも泣かなかった夫が、いま泣いていた 》。

 なんでこんなにいい本が――障害を持った人たちだけでなく、僕ら健常者にも大きな勇気を与えてくれるこんな名著が――絶版なんだ!? 書店員としては勿論、一読者、一スポーツファンとしても、復刊を強く激しく希望したい。

 とまぁ今月は図らずも、ハンディキャップを抱えていながら、それをものともせずに生きる人たちの本を、四つ立て続けに紹介することになった。これらのどの登場人物を見ても、その肉体的な、そして精神的な強さに、何か高い山でも仰ぎ見るような気持ちになるのだけれど、考えてみればハンデとは、強いからこそ課されるのである。試しに広辞苑で「ハンディキャップ」を引いてみると、《 不利な条件 》という語義は実は二番目で、その前に、《 競技などで、優劣を平均するために、優秀な者に課する負担条件 》という第一義が載っている。言われてみれば、ゴルフでも競馬でも、強い者ほど重いハンデを課されるし、将棋には強い者が最初っから飛車や角を抜く「駒落ち」がある。ハンディキャップは《 優秀な者に課される 》のである。



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『息を聴け』冨田篤 新潮社 9784103024514 1,300円+税(絶版)
『弟は僕のヒーロー』ジャコモ・マッツァリオール/ 関口英子 訳 小学館 9784093885423 1,500円+税
『火車』宮部みゆき 新潮文庫 9784101369181 990円+税
『風が吹いたり、花が散ったり』朝倉宏景 講談社 9784062205344 1,350円+税
『虚無への供物』中井英夫 講談社文庫 上9784062739955 下9784062739962 各750円+税
『獄門島』横溝正史 角川文庫 9784041304037 560円+税
『ジェノサイド』高野和明 角川文庫 上9784041011263 600円+税 下9784041011270 640円+税
『十角館の殺人』綾辻行人 講談社文庫 9784062758574 750円+税
『占星術殺人事件』島田荘司 講談社文庫 9784062775038 838円+税
『大誘拐』天藤真 創元推理文庫 9784488408091 840円+税
『D坂の殺人』江戸川乱歩 創元推理文庫 9784488401023 520円+税
『点と線』松本清張 新潮文庫 9784101109183 520円+税
『ドグラ・マグラ』夢野久作 角川文庫 上9784041366035 520円+税 下9784041366042 640円+税
『4アウト』平山譲 新潮社 9784103003717 1,400円+税(絶版)
『本陣殺人事件』横溝正史 角川文庫 9784041304082 640円+税
『魍魎の匣』京極夏彦 講談社文庫 9784062646673 1,350円+税



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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7月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-07-09 21:00 | バックナンバー | Comments(0)

17年06月 前編

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 今回取り上げた『不連続殺人事件』や『黒死館殺人事件』は該当作のみで一冊の文庫本もあるが、創元推理文庫は当時の挿絵が入っていたり、他の作品を読むことで該当作へのウォーミングアップができるということもあり、わざわざ日本探偵小説全集収録と記した。作品の雰囲気を十分に味わうことができるので是非挿絵つきで読んでいただきたい。

21位『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫

 妖しげな屋敷に招待された客が次々と不審な死を遂げる……本格ミステリーではテンプレートのような設定だ。そのテンプレートの中で雪の山荘があったり絶海の孤島の屋敷といった様々なバリエーションがあるのだが、エッフェル塔のように傾いだ屋敷で起きる連続殺人事件というのはミステリーの長い歴史でも1982年の『斜め屋敷の犯罪』を待たねばならなかった。「斜めの建築? 欠陥住宅のことかな」と思ったら大間違い。設計段階から斜めになるように運命付けられた奇妙奇天烈な屋敷なのだ。そして、その奇妙な設定の中で描かれる犯罪もまたその緻密さにおいてミステリー史上類稀な名建築といえる。

 事件は不可解を極めた密室殺人だ。古式ゆかしい針と糸のトリックでは絶対にひらくことのない堅牢な密室の中に死体が横たわっているのである。一つ二つと死体が増えていくにつれて一層堅牢になっていく密室の扉はいかに開かれるのか、という疑問と期待が膨れあがっていく。そして探偵が披露するトリックはあまりにも大胆で衝撃的で、絶対に読者は予測できないだろうと思われる。と同時に、この屋敷はどうしても傾いでいなくてはならなかったのだと、なんと大胆で緻密な設計図なのかと思い知らされる。他に類を見ないトリック、これぞ本格ミステリーと思わず叫びたくなる。


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20位『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫

 島田荘司が建てた斜めの屋敷は一人のミステリー好きの青年の心を捉え、後に彼をして奇妙な建築物を舞台にしたミステリーのシリーズを書かせることになる。その青年が綾辻行人であり、そのシリーズが彼の「館シリーズ」である。『時計館の殺人』はその五作目にあたる作品であり、日本推理作家協会賞を受賞している。

 島田荘司に感銘を受けたからといってその作風は似ていない。島田が密室の鍵をいかに開けるかという不可能犯罪の魅力で読者を魅了したのに対し、綾辻はサスペンスフルな展開の最後に明かされる衝撃の事実で読者をあっと驚かせるのだ。

 時計館とはその名の通り古今東西あらゆる時計が収集された館である。幽霊が出るといわれるその館に取材に訪れた一行が次々と殺されていくというのがあらすじだ。妖しげな降霊術が行われたり、仮面の殺人鬼が目撃されたりと物語を盛り上げる雰囲気もばっちり。次々と死体が増えていく恐怖を登場人物と共有しながら一気読みしてしまうだろう。ところどころに著者の張り巡らせた巧妙な伏線に気づきもしないで。読者が大きな勘違いをさせられていたと気づくのは全て終わった後、たったこれだけのことで犯人に騙されていたのかと思うほど単純な事、しかしそのシンプルかつ独創的な事実によって、事件の全貌がガラッと変わってしまうマジックであるからこそ騙された時の快感もひとしおなのだ。

19位「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』収録他

 坂口安吾といえば『堕落論』『白痴』など退廃文学で有名な作家だし、国語の教科書でもそういった扱いである。ところが、もしミステリー好きな少年がいたとして、彼が坂口安吾という作家に出会うのはミステリー作家として出会うことになるだろう。それほどミステリー界隈でも有名かつファンの多い作家なのである。そんな「ミステリー作家・坂口安吾」の代表作がこの『不連続殺人事件』である。「連載最終回までに真相を当てたら原稿料を差し上げます」と懸賞がかけられた作品という坂口安吾らしいエピソードを持った作品でもある。

 タイトルからして様々な憶測をさせる小説だ。不連続というからには全く別々の殺人事件が発生してそれぞれの犯人を当てなさいということなのかと思いきや、一つのコミュニティーのなかで次々と殺人事件が起こるのだから、表面上は連続殺人事件である。それがなぜ「不連続」なのか、という理由が事件の様々な要素に絡んでくる鍵であり、文豪の余技として描かれたミステリー小説などと思わせないミステリー作家・坂口安吾の独創が光る読みどころでもある。メイントリックの逆転の発想といい、犯人の心理をたどる探偵の推理のパズル性といい、そして安吾独特の諧謔的な文体といい、他では読むことのできない一風代わった本格ミステリーである。


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18位『白夜行』東野圭吾 集英社文庫

 小説においてどこまで書くか、どこまで書かないかというのは非常にデリケートな問題である。書きすぎると説明過多のつまらない小説になるし、書かな過ぎると何が起こっているのか読者が理解できなくなってしまう。その点において『白夜行』は絶妙な「書かない小説」である。

 物語の主人公は、幼少期に親を殺された二人の男女。彼らが事件後にどのように生きぬいたのかを描く長編である。ところが、物語が二人の視点で描かれることはない。常に彼らの周囲にいる人物から間接的に描かれるのである。もちろん、他人から見た二人の物語は表面の物語である。読者も始めはその表面の物語しか見えないのだが、ふとした折に浮かぶ疑惑が重なるにつれてこの物語には裏の顔があるのではないかと疑うようになる。そして、物語が進むにつれて二人が真に生きていた壮絶な(としか形容できない)人生が浮かび上がってくるのである。丁寧に説明されることはないのだが、文字で理解させられるのではなく、直感的に気づかされることによって物語の「壮絶さ」がダイレクトに働きかけてくるようである。ゾクゾクするような興奮と恐怖がそこにはある。

17位『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫

 ミステリー=殺人小説、「ミステリー小説といえば人が殺される小説」という認識のされ方をされることは多い。たしかにミステリー小説の多くが殺人事件の謎を解き明かすことを主眼にしているのだから、あながち間違いではないのだが、ミステリー小説の要は「殺人」にあるのではなく「謎」にあるのだから何も人が殺される必要なないのである。つまり人が死ななくてもミステリーたりうるのだ。例えば日常で起こるちょっとした不思議な事、この謎を解き明かすだけでも十分ミステリーたりうるのである。

 例えば紅茶にひたすら砂糖を入れ続ける学生グループの不思議、例えば座席シートだけ盗まれた車の謎、とりたてて騒ぐほどじゃないけど気になる「謎」だ。「地味だな」とお思いになるかもしれない。しかし、真相が明らかにされた瞬間、それまでの日常が裏返った時の驚きは殺人事件のそれ以上のものがある。つまり「あの謎からここまで発展するの!?」と一瞬で周りが異世界になってしまったような感覚に陥るのだ。いわゆる「日常の謎」系のミステリーの醍醐味はここにあるのだし、論理的な謎解きの快感と様々な読後感を残す展開の妙という点において『空飛ぶ馬』は収録作全てが「日常の謎」の真髄を味わわせてくれるのだ。

 また、この連作短編は主人公の大学生の青春譚としての一面も上手いので、中高生を始めとして強く薦めたい。


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16位『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫

 珍味である。登場人物も世界観も事件さえ奇妙としか言いようがないミステリー、決して不味くはないが味わうのにコツがいる。ただ、一度気に入ってしまえば病みつき、極上の美味と感じられる短編集だ。実際、私も初読時は噂ほどではないな、とガッカリしたのだが、今回再読したところ見事その味にハマってしまったのである。

 謎解きは、伏線を論理的にたどって真相にたどり着くのだが、もしその論理自体が奇妙なものだったら、あるいは伏線自体が奇妙な短編ばかりの証書は、珍味と言い表すべき小説になるのではないか。例えば第一短編の「DL2号機事件」がその好例。犯行にいたるまでの心理の軌跡は「狂人の理論」ともいうべき突拍子のないもの。しかしそれを、「常人の理論」が積み上げていくことでいつの間にか「狂人の理論」の領域に読者を引っぱっていってしまう技巧は論理のアクロバット、超絶技巧といえるだろう。他の短編も結末だけ聞いたら納得できないはずが、絶妙な舞台設定と論理で成立させてしまっている。論理遊戯というミステリーの特製を存分に活かした作品集である。

15位『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫

 特殊状況下におけるミステリーというのは色々あって、例えば70位の『七回死んだ男』では一日を何回も繰り返してしまう主人公が殺人事件を阻止しようとする小説だった。あれも強烈な設定と結末だったが、『生ける屍の死』はもっと凄い。なんと、死んだ人間が蘇るという設定のミステリーなのだ。つまり、殺人事件の被害者がむくりと起き出してその後も物語に干渉し続けるのである。しかも、死者が全て蘇る世界ではなく、流行り病的に人によって蘇ったり蘇らなかったりするのである。

「被害者が生き返るんだったら、犯人の名前を言ってもらえば一気に解決じゃん?」と思ったら大間違い。後ろから襲われたら犯人の顔は見えないし、そもそも死者だって偽証しないとは限らないのだ。誰が本当に死んだのかどこまでが容疑者なのか、そもそも死者が生き返る世界で殺人なんて意味があるのか等々、単純化どころかむしろ謎は深まるばかりなのだ。ゾンビの存在を前提にして事件は解決されなければならないのだ。つまり、人が蘇るからこそ起きる事件を人が生き返るから通用する理論で解き明かしていくという、超変化球ミステリーである。とはいえ、推理の過程は納得できる正統派、キチンとミステリー好きのストライクゾーンに入っている。

 蛇足だが、ゾンビが出てくるといってもホラー要素は皆無で、むしろおとぼけたゾンビと生者が入り乱れてコメディーの様相を呈した非常にリーダビリティーの高い作品だ。


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14位『黒死館殺人事件』小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集』収録他

 本書を読み始めるにあたって、まずまとまった休みを取ることをオススメしたい。読書なれした人なら週末を使って読みきることができるかもしれないが、それでも翌日魂が抜けている可能性もあるので三、四日は読書に集中できる環境が欲しい。次に食料を確保したほうが良い。休みの間食料の買出しなどという下らない理由で読書が中断されるのはもったいない。あとはスマホの電源を切って、お気に入りのソファーにでも座って本を開くだけだ。日本三大奇書(『匣の中の失楽』もいれて四大奇書とすることも)の一冊、『黒死館殺人事件』はそこまで体制を整える価値がある一冊だ。

 殺人事件の推理を語る時に宇宙の構造から話し始める探偵は世界広しと言えど本作の探偵・法水麟太郎くらいのものだろう。古今東西あらゆる書物に精通し、その莫大な知識を使った衒学的な推理はまさに人知を超えた超推理と呼ぶにふさわしい。しかも先のたとえのようにとんでもない方向から推理し出したりするので、推理の方法も常人とは一線を画している。他にも意味不明な詩の引用合戦を突然始めたり、墓の形象を見て梵語の話を始めたり、今までレビューしてきたミステリーの理論とは異質で独自の理論であふれている。絶対に現実では起こりえないことをも理論上可能にしてしまう超理論を楽しめるのであればこれほど面白い本はないと断言できる。

 知識の氾濫に怯んでしまうかもしれない。それでも恐々ページを開いてほしい。たとえ一度挫折したとしても、また時間をおいてまたチャレンジして欲しい。いつかこの本の面白さに嵌り、読み終えた時が来たら絶対に物の見方が変わっているはずだ。それほどの破壊力がこの本にはある。


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13位『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫

 犯人側からの視点で事件が描かれる「倒叙ミステリー」において、犯人がいかに捜査の手から逃れるかと智慧をめぐらすのは読みどころの一つである。犯人の計画が巧妙であればあるほど探偵との対決にワクワクするのだから、天才数学者と天才物理学者の探偵と対決するとあってはつまらない訳がない。

 タイトルに「献身」とあるように、やむを得ず殺人を犯してしまった母子を天才数学者が手助けして捜査当局の疑いを晴らそうと巧妙な計画を立てて遂行していく姿が描かれる。つまり、読者は犯人と手口を知りえた上で、計画にはまってしまう警察の姿にほっとしたり天才数学者・湯川学の思わせぶりな言動にハラハラしたりすることになる。ただし、それは物語の九割程度。本当の真相が明かされたときに読者は二種類の驚きを体験することになる。ひとつは数学者の立てた計画の全貌があまりにも巧妙であることに。捜査をすればするほど真相から離れていくように仕向けられた計画の何と巧妙なことか。そして、ふたつ目は「献身」の真の意味に。捜査の目くらましだけではない「献身」が明らかになったとき、思わず読み返して登場人物の言動を読み返してみたくなるに違いない。きっと見える景色が違ってくるはずだ。そう、「倒叙ミステリー」の最大の面白さは、自分は全部知っていると思いながら、気づかずにいた事実に足元をすくわれる快感なのだ。

12位「戻り川心中」連城三紀彦 光文社文庫『戻り川心中』収録

 連城三紀彦という作家は恋愛小説での方が有名かもしれない。というのも、彼が直木賞を受賞したのは『恋文』、ミステリー要素が無い純粋な恋愛小説だからだ。それほど連城作品において男女の心の機微は鮮やかに描出されているし、その文章はミステリー界屈指の美しさを誇っているのだ。「戻り川心中」はそんな著者の恋愛小説家としての才能とミステリー作家としての才能が相乗して生まれた短編である。

 まるで太宰治のように二回の心中未遂の末に自殺した天才歌人の、死に彩られた生涯が秘めた秘密を生前の友人が解き明かしていく。謎を解く鍵になるのは歌人が遺した短歌。心中から自殺までの心理の軌跡を歌った短歌集には、世間が思う意味とは別の隠された真意があったのではないかとして、短歌の舞台を訪れながら夭折の歌人の心理を分析するのだ。すると短歌の舞台を訪れ、証言を集めていくうちに歌と実際の行動との間に奇妙な齟齬があることが判明する。そこから短歌の裏の意味を推理するのだが、その過程は短歌の世界観も相まってゾクゾクするほど美しい。心中事件の真相は、自殺の真意は、そして歌人が真に愛したものとは何だったのか、やがて美しくも哀しい恋物語は全く予測不可能な真の姿を現し始める。その意外性と、そのどんでん返しを可能にする周到な伏線にただただ唖然とするばかりである。

 最後に、短編としてそれだけで成立する作品ではあるが、短編集の最後に収録されているこの作品、他の短編を読んでからの方がその美しさも意外性も一層感じられる。短編集としての構成も超一級品なので、頭から通読することを強く勧めたい。


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11位『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫

 鉄道アリバイトリックのミステリーというと、刑事が時刻表とにらめっこした挙句に意外な乗り換え方法(一旦反対方向へ向かって特急に乗り換えるとか)を発見する、みたいなYahoo!乗り換えがある現代では通用しないミステリーという印象がある。黒いトランクもアリバイトリックの古典と聞いて大したことないんだろうなと思ってしまっていたが、大間違いで大反省であった。

 鍵となるのはタイトルにもある黒いトランク。東京駅に着いたこのトランクから死体が発見されたことが事件の発端となる。やがて捜査の過程でもう一つ同型の黒いトランクの存在が浮かび上がり、二つのトランクはいつ・どの駅に存在したのか、トランクに死体が詰められたのは何処なのか、さらには死体がトランク間を移動したのではないかという疑惑まで出てきて容疑者、トランク、死体、三つのピースが複雑に入り乱れる何とも魅力的なパズルが展開されるのだ。もちろん時刻表とにらめっこする場面もあるのだが、容疑者の動きだけでなく死体も動かすことで「特殊な乗り換え」以上のトリックが可能になるのだ。更に更に、このパズルは真面目に解こうとするほどに容疑者のアリバイを堅固にしてしまうという凝った作りになっている。この時トランクがこの駅にあって、ここで死体の詰め替えがあって、という解き方から一つひねった発想が求められる。単純だけれども巧妙に隠されたひねりが本作の「アリバイものの逸品」としての名声をより確たるものにしているのだ。


⇒後編に続く



















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by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:57 | バックナンバー | Comments(0)

17年06月 後編

⇒前編から続く


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 元々は、ロシアの文豪・チェーホフが恋人だか友人だかに宛てた手紙の一節。主人公の憲太郎が、人生に迷った時、生きることに疲れた時、日々の暮らしに嫌気がさした時などに、自分に向かって呟く言葉。『草原の椅子』は、登場人物たちが、進路を塞ぐ障害物を一つずつ取りのけながらゆっくりと歩んでゆく小説。


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 トビと豚とオオカミとカモメと猫。さて、これらの動物にはある共通点があります。その共通点とは一体何でしょう? 正解者の中から抽選で百名の方に何もあげません! なんてクイズにしたところでまず当たらないだろうから答えを言っちゃうけど、白水社のペーパーバック・レーベル「白水Uブックス」を四冊続けて読んだら、たまたま動物つながりだったんだな。

 因みにこのUブックスというのは殆どが千円以下で買える上、ヤングアダルト向けの平易な文章の作品も多いので、僕のような海外文学尻ごみクラスターには是非お薦めしたいレーベルでござる。

 で、まずはトビ。トビと言えば、川崎店に勤務していた頃、江ノ島の徒歩圏内でアパート暮らしをしていたのだけれど、彼の地のトビに初めてハンバーガーをかっさらわれた時の衝撃は忘れられない。こちらの身体には全く触れず傷つけず、手に持っていたハンバーガーだけを奪っていく手腕は、喩えるならルパン三世かキャッツ・アイかといった華麗さで、被害者であるにもかかわらず「すげぇ!」と思わず感嘆の溜息を漏らした程だという話は、今回のレビューとは一切関係無い。

 ユベール・マンガレリ著/田久保麻理訳『おわりの雪』は、少年がトビをどうしても手に入れたいと思う場面で幕を開ける。そのトビは、露店の古道具屋で様々なガラクタに混じって売られていた。狭い籠の中で、時折翼を広げようとして、けれどもその度に駕籠に邪魔されて広げられずに、黙って佇んでいた。

 少年の父親は、病で伏せっている。恐らく、結構長い期間、闘病している。だから、恐らく少年の家は貧しくて、だから少年も、養老院で老人たちの散歩の介添えをして小銭を稼いでいる。母親は、夜になると出掛けていく。仕事なのか、それとも何か別の用事なのか。仕事だとしたら、どんな仕事なのか。それが明かされることは無いけれど、その度に少年の父は苛立ちを露わにする。それは自分だけが働けず家族のお荷物になっていることの不甲斐なさからなのか、それとも何か別の感情の発露なのか。

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 少年は、養老院で得た金の半分を家計に入れ、もう半分はトビを買い取るための貯金に回す。しかしその額は微々たるもので、当分トビは買えそうにない。少年はトビが元気でいるか確かめる為に、毎日、養老院からの帰り道に件の露天商を覗いて行く。そして毎晩、父親の枕元でトビの美しさを語って聞かせる。少年は、悲しい体験は胸に秘めたまま、楽しいことだけを父親にうちあける。そして父親は、少年が出くわすのが楽しい体験だけだなどとは恐らくは信じていないのだけれども、黙って話を聞いている。悲しい出来事や辛い体験を打ち明けられたところで、その傷を癒してやれないのならば、無理に聞き出しても益が無いと考えているのか、それとも、自ら語らないのはそれを乗り越えたからだと思っているのか、或いはもっと別の考えがあってのことなのか。

 物語は、余分な説明的描写をとことん排して綴られる。だから、言葉にされない部分は想像力で補いながら読み進む。ちょっと詩に似ている。ままならない現実を生きながら、人生にはどうしても避けようの無い悲しみというものがある、という事を自分に言い聞かせるようにして育つ少年の、幼い覚悟とでも言うべき胸中が痛々しくも美しい。読了後は『おわりの雪』の「おわり」が意味するところを想像して、心がシーンとなる。
《 悲しみがいつも私をつよくする
  今朝の心のペンキぬりたて 》俵万智

 お次は豚。生れたばかりの雌で、名前はピンキー。ロバート・ニュートン・ペック著/金原瑞人訳『豚の死なない日』はかなり自伝に近い小説のようで、恐らくは1940年前後のアメリカのド田舎で、小規模の農場を営む一家の話。主人公ロバートの父親は生活の為に、農業の他に村の屠畜場で豚を殺す仕事も請け負っている。

 一家は敬虔なシェーカー教徒で、奢侈を禁じる教義を厳格に守って質素に暮らす。その倹約ぶりは、例えば服はほぼ自分たちで仕立てるし、自動車はおろか自転車すらも《 なくてすむもの 》として遠ざける。だから、ロバートが隣人の農家から乳離れしたばかりの子豚を貰った時には、文字通り欣喜雀躍する。《 この世でたったひとつ、「これはぼくのだよ」そういって指さすこと 》が出来る存在として可愛がる。

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 物語全体の質朴な雰囲気は、どことなく宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を彷彿とさせるものがある。と同時に僕は、小学校の頃音楽の授業で習った『グリーングリーン』を思い出しながら読んでいた。《♪ 或る日パパと~二人で~語り合ったさ~》というあれである。

 ロバートの視点で綴られる一家の生活は、現代人にはとても耐えられそうもない程つましくて、殆ど貧乏と言ってもいいくらいだし、父親も母親も無学で自分の名前すら書けないのだけど、「生きる」為に必要な知恵や優しさは、21世紀に暮らす僕らより遥かにふんだんに持っている。

 例えば或る時、父親が隣りの農場との境の柵を修理していると、「喧嘩している訳でもないのに、どうして柵で区切るのか?」とロバートが不思議がる。父親は当然と言わんばかりに、《 柵はいがみあうためのものじゃなくて、仲良くやっていくためのものだ 》と答える。また或る時、「どうしてうちは貧しいのか」と嘆くロバートに、彼は言う。《 豊かじゃないか。互いに守るべき人がいて、耕すべき土地がある 》と。また或る時は、リンゴの木の害虫駆除に失敗したロバートを、叱り飛ばすのではなく優しく諭す。《 手間ひまを惜しむな。仕事はきちんと一回やるほうが、いいかげんに二回やるよりもいい 》と。

 こんな風に朴訥で実直な父親に対して、母親の方は彼の足りないところを全て兼ね備えたような人物で、前向きな朗らかさととっさの機転が充溢している。例えば物語の冒頭でロバートが少々大きな怪我をして傷口を縫合しなければならなくなるのだけれども、その怪我をした際にズボンもビリビリに破れてしまっていて、それを気に病むロバートに向かって言う一言。《 おまえを縫うくらいなら、ズボンを縫うほうがずっといいわ 》。或いはロバートが泥だらけで帰宅した時もこの母親は、洗濯の大変さを嘆いたりするのではなく《 雨の日に掘りだしたジャガイモみたいね 》と面白がるし、また別の日、屠畜の際の血なまぐささが身体に染みついている事を詫びる夫には、《 誠実な仕事のにおいじゃありませんか。あなたがあやまる必要はないし、わたしも聞きたくありません 》とサラリと言ってのける。

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 といった具合に、威厳とユーモアが同居したような家庭で、ロバートは、辛い局面も誇らしい出来事も経験しながら、生きる事の喜びと悲しみを学んでゆく。そして、「豚の死なない日」、父親が、或いは自分たち家族が、金持ちではないけど決して貧しくはないと気づいた時、多分、ロバートは大人になった。本当の豊かさとは何か? などと教訓めいた主題を無理に読み取ろうとするよりも、ペック一家の仲睦まじさをストレートに味わいたい。

 さて三番目はオオカミ。ダニエル・ぺナック著/末松氷海子訳『片目のオオカミ』の舞台は、どこかの動物園。そこの檻に一頭だけで飼われている青いオオカミは、十年前、妹を庇って捕らえられた際に片目を怪我して以来、あらゆる人間を憎悪している。生きる目的も楽しみも無い不毛な生活。そこに或る日、黒人の少年が現れる。オオカミの気持ちを酌んで、自分も片方の目を閉じて、ひたすらオオカミを見つめる。檻の前に立つ少年と檻の中のオオカミは、一つずつの目で、じっと見つめ合う。やがて二人(一人と一頭)は、瞳と瞳で語り合うようになる。お互いの不遇な過去や、別れなければならかった大切な存在について、問わず語りに打ち明ける。

 少年もオオカミも、今の境遇を決して自ら望んだ訳ではない。運命と一言でくくってしまうには余りに不公平な巡り合わせで、止むを得ず今の場所で生きている。それはもしかすると少年とオオカミの二人だけではなく、物語を読んでいる僕ら自身にも言えることで、勿論彼ら程には過酷な生活ではないけれど、今いる場所にうんざりして「ここではないどこか」「自分ではない誰か」を羨望して、そして「今いる場所」「今の自分」を諦めてしまった経験が、誰でも一度や二度はあるだろう。

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 物語は、例えばオオカミが野生に戻るみたいな安易なハッピーエンドは用意していない。けれども少年は、諦める代わりに変化させようとする。「今いる場所」から動くことが出来ないならば、そこで可能な限りの愉しみや喜びを見出そうとする。

 かの夏目漱石も『草枕』の冒頭で言っている。《 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ 》と。運命は自分で切り開く、なんて大上段に構えるのではなく、今いる場所でも工夫次第で少しは生きやすくなるんじゃね? という気にさせてくれる本。

 そして最後はカモメと猫。ルイス・セプルペダ著/河野万里子訳『カモメに飛ぶことを教えた猫』は、以前にも紹介したことがあるような気がするのだけど、実は今こそ、即ち国の内外を問わず排他的な空気がじわじわと広がって、自分とは違う者を個性として尊重するのではなく異端者として排除するべきだという論調が勢いを増している今こそ、多くの人に読んで欲しい本。

 舞台はドイツのハンブルク。或る日、黒猫ゾルバが出会った瀕死のカモメ。彼女は死ぬ間際に卵を産み落とし、ゾルバは、卵をかえして雛に飛び方を教えることを約束する。とは言え、勿論ゾルバにカモメの子守なんぞ解る訳はなく、フォルトゥナータ(=幸運な者)と名付けた雛を、彼は港の猫仲間たちと一緒に四苦八苦しながら育ててゆく。

 ところが、フォルトゥナータは、猫に囲まれて育ったが故に自分も猫だと言い張って、いつまで経っても飛ぼうとしない。そこでゾルバは、静かに優しく言って聞かせる。

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《 ぼくたちはみんな、きみを愛している、フォルトゥナータ。たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、美しいすてきなカモメだからこそ、愛しているんだよ 》

《 これまできみが、自分を猫だと言うのを黙って聞いていたのは、きみがぼくたちのようになりたいと思ってくれることがうれしかったからだ 》

《 でもほんとうは、きみは猫じゃない。きみはぼくたちとは違っていて、だからこそぼくたちはきみを愛している 》

《 きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれが、できるようになった 》

 金子みすゞ風に言えば《 みんなちがって、みんないい 》ってところでしょうか。国家や民族といった大きな違いから、性格や趣味嗜好といった個人的なことまで、ゾルバのように《自分とは違っている者を認め、尊重し、愛すること 》が出来るようになれば、きっと世の中の嫌なニュースは半減するんじゃないだろうか。

 小一時間もあれば読めてしまう話だけど、児童向けと侮る勿れ。涙腺の弱い人はきっと泣かされるに違いない。一度読んだら二度読みたくなって、二度読んだらきっと三度目も読みたくなる、素敵な友情の物語。


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『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫 9784488402143 800円+税
『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫 9784488416010 1,200円+税
『おわりの雪』ユベール・マンガレリ/田久保麻理[訳] 白水Uブックス 9784560071823 950円+税
『片目のオオカミ』ダニエル・ペナック/末松氷海子[訳] 白水Uブックス 9784560071618 850円+税
『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ/河野万里子訳[訳] 白水Uブックス 9784560071519 800円+税
『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫 9784488403034 760円+税
「黒死館殺人事件」小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集 6』所収 9784488400064 1,200円+税
『草原の椅子』宮本輝 幻冬舎文庫 上9784344401006 600円+税 下9784344401013 648円+税
『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫 9784488413019 680円+税
『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫 上9784062772945 下9784062772952 各690円+税
『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫 9784062932653 800円+税
『白夜行』東野圭吾 集英社文庫 9784087474398 1,000円+税
『豚の死なない日』ロバート・ニュートン・ペック/金原瑞人[訳] 白水Uブックス 9784560071328 900円+税
「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集 10』所収 9784488400101 1,200円+税
『戻り川心中』連城三紀彦 光文社文庫 9784334740009 533円+税
『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫 9784167110123 670円+税



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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6月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:29 | バックナンバー | Comments(0)

17年05月 前編

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 今回、最も入手に苦労したのが『人形はなぜ殺される』だった。近所の大型書店に行ってもどこも置いていないし、営業先で探してもなかなか見つからなかったのだ。一応、まだ版元品切れにはなっていないようだが、このままだと再び絶版の憂き目も近いだろう。しかし、これほど素晴らしいミステリーが新刊で手に入らなくなるのは誇張でなく日本ミステリー界における大きな損失になる。ということで、ぜひ気になった人は書店で買って欲しい。面白さは保障済みである。

31位 水上勉『飢餓海峡』新潮文庫
 日々の暮らしに何となくの物足りなさは感じていたとしても、徹底的な欠乏感、飢餓感を覚えることは現代では稀だろう。ところが、つい60年ほど前まではこの国全体が絶対的な飢餓感で覆われていた。本書の犯人はそのなかでも圧倒的な飢餓感に突き動かされた人物だ。食べ物の欠乏だけではなく、金や地位、名誉といったあらゆるものへの渇望が、壮大な犯罪人生を彼に歩ませることになる。

 事件の発端は青函連絡船の転覆事故。多数の死者の中に乗客名簿にない二人の死体が発見される。同日札幌では強盗殺人が発生し、犯人が証拠隠滅を図った放火が街を焼き尽くす大火となっていた。二つの事件の関係性を疑い出した警察は、ある一人の男の存在にたどり着く。犯人もトリックも早い段階で明らかにされ、物語の大半は犯人の足跡をたどる刑事たちの執念の捜査に費やされる。この執念の捜査が一歩一歩犯人に近づいていく過程も読みどころなのだが、ちょっと視点を変えれば事件の捜査はすなわち、犯人の人生をたどる行為だと気づく。戦後の混乱期において一人の男が圧倒的な飢餓感に身を焦がすように生きてきた、壮絶な人生が浮かび上がってくるのである。

 全てを失った国において、全てを失った男が多くのものを手にしながら起こしてしまった悲劇の事件。10年に及ぶ捜査期間は一つの事件を追うには長すぎるだろうが、一人の男の人生をたどるには必要な時間だったのかもしれない。


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30位 山田風太郎『妖異金瓶梅』角川文庫
 山田風太郎のミステリーはその先進的なアイディアにおいて、多くのミステリー作家たちに影響を与えながらも「トリックの先取り」という点では後進を苦しめてきた(と思われる)。90位の『明治断頭台』、48位の『太陽黒点』などのメイントリックは「これを最初に思いついたのが自分だったら……」と悔やんだ小説家は何人いるだろう。この「トリックの先取り」において最も強烈なのがこの『妖異金瓶梅』である。あまりに大胆不敵なトリックにおどろいて、椅子から体がずり落ちた上に眼鏡もずり落ちたほどである。もちろん、どんなトリックなのかは明かさないが、連作形式の本書を第二章まで読み終えたとたん、この小説は異次元のミステリーに変貌するのだ、とだけ明記しておこう。

 ただ、メイントリックにばかり気をとられるのはもったいない。短編個々のトリックも十分すぎるほど素晴らしく、「赤い靴」などはオールタイムベスト級の傑作である。というより、メイントリックのおかげで短編一つ一つのトリックがじっくり楽しめる構造になっていて、読者は「次はどういうトリックを見せてくれるのだろう」と期待しながら次から次へとページを捲り続けることが運命づけられている。

 ちなみに、本書は中国四大奇書(場合によっては三大奇書)に数えられる『金瓶梅』『水滸伝』をベースにしながら書かれたミステリーである。北宋時代の大富豪・西門慶の屋敷で次々と起こる事件の謎を描きながら、武松などの梁山泊一派の影もちらつく。つまり、山田風太郎お得意の伝奇小説テイストも楽しめるのだ。山風エッセンスが凝縮された大傑作である。


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29位 高村薫『レディ・ジョーカー』 新潮文庫
 恐ろしく多種多様な要素を含んだ小説である。もちろん、主軸となるのは「レディ・ジョーカー」と名乗る犯罪集団が起こす誘拐事件と企業恐喝とはっきり分かる。ただ、そこからいくつもの物語が派生的に語られることになる。事件を捜査する警察の物語はもちろん、事件を追う記者、恐喝に脅かされる企業の経営陣、経済界の闇の部分……、様々な登場人物が「レディ・ジョーカー事件」を中心にそれぞれ全く違った思惑で行動する。企業恐喝だけでも十分大きな事件だが、著者はさらに踏み込んで事件が巻き起こすあらゆる波紋を描き、日本全土を巻き込んだ壮大なうねりを描いている。

 物語は壮大とはいえ、分解されれば結局個々の物語の集合だ。犯罪者たち、捜査本部の刑事、企業の社長、新聞記者、それぞれの視点を行き来しながら「レディ・ジョーカー事件」は語られる。まるで、テレビ番組をザッピングするように。犯人に翻弄される人々がいたり、犯人の思惑とは関係なく事件と関わる人物がいたり、個々の思惑が錯綜する様がリアリティたっぷりに描かれている。事件を犯罪者と警察の単純な二項対立として描くのではなく、事件の周辺人物たちの群像劇をして描いたことが、陰謀入り乱れる予測不可能な物語を完成させたのだ。

 最後に本書を読むにあたって、「レディ・ジョーカー事件」が「グリコ・森永事件」をモデルにしていることと、仕手株、総会屋といった言葉の意味は理解しておいたほうが物語を十分に楽しめることを指摘しておく。

28位 高木彬光『人形はなぜ殺される』 光文社文庫
 人が殺された時、怨恨だったり遺産目当てだったり、それ相応の理由が用意されているのがミステリーの約束事で、必ずと言っていいほど動機は論点に挙がる。「人はなぜ殺される」これは至極まっとうな疑問であり、いまさら鹿爪らしい顔で問いを発してもなんら新鮮味はない。しかし、殺されるのが人形ならば? 殺人事件の直前に人形が殺されていたとしたら、――人形はなぜ殺される、この問いは小説の焦点になるほどの重大な疑問になるのである。

 殺人事件と人形の消失を絡めた小説はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を筆頭に数多く生み出されてきた。しかし、それらの多くは殺人事件の装飾物であり雰囲気作りに一役買っている程度だった。それもそのはず、殺人を実行する人間がわざわざ人形をいじる必要はないのだから。つまり、いわばミステリー小説の余剰ともいえる要素を見事にトリックとして仕立て上げたのが本書である。人形とすり替えられた首、列車に轢かれる人形、見事なトリックに必要不可欠なのだ。32位の『刺青殺人事件』でもモチーフとトリックの両立を成し遂げていたが、本作でも人形が醸すミステリアスな雰囲気とトリックが見事に調和している。心地よい作品世界に浸っていたら、その舞台設定そのものに驚かされる、ミステリー好きには至高の体験が約束された作品。


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27位 江戸川乱歩『孤島の鬼』 創元推理文庫ほか
 日本探偵小説の父といわれている江戸川乱歩だが、その業績を一冊の本に凝縮したとしたら、本書になるだろう。本格ミステリーの謎解きと読み物としての面白さを日本的な作品風土の中で実現したのが『孤島の鬼』なのだ。

 物語は二部構成になっている。前半は東京を舞台に連続殺人事件を描いたミステリー。密室殺人に衆人環視下での殺人と「ザ・本格ミステリー」な事件を素人探偵が解決する。驚きの真相が明らかになった瞬間、新たな謎が提示されて、主人公は孤島へと赴くことになる。そして、妖しげな一家が支配する孤島においてサスペンスフルな宝探しが始まる。そう、探偵の推理はいつものように物語に終止符を打つ役割を果たさない。むしろ殺人事件に隠された大きな闇を探り当て、物語を大きく展開させるために探偵は推理するのである。前半の殺人事件を解決することで巨悪と対峙する後半があるのであり、後半があるからこそあのトリックが成立しうる、見事としか言いようのない「メビウスの輪」のような構造が、探偵の推理によって成り立っているのである。

 異なる性質の物語が巧みな筆によって描かれる物語。本格ミステリーにサスペンス、そして猟奇性といった所謂「江戸川乱歩的なもの」のフルコースを味わえる作品だ。

26位 原寮『私が殺した少女』 ハヤカワ文庫
 概してハードボイルド小説の主人公は不運であるように思われるが、本書の主人公はそれを自覚した上で自身の運命をこう表現している。「まるで拾った宝くじが当たったような不運」。主人公である私立探偵の不運は誘拐事件に巻き込まれたことから始まる。それは何ともアクロバティックな巻き込まれ方で、犯人が身代金の受け渡しに主人公を指名したのである。もちろん、誘拐被害者の一家とは面識も何もない主人公である。指名される理由は分からないものの、受け渡し役を引き受け不運の泥沼に入り込んでいくことになる……。

 冒頭の誘拐事件に関してだらだら筆を費やすことはしない。この順位の小説で誘拐モノがつまらない訳がないし、なにより誘拐事件は早々に決着してしまう。物語のメインはその後の誘拐事件の真相究明にある。被害者の親族から誘拐事件の継続捜査(厳密にはやや違うが簡略化)を依頼された主人公が、依頼主の親族四人が誘拐事件に関わっていないかを調査しつつ、事件の真相にたどり着こうとするのがこの物語のメインだ。依頼の趣旨は「四人が事件に関して潔白であることを調べて欲しい」というものだが、それぞれの関与を調べるにつれて「誘拐被害者一家」が抱える問題・事情etcが明らかにされる。そして、その調査結果から次第に事件の真相も明らかになるのである。人を描きながら事件も描く、見事な構成である。調査ものの醍醐味とミステリーの驚き、ハードボイルドのカッコ良さが全て詰った一冊だ。


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25位 松本清張『砂の器』 新潮文庫
 発端は身元不明の死体が線路の上で発見された事件。手がかりは事件直前に若い男と被害者が飲み屋で話しこんでいたという目撃情報のみ。警察はわずかな手がかりをもとに被害者の身元特定、そして犯人の特定にのりだす。しかし、インターネットもテレビもない時代のことだ。我々の想像もつかないほど被害者の身元を特定するのは困難を極めるのだった。

 マスメディアが発達していなかった舞台だからこそ、刑事の個々の執念が光る。彼らの執念が浮き立てば浮き立つほど、読者も近づいては遠のく真相のとりこになってしまうのだ。なにせ解明すべき謎は山ほどある。被害者の身元、犯人との接点、犯行の動機、そして真犯人の正体……。これらすべてが警察の捜査を描くことによって明かされるのではない。並行して描かれる前衛芸術家たちの物語が事件捜査と交叉し始めた瞬間から事件は真相の断片を現し始めるのだ。泥臭い事件捜査の世界とハイカラな若い芸術家たちの世界を交叉させ、事件を形作る複雑な人間関係の綾が解き明かされていく過程は見事としか言いようがない。執念の捜査で明らかにする事件の真相、まとめてしまえばこれだけだが、熱量を感じる執念の書き方、単純な様で計算された事件の構造に引き込まれてしまうのは必至だ。

24位 江戸川乱歩「二銭銅貨」 文春文庫『江戸川乱歩傑作選 獣』収録
 たった二枚の銅貨からここまで話が膨らむものなのか。ざっくり話の筋を説明すれば、帝大の貧乏学生が二枚の銅貨から推理に推理を重ねて大金の隠し場所を探し当てるという、いわば「論理のわらしべ長者」。この小説が乱歩のデビュー作であり、「本格的な探偵小説を書いてやる」という意気込みを感じる短編に仕上がっている。謎解きよりも怪奇色が強かった「変格探偵小説」が多かった当時、論理性を重視した作品を世に送り出すことは乱歩の強い願望だったに違いない。それはこの小説がほとんど探偵役の台詞、つまり推理で成り立っていることが表している。銅貨の発見からどのような思考の筋道をたどって金のありかを突き止めたのか、探偵の思考をたどることが物語になっているのである。物語に謎があって推理をするのではない。謎を推理をすることが謎を生み、その謎を推理することでまた謎が生まれていく……、まさに推理をすることそれ自体が物語となった、最高度に純度の高い探偵小説だ。ミステリーを読む醍醐味が最も体感しやすい小説の一つといえよう。

 「純粋に論理的な小説? なんだか難しそう……」と思われたなら謝らねばなるまい。要するに「一人の男が語る、地に足ついた妄想話」だと思ってもらって間違いない。抜群に面白い妄想であることは約束する。


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23位 京極夏彦『姑獲鳥の夏』 講談社文庫
 この作品がミステリー界に与えた衝撃は計り知れなかっただろうと思う。それも全てあの「驚愕の真相」にあるのだが、この「驚愕」の意味合いが他のミステリーの宣伝文句と違っている。賛否両論、まさに未知のジャンルと遭遇した戸惑いを含んだ驚愕だったのだ。

 京極夏彦はこの作品で一種の実験をしたのではないかと考えている。それは科学的、哲学的な知識や論理を極限まで突き詰めたうえでしか構築できないトリックは可能かという実験だ。冒頭で京極堂と関口が交わす(京極堂がレクチャーする?)認識論や記憶に関する問答を長々と繰り広げるのであるが、あれは「驚愕のトリック」を成立させるための土壌を読者の中に作る準備作業であり、SF小説であれば作品世界の説明に当たるものだったのだ。この論理の土壌なしにして真相のみを知ったのであれば、あのトリックは「トンデモトリック」として相手にすらされないだろう。しかし、京極堂のレクチャーによって論理の土壌が出来上がっている読者は(賛否こそはあれ)あの真相を理解できてしまう。と、同時にこの本が今まで体験したことのない種類のミステリーだったことに気づくのだ。

 賛否両論巻き起こしたミステリー、これが成功したか否かはこれがシリーズ化し、非常な人気を博している事実が答えになっている。

22位 有栖川有栖『双頭の悪魔』 創元推理文庫
「読者への挑戦状」、探偵が真相を語り出す直前にはさまれる、「ここまで読めば真相に到達することはできる。さあ、読者よ推理したまえ」といった主旨のページ。これが本書では都合三回も繰り返される。なぜ三回も繰り返されるのか、それはこのミステリーが三段ロケットのような構造になっているからなのと、それだけフェアな論理を展開できると著者が自負しているからだ。

「学生アリスシリーズ」の第三作目にあたる本作は、おなじみの推理小説研究会のメンバーが、奇しくも二グループに分かれて事件に遭遇する。完全に連絡が途絶えてしまった状況でそれぞれに事件の真相を解明するのである。つまり、名探偵役の江神二郎が不在のグループ(有栖川、織田、望月)もディスカッションを重ねながら犯人の名前を言い当てるのである。探偵・江神の明晰な推理もいいが、行きつ戻りつのディスカッションも面白い。もちろん、「読者への挑戦状」を挟んだ後の解決編になるので、両者とも鮮やかな論理で犯人を言い当てる。

 以上で終わったとしても十分ミステリーとして満足な作品だが、この二つの事件が解明された後にも「読者への挑戦状」は突きつけられる。そう、コトは二つの事件を個別に解決して終わりではなかったのだ。第一、第二の解決編の後、安心しきっていた読者は最後の最後に最も驚くべき推理を江神の口から聞くことになる。論理の美しさもさることながら、事件の構想も練られた本格推理の一つの完成型である。



後編に続く⇒



















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by dokusho-biyori | 2017-05-03 08:59 | バックナンバー | Comments(2)

17年05月 後編

⇒前編から続く


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 ここのところ珍しく、立て続けに翻訳ものばかり読んでいてしかもアタリばっかりだったから、今回はそれらをまとめて紹介したい。

 キルメン・ウリベ『ムシェ』(金子奈美訳/白水社)は、ずーっとフィクションだと思っていたけど、実在の人物に材を取った半ばノンフィクションだった。「ムシェ」とは、その人物の名前。

 冒頭は、悪名高きゲルニカ爆撃の描写だからスペイン内戦の話かと思ったらそうではなく、スペイン内戦から第二次世界大戦の終了までを、ベルギーの文学青年ロベール・ムシェとその家族、友人の目を通して描いた物語。ではそのムシェとは何者か? サブタイトルに《 小さな英雄の物語 》とある通り、恐らくはどこの国の歴史教科書にも登場はしないけど確かに存在した筈の、当時大勢いたであろう勇気と善意を兼ね備えた一市民。

 その半生は、例えば内戦が激化するスペインからの疎開児童を引き取ったり、その内戦を記者となって取材したり、ナチスによって第二次世界大戦の幕が切って落とされると、ベルギー国軍に徴兵されて前線で戦ったり、負傷して後送され入院したりする。そして、ベルギーがナチスに屈した後、占領下の見せかけの平和の中で生涯の伴侶ヴィックと結ばれ、子宝にも恵まれ、一時的ながらも幸せな生活を手に入れる。

 といったところまでが物語の前半分。そしてここで、「ところが」という接続詞を使わなければならないのがとても残念。物語の後半で展開するのは、「小さな英雄」という称号に相応しいムシェの、そして彼の妻ヴィックの生き方。「自分がその立場だったら、同じ事が出来るか?」と何度も自問しながら読み進めたのだけれど、勿論、考えるまでもなく俺には無理。

 ムシェは、占領下のベルギーでレジスタンスに身を投じる。資金を集め、時には自ら軍用列車に爆薬を仕掛ける。そして、親衛隊に捕まり、強制収容所に送られる。


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 この間のムシェの行動も英雄的なんだけれども、僕はそれ以上に、ムシェの生還を信じ続ける妻ヴィックの気概とか愛情とか健気さとかに、強く心を揺さぶられた。ムシェがどこかで生きていると、そして必ず我が家に帰って来ると信じて、彼に話しかけるつもりで綴った日記が現存するんだけれども、そしてその一部が本書にも引用されているんだけれども、それを読んで胸打たれない者が果たしていようか? いや、いない(反語)。「小さな英雄」とは、だから、一人ムシェだけを指す言葉ではないんだろうな。

 そして全編を通して、当たり前だけど、やっぱり戦争は愚かで無残で悲しいな、と。それぞれの国が掲げるそれぞれの「正義」の名の下に、人々の文化も生活も幸せも未来も、木端微塵に吹き飛ばしてしまうのが戦争であり、本書の爆撃砲撃虐殺の描写と、つい最近ニュースで目にしたシリアの惨状がどうしても重なって、そんな「正義」なら要らん! と、どこの誰にともなく強く激しく訴えたい。

 岡倉覚三(天心)が、『茶の本』の中で言っている。
《 Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war.――われわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう 》と。
或いは、ジョン・レノンだって『Happy Xmas』で歌っている。
《 War is over if you want it.――みんなが望めば戦争は終わるよ 》と。

 本書カバーの写真は、その後の運命も知らずに家族でくつろぐ、在りし日のムシェ一家。こういう幸せを燃やしつくしてしまうのが戦争なんだと、改めて痛感させられた読書だった。


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 同じ時代の作品をもう一つ。物語が展開する場所も時代も作中で名言されている訳ではないけれど、著者の出自などから、ナチスドイツに蹂躙されていた頃のハンガリーが舞台だろうと言われてます。

 という程度の予備知識しか持たずに手に取ったアゴタ・クリストフ『悪童日記』(掘茂樹訳/ハヤカワepi文庫)は、戦火を逃れて疎遠だった祖母の家に疎開してきた双子の男の子(十歳ぐらい?)たちが主人公。戦争の影響で学校が閉鎖されてしまったため、文章の練習のために彼らが自主的に書き継いだ日記、という体裁をとる作品。主役の双子は、乱暴な喩え方をすると、野坂昭如『火垂るの墓』の清太・節子兄妹をもっとずる賢くタフで冷酷非情にした感じ。

 例えば、母を思い出す度に辛い思いをしなくて済むようにと、彼らがとった行動は……母の優しい言葉の数々を何度も何度も繰り返し口にする。《 私の愛しい子! 最愛の子! 大好きよ……けっして離れないわ 》と。そうやって飽きるまで繰り返すことで、思い出すことによる痛みを麻痺させる。……たかだか十歳かそこらの子どもに、なんちゅーことをさせんねん、戦争は(泣)。

 右はほんの一例で、過酷な環境を乗り切る為に彼らは彼らなりの倫理観を養いながら育っていくんだけども、その行動が僕の目には独善だったり無慈悲だったりに映ることが実は多々ある。でも、周囲に叱ったり導いたりしてくれる大人がいない以上、それもやむを得ないのかなと感じると同時に、先々どんな大人になってしまうんだろうと考えると、憐れでもあり恐ろしくもある。『論語』の《 思いて学ばざれば則ち殆し(思而不学則殆)》を嫌でも想起してしまう。勿論、彼らの「殆さ(あやうさ)」は彼らのせいではなく、やはり戦争が悪いのだけれども。


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 次は北欧はアイスランド発のミステリー。ラグナル・ヨナソン『雪盲』(吉田薫訳/小学館文庫)は、五月九日発売のピカピカの新刊。

 舞台はアイスランドの田舎町シグルフィヨルズル。主人公は、新人警察官のアリ=トウル・アラソン。

 というカタカナを聞いただけで敬遠してはいけない。確かに他にも、パトレクスフィヨルズルだのホウラヴェグルだのといった日本人には馴染み難すぎる地名や、フロルフュルだのカルトゥルだのウールヴルだのといった、男か女かの判別も出来ない人名が沢山出てくるけど、特に人物については著者の描き分けがしっかりしていて、あと多分翻訳もこなれていて、最初の印象よりも遥かに読みやすいことに驚く筈だ。

 で、そのストーリーはと言うと、アリ=トウルが警察官になったのは別に正義感あってのことではなく、不況が長引く中で他に働き口が無かったというだけの動機。だから首都レイキャヴィークからシグルフィヨルズルに引っ越すことも想定外だったし、結婚も視野に入れていた恋人が一緒に来てくれないのも想定外だし、赴任先がとんでもない田舎だったのもアイスランドでも有数の豪雪地帯だったのも想定外。つまり彼は、着任した時点で既に半ば後悔しており溌剌としたルーキーらしさが全然無い(笑)。おまけに、田舎すぎて事件らしい事件も全く無いから、仕事に遣り甲斐も感じていない。

 が、或る日、アイスランドの国民的作家が階段から転落死する。何も起こらないことに慣れ切った上司は「事故」として簡単に処理を進めるが、幾つかの不自然な点が気になったアリ=トウルは、独断で死者の近辺を探り始める。

 そして数日後、彼は夜中にふと目を覚ます。《 階下で床板がきしむ音がした。突然、目が覚めた理由がわかった。家の中に誰かいるのだ。自分以外の誰かが 》。という辺りまでで物語の約三分の一。

 以降、雪に閉ざされた最果ての薄暗さの中で、アリ=トウルの地味で孤独な捜査が進んでゆく訳だけれども、田舎町特有の人間関係や、住人たちそれぞれが抱える屈折した過去へのこだわりが薄紙を剥ぐようにじわじわと明らかにされてゆく過程は、極端な起承転結や派手などんでん返しは無いのに飽きさせない。おまけに、新天地でのアリ=トウルの仄かな恋という読ませどころもあって、最後まで滞ること無く読了した。著者は新人らしいけど今後も楽しみ。


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 最後にもう一つ北欧の作品を。『満開の栗の木』(柳沢由実子訳/小学館文庫)の著者カーリン・アルヴテーゲンは、スウェーデンで一番人気の作家だそうだけど、ゴメン俺はちっとも知らなかった。

 視点は主に二人。アンダシュ・ストランドベリ(♂)は四十代半ばにして大成功している実業家で、お金には全く不自由していない大富豪。にも関わらずと言うか、だからこそと言うべきか、強烈な虚無感を抱いて自殺をはかり、しかし運よく大した怪我もせずに命拾いする。

 そんな彼がふとした気まぐれから訪れた山村のさびれたホテルのオーナーが、もう一人の主人公ヘレーナ(♀)。半年前に離婚したばかりでその傷は未だに癒えず、しかも反抗期の娘との断絶にも悩みながら、希望を持てずに鬱々と日々を浪費している。

 で、この二人が出会って何が起こるかと言うと、実は特別な事は何も起こらない。アンダシュは、うんざりするような現実を逃れる為に、素性を隠してホテルに住み込みの大工として働き始める。そして《 なにか新しいことが目の前に現れたら、必ずやってみること 》と自分に誓って、人生の寄り道をスタートさせる。

 ヘレーナは相変わらず娘の反抗に手を焼き、底意地の悪い隣人との付き合いに悩まされ、狭い村社会の噂好きな人々に苛立ち、そして、自分を捨てて去った元・夫への恨みつらみが、心の中で不完全燃焼のまま常に燻っている。

 この二人が急速に恋に落ちたりするのかと思ったらそんな安易な展開にはならず、かと言って殺人などの事件も起こらず、ホテルの経営を立て直すお仕事小説になる訳でもなく、ならば何が描かれるのかと言うと、森の中のボロ小屋に住む奇妙な老人との出会いをきっかけに、アンダシュとヘレーナが各々の過去を振り返り、否定してきた考え方を許容したり、拒否してきた人物を受け入れたりする姿が、抑制の利いた筆致で綴られる。


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 例えば三角錐という立体を見る時、真横からだけしか見なければそれは三角形にしか見えないし、下からしか見なければ今度はそれは円にしか見えないだろう。見ている物は同じ三角錐であるにも関わらず、見る角度によってまるで違う形に見えてしまう。そして、自分が見ている角度だけが唯一正しい見方だと頑なに信じている限り、その人にはその立体の真の姿は絶対に分からない。

 本書を読んで強く思ったのは、ひょっとして人生にも同じような理屈が当てはまるのではないか? ということ。

 仕事や学校や家庭や地域や血縁など、様々なシーンで出逢う人間関係や事象に於いて、自分の見方に固執する余り、その物事の本質を見誤っていることが、即ち三角錐を三角形や円だと思い込んでいるのと同じような過ちが、僕たちの日常には溢れていたりはしないだろうか?

 アンダシュとヘレーナは、雪深い田舎の自然の中で、徐々に徐々に、そのことに気がついてゆく。そして一度気がつくことが出来れば、忌わしく呪わしかった筈の過去や、煩わしいだけのものだった人間関係が、別の形に見えてくる。過ちや失敗の原因が自分にあると認めたくないが故に、偏った角度でしか見ようとしていなかった物事の真の姿を見つめることで、彼らは少しずつ自らを縛っていた鎖を断ち切ってゆく。そのプロセスが、穏やかで気持ちがいい。

 物語は、もうほんの少しだけ先の展開が知りたい、というぐらいのところで、漸く訪れた遅い春の兆しとともに静かに終わる。アンダシュとヘレーナのその後の人生を想像しながら、馥郁とした余韻に長く浸れる読書になった。



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『悪童日記』アゴタ・クリストフ/堀茂樹 訳
『姑獲鳥の夏』京極夏彦
『江戸川乱歩傑作選 獣』江戸川乱歩 著/桜庭一樹 編
『飢餓海峡』水上勉
『孤島の鬼』江戸川乱歩
『砂の器』松本清張
『雪盲』ラグナル・ヨナソン/吉田薫 訳
『双頭の悪魔』有栖川有栖
『人形はなぜ殺される』高木彬光
『満開の栗の木』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由実子 訳
『ムシェ』キルメン・ウリベ/金子奈美 訳
『妖異金瓶梅』山田風太郎
『レディ・ジョーカー』髙村薫
『私が殺した少女』原尞


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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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5月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-05-03 08:35 | バックナンバー | Comments(0)

17年04月 前編

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 春ですね。新入学、新社会人。新しい土地で新しい生活がスタートした方もいらっしゃるのではないでしょうか。この春から津田沼での生活がはじまりましたという方、はじめまして。よろしくどうぞご贔屓に。近年、津田沼駅周辺もかなり開けてきて、最近では住みたい街的なランキングに登場するようになったようですね。
 
 さて「春ですね」とか言っておいて私が今回ご紹介するのはホラー作品です(※ 私の紹介文ではたいして怖くないとは思いますが、念のため苦手な方はご注意ください )。
 
 ホラー作品は好んでは読まないけど、普段はそこまで苦手ではないのですが、書評で手元に置いておきたくない、本棚に並んでいるのも嫌などと言われる本作。読んだらやっぱり怖かった……。わかっていたけど怖かった……。この手の作品はネタバレすると面白くなくなると思われるかもしれませんが、多少内容を把握していた方が心の準備ができていいかもしれません。ネタバレしても怖い自信があります。
 
 ただ「怖い」と言っても性質が他のホラー作品と違うかんじがするのです。
 
 はじまりは小説家の「私」の元へ届いた読者からの一通の手紙。「誰もいない和室から畳を擦るような音がする」。その手紙の内容に興味を持った「私」は差出人の久保さんと連絡を取り、久保さん宅の怪異を調べはじめます。すると、怪異は久保さんの部屋だけではなく、同じマンションに住む別の住人の部屋や近くの団地にも起きていることがわかってきます。調べていくうちに怪異はその「土地」に刻まれ残ってきた、歴史に関係しているのではないかという仮説に辿り着きます。住人が変わっても、建物が変わっても続く怪異。土地の記憶という穢れの発端はどこなのか――。
 
 まず「私」はこれといった怖い思いや気持ち悪いと感じる出来事を体験していません。取材によって、当地の住民や所縁のある人々から話を聞いて、それを元に久保さん宅に現れた怪異の経緯と、その奥にある真実を探っているだけです。要は地域に伝わるよくある怪談話を拾い集めているだけ。なのに何故怖いのか。
 
 ホラー映画やゲームなんかでは、背後から忍び寄る影、見なきゃいいのにゆっくり振り返る、と急に大きな音とともに画面いっぱいにドン! と得体の知れないモノが出てきて、キャー!!! みたいなイメージですが、この作品にはそれがありません。読みながらじわりじわりとまるで染みが広がるように怖くなり、怪異の正体が明らかになるにつれ、ヒュッと寒くなり自分の足元が不安になる。
 
 それは知らずに自分も穢れに触れているかもしれないことに読者が気付くからでしょう。自分だけならまだしも、周りの人にも影響を与えているかもしれない。逆に周りからもらっているかもしれない。家は、家族は大丈夫だろうか。今度遊びに行くあの家は、友達は。引っ越す予定のあの部屋は、土地は……。そう考えるともうエンドレスです。
 
 土地の穢れ、穢れに触れた者、穢れに穢れが重なり、人の移動によって怪異は広がっていく。何がきっかけで穢れに触れてしまうかわからない。仕事、学校、結婚、人付き合い。生活を営む以上防ぎようがない。
 
 しかしそうなると、怪異の根っこが気になってくる。
 
 怪異を辿って取材を重ねる中で集まる、一見関係がなさそうなひとつひとつの情報や出来事が、やがて全て繋がっていく……という謎解きのような要素もあるので、怖いのにページをめくる手が止まりません( 余談ですが、個人的に小野不由美作品は散りばめられた点と点が線で結ばれていき、繋がってかたちになり、物語が加速し動き出す気持ち良さが好きです。代表作の『屍鬼』『十二国記』も然り )。核心に近付きいよいよ佳境か!? というところで、この怪談は
《 聞いただけでも祟られる 》
《 聞いても伝えても祟るから、一切、記録することができない 》
え、待って。それ今言うの? 私読んでるけどこれ大丈夫なの? 本になって出版されて日本中に流通していろんな人の手に渡ってるのにこれ大丈夫なの? これフィクションだよね? 大丈夫だよね?
 
 というのも、この「私」は作中では名前は出てきませんが、経歴などから小野不由美さんご本人であると推測でき、さらに実在の作家仲間も登場し、取材の内容もとてもリアル。フィクションなのか実際あった体験談なのか、読者には全くわからないのです。そんな中で「聞いても伝えても祟られる」なんて言われたらびびりますよ。完全に読者巻き込まれてます。
 
 話は戻りますが、春ですね。新しい土地で新しい生活がスタートした方もいらっしゃるのではないでしょうか。
《 我々が住んでいるこの場所、そこには確実に過去の住人がいたはずだ。前住者の前にはさらに前の住人がおり、その前にはさらに以前の住人がいた。(中略)ある建物が建設される以前の土地、その「土地」に住んでいた住人までもが現在に影響を与え得るとすれば、問題のない土地など、果たしてこの世に存在するのだろうか 》
私達の住む街、土地、家、前住者にはどんな歴史があるのでしょうね――。
 

 
 
 
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 レビューも後半戦に突入し、ミステリー界隈でなじみのある著者や作品が多くなってきた。特に『犬神家の一族』は何度も映像化されていて、本は知らなくてもその作品名は知っている人が多いと思われる。監督や公開年によって、同じ作品であってもぜんぜん違った作品になっているので是非見比べて欲しい。更に今回は奇跡のような「季節銘柄」がランクインしている。この時期に読むとラストン余韻もひとしおである。
 
41位 宮部みゆき『模倣犯』 新潮文庫
 ミステリー史上、稀に見る目立ちたがり屋の犯人だ。そもそも犯罪者は目立ちたがり屋であってはならないはず。自分に注目を集めることはすなわち、容疑を深めることに繋がりかねないからだ。しかし『模倣犯』の犯人はそんな常識などお構いなし。世間の注目を集める「劇場型犯罪」を実行し、日本中の注目をわが身に引きつけるのだ。この物語はそんな異常な犯人の計画に巻き込まれ、翻弄される人々の群像劇である。
 
 文庫本全五巻、まさに大長編といえる長さだ。並みの作家であればこれだけの長さの物語を書くと中だるみが生じたりするのだが、そこは流石「稀代のストーリーテラー」宮部みゆき。読者を飽きさせることなく、むしろ五冊で物足りなさを感じさせるほどの見事なストーリーテリングだった。僕が一週間かからずに読みきってしまったという事実がその証左である。一体どうしてこの小説は読者を惹き付けるのか。おそらく超目立ちたがり屋犯人の造形に成功した事が大きい。犯罪者でありながら目立ちたがり屋、という矛盾を解決してしまうほどの智慧を持った彼が、関係者を思いのままに翻弄する様があまりにも自然で華麗なのだ。むろん、群像劇であるからには犯人に振り回される関係者たちも丁寧に描かれる。丁寧に描かれた彼らもまた、活き活きとした登場人物なのだが、だからこそ彼らの生い立ちや現在を巧みに利用する犯人の計画は完璧に思えるし、身近になってきた彼ら関係者の人生がどう狂わされていくのか気になって仕様がなくなってしまう。
 
 これだけ多くの登場人物を出しながら、それぞれの運命が絡まりあい、互いに作用していくさまを自然に描いた小説は少ないだろう。読後、やはり文庫で五冊分の長さは必要だったのだと思わされる。
 
40位 竹本建治『匣の中の失楽』 講談社文庫
 日本ミステリー界には厳然とそびえる難攻不落の山が四つある。ミステリーというジャンルを過剰までに突き詰めた結果、非情に読みづらいが何だかすげーと思ってしまう四作品、マニアたちはそれらを「日本四大奇書」と呼んでいる……。そして、その一つが『匣の中の失楽』である。
 
 この小説は構造自体も作品の面白味の一つであり、展開の一つ一つに驚いて欲しいのであらすじは詳しく書かかないことにし、この小説のどのあたりが奇書と呼ばれているのかの個人的な考えをつらつら書こうと思う。
 
 前置きが長くなってしまったけれども、『匣の中の失楽』の一番の特徴と言えば延々と繰り返される推理合戦だろう。主人公たちは目の前で起こる事件に対し、友人が被害にあっているにもかかわらず、悲しみはそこそこに嬉々として事件の推理に熱中する。しかも推理合戦にルールを設けるのだから、事件の真相解明が目的と言うより「いかに面白い回答を見つけるか」を目指すゲームをしているようである。事実、なかなか面白い推理もいくつか披露されるのであるが、しかしこの「人間を描くこと」を放棄した態度は何なのであろう。もしかしたら、この推理合戦に興じる主人公たちは我々ミステリー好きの読者そのものなのではないか。小説の中の謎解きをゲームとして享受し、「もっと面白い解決を」と要求するミステリーマニアと重なって見える。つまり、作中の登場人物はまさに小説を読んでいる我々であり、小説を読んでいる我々は物語の中の彼らなのである。そしてこれが小説のあの構造を生み出すのであるが、それは読んで確かめて欲しい。
 
 と、「奇書」なので小難しいレビューにしてみたが、とりあえずミステリーが好きなら一度はチャレンジしてみて欲しい「山」である。一筋縄でいかない物語を読みきったときには、ミステリーというジャンルが違って見えるはずである。ただ、『匣の中の失楽』は奇書の中でも比較的読みやすい作品なので、「なに?『匣』が読了されただと!?」「しかし奴は我々四天王の中では最弱。」「どれ、次は俺が……」みたいな状況です。
 
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39位 横溝正史『犬神家の一族』 角川文庫
 おそらく、この全作レビュー企画の中で作品の中身と関係ないところで有名な小説№1かも知れない。湖に突き出した男の二歩足という光景は芸人の一発芸になったこともある名シーンである。角川映画の初期作品にしてその地位を磐石にしたとも言われている市川昆監督「犬神家の一族」の原作である。
 
 映画は映画として評価するとして、さて小説としてはどうだろうと考えた時に、初読時の興奮を思い出す。それはあまりに自然かつ必然的に描かれるメイントリックの素晴らしさへの興奮だった。ミステリーのトリックは大掛かりなものであればあるほど、当然の如くわざとらしさが目立つようになる。「わざわざこんな殺し方する?」という疑問である。大概は「小説だからいいか」と自己完結して終わるのだが、『犬神家の一族』では複雑で大掛かりなトリックが使われているのにも関わらず、とってつけた感がない。犯人の行動原理はトリックと直結するし、トリックが生むひずみが事件の不可解な現象として現れる。つまり、物語とトリックが見事に融合しているのだ。何と鮮やかなトリックだろう!
 ちなみに、佐清のマスクは映画の白い目出しゴムマスクという印象が強いが、作中ではデスマスクのように目や鼻が描かれた、特殊メイクのようなマスクだ。白いマスクでも不気味だけど、表情が全く変わらないデスマスクはもっと不気味だったろう……。
 
38位 泡坂妻夫『11枚のトランプ』 創元推理文庫
 本書を読むにあたって、著者がマジック好きであったこと、相当な腕前のマジシャンであったことは知っておいたほうがいいだろう。なぜならば『11枚のトランプ』にはマジシャンもマジックもこれでもかと言わんばかりに登場するので、「なんでこんなにマジックだらけなのか」と疑問に思うかもしれないからだ。
 
 舞台は地方の演芸ホールで開かれる奇術公演。その公演中に行方をくらませた一人の奇術師が死体となって発見されるという事件が描かれる。のっけから公演の描写で、紙上でマジックが次々と披露される。しかも部分的に種も明かしてくれるサービスつきだ。そして肝心の殺人事件は奇術の最中に行われる。しかも、その奇術公演を使ったトリックなのだから、奇術のトリックの裏で殺人事件のトリックも進行しているという何ともアクロバティックなミステリーなのだ。
 
 ちなみに作中作で「小説風の奇術のネタ帳」が出てくるが、これもミステリーのショートショートのようで、かつ完成度が高くて楽しめる。ミステリーに奇術、アイディアの出し惜しみをしない著者のサービス精神にあふれる一冊だ。
 
37位 松本清張『ゼロの焦点』 新潮文庫
 新婚早々、結婚相手が出張先から忽然と行方をくらましたら。それも、ただ消えたのではなく不可解な言動をしていた相手であったら。そして、謎を追うにつれて周囲の人間が次々と死んでいったら……。
 
 松本清張といえば社会派ミステリーの祖として有名である。密室殺人や呪われた旧家など非現実的な要素とは決別して、もっと人間の業や社会の矛盾を描こうとした社会派ミステリーはどうしてもトリックの点で楽しめないのではという不安を持ってしまう。事実、清張以後、雨後の筍のように量産された社会派気取りのミステリーにはそういうものも多いと聞く。しかし、『ゼロの焦点』は違った。大きなテーマとしては確かに社会的な問題、戦後日本社会がいかに混乱していたか、それがどんな悲劇を巻き起こしたか、が物語の中心となっている。一方で、行方不明になった男の素性という謎は取ってつけたような解決で終わらずに、鮮やかな○○○○トリックで驚かせてくれる。綺麗に隠された伏線も見事だし、夫の隠された素顔が次々と明らかにされていくスリリングな展開など、純粋なミステリー要素だけでも十分楽しめるのだ。
 
 人間ドラマを描きつつもミステリーとしての楽しみを損なわない、社会派ミステリーが目指すべき原点にして一つの到達点がここにある。
 
36位 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』 文春文庫
 なんとタイミングの良いことだろう! まさか四月号に『葉桜』の回がまわってくるとは。まことに運命とはおもしろい悪戯をするものである。
 
 いわゆるどんでん返し系のミステリーである。同じくどんでん返しミステリーの『イニシエーションラブ』がどんでん返すことである種のイヤミス的な驚きを与えたのに対して、『葉桜の季節に君を想うということ』は最後のどんでん返しによって、小説が至上の人生賛歌を歌っていることに気づかされ、心が温かくなってくる。
 
 物語は大きく三パートに分かれていて、メインになるのは悪徳商法を繰り返す会社を調査する男の物語だ。この部分だけでもユーモラスなハードボイルド小説として楽しめる。楽しめてしまう分、「何か仕掛けられている」というのを忘れた状態で種明かしをされるので見事に騙される。騙されたことがわかった瞬間、小説の表情がガラッと変わり、今まで隠されていた物語のテーマが深く胸を打つのである。
 
 ミステリー的な要素だけであれば、個人的にはメインのトリックは想定の範囲内。ミステリーのトリックではヤクザ潜入編の滅多刺しにされた変死体の謎が面白く読めた。
 
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35位 江戸川乱歩「陰獣」『江戸川乱歩傑作選 獣』収録 文春文庫
 江戸川乱歩は日本探偵小説の父といわれながらも、じつは自作においてミステリー小説として高く評価されている作品は少ない。どちらかと言えば怪奇趣味小説が評価されていたりする。ところが「陰獣」は、乱歩最大の持ち味である怪奇趣味がミステリー要素と見事に融合した奇跡のような作品になっている。
 
 一人の夫人がある小説家から脅迫状を受け取り、身辺を付け狙われているのではないかと主人公に相談することから物語は始まる
 
 血みどろな怪奇小説ばかりを発表している作家は、作品そのもののねちねちとした陰湿さで婦人をストーキングしているらしいのであるが、その行方は杳として知れない。彼の行方を捜すうちについに悲劇が起きて――。というあらすじ。作家のストーキング行為や婦人の隠された秘密などが作品に背徳的で、耽美的な乱歩ファンが大好きな雰囲気を醸成しているし、次第に婦人が追い詰められる展開はサスペンスフル。そして、最後の意外な解決と余韻を残すラスト、文句の付け所がない。エンターテインメントとして完成度の高い作品だ。
 
 ちなみに、そのストーカー作家は明らかに乱歩自身がモデルである。自作のパロディも出てくこともあって、乱歩ファンならニヤニヤできる。
 
34位 泡坂妻夫『乱れからくり』 創元推理文庫
 奇術ときて次はからくりである。38位『11枚のトランプ』では奇術を作品に多用した泡坂妻夫が『乱れからくり』ではからくりを作品に多く登場させている。からくり人形、万華鏡、迷路……、からくりやおもちゃに関する薀蓄も満載で著者の趣味が垣間見える。
 
 事件は玩具会社の経営者一族の息子が隕石に衝突して(!)急死したことから始まる。次々と不可解な死を遂げる一族だが、その死には他殺であれ自殺であれ、事故であれ決定的に腑に落ちない点が残る。どうせ殺人なんだろう、と僕は意地の悪い読み方をしていたのだが、それでもアリバイがあったり動機がなかったりとにかくどんな仮説もしっくりこない。それもそのはずで、真相は僕の想像もおよばないものだったのだから。なまじミステリーを読んでいただけに見事に騙されたと言うべきか。犯人がいて、綿密に練り上げた犯罪計画を着実に進行する、そういうありふれたミステリーとは一線を画しているのだ。この奇想天外なトリックは「からくり」というモチーフと密接に関係しているし、「からくり」だらけの物語だからこそとても印象深いトリックとして読者の記憶に残るのだろう。
 
33位 鮎川哲也『りら荘事件』 創元推理文庫
 「本格ミステリーってどういう小説のことですか」と聞かれたら、僕は『りら荘事件』を読んでくださいと答える。それほど謎解き小説として純度の高い小説なのだ。
 
 山奥の山荘に集まった若い男女に次々と襲い掛かる殺人者の手、現場に残されたスペードのカードは何を意味するのか、そしてあらゆる場面にちりばめられた登場人物たちの不可解な言動等々、一見バラバラに見える断片でちょっとやそっとじゃ真相にたどり着くことができない。しかし、ちょっと視点を変えて手がかりを丹念にたどっていけば、解決を読まずとも真相にたどり着くことが出来るようになっている。堂々と読者への挑戦がされるくらいフェアなミステリーなのである。とはいえ、大抵の読者は推理を諦めて解決編へと読み進むのだが、その時真相を語りだすのは刑事ではなく、れっきとした私立探偵が読者を真相へと導くのである。
 
 なんだかこう書くと教科書みたいで地味な印象を受けるが、ばたばた人が殺されていくので展開は飽きないし、スペードのカードの使い方も綺麗で驚かされる。なにより、疑問に思っていた描写が次々と伏線として回収されていくのは気持ちが良い。「再読三読によって妙味が増す端麗巧緻なギミック」なんて本の裏に書いてあるけどまさにその通りの「スルメ本」。
 
32位 高木彬光『刺青殺人事件』 光文社文庫
この本を読むまでは知らなかったのだが、刺青は一種の日本的芸術文化として海外で評価されているらしい。繊細な指先の技術で、鮮やかな図面が肉体的な苦痛を伴って半永久的に身体に刻み込まれる行為は、なるほど確かに官能的な美があると言えなくもない。刺青といえば反社会的な連想をしがちな現代人も、妖艶な刺青に彩られた『刺青殺人事件』を読めばきっと「刺青」で画像検索してしまうだろう(検索しました)。
 
 この刺青というモチーフの活用が素晴らしい。まず、乱歩ばりの怪奇的な雰囲気の演出に成功している。美女の肉体に彫られた刺青や、刺青コレクターなど耽美なフックで作人世界に引きずり込む。さらに、この刺青が肝心のトリックにも関係してくるのだ。そもそも刺青は彫ったら一生消せないもの。つまり、刺青は指紋並みの、もしかするとそれ以上の身分証明になるのだ。『刺青殺人事件』で起こるのはバラバラ密室殺人。バラバラ死体というのは身元の特定が困難で、時にはすり替えトリックが行われたりするのだが、刺青はその可能性を否定する材料になる。すると、なぜバラバラする必要があったのかといった問題が代わりに出てきたりして謎は深まるばかり。死体に刺青があるだけでミステリーはここまで面白くなるのだ。
 
 発表は1948年と戦後ミステリーの初期作品。密室の謎やバラバラの謎など、ミステリーを書いてやる! という著者の情熱が感じられる作品であり、その情熱が見事な完成を見た一作である。
 
 
 
後編に続く⇒
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
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by dokusho-biyori | 2017-04-01 21:20 | バックナンバー | Comments(0)