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17年12月

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 我ながら他人のように自分を評するなあ、と思うが、十二月になると私は否応なく一年を振り返らないといけないような気でもするのだろうか。最近読んだ本でいうと『13・67』『琥珀の夢』は名作だと思ったが、それらを読んでいても「時間」に引かれて読んでしまう自分がいる。それは、瞬間とさえいえるような時間にもあてはまる。『Number 939号』の表紙を見て、ああ、確かにあの瞬間が伏線を含めてシリーズの全てを決めた瞬間だったなと思わされた、と先日も話したことがある。最後のギリギリ、その瞬間まで両チームがしのぎを削っていたからこそビデオ検証で判定が変わり、そして最後のサヨナラのシーンも「相手よりも半手先をいった」ホークスが勝ちをもぎ取った。そこまで含めて、あの瞬間を表紙にしたことが、あのシリーズを、そして『Number』という雑誌を、端的に表しているのかもしれない。暮れどきの季節だからなのかもしれないな、と時節のせいにしながら、そう感じる自分を観察してしまう、そんな師走である。
 人の寿命を八十年とすると、一歳児の一年は体感的には1/1年、二歳児の一年は1/2年……と積み上げていった際に、もう二十代には折り返しを過ぎているときいたことがある。計算をしたことはないが、一年一年が早く感じるようになることは、それだけその日常に馴染んだということの裏返しなのかもしれない。馴染んだからこそ見えづらくなってしまうが、一人の人生をさかのぼれば、必然的にそこには確実に積み上がっていった時間があるし、ウイスキーをつくるのには気の遠くなるような「利益を生み出さない」時間が必要である。「一人前の刑事」、「ウイスキーを商品になるまで育てられる人」……そういったものを育てる時間まで考えると、一言で言ってしまうのにはなかなか厳しい。それゆえに、物語にうっかり没入してしまうのかもしれない。

 ドラマで人気になって以降どんどん高騰して投資の対象のようになっている洋酒を皮肉るわけではなく、本当に言葉のままの意味で、そこまで大切に、大切に育てられたものだったら……と、大事に大事に……とより高い価値がつけられていくのが人情だろう。だが、そうやって囲い込んだところで、時間は無情に、そして等しくすべてに訪れる。残酷だとか、すばらしいとか、様々な言い方で色をつけられてしまいがちだが、実際のところ、そのままに受け入れるより他の方法はまだあまりわかってないように思う。


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 ああ、時間がたったんだな、と感じる瞬間は、人それぞれだろう。小さいと思っていた子供が学校に通うようになったことに感じる人もいれば、できたことができなくなっていくことに感じる人もいる。自分を振り返ってみて、私がその容赦なさというか、無機質さというか、ともかくそういったものを感じるのは、オリンピックやワールドカップのような四年に一度の祭典を迎えたときだ。『Number  940号』の表紙をみて、ああ、もうそんなにたったのか、と素直に思った。

 件の号は、ワールドカップの出場国のリストと選手がすべて揃っている号である……らしい。というのも、オランダ、イタリアがそこにはいないから、どこか違和感を覚えてしまう。

 特にこの二十年の日本にとって、サッカーは成長していく夢だったのかもしれない。Jリーグができ、ブラジルに勝ち、ヨーロッパのトップリーグに選手が出ていくようになった。ワールドカップは、出場どころか開催までした。世間には失われた二十年だのなんだのと暗い話も多かったが、そのなかでも折に触れてひときわ明るい話題だったのだと思う。だからこそ、ドイツで負けたときは呆然としたし、ブラジルで負けたときも喪失感があったという声が聞かれたのではないだろうか。
 日本がそうやって坂道を駆け上っていくなかで、坂道の上の雲はやはりまぶしかったように覚えている。二つ前のワールドカップ。オランダはロッペンやスナイデル、ファン・ペルシーらスターを揃えて、準優勝を果たした。三つ前のワールドカップ。イタリアはブッフォンらを中心とした守りでジダン率いるフランスに勝って、優勝を果たした。あ、聞いたことがある、という名前が出てきた人も多いのではないだろうか。中学生、大学生で迎えた当時は夜な夜なテレビにかじりつき、睡眠不足の不用意な高揚感のまま友だちと話した私も、その一人だ。そして容赦なく、本当に容赦なく、ここにあがった彼らのすべてが、ロシアのピッチに立つことはない。


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 この号の記事で言えば、時間とともに変わったと思うのはサッカーだけではない。アイルトン・セナというドライバーの名前を聞いたことのある人も多いであろうF1でも、かつては常勝を誇ったマクラーレン・ホンダが、信頼性不足・性能不足でいったん幕を閉じた。「マクラーレン・ホンダの名前だけでは一馬力も出ない」という現実は、ただただ厳然とそこにあった。組織としてF1に挑めるものでなければ、サーキットという戦場では生き残れない……記事は重く語る。ありきたりだが、常に変わり続けないと、常に変わらないでいることはできない、ということなんだと思う。オランダの育成制度に物を申すロッペンしかりだ。

 何か変わるということは、何かを失うということでもある。そう思えば、何も持っていないというのは幸せなことなのかもしれない。逆に、何かを得てしまったということは、そこからが本当に大変なのだろう。何かを失わないために、別のことを失う勇気が必要になり、そこからはひたすらに、失う恐怖と付き合っていかざるをえない。年齢が上がって常勝という言葉に憧れ以上の敬意を感じるようになったのは、そのことに気づいたからかもしれない。

 あなたは今年、何を手にし、そして何を失っただろう。時間はまた、等しく積み上がっていく。次のワールドカップでは、またいくつものドラマが生まれるのだろうし、またヒーローが生まれ、それを数年後懐かしく、どこか喪失感をもって思い出すのだろう。そのときに、このワールドカップに至るまでのドラマを、読み直してもらいたい。スポーツ好きとして、こういう号は是非オススメしたい。来るべき一年が、よきものでありますように。



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《 どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか。どうせ小便するからって、おまえ、水、のまないか? どうせうんこになるからって、おまえ、もの、くわないか? 喉、渇かないか? 腹、すかないか? 水やくいものは、小便やうんこになるだけか? 》

『田村はまだか』朝倉かすみ

 やる前からさかしらに悪い結果を予測して、やらないことを正当化する、その格好悪さよ。その気になれば、「やらない理由」は幾らでも挙げられる。



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 昨今の日本の文学界で、後ろ向きにしか生きられないネガティブな人物を描かせたら、奥田亜希子が断トツだろう。過去に区切りをつけられず延々と後悔し続けたり、失くした幸せにばかり焦点を合わせて未来があることを忘れていたり、或いは、容姿やセンスや才能が極端に劣っていると信じ込み、人並みの幸せなど端から諦めていたり……。要するに彼女が生み出す人物たちは、男も女も、人生が実につまらなそうなのだ。

 勿論、日々の暮らしの中で笑ったり喜んだりということはあるだろう。が、胸の奥の深い部分で「自分には価値が無い」と確信しきっているために、幸せに対する執着が極度に薄い。喩えるなら、カリブ海に浮かぶセレブの別荘だのアラブの石油王が持つロールスロイスだのをテレビで見ても、僕らはフツー、自分には縁が無さ過ぎて本気で手に入れたいとは思わない。そういったレベルで、奥田亜希子の作中人物たちは、夢や希望を諦めている。手に入らなくて当然だと思っている。そこに見え隠れするのは、自虐と言うよりも自嘲。自己嫌悪ではなく自己否定。

 にもかかわらず――。どの作品でも、晴れた空の下で大きく伸びでもしたかのような、清々しい読後感が待っている。それをこれから、順番に紹介してみたい。

まずは、第三十七回すばる文学賞受賞のデビュー作『左目に映る星』(集英社)。主人公の早季子は、都内の会社の事務職で二十六歳。外見も性格もごく普通のOLさんのようだけれども、ただ一点、小学生の頃の初恋の相手が忘れられず、「あんなにも理解し合える相手は彼が最初で最後だろう」と新しい恋は諦めて、その代わり(と言ってはなんだが)、合コンで出会う好みのタイプと一晩だけの情事を楽しんで、相手の男から正式に交際を申し込まれると《 特定の人の恋人になるようには、性格ができていないみたい 》などとのたまわったりして、なんだかやたらと刹那的に生きている。


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 が、その合コンがきっかけで、初恋の男子児童と同じ癖を持つ宮内なる人物と知り合うことになる。と言っても勿論全くの別人で、それどころか「リリコ」なる売れないアイドルの追っかけにほぼ全ての休日を費やしているような、まぁひと言で言えば〝 おたく 〟な訳で、だから早季子は情事が目的ではないし、ましてや恋愛の対象などとは毛ほどにも思っておらず、ただ、「時々右目をつぶって左目だけで世界を見る」癖について問いただしたくて近付いただけ。しかし、そうとは知らない宮内は、早季子もリリコのファンなのだという勘違いを深めてゆき、大小様々なリリコ情報を律儀に早季子に知らせて寄越す……。

「まいっちゃうなぁ」という早季子の溜息が聞こえてきそうな展開であるが、とは言え、彼女の様子を不審に思った親友が《 早季ちゃん、そんな人と話が合うの? 》と問えば、早季子は《 誰にだって一つくらい、好きで好きで堪らないものはあるんじゃない? 映画とか車とか仕事とかさ。それが家族や今の恋人だと健全に見えるってだけの話で 》と即答するあたり、彼女は宮内が〝 おたく 〟であることで彼を蔑んだり嘲笑したりということはなく、そんな偏見の無さが早季子の、ひいてはこの物語全体のチャームポイントになっているのは間違いない。しかしそれ以上に、多くの読者の共感を呼ぶであろう本作品の最大の魅力は、著者の細やかな心情描写にあると思っている。

 例えば。早季子が宮内と、動物園に行く場面がある。待ち合わせ場所には宮内の方が先に来ており、彼は《 ちょうど一本早い電車に乗れたもので 》と淡々と口にするが、その手にある動物園内マップを目にした瞬間に、早季子は《 この人はわざわざ早く来たのだ 》と確信する。話の本筋には絡まない実に何気ないシーンだが、宮内が持つマップを見ただけで、早季子を退屈させたりしないよう早めに着いて計画を練っていたらしい彼の気遣いを慮ることが出来る早季子の、ナチュラルな温かさに思わずホッとさせられる名場面である。


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 或いは、紆余曲折を経て気持ちを沈ませる早季子の描写を挙げてもいい。《 早季子は冬に閉じ込められた気がしていた。明日も明後日も何日後も、朝、目を覚ましては寒さに身を震わせ、ストールを肩にかけて出勤し、ときどき自動販売機で温かい飲み物を購入して、凍えた指先を缶の熱に浸す。自分のそんな姿しか思い描けなかった。暖かい季節は二度と巡ってこないように思えた 》。どうだろう。悲しいとも落ち込むとも寂しいとも言わずに、見事に早季子の内面を浮き上がらせた名文ではなかろうか。

 ちょっとエラそうなことを言わせて貰うと、小説とは〝 何を書くか 〟よりも〝 何を書かないか 〟の方が重要だったりすることがしばしばあって、そもそも人間の心理など「悲しみ一色」とか「寂しさ一色」などといった単純なものではなく、様々な感情のグラデーションである筈で、それを悲しいとか寂しいなどと一言で言い切ってしまっては、それは文学ではなくもはや「説明」に過ぎず、そういった安直な表現に頼らずに、人物の心の周辺を丁寧に描き重ねることで一番の核心部を読者に想像させる、こういった文章をデビュー作の時点で既に使いこなしている奥田亜希子は、ここ何年かの内に必ずや直木賞の候補に挙がってくると断言したい。

ついでに言及しておくと、彼女の小説は心情描写だけでなく情景描写も読み応えがあり、例えば早季子と宮内が夜の公園のベンチで話しているこんな場面。《 そのとき、一台の車が背後の道を通った。車体からはエンジン音より大きな音楽がもれていて、こぼれた旋律が残り香のように周辺を漂った 》。これなども、目から入った文章が瞬時に音と映像に変換されはしないだろうか? こういった細かい――下手をすると気付かれずに読み飛ばされてしまうかも知れないぐらい些細な――リアリティを積み重ねることでしか出せない〝 物語の立体感 〟とでも言うべきものが、本作に限らず、奥田亜希子の小説には溢れている。読者諸兄には、ストーリーを追うだけでなく、奥田亜希子ならではの表現を、是非とも堪能して頂きたい。


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 で、ストーリーの方はと言うと、例の幼い初恋以来、「一致すること」と「分かり合うこと」がイコールだった早季子が、〝 不一致だからこそ生まれる一体感 〟に気付くことで急転直下の展開を迎える。終盤、《 このあいだの映画、私、本当は全然面白いと思わなかったんです 》から始まる早季子の言葉は、日本の恋愛小説史に残る名セリフだと思う。引用は控えるので、是非ご自分の目で読んで、温かい勇気が湧いてくるのを実感して欲しい。

 さて、先を急ぐ。デビュー二作目『透明人間は204号室の夢を見る』(集英社)は、これまた人生を投げてしまったような二十三歳の女性が主人公。幼い頃からコミュニケーションが苦手で、《 分かりやすくいじめられるというよりは、触れてはならないものとして扱われ続けた学校生活 》を送り、今は雑誌のライターと棚卸しのアルバイトの兼業で生活している実緒。実は高校生の頃に文芸誌の新人賞を受賞したことがあるが、以降全く書けていない。出版界からは半ば忘れられ、私生活でも友人と呼べる存在はおらず、いわんや恋人をやといった感じで、稀に好意を抱く相手が現れても、《 自分なんかに関われば、相手の素晴らしい性質はきっとマイナスに傾き、損なわれてしまうだろう 》とまで後ろ向きに考えるのだから、悲観的にも程がある。

 そんな実緒がふとしたきっかけから、春臣といづみという大学生カップルと知り合い、不器用な友情を育んでゆく、というのがこの物語の大まかな筋。……なのだが、そこは奥田亜希子である。安物のテレビドラマのような分かりやすい起承転結とも、予定調和のハッピーエンドとも、一切無縁。人生で初めて、友だちと呼ぶに相応しい相手と知り合った実緒の心の浮き沈みを、ただひたすら丁寧に書き紡ぐ。それによって、「期待し過ぎては後で落胆する」と自らをネガティブに戒めながらも、どうしても高揚してしまう彼女の情感が、読者の心にジワジワと沁みてゆく。


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 実緒がいづみから、「ほいっ」っといった気軽さで飴玉を貰う場面がある。そんな気取らない親しさで誰かから何かを貰った経験が無い実緒は、その包み紙をどうしてもゴミとは思えずに、なんと自宅のデスクにそっと飾っておくのだ。多分実緒は、嬉しかったのだろう。そしてそれ以上に、いづみとの関係が壊れてしまうのが怖かったのだろう。だから、どうか壊れませんようにと、きっと祈るような気持ちで包み紙を飾っていたのではないか。そんな想像を働かせながら読み進めると、男の俺でさえ、しくしくと胸が疼くような切なさを感じずにはいられない。

 物語は終盤、実緒のコミュニケーション下手がモロに出て、ありきたりのハッピーエンドには至らない。が、曲折浮沈の果てに彼女は頓悟する。自分が原稿用紙と向き合うのは、誰かに読んで貰うためではなく、自分が書きたいからこそだと。ならば、買い物をするのも料理をするのも仕事をするのも、生活全般、生きて暮らしていく全ての瞬間に於いて、人にどう思われるかではなく、自分がどうしたいかの方が大事なのだと、多分彼女は気付いたのだ。だから、かつてはジーンズを買っても《 裾をきれいに切ってもらったところで、自分を見る人はいない 》と、裾上げにすら尻ごみしていたが、恐らく今後は、試着室から店員に声をかけるに違いない。たとえ誰も見てくれてはいなくても、おしゃれを楽しむのに「自分がしたいから」という以上の理由など要らないのだと、ごく自然に思えるようになったのだから。

 三作目の『ファミリー・レス』(KADOKAWA)は、当欄17年2月号で大きく採り上げたので、今回は、軽く触れるにとどめたい。

 とある事情から最愛の姉と絶縁した妹が、自分の傷を正面から見つめて新たな一歩を踏み出す「プレパラートの瞬き」、妻の親類一同とソリが合わない売れない画家が、妻の祖父と意外な点で趣向が一致することを知って、初めて親しみを覚える「指と筆が結ぶもの」、婚約が破談になった娘と、その父親の教え子だったという青年の奇妙な邂逅を、彼女の飼い犬の視点から綴った「アオシは世界を選べない」など、ちょっとギクシャクしてしまった六つの家庭を題材に、家族のあり方を鋭く問いかけてくる短編集。どの作品も奥田亜希子らしい深くて繊細な文章が溢れていて、実に甲乙つけがたい。


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 例えば第四話、冴えない中学生男子のピュアな恋を描いた「さよなら、エバーグリーン」では、主人公の曾祖母が、散りゆく桜を眺めながら《 きっと、また来年も春が来ることを知っているから、咲くことにも散ることにもためらわないんでしょうね 》と、誰にともなく呟く場面があるのだが、その言葉が、主人公が健気な決意を表明するラストシーンにきれいにつながってゆくあたり、下手なミステリーよりも遥かに「ハッ!」とさせられる。これがあるから、奥田亜希子はやめられない。どうか皆さんも、話の筋だけでなく、ちょっとした文章の裏に作者が忍ばせた登場人物たちの心の機微にも、目を配り心を配りながら楽しんで欲しい。

 さて四作目。『五つ星をつけてよ』(新潮社)も、自分を肯定出来ない六人の男女が登場する短編集。

 第一話「キャンディ・イン・ポケット」は、自己否定型の女子高生の、卒業式当日を描いた青春小説。自分を地味で冴えないマイナー系だと規定して、《 ピエロになるかもしれない危険な橋は渡りたくなかった 》と、目立たないことだけを心がけて学校生活を送ってきた沙耶。そんな彼女に、学年中の人気者で男子にも女子にも友だちの多い椎子が、どういう訳だか親しげに接してくる。が、沙耶は、自分のようなつまらない人間が椎子の親友になろうなどと高望みしてはいけないと、常に自分を戒めてきた。《 地元の友だち、という重りでもって椎子のそばに留まるには、私の存在は軽すぎた 》と、卒業後には忘れられることを覚悟して、「親友になりたかった憧れの同級生」との最後の一日を、そっと抱き締めるようにして過ごす。


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 ところが! という起承転結の「転」以降は、この作家の本領発揮! ラストシーンは、校門を出て駅までの歩き慣れた道を踏みしめる沙耶。《 呼吸を整えるため、目を閉じて大きく息を吸った。/春の匂いがした 》という僅か二行の文章が、この作品を最高の成長小説へと昇華させている。沙耶が己の皮膚感覚のみで春の到来を感知した、その意味するところを推し量りながら、ゆっくりと物語の余韻に浸って頂きたい。

 そして最新刊『リバース&リバース』(新潮社)は、傷つき折れかけた人々が、もう一度頭をもたげて一歩を踏み出す物語。

  視点は二つ。ティーンズ雑誌「Can・Day!」の編集者・菊池禄は、「ろく兄」のペンネームで読者からの相談コーナーを担当している。《 僕の回答で気持ちが楽になったと、一件でも反響があれば疲れは吹き飛んだ 》と、やり甲斐を感じていたが、年を追うごとに読者からの手紙は減り続け、遂に編集長からは、コーナーの大幅削減を示唆される。そしてプライベートでは、少年の頃の後悔を払拭出来ずに自分を価値の無い人間だと決めつけて、《 つまらないのは自分だけではないと思いたかった 》という、それこそつまらない動機で、誰のものとも知れない退屈なブログをチェックするのを日課にしている。

 もう一つの視点は、長野の山里でその「Can・Day!」を毎月楽しみにしている女子中学生の郁美。幼稚園の頃から常に一緒だった親友の明日花が、イケメンの転校生にのぼせあがって、急速に自分から離れていくことに焦りを覚え、苛立ちを募らせる。

 そんな二人が、交わること無くそれぞれの視点でそれぞれの日常が進行してゆくのだが、周囲にはごく当たり前に生きているように見せかけながらも、心の〝 芯 〟と言うよりも〝 底 〟の方で自分を信頼しておらず、自分自身への不信感が生き方を窮屈にしてしまっている様子は、読んでいるこちらまで時に息苦しくなる。


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 くどいようだが、奥田亜希子は後ろ向きにしか生きられない人物を描くのがホントに巧い。と同時に、いや、だからこそと言うべきか、後ろしか見えていなかった彼や彼女がふとしたきっかけで振り向いて、「なんだ、道は前にも続いているのか」と半ばあっけに取られながらも踏み出す一歩が、彼女の作品には必ず描かれている。それは例えば松岡修三氏のようにポジティブを無理強いするのではなく〝 ネガティブに傾きがちな自分をも受け入れる 〟〝 ネガティブであることで自分を否定しない 〟、そんなふんわりとした自己肯定。まさにそれこそが、奥田亜希子の文学の一番の魅力ではなかろうか。

 勿論それは『リバース&リバース』でも同様で、例えば、ある人物が終盤に放つこんなセリフ。《 人はね、ずっと被害者の立場ではいられないの。日常生活の中では、誰もが被害者にも加害者にもなるの。なっちゃうの。なにかでは傷つけられる側にいても、また別のなにかでは人を傷つけてる。私たちはね、許したり許されたりしながら、何度も何度も関係をひっくり返しながら、なんとか進んでいくしかないんだよ 》。この言葉は自分が被害者であることばかりを強調するある人物に向けてのものなのだが、実は、加害者の側、傷つけてしまった側に対しても、「だからといって、自分を完全に否定する必要はないんだよ」と、優しく諭してくれているように、僕には思えるのだ。

 さて、思いがけず長くなった。最後にもう一度だけ言わせて貰おう。奥田亜希子の作品には、後ろ向きにしか生きられないネガティブな人物ばかりが登場する。しかし、だからこそ、そんな彼らに、僕らは落ち込んだり凹んだりする自分を重ね、彼らが不器用ながらも前を向いて一歩を踏み出す姿に、清々しい励ましを感じるのではないか。本当に心が俯いてしまっている時に、「元気を出せ」と言われて元気が出るなら苦労は無い。元気を出したくても出せないから、僕らは苦しむ。ならばいっそ、「前を向けない自分も、自分。否定しないで受け入れてあげよう」と言われた方が、遥かに救われる時がある。ポジティブな考え方ばかりが奨励される世の中で、ちょっと疲れたなと思ったら、奥田亜希子を試して欲しい。きっと、心の凝りがほぐれる筈だ。



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『五つ星をつけてよ』奥田亜希子

『Sports Graphic Number 939号』

『Sports Graphic Number 940号』

『田村はまだか』朝倉かすみ

『透明人間は204号室の夢を見る』奥田亜希子

『左目に映る星』奥田亜希子

『ファミリー・レス』奥田亜希子

『リバース&リバース』奥田亜希子



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連載四コマ「本屋日和」
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12月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-12-08 09:07 | バックナンバー | Comments(0)

17年11月

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清原和博の手帳――文藝春秋業部 川本悟士

 この原稿を書いているのは、十月も暮れのことだ。夏といい、CSといい、今年は雨が降りまくっているような気がするが、そんな一年ももう佳境。ドラフト、日本シリーズ、ストーブリーグといったプロ野球の話から離れても、ハロウィンの、忘年会の計画が聞こえてくる。もう少ししたら、クリスマスの話が出て、一気にお正月になってしまうのだろう。

 そんなときに、書店をふらっとのぞくと、今年も手帳のシーズンである。立場から離れていえば、文房具好きな私はこのシーズンが結構好きだ。来年はどんな手帳を使おうか、どういう手帳の使い方をしようか。レイアウトはどうして、カバーをどうして、手帳に合わせた万年筆は、インクは……と、同じような文房具マニアのブログを徘徊しながら、ああ、年末だなぁと思わずにはいられない。中学生のときはジーンズ生地のシステム手帳ファイルを毎年愛用して、リフィルを入れ替え差し替えしながら毎年新しく作っていた。ルーズリーフだと一年使っても見返さずもったいないなと思い、大学生になってからは週間レフトの細身の手帳を使ってみたり、デイリーの手帳をサイズを変えて使ってみたりしつつ、一月始まりや四月始まりを使い分けながら、毎年「手帳放浪の旅」を続けている。この職業についたんだったら、どうせなら黒革のカバーを! を思って作ったりもした(会社が違うことには後から気づいた)。私はそういう人である。

 ただ、毎年そうやって手帳を楽しく選び買い続けているということは、裏を返せば、それは毎年続いていない使い方や、何かしらがあるということでもある。それは、たぶん私だけではない。私は多少人よりも文具が好きでこういうことに凝ってしまう人だが、そうでない人も、そして私よりもっと凝ってしまう人も、ほとんどの人はむしろ後者の「毎年続いていない何かしら」の方がおなじみなのではないだろうか。「三日坊主」という言葉が慣用句になっていることが、その証拠だろう。

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 枕はここまで。『Number 937号』の清原和博「告白」第七回目のインタビュー「黄金ルーキーの手帳。」で、あの番長が一年目に手帳をつけていたことを私は初めて知った。それによれば、ゲームを終えて球場の駐車場に行くと他の選手たちの家族が待っており、その時の選手や家族の表情を見ていて『ああ、みんな生活がかかっているんだ』と思い知らされたことがきっかけで、高校生の一四〇キロとプロの投げる一四〇キロは背負っているものの重さが違うんだと思い知らされたことがきっかけで、自分もこの世界で飯を食っていくんだという意識を強くもったことがきっかけで、その日の打席での配球を手帳につけるようになったのだという。それを毎日毎月続けていくことで、入団当初はプロの一線級のエースたちが自分の打席で彼らの「決め球」を投げてくれなかったが、九月頃になるとだんだんスピードにも慣れ、ホームランを打てるようになっていく。手も足も出なかったはずが、狙い球に自分のスイングができれば、結果がついてくるようになった。そういう成長を周りも認め、次第に他球団のエースが自分に「決め球」を投げてくれるようになる。それは、その積み重ねがあった上に達成できたことなのだろう。同じようにまったく新しい環境で生活を始めるようになった自分としては、ここになんともいえない感情を抱いてしまう。それは、共感とも憧れとも焦燥ともいえない感覚である。ああ、いいな、この人はすごいな、自分はそれができているんだろうか……と。

 一方で、本人が最後に語るように、これを続けられたのはあの一年だけだったという。何かを続けることは本当にしんどい。それは、たぶん続けられるようになってしまえばそれほど苦だと感じないようなことなのだろうと、頭ではわかっていてもである。会社でもそうだと思うし、学校でも家庭でもそうだと思う。自分なりのリズムややり方をつかむまではなかなかうまくいかないし、どうにかうまくいくようになると、なんとなくそれに安心してしまったわけでもないのだろうが、どうもそれまでとは違って、階段を登っていたはずが踊り場に出てしまったような感覚に襲われる。病院で、学校で、職場で、もっと~してくださいねといわれ、わかってはいてもついついそれができない。テレビや雑誌で見たこの方法を試そうと思って、ついつい忘れてしまう。流石に「僕らの」と自信をもってはいえなくとも、少なくとも「僕の」日常はそれの積み重ねでできている。だからこそ、続けられる人は憧れるし、同時に悔しくもある。

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 ただ、続けられないことは、別に無為に毎日が過ごされているわけではないのだと思う。同じく『Number 937号』での桑田真澄「これが僕のドラフトのすべてです」でも語られるように、中学生の時の先生の言葉、ドラフト前のスカウトの目……鮮烈な印象は何かに記録しなくても目に焼き付いている。それは鮮烈なものでなくてさえいい。清原和博の一年目を支えたもののひとつは、チームの先輩・渡辺久信が運転する車で食べに行く街道沿いの店で、長崎ちゃんぽんを食べながらああだ、こうだと話すその時間だったという。それは、きっと手帳や日記に書く必要のないくらい、他愛のない毎日の一ページ。だが、そんなことでも、今もしっかり覚えている。それこそが、毎日がただ過ぎていったわけではないことの証拠だと、私は思う。

 だから、今年も新しい手帳を、新しい使い方で……と夢想する私がいることを、私自身はどこか安心してみている。何かを続けられなかったからといって、またこれからやる何かがいつもつねに続けられないとは限らない。続けられることはもちろんすごい。だが、続けられないからといって悲観しなくても、印象的な何かはどうしたって残っていく。それ以上に、来年を楽しみに自分が思えていることの方が大切である。そう自分に言い訳をしながら、私は今年も手帳に友だちの誕生日を書き込み、わかっている予定を書き込んで、年末を過ごしていく。そうやってこれまでもやってきたし、これからもやっていくのだろう。多くの人がそうだろうし、私もまたその一人だ。

 ただ……。私の祖父母は、いつもけんかばかりしているような印象もあり、あまりそうは見えなかったが、もう何十年も交換日記――A4だかB5だかの版の週間レフトで、左側には祖父の予定が、右側には祖母の日記が書かれている――をしていた。祖父が亡くなってからも祖母は毎年手帳を書き続け、彼女は今も年末になると私たちに手帳を買ってきてくれるように頼む。毎年のそういうとき、サイズと品番を確認しようと手帳をめくると、今は片方のページだけずっと白紙であることに気づく。僕はあの二人のそういうところを、尊敬してやまない。


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残る言葉、沁みるセリフ

《 人工物には完全がありますが、生物に完全はありません 》

『左目に映る星』奥田亜希子 集英社

 奥田亜希子の作品はいつも、人間の不完全さを肯定してくれる。それは、欠点も短所も放っておけという意味ではなく、パーフェクトな人間など存在し得ない以上、不完全であることが、或いは不完全である度合いが、その人の存在価値を左右する要素ではないと、そう言っているように僕には思える。


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神様は、本当にいるのか?――丸善津田沼店 沢田史郎

 現役の精神科医でもある帚木蓬生は、常に虐げられる人々を描いてきた作家である。

 山本周五郎賞を受賞した『閉鎖病棟』(新潮文庫)では、精神科病棟の入院患者たちが、世の中から疎まれ役立たずと蔑まれながらも、真摯に人生と向き合う姿を、温かな目線で浮かび上がらせた。南アフリカのアパルトヘイトをモデルにした『アフリカの蹄』(講談社文庫)では、家畜同然の扱いを受けてきた黒人たちが手に手を取って立ち上がり、「自分たちは人間だ!」と声を揃える姿を力強く描き切った。ナチスドイツのホロコーストに材を採ったのは、『ヒトラーの防具』(新潮文庫)だ。ユダヤ人のみならずロマ人や同性愛者、精神病患者や身体障害者など、罪無き数百万の人々を虫けらの如く抹殺したナチスの狂気を、筆を折らんばかりの怒りを以って刻んでいる。中世ローマ教会の異端狩りを暴いた『聖灰の暗号』(新潮文庫)では、同じキリスト教徒でありながら、邪なるものとして虐殺されるカタリ派の悲しみと苦しみが、行間から滲むが如くに綴られている。

 そして最新作の『守教』(新潮社)では、豊臣政権末期から明治維新の数年後まで、三百年間に亘って虐げられ続けた隠れキリシタンが採り上げられる。上下二巻、600ページ余りの大作で最も紙数が割かれるのは、権力に屈することなく信仰を守ろうとする彼らの、勇気ではなく迷い、決意ではなく葛藤。

 例えば、西の村で信徒が拷問にかけられたと耳にすれば、当然明日の我が身が心配になるし、東の村でキリシタンが一家揃って火炙りにされたと聞けば、やはり信仰が揺らいだりもする。或いは、監視の網をかい潜って密航して来る伴天連の神父を、匿ったりすればタダでは済まないことは分かっていながら、ならば宿を請う神父を無碍に追い返せるかと言うと、信仰が邪魔をしてそれも出来ない。こうなるともう、やって来る神父や修道士たちが幾ら「日本の信徒を救うため」と言ったところで、むしろありがた迷惑でしかない訳で、そんな自分の本音に気付いた信徒が、罪悪感に打ちひしがれたりもする。

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《 私は転ぶこつにしました。転んだほうが楽に生きていけるような気がするとです。びくびくしながら生きていくのは辛かです。私が転ばんでも、子や孫が苦しむだけでっしょ。そんなら、私の代で転んで、子孫にいらん悩みば持ち越さんほうがよかち思うたとです 》。――本書で描かれる信者たちの殆どは、艱難辛苦をものともせずに意志を貫く勇者ではなく、捕吏や密告に怯え、伝え聞く拷問の苛烈さに恐怖しながら、信仰と現実との間で激しく動揺する弱き人々だ。

 それでも、彼らの一部が、明治六年のキリスト教禁教の撤廃まで信仰の火を灯し続けたことは、歴史が証明する通りである。その時には日本で育まれた「イエズス教」は、神道や仏教などと混同されたり融合されたりして、正当なローマカトリックとはかけ離れたものになっていたようだけれども、だからと言って、多くの命が奪われ、家族が離散しても尚、300年にも亘って権力者たちから信仰を守り通した数千、数万の名も無き信者たちの勇気と忍耐とが、その価値を減ずることはないだろう。

 とは言え、僕自身は全くの無宗教なので、どうしてそこまでして信仰を貫き通せるのか、本当のところは理解できない。逆に、弾圧の嵐の中で神の存在を疑ってしまう人や、拷問に耐えきれず棄教してしまう人の気持ちの方が解りやすい。現世がどんなに辛くても神が救って下さる、なんて言われても、死後の天国より今の無事。やっぱり今日一日を平穏に暮らしていく事の方が大事だと思ってしまう訳で、恐らく大半の日本人は、僕と似たようなもんじゃなかろうか。

 そんな僕らにも大いに共感できてしまうキリシタン文学が、遠藤周作の『沈黙』(新潮文庫)だろう。余りにも有名なこの作品を、こんな場所で今更採り上げる意義があるのかどうか、我ながら疑問を感じないではないが、『守教』を読んだ勢いで久しぶりに再読したので紹介してみる。

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 時は17世紀の半ば。島原の乱を平定した幕府が、キリシタンの探索と捕縛のシステムを一層強固にさせつつあった頃。ロドリゴとガルペという二人のポルトガル人司祭が日本に向かう。目的は三つ。第一は言うまでもなく、風前の灯となっている日本のキリスト教とその信徒を救うこと。第二に、キリシタン弾圧が強まるに従って、日本での布教の情報が教会に全く届かなくなったため、その探索と報告。そして第三に、彼らの師であり、イエズス会の重鎮でもあるフェレイラ神父が幕吏に捉えられた上、拷問に耐えきれずに棄教したという噂の真偽を確かめること……。そして二人は、神の御加護を信じて長崎の貧村に潜入するのだが、そこで彼らは、日本に於けるキリスト教徒が、如何に苛烈で無慈悲な扱いを受けているかを目の当たりにする。

 その拷問や処刑は、これが同じ人間のすることか!? と正気を疑わずにはいられないレベルなのだが、ここで引用したいのはその残酷な描写の数々ではなく、そういった過酷な運命を前にして、一人の貧しい日本人信徒が泣きながらロドリゴに訴えかけたひと言。曰く《 なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに 》。この素朴な疑問はしかし、信仰の根幹を揺るがす大問題を孕んでいることに、ロドリゴは気付いてしまう。そして、気付いたが故に彼は苦しむ。例えば或る夏の昼下がり、貧しい信徒の一人が、ロドリゴの目の前で処刑された時、彼は全霊で神に問いかける。《 なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片目の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける 》。

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 この言葉に共感する日本人は、きっと多いんじゃあるまいか。斯く言う僕もその一人で、唯一絶対の神っていうなら苦しんでる信者を救ってやれよと、彼らは何も悪いことはしてないだろと、そう思わずにはいられない。信心深き我らがロドリゴも同じように悩み続ける。何故、神は沈黙を続けるのか? そもそも、神は本当にいるのか? と。そして、そんな疑問を抱いてしまう自分自身を、心弱き者として責め続ける。

 しかし彼は、ギリギリの瀬戸際で理解する。神は、見て見ぬ振りをしていた訳ではない、ということを。では、その沈黙は何を意味するのか? その答えは敢えてここには挙げないけれど、不信心な僕でも納得できたと言うか、宗教論争にありがちな牽強付会な臭いは感じなかった。そして、ロドリゴが下した決断も、「きっとそれしか無かったろう」と思うし、それを実行に移した彼は――たとえ教会がどんなに非難しようとも――立派なクリスチャンなんだという気がする。

 以下は蛇足。本書を原作にしてマーティン・スコセッシ監督が映画化した『沈黙――サイレンス――』は、脚本がかなり原作に忠実だから、本書を読んでから映画を観ても、逆に映画を観てから本書を読んでも、相互にイメージを補完し合って作品の理解の一助になると思う。既にDVDも発売されているので、気になる方は是非。キチジロー役の窪塚洋介の存在感が凄かった。あと、フェレイラ神父を『シンドラーのリスト』のリーアム・ニーソンが静かに熱演しているんだけど、最初は誰だか気付かなかったよ。歳とったなぁ。


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陽気な藤沢周平――丸善津田沼店 沢田史郎

 前記のように重苦しい時代物が続いたので、カラッとしたのを読みたくなって、こちらも再読。『よろずや平四郎活人剣』(文春文庫)は、恐らく藤沢周平の作品では最も陽気な物語。

 時代は、水野忠邦が天保の改革で辣腕を振るっていた頃。一千石のお旗本、神名家の末弟……と言えば聞こえはいいが、実際は女中上がりの妾腹の子、平四郎。屋敷内での冷遇にほとほと嫌気がさして、剣術仲間と三人で道場を開こうと家を飛び出した。ところが予想外のトラブルで資金が不足してしまう。だからと言って、あの冷たい実家におめおめと帰る訳にはいかないという事で、陽の当らない裏長屋にひとまず居を構え、元手無しでもできる商売を始めることにした。その商売というのが、《 喧嘩五十文。口論二十文。取りもどし物百文。さがし物二百文。よろずもめごと仲裁つかまつり候 》という、胡散臭げな手間取り仕事。果たしてこれで食っていけるのか?

 といった幕開けの後には、当然、平四郎の仲裁屋稼業のドタバタが続く訳だけど、まず、やって来る客たちがバラエティ豊かで飽きさせない。浮気の後始末から放蕩息子の鍛え直し、かどわかされた子どもの探索から、盗賊に目をつけられた大店の用心棒まで、まさに《 世に揉めごとの種は尽きまじ 》だ。平四郎が実家を出てから二年間、24の事件の中には少し悲しい話も稀に混じるが、大概はスカッと爽やか勧善懲悪。明るい未来を感じさせる決着が用意されている。

 同時に、平四郎が相手をする小商人や貧しい裏長屋の住人たち、或いは岡場所の安女郎など、皆々、悩み事を抱えてお金に苦労し、明日への不安も尽きない暮らしを送っていながら、「江戸ものゝ生れそこない金をため」とばかりに、不平不満を笑い飛ばすバイタリティを持っていて、そういった社会の底辺に潜り込んで生活する平四郎自身も、時には米櫃がスッカラカンになるほど困窮したりもするのだが、そこはやはり未来溢れる青年である。「まぁどうにかなるだろう」的な呑気さを常にまとっていて、物語全体が快活な雰囲気に包まれているのはそのお蔭だろう。

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 そして、事件が平四郎一人の手に負えなくなると、件の二人の剣術仲間に助太刀を頼む訳だが、「なんで俺たちが」などとぶつくさ言いながらも、請われる度に加勢する彼らの友情が微笑ましい。加えて、剣術道場という夢を諦めずに追い続ける彼らの一途さが、終始、物語に〝 希望 〟という彩りを添え続ける。

 更に。本作に限った事ではないが、藤沢周平の文章の美しさにも、忘れずに言及しておきたい。例えば次は、年の瀬の夕暮れに、家路を急ぐ平四郎。

《 うす暗くなった橋の上を、黙黙と人が行き交っている。寒気はさほどでないが、ひとはけ日没の赤いいろを残している西空は、もう冬のものだった。季節は師走に入っている。平四郎も肩をまるめて、人ごみにまぎれながら、橋を渡った。/――年も暮れるか。ふとその感慨が胸にうかんできた 》

この、浮世絵にでもありそうな、リアルで綺麗な情景描写! 日没を前にしてせかせかと人が行き交う町の様子だけでなく、苦し紛れに始めた珍商売で、どうにか年を越せそうな平四郎が安堵のため息をつく姿まで、目に見えるようではありませんか? 昨今の時代小説ではめったにお目にかかれないこんな文章があちこちで頻繁に顔を出し、単にストーリーを追うだけが小説を読む愉しみではないという事を、改めて噛みしめる読者も多いだろう。

 平四郎の日常の大事小事に加えて、天保の改革に関する推進派と反対派の暗闘が物語を縦に貫いて、更には、五年前に行方が分からなくなった平四郎の許嫁という謎も絡まって、上下二巻の文庫本がアッと言う間。かつてNHKで『新・腕におぼえあり』と題して連続ドラマ化されたことがあって、高嶋政伸が平四郎役を好演していたけれど、今ならさしづめ、大泉洋あたりがハマリそう。『蟬しぐれ』(文春文庫)『たそがれ清兵衛』(新潮文庫)といった沁み入るような作品だけでなく、陽気な藤沢文学もいいもんですぞ。


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『守 教』帚木蓬生 新潮社 上下巻 各¥1,600+税
『Sports Graphic Number 937号』 文藝春秋 \546+税
『沈 黙』遠藤周作 新潮文庫 ¥550+税
『左目に映る星』奥田亜希子 集英社 9784087715491 \1,200+税
『よろずや平四郎活人剣』藤沢周平 文春文庫 上下巻 各\730+税



新刊案内

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編集後記

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連載四コマ「本屋日和」

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11月のイベントカレンダー

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by dokusho-biyori | 2017-11-03 10:42 | バックナンバー | Comments(0)

17年10月

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 あなたにとって、プロフェッショナルとはなんだろうか。黒い画面に白い文字、ピアノの音を背景に……とテレビ番組を思い出す人もいれば、月に行った時計を思い出す人もいるかもしれない。あの番組が長く続いていることや、件の時計がアイコン化してロングセラーになっていることを引き合いに出すまでもなく、言葉をあげていけばキリがないほど、そのイメージは多様だろう。

 今回その書き出しを選んだのは、『Number PLUS B.LEAGUE 2017-18 OFFICIAL GUIDEBOOK』の田臥勇太インタビューを読んだからだ。

 Bリーグが開幕して、一年がたった。二年目のリーグ開幕。二回目のリーグ開幕。バスケットがひとつのリーグになって最初の一年を超えて、初めてのシーズン。初めての二年目シーズンが、幕を開けようとしている。

 九月はサッカー日本代表のワールドカップ出場決定で幕を開けた。広島出身の私の目線でいえばカープも優勝したし(これを書いている今ではまだ手にはしていないが、『Number』のカープ特集号は個人的にとても楽しみにしている)、そして月末には、いよいよこうしてバスケットが開幕する。私がそこに注目したくなるのには、理由がある。約十年前、私はバスケットボールを追いかける学生だった。これを読んでいるあなたも、野球部だった、サッカー部だった、テニス部だった、帰宅部だった……そういう学生だったかもしれない。部活動のメジャーさを思い出せば、バスケ部であったことはそれらと同じくらい、匿名といってもいいプロフィールだと思う。それだけ、本来バスケットは日本に根づいているスポーツだろう。

 その個人的な印象をもとに、ワールドカップ出場に湧いたサッカーを引き合いに出していうなら、サッカーは「ゴールを決めたほうが勝つスポーツ」で、バスケットボールは「ゴールを決められなかったほうが負けるスポーツ」といえるのかもしれない。バスケットボールはマイボールを相手ゴールにいれ続ければ、基本的には負けないスポーツだからだ。

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 そういった張り詰めた空気をまとうこの競技において、この十年率先して象徴であり続けたのは、たしかに田臥勇太だろう。その彼にいわせれば、「挑戦することがプロ」だという。そのために入念な、本当に入念な準備を重ね、自分を貫き通したし、ベテランとなった今もなお、新しい感覚を掴もうと挑み続ける。それはたしかに、プロフェッショナルだと思う。

 ただ、個人的には彼の締めくくりの言葉が印象に残った。「勝ったときも負けたときも楽しめるチーム」である。興行である以上、それは原点なのかもしれない。もちろんそれは、ひとりひとりが挑み続けているからなのだろうと思う。入念な準備を重ねて象徴を続けることに挑む田臥勇太。日本という異国で自分のベストを尽くそうとするファジーカス。50歳を目前に、選手としても社長としても奮闘する折茂武彦。そして、一六七センチの身長で二メートルの選手たちをかいくぐって得点を取り続ける富樫勇樹。彼らひとりひとりの挑戦があるからこそ、勝ったときも負けたときもコートから目が離せない。

 だが、忘れてはいけないことがある。そう、ここにはもうひとり、共通の登場人物がいるのだ。

 あなたである。

 スタジアムで、アリーナで、その現場で、彼らを見つめ続けるあなたがいて、はじめてこの物語は成立する。応援する選手がいるからという人も、何か大きな声を出したくなったからという人も、その現場で見ている人はみんな、彼らがプロフェッショナルでいることの証人であるという意味で、また欠かせない存在である。

「ルールは大丈夫、体育でやったんだからみているうちに思い出すし、みているうちにガンガン点が入っていくからそれで十分楽しいって。だからさ、今度一緒に試合を見に行こうよ」

 Bリーグが初めて挑む二年目のシーズン。幕があがるこの瞬間に、彼らの声を読んでいて周りにこう言いたくなった。……遊びにしてもデートにしても、もう少しいい言い方はなかったものかと、自分でもほとほと嫌気がさす。ただ、これを読んでいるあなたが、私ならきっとこの人よりもうまく誘えると思っていただければ、嫌気がさした甲斐もあったと思う。


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 ジャーマン・シェパードのマギーは、爆発物探知犬。海兵隊の一員として中東で任務についていた時、自爆テロに巻き込まれてパートナーは爆死、マギーも数発の銃弾を浴びて、心身に軽くはない後遺症を抱えて帰国する。

 同じ頃、ロサンゼルス市警のスコットは、パトロール中に銃撃事件に遭遇し、目の前で相棒が惨殺された上、自身も瀕死の重傷を負い、以後、強いPTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされる。

 そんな二人、と言うか一人と一頭がペアを組んで犯罪者を追いつめてゆく警察小説が、ロバート・クレイス『容疑者』(訳=高橋恭美子)だ。

 物語の主軸は、スコットが巻き込まれた銃撃事件の真相解明。遺留品は僅かで、目撃者も皆無というただでさえ困難な捜査に、終盤には誰が敵で誰が味方かという疑心暗鬼も加わって、ミステリー小説としての読み応えは充分である。

 が、勘の良い人なら既にお分かりだろう。本作の一番の読みどころはそこではない。

 例えば或る夜。スコットが悪夢にうなされて目を覚ますと、マギーが寝ながら四肢を痙攣させ、時々「クーン」と鼻を鳴らしている。どうすべきか分からずに様子をうかがっていると、不意に目を覚ましたマギーは、スコットに猛然と吠えかかる。が、次の瞬間には自分の居場所を認識して、深呼吸でもするかのように息を吐き出し、もたげていた頭を床に下ろす。《 スコットはゆっくりとマギーに触れた。頭をひとなでする。目が閉じた。「おまえはだいじょうぶだ。おれたちはだいじょうぶだ」マギーは身体が揺れるほど大きな吐息をついた 》。

 或いは、街中での捜査中、車道を走り抜ける車の音に、マギーはいちいちビクビクと反応して視線を向ける。警察犬としては明らかに不適格なその挙動を、しかしスコットは優しく容認する。《 いいんだよ、マギー。怖がっていいんだ。おれだって怖い 》。そして、背中を撫でながら言葉を重ねる。《 おれがついてる 》と。

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 痛みを知る者同士だからこそ理解できる苦悩。苦しさが分かるからこその慰撫。励まし、励まされる時間が育む信頼。結ばれた絆によって癒される傷。そして彼らは、奪われた自信を奪還する――。

 そう、この作品は警察小説である以上に、深い傷を負った一人と一頭の再生の物語なのだ。マギーとスコット――過去のトラウマから、ちょっとした物音に過敏に反応してしまい、警察犬失格の烙印を押されたシェパードと、目の前で同僚が殺される情景が脳裏に焼き付いて離れない警察官というコンビ――が、お互いの弱さを許容し合い、少しずつそれを克服してゆくと同時に、相互の信頼を強くしてゆくその過程こそが、読者を最も惹きつける本書の魅力であると断言したい。

 終盤、スコットがマギーに静かに、しかし決然と語りかける名場面。《 だれも置き去りにはしない、いいな? おれたちは仲間だ 》。そして、そんなスコットの顔をなめて応えるマギー。次の瞬間、猛然と走り出した彼らの捨て身の賭けがどうか成功するようにと、祈るような気持ちで手に汗握る読書を、是非ともご堪能頂きたい。
 スペンサー・クイン『助手席のチェット』(訳=古草秀子)は、やはり警察犬落第の大型犬が主人公。

 私立探偵のバーニーは、元刑事でバツイチ。陸軍士官学校を出て従軍経験もあるツワモノだが、探偵事務所は流行っておらず、浮気調査のようなしょぼい案件で何とか糊口を凌いでいる。

 そのバーニーのところに或る日転がり込んで来たのは、15歳の少女の失踪事件。当初は反抗期のちょっとした家出か夜遊びと高をくくっていたバーニーだったが、捜索を開始した途端、彼の車は何者かにタイヤを引き裂かれ、相棒のチェットは謎の車に当て逃げされる。

 チェット。彼は警察犬の訓練を卒業寸前でスベッた大型犬で、今はバーニーと共に張り込みから追跡、場合によっては格闘戦までこなす、唯一無二の親友である。そしてこの物語は、徹頭徹尾彼の――即ち、犬の視点で語られる。

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 だから、バーニーが目撃者に聞き込みをしていても、チェットには全部は理解できないし、テーブルやソファの下に落ちているスナックに気を取られて大事なことを聞き洩らしたりする。張り込み中に予想通りの人物が現れて、バーニーが思わず「ビンゴ」と呟くと、チェットは、ビンゴゲームが事件とどう関係するのか暫し困惑したりもする。

 こう書くと何とも頼りない相棒に思われるかも知れないが、然に非ず。このチェット、普段のひょうきんな言動からは想像しにくいが(現に、彼に会った人物は大抵「かわいいワンちゃんね」的な発言をするものの、強そうだとか精悍だなどとは、ついぞ言われたことがない)、実はチェットこそは、やる時はやるタフガイである。

 例えば、捜査の途中でチェットが何者かに監禁される場面がある。敵はチェットに水も食べ物も与えず弱らせた上で、目の前に水の入った椀をちらつかせ、手なずけようとする。訓練を済ませた犬であることを承知している敵は、チェットに「座れ」「立て」などと指示を飛ばすが、チェットは毅然と言い放つ(勿論、人間にはその言葉は理解できないのだけど)。《 ぼくに命令できるのはバーニーだけだ 》と。あからさまに反抗的な態度をとる犬に、敵は顔を真っ赤に染めて更に怒鳴る。《 座れ! 座るんだ! このばか犬め 》。するとチェットは、《 冗談じゃない 》と言い放って(同じく、人間には伝わらないが)仁王立ちする。そんなことをすれば、目の前の水が貰えなくなると分かっていながら……。

 或いは、容疑者の追跡中に絶体絶命に陥ったバーニーを、渾身の力を振り絞ってチェットが救出する名場面。《 おまえに大きな借りができたな、名犬くん 》とチェットの背中を撫でるバーニーに、チェットはひと言《 ばかなことは言わないでくれ。ぼくらは相棒なんだから 》。

 何だ何だこのクールな犬は! まるでハンフリー・ボガードかゲーリー・クーパーではないか。いや、僅かに三枚目が混ざることを勘案すれば、『大脱走』や『荒野の七人』のスティーブ・マックイーンかも知れない。

 とにかく、だ。『助手席のチェット』は、少女失踪事件の謎を追うミステリーではあるが、それ以前に、ちょっとハードボイルドな名犬と、冴えない私立探偵の友情を描いた物語であり、ツーと言えはカーと応える彼らの以心伝心ぶりに、謎解き以上に心を奪われる読者はさぞ多かろう。続編の『誘拐された犬』『チェットと消えたゾウの謎』も刊行されているので、ホームズ&ワトソンにも劣らない名コンビぶりを、思う存分お楽しみ頂きたい。
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 と、名犬が活躍するミステリーを二つお届けした訳だけれど、この機に、是非とも復刊を希望したい作品がある。ディーン・R・クーンツ『ウォッチャーズ』(訳=松本剛史)がそれだ。邦訳が刊行されたのが1993年だからもう四半世紀近く前だけれども、全く古さを感じさせないと言うか、むしろ、遺伝子工学だのAIだのといった技術が極度に高度化した今の方が、物語の設定がよりリアルに迫ってくると思うのだが、どうだろう?

 事件の幕開けは、孤独で投げ遣りな人生を送るトラヴィスが、或る日、一頭のレトリバーを拾う場面。薄汚れたその犬は、どうも人間の言葉を理解しているようなふしがある。それどころか、人間並みのIQを持つのではないかと確信したトラヴィスは、アインシュタインと名づけて飼いはじめる。が、アインシュタインは常に何かを警戒している。時には怯えているというレベルの過敏さは、やがて、「追手」が迫りつつあることをトラヴィスに悟らせる。一体、誰が、何のために……。

 といったストーリーには、柱となる読みどころが幾つもあって紹介が大変。まず第一に、アインシュタインとは何者なのか? 高度な知能を持つその訳は? 第二に、アインシュタインは何に怯えているのか? 彼らを追う影は何者なのか? 第三に、正体不明の敵の目的は何か? というこれらの謎解きに、第四のファクターとして、残虐性剥き出しの敵が刻一刻と迫るホラー要素があり、第五として、彼らが無事に逃げ切れるのか? というサスペンス要素も加わって、更に、トラヴィスとアインシュタインがお互いを無二の存在と認め合うプロセスが編み込まれるようにして描かれるのだから、読み始めたら一気呵成。

 また、終盤、敵の正体が明らかになった後には、読者は、その敵を悪役、ヒールとして単純には憎み切れなくなっているに違いなく、こういったクーンツの職人芸にも、是非とも感嘆して頂きたい。

 ……のだが、冒頭で述べたように、本書は久しく重版されていない(泣)。ここ一、二年、品切れや絶版の小説が、他社レーベルから復刊することが静かに流行っているようだから、かつてスティーヴン・キングと並び称されたクーンツの代表作である『ウォッチャーズ』も、どこかがエイヤッと復刊してくれんもんだろうか。「飼うなら猫」という俺でさえ、アインシュタインなら一緒に暮らしてみたいと思わされる、犬派も猫派も虜にする名犬なのだから。


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『ウォッチャーズ』ディーン・R・クーンツ 訳=松本剛史 文春文庫
『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫
『助手席のチェット』スペンサー・クイン 訳=古草秀子 創元推理文庫
『B.LEAGUE 2017ー18 OFFICIAL GUIDEBOOK』Sports Graphic Number PLUS 文藝春秋
『容疑者』ロバート・クレイス 訳=高橋恭美子 創元推理文庫


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『砂漠』伊坂幸太郎 新潮文庫


編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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10月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-10-05 14:15 | バックナンバー | Comments(0)

17年09月

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 自分よりも年齢が上の相手に「死ね、じじい」と心のなかで悪態をついたことが、あなたには今まで何回あっただろうか。あったかなかったかではない。私は、もちろんそんなもの到底数えられない。「今まで食べたパンの枚数」と同じ類のものだ。今日もまた、この野郎ふざけんなよ、と思い、絶対に許さない覚えてやがれ、と心のなかで「ぶっとばしてやるリスト」を更新する……いくぶんの誇張こそあれ、実際のところ、これを読んでいるあなたの毎日にも多かれ少なかれこんなシーンがあるのではないだろうか。

 スポーツを「見る側」にも、人生のなかでのタイミングというものがあるのかもしれない。最近、ふとそう思ったのは、『Number 933号』の「甲子園ライバル伝説。」の巻頭、「田中将大に、勝ちたかった。」で明かされる当時の智辯和歌山メンバーのドラマを読んだときである。私にとって抗いがたい魅力をもつ話だった。きっと、中・高校生だった十年前では感じなかったと思う。仮に読んだとしても、表面上そうそう、そうだよなと思いつつ、すり抜けるように読み流してしまっただろう。

 ここで残されているのは「最大の田中将大対策は、彼が卒業するまで待つこと。無駄な対策はしない」と他校からサジを投げられるような巨大な壁に対して、全力を尽くして挑んだ声である。冒頭の言葉は、そのなかのひとつだ。

 野球部の顧問も勤めた私の恩師は、高校野球を評して「あまりにスペシャルな世界」と言った。言い得て妙だと思う、なるほどあれは特異点(スペシヤル)だ。先日の夏の甲子園も、実力を限界以上に引き出した神がかり的プレーが続く、目の離せないシーソーゲームがいくつもあった。帰省中の車内や家電量販店のテレビコーナー、スマホの画面……モノは何であれ、思わず食い入ってしまった人も多くいるのではないだろうか。メディアを賑わせるのは、そういったゲーム展開だけではない。怪我をおしての出場や、炎天下の中での熱投が美談のように語られたり、それに対しての非難が巻き起こったりする。それは、夏にとって甲子園と同じくらいの風物詩かもしれない。それらを見聞きしていて、一方で将来を考えてほしいという気持ちもわかりながら、他方でどこかはばかられる自分にも気づく。あの場に立っている、いや、あの場所を目指したことのある多くの人間にとって、甲子園という場所はそれまでの人生の何割を占めているのだろうか。それまでの人生の大部分をかけたその濃度だからこそ、外野は好きなことをいえるのかもしれない。それこそちゃぶ台をひっくり返せば、本稿もそういった甲子園をめぐる言葉の一部である。


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 だからこそ、冒頭の言葉を目にしたとき、正直な実感でいえば、高校生の自分がすぐそばにいるような気になった。選手は、サイボーグのような身体をもつでもなければ、ロボットのように一心不乱にプレーに打ち込むわけでも、シナリオにそって動く駒でもない。普通の、本当に普通の人間味ある高校生だ。それは、いつになっても変えられない。子供の頃、甲子園を見ていると、どこか選手たちをそういった無敵のヒーローとして、本当に大きな存在として感じている自分がいた。だが、実際に自分がその年齢になって、そしてそれを超えてみると、キツい状況になれば悪態もつきたくなり、雨が降ればどこかで緊張の糸が切れてしまう……そんな気持ちが痛いほどよく分かるようになった。そう、「イタい」のだ。高校を出て何年もたつはずの今日の私もきっとそうしてしまうし、その未熟さを突きつけられているような気がして、より自分自身が痛々しくなってしまう。君はかつて高校生であり、今もまだそこから遠くはなれていないのだと、見せつけられた気がするのだ。


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 もちろんというべきか恥ずかしながらというべきか、今でも試合を見ているとその一挙手一投足に魅入られてうっかり童心にかえり、選手たちを再びそういったスーパーマンのように思ってしまいがちである。だが、今にして思えば、私にとって甲子園球児が自分の年下になった瞬間の衝撃は、むしろ彼らが私たちと同じ人間であるという当たり前のことと、その同じ人間が神がかったプレーを続けているという、そのはざまにあるものだったのだと思う。

 この記事の魅力は、それだけではない。いいかえれば、この記事からは、そういった「男の子」たちの気持ちの揺れが見えるだけではない。たとえば、智辯和歌山の高嶋監督が見せる意地とあがきの交差する姿勢である。決め球を打ちたい、どんな方法でもそれに信念を持って向かい続ける。それを続けることは、実際のところ本当に難しい。また、話し手としては一切出てこないのに引き立つのが、田中将大という壁のあまりの大きさと、その彼もまた、今では「あの日全く打てなかった」スライダーを投げず、「スプリットばっかり」にモデルチェンジをしながら、今日を戦っているという姿である。

 田中将大という存在の――もっといえば斎藤佑樹という存在の――光が明るいだけ、またそこには影も浮かび上がる。その対比のなかで、最後まで笑ってプレーできたのは今年も優勝校ただ一校。影が深い分、裏面もまた、幾重も光を重ねていく。

 人間同士が戦い、そしてそれを人間が見ているというそのなかでは、いつその瞬間(ゲーム)に出会ったかによっても、たくさんの見え方がある。八月の甲子園が終われば、次はサッカー、プロ野球……。スポーツの秋は、もうそこにいる。



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『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介



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 まずは、元気一杯の青春小説から。越谷オサム『階段途中のビッグ・ノイズ』(幻冬舎文庫)は、とある平凡な高校の軽音楽部の物語。事の起こりは、主人公の神山啓人が二年生に上がる直前の春休み。僅か三人しかいなかった軽音楽部の先輩二人が、大麻やら覚醒剤やらで逮捕され、煽りを食って軽音楽部の廃部がほぼ決まる。友人の伸太郎が連帯責任の理不尽さを校長に直談判して、かろうじて存続を許されはしたものの、半年以内に何らかの成果を上げられない場合は予定通り廃部、という条件。

「何らかの成果」と言われても、件の薬物騒動のお蔭で部員勧誘は大苦戦。どうにか集まったのは、ギターの腕はピカイチながら、それをナチュラルに鼻にかけるリアルスネ夫みたいな勇作と、全国レベルの吹奏楽部から落ちこぼれた急造ドラマーの徹。これに、ベースをかって出てくれた伸太郎と、サイドギター兼ボーカルの啓人を加えた四人組。

 如何にも凸凹なメンツだし、練習場所は校舎の四階と屋上の間の階段の踊り場だし、顧問は昼行燈みたいで頼りない。それでも啓人は、小さな喜びを噛みしめる。かつて、例の二人の先輩がいた頃は、耳障りだからとギターをアンプには繋げさせてくれなかった。先輩たちが屋上でタバコだか大麻だかを弄んでいる間、仕方なく独りで練習し続けた。試しにアンプにつないでちょっと弾いたら、途端に「うるせぇ」と怒られた。

 でも今は、俄か作りとは言え、ちゃんとバンドを組んで音楽をやっている。薄暗い階段の奥で何をやっているか分からない怪しげな集団ではなくなった。技術的には未熟なところも多いけど、それはこれから少しずつ磨いてゆけばいい。今は、演奏出来ることがひたすら嬉しい。啓人は、初めての四人での音合わせの時に、そっと呟く。《 俺、一人じゃなくなった 》。

 勿論、それで全てが上手く回り始める程、人生は甘くない。意見が食い違って喧嘩したり、警察沙汰を起こした軽音楽部を敵視する教師から嫌がらせのような仕打ちを受けたり、挙句の果てには、春からずーっと目標にしてきた文化祭の直前に、選りにも選って……。


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 とまぁ、一難去ってまた一難。だけれども、作中のとある登場人物が言っている。《 若さを武器に勝負できるのはせいぜい十代のうちだから、少々不躾でもやりたいことをやるといいよ 》と。これこそが、本書の主題ではないかと思うのだがどうだろう? 実際、啓人たち四人は突き進む。周囲の白い目も、教師たちの敵意も、予算その他の悪条件も、ものともせずに突っ走る。

 かの司馬遼太郎が、名作『坂の上の雲』(文春文庫)の序盤でこんなことを言っている。《 青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない 》。こういった損得勘定抜きの元気を堪能したいからこそ、僕らは青春小説を手に取るのだし、それこそが青春小説の醍醐味だろう。若さのバカさと真っすぐさに胸を熱くしたいなら、『階段途中のビッグ・ノイズ』は必読だ。

 青春一直線の次は、おっさんと青年。小野寺史宜『ひりつく夜の音』(新潮社)は、落ち目のクラリネット奏者と、新進気鋭の若手ギタリストとの、奇妙な友情の物語。

 下田保幸は四十六歳。ジャズのクラリネット奏者として生計を立ててはいるが、最近はジャズファンそのものがめっきり減って、それに連れて仕事も減って、貯金を切り崩しながら細々と生きている。そんな彼の家に、ひょんなことから、二十二歳の佐久間音矢が転がり込む。こちらは、目下売り出し中のギタリスト。超有名ではないけれど知ってる人は知っているというぐらいには有名で、彼の腕前ならばその知名度は、これからぐんぐん上昇すると思われる。そんな二人が、寄り添うでもなく対抗するでもなく、成り行きと惰性で一つ屋根の下での暮らしを始める。

 保幸は、ジャズという音楽の未来も自分自身の行く末も、淡泊に見切ってしまっており、《 腕を上げるためではなく、下げないために 》最低限の練習しかしない。ジャズの普及に努めるでもなく、自分の技術を売り込むでもなく、かといって、音楽はすっぱり諦めて別の生き方を探るでもなく、縮小均衡のような人生を、良く言えば受け入れている。悪く言えば諦めている。

 こういうの、「解るわぁ」っていう中年は、きっと少なくはない筈だ。「このまんまじゃジワジワと先細りだよなぁ」と感じてはいても、「とは言え今すぐ何かを変えないとヤバイ、というほどの緊急事態じゃないしなぁ」とも半分ぐらいは思っていて、いずれはどうにかしなきゃと思いつつ、その〈 いずれ 〉はいつまで経っても来やしない(笑)。


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 ところが若者にとっては、ここで動かない理由が解らない。変化と現状維持とでリスクが五分なら、変化を選択しない理由が無いだろ、と考える。だから音矢は、生活の全てをギター中心に組み立てて、朝から晩まで弾きまくる。当然、恐ろしい早さで上達する。興味を持ったらバンジョーにまで迷わず挑戦したりする。

 そんな音矢を間近で見ながら、保幸は、羨ましいと感じると同時に、かつては自分もそうだったことを思い出す。クラリネットさえ吹いていれば幸せだった二十代の日々。新しい音を次々と自分のものにしていく達成感。その記憶が、「お前、まだやれるだろ?」と、保幸自身に問いかけてくる。古い友人からは《 伸びなくても、ふくらむことはできるんじゃない? 》などと背中を押されたりもする。そしてトドメは音矢のひと言。超一級の演奏技術を、活かすどころか持ち腐らせているだけの保幸に、彼は堪りかねて発破をかける。《 自分の音楽をやれよ 》と。そして続ける。《 うめえのに、何で吹かねえんだよ 》と。《 またバンドを組みゃいいじゃん。逆に訊きてえよ。何でそうしねえんだよ 》と。

 そんな訳でこの作品は、「あの頃はよかった」的な中年自己満足懐古小説などでは断じてない。惰性で人生を浪費していたおっさんが、幾つかの出会いに刺激を貰って、老けこむにはまだ早いだろ、と思い直して一歩を踏み出す。その一部始終を描いた落ちこぼれ中年再出発小説。それが、『ひりつく夜の音』なのだ。


 最後は先月号でもチラッと触れた、須賀しのぶ『革命前夜』(文藝春秋)。登場する楽器はピアノ、ヴァイオリン、パイプオルガン。

 時は一九八九年――東西冷戦の最末期。駆け出しのピアニスト眞山柊史は、憧れの音楽家バッハの息吹を肌で感じながらピアノの腕を磨くため、東ドイツはドレスデンの音楽大学に留学して来る。そこで出会った三人の音楽家。よく言えば自由奔放、悪く言えば傲岸不遜。独自の解釈でエゴイスティックな演奏を繰り返す天才肌のラカトシュ・ヴェンツェル。同じヴァイオリニストながらヴェンツエルとは正反対に、正確無比な演奏でどんな難曲も弾きこなす理論家のイエンツ・シュトライヒ。西側への移住を希望したために生活の細部までシュタージ(=国家保安省)の監視を受けながら、音楽への情熱を胸の最深部で燃やし続ける美貌のオルガニスト、クリスタ・テートゲス。


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 そんな彼らの狭間で自らの音を見失った柊史が、のたうち回るように苦悩する姿を描いた本書は、だがしかし、「若者が苦難を乗り越えて成長しました!」といったスポ根ノリの単純な小説では全くない。ならば何が描かれるのか?

 それは、一言で言えば〈 戦い 〉である。

 先に挙げた三人の他にも、柊史は、バロック音楽の聖地で幾人もの人間との出会いを重ね、意気投合したり反発を覚えたりするのだが、その誰も彼もが、まるで命を削るようにして何かと戦いながら生きている。或る者は理想の音楽のために、或る者は大切な人を守るために、或る者は国家から自由と尊厳を取り戻すために、そして或る者は国民から見捨てられつつある母国の未来のために。時には愛する人を傷つけ、時には自らの身を炙るが如き凄惨な様相を呈するその〈 戦い 〉の真っただ中に、誰もが怯むことなく突っ込んでゆく。

 そこに、油絵の具を塗り重ねるようにして描かれるのが、東欧を席巻した民主化革命である。これまで正しいと信じてきたものが一夜にして覆される。築き上げてきた栄えある過去が音を立てて崩れ去る。後には自分たちが依って立つべき何物も無く、茫漠とした未来だけが陽炎の如く揺らいでいる。

 その様子が、彼らの人生に重ならないという読者は恐らくいまい。

 そうなのだ。若きピアニストの挫折と再起を描いたように見せながら、実は本書の肝はそこではなく、東欧革命の嵐の中にすっくと立ち上がって未来を見据える人々――矜持や信頼や愛情や希望を木端微塵に撃ち砕かれて満身創痍になりながらも、懸命に明日への道を切り開こうとする柊史やヴェンツェルやクリスタや、その他大勢の登場人物たち――の生き方を、まるで袈裟斬りでもするような激しさと鋭さで描き出した、それこそが『革命前夜』の読みどころであり魅力であるのだ。

 物語の最終盤で描かれる革命の熱狂と、それとは対照的に静かに鼓動を刻む柊史たちの友情。その余韻は、読了後いつまでも読者の胸にこだまし続けるに違いない。そしてふと耳を澄ませば、聴いたこともない『革命前夜』なる名曲が、胸の奥で高らかに鳴り響いていることに気付くだろう。



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『階段途中のビッグ・ノイズ』越谷オサム 幻冬舎文庫
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋
『Sports Graphic Number 933号』 文藝春秋
『一〇〇〇ヘクトパスカル』安藤祐介 講談社文庫
『ひりつく夜の音』小野寺史宜 新潮社



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by dokusho-biyori | 2017-08-31 20:09 | バックナンバー | Comments(0)

17年08月

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 ナチスドイツに蹂躙されるポーランドを舞台に、民族の尊厳と人命の尊さを訴えた直木賞候補作『また、桜の国で』(祥伝社)。片やナチスの親衛隊、片や修道士という正反対の道に進んだ幼馴染みを対比させながら、戦争の残酷さとレイシズムの愚かさを浮き彫りにした『神の棘』(新潮文庫)。東西統一直前の監視国家・東ドイツで、若き音楽家たちの苦悩とプライド、情熱と友情がほとばしる『革命前夜』(文藝春秋)

 右の三作はほんの一例ではあるけれど、奥行きの深い背景と立体感に富んだ人物を端折らずに描いて、一段一段、まるでレンガでも積み上げるようにして重厚な物語を築き上げてゆくのが、須賀しのぶの持ち味である。『革命前夜』の大藪春彦賞受賞にとどまらず、恐らくは近い将来、この路線で幾つもの文学賞を獲得することになるのだろう。

 そんな彼女には、実はもう一つ別の顔がある。

 ファンには既に広く知られていることだが、須賀しのぶは超のつくほどの野球好きである。好き、どころではない。パ・リーグ・楽天ゴールデンイーグルスの「オタク」とでも言うべきマニアであり、高校野球の熱狂的なファンでもある彼女は、野球のルールは勿論、その戦術や駆け引きの機微に至るまで、驚くほど知悉している。

 故に、彼女が描く「野球」のクオリティは、昨今の文壇ではずば抜けている。投手と打者の心理の読み合いや、寄せては引きを繰り返すゲームの潮目など、単に「野球」というスポーツを忠実に再現しているだけではない。チームの内外の人間関係の陰影や、登場人物それぞれの迷いや不安、決意や自尊心など、プレイ以外のエピソードをコツコツと塗り重ねることで滲み出るリアリティ。勿論、魔球だのメジャー顔負けの天才少年だのといった、現実感ぶち壊しの設定など皆無である。登場するのは、僕らの知ってるどこかの誰か、みたいなフツーの野球少年や野球ファン。

 ってくどくどと説明するよりも、実際に作品を知って貰った方が話が早かろう。

 まずは、五月に文庫化された『ゲームセットにはまだ早い』(幻冬舎文庫)から。


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 大学生の頃はプロ入り確実のスラッガーと騒がれていた高階は、故障やらスランプやらでドラフトから漏れ、捲土重来を期して都市対抗野球の強豪企業に入社する。が、パッとした成績を残せないまま数年が過ぎた頃、業績低迷から抜け出せない会社は、リストラの一環として野球部の廃部を決定する。目立った実績を上げていない高階には移籍先の当ても無く、殆ど野球を諦めかけた時に出会ったのが、新潟県三香田市にある新興のクラブチーム、〈 三香田ヴィクトリー 〉。

 午前中だけ仕事をして、あとは一日中野球をやっていれば給料が貰えた企業チームと違って、地元の企業に普通に勤めて生活基盤を確保した上で、終業後や週末など、勤務に支障が無い範囲で練習をするのが「クラブチーム」。傍から見ればまさに〈 趣味の延長 〉であり、勿論、年俸や給料などは支払われない。高階にとってはまた一歩プロから遠ざかる選択ではあるが、背に腹は代えられず、半ば渋々、三香田ヴィクトリーに合流する。

 そして、そこで出会ったメンバーは……大手スーパーで最新の流通・小売を学ぶつもりが、何故か赤字続きの三香田店に配属されて腐る安東。大学時代、封建的な上下関係に適応できず、不当な評価で二軍に甘んじ続けた尾崎。有り余る才能を持ってプロ入りしながら、酷使された肘の故障と素行不良が重なって干された直海。……チームは、監督からコーチ、マネージャーまで、エリートとは程遠い寄せ集め。

 そんな寄せ集めたちが見せる意地。それこそが、須賀しのぶが「野球」以上に描きたかったことではないか。

 例えば……《 俺たちは、ただ野球がやりたいわけじゃない。野球やってりゃ幸せってほどお気楽なわけでもない。自分はまだこれで食っていける、てっぺん目指せると思いこんでるバカだから、ここまで来てんだよ 》と吼える選手がいる。

例えば……《選手も、そして観客たちも、みな楽しそうな笑顔だ。ああ、楽しんでくれている。そう思った途端、安東の胸にも喜びが弾けた 》と、弱小クラブチームの運営に遣り甲斐を見出してゆくマネージャーがいる。

 或いは終盤、三香田ヴィクトリーを支援する或る弱小企業の老経営者が、ヤケッパチになっている選手の一人に、懇懇と説き聞かせる場面がある。

《 人生には、努力が報われないことはいくらでもある。なんの才能もない人間でも、ただ堅実に努力を続けていればいつかは報われると信じてやってきて、それでもどうにもならないことってのはあるんだ 》
《 そういう人間でも、ぎりぎりまでやれるだけやったと思えれば、それはひとつの誇りになるんだ。自分を誇る瞬間がなければ、人は前にも後ろにも行けないものさ 》


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 実はこういった描写こそが、須賀しのぶの真骨頂なんだが、それをご理解頂くために、更に幾つか例を挙げたい。

 2015年発売の『雲は湧き、光あふれて』(集英社オレンジ文庫)には、実は二通りの愉しみ方がある。まずは、収録された三編をそれぞれ短編として味わうフツーの読み方。

 一編目の「ピンチランナー」は、代走を主人公にした変わり種なので、野球小説慣れした人にも新鮮だろう。ヒットやフォアボールで出塁した打者に代わって出場し、ただ盗塁することだけを期待された――逆に言うと、バッティングも守備も期待されてはいない役。そんな立場に途惑ったり腐ったりを繰り返しながら、少しずつ自分の価値を見出してゆく主人公。ちょっと斜に構えた感じのモノローグがユーモラスだ。

 二話目「甲子園への道」の主役は新聞記者。野球経験ゼロの新米女性記者が、夏の高校野球、埼玉県予選を取材する。その過程で気づく、己の弱さや承認欲求。《 負けたくない。否定されたくない。だから最初から、興味のないふりをする。そこそこでいいんだ、と自分に言い聞かせてる。だけどそんなのは、嘘なんだ 》。

 自分が病気であることに気づかなければ治療しようとは思わない。同じように、自分の過ちに自分自身で気づかないうちは、修正も成長も難しい。せっかく気づいても、腐ったり諦めたりでは、やはり前には進めない。高校野球を素材にしている本作ではあるが、物語の底にはまるで地下水脈のように、もっとずっと普遍的なメッセージが流れている。

 三話目の表題作はガラリと変わって、舞台は昭和16年、太平洋戦争開戦前夜。その夏に甲子園切符を手に入れながら、〈 時局がら 〉開催が中止となって涙を飲んだ球児たちの、これもある種の青春譚。
 当然ながら、明るく爽やかな前二作とは、だいぶ趣が異なって初めての読者は驚くかも知れんけど、『紺碧の果てを見よ』(新潮社)あたりの〈 須賀カラー 〉がジワリと滲む好短編。

《 国の大事? わけがわからない。だったら甲子園だって、自分たちの一大事だ。戦争なんて、国が勝手にはじめたことだ。そんなもののために、なぜこんな目に遭わなければならないのだろう 》というやりきれなさを、恐らくは当時、多くの人々がそれぞれの形で味わい尽くしたことだろう。終盤、《 あんな時代でなければ 》という主人公の悔恨がずっしりと胸に重い。と同時に、《 あんな時代 》ではない現在に生きていることを、感謝せずにはいられない。


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「雲は湧き、光あふれて」というタイトルは、言わずと知れた夏の全国高等学校野球選手権大会歌『栄冠は君に輝く』の一節。本作を読んで初めて知ったんだが、かつて甲子園を目指しながらも怪我で足を失った青年が作った曲で、昭和24年の大会で初めて使われて以来、半世紀以上に亘って、球児たちを激励し続けてきたそうだ。恐らくは、平和への祈りも多分に込められて――。

 とまぁ、そんな感じの三編なんだが、先に述べたようにこの文庫本は、短編集として読む以外にもう一つ、長編小説としても楽しめる。即ち、2016年に出た『エースナンバー』(同)が、「甲子園への道」でスポットが当たる埼玉県立三ツ木高校を軸にした続編になっておるのだ。

 第一話「監督になりました」は読んで字の如く、三ツ木高校野球部の監督になった青年教師の物語。時間軸は、前作「甲子園への道」の数か月前。だから、こっちを先に読んでも面白いかも。

 驚くべきは、生徒の頑張りとか空回りとか最近流行りの〈 空気読み過ぎ 〉とかを、教師の目線から実に生々しく描き出してる点である。《 うまいやつ、才能があるやつが評価されるのは当然だ。それが最も自然な形だろう。だがここは、高校の部活なのだ。強豪でもなんでもない、ごく普通の。一番努力したやつが報われる場であってほしい 》という主人公の独白に思わず肯きながら、自分も教師目線、保護者目線になって球児たちを叱咤激励する読者はさぞ多かろう。

 第二話「甲子園からの道」は、タイトルが暗示するように、先の「甲子園への道」の女性記者が、再び語り手となって、三ツ木高校野球部とそのライバルを追う。作中時間としては「甲子園への道」で描かれた埼玉大会のすぐその後。

《 だって、高校球児の大半は、まさにその「日の当たらないところで黙々と努力をし続ける」子たちなんだ。そしてその子たちの背後には、ものすごくたくさんの人たちの献身がある 》。エースや四番よりも脇役たちをこそズームアップしたいと願う彼女の視線が温かい。

 三話目の「主将とエース」も「甲子園への道」の直後から始まる話なんだが、こちらは、三年生が引退した後の、新キャプテンを軸に話が進む。一年前にゴタゴタがあって退部した、センス抜群の傲慢屋が復帰して、だけどワンマンプレーでやっぱり浮いたり、そんな彼を新キャプテンもマネージャーも、そして監督もどうにかしたいと悩んだり。《 おまえ、まだ笛吹のこと信用してないだろ? なのに頼ってる。勝つにはあいつは必要だって言ったよな。だが今のおまえ見てると、仲間として受け入れているようには見えない 》……と、こんな風に注意深く見てくれる監督の許でなら、二年半の野球人生は幸せだろうな。そう感じながら、『本の雑誌』の去年の10月号で俺はこう書いた。《 願わくはこの『雲は湧き』のシリーズを、長編でじっくりどっぷり堪能させてくれんもんだろうか 》と。


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 だから、という訳ではないんだろうけど、やってくれたよ須賀しのぶ。今年発売された第三弾『夏は終わらない』(同)は、件の三ツ木高校野球部を舞台にした、一冊丸ごとの長編だ。しかも、第一弾『雲は湧き、光あふれて』の「甲子園への道」から『エースナンバー』、『夏は終わらない』と通して読めば、彼らと一緒に一年半を走り回ったかのような充実感と達成感。それを味わいたいから、新刊を我慢して第一弾から改めて読み直したのはこの俺さ。

 監督の若杉先生と部長の田中先生のコンビも息が合ってきて(余談ながら、若杉って名前、〝 若過ぎる 〟から来てるんちゃうかな)、チームの面々も、自信失くして辞めようとする奴とか、陰で悪口言われても果敢に前を向くマネージャーとか、あれやこれやてんこ盛りしながらジワリジワリと前進してゆく。彼らにとって最後の夏が、このシリーズのグランドフィナーレ。《 スコアボードで確認しても、にわかには信じがたい。あの東明から、二点とっている。当然だと胸を張る気持ちも事実だが、頬をつねりたくなるのも事実だった 》っていうこの心の機微。どうだ見たか! と誇ると同時に、マジかよ? と俄かには信じられなかったりもする。何故そんなややこしい心境なのかを、ここで説明するのは野暮だろう。まぁ、須賀しのぶ節全開である、とだけ言っておく。

 そして最後にもう一つ。これまた新刊『夏の祈りは』(新潮文庫)は、まさに須賀野球文学の現時点での集大成。

 舞台はやはり埼玉県。県立北園高校野球部は甲子園出場こそ無いものの、公立のわりには強い伝統校――という設定でナインの七転び八起きが描かれる、と言えば間違いではないけど正確でもない。実はこの作品の主人公は、北園高校野球部そのもの。つまり、昭和63年の第70回大会から平成29年(つまり今年だ)の第99回大会まで、毎年部員は入れ代わりながらも甲子園を目指す〈 野球部そのもの 〉に焦点を合わせ続けた、大河小説のような野球部小説。

 公立高校である。派手な選手勧誘とか越境入学とか特待生制度とか、勿論ない。それでも毎年果敢に、設備も資金も人材も潤沢な私立四強に挑んでいく。挑んでは、弾き返される。


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その過程では、例えば、実力では控え選手に抜かれたのに、相変わらず「背番号1」を背負わされている〈 元エース 〉が《 どうせなら、エースナンバーから下ろしてくれれば楽なのに 》と弱音を吐く。例えば、お行儀のいい現代っ子たちに、もやもやとした不満を感じてしまう監督が独りごちる。《「自分の若いころはこうだった」という大人にだけはなりたくないと思っていたが、やはり指導者の立場に長くいると、物足りなく思うところも増えてきた 》といった述懐には、野球抜きで共感してしまう上司や先輩は多かろう。或いは、雑用係として選手からは名前も覚えて貰えないマネージャーという役割に、懸命に遣り甲斐と価値観を見出そうとする女子生徒がいる。或いは、甲子園まであと一歩まで迫った三年生と、中学野球で活躍した選手が揃った一年生に挟まれて《 ハズレ世代 》と陰口を叩かれる二年生たちがいる。

 圧巻は、その《 ハズレ世代 》たちがハズレなりの意地を見せる第五話「悲願」。

《 ハズレでもいいだろ。外野に言わしときゃいい。見返してやろうなんて考えんな 》
《 それよりも、おまえがやりたいようにやったほうが楽しいんじゃねえの 》
《 俺が打てなくても誰かが打つ。誰かが打てなければ俺がなんとか打ってみせる。そう思えるのは、なんて幸せなことなのだろう 》
《 もう二十年以上この仕事をやってるが、それでも未だに、君たちがもつ力に驚かされることがしばしばある 》
《 なぁおい、信じられるか。この中に、「ハズレ」って呼ばれてた連中が何人もいるなんて 》

 こんな風に、須賀しのぶの野球小説は、「野球」だけを描いている訳では決してない。むしろそれ以上に、プレイ以外の部分を略さず描くことで――それはまるで、細密な原画を元に鑿を振るう熟練の彫り師の如く〈 一寸の虫に宿る五分の魂 〉を浮き上がらせて見せてくれる。だからそもそもの野球好きが読んで楽しいのは勿論、野球に興味のない人間が読めば、逆に、現実の野球を見てみたくなるに違いない。例えば去年のリオ五輪で、普段見もしないアーチェリーだの卓球だのバドミントンだのに、あれだけ多くの人が喝采を叫んだのと一緒。そのスポーツに詳しくなくても、誰かが頑張ってる姿を見るのは、誰だって気持ちがいいものなのだ。

 折しも、『夏の祈りは』で素材となった第99回全国高校野球選手権の季節である。須賀しのぶの野球小説を傍らに、NHKの中継やテレビ朝日「熱闘甲子園」で熱くなる、というのが、今年の夏のお薦めである。



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『エースナンバー』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800921 540円+税
『革命前夜』須賀しのぶ 文藝春秋 9784163902319 1,850円+税
『神の棘』須賀しのぶ 新潮文庫 ①9784101269719 750円+税 ②9784101269726 890円+税
『雲は湧き、光あふれて』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086800297 540円+税
『ゲームセットにはまだ早い』須賀しのぶ 幻冬舎文庫 9784344425934 770円+税
『図書館戦争』有川浩 角川文庫 9784043898053 667円+税
『夏の祈りは』須賀しのぶ 新潮文庫 9784101269733 520円+税
『夏は終わらない』須賀しのぶ 集英社オレンジ文庫 9784086801409 540円+税
『また、桜の国で』須賀しのぶ 祥伝社 9784396635084 1,850円+税



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by dokusho-biyori | 2017-08-06 11:26 | バックナンバー | Comments(0)

17年07月 前編

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 今回でこのチャレンジも最後である。ここまでくると全て名作ぞろい。ほとんど読んだことがある作品ばかりである。必然的に再読という形になったが、どれも新しい発見があって面白い。その中でも一番はやはり『獄門島』である。再読すればするほどおもしろくなっている気がするというのは、やはり一位を獲得するゆえんなのだろう。

10位 横溝正史『本陣殺人事件』角川文庫

 密室殺人というのは魅力的な謎であるにもかかわらず、実際的な面から考えるとこれほど不経済な殺し方はない。トリックを考えるのには時間と労力が必要だし、「針と糸をあやつって閂を……」などと只今絶賛トリック実行中に誰かに目撃されてしまう可能性だってあるし、何よりもわざわざ密室を演出する理由が「自殺に見せかけるため」以外にそうそう思いつかない。つまり、ミステリー作家がわざわざ密室殺人を描くとしたら、以上の不経済をふまえて読者を納得させるトリックを考えなければならないのだ。

 その点において『本陣殺人事件』ほど見事に、密室殺人事件の不経済性を解決しているトリックはなかなか無い。結婚式の後、初夜を迎える夫婦が日本刀で切り刻まれ、現場となった離れの周囲には足跡ひとつない新雪が積もっているといった所謂「雪の密室」のトリックは、その周囲にちりばめられた伏線と見事に連携した傑作である。真っ向から勝負した密室トリックとあっと言わせる捻りの効いた犯人、そして何よりもある怪現象が物語の雰囲気を盛り上げるだけでなくトリックの重要な部分に関わっているという、全てが一つの絵のピースでありながら人工的なわざとらしさを感じさせない構成はもはや神業である。江戸川乱歩の「D坂の殺人」以降、日本でも様々な密室トリックが考案されてきたが、かくも物語と融合したトリックは本作くらいではないか。密室トリックを扱ったミステリーとして初期の作品でありながら一つの完成型ともいえる傑作である。

 余談だが、本作はかの有名な名探偵・金田一耕助の初登場作品である。その歴史的価値も感慨深いものがある。


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9位 京極夏彦『魍魎の匣』講談社文庫

 ミステリー小説はよくパズルに例えられるけれども、この『魍魎の匣』はタイトルにあるように匣に例えられる小説かもしれない。バラバラな断片が綺麗に、みっちりと詰った匣――。事件の要素を匣の中身とするならば、物語るとは断片を一つ一つ取り出して読者に見せることであり、事件を解決することは取り出した断片をきっちり元通りに匣につめる行為になるだろう。つまり『魍魎の匣』を読むということは、バラバラの断片を一つ一つきっちり匣につめていく様子を眺めるようなものだ。

 新興宗教、少女連続バラバラ殺人、密室から消えた瀕死の美少女……、著者はそれら断片を次から次へと読者の目の前においてみせる。全ての断片が読者に提示されたとき、つまり小説でいう事件部分が終わり、さあこれから探偵が謎解きを始めようと腰を上げる瞬間、読者は困惑してしまう。「はたしてこれだけのものがもう一度、あの匣に入りきるのであろうか?」と。ところがそんな読者の心配をよそに、京極堂は次々と真相を明らかにして複数の事件と断片は小説『魍魎の匣』という匣の中に収められる。そう、彼の推理が全て語り終わったとき明らかになる事件の全体像は、断片=ピースが全て有機的に繋がったパズルとはちょっと違っている。強い関係性はないけれども、確かに小説の中では共存している断片同士。やはりそこは、隙間もなく飛び出すこともなく小説『魍魎の匣』に詰められた断片同士の関係性を思ってしまうのだ。「パズルではなく匣? はて何のことやら」と首を傾げてしまうのは当然。それほどこの小説は奇妙な構造をしているのだ。複数の事件が発生するミステリーの新たな視点。よくもまあ、あれだけ奇妙で数多い断片を綺麗に「収納」したものだと感心せずにはいられない。


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8位 綾辻行人『十角館の殺人』講談社文庫

「ミステリーに興味があるけど何から読み始めたらいいかわからない」という人に最初の一冊として、必ず『十角館の殺人』を薦めるようにしている。なぜなら本格ミステリーの醍醐味を一番分かりやすく、かつ高い完成度で味あわせてくれるのはこの本をおいて他にないと考えているからだ。

 設定はアガサ・クリスティーの傑作『そして誰もいなくなった』(海外ランキングの一位。読んで損なし!)のオマージュで孤島に招待された男女が次々と殺されていくというクローズドサークルもの。そこに本島に残された者たちが過去に孤島で起きた事件の真相を探る「本島パート」が謎解きの妙味をプラスしている。それぞれ単独で素晴らしく面白いミステリーとして完成されているのだが、最後に最大の一撃が待っている。たった一行、たった数文字にこれほど驚かされたことはいまだかつて無い。

 かような仕掛けはミステリーマニアでも、いやマニアだからこそ引っかかってしまうかもしれない。というのも、『十角館の殺人』は古今東西あらゆるミステリーの小ネタやオマージュが散りばめられているので、マニアはそのディティールを「俺は分かるぞ」とニヤニヤしながら読むことになる。しかし、散りばめられた小ネタはトリックを覆い隠す煙幕となってマニアの目を曇らせているのである。自身も相当なミステリーマニアだった著者が、同類の生態を踏まえて描いた驚きの犯罪に、(ネタばれされる前に)一度驚くことを強くオススメする。

7位 天藤真『大誘拐』創元推理文庫

 立てこもり犯や誘拐犯に感情移入してしまう被害者の心理をストックホルム症候群というらしいのだけれど、『大誘拐』の誘拐被害者であるおばあちゃんはその域を超えて、犯人グループに助言を与え、陣頭指揮を執るボスのような役割を果たす。古今東西あらゆるミステリーはあれども被害者が犯人に協力する事件などこの作品を除いては他にないだろう。

 そもそも誘拐ミステリーの面白さは、必ず現在進行形の事件を描かざるをえず、目に見えぬ犯人の、着地点の分からない指示に作中の警察と一緒に翻弄され続けるサスペンス性にあると思っている。その点で言うと『大誘拐』は犯人側の視点で描かれる倒叙形式であるので犯人側の目的が分からないというサスペンス性はうすい。分からないのは被害者側の目的である。誘拐されたおばあちゃんが次はどんな指示を出すのか、身代金の受け渡しはどうするのか、そしてなぜ犯人に協力するのか。警察と読者が翻弄されるのは犯人ではない。物語の主導権を握っているのは誘拐事件の被害者なのである。「犯人が事件の主導権を握る」という常識をひっくりかえしたところに『大誘拐』の最大の魅力が詰っており、最大のトリックが隠されてもいるのだ。

 警察、犯人、そして読者を手玉に取る最強の被害者は、最高の誘拐劇を味わわせてくれる。


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6位 松本清張『点と線』新潮文庫

 ミステリーというジャンルは納得のいく解決=現実での再現性がありそうな事件の真相が強く求められる反面、密室殺人やバラバラ殺人など派手で荒唐無稽な事件ほど好まれるという矛盾を抱えているのではないだろうか。謎解きの意外性と面白さを追求するほどに、現実から乖離してしまうのだ(その極限的な例が『黒死館殺人事件』である)。では、リアリティを求めたミステリーは退屈なのか、その反証として松本清張の『点と線』はミステリー史に屹立している。

 事件自体は極めて単純な殺人事件であり、用いられているアリバイトリックも凡庸だし探偵役の刑事の推理も快刀乱麻を断つとは程遠い。しかし、小説の主眼はそこにはない。鉄壁と思われた容疑者のアリバイをあらゆる証言・証拠と小さな発見から崩していく過程にあるのだ。というミステリーは今までもいくつかあったように思うが、『点と線』の捜査過程は挫折の連続である。手がかりをつかんだと思えばアリバイは崩せず、トリックを見破ったと思えば別の証言で否定され、用意周到すぎる犯人の計画に敗北の連続である。いったいどうすれば犯人のアリバイを崩せるのかという興味が尽きない。

 荒唐無稽な事件も、派手派手しいトリックも必須ではない。捜査そのものへの歓心を得ることができればミステリーの傑作たりうる。松本清張の処女長編であり社会派ミステリーブームの火付け的な役割という歴史的価値を差し引いても一読する価値がある。

5位 宮部みゆき『火車』新潮文庫

 たった一人の女性が行方不明になったというだけの事件のはずだった。しかし、行方不明者の探索は、やがて隠された重大な犯罪にたどり着く。ピアノ独奏曲を聴いたと思っていたらいつの間にかオーケストラの演奏を聴いていた、そんな気分である。

 物語のベースにあるのはカード破産問題だ。婚約者がカード破産した過去が知られた瞬間行方不明になってしまった、という甥からの相談に休職中の刑事が捜査に乗り出すというあらすじだが、要するに一人の女性の半生を、関係者を辿りながら明かしていく物語である。一見単調なあらすじだが、行方不明の女がただものではない。「ただの行方不明者」という字面も奇妙だが、それの奇妙さが腑に落ちてしまうほど前半のクライマックスに用意されているある事実は物語を一変させてしまう威力を持っている。興信所にでもどうぞと言いたくなる依頼は、いつのまにか謎と犯罪のにおいがプンプンするミステリーへと変貌するのだ。

 60位の『理由』でもそうだったが、宮部みゆきという作家は、現実にある社会問題からミステリーとしての謎を創造する手腕に優れている。現実から虚構を生み出す能力は、『火車』ではカード破産という誰の身にも振りかかる災難(作中では「公害のようなもの」とまで言われる)から、この小説でしかありえない特別な事件を生み出してしまったのだ。まるで日常という足場が音をたてて崩れて、恐ろしくも魅力的な虚構の世界に足を踏み入れてしまったアリスのように味わっていただきたい。


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4位 夢野久作『ドグラ・マグラ』角川文庫

 読んだ人間は一度精神に異常をきたす――『ドグラ・マグラ』をかように評した言葉がある。精神病の患者を描いたミステリーであるこの小説の、あまりに真にせまった内容が読む者の精神にまで影響を及ぼすということなのだろう。確かにこんなにも奇妙キテレツな小説はなかなかナイにしても精神に異常をきたすことはないと思うので安心されたい。現に二回読んで平気だった人間がここにいる。

 ただ、「精神に異常をきたす」といわれるのもムリないと思わせるほど異形の小説であることは確かだ。オープニングから記憶を失った青年の一人称で語られるその文体、読むほどに彼の混乱や狂気がヒシヒシと脳髄にしみこんでくるかのよう。その切なさ、狂おしさ……。自分は一体誰なのか、どうしてここ(精神病院)にいるのか……、懊悩する彼に追い討ちをかけるように妖しさと狂気に満ちた奇妙キテレツな殺人事件が語られる。そうすることが記憶を取り戻す治療になるとして。それならば、彼の言う婚約者を殺した青年とは私のことなのか、膨らむ疑問に話者は否定も肯定もしない。ただ思わせぶりな態度をとるだけで、右に寄らば左、左に寄らば右という具合に主人公も読者も不安定な状態に置かれる。ああ、果たして何が真実なのだろう、何が起こっているのだろう、そして私は誰なのだろう……。拠るべき事実がない物語、もし読む者の精神へ影響を与えるとすればかくも不安定な状態を強いられる、ある意味恐ろしい読書体験ゆえだろう。

 面白いとかつまらないとかの次元を超えた読書体験ができる、日本三大奇書の一冊である。


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3位 島田荘司『占星術殺人事件』講談社文庫

 人を殺した後、その死体をバラバラにする行為というのは、密室殺人と比べて極めて現実的である。その証拠ではないが、現実社会で密室殺人は起きないけれでもバラバラ殺人事件は起きている。それは死体をバラす行為が、死体の移動を容易にしたり身元の特定を困難にしたり、犯人にとって実用的なメリットがあるからだ。とはいうものの、ミステリー小説においてそんな安直な理由で死体をバラバラにしたら、批判こそされないものの冷ややかな目で見られることはほぼ間違いない。ミステリーにおけるバラバラ殺人を扱うということは相応の覚悟と奇想が必要なのである。

『占星術殺人事件』では娘六人が行方不明になり、一部を切り取られた死体が次々と日本各地六ヵ所で発見される。死体の切り取られた部位や発見された場所が、死んた画家が遺した手記の内容に酷似している。その手記は六人の娘の一部を使って完璧な女「アゾート」を作り上げるという計画を記したものであった。「アゾート」を作るために娘たちは殺されたのか、もちろん違う。いくらバラバラ殺人に奇抜な理由付けが必要とはいえ、オカルトに走ってはいけない。占星術や「アゾート」といった装飾に巧みに隠された真相があるのだ。そのバラバラ殺人の真相こそ『占星術殺人事件』をミステリー史に名を残す傑作たらしめている名トリックなのである。運搬のためでもなく死体の身元を隠すためでもなく、それ以上の恩恵を犯人にもたらすバラバラ殺人の理由とは何なのか。おそらくこれ以上見事なトリックは今までも、そしてこれからも現れることはないだろうと思われる傑作である。

2位 中井英夫『虚無への供物』講談社文庫

 我々がミステリー小説を読むとき、こう思っていないだろうか。「もっと面白い事件を。もっと陰惨な殺人を……!」と。極言してしまうと、ミステリー小説は人が殺されたことをある種ゲーム化して楽しむジャンルだ。人の死を、「ああでもない。こうでもない」とひねくり回すジャンルといえよう。そのジャンルの倒錯性そのものにスポットを当てたミステリーが『虚無への供物』である。

 作中で起こる変死事件は普通の事故死であったり自殺であったり、特筆すべき事件性はない。ところが、作中に登場する自称探偵たちの毒牙にかかると、たちまち恐るべき計画性に満ちた殺人事件のように「解釈」されてしまうのである。同時に、読んでいる我々も「これは殺人事件だ」と思わず宗旨替えしてしまう現象まで同時発生する。探偵たちが推理をすればするほど事件が歪められていく不思議な現象を目の当たりにしつつも、推理合戦の面白さにそれを許容してしまうし、一つの推理が否定されるたびに「次はもっと驚きに満ちた推理を」という期待までしてしまう。そして、嬉々として推理遊戯に淫する探偵の姿は、次第に読者のそれと重なってくるのであるが、探偵たちの推理が極限に達してどれもあり得そうな推理が揃った最後、明かされる真相の何と皮肉なことか。

 普通のミステリー小説として読んでも楽しめるが、その床板を外したところに黒々とした世界も足を踏み入れて欲しい。ミステリー小説にしてミステリー小説でない、「アンチ・ミステリ」と評された日本三大奇書最後の一冊である。


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1位 横溝正史『獄門島』角川文庫

 ケレン味を利かせると事件が浮世離れしたものになり、登場人物の行動もどこか機械めいてきてしまう。かといって現実に寄せすぎると地味な小説になってしまう……。今までのレビューの中で何度か触れてきたミステリーの抱える葛藤である。その葛藤を物語の中で絶妙に解消してみせる作家が横溝正史であり、その最高傑作が『獄門島』なのだろう。

 事件はケレン味たっぷりに展開される。瀬戸内海の孤島で美しくも狂った美少女が次々と殺される。死体は木に逆さに括り付けられたり吊り鐘で覆い隠されたり、事件現場には島にいる狂人の犯行を匂わせるモノがあったりと盛りだくさんだ。とはいえ、それらは物語をただ面白くする装飾物なのではない。事件の真相が明らかになれば、あらゆる要素が獄門島で起きた連続殺人事件にとって不可欠であったことが分かるのだ。ただ、それもムリにひとつにまとめたような人工臭さはまるで無い。ある出来事に対する人々の反応がまた新たな出来事を発生させるという、事件が生き物のように生成されていくような真相なのだ。メイントリックも素晴らしい。個々の殺人に用いられたトリックも面白い。しかし、真にこのミステリーの素晴らしいところは、人々の思惑の集合体としての殺人事件をかくも自然に描き出した構成にあるのではないか。

 以上、長々と分析めいたことをしてみたが、初読時は何も考えずにただ楽しめばいい。雰囲気たっぷりの舞台に没入し、大胆なトリックに驚き、そして悲劇的な結末にやるせない気持ちになる。その後に、是非とも再読することを薦めたい。登場人物一人ひとりの言動が事件にどう関与しているのか見えてくる。そして今度は恐ろしく完成された物語に慄くべきなのである。



後編に続く⇒





















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by dokusho-biyori | 2017-07-09 21:12 | バックナンバー | Comments(0)

17年07月 後編

⇒前編から続く



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『ジェノサイド』高野和明 角川文庫
 世界的規模の陰謀が進行する傍らで、そうとは知らずに、薬学を専攻する主人公が人類の未来を握る新薬の開発に邁進する。その研究を諦めかけた時に、相棒が静かに主人公に告げる名セリフ。「科学」の部分は、色んな言葉に置き換えられるような気がします。



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 本書の著者であり語り手でもあるジャコモが五歳の時――姉は七歳、妹は二歳だった――間も無く弟が生まれると、両親から知らされた。しかもその弟はちょっと特別なんだと言う。何がどう「特別」なのかを尋ねると、父親の返事は《 みんなとは少し……違うってことなんだ 》と、なんだか要領を得なかったのだけど、ジャコモにとっては初めての男の兄弟であり、今まで何かと多数決で女性陣に負けてきた彼は、遂に姉たちと対等にテレビのチャンネルを争えると大喜びし、DVDプレーヤーやチョコチップクッキーのために同盟を結ぶことを心に誓い、一緒にバスケットのチームで活躍する日を夢に見る。その浮かれようときたら《 弟が生まれるというニュースを聞いてからというもの、僕はずっと喋りっぱなしで、少しも黙っていなかった 》というぐらい。

 そして数カ月後。生れてきた男の子は、ジョバンニと名付けられ、家族で一番の人気者になった。けれどもジャコモは、自分たちが成長するに従って少しずつ少しずつ、弟の「特別」な部分が見えてくる。幼稚園に通う年頃になってもまともに歩けず、移動したい時には這ったり転がったりする。言葉も解らず数も数えられず、会話もなかなか成り立たない。でんぐりがえしすら出来ないほど首が弱いから、戦いごっこなんてもってのほかだ。

 要するに、ジョバンニは、ダウン症だった。

 という訳で、ジャコモ・マッツァリオール『弟は僕のヒーロー』(小学館/関口英子訳)は、ダウン症の弟を持った著者が、日々の暮らしの中の驚きと発見、悩みと希望を時にエッセイ風に、時に小説風に綴ったノンフィクション。特筆すべきは、弟の成長を描いている以上に、己の変化を素直に告白している点だろう。

 著者が中学生になると同時に、あれほど仲の良かった兄弟の関係に変化が現れる。例えば或る日、弟が何人かの小学生にからかわれているのを見かけたジャコモは、自分がその兄だと知られるのが嫌で、見て見ぬ振りをしてしまう。だからと言ってジョバンニへの愛情が枯れた訳ではなく、見て見ぬ振りをしている間中、心の中で彼は、弟に謝り続ける。そして帰りの道すがら、ひたすら涙を流し続ける。或いは別の日、友達が家に遊びに来ると、ジャコモはジョバンニに「部屋から出るな」とくどいほど言い聞かせて、友達の目からジョバンニを隠そうとする。

 全く同じ経験は無いとしても、ジャコモの気持ちがなんとなく分かるような気がする人は多いのではなかろうか。かく言う僕もそのくちで、しかも分かるような気がしてしまうことに、罪悪感に似た後ろめたさまで感じてしまう。さて、この感情は一体何だ?

 それはジャコモの小学校からの親友――だからジョバンニのダウン症のことも知っている――ヴィットが見事に言い当てる。実は中学に入ってからジョバンニのことをみんなに隠していると打ち明けたジャコモに対して、ヴィットは言う。《 どうして隠す必要があるのかも、俺には理解できない…… 》《 みんなにからかわれる 》《 ということは、問題は、ジョーが世間の食いものにされるってことじゃなくて、おまえ自身が世間の食いものになるのが怖いんだな 》。

 持つべきものは友、とはよく言ったもので、この会話を契機に、ジャコモの中で何かが変わり始める。更に、ジョバンニと同じハンデを抱えた人たちとの出会いが、その変化を加速させる。或るダウン症患者は言う。《 誰もがなにかしら障害を抱えてるものなんだ 》と。そして、かつてからかわれたりいじめられたりした体験を告白しながら、こう続ける。《 おかげで僕は、僕のことをいじめる連中みたいに生まれてこなかったことを神に感謝するようになったんだ 》と。

 そういった体験を重ねることで、ジャコモはやがて確信する。《 ひとは、自分に理解できないものや、恐怖を覚えるものをさげすむ傾向がある 》と。そして《 きみの作る曲は理解できないと言われたボノだって、最終的にあれほどの高みに行きついたじゃないか 》と、イギリスのミュージシャンを引き合いに出して、ジョバンニと兄弟であることを誇りに思う。

 さて、長くなったがそろそろお解り頂けたことだろう。本書は、兄の目からみたダウン症の弟の成長日記ではなく、ダウン症の弟を持ったことで成長出来た自分自身の記録なのだ。その文章は正直で誠実で、かつて弟を恥ずかしいと思っていたことも、今は誇りに感じていることも、ストレートに読者の胸に響くだろう。

 ジャコモがジョバンニの様子を撮影したショートムービーが、Youtubeで29万回も再生されたことが本書出版のきっかけになったそうで、本書と併せてご覧頂けば、マッツァリオール兄弟に一層の親しみが湧くこと請け合いだ。
http://www.youtube.com/watch?v=0v8twxPsszY


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 朝倉宏景『風が吹いたり、花が散ったり』(講談社)はフィクションだけれども、やはりハンディキャップと共に生きる人の物語。皆さん、「盲人マラソン」ってご存知ですかね。僕はテレビでチラッと見かけたことがある程度なんだけど、読んで字の如く、視覚障害を持った人が走るマラソン。勿論一人では危険極まりないから、一人一人のランナーに、健常者の伴走がつく。選手と伴走者は、輪になった一本のロープを握ってつながっている――というスポーツ。その「伴走者」を主人公にしたのが本書。

 この「伴走」というのが、単に一緒に走ればいいというほど簡単なものではなさそうで、当然ながら、選手が三時間半で走ろうとするなら、伴走者も同じ時間で走る実力があるのは最低限。更に、カーブだ段差だ坂道だと、コースの状況を的確なタイミングで分かり易く伝えなければならないし、抜いたり抜かれたりする時だって他の選手とぶつかったりしないように上手く誘導する必要がある。その他にも、給水だ折り返しだ一キロのラップが何秒だと、フツーなら見りゃ分かることを逐一言葉で伝えなきゃならない。その上、走者とは短いロープでつながっている訳だから、腕の振りや足の運びなどは、自分のペースではなく走者に合わせなきゃならない。且つ、走者をレースに集中させるために、ゼーゼーハーハーと呼吸を乱したりも出来ない。そして何よりも大切なのが、走者との信頼関係。視覚に頼れない走者は、伴走者が右と言えば右、左と言えば左に、伴走者だけを信じて動く訳で、右に動いた次の瞬間、別のランナーにぶつかりはしないか、石や空き缶などを踏みつけて捻挫しやしないか、或いはコースが間違っていやしないか、そんなこと心配しながら四二・一九五キロ走り切るなんて無理だというのは経験が無くても容易く想像出来る訳で、即ち、伴走者が右と言ったら何も考えずに右に行く。そんな信頼関係が無いとこの競技には参加出来ない。ただ走れりゃいいっていう単純なもんじゃない。

 といったこの競技の難しさと緊張感が、ピリピリと行間から伝わって来る本書、実際に競技に関わっている人に、恐らくは相当細かい取材をしたのではなかろうか。その甲斐あって、終盤のレースシーンでは、文字通り手に汗握る描写の連続。更に、そこに行きつくまでの主人公たちの信頼関係の醸成のプロセスや、暗い過去をふっ切って前に進もうとする彼らのトライ&エラーも大きな読みどころ。きっと読了する頃には、「走ってみたいな」「観てみたいな」と感じる読者が多発するに違いない。


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 視覚障害を背負った人たちの凄さを紹介する本をもう一冊。『息を聴け』(新潮社)の著者・冨田篤氏は、日本を代表する打楽器奏者。その冨田氏が、熊本県立盲学校アンサンブル部を指導した数年間の驚異の記録。

 冨田氏がいくら世界的な奏者であるとは言え、視覚障害者に教えた経験は勿論無く、初めは試行錯誤と七転び八起きの繰り返し。例えば、全盲ではなく僅かに視力が残っている弱視の生徒でさえ、木琴だのマリンバだののズラッと並んだ音版は見分けられず、どデカイ一枚の板にしか見えない。それを叩くマレットだって、いちいち手渡してやらないと握れない訳で、演奏中に別のマレットに持ち替えるなんて技を、使えるようになるとはとてもじゃないが思えない。「こうやるんだ」と手本を見せても生徒たちには見えない訳で、最初の数カ月はまさに手取り足取り四苦八苦。

 ところが或る日……。たどたどしいながらも何とか演奏らしいことが出来るようになった頃、彼らの音を聴いていた冨田氏はふと気付く。生徒たちは、自分が教えていない音を出しているぞ、と。自分が教えていないテクニックを使っているぞ、と。そして愕然とする。これは、自分の演奏の「癖」ではないか!? そうなのだ。目に頼ることが出来ない視覚障害者の生徒たちは、代わりに常人離れした耳を持っていた! その耳で、冨田氏のお手本演奏を何度も聴くうち、無意識のうちに「耳コピ」していたのだ! 世界的な奏者の奏法を!!

 実は打楽器アンサンブルのコンテストでは一般的に指揮者は置かず、演奏を始めるのも終わらせるのも、奏者同士のアイコンタクト一つでやらなければならないそうで、仮に出場するとなると、そのハードルをどう乗り越えるかが冨田氏の悩みの種だったのだけれども、生徒たちの「耳コピ」を目の当たりにした彼は瞬時に決意して彼らに告げる。《 息を聴け! 気配を感じろ! お前たちの武器はその耳だ! 》。

 こうして練習を続けた熊本県立盲学校アンサンブル部は、四年後、なんと、第28回全日本アンサンブルコンテストで金賞を受賞する。念のために言っておくと、このコンテストは障害者を対象としたものではなく、即ち、健常者に混じって出場した視覚障害者のチームが、正々堂々、金賞を勝ち獲ったのだ。

 こんなにも感動的で勇気づけられるノンフィクションなのに、本書は現在、絶版。もっと読まれるべきだし、本屋として僕も売りたい。どこか復刊してはくれんもんだろうか。


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 最後にもう一つ、復刊を強く希望したい書籍を。平山譲『4アウト』(新潮社)は、障害者野球に打ち込む選手たちを追ったノンフィクション。帯には《 一度は「3アウト」を宣告された人生。でも、まだ終わったわけじゃない――。 》とあり、恐らくそれがタイトルの由来だろう。

 登場する選手は、例えば、25歳の時に事故で右腕を肩から失った島田泰幸・27歳。やはり25歳の時に、突発性難聴で前触れも無く聴力を失った57歳の山泉邦夫。幼少期に左足神経が麻痺したまま動かなくなった26歳の谷口貴之。バスケットボールで全国大会を目指していた大学3年生の時、交通事故で右足を切断、今は義足で走り回る竹田賢仁は31歳――などなど、選手全てが何らかの障害を背負って生きており、中には一度は絶望して人生を諦めかけた者もいる。

 この選手たちが凄いんだ! 例えば、右腕を失った島田さんは、左手のグローブで捕球するや否や
《 左手にはめたグローブで球を宙に投げ上げ、その間にグローブを外して地に落とし、素手になった左手でボールだけを掴み、矢本めがけてストライクを投げてきた 》
だけでなく、なんとその間、一秒にも満たないというから、俄かには信じ難いほどの神業である。勿論、最初っからそんな離れ業が出来た訳ではない。怪我をしてから一年余りは、生きる意味を見失って家にこもっていた島田さん。もう一度《 自分で自分を褒められるように 》なりたいと願って障害者野球を始めた当初は、捕球から送球まで十秒以上もかかっていた。それから僅か数ヶ月で――中学で野球部に在籍していた経験があったとは言え――まるで漫画にでも出てきそうなスーパープレイを身につけるなんて、恐らくは、当の本人でさえ想像できなかったんじゃなかろうか。

 印象的な描写がある。その島田さんが、障害者野球チーム・東京ブルーサンダースを初めて訪れた時のこと。両親も弟も、心配半分、応援半分でグラウンドまで一緒に来ていたんだけど、最初のノックを――健常者ならどうってことない平凡なフライを――島田さんが無事キャッチした次の瞬間の両親を描いた場面だ。
《 「おとうさん、おとうさん、ヤスユキが捕ったよ」と叫びながら、幾度も夫の肩を揺すって驚喜した。ふと、とよ子は息子から目を離し、無言のままでいる夫の横顔を見た。夫は、泣いていた。事故のときも泣かなかった夫が、いま泣いていた 》。

 なんでこんなにいい本が――障害を持った人たちだけでなく、僕ら健常者にも大きな勇気を与えてくれるこんな名著が――絶版なんだ!? 書店員としては勿論、一読者、一スポーツファンとしても、復刊を強く激しく希望したい。

 とまぁ今月は図らずも、ハンディキャップを抱えていながら、それをものともせずに生きる人たちの本を、四つ立て続けに紹介することになった。これらのどの登場人物を見ても、その肉体的な、そして精神的な強さに、何か高い山でも仰ぎ見るような気持ちになるのだけれど、考えてみればハンデとは、強いからこそ課されるのである。試しに広辞苑で「ハンディキャップ」を引いてみると、《 不利な条件 》という語義は実は二番目で、その前に、《 競技などで、優劣を平均するために、優秀な者に課する負担条件 》という第一義が載っている。言われてみれば、ゴルフでも競馬でも、強い者ほど重いハンデを課されるし、将棋には強い者が最初っから飛車や角を抜く「駒落ち」がある。ハンディキャップは《 優秀な者に課される 》のである。



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『息を聴け』冨田篤 新潮社 9784103024514 1,300円+税(絶版)
『弟は僕のヒーロー』ジャコモ・マッツァリオール/ 関口英子 訳 小学館 9784093885423 1,500円+税
『火車』宮部みゆき 新潮文庫 9784101369181 990円+税
『風が吹いたり、花が散ったり』朝倉宏景 講談社 9784062205344 1,350円+税
『虚無への供物』中井英夫 講談社文庫 上9784062739955 下9784062739962 各750円+税
『獄門島』横溝正史 角川文庫 9784041304037 560円+税
『ジェノサイド』高野和明 角川文庫 上9784041011263 600円+税 下9784041011270 640円+税
『十角館の殺人』綾辻行人 講談社文庫 9784062758574 750円+税
『占星術殺人事件』島田荘司 講談社文庫 9784062775038 838円+税
『大誘拐』天藤真 創元推理文庫 9784488408091 840円+税
『D坂の殺人』江戸川乱歩 創元推理文庫 9784488401023 520円+税
『点と線』松本清張 新潮文庫 9784101109183 520円+税
『ドグラ・マグラ』夢野久作 角川文庫 上9784041366035 520円+税 下9784041366042 640円+税
『4アウト』平山譲 新潮社 9784103003717 1,400円+税(絶版)
『本陣殺人事件』横溝正史 角川文庫 9784041304082 640円+税
『魍魎の匣』京極夏彦 講談社文庫 9784062646673 1,350円+税



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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7月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-07-09 21:00 | バックナンバー | Comments(0)

17年06月 前編

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 今回取り上げた『不連続殺人事件』や『黒死館殺人事件』は該当作のみで一冊の文庫本もあるが、創元推理文庫は当時の挿絵が入っていたり、他の作品を読むことで該当作へのウォーミングアップができるということもあり、わざわざ日本探偵小説全集収録と記した。作品の雰囲気を十分に味わうことができるので是非挿絵つきで読んでいただきたい。

21位『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫

 妖しげな屋敷に招待された客が次々と不審な死を遂げる……本格ミステリーではテンプレートのような設定だ。そのテンプレートの中で雪の山荘があったり絶海の孤島の屋敷といった様々なバリエーションがあるのだが、エッフェル塔のように傾いだ屋敷で起きる連続殺人事件というのはミステリーの長い歴史でも1982年の『斜め屋敷の犯罪』を待たねばならなかった。「斜めの建築? 欠陥住宅のことかな」と思ったら大間違い。設計段階から斜めになるように運命付けられた奇妙奇天烈な屋敷なのだ。そして、その奇妙な設定の中で描かれる犯罪もまたその緻密さにおいてミステリー史上類稀な名建築といえる。

 事件は不可解を極めた密室殺人だ。古式ゆかしい針と糸のトリックでは絶対にひらくことのない堅牢な密室の中に死体が横たわっているのである。一つ二つと死体が増えていくにつれて一層堅牢になっていく密室の扉はいかに開かれるのか、という疑問と期待が膨れあがっていく。そして探偵が披露するトリックはあまりにも大胆で衝撃的で、絶対に読者は予測できないだろうと思われる。と同時に、この屋敷はどうしても傾いでいなくてはならなかったのだと、なんと大胆で緻密な設計図なのかと思い知らされる。他に類を見ないトリック、これぞ本格ミステリーと思わず叫びたくなる。


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20位『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫

 島田荘司が建てた斜めの屋敷は一人のミステリー好きの青年の心を捉え、後に彼をして奇妙な建築物を舞台にしたミステリーのシリーズを書かせることになる。その青年が綾辻行人であり、そのシリーズが彼の「館シリーズ」である。『時計館の殺人』はその五作目にあたる作品であり、日本推理作家協会賞を受賞している。

 島田荘司に感銘を受けたからといってその作風は似ていない。島田が密室の鍵をいかに開けるかという不可能犯罪の魅力で読者を魅了したのに対し、綾辻はサスペンスフルな展開の最後に明かされる衝撃の事実で読者をあっと驚かせるのだ。

 時計館とはその名の通り古今東西あらゆる時計が収集された館である。幽霊が出るといわれるその館に取材に訪れた一行が次々と殺されていくというのがあらすじだ。妖しげな降霊術が行われたり、仮面の殺人鬼が目撃されたりと物語を盛り上げる雰囲気もばっちり。次々と死体が増えていく恐怖を登場人物と共有しながら一気読みしてしまうだろう。ところどころに著者の張り巡らせた巧妙な伏線に気づきもしないで。読者が大きな勘違いをさせられていたと気づくのは全て終わった後、たったこれだけのことで犯人に騙されていたのかと思うほど単純な事、しかしそのシンプルかつ独創的な事実によって、事件の全貌がガラッと変わってしまうマジックであるからこそ騙された時の快感もひとしおなのだ。

19位「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』収録他

 坂口安吾といえば『堕落論』『白痴』など退廃文学で有名な作家だし、国語の教科書でもそういった扱いである。ところが、もしミステリー好きな少年がいたとして、彼が坂口安吾という作家に出会うのはミステリー作家として出会うことになるだろう。それほどミステリー界隈でも有名かつファンの多い作家なのである。そんな「ミステリー作家・坂口安吾」の代表作がこの『不連続殺人事件』である。「連載最終回までに真相を当てたら原稿料を差し上げます」と懸賞がかけられた作品という坂口安吾らしいエピソードを持った作品でもある。

 タイトルからして様々な憶測をさせる小説だ。不連続というからには全く別々の殺人事件が発生してそれぞれの犯人を当てなさいということなのかと思いきや、一つのコミュニティーのなかで次々と殺人事件が起こるのだから、表面上は連続殺人事件である。それがなぜ「不連続」なのか、という理由が事件の様々な要素に絡んでくる鍵であり、文豪の余技として描かれたミステリー小説などと思わせないミステリー作家・坂口安吾の独創が光る読みどころでもある。メイントリックの逆転の発想といい、犯人の心理をたどる探偵の推理のパズル性といい、そして安吾独特の諧謔的な文体といい、他では読むことのできない一風代わった本格ミステリーである。


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18位『白夜行』東野圭吾 集英社文庫

 小説においてどこまで書くか、どこまで書かないかというのは非常にデリケートな問題である。書きすぎると説明過多のつまらない小説になるし、書かな過ぎると何が起こっているのか読者が理解できなくなってしまう。その点において『白夜行』は絶妙な「書かない小説」である。

 物語の主人公は、幼少期に親を殺された二人の男女。彼らが事件後にどのように生きぬいたのかを描く長編である。ところが、物語が二人の視点で描かれることはない。常に彼らの周囲にいる人物から間接的に描かれるのである。もちろん、他人から見た二人の物語は表面の物語である。読者も始めはその表面の物語しか見えないのだが、ふとした折に浮かぶ疑惑が重なるにつれてこの物語には裏の顔があるのではないかと疑うようになる。そして、物語が進むにつれて二人が真に生きていた壮絶な(としか形容できない)人生が浮かび上がってくるのである。丁寧に説明されることはないのだが、文字で理解させられるのではなく、直感的に気づかされることによって物語の「壮絶さ」がダイレクトに働きかけてくるようである。ゾクゾクするような興奮と恐怖がそこにはある。

17位『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫

 ミステリー=殺人小説、「ミステリー小説といえば人が殺される小説」という認識のされ方をされることは多い。たしかにミステリー小説の多くが殺人事件の謎を解き明かすことを主眼にしているのだから、あながち間違いではないのだが、ミステリー小説の要は「殺人」にあるのではなく「謎」にあるのだから何も人が殺される必要なないのである。つまり人が死ななくてもミステリーたりうるのだ。例えば日常で起こるちょっとした不思議な事、この謎を解き明かすだけでも十分ミステリーたりうるのである。

 例えば紅茶にひたすら砂糖を入れ続ける学生グループの不思議、例えば座席シートだけ盗まれた車の謎、とりたてて騒ぐほどじゃないけど気になる「謎」だ。「地味だな」とお思いになるかもしれない。しかし、真相が明らかにされた瞬間、それまでの日常が裏返った時の驚きは殺人事件のそれ以上のものがある。つまり「あの謎からここまで発展するの!?」と一瞬で周りが異世界になってしまったような感覚に陥るのだ。いわゆる「日常の謎」系のミステリーの醍醐味はここにあるのだし、論理的な謎解きの快感と様々な読後感を残す展開の妙という点において『空飛ぶ馬』は収録作全てが「日常の謎」の真髄を味わわせてくれるのだ。

 また、この連作短編は主人公の大学生の青春譚としての一面も上手いので、中高生を始めとして強く薦めたい。


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16位『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫

 珍味である。登場人物も世界観も事件さえ奇妙としか言いようがないミステリー、決して不味くはないが味わうのにコツがいる。ただ、一度気に入ってしまえば病みつき、極上の美味と感じられる短編集だ。実際、私も初読時は噂ほどではないな、とガッカリしたのだが、今回再読したところ見事その味にハマってしまったのである。

 謎解きは、伏線を論理的にたどって真相にたどり着くのだが、もしその論理自体が奇妙なものだったら、あるいは伏線自体が奇妙な短編ばかりの証書は、珍味と言い表すべき小説になるのではないか。例えば第一短編の「DL2号機事件」がその好例。犯行にいたるまでの心理の軌跡は「狂人の理論」ともいうべき突拍子のないもの。しかしそれを、「常人の理論」が積み上げていくことでいつの間にか「狂人の理論」の領域に読者を引っぱっていってしまう技巧は論理のアクロバット、超絶技巧といえるだろう。他の短編も結末だけ聞いたら納得できないはずが、絶妙な舞台設定と論理で成立させてしまっている。論理遊戯というミステリーの特製を存分に活かした作品集である。

15位『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫

 特殊状況下におけるミステリーというのは色々あって、例えば70位の『七回死んだ男』では一日を何回も繰り返してしまう主人公が殺人事件を阻止しようとする小説だった。あれも強烈な設定と結末だったが、『生ける屍の死』はもっと凄い。なんと、死んだ人間が蘇るという設定のミステリーなのだ。つまり、殺人事件の被害者がむくりと起き出してその後も物語に干渉し続けるのである。しかも、死者が全て蘇る世界ではなく、流行り病的に人によって蘇ったり蘇らなかったりするのである。

「被害者が生き返るんだったら、犯人の名前を言ってもらえば一気に解決じゃん?」と思ったら大間違い。後ろから襲われたら犯人の顔は見えないし、そもそも死者だって偽証しないとは限らないのだ。誰が本当に死んだのかどこまでが容疑者なのか、そもそも死者が生き返る世界で殺人なんて意味があるのか等々、単純化どころかむしろ謎は深まるばかりなのだ。ゾンビの存在を前提にして事件は解決されなければならないのだ。つまり、人が蘇るからこそ起きる事件を人が生き返るから通用する理論で解き明かしていくという、超変化球ミステリーである。とはいえ、推理の過程は納得できる正統派、キチンとミステリー好きのストライクゾーンに入っている。

 蛇足だが、ゾンビが出てくるといってもホラー要素は皆無で、むしろおとぼけたゾンビと生者が入り乱れてコメディーの様相を呈した非常にリーダビリティーの高い作品だ。


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14位『黒死館殺人事件』小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集』収録他

 本書を読み始めるにあたって、まずまとまった休みを取ることをオススメしたい。読書なれした人なら週末を使って読みきることができるかもしれないが、それでも翌日魂が抜けている可能性もあるので三、四日は読書に集中できる環境が欲しい。次に食料を確保したほうが良い。休みの間食料の買出しなどという下らない理由で読書が中断されるのはもったいない。あとはスマホの電源を切って、お気に入りのソファーにでも座って本を開くだけだ。日本三大奇書(『匣の中の失楽』もいれて四大奇書とすることも)の一冊、『黒死館殺人事件』はそこまで体制を整える価値がある一冊だ。

 殺人事件の推理を語る時に宇宙の構造から話し始める探偵は世界広しと言えど本作の探偵・法水麟太郎くらいのものだろう。古今東西あらゆる書物に精通し、その莫大な知識を使った衒学的な推理はまさに人知を超えた超推理と呼ぶにふさわしい。しかも先のたとえのようにとんでもない方向から推理し出したりするので、推理の方法も常人とは一線を画している。他にも意味不明な詩の引用合戦を突然始めたり、墓の形象を見て梵語の話を始めたり、今までレビューしてきたミステリーの理論とは異質で独自の理論であふれている。絶対に現実では起こりえないことをも理論上可能にしてしまう超理論を楽しめるのであればこれほど面白い本はないと断言できる。

 知識の氾濫に怯んでしまうかもしれない。それでも恐々ページを開いてほしい。たとえ一度挫折したとしても、また時間をおいてまたチャレンジして欲しい。いつかこの本の面白さに嵌り、読み終えた時が来たら絶対に物の見方が変わっているはずだ。それほどの破壊力がこの本にはある。


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13位『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫

 犯人側からの視点で事件が描かれる「倒叙ミステリー」において、犯人がいかに捜査の手から逃れるかと智慧をめぐらすのは読みどころの一つである。犯人の計画が巧妙であればあるほど探偵との対決にワクワクするのだから、天才数学者と天才物理学者の探偵と対決するとあってはつまらない訳がない。

 タイトルに「献身」とあるように、やむを得ず殺人を犯してしまった母子を天才数学者が手助けして捜査当局の疑いを晴らそうと巧妙な計画を立てて遂行していく姿が描かれる。つまり、読者は犯人と手口を知りえた上で、計画にはまってしまう警察の姿にほっとしたり天才数学者・湯川学の思わせぶりな言動にハラハラしたりすることになる。ただし、それは物語の九割程度。本当の真相が明かされたときに読者は二種類の驚きを体験することになる。ひとつは数学者の立てた計画の全貌があまりにも巧妙であることに。捜査をすればするほど真相から離れていくように仕向けられた計画の何と巧妙なことか。そして、ふたつ目は「献身」の真の意味に。捜査の目くらましだけではない「献身」が明らかになったとき、思わず読み返して登場人物の言動を読み返してみたくなるに違いない。きっと見える景色が違ってくるはずだ。そう、「倒叙ミステリー」の最大の面白さは、自分は全部知っていると思いながら、気づかずにいた事実に足元をすくわれる快感なのだ。

12位「戻り川心中」連城三紀彦 光文社文庫『戻り川心中』収録

 連城三紀彦という作家は恋愛小説での方が有名かもしれない。というのも、彼が直木賞を受賞したのは『恋文』、ミステリー要素が無い純粋な恋愛小説だからだ。それほど連城作品において男女の心の機微は鮮やかに描出されているし、その文章はミステリー界屈指の美しさを誇っているのだ。「戻り川心中」はそんな著者の恋愛小説家としての才能とミステリー作家としての才能が相乗して生まれた短編である。

 まるで太宰治のように二回の心中未遂の末に自殺した天才歌人の、死に彩られた生涯が秘めた秘密を生前の友人が解き明かしていく。謎を解く鍵になるのは歌人が遺した短歌。心中から自殺までの心理の軌跡を歌った短歌集には、世間が思う意味とは別の隠された真意があったのではないかとして、短歌の舞台を訪れながら夭折の歌人の心理を分析するのだ。すると短歌の舞台を訪れ、証言を集めていくうちに歌と実際の行動との間に奇妙な齟齬があることが判明する。そこから短歌の裏の意味を推理するのだが、その過程は短歌の世界観も相まってゾクゾクするほど美しい。心中事件の真相は、自殺の真意は、そして歌人が真に愛したものとは何だったのか、やがて美しくも哀しい恋物語は全く予測不可能な真の姿を現し始める。その意外性と、そのどんでん返しを可能にする周到な伏線にただただ唖然とするばかりである。

 最後に、短編としてそれだけで成立する作品ではあるが、短編集の最後に収録されているこの作品、他の短編を読んでからの方がその美しさも意外性も一層感じられる。短編集としての構成も超一級品なので、頭から通読することを強く勧めたい。


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11位『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫

 鉄道アリバイトリックのミステリーというと、刑事が時刻表とにらめっこした挙句に意外な乗り換え方法(一旦反対方向へ向かって特急に乗り換えるとか)を発見する、みたいなYahoo!乗り換えがある現代では通用しないミステリーという印象がある。黒いトランクもアリバイトリックの古典と聞いて大したことないんだろうなと思ってしまっていたが、大間違いで大反省であった。

 鍵となるのはタイトルにもある黒いトランク。東京駅に着いたこのトランクから死体が発見されたことが事件の発端となる。やがて捜査の過程でもう一つ同型の黒いトランクの存在が浮かび上がり、二つのトランクはいつ・どの駅に存在したのか、トランクに死体が詰められたのは何処なのか、さらには死体がトランク間を移動したのではないかという疑惑まで出てきて容疑者、トランク、死体、三つのピースが複雑に入り乱れる何とも魅力的なパズルが展開されるのだ。もちろん時刻表とにらめっこする場面もあるのだが、容疑者の動きだけでなく死体も動かすことで「特殊な乗り換え」以上のトリックが可能になるのだ。更に更に、このパズルは真面目に解こうとするほどに容疑者のアリバイを堅固にしてしまうという凝った作りになっている。この時トランクがこの駅にあって、ここで死体の詰め替えがあって、という解き方から一つひねった発想が求められる。単純だけれども巧妙に隠されたひねりが本作の「アリバイものの逸品」としての名声をより確たるものにしているのだ。


⇒後編に続く



















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by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:57 | バックナンバー | Comments(0)

17年06月 後編

⇒前編から続く


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 元々は、ロシアの文豪・チェーホフが恋人だか友人だかに宛てた手紙の一節。主人公の憲太郎が、人生に迷った時、生きることに疲れた時、日々の暮らしに嫌気がさした時などに、自分に向かって呟く言葉。『草原の椅子』は、登場人物たちが、進路を塞ぐ障害物を一つずつ取りのけながらゆっくりと歩んでゆく小説。


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 トビと豚とオオカミとカモメと猫。さて、これらの動物にはある共通点があります。その共通点とは一体何でしょう? 正解者の中から抽選で百名の方に何もあげません! なんてクイズにしたところでまず当たらないだろうから答えを言っちゃうけど、白水社のペーパーバック・レーベル「白水Uブックス」を四冊続けて読んだら、たまたま動物つながりだったんだな。

 因みにこのUブックスというのは殆どが千円以下で買える上、ヤングアダルト向けの平易な文章の作品も多いので、僕のような海外文学尻ごみクラスターには是非お薦めしたいレーベルでござる。

 で、まずはトビ。トビと言えば、川崎店に勤務していた頃、江ノ島の徒歩圏内でアパート暮らしをしていたのだけれど、彼の地のトビに初めてハンバーガーをかっさらわれた時の衝撃は忘れられない。こちらの身体には全く触れず傷つけず、手に持っていたハンバーガーだけを奪っていく手腕は、喩えるならルパン三世かキャッツ・アイかといった華麗さで、被害者であるにもかかわらず「すげぇ!」と思わず感嘆の溜息を漏らした程だという話は、今回のレビューとは一切関係無い。

 ユベール・マンガレリ著/田久保麻理訳『おわりの雪』は、少年がトビをどうしても手に入れたいと思う場面で幕を開ける。そのトビは、露店の古道具屋で様々なガラクタに混じって売られていた。狭い籠の中で、時折翼を広げようとして、けれどもその度に駕籠に邪魔されて広げられずに、黙って佇んでいた。

 少年の父親は、病で伏せっている。恐らく、結構長い期間、闘病している。だから、恐らく少年の家は貧しくて、だから少年も、養老院で老人たちの散歩の介添えをして小銭を稼いでいる。母親は、夜になると出掛けていく。仕事なのか、それとも何か別の用事なのか。仕事だとしたら、どんな仕事なのか。それが明かされることは無いけれど、その度に少年の父は苛立ちを露わにする。それは自分だけが働けず家族のお荷物になっていることの不甲斐なさからなのか、それとも何か別の感情の発露なのか。

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 少年は、養老院で得た金の半分を家計に入れ、もう半分はトビを買い取るための貯金に回す。しかしその額は微々たるもので、当分トビは買えそうにない。少年はトビが元気でいるか確かめる為に、毎日、養老院からの帰り道に件の露天商を覗いて行く。そして毎晩、父親の枕元でトビの美しさを語って聞かせる。少年は、悲しい体験は胸に秘めたまま、楽しいことだけを父親にうちあける。そして父親は、少年が出くわすのが楽しい体験だけだなどとは恐らくは信じていないのだけれども、黙って話を聞いている。悲しい出来事や辛い体験を打ち明けられたところで、その傷を癒してやれないのならば、無理に聞き出しても益が無いと考えているのか、それとも、自ら語らないのはそれを乗り越えたからだと思っているのか、或いはもっと別の考えがあってのことなのか。

 物語は、余分な説明的描写をとことん排して綴られる。だから、言葉にされない部分は想像力で補いながら読み進む。ちょっと詩に似ている。ままならない現実を生きながら、人生にはどうしても避けようの無い悲しみというものがある、という事を自分に言い聞かせるようにして育つ少年の、幼い覚悟とでも言うべき胸中が痛々しくも美しい。読了後は『おわりの雪』の「おわり」が意味するところを想像して、心がシーンとなる。
《 悲しみがいつも私をつよくする
  今朝の心のペンキぬりたて 》俵万智

 お次は豚。生れたばかりの雌で、名前はピンキー。ロバート・ニュートン・ペック著/金原瑞人訳『豚の死なない日』はかなり自伝に近い小説のようで、恐らくは1940年前後のアメリカのド田舎で、小規模の農場を営む一家の話。主人公ロバートの父親は生活の為に、農業の他に村の屠畜場で豚を殺す仕事も請け負っている。

 一家は敬虔なシェーカー教徒で、奢侈を禁じる教義を厳格に守って質素に暮らす。その倹約ぶりは、例えば服はほぼ自分たちで仕立てるし、自動車はおろか自転車すらも《 なくてすむもの 》として遠ざける。だから、ロバートが隣人の農家から乳離れしたばかりの子豚を貰った時には、文字通り欣喜雀躍する。《 この世でたったひとつ、「これはぼくのだよ」そういって指さすこと 》が出来る存在として可愛がる。

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 物語全体の質朴な雰囲気は、どことなく宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を彷彿とさせるものがある。と同時に僕は、小学校の頃音楽の授業で習った『グリーングリーン』を思い出しながら読んでいた。《♪ 或る日パパと~二人で~語り合ったさ~》というあれである。

 ロバートの視点で綴られる一家の生活は、現代人にはとても耐えられそうもない程つましくて、殆ど貧乏と言ってもいいくらいだし、父親も母親も無学で自分の名前すら書けないのだけど、「生きる」為に必要な知恵や優しさは、21世紀に暮らす僕らより遥かにふんだんに持っている。

 例えば或る時、父親が隣りの農場との境の柵を修理していると、「喧嘩している訳でもないのに、どうして柵で区切るのか?」とロバートが不思議がる。父親は当然と言わんばかりに、《 柵はいがみあうためのものじゃなくて、仲良くやっていくためのものだ 》と答える。また或る時、「どうしてうちは貧しいのか」と嘆くロバートに、彼は言う。《 豊かじゃないか。互いに守るべき人がいて、耕すべき土地がある 》と。また或る時は、リンゴの木の害虫駆除に失敗したロバートを、叱り飛ばすのではなく優しく諭す。《 手間ひまを惜しむな。仕事はきちんと一回やるほうが、いいかげんに二回やるよりもいい 》と。

 こんな風に朴訥で実直な父親に対して、母親の方は彼の足りないところを全て兼ね備えたような人物で、前向きな朗らかさととっさの機転が充溢している。例えば物語の冒頭でロバートが少々大きな怪我をして傷口を縫合しなければならなくなるのだけれども、その怪我をした際にズボンもビリビリに破れてしまっていて、それを気に病むロバートに向かって言う一言。《 おまえを縫うくらいなら、ズボンを縫うほうがずっといいわ 》。或いはロバートが泥だらけで帰宅した時もこの母親は、洗濯の大変さを嘆いたりするのではなく《 雨の日に掘りだしたジャガイモみたいね 》と面白がるし、また別の日、屠畜の際の血なまぐささが身体に染みついている事を詫びる夫には、《 誠実な仕事のにおいじゃありませんか。あなたがあやまる必要はないし、わたしも聞きたくありません 》とサラリと言ってのける。

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 といった具合に、威厳とユーモアが同居したような家庭で、ロバートは、辛い局面も誇らしい出来事も経験しながら、生きる事の喜びと悲しみを学んでゆく。そして、「豚の死なない日」、父親が、或いは自分たち家族が、金持ちではないけど決して貧しくはないと気づいた時、多分、ロバートは大人になった。本当の豊かさとは何か? などと教訓めいた主題を無理に読み取ろうとするよりも、ペック一家の仲睦まじさをストレートに味わいたい。

 さて三番目はオオカミ。ダニエル・ぺナック著/末松氷海子訳『片目のオオカミ』の舞台は、どこかの動物園。そこの檻に一頭だけで飼われている青いオオカミは、十年前、妹を庇って捕らえられた際に片目を怪我して以来、あらゆる人間を憎悪している。生きる目的も楽しみも無い不毛な生活。そこに或る日、黒人の少年が現れる。オオカミの気持ちを酌んで、自分も片方の目を閉じて、ひたすらオオカミを見つめる。檻の前に立つ少年と檻の中のオオカミは、一つずつの目で、じっと見つめ合う。やがて二人(一人と一頭)は、瞳と瞳で語り合うようになる。お互いの不遇な過去や、別れなければならかった大切な存在について、問わず語りに打ち明ける。

 少年もオオカミも、今の境遇を決して自ら望んだ訳ではない。運命と一言でくくってしまうには余りに不公平な巡り合わせで、止むを得ず今の場所で生きている。それはもしかすると少年とオオカミの二人だけではなく、物語を読んでいる僕ら自身にも言えることで、勿論彼ら程には過酷な生活ではないけれど、今いる場所にうんざりして「ここではないどこか」「自分ではない誰か」を羨望して、そして「今いる場所」「今の自分」を諦めてしまった経験が、誰でも一度や二度はあるだろう。

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 物語は、例えばオオカミが野生に戻るみたいな安易なハッピーエンドは用意していない。けれども少年は、諦める代わりに変化させようとする。「今いる場所」から動くことが出来ないならば、そこで可能な限りの愉しみや喜びを見出そうとする。

 かの夏目漱石も『草枕』の冒頭で言っている。《 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ 》と。運命は自分で切り開く、なんて大上段に構えるのではなく、今いる場所でも工夫次第で少しは生きやすくなるんじゃね? という気にさせてくれる本。

 そして最後はカモメと猫。ルイス・セプルペダ著/河野万里子訳『カモメに飛ぶことを教えた猫』は、以前にも紹介したことがあるような気がするのだけど、実は今こそ、即ち国の内外を問わず排他的な空気がじわじわと広がって、自分とは違う者を個性として尊重するのではなく異端者として排除するべきだという論調が勢いを増している今こそ、多くの人に読んで欲しい本。

 舞台はドイツのハンブルク。或る日、黒猫ゾルバが出会った瀕死のカモメ。彼女は死ぬ間際に卵を産み落とし、ゾルバは、卵をかえして雛に飛び方を教えることを約束する。とは言え、勿論ゾルバにカモメの子守なんぞ解る訳はなく、フォルトゥナータ(=幸運な者)と名付けた雛を、彼は港の猫仲間たちと一緒に四苦八苦しながら育ててゆく。

 ところが、フォルトゥナータは、猫に囲まれて育ったが故に自分も猫だと言い張って、いつまで経っても飛ぼうとしない。そこでゾルバは、静かに優しく言って聞かせる。

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《 ぼくたちはみんな、きみを愛している、フォルトゥナータ。たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、美しいすてきなカモメだからこそ、愛しているんだよ 》

《 これまできみが、自分を猫だと言うのを黙って聞いていたのは、きみがぼくたちのようになりたいと思ってくれることがうれしかったからだ 》

《 でもほんとうは、きみは猫じゃない。きみはぼくたちとは違っていて、だからこそぼくたちはきみを愛している 》

《 きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれが、できるようになった 》

 金子みすゞ風に言えば《 みんなちがって、みんないい 》ってところでしょうか。国家や民族といった大きな違いから、性格や趣味嗜好といった個人的なことまで、ゾルバのように《自分とは違っている者を認め、尊重し、愛すること 》が出来るようになれば、きっと世の中の嫌なニュースは半減するんじゃないだろうか。

 小一時間もあれば読めてしまう話だけど、児童向けと侮る勿れ。涙腺の弱い人はきっと泣かされるに違いない。一度読んだら二度読みたくなって、二度読んだらきっと三度目も読みたくなる、素敵な友情の物語。


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『亜愛一郎の狼狽』泡坂妻夫 創元推理文庫 9784488402143 800円+税
『生ける屍の死』山口雅也 創元推理文庫 9784488416010 1,200円+税
『おわりの雪』ユベール・マンガレリ/田久保麻理[訳] 白水Uブックス 9784560071823 950円+税
『片目のオオカミ』ダニエル・ペナック/末松氷海子[訳] 白水Uブックス 9784560071618 850円+税
『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ/河野万里子訳[訳] 白水Uブックス 9784560071519 800円+税
『黒いトランク』鮎川哲也 創元推理文庫 9784488403034 760円+税
「黒死館殺人事件」小栗虫太郎 創元推理文庫『日本探偵小説全集 6』所収 9784488400064 1,200円+税
『草原の椅子』宮本輝 幻冬舎文庫 上9784344401006 600円+税 下9784344401013 648円+税
『空飛ぶ馬』北村薫 創元推理文庫 9784488413019 680円+税
『時計館の殺人』綾辻行人 講談社文庫 上9784062772945 下9784062772952 各690円+税
『斜め屋敷の犯罪』島田荘司 講談社文庫 9784062932653 800円+税
『白夜行』東野圭吾 集英社文庫 9784087474398 1,000円+税
『豚の死なない日』ロバート・ニュートン・ペック/金原瑞人[訳] 白水Uブックス 9784560071328 900円+税
「不連続殺人事件」坂口安吾 創元推理文庫『日本探偵小説全集 10』所収 9784488400101 1,200円+税
『戻り川心中』連城三紀彦 光文社文庫 9784334740009 533円+税
『容疑者Xの献身』東野圭吾 文春文庫 9784167110123 670円+税



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編集後記
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連載四コマ「本屋日和」
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6月のイベントカレンダー
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by dokusho-biyori | 2017-06-04 09:29 | バックナンバー | Comments(0)

17年05月 前編

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 今回、最も入手に苦労したのが『人形はなぜ殺される』だった。近所の大型書店に行ってもどこも置いていないし、営業先で探してもなかなか見つからなかったのだ。一応、まだ版元品切れにはなっていないようだが、このままだと再び絶版の憂き目も近いだろう。しかし、これほど素晴らしいミステリーが新刊で手に入らなくなるのは誇張でなく日本ミステリー界における大きな損失になる。ということで、ぜひ気になった人は書店で買って欲しい。面白さは保障済みである。

31位 水上勉『飢餓海峡』新潮文庫
 日々の暮らしに何となくの物足りなさは感じていたとしても、徹底的な欠乏感、飢餓感を覚えることは現代では稀だろう。ところが、つい60年ほど前まではこの国全体が絶対的な飢餓感で覆われていた。本書の犯人はそのなかでも圧倒的な飢餓感に突き動かされた人物だ。食べ物の欠乏だけではなく、金や地位、名誉といったあらゆるものへの渇望が、壮大な犯罪人生を彼に歩ませることになる。

 事件の発端は青函連絡船の転覆事故。多数の死者の中に乗客名簿にない二人の死体が発見される。同日札幌では強盗殺人が発生し、犯人が証拠隠滅を図った放火が街を焼き尽くす大火となっていた。二つの事件の関係性を疑い出した警察は、ある一人の男の存在にたどり着く。犯人もトリックも早い段階で明らかにされ、物語の大半は犯人の足跡をたどる刑事たちの執念の捜査に費やされる。この執念の捜査が一歩一歩犯人に近づいていく過程も読みどころなのだが、ちょっと視点を変えれば事件の捜査はすなわち、犯人の人生をたどる行為だと気づく。戦後の混乱期において一人の男が圧倒的な飢餓感に身を焦がすように生きてきた、壮絶な人生が浮かび上がってくるのである。

 全てを失った国において、全てを失った男が多くのものを手にしながら起こしてしまった悲劇の事件。10年に及ぶ捜査期間は一つの事件を追うには長すぎるだろうが、一人の男の人生をたどるには必要な時間だったのかもしれない。


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30位 山田風太郎『妖異金瓶梅』角川文庫
 山田風太郎のミステリーはその先進的なアイディアにおいて、多くのミステリー作家たちに影響を与えながらも「トリックの先取り」という点では後進を苦しめてきた(と思われる)。90位の『明治断頭台』、48位の『太陽黒点』などのメイントリックは「これを最初に思いついたのが自分だったら……」と悔やんだ小説家は何人いるだろう。この「トリックの先取り」において最も強烈なのがこの『妖異金瓶梅』である。あまりに大胆不敵なトリックにおどろいて、椅子から体がずり落ちた上に眼鏡もずり落ちたほどである。もちろん、どんなトリックなのかは明かさないが、連作形式の本書を第二章まで読み終えたとたん、この小説は異次元のミステリーに変貌するのだ、とだけ明記しておこう。

 ただ、メイントリックにばかり気をとられるのはもったいない。短編個々のトリックも十分すぎるほど素晴らしく、「赤い靴」などはオールタイムベスト級の傑作である。というより、メイントリックのおかげで短編一つ一つのトリックがじっくり楽しめる構造になっていて、読者は「次はどういうトリックを見せてくれるのだろう」と期待しながら次から次へとページを捲り続けることが運命づけられている。

 ちなみに、本書は中国四大奇書(場合によっては三大奇書)に数えられる『金瓶梅』『水滸伝』をベースにしながら書かれたミステリーである。北宋時代の大富豪・西門慶の屋敷で次々と起こる事件の謎を描きながら、武松などの梁山泊一派の影もちらつく。つまり、山田風太郎お得意の伝奇小説テイストも楽しめるのだ。山風エッセンスが凝縮された大傑作である。


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29位 高村薫『レディ・ジョーカー』 新潮文庫
 恐ろしく多種多様な要素を含んだ小説である。もちろん、主軸となるのは「レディ・ジョーカー」と名乗る犯罪集団が起こす誘拐事件と企業恐喝とはっきり分かる。ただ、そこからいくつもの物語が派生的に語られることになる。事件を捜査する警察の物語はもちろん、事件を追う記者、恐喝に脅かされる企業の経営陣、経済界の闇の部分……、様々な登場人物が「レディ・ジョーカー事件」を中心にそれぞれ全く違った思惑で行動する。企業恐喝だけでも十分大きな事件だが、著者はさらに踏み込んで事件が巻き起こすあらゆる波紋を描き、日本全土を巻き込んだ壮大なうねりを描いている。

 物語は壮大とはいえ、分解されれば結局個々の物語の集合だ。犯罪者たち、捜査本部の刑事、企業の社長、新聞記者、それぞれの視点を行き来しながら「レディ・ジョーカー事件」は語られる。まるで、テレビ番組をザッピングするように。犯人に翻弄される人々がいたり、犯人の思惑とは関係なく事件と関わる人物がいたり、個々の思惑が錯綜する様がリアリティたっぷりに描かれている。事件を犯罪者と警察の単純な二項対立として描くのではなく、事件の周辺人物たちの群像劇をして描いたことが、陰謀入り乱れる予測不可能な物語を完成させたのだ。

 最後に本書を読むにあたって、「レディ・ジョーカー事件」が「グリコ・森永事件」をモデルにしていることと、仕手株、総会屋といった言葉の意味は理解しておいたほうが物語を十分に楽しめることを指摘しておく。

28位 高木彬光『人形はなぜ殺される』 光文社文庫
 人が殺された時、怨恨だったり遺産目当てだったり、それ相応の理由が用意されているのがミステリーの約束事で、必ずと言っていいほど動機は論点に挙がる。「人はなぜ殺される」これは至極まっとうな疑問であり、いまさら鹿爪らしい顔で問いを発してもなんら新鮮味はない。しかし、殺されるのが人形ならば? 殺人事件の直前に人形が殺されていたとしたら、――人形はなぜ殺される、この問いは小説の焦点になるほどの重大な疑問になるのである。

 殺人事件と人形の消失を絡めた小説はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を筆頭に数多く生み出されてきた。しかし、それらの多くは殺人事件の装飾物であり雰囲気作りに一役買っている程度だった。それもそのはず、殺人を実行する人間がわざわざ人形をいじる必要はないのだから。つまり、いわばミステリー小説の余剰ともいえる要素を見事にトリックとして仕立て上げたのが本書である。人形とすり替えられた首、列車に轢かれる人形、見事なトリックに必要不可欠なのだ。32位の『刺青殺人事件』でもモチーフとトリックの両立を成し遂げていたが、本作でも人形が醸すミステリアスな雰囲気とトリックが見事に調和している。心地よい作品世界に浸っていたら、その舞台設定そのものに驚かされる、ミステリー好きには至高の体験が約束された作品。


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27位 江戸川乱歩『孤島の鬼』 創元推理文庫ほか
 日本探偵小説の父といわれている江戸川乱歩だが、その業績を一冊の本に凝縮したとしたら、本書になるだろう。本格ミステリーの謎解きと読み物としての面白さを日本的な作品風土の中で実現したのが『孤島の鬼』なのだ。

 物語は二部構成になっている。前半は東京を舞台に連続殺人事件を描いたミステリー。密室殺人に衆人環視下での殺人と「ザ・本格ミステリー」な事件を素人探偵が解決する。驚きの真相が明らかになった瞬間、新たな謎が提示されて、主人公は孤島へと赴くことになる。そして、妖しげな一家が支配する孤島においてサスペンスフルな宝探しが始まる。そう、探偵の推理はいつものように物語に終止符を打つ役割を果たさない。むしろ殺人事件に隠された大きな闇を探り当て、物語を大きく展開させるために探偵は推理するのである。前半の殺人事件を解決することで巨悪と対峙する後半があるのであり、後半があるからこそあのトリックが成立しうる、見事としか言いようのない「メビウスの輪」のような構造が、探偵の推理によって成り立っているのである。

 異なる性質の物語が巧みな筆によって描かれる物語。本格ミステリーにサスペンス、そして猟奇性といった所謂「江戸川乱歩的なもの」のフルコースを味わえる作品だ。

26位 原寮『私が殺した少女』 ハヤカワ文庫
 概してハードボイルド小説の主人公は不運であるように思われるが、本書の主人公はそれを自覚した上で自身の運命をこう表現している。「まるで拾った宝くじが当たったような不運」。主人公である私立探偵の不運は誘拐事件に巻き込まれたことから始まる。それは何ともアクロバティックな巻き込まれ方で、犯人が身代金の受け渡しに主人公を指名したのである。もちろん、誘拐被害者の一家とは面識も何もない主人公である。指名される理由は分からないものの、受け渡し役を引き受け不運の泥沼に入り込んでいくことになる……。

 冒頭の誘拐事件に関してだらだら筆を費やすことはしない。この順位の小説で誘拐モノがつまらない訳がないし、なにより誘拐事件は早々に決着してしまう。物語のメインはその後の誘拐事件の真相究明にある。被害者の親族から誘拐事件の継続捜査(厳密にはやや違うが簡略化)を依頼された主人公が、依頼主の親族四人が誘拐事件に関わっていないかを調査しつつ、事件の真相にたどり着こうとするのがこの物語のメインだ。依頼の趣旨は「四人が事件に関して潔白であることを調べて欲しい」というものだが、それぞれの関与を調べるにつれて「誘拐被害者一家」が抱える問題・事情etcが明らかにされる。そして、その調査結果から次第に事件の真相も明らかになるのである。人を描きながら事件も描く、見事な構成である。調査ものの醍醐味とミステリーの驚き、ハードボイルドのカッコ良さが全て詰った一冊だ。


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25位 松本清張『砂の器』 新潮文庫
 発端は身元不明の死体が線路の上で発見された事件。手がかりは事件直前に若い男と被害者が飲み屋で話しこんでいたという目撃情報のみ。警察はわずかな手がかりをもとに被害者の身元特定、そして犯人の特定にのりだす。しかし、インターネットもテレビもない時代のことだ。我々の想像もつかないほど被害者の身元を特定するのは困難を極めるのだった。

 マスメディアが発達していなかった舞台だからこそ、刑事の個々の執念が光る。彼らの執念が浮き立てば浮き立つほど、読者も近づいては遠のく真相のとりこになってしまうのだ。なにせ解明すべき謎は山ほどある。被害者の身元、犯人との接点、犯行の動機、そして真犯人の正体……。これらすべてが警察の捜査を描くことによって明かされるのではない。並行して描かれる前衛芸術家たちの物語が事件捜査と交叉し始めた瞬間から事件は真相の断片を現し始めるのだ。泥臭い事件捜査の世界とハイカラな若い芸術家たちの世界を交叉させ、事件を形作る複雑な人間関係の綾が解き明かされていく過程は見事としか言いようがない。執念の捜査で明らかにする事件の真相、まとめてしまえばこれだけだが、熱量を感じる執念の書き方、単純な様で計算された事件の構造に引き込まれてしまうのは必至だ。

24位 江戸川乱歩「二銭銅貨」 文春文庫『江戸川乱歩傑作選 獣』収録
 たった二枚の銅貨からここまで話が膨らむものなのか。ざっくり話の筋を説明すれば、帝大の貧乏学生が二枚の銅貨から推理に推理を重ねて大金の隠し場所を探し当てるという、いわば「論理のわらしべ長者」。この小説が乱歩のデビュー作であり、「本格的な探偵小説を書いてやる」という意気込みを感じる短編に仕上がっている。謎解きよりも怪奇色が強かった「変格探偵小説」が多かった当時、論理性を重視した作品を世に送り出すことは乱歩の強い願望だったに違いない。それはこの小説がほとんど探偵役の台詞、つまり推理で成り立っていることが表している。銅貨の発見からどのような思考の筋道をたどって金のありかを突き止めたのか、探偵の思考をたどることが物語になっているのである。物語に謎があって推理をするのではない。謎を推理をすることが謎を生み、その謎を推理することでまた謎が生まれていく……、まさに推理をすることそれ自体が物語となった、最高度に純度の高い探偵小説だ。ミステリーを読む醍醐味が最も体感しやすい小説の一つといえよう。

 「純粋に論理的な小説? なんだか難しそう……」と思われたなら謝らねばなるまい。要するに「一人の男が語る、地に足ついた妄想話」だと思ってもらって間違いない。抜群に面白い妄想であることは約束する。


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23位 京極夏彦『姑獲鳥の夏』 講談社文庫
 この作品がミステリー界に与えた衝撃は計り知れなかっただろうと思う。それも全てあの「驚愕の真相」にあるのだが、この「驚愕」の意味合いが他のミステリーの宣伝文句と違っている。賛否両論、まさに未知のジャンルと遭遇した戸惑いを含んだ驚愕だったのだ。

 京極夏彦はこの作品で一種の実験をしたのではないかと考えている。それは科学的、哲学的な知識や論理を極限まで突き詰めたうえでしか構築できないトリックは可能かという実験だ。冒頭で京極堂と関口が交わす(京極堂がレクチャーする?)認識論や記憶に関する問答を長々と繰り広げるのであるが、あれは「驚愕のトリック」を成立させるための土壌を読者の中に作る準備作業であり、SF小説であれば作品世界の説明に当たるものだったのだ。この論理の土壌なしにして真相のみを知ったのであれば、あのトリックは「トンデモトリック」として相手にすらされないだろう。しかし、京極堂のレクチャーによって論理の土壌が出来上がっている読者は(賛否こそはあれ)あの真相を理解できてしまう。と、同時にこの本が今まで体験したことのない種類のミステリーだったことに気づくのだ。

 賛否両論巻き起こしたミステリー、これが成功したか否かはこれがシリーズ化し、非常な人気を博している事実が答えになっている。

22位 有栖川有栖『双頭の悪魔』 創元推理文庫
「読者への挑戦状」、探偵が真相を語り出す直前にはさまれる、「ここまで読めば真相に到達することはできる。さあ、読者よ推理したまえ」といった主旨のページ。これが本書では都合三回も繰り返される。なぜ三回も繰り返されるのか、それはこのミステリーが三段ロケットのような構造になっているからなのと、それだけフェアな論理を展開できると著者が自負しているからだ。

「学生アリスシリーズ」の第三作目にあたる本作は、おなじみの推理小説研究会のメンバーが、奇しくも二グループに分かれて事件に遭遇する。完全に連絡が途絶えてしまった状況でそれぞれに事件の真相を解明するのである。つまり、名探偵役の江神二郎が不在のグループ(有栖川、織田、望月)もディスカッションを重ねながら犯人の名前を言い当てるのである。探偵・江神の明晰な推理もいいが、行きつ戻りつのディスカッションも面白い。もちろん、「読者への挑戦状」を挟んだ後の解決編になるので、両者とも鮮やかな論理で犯人を言い当てる。

 以上で終わったとしても十分ミステリーとして満足な作品だが、この二つの事件が解明された後にも「読者への挑戦状」は突きつけられる。そう、コトは二つの事件を個別に解決して終わりではなかったのだ。第一、第二の解決編の後、安心しきっていた読者は最後の最後に最も驚くべき推理を江神の口から聞くことになる。論理の美しさもさることながら、事件の構想も練られた本格推理の一つの完成型である。



後編に続く⇒



















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by dokusho-biyori | 2017-05-03 08:59 | バックナンバー | Comments(2)