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16年04月 前編

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 学習障害を抱えた小学生が、周囲の大人の手を振り払うようにして、たった一人で旅に出る――『暗号のポラリス』
 後ろ向きに下ると過去に戻れる坂道や、二年後から来たメールなど、日常の割れ目から不意に顔をのぞかせた非日常――『ペンギンのバタフライ』
 スランプに陥った高校の吹奏楽部を舞台に、部員たちの喧嘩や団結、恋や友情を描き出す青春群像劇――『ブラスデイズ』

 中山智幸の作品をそんな風に紹介することは勿論間違いではないのだけれど、それだけでは大事な何かが欠けてしまう。他のどんな作家とも違う彼独特の面白さは、ストーリーを語るだけでは決して伝わらないだろう。

 その一つが、独創的な言葉の数々。例えば、ムーンウォークの練習に勤しむ男子高校生の姿を「右足と左足の役割が混乱しているようだし、ムーンウォークにはあまり関係ないであろう両手もくねくねと動く。歩く海藻を演じてるようだ」と描写する(『ブラスデイズ』)。或いは、意地の悪そうなコンビニの店員の風貌を「背がひょろりと高く丸顔で、悪意のあるエノキ茸といった容姿だった」と形容する(『暗号のポラリス』)。どうだろう、この斬新さ! 誰が読んでも思わず頬が緩むひょうきんさと、情景がまんま目に浮かぶリアリティ!

 この手のユーモアは作中至る処に散りばめられているのだけど、同時に、人生訓としてメモでもしておきたくなるような含蓄のある文章も頻出する。例えば、年頃の女性が地味な服ばかり着るのを、ある老人はこう諭す。「いまよりずっと歳を重ねたとき、そこから見える今は、若い、だろう。あのころのわたしはもう若くないと思って控えめな格好だった、と振り返るのと、無茶やってたなと笑うのなら、後者のほうがずっといい」(『ペンギンのバタフライ』)。また、とある小学校のベテラン教師は、学習障害の生徒と接することで、勇敢にも自身の信条の大転換をやってのける。曰く「教えられたんです、自分の持つ正しさを出発点にしてはならない、と」(『暗号のポラリス』)。

 これら独創的な言葉の数々が僕にとっては、中山作品を読む際の欠くべからざる愉しみになっているのだけれど、彼の作品にはもう一つ、大きな魅力が宿っている。

 中山智幸とは「人間の不完全さ」を描く作家ではないかと、実は密かに思っている。『暗号のポラリス』では、難読症を抱えて文字が読めない主人公が「ごめんね、ぼく、ばかで」と胸を痛め、彼を支えようとする周囲の大人たちも、それぞれが自分の無力さに気付いて途方に暮れる。『ペンギンのバタフライ』では、時間を何度巻き戻しても思った通りに生きられない女性が自棄を起こし、他人の未来が見える青年が、見えるだけで救えないことに傷ついていく。『ブラスデイズ』では、或る者は失恋を引きずる自分を嫌悪し、或る者は自分の演奏技術の稚拙さに呆れ、また或る者は、統率力の無い自分に苛立ちを募らせていく。中山作品では登場人物の誰も彼もが、自分自身を減点法で採点し、足りないところ、及ばない部分にピントを合わせて苦しんでいる。

 だがしかし、彼らは進む。失敗と後悔を繰り返すことで、人間は完璧では在り得ないことを学び、やがて、欠落や不備を抱えて歩む自分自身にも、生きるに値する何かを見出してゆく。

 もう一度言おう。中山智幸とは「人間の不完全さ」を描く作家である。と同時に、その不完全さを補う強さも、きっと誰もが持っているんだよと、静かに語りかけてくる作家でもある。

 最後に、少々長いけれども『ペンギンのバタフライ』から紹介したい。未知の世界に挑む友人を、主人公がそっと見送る名場面。

「彼女の進む先には街灯のほか光はなくて、ぽつり、ぽつりとつづいていく灯りを見つめながら、わたしはなぜだかうまくいく気がした。大庭かおるが決断したところで、この先が苦難と苦闘の連続なのは間違いなく、それでも、闇に点在する灯りと同じように、この先にも良いことは巡ってくるはずだし、その点を結んでいけば道は続いていくだろう」。

新しい一歩を躊躇う僕らに向かって、「大丈夫だよ」と優しく囁くような、こんな文章こそが作家・中山智幸の真骨頂であると、僕は思う。(沢田史郎)


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《住野よる》という作家を知っていますか?

名前でピンとこなくても、昨年の六月に『君の膵臓をたべたい』でデビューした新人作家といえばおわかりになるだろうか。
 デビュー作が40万部を超える大ヒットである。雑誌ダ・ヴィンチの2015年BOOK OF THE YEAR 2位(ちなみに1位は又吉直樹の『火花』)、そして今回の本屋大賞にノミネートされている(大賞発表は4月12日)。

『君の膵臓をたべたい』略して『キミスイ』。カニバリズムを思わせるこのタイトルなのに、内容は泣かせる青春小説。そのキミスイはいまや一大ブームと言っても過言ではない。性別関係なく中高生から現役アイドルにまで、本当に幅広い層に読まれているのだ。実際に売場で品出しをしている時、大学生らしき男性が友達に「これ、オススメ!」と言っていたところに遭遇。友達くんお買い上げ(ありがとうございます!)。

 この作品は色々なところに投稿しても選考に通る事がなく、「小説家になろう」というWebサイトに載せていたらしい。それがたまたま双葉社さんの目に留まりデビューする事になったという、まさにシンデレラストーリー(住野さん男性ですけどね)。

 キミスイが発売された当初「なんだかスゴイ作家が出てきたぞ」と思ったのをおぼえている。そして膵臓のイラストを貼ったPOPを作ったのだ。そのPOPは色々な人に「あの発想はなかった!」と言われた。著者の住野さんにも「あのPOPは唯一無二。」と言わせたぐらいである(笑)。

 まあ、そんな話はさておき。
 キミスイにハマりまくった私としては、今回紹介する二月に発売された住野さんの二作目『また、同じ夢を見ていた』(略してマタユメ)を読むまで、ある心配をしていた。それは前作であれだけ上がったハードルをどうやって超えてくるのか? という事だった。しかも実は私、店で発売前に配っていたちょいゲラを読んで「んん?」と思い、はっきり言ってしまうとあまり期待もしていなかった。

 しかし実際読んでみたら、こんな素人の心配は杞憂にすぎなかった。住野さんは軽々とそのハードルを超えてきたのである。

 学校に友達がいない主人公の奈ノ花が出会う、南さん、アバズレさん、おばあちゃんの三人とのお話。
 奈ノ花の口癖「人生は◯◯みたいなもの」は、読んでいてとても共感できた。素敵な事ばかり書いてあったので書き出したいくらいだ。

 最近、読書をする時に気に入ったところや物語の軸になりそうな事が出てくると付箋をつけながら読んでいるのだけれど、いま数えたら何と20枚以上貼っていた。そのくらい「おっ!」と思わされる部分があったのである。

 他にも感想を書きたいのだが、何を書いても今作はネタバレになるような事に触れてしまうのであまり書けないのが残念……。

 前作のキミスイは、まずヒロイン桜良のお葬式の日から物語がはじまり、その日までの桜良と主人公の日々が綴られている。冒頭でそのような展開なので、桜良が亡くなる事は分かっているのに、終盤亡くなってからの部分を読み号泣。『君の膵臓をたべたい』の意味がわかりまた号泣。双葉社さん【読後、このタイトルにきっと涙する】とか上手いこと言うなぁ!……とまあ泣きまくった訳だが、今回マタユメでもあらゆることが繋がり、ある事がわかった時に泣いた。

 ただ今回は号泣という感じではなく、ジワジワくる感じだった。悲しいのだけれど、それと同時に心にはあたたかいものが……。そして今回もタイトルが物語に絶妙に絡んでくる。こうくるか~!! と思わず口にしましたよ。

《住野よる》期待の新人ですぞ! 是非お読みください!(正樂公恵)


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 ホラーというジャンルが基本的に苦手なのかもしれない。怖いのが苦手なのだ。特に映像がついてくるとダメだ。ホラー映画を映画館で見るなんて正気の沙汰だと思えないし、遊園地でお化け屋敷に行くなんて考えただけで寿命が縮まる思いだ。

 とはいうものの、怖いもの見たさというのは誰にでも等しくあるようで、こんな僕でもホラー小説なら手が伸びる。好きな作家がホラーテイストの作品を書いていたり、人にすすめられたり、きっかけは様々なのだけれども、時たま読む。そして、案の定読み始めはビビリながら頁を捲っていくのだけれども、ある程度話が進むと恐怖を全く感じなくなるという不思議な現象がまま起こる。それまでは「うわあ、やだよ。絶対夢に出てくるよ……」と心中ぼやきながら読んでいたのが、ある時点を境に「あれ? 全然怖くないぞ」となってしまうのだ。ヘタレにとっては怖くなくなって安心かもしれないが、そこはやはりホラーを読んでいるのだから怖くなくなると残念な気がするのだ。

 そこで今回はこの「ホラー小説が怖くなくなる瞬間」を研究してみたいと思う。ただ、書き手の僕はあまりホラー小説の数は読んでいないのであくまでもこれは「雑感」。超絶個人的な意見だとはあらかじめ断っておきます。

 さて、話を分かりやすくするために具体例を挙げよう。昨年、日本ホラー小説大賞を受賞した澤村伊智『ぼぎわんが、来る』だ。この小説、民間伝承と都市生活の閉塞的な雰囲気が見事に融合した佳作なのだが、残念ながら全く怖くない。いや、小説の始めのほうは滅法怖いのだが、途中からそれまでの恐怖感が嘘のように消え去ってしまう、惜しい作品なのだ。

 では、具体的にどこから怖くなくなるのかというと、それまでほとんど名前しか出てこなかった「ぼきわん」が小説に登場したところからだ。詳しくはネタばれになる恐れがあるので控えるが、「ぼぎわん」という化け物(妖怪? とにかく「この世ならざるもの」)が小説の表舞台に登場して描かれる瞬間がある。その瞬間から、僕は恐怖を感じなくなったのだ。これがホラー映画なら、化け物が画面に登場するシーンとして恐怖の絶頂をむかえる、最大の見せ場のはずである。もちろん、著者の澤村さんも見せ場のひとつとして「ぼぎわん」登場シーンを描いたのだろう。しかし、それが大きな間違いなのだとしたら……?

 映像的な怖さと小説の怖さ、これはなんとなく理解してもらえるのではないだろうか。映像であれば恐ろしい顔をした化け物を映すだけで(時には唐突に!)十分恐ろしい画がとれる。しかし、全く同じ場面を文章で再現しようとすると……、想像してみてほしい。どうも間のびした感じがするし、描写された「恐ろしい顔」も恐ろしいのだろうなというのは理解できても、その感覚までは共有できない。つまり、何がいいたいのかというと、ホラー小説は書きすぎてはいけない、ということなのだ。小説における恐怖は、書きすぎないことによって、つまり「程よい分からなさ」によって成り立つのではないだろうか、ということ。

 『ぼぎわんが、来る』で一番怖かったのはどこかといえば、冒頭のシーンだ。祖父と留守番していた主人公の家に、なんだか分からないけれどヤバそうな「何か」がやってくる場面。その「何か」は玄関の戸の向こう、黒い影と家人を呼ぶ声がするのみで他は一切描かれない。この、「わけの分からなさ」が怖い。奴は何者なのか、戸を開けたらどうなるのか、戸の向こうには何がいるのか、分からないからこそ考え、考えるからこそ怖さは倍増していく。逆にその「何か」が姿をあらわして、さらには細かくその容姿を描写されてしまうとなんだか拍子抜けしてしまう。それもそのはず。「何か」を説明する言葉は我々が普段使い慣れている、手垢にまみれた言葉なのだから、「何か」は理解の範疇に入ってしまうのだ。描写された幽霊ほど惨めなものはいないということだ。

 つまり、小説で人を怖がらせたい人は決して「恐怖」を描こうとしてはいけない。あくまでそれは「わけの分からないもの」として、不安を駆り立て続けれなければならない。それでももし、描写によってホラーを描きたいのであれば、描写をしている言葉そのものが「わけの分からないもの」に変容していくようにすれば、それこそ最恐のホラー小説になる気がするが、それはほとんど奇跡に近い気がする。

 さて、それでは以上をふまえて「ホラー小説」はかくあるべきというお手本のご紹介。創元推理文庫『怪奇小説傑作集1』に収められている「猿の手」という短編。「わけの分からない」恐怖が読めば読むほどにじみ出てくる傑作だ。ホラー小説としても短編小説として超一級品。

 以上、一作品しかご紹介できないので逆に「お前が気に入りそうなホラー小説知っているぞ」という方はぜひお教えいただきたい。ただ、本当に理想的なホラー小説というのは僕にとっては怖すぎるかもしれないので、すすめてもらったのにビビッて読めない可能性があるかも……。(文藝春秋 販売促進チーム 安江拓人)


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 東日本大震災から5年。テレビでも日にちが近づくにつれて特集が組まれている中、あの日の記憶を忘れないようにと語り継ぐシンポジウムが特集されていました。その中で詩の朗読があり、ある外国人留学生は詩にいたく感動したとインタビューで答えていました。詩の持つ力、大切さ、その大きさを知った。と。

 今回は野田元総理が所信表明演説の結びに引用したとされる詩が収録されている、大越桂さんの『花の冠』をご紹介したいと思います。

 嬉しいなという度に 私の言葉は花になる
 だから あったらいいなの種をまこう
 小さな小さな種だって 君と一緒に育てれば 大きな大きな花になる(「花の冠」)

 宮城県に在住されている大越さんが表題作『花の冠』を書かれたのは、あの大震災から一か月後の事でした。〝 希望 〟 や 〝 頑張ろう 〟 など有り体な言葉はなく、ただ彼女の言葉で綴られているこの詩はいろいろな悲しみに満ち溢れた人々に降りそそぐような温かさと勇気が詰まっています。それは決してわたしたちでは出来ないことで、実際に一番近くで感じて色々な人たちの復興支援などを受けた人だからこそできたものなのだと思います。

 わたしが『花の冠』と出会ったのは今から2年前の冬、ちょうど大学生の頃でした。当時事情があって不登校でサボり気味だったわたしがよく行っていた都内の図書館で何気なく手にしたのがこの御本でした。普段詩集などは読まないのですが、不思議と目に留まったのです。それは装丁(本のカバーなど)も見目鮮やかで一見詩集には見えなかったというのもあります。

 生まれながらに重い障がいを持って今を生きている大越さんの詩は何よりも命の大切さや、誰かを勇気づけるようなもの、そしてすべてを通して温かみに溢れたものでした。その温かみは心の奥底まですとんと、まるで水が浸透するように自然に染み渡っていったのを今もなお覚えています。人目も憚らず図書館で泣いたのもいい思い出です。

 普段何気なく生きている中で、何もない日はないんだよ。いいことだって、悪いことだって、その日見たものはすべてその日にしかなかったことなんだよ。そう語られているようでした。一日一日を大切に生きて、目に見えたものが大切なものだと理解されているのだなと思います。

 前書きで大越さんはこう語っています。「詩を作る という感覚よりも、自分の中にある宇宙から言葉がやっと出た!」「外の世界が内面に近づいてきて、外の世界の出来事や想いと詩が響きあうようになりました」と。大越さんが書かれる詩は大越さんそのものの感情で、大越さんが見た、聞いたことはこういう風に感じ取られているのだと詩を通して感じられます。

 人の価値観とはそれぞれ違うもので、同じ景色を見ていてもどういう風に感じ取るかはその人の価値観や性格で異なります。例えばこの読書日和のわたしの記事。この記事を見て興味を示してくださる方もいれば、一切興味はないと言う方だっていると思うんです。でもそれが悪いことではなくて、むしろ当たり前のことであるとわたしは思います。ただ 〝誰かにとっての当たり前 〟 が 〝 誰かにとっての当たり前ではない 〟 ということを大越さんの詩を通して改めて痛感いたしました。

 大越さんの《ことば》が自分に届いたとき。誰かの《ことば》と言うのは何かの拍子に人に届くのだなと、今わたしは図書館での出会いを思い出しながら、手元にある御本に思い馳せています。きっと《詩》とはそういうものなんでしょうね。

 最後に『花の冠』よりわたしが好きな詩をひとつ。大越さんの素敵な《詩》が皆様の中で見つかることを願いつつ、締め括りたいと思います。(桑原友里恵)

バランスの羽(大越桂『花の冠』収録)

 目を閉じれば心の中に 白い羽が見えている
 楽しそうに回っては 落ち込んで沈んだりする
 あの夢で 私を守る天使から
 翼の中の一枚を もらった時からそこにある
「大切なもの つかもうと 大切なもの 放そうとしても
 その羽は きのうとあしたに挟まれて 静かにとまるよ ひとりでに」
 と、天使が言った バランスの羽
 手放すきのう 手にするあした
 今日の私を受け入れよう 今日の私で大丈夫
 迷ったときは目を閉じよう 君がそこにいることを
 いつでも知らせるバランスの羽
 明日の私も大丈夫 明日の私は幸せになる


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『暗号のポラリス』中山智幸

『怪奇小説傑作集 1』アルジャノン・ブラックウッド[編]/平井呈一[訳]

『君の膵臓をたべたい』住野よる

『花の冠』大越桂

『ブラスデイズ』中山智幸

『ペンギンのバタフライ』中山智幸

『また、同じ夢を見ていた』住野よる



⇒後編に続く
by dokusho-biyori | 2016-03-26 19:13 | バックナンバー